武蔵国分寺は、天平13年(741)、
聖武天皇は鎮護国家を祈念して、諸国に国分寺(
僧寺と尼寺を建立するように命じました。武蔵国では
国府(現府中市)に近く、都へ通じる
東山道武蔵路沿いの広大な平地と東西に連なる
国分寺崖線の麓、豊かな湧水を持つ現在の西元町一帯が好所として選ばれました。
国府と共に政治・文化の中心として栄えましたが、鎌倉時代末期
分倍河原の戦いで焼失しました。武蔵国分寺跡と関連する遺跡は、
東西1、5キロ。南北1キロ。諸国の国分寺跡と比べ規模が大きく、歴史的にも重要な事から大正11年に国の史跡に指定されました。(国分寺歴史・観光マップより抜粋)
ってな事でトップ画像は僧寺の配置図です。
昨日の記事の国分寺楼門から南に続く路を100メートル位の所に
武蔵国分寺跡・僧寺金堂・講堂があります。
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太陽が陰ったタイミングで撮影してしまったのですが、画像奥中央が講堂の跡。
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その南側に金堂の礎石があります。
ところでですね。親子連れが礎石を舞台つーか、踏み石にしてその上で『妖怪ウォッチ』のダンスを激踊りしてました。や~、入間航空祭でも朝一に妖怪ウォッチ体操が流れて乾いた笑いが出たのですが、礎石の上で推定35才のお母さんが妖怪ダンスをノリノリで踊ってる風景はシュールつーかヘンだろっ!それっ!!
お母さん、アンタの足の下の石、奈良時代の歴史遺産だからっ!!歴史ウォーキングしてる人がこんなに一杯いるのにちょっとは遠慮ーー違うな。自重せえやっ。
こうね。価値観違うともうダメダメなのな。だから教育って大事なのよ。ちなみに。推定35才のお母さんのそばには、推定70才の祖母の姿もありました。この祖母もまたお母さんの妖怪ダンスを手拍子+妖怪ウォッチソングを熱唱してます。彼女達は、息子(孫)を喜ばしたいのでしょうが、冷めた目で周りが見ている事に体操疲れて終了するまで奈良時代の歴史遺産の金堂の礎石の上で踊り狂って退場してゆきました…。ああ。非日常~。まさに突然私は妖怪に行き会ってしまった気分でしたよ。ええ。
さて、ここまでは去年も訪れた場所ですが、こっから先は去年行きそびった場所です。だから…。場所が今一つわからんのだ。
国分寺歴史・観光マップ片手に南東を目指す。数分後、人だかりを発見。
武蔵国分寺跡 七重塔跡です。
説明板発見:この塔は「続日本後紀」によって承和2年(835)に雷火で焼失し、10年後に再建。
昭和39年の発掘調査の結果、塔基壇が修復されていることや礎石の下に瓦片が大量に詰め込んでいることなどが明らかになり、この事が証明されました。
塔の再建にあたっては北方建物の新築・講堂の増築・寺地内付属諸院の整備なども併せて行ったようで、創建以来の本格的な造営事業に発展したと推察されます、だそうで。
ちょうど歴史ウォーキングのグループがやってきて解説し始めたので聞き耳を建てていると、「このイチョウのすぐそばに塔の心柱がありました。高さは…」
へえ~へえ~。
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画像奥中央がイチョウです。まだ黄葉してませんが、かつてこの場所に七重の塔があったのね。
さて、現国分寺へ戻ってきました。今日は西にある国分尼寺の見学はパスします。前回はそっちへ移動して見そびった場所があるので、こっちを優先したいのです。
ちなみに、去年の
国分尼寺の記事はこちら。ちなみに、この記事に国分寺僧堂金堂の在りし日を再現した画像が掲載してあります。歴史散歩をしていると、あちこちに図解した説明板があるよ。国分寺の教育委員会って凄いよね。
武蔵国分寺跡僧堂金堂・尼寺(2013年12月5日)の記事
国分寺前を西へ。すぐに階段発見!
