あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

古いスタンプ帳その3

2023年01月31日 05時11分52秒 | 記念スタンプ
昨日に続き2020年に92歳で永眠した義父のスタンプ帳を紹介します。
まずはその1トップ画像。日光旅行き年 日光町西参道 ほていや食堂
左甚五郎の眠り猫がモチーフ。
その2。熱海駅。
その3。箱根Big Hellということは、大涌谷ですかね?
その4。鎌倉駅。倒伏して既に消えた大銀杏が描かれてますね。
おそらくその1からその4までが同じ旅行で押したやつみたいです。
押印順からしたら、この旅が義父と義母の新婚旅行だったのかも?押印スタンプに日付がないので分からないなぁ〜。
鎌倉駅の隣がこれ。
その5。白浜口駅。円月島 遊覧記念。南紀白浜温泉。
現在白浜の1番の観光地といえば、パンダのいるアドベンチャーワールドですが、アドベンチャーワールドは1978年(昭和53)4月22日オープンなので、義父が訪れた時にはまだなかった。

その6。金沢駅。32、12、12
義母と義父は昭和31年1月に結婚してるので、金沢旅行は結婚後のことになります。
その7。山中温泉駅。山中温泉は石川県加賀市の旧山中町にある温泉。
金沢から移動した模様。
現在山中温泉駅はない。加賀温泉駅が北陸本線にあるけども、加賀温泉駅の前身は作見駅という名前だったとか。山中温泉駅はどこへ行ったのでしょうか?。
その8。芦原駅。
実は3回押印してたけど、どれも綺麗に押せてない。
芦原温泉駅は、福井県あわら市にあるJR西日本北陸本線の駅。
金沢駅・山中温泉駅・芦原温泉駅は同じ旅の間のスタンプっぽい。

その9。鹿児島駅。
デザインをよく観察したら、外縁は桜島大根のようです。
その10。指宿駅。デザインはバナナとメロンと海岸の砂蒸し風呂。
その11。西桜島観光協会、桜島観光記念。
その12。宮崎。34・4・27
昭和32年は1959年です。
その13。日向青島 国鉄???館 南風荘 記念
日向青島は宮崎県。青島は対岸の青島海岸と共に一大観光地でした。1955年(昭和30)6月1日に周辺が国定公園に指定された。

その14。34.4.27の印字。昭和34年は1959年です。
おそらくその9の鹿児島県から宮崎県が同じ旅だったと思われます。
スタンプ帳には後2個のスタンプがあるのですが、謎なんです。
その15。日付は11・11・28
もう一つ。
その16。大阪東日付は11・10・30
11・10・30が昭和11年だとすれば、1936年です。義父は2020年4月に92歳で永眠したので、昭和11年だとすれば、1936年は永眠から84年前なので、当時8歳となる。う〜む??8歳の少年が上のスタンプのように綺麗に押せるものだろうか?それに謎の切手。ってか切手状だけど切手ではない。「大日本帝国??」と読める。あと「?銭五里」って何??わ、分からない〜。
以上、古い義父のスタンプ帳の紹介でした。
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古いスタンプ帳その2

2023年01月30日 05時49分50秒 | 記念スタンプ
片付けで義母に捨てられた義父の古いスタンプ帳をこっそり拾い直してました。昨日に続いてスタンプ紹介です。
今日は別府温泉から。トップ画像は坊主地獄。

その2。坊主地獄。日付があります。昭和29年5月10日。昭和20年は1954年です。
その3。龍巻事獄
その4。天下奇観(?)地獄。何かしら?読めなかったのですが、次のスタンプでわかりました。
その5。波地獄。ゆで卵があります。
その6。波地獄の卵の茹で方。半熟5分間。全熟7分間とあります。結構な温度なのですね。ってか、地獄でゆで卵を作るのは昔っからか〜。箱根のゆで卵は黒かったのですが、ここはどうなのでしょうか?
その7。阿蘇登山記念 坊中駅正面市原商店。
おそらくここまでが1回の旅だと思われ。もしかしたら昨日の最後の方に紹介した熊本城と雲仙の旅も一緒に回ったかもしれないけれど。日付がないから分からないわ〜。

その8。羽越線あつみ温泉 萬国屋旅館。注目したいのは、30・8・19です。
これは昭和30年(1955)8月19日ですね。
羽越線は羽越本線。新潟の新津から秋田駅までを結ぶ。

