トップ画像は203高地にある重砲兵観測所に展示されている「28サンチ榴弾砲」です。
まさかこれがここにあるなんて~。
つーか、本物!?
ねえコレ本物??
コレって本当にアレですか?
旅順攻略で勝敗を決めた大砲??
当時、乃木希典はロシアの要塞化した旅順を攻めあぐねてました。ロシアは旅順軍港の防備を固めるように周辺の小高い山々に砲台を多数設置し、攻撃に備え多くの堡塁(トーチカ)を築いていたのです。ロシアのトーチカは餅米を混ぜて作られていて、とても固くなかなかに破壊出来なかったとか。
攻める日本側の軍上層部には時間がありません。なぜなら、遥々ロシアから最強のバルチック艦隊が日本を目指し大西洋を南下し、インド洋に入ろうとしていたのです。バルチック艦隊の目的地は旅順。もしバルチック艦隊到着までに旅順攻略が間に合わなかったら、日本の勝機は消えます。
つまり旅順要塞の攻略戦にはタイムリミットがあり、カウンターは刻一刻と時間が減っていくという…。まるでどこかのテレビゲームのような事態でした。
話は文春文庫「坂の上の雲(全8巻)」司馬遼太郎の4巻216ページより。
『(前略)有坂はいった。「私にわかっているのは大砲のことだ。いま旅順に持って行っている大砲、ああいうものではとても落ちないよ」
有坂は大砲の技術者有坂成章のことで、大砲とは在来の連射砲を大改良した31年式連射砲のこと。日露戦争の主力砲です。
有坂は続けた。「私は奇抜なことを言うようだが、二十八サンチ榴弾砲を送ろうじゃないか」
これには長岡も息をのんだ。28サンチ榴弾砲というのは、日本内地での要塞地帯に固定させてある巨砲である。』
コレですね。でも旅順攻略作戦司令本部はこの案を断ります。理由は二十八サンチ榴弾砲がやっかいなシロモノだったから。
『坂の上の雲(四巻)』224ページより。
『乃木の前で砲兵の専門家が揚言した。「まず砲床からつくってゆかねばならない。コンクリートが乾くまで1、2カ月は要るのだ。あと組み立てにどれだけの日数がかかるか見当もつかん。そんなことすら東京の連中は知らない』つまり総攻撃には間に合わないので「送ルニ及バズ」と断ったのである。
でも旅順要塞攻略戦の戦況は惨憺たるものでした。第二回総攻撃は9月19日、続いて10月26日にも総攻撃は繰り返された。既に作戦当初の死傷者は二万数千人という有様だった。
司令部は次第に打つ手がなくなってました。本土からは『バルチック艦隊が到着する前に』と要求が突きつけられます。
そして「203高地攻略戦」へ…。
日本側はロシア軍の防御固い本部攻略を止め、防御の手薄な場所から攻略しようと作戦を変更しました。
が。
その情報は既に過去のもの。防御の甘かった203高地にもロシア軍は得意の堡塁を張り巡らせつつありました。
もっともロシアの築いた堡塁は時間と資金の関係で、東部の東鶏冠山に築いた堡塁に比べると頑丈ではありませんでしたが。
203高地の攻略を目指す日本の第3軍は、突撃隊による攻略に『坑道戦術』を採用。第7師団は1350メートルに及ぶ塹壕を構築しました。下の画像は203高地の頂上付近に残されていた塹壕跡です。
場所からしてロシア軍の築いたものだと思いますが、もしかしたら日本のものだったかもしれん。これを作った目的は、ハゲ山の203高地では身を隠す場所がありません。使用方法はどっちもこんな感じ。
訪問したのが7月5日だったので、雑草に埋もれて塹壕の深さとか視認出来ません。
そして決戦の火ぶたは切って落とされます。
203高地で11月下旬から10日間にわたる死闘が始まりました。
『坂の上の雲(五)』の19ページには『(これは地獄だ)とつぶやいたという。全山を日本兵の死体がびっしり覆っていた。』とあります。
死闘の中、乃木希典の息子も戦死します。
乃木は東鶏冠山の戦闘でも息子が戦死していて、旅順で息子を二人とも亡くしてます。もっとも、乃木の息子保典の墓の建っている場所が、事実保典が落命した場所かどうかはわからないんだとか。
爾霊山慰霊碑と28センチ榴弾砲のある観測所の2点の中間から駐車場に続く散策路の途中に墓が設置してあります。この散策路に沿って塹壕もあります。
重砲兵観測所から見た旅順港。
かつて、視線の先に見える海にはロシア軍の軍艦がありました。
203高地を攻略した後、ここから二十八サンチ榴弾砲でロシアの軍艦を撃破。敵の混乱に乗じ、一気に勝利を掴むというのが大まかな作戦です。
『坂の上の雲』でもそういう展開になってます。確か、映画「203高地」もそうだったような…。
ところが、事実はちと違うようで…。
添乗員が尋ねます「あれに見えるは旅順の港です。さて問題。ここからあそこまで、どれくらい離れてるでしょうか?」
答え:約5キロ。
えええ~~~~~!!!