階段を上がると
国分寺仁王門がありました。
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説明板発見:この門は、宝暦年間(1751-1763)に建立された入母屋造の八脚門で、間口が9メートル、奥行きが3、6メートルあります。
使用されている建材は、『新編武蔵風土記稿』の仁王門の条に、「この門近世までの薬師堂なりしを再興の時きりちぢめて仁王門になせり」とあるように、建武2年(1335)に建立された旧薬師堂(江戸時代始めの頃の「国分寺村古絵図」によると僧寺の金堂跡付近にあった)に使用されていたものを再利用したと伝えられていますが、杉材の柱などに残る組み立て用の穴の彫り方からこのことがうかがえます。
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この門の左右には、阿(口を開いている)吽(口を閉じている)二体の仁王像(高さ2、5メートル)が安置されていますが、享保3年(1718)に造立されたものです。だそうで。
見た感じ瓦が新しいから最近の建物かと思えば…。宝暦年間作とか。でもさ、門より仁王像が古い年代というのは今一納得いかない…。
さて、仁王門の奥にも石段がある…。今回の散歩で何回坂を上り下りしてるんだろうな…。フウ~~。
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まずは参拝。だいぶんヘトヘト。あ。説明板発見:薬師堂に安置されている木造薬師如来座像は、平安時代末期あるいは鎌倉時代初期の製作と考えられています。寄せ木造りの漆箔仕上げで像高は約191、5センチあります。(とはいえ、基本非公開、東京都文化財公開ウィークの時に公開)
薬師堂は、建武2年(1335)に
新田義貞の寄進により国分僧寺の金堂跡付近に建立されたと伝えられているもので、その後享保元年(1716)に修復されましたが、宝暦年間(1751-1763)に現在地に再建されたものです。 だそうで。
え~と??新田義貞が寄進って、分倍河原の戦い(新田義貞VS鎌倉幕府)で敗走した時に国分寺を焼いてしまったから償いで再建したって事か?あ。分倍河原の戦いは、一度敗走した翌日未明に幕府軍を急襲して新田軍が勝ちました。これが1333年5月16日の事で、この戦いに破れた鎌倉幕府はこの後に守勢に廻る事になりました。
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薬師堂の前にあった石仏。なんか頭が小さいような…。後づけか?
時刻は15時を回った所。11月も半ばともなると日が落ちるのが早い。ぼちぼち帰宅しますか。
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北上していたら、なんか案内板を見つけました。
ここは
市立歴史公園史跡東山路武蔵路です。
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この画像のが分かり易いかな?7世紀後半から8世紀前半にかけて整備された都と地方の国府を結ぶ幹線道路(七道)の一つです。画像中央の大きな面積を占めているのが道路部分。左右に側溝が色を違えて書かれてます。側溝から側溝まで左右に歩いてみたら、私の歩幅で26歩ありました。日本の7世紀といえば飛鳥時代ですよ。都っていったら奈良県にある明日香村です。え~と?大化の改新が645年で、その後の600年代後半の出来事は、天武天皇とか?あ。694年に藤原京遷都というのがあった!んで701年が大宝律令の制定ですよ。んで710年に平城京遷都です。そんな時代の武蔵の国…。地方の庶民。国分寺は最先端の建物!だからすんご目立っていたのでしょね。いや。違う違う。そんな時代に10メートル超えの道を地方へ繋げるって発想が凄いんだ。
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発掘時の様子。説明板がありました。
中国の真似でしょうが、そのまま日本で再現しよう!となぜに思ったのか??ちなみに、去年
品川宿歴史散歩をやったんですが。
旧品川宿文化財ウォークラリー(2014年1月25日)の記事こちらの記事で、旧品川宿を通る東海道の道幅が分かる画像があります。
その時旧東海道を歩いたんだけどね。道幅は飛鳥・奈良時代に作ったこの東山路武蔵路の半分もなかったよ。広い道の意味がわからないわ。
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移動してこちらは
東山路武蔵路跡です。
画像奥に向かって路は続いてます。先ほどの歴史公園からはほとんど離れてません。ってか、かつては路続きです。画像の左右の地面の色違いの不揃いな線がわかります?これが痕跡ですね。
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現存させてる国分寺市が凄いと思うんだ。
さて、ここからJR中央線国分寺駅まですぐです。え~と?どれくらい歩いたんだろうか?ーーーえ?18000歩超え?これ、帰宅したら20000歩に乗るよね?つーか、カウンター壊れてるんじゃないの??(尾てい骨と脇腹が途端に痛み始めてしまった…)つ・疲れた…。