その9。青森駅。青函連絡船と十和田湖とりんご。
その10。十和田行きバスのりば。青森駅。とある。そして8月19日。
朝、羽越線のあつみ温泉で目を覚まし、青森まで移動した模様。で、十和田湖を目指したのか。
その11。仙台駅。30・8・20
十和田湖を観光後、仙台へ移動。
その12。松島海岸駅。30・8・20
松島観光をした模様。
義父の楽しそうな顔が浮かぶなあ。

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古いスタンプ帳その1

2023年01月29日 05時58分14秒 | 記念スタンプ
一昨年の暮れに納屋を取り壊しました。義母は溜め込んでたあれこれを思い切りよく処分。けど中には捨てるのにもったいないものが多くありまして。嫁はこっそり琴線に触れた品をより分けていたのです。先日切り抜いた古い切手をどこにしまったのか?を忘れてしまい、しまったであろう場所を探してたらあれこれ見つかった。
昨日はバッジやネクタイピンやライターを紹介。今日は古いスタンプ帳です。
まずは1ページ目。トップ画像。わかりやすく鹿児島です。城山と書いてあります。

2つ目。国立公園 霧島神宮参拝記念。
霧島神宮は鹿児島県霧島市にある神社。島津氏の尊崇篤く、島津義久は天正6年(1578)耳川の戦いに臨む際参拝した。
また坂本龍馬が日本最初の新婚旅行で霧島連峰を訪れた。
巨木ファンとしては御神木の樹齢約800年の杉が見たいなあ。
3つ目。大社駅。駅の字が旧字体の「驛」ですね。スタンプの状態が悪かったのか押し方が悪いのかな?ちょっと状態が悪いので掲載しようか?どうか迷ったのですが。ちょっと待て!「大社」ってどこの大社?と思いとどまり。調べてみた。
webで検索したところ「大社駅」は現在の出雲市にあったJR西日本の駅(廃駅)である。とありました。すでに存在してない駅のスタンプならば、珍しいかもしれない。紹介してもよかろう?
大社駅は大社線の廃線に伴い1990年(平成2)4月1日に廃止された。
ちなみに駅舎は現在観光名所になってます。ブラタモリで見た気がする。加えて、2021/2/1から2025/12/20まで保存修理工事が行われており、駅舎を覆う囲いが設置され中に入ることは出来ず、外観も見えない。そうです。

4つ目。天橋立駅。
天橋立駅京都府宮津市にある京都丹後鉄道宮津線の駅のこと。
天橋立は日本三景の一つに数えられ、全国的に有名な観光地、天橋立への鉄道への玄関口です。
注目すべきは28・4・30と押印してあること。
28は昭和28年で西暦だと1953年です。
太平洋戦争は昭和20年(1945)8月14日に日本がポツダム宣言を受諾して終結したので、義父が天橋立観光に出かけたのは、戦後8年目ということに。戦後復興のスピードは凄かったと文献上では知ってましたが。昔の日本人は本当にバイタリティあったのね。
ちなみに天橋立のスタンプはもう一つ。

5つ目。天橋立駅。
6つ目。伊豆大島湯場・天然のむし風呂。スタンプの上に「mihara」と印字されている。miharaは三原山。伊豆大島にある火山のこと。あ!スタンプのデザインはこれ、三原山から出る噴煙ではなかろうか?歴史を検索したら、昭和25年ー26年(1950-51)の噴火では内輪山を越えて溶岩がカルデラに流れ出したそうです。義父が訪れたのは噴火が収まり観光が再開されたタイミングかも?

7つ目。桂浜水族館。高知市にある水族館。1931年に開館。終戦後に再開。
私も昔父に連れられて行ったことがある。けどその時は観光ではなく、高知で仕事があった父に、仕事の間ここで見とけ!と一人思えば私がひとり遊びが得意になったのは積み重なるあの頃の体験が元なんだろうなあ。反して一人が得意になったばかりに、集団行動が苦手になってしまった。日本人としては生きづらい人生です。

8つ目。桂浜水族館のスタンプは2つ。
桂浜水族館は海のそばだ。記憶では有名な坂本龍馬像から徒歩すぐだったと思う。スタンプに鯨のデザインがあるのが素敵。
9つ目。君の名は雲仙ロケ記念加藤物産店
「雲仙」は雲仙岳。長崎県島原半島中央部にそびえる火山。スタンプ一番上の雲の流れは、噴煙かな?
「君の名は」は1952(昭和27)ー1954年にNHKラジオで放送された連続放送劇のラジオドラマ。
スタンプ中央ある女性のスタイルは、君の名はのヒロイン真知子のストールの巻き方真知子巻き。