二十八サンチ榴弾砲の射程距離って7800メートルなんですよ。昔の大砲って射程距離を調節出来なかったんですよ。
わかりやす~く書くと、もし203高地から28サンチ榴弾砲を撃つと、弾はロシアの軍艦を通り過ぎ、その先の海へと着弾してしまうという…。
だから日本軍は203高地からではなく、奥の山から砲撃したんだって…。
なんだかなあ~。
<2013年10月29日に以下の文章を追加しました>
この記事をご覧いただきましてありがとうございます。嬉しい事に閲覧が多いページなんです。
にもかかわらず、閲覧者を今一不快にしてる記事のようでして。
原因は、28サンチ榴弾砲の有用性の私の書き方がイカンかったようで…。
既に3年前の記事でして、記憶もぼやけてるんですが、28サンチ榴弾砲を設置してあった場所で、旅順港を眺めつつ添乗員さんから説明があったんだけど。
その時の説明を聞いて私勘違いしてたのかも?
標的の旅順港まで5キロ。
28サンチ榴弾砲の射程が7800メートル。
ここまではいい。
ンで、なぜか28サンチ榴弾砲は、こう、砲身の角度が固定で動かせないもんだとばかり解釈してしまいました。
だから、射程7800メートルの28サンチ榴弾砲203高地から撃つと、ロシアの軍艦がいる5キロ先の旅順港を飛び越して、海に着弾するものだとばかり解釈してました。
だから、実際は、203高地ではなく、それより内陸よりの低い山に28センチ榴弾砲を設置して旅順港へ砲撃したんだと思い込んでましたっ!
昔の大砲のスペックを低評価し過ぎてます?や。兵器については知識が薄いもので、どうにも詳しくコメント出来ず。
記事をアップしてから3つコメントをいただきましてありがとうございます。
実は現在gooブログのアクセス解析キャンペーン中でして、この記事閲覧が日々あるのを知りまして、さすがに放置はイカンやろと。
いただきました2つめのコメントを拝読すると、「着弾の確認」をしたのが203高地の、現在28サンチ榴弾砲を設置してある見晴し台だったようです。
そうだよな。当たったかどうか?の確認しないと!ムダ撃ち出来る程、豊富に砲弾が用意出来たハズないや。ここで確認していたのね。
旅順に残るのは28サンチ榴弾砲の砲身を含むコアの部分です。実際に砲撃する為には、これにあれこれ細かいのをくっつけて使用してたみたい。それがあると、さらに臨場感あったんでしょうね。
そういや、榴弾砲の砲撃してる写真をどっかの本で見たような…。
探してみるか?
これしかない~。NHKのドラマ読本「坂の上の雲」が見つからない~。あれになら載ってると思ったんだけど…。部屋のどこかにはあるハズなのですが…。
上の写真は、旅順の白玉山の売店で購入した「日露戦争」の本より転載しました。なんか、28サンチ榴弾砲にごちゃごちゃあれこれついてます。
<2013年12月26日追加>
水師営会見所(2010年8月5日)の記事 こちらの記事に、鮮明な28サンチ榴弾砲の写真が掲載されています。これは日露戦争の折り、乃木希典とロシアの司令ステッセルが会見した場所で、中に日露戦争の写真が展示されていました。その中の一枚です。28サンチ榴弾砲の大きさとか、周りの兵士と比べて確認してください。
まさかこれがここにあるなんて~。
つーか、本物!?
ねえコレ本物??
コレって本当にアレですか?
旅順攻略で勝敗を決めた大砲??