10個目。雲仙国立公園観光記念。
雲仙天草国立公園は、長崎県島原半島と熊本県天草諸島に属する国立公園のこと。雲仙地区は1934年3月16日に霧島・瀬戸内海と共に雲仙国立公園として日本最初の国立公園に指定される。
11個目。熊本城参観記念 国宝宇土櫓
熊本城は安土桃山時代から江戸時代の日本のしろ。加藤清正が中世の城郭を取り込み改築した平山城。加藤氏改易後は幕末まで熊本藩細川家の居城だった。明治時代は西南戦争の戦場となった。
宇土櫓はかつて6基あった五層櫓。唯一現存する宇土櫓は、大小店主を除いて最大の櫓で「三の天守」とも呼ばれる。
12個目。も熊本城。
香川県三豊市が出身の義父ですが、若い頃は国鉄に勤めてました。確か転勤も多く、小倉にいたことがあると聞きました。
小倉は現在の北九州市小倉北区と小倉南区に相当。北九州市工業地帯の中心地です。
義父は休みに九州を観光して回ってたのかも?生きてる間にあれこれ聞いてみたかったなあ。
スタンプ帳は満杯だったので、続きはまた今度。早いうちに紹介しますね。
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保管してあった義母の処分品とは?

2023年01月26日 06時40分36秒 | 雑記
昨日の記事を書くにあたり、古い切手の画像も欲しいと思ったものの、どこにしまったのかを思い出せなくて。記憶力がどんどん落ちてると実感した。
で〜。古切手を探してて見つけたものが今日の記事の画像です。
まずはトップ画像。義母が「処分」と分別した小さなプラケースにごそっと入れてあったのは、赤い羽のバッジです。
赤い羽といえば共同募金ですね。
webによりますと、赤い羽共同募金が始まったのは、昭和22年のこと。戦争により住まいを焼かれたり、親を無くした孤児たちの支援をしようと、共同募金が始まったそうです。
昭和30年代に入ると、民間の社会福祉施設の建物の増改築や、生活に困っている人への支援にシフト。
昭和40年代に入ると、子供の遊び場の整備へ。手話研修やボランティア活動の活性化に役立てるようになる。
昭和50年代になると、小規模作業所への支援。働く女性の増加に伴い保育所が急激に増え支援額も増える。一人暮らしの老人や給食サービスもスタート。
昭和60年代になると、障害スポーツや障害者の社会参加にも支援。デイサービスなどの地域の高齢者が参加する活動への支援も行われる。
平成初期。在宅福祉。施設福祉サービスを。平成7年の阪神淡路大震災を契機にボランティア団体や非営利団体への支援開始。
現在、孤独死、自殺、引きこもり、虐待など変化するニーズへの支援も始まる。
とありました。そういえば、小学校の時は、係が回ってきて10円出せば赤い羽をもらってたなあ。神奈川在住時は赤い羽共同募金を子供らが小田急相模原駅前で募る姿は風物詩的に見かけてましたが。
でもさ。なぜに義母は赤い羽でなくバッジを保管してたのだろう?数字はそのバッジをもらった年だと思うけどさ。謎。
スワローズ。ヤクルトではない。国鉄スワローズ。義父がかつて勤めていたのは国鉄でして。野球ファンでもある義父は国鉄スワローズを応援してた模様。
国鉄スワローズとは?
1949年にプロ野球の2リーグ分立に合わせて日本国有鉄道が球団を設立。
1950年にセ・リーグに加盟。
1961年に初のAクラス入り。主力の金田正一が読売ジャイアンツに移籍。経営意欲を失った国鉄は1965年途中に産経新聞に球団譲渡。サンケイスワローズとした。
球団のスワローズの由来。
国鉄東海道線を走った特急つばめ号から。車両の由来であるツバメの英単語「Swallow」より。
つばめ号が、球団設立時点で国内で最も早い鉄道とされていた。つばめ号やツバメのように飛ぶ速さのある勢いのある球団になるようにとの願いから採用。
NF BREAKER というのは、三菱電機の何からしい。裏に刻印してありました。なぜこれが我が家にあったのかもう謎。おそらく義父の残した品だと思うけども。
ヤマハのライター。箱に入ってた。おそらく義父は昔タバコを吸ってたと聞いたので、義父のものだと思います。この形なので多分ZIPPOのライターだと思う。

取り敢えず、捨てるに忍びなくて咄嗟にとりわけたあれこればかりです。既に由来もわからん。
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義母と義父の婚約時代の写真を見つけた

2023年01月25日 16時47分13秒 | 雑記
時は一昨年の暮れに遡る。
我が家で一番古い建物の軒下に穴が見つかり、とりあえず近所の建築会社の人に見てもらったところ、既に軒下の穴を塞いでどうこうなる状態ではなく、建物ごと背後に向かい倒れつつあるという診断が下りた。そうなってはもう取り壊すしかない!と建築会社に建物の解体を依頼した。けれどその前に建物を空っぽにしなくてはならん!と。
実はその建物は義母が嫁に来た時に最初に入った部屋があった。田舎の古民家なので、場所だけはあるとばかりに、嫁入り道具はもちろん嫁入りの時に持参した着物もしつけ糸が残る状態で丸々残っていた。義母は暮れまでに片付ける!とばかりに張り切って。あれこれ処分を進めた。その中に古い手紙の束があった。
古い切手だ!と嫁は捨てる手紙からこっそり切手が綺麗なものを取り置いた。
しかしその時はやることが一杯で悠長に出来ず。義母に命じられるままに次から次へとあれこれ処分を続けた。が、寒い中連日やってたら先に私が熱を出してしまう。以後、義母が一人で処分を続けていた。
ところが、正月1日に義母は突然脳梗塞を発症してしまった。片付けはストップ。私は突然の状況変化に右往左往した。
時は流れて季節も変わる。
そういえば、あの古い手紙をどうしたっけ?と思い出し。目的の切手を数枚切り抜いてふと?
義母が令和になっても取り置いていた昭和30年の手紙ってどこの誰からのものだろう?と。何の気なしに封書をくるりと裏返したところ、そこには令和3年の春に永眠した義父の名前があった。
ええっ!これって、お父さんからお母さんへ宛てた手紙なの!?
見れば、宛先人は義母の旧姓になっている。つまり結婚前の手紙だ。もしや?ラブレターなのでは??うっかり思い当たってしまった。
他人の手紙を見るのはいけないことだ。
そんなのはわかってる。けども、切手目当てに義母に内緒でこっそりと取り置いた手紙が、義父のラブレターの可能性があるのならば。切手欲しさにハサミを入れていいのだろうか?
これさ。義母は既に捨てたやつなんだよな。
切手を取る前に確認せねばなるまい。
決してラブレターを盗み読んではいないよ?と。自分で自分を言い聞かせ、いざ。

手紙は義母と義父の婚約時代のものでした。しかも国鉄に勤めてた義父はその頃、香川県の県庁所在地の高松に住んでおり野球が好きで球場に応援に行ってたらしい。で、封書の中で、婚約者の義母を一緒に甲子園に応援に行こう!と誘ってました。もう完璧な旅行計画付きのやつ。
これは、大切な手紙や。義母が昭和から平成。令和に至るまで捨てずにとっておいたのも頷ける手紙です。流石に切手欲しさにハサミを入れられない。
けどさ。この手紙をどないしょうか?当事者の義父は既に亡くなってるし、義母も介護施設に入ってる。しかもしかも義母が既に自ら捨てた手紙なのだ。
けどもけども。その手紙を嫁の私が持ってるというのはおかしな話だよな〜。
最初に閃いたのは、義父と義母の息子であるダンナが保管すればいいのでは?
いいアイデアだと思ったのですが。ダンナは自分の父母の手紙を読むことができないようだった。
ちえっ。
結局、手紙は義父と義母の娘である義姉に渡した。如何様にもしてくれるといいと思う。

時は流れて。去年の秋、義母が「我が家に100歳を超えた叔母さんのアルバムがあるから探して渡して欲しい」と頼まれた。
そんなことを言われても!とりあえず白黒写真のアルバムを数冊探し出した。
で。最初は自力で何とかアルバムを特定しよう!と閲覧したのよね。
で。中にこんな写真を見つけました。

これ、甲子園ではなかろうか?
で!閃いたのです。
婚約時代の義父が義母を甲子園に誘ってた手紙を。
ということは!この白いワンピースを着て傘を指してるのは義母ではなかろうか?
で。次のページに大きめの写真が貼ってあって。これがトップ画像です。
これ、多分義母の若かりし頃だ。で。場所は甲子園だ。
まさかの!あの手紙のその後の証拠写真を見つけてしまいました〜。次のページは文金高島田の花嫁衣装の義母の姿が。
いや〜。思いがけず我が家の歴史を一つ見つけてしまったわ。