当時、乃木希典はロシアの要塞化した旅順を攻めあぐねてました。ロシアは旅順軍港の防備を固めるように周辺の小高い山々に砲台を多数設置し、攻撃に備え多くの堡塁(トーチカ)を築いていたのです。ロシアのトーチカは餅米を混ぜて作られていて、とても固くなかなかに破壊出来なかったとか。
攻める日本側の軍上層部には時間がありません。なぜなら、遥々ロシアから最強のバルチック艦隊が日本を目指し大西洋を南下し、インド洋に入ろうとしていたのです。バルチック艦隊の目的地は旅順。もしバルチック艦隊到着までに旅順攻略が間に合わなかったら、日本の勝機は消えます。
つまり旅順要塞の攻略戦にはタイムリミットがあり、カウンターは刻一刻と時間が減っていくという…。まるでどこかのテレビゲームのような事態でした。
話は文春文庫「坂の上の雲(全8巻)」司馬遼太郎の4巻216ページより。
『(前略)有坂はいった。「私にわかっているのは大砲のことだ。いま旅順に持って行っている大砲、ああいうものではとても落ちないよ」
有坂は大砲の技術者有坂成章のことで、大砲とは在来の連射砲を大改良した31年式連射砲のこと。日露戦争の主力砲です。
有坂は続けた。「私は奇抜なことを言うようだが、二十八サンチ榴弾砲を送ろうじゃないか」
これには長岡も息をのんだ。28サンチ榴弾砲というのは、日本内地での要塞地帯に固定させてある巨砲である。』
コレですね。でも旅順攻略作戦司令本部はこの案を断ります。理由は二十八サンチ榴弾砲がやっかいなシロモノだったから。
『坂の上の雲(四巻)』224ページより。
『乃木の前で砲兵の専門家が揚言した。「まず砲床からつくってゆかねばならない。コンクリートが乾くまで1、2カ月は要るのだ。あと組み立てにどれだけの日数がかかるか見当もつかん。そんなことすら東京の連中は知らない』つまり総攻撃には間に合わないので「送ルニ及バズ」と断ったのである。
でも旅順要塞攻略戦の戦況は惨憺たるものでした。第二回総攻撃は9月19日、続いて10月26日にも総攻撃は繰り返された。既に作戦当初の死傷者は二万数千人という有様だった。
司令部は次第に打つ手がなくなってました。本土からは『バルチック艦隊が到着する前に』と要求が突きつけられます。
そして「203高地攻略戦」へ…。
日本側はロシア軍の防御固い本部攻略を止め、防御の手薄な場所から攻略しようと作戦を変更しました。
が。
その情報は既に過去のもの。防御の甘かった203高地にもロシア軍は得意の堡塁を張り巡らせつつありました。
もっともロシアの築いた堡塁は時間と資金の関係で、東部の東鶏冠山に築いた堡塁に比べると頑丈ではありませんでしたが。
203高地の攻略を目指す日本の第3軍は、突撃隊による攻略に『坑道戦術』を採用。第7師団は1350メートルに及ぶ塹壕を構築しました。下の画像は203高地の頂上付近に残されていた塹壕跡です。
場所からしてロシア軍の築いたものだと思いますが、もしかしたら日本のものだったかもしれん。これを作った目的は、ハゲ山の203高地では身を隠す場所がありません。使用方法はどっちもこんな感じ。
訪問したのが7月5日だったので、雑草に埋もれて塹壕の深さとか視認出来ません。
そして決戦の火ぶたは切って落とされます。
203高地で11月下旬から10日間にわたる死闘が始まりました。
『坂の上の雲(五)』の19ページには『(これは地獄だ)とつぶやいたという。全山を日本兵の死体がびっしり覆っていた。』とあります。
死闘の中、乃木希典の息子も戦死します。
乃木は東鶏冠山の戦闘でも息子が戦死していて、旅順で息子を二人とも亡くしてます。もっとも、乃木の息子保典の墓の建っている場所が、事実保典が落命した場所かどうかはわからないんだとか。
爾霊山慰霊碑と28センチ榴弾砲のある観測所の2点の中間から駐車場に続く散策路の途中に墓が設置してあります。この散策路に沿って塹壕もあります。
重砲兵観測所から見た旅順港。
かつて、視線の先に見える海にはロシア軍の軍艦がありました。
203高地を攻略した後、ここから二十八サンチ榴弾砲でロシアの軍艦を撃破。敵の混乱に乗じ、一気に勝利を掴むというのが大まかな作戦です。
『坂の上の雲』でもそういう展開になってます。確か、映画「203高地」もそうだったような…。
ところが、事実はちと違うようで…。
添乗員が尋ねます「あれに見えるは旅順の港です。さて問題。ここからあそこまで、どれくらい離れてるでしょうか?」
答え:約5キロ。
えええ~~~~~!!!