大寒波到来中。皆様、被害はありませんか?
今朝、菜園に人参を取りに行ったらば、昨日の強風で一部トンネルのビニールが剥がれていたので、慌てて修理してたのですが。まさかの!ビニールの重しに使ってるレンガが地面に張り付いて動かず。そうなのです。レンガと地面の間が凍っていたのですよ。ビニールも決してビニールから聞こえてはならん、バリバリという音がしました。
凍ってるうううう〜。
レンガを重しにするのは諦めた。寒くてどないもならんので、急いで人参だけ掘り返す。家に戻ろうとした時、寒さに強いはずのそら豆の苗がぐったりとなってるのを発見してしまった。一応寒さよけに細かい網目の黒色ネットをかけてあるのですが。大寒波の低温には耐えられなさそうね。
くそっ!こんなことならば、そら豆にもビニールをかけておけばよかったわ。悔やんでも今更どないにもならんけども。もうね。枯れないでくれ!と願うのみ。
チッ!いい感じにそら豆が大きくなってたのにな〜。せめて全滅はしないでくれよ。頼む。
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スイートスプリング緊急収穫後半戦

2023年01月24日 04時49分43秒 | リアル農業育成ゲーム
1月20日の朝、義姉より「寒波前にスイートスプリングの収穫を完了せよ」の緊急ミッションが発令された。投入出来る戦力は私とダンナの二人のみ。しかし現在ダンナがぎっくり腰を発症中で戦力外なのである。

我が家の残存する木はわずか16本。しかも今年はあんまり実がつかない裏作なので、私だけでもミッション達成できるはず。
頑張ります!
1月20日に13本完了。本日21日は残り3本のみ。トップ画像に映る3本が今日の対戦相手です。
いざ。
14番。トップ画像の右端に映る木は上記の5カゴを収穫。
15番。まだ色づいてないのもあるけども。結構実ってた。実らせ過ぎ?小さな実が混じってる。けど数だけで言えば193個あった。今年一番なってた。
そしてラスト16本目。実は昨日の1〜13本目までが散々な状態だったので、ダンナが用意してたカゴが尽きてしまいました。上のオレンジのカゴに50個。
最後は収穫用のカゴに全部詰めた。私の戦いは終了。あとはダンナに任せてじゃがいもの土作りに戻ります。2月20日にじゃがいもを植え付ける予定なんだけども。じゃがいもを植えるつもりの畝が雑草に占領されてる。まずは撤去せねばならんのですよ。しかも雑草の中に最強のヤガラが大量に陣地を築いていた。普通の雑草ならば、耕運機で耕して肥料を入れて2月20日を待てばいいのだけれども。まずはヤガラの球根を掘り起こして畝から駆逐せねばならんのだ。くそ〜。なぜにこの地にヤガラが入り込んでるのか?といえば、どうやら私が元耕作放棄地と呼んでる場所はかつての財田川の河原だったらしい。おそらく多分もしかしたら、元耕作放棄地の東の境がかつての千田堤の名残ではないか?と思うのだ。境の外であれば、これ程のヤガラはなかったと思われる。ヤガラは正式にはウキヤガラという水性の植物で、地下の芋から紐状のつるを伸ばしてどんどん増える。花も咲くそうだけど、雑草に花を咲かせるまで放置するとアグリカルチャー民は大負けが確定するので、咲く前に撤去してるので、花は見てない。地下の紐でどんどん増える厄介者です。ってなことで、私はスイートスプリングの収穫ミッションを離脱。ミッション「じゃがいもの土づくり」に移行します。
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緊急ミッション:スイートスプリングを寒波が来る前に収穫せよ!

2023年01月23日 19時26分48秒 | リアル農業育成ゲーム
1月20日、朝ごはんを食べていたら義姉より電話。
義姉「来週の寒波が来る前にスイートスプリングを収穫しないと、実が痛むので頑張って」
私「まだ完全に熟してないけど?」
義姉「低温や雪で痛むと売り物にならなくなるから」
私「収穫後に追熟させるということですか?」
ってなことで、まさかの緊急収穫ミッションがやってきた。
けども。今はとっても都合が悪い。先週末に雨が来る前にと山で頑張りすぎたダンナがぎっくり腰を発症中で、現在戦力外なのである。ダンナ曰く、「まだ10度くらいしか曲がらない」だってさ。
今年はスイートが裏作で、私が手伝わずともダンナだけで十分やれそうだったのにな。
ってなことで、スイートスプリングの収穫は私がやることになった。
が、頑張ります!

スイートスプリングは柑橘類です。最近人気がないけども、私は好きだ。
少し変わった特徴があって、採れる量が年により違うのです。表作はたくさん。裏作は少し。webで検索かけたスイートの説明にはそう書かれていたのだけれど。去年に比べて実った数が全く違う。今年は裏作だと花数が少なかったからわかっちゃいたけども。収穫を始めたら、エグいほどに差があった。
ん。どうせ収穫するのは私なので、ちょっと実験することにした。うちのスイートに番号を振って、どの木に何個実がなってるか?数えてみよう!

では1番から。
1番は正月にはすでに色づいていて、熟れすぎた実が自然落下しちゃうほどでした。けど1番は木が弱ってるな〜と心配してた木です。無事に実ってくれて嬉しいけども。来年も花が咲くのかしら?
2番。更にヤバヤバ。木の片方はもう枯れている。一昨年あたりにカミキリムシの孵化した穴が根元にある。多分大枝の致命的な部分をやられてそこが枯れた模様。来年も無事に実かなあ?一番弱ってる。
3番。まだ緑部分の残る木。うちのスイート畑では古株。あんまり実がつかなかったな。
4番。同じく。まだ熟してない。しかも数がショボい。
5番。同じく。更に実の数が減った。
6番。これまた完熟するのはだいぶん先な模様。
7番。もう何も言えない。確かに実りがすくな過ぎて、サクサク収穫は進むけども。
8番。ようやく収穫しがいのある実りです。
8番だけで1〜7番の収穫の全量を超えそう。あ。上の画像の右端に4個縦に並べてあるのが全部8番です。
9番。この列は一昨年枯れそうだった2本があったのですが。去年遂に枯れてしまい、9番のみ残りました。にしても9番は歪な形だわ。色づきが浅いのは早めの収穫だからですが。こんな変な形の実は売れないよ〜。(泣く)どうも実ったかずが少な過ぎるとこんな実になるらしい。病気じゃないんだけどね。あ〜あ。
10番。コメントなしで。1個あったのが驚き。
11番。9番より色づきは進んでるけども。形がダメダメ。
12番。撮影し忘れた!

13番。色づきが悪い。干からびたような茶色い実があるのは何故だ!もしや、凍って溶けたらこうなるのか?どっちにしても売れないだろう。
疲れた。あと3本だけどもう4時半。残りは明日にして、片付けよう。幸い、ダンナが頑張ってる。私が収穫し終えた木を剪定してくれてる。しゃがんで収穫できないけども。腰を曲げずとも出来ることはやるんだって。しかも寒波の前に伸びてる雑草を払って、耕運機で浅く耕して。出来たら肥料も入れたいらしい。無茶しないでよ!でもまあ。私も今日はここまで。続きは明日だ。アクロバチックな収穫したからもう体が限界っぽい。
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正月2日のお昼ご飯

2023年01月21日 09時09分19秒 | うどん
香川県民が早くリーズナブルにご飯するならば、やっぱうどんでしょ?
正月からうどん屋は営業してました。
出雲大社讃岐分院から自宅への途中に立ち寄ったのは将八うどん豊中店さんです。
到着したのが正午前とあって、お店の外まで行列がありましたが、うどんは回転が早いのでさほど待つという感覚もなく店内へ。
実は将八うどんてなぜか小田急相模原駅の駅ビルに入ってたOXさんで将八うどんのうどん汁のパックが売ってたので、久々〜と懐かしいというほどでもないけれど。将八うどんさんのお店で食べたのは結婚前です。なので30年ぶりかも??その時は現在は本店となってる将八さんでいただいたのですが。
さて?将八うどん豊中店はいわゆるセルフ店。香川のうどん屋さんではスタンダード。店に入るとカウンターで自分の食べたいうどんを注文し、うどん鉢を受け取ってからカウンターをズレて、並んでるうどんのトッピングを追加するスタイルです。
私のオーダーはかけうどんの中310円にあげ(値段忘れた。多分100円程度のハズ)ととり天(100円)です。ダンナはかけうどんの中にゲソ天(120円)をトッピング。
そのままカウンターを最後まで進むとレジがある。
で、その先に無料のネギ・生姜・天かすのトッピングを自分目分量で追加したら空いたテーブルを探す。という感じです。途中で飲み物も自分で用意する。
どんどん客が来てさっさと食べてどんどんはけているので、空き席を探すのはさほど難しくはありません。
いただきます。
うまい!けど流石に多すぎた。うどんの中にせずに小にすべきだったかも?
帰り。列が短くなってました。香川県民は大概車で来店するので、ここも駐車場は広くとってあります。
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2023の初詣