二十八サンチ榴弾砲の射程距離って7800メートルなんですよ。昔の大砲って射程距離を調節出来なかったんですよ。
わかりやす~く書くと、もし203高地から28サンチ榴弾砲を撃つと、弾はロシアの軍艦を通り過ぎ、その先の海へと着弾してしまうという…。
だから日本軍は203高地からではなく、奥の山から砲撃したんだって…。
なんだかなあ~。
<2013年10月29日に以下の文章を追加しました>
この記事をご覧いただきましてありがとうございます。嬉しい事に閲覧が多いページなんです。
にもかかわらず、閲覧者を今一不快にしてる記事のようでして。
原因は、28サンチ榴弾砲の有用性の私の書き方がイカンかったようで…。
既に3年前の記事でして、記憶もぼやけてるんですが、28サンチ榴弾砲を設置してあった場所で、旅順港を眺めつつ添乗員さんから説明があったんだけど。
その時の説明を聞いて私勘違いしてたのかも?
標的の旅順港まで5キロ。
28サンチ榴弾砲の射程が7800メートル。
ここまではいい。
ンで、なぜか28サンチ榴弾砲は、こう、砲身の角度が固定で動かせないもんだとばかり解釈してしまいました。
だから、射程7800メートルの28サンチ榴弾砲203高地から撃つと、ロシアの軍艦がいる5キロ先の旅順港を飛び越して、海に着弾するものだとばかり解釈してました。
だから、実際は、203高地ではなく、それより内陸よりの低い山に28センチ榴弾砲を設置して旅順港へ砲撃したんだと思い込んでましたっ!
昔の大砲のスペックを低評価し過ぎてます?や。兵器については知識が薄いもので、どうにも詳しくコメント出来ず。
記事をアップしてから3つコメントをいただきましてありがとうございます。
実は現在gooブログのアクセス解析キャンペーン中でして、この記事閲覧が日々あるのを知りまして、さすがに放置はイカンやろと。
いただきました2つめのコメントを拝読すると、「着弾の確認」をしたのが203高地の、現在28サンチ榴弾砲を設置してある見晴し台だったようです。
そうだよな。当たったかどうか?の確認しないと!ムダ撃ち出来る程、豊富に砲弾が用意出来たハズないや。ここで確認していたのね。
旅順に残るのは28サンチ榴弾砲の砲身を含むコアの部分です。実際に砲撃する為には、これにあれこれ細かいのをくっつけて使用してたみたい。それがあると、さらに臨場感あったんでしょうね。
そういや、榴弾砲の砲撃してる写真をどっかの本で見たような…。
探してみるか?
これしかない~。NHKのドラマ読本「坂の上の雲」が見つからない~。あれになら載ってると思ったんだけど…。部屋のどこかにはあるハズなのですが…。
上の写真は、旅順の白玉山の売店で購入した「日露戦争」の本より転載しました。なんか、28サンチ榴弾砲にごちゃごちゃあれこれついてます。
<2013年12月26日追加>
水師営会見所(2010年8月5日)の記事 こちらの記事に、鮮明な28サンチ榴弾砲の写真が掲載されています。これは日露戦争の折り、乃木希典とロシアの司令ステッセルが会見した場所で、中に日露戦争の写真が展示されていました。その中の一枚です。28サンチ榴弾砲の大きさとか、周りの兵士と比べて確認してください。
それでは、何故203高地を攻略する必要があったかというと、船の位置の確認と砲弾の着弾の確認を港の見える山頂にて観測員が行う必要があったからです。観測員が頂上から電話(頂上までケーブルでつなぎました)にて指示をして砲弾の調整を行ったのです。
あのー、火薬の量が決まっているなら発射角度を変えればいいの。誰が「もし203高地から28サンチ榴弾砲を撃つと、弾はロシアの軍艦を通り過ぎ、その先の海へと着弾してしまうという」なんて言ったんですかぁ?
コメントありがとうございます。
けども。
私の武器の知識が足りず、どうにもコメントしようがなくて放置してました。
ごめんなさい。
現地で榴弾砲の側で説明してくれたのも普通のガイドさんと添乗員さんです。
メモをとりながら聞いていたので、セリフは似たようなものです。けども説明してる人も聞いてた私もそもそも当時の武器の知識がない。役立つコメントはできません。
この記事は10年も前の記事です。いまだにブログ記事を閲覧してくださる方に興味を持ってくださってるだけで嬉しいです。