2023年01月20日 06時39分44秒 | 香川の巨木と神社仏閣
投稿し忘れてました。初詣は1月2日のこと。親戚にお年始に出かけた帰りに行きました。
神奈川在住時の初詣は、何年もあちこちの神社へ出かけてました。最終的にはねぷた飾りの寒川神社さんに固定されましたが。今年は出雲大社さんです。
出雲大社は神奈川在住時に秦野駅から徒歩で出雲大社相模分祠へ桜散歩のついでにお守りを返しに伺っていたのですが。義母が毎年送ってくるお守りは出雲大社讃岐分院で授かったものでした。出雲大社には分祠・分院がたくさんあるのです。
さて、まずは参拝です。
それからお守りを。
本殿の隣にうさぎ。見つめる先には。
大国主命。
何か石碑っぽいのがあるなあ?と確認すれば、大平正芳さんの名前がありました。元総理の大平さんは香川県観音寺市出身なので、名前入りをあちらこちらでお見かけします。この時は「通称産業大臣」の文字がありますね。検索したら、1968-1970佐藤栄作さんが内閣総理大臣の時のものでした。大平さんは1910年生まれなので60歳ごろのものということに。
あ。絵馬発見。
おそらく因幡の白兎なので、色が白でなく肌色なんだろうねえ。リアルにピンクか赤だと絵馬のモデルとしては使えないので肌色チョイスなんだろうか?
アホなことを言ってないで帰ります。ってかお腹が空いたので、お昼を食べていこう。
うどんで。
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ミッション3「古いアルバムを100歳超えたおばさんに渡して欲しい」

2023年01月18日 05時15分40秒 | 雑記
あ〜!!めんどうな!!「ミッション1 私の古いひな祭りの写真を探せ」に続き「ミッション2 私の遺影写真をを探せ」が終わったと思ったら、まさかのミッション3があるなんて!しかもですね。今回は我が家に留まる話じゃなかったんですよね。親戚を巻き込んで大騒動になりました。知らぬはミッションを発動した義母だけという〜。
まずは該当するアルバム探しから。ミッション1の時に白黒写真のアルバムが数冊ありまして。その中に当たりがあると思うのですが。該当するアルバムというのが、義母のいう100歳超えのおばさんのものらしい。なぜそのアルバムが我が家に残ってるか?というと、時代の倣いと戦争の悲劇が原因かなあ?
そもそも100歳超えのおばさんという方と面識はあります。が、私がこの家に嫁に来た時は既に該当する方はおばあさんでした。昭和の始めに娘時代を迎えてたおばさんを判別するって出来ると思う?おばさんの娘時代を私は見たことない。しかも昭和9年生まれの義母の写真も白黒。アルバムを見ても、義母だかおばさんだか判別出来ない!
困った私はお隣のおばさんを白黒アルバム抱えて頼りました。
「実は義母が『100歳超えのおばさんのアルバムがうちにあるから、おばさんに渡して欲しい』と言っておりまして〜と切り出したところ。実は実は100歳超えのおばさんというのが、そもそもお隣のおばさんのダンナさんの腹違いの姉だったというのが判明しまして。え〜、これ以上は個人情報が入り乱れて大混乱する事になるで詳しくは書けないのですが。ええ。本当に。昔の人の血のつながりって一体どうなっているのか!横溝正史も真っ青でしたよ。
でも数冊の白黒アルバムの中から該当するアルバムを特定。トップ画像が貼ってあったアルバムで大当たりでした。トップ画像はアルバムを渡す前に興味深い写真だったので撮影したものです。昭和の戦争前の時代の小学校の写真。
さて。100歳超えのおばさんの現状を教えてもらいまして。
おばさんは現在娘の住む場所へ引っ越してる。
おばさんは元気だけど、もう自分で我が家に取りには来れないだろう。娘さんの家族がおじさんちに来る用事があるから、その時に渡してあげよう。と言われ、ありがたくおばさんのアルバムを渡しました。
で。まさかのお隣まで巻き込む事態になり恐縮し、それでもミッション終了となり一安心したのですが。続きのミッションがありました。
「アルバムはお隣におばさんの家族が来るので頼みました」と義母に知らせたところ「100歳超えのおばさんは元気なんやな。京都から取りに来るなら、うちでダンナさんの位牌を預かってるから渡して欲しい」と来たもんだ!
な、ななななな何だってぇ〜!!
もしや、私毎月1日にお花を供えてる軍人墓地の一柱の方のこと??なんで我が家にそんな位牌があるのよ!
最終ミッションは、お隣のおばさん家だけでなく、100歳超えのおばさん宅まで巻き込んでの大騒ぎに発展したのですよ。これこそ個人情報満載で書けることが少ないのですが。もうね。なぜ100歳超えのおばさんと、昭和9年生まれの介護施設に入ってる義母と令和3年に92歳で永眠した義父の間で話を終わらせておかなかったのか!と。残った親戚一同が心の底から叫んだよ。隣のおばさんなんか、わざわざ別の家の一族の奥さんに相談しに足を運んだそうだし。義父が亡くなった時に相続する時に我が家の昔の戸籍が必要だったとかで、ダンナが書類を出してきたのですが。これがもう〜!昔の書類は間違いだらけでした〜。続くのか?



無理!
最終ミッションで別立てに記事を書くか迷ったのですが、私のことなら書いても自己責任ですが、他人の個人情報をバカスカ披露出来ない。しかもヤバめのばかりだし。横溝正史が裸足で逃げそうな複雑〜な話がいっぱいあったわ。
かろうじてセーフかな?と思ったのが、我が家の昔の戸籍の間違い。探してた戦死した大叔父さんの父の名前が、曽祖父でなく本人と数歳違いの兄になってた。それを確定させるにも時間がかかるという。戦後は遠くなりにけり〜。
あとですね。なぜに我が家が100歳超えのおばさんの戦死したダンナさんの位牌を預かったのか?といえば、若くしてダンナを戦争で亡くした女性が、一人で子供を育てて生きるのはよくないという時代の倣いから、再婚することになり、再婚するのに前の夫の位牌を持っていくことは出来ずにうちが預かったらしいです。
ただ、その時に、またその後にどういう取り決めをしたのかわかる当事者がいない。義父が生存してたらよかったのにね。当事者たちは面倒だからと後回しにしといたのでしょうが。経緯を1から調べることから始めた私とダンナの本音は本当に勘弁して欲しかったです。あ〜言えない〜。情報を伏せたまま書くにはこれが限界だ。戦争はしちゃいかんよ。1945年に戦争は終わったのに。不幸しか残らないわ。
結論としては、最終ミッションは失敗です。私が生きてる間は位牌は引き続き我が家でお世話します。そして軍人墓地のお墓へもお花を供えさせていただきます。ツラたん。
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ミッション2 私の遺影写真を探せ

2023年01月17日 04時44分01秒 | 雑記
昨日の続きです。「ミッション1 昔の私のひな祭りの写真を探せ」と義母より頼まれて。古い白黒写真のアルバムを数冊、介護施設に届けたら、義母が自力で目当ての写真を探し出し、一件落着かと思いきや。
続けて「ミッション2 私の遺影写真を探せ」が発動されました。
マジで〜!!
実は令和3年4月に義父が亡くなりまして。誤嚥性肺炎が直接の死因だった義父がまさかそんな早く亡くなるとは思わず。義父の遺影写真は義姉が特急で探しました。
遺影に使われた義父には髪の毛がありまして。どうにも私の記憶の中の義父と同じ人には見えず。義母が自分の遺影は自分で選んだとびきりお気に入りの写真を使いたいと思うのは理解出来たので、ミッション2に取り組むことにしたのですよ。
が、義母が指定した写真というのが「結婚式の時にNHKアナウンサーと一緒の撮ったやつ」ときたもんだ。
私は自分の結婚式の当日にダンナの勤務先の神奈川へ向かって、2021年夏に香川へ戻りました。義母のいうNHKアナウンサーが来た結婚式に心当たりはなく。ましてやNHKアナウンサーと言われても、どんな人やねん!と。それに親戚が多いと結婚式の写真っていっぱいあるんだよね。着物着て綺麗にお化粧してる写真はたくさんあるアルバムのあちこちにありました。一枚二枚じゃなかったのよ。
ってなことで、自力で探すのをギブアップ。困った時の義姉を召喚。二人がかりでアルバムを片っぱしからさらいまして。結果、無事に義母の求める写真を発見しました。
案の定、義母と並んで写るNHKアナウンサーは知らないおじさんでした。ある時点に香川県に赴任してたNHKアナウンサーさんだった方でしょう。でもその当時の義母にとっては有名人と一緒に写った写真で、とてもいい顔で写ってました。そう自分の遺影に選ぶほどに。後から知ったのですが、アナウンサーが来た結婚式は、私がこの家に嫁入りする前のものでした。そりゃあ義母が若々しい姿なのも当然ね。
ちなみに発見した遺影写真は、義母が脳梗塞を起こす前に「既に生前戒名を取得したので、ここに入れておくから覚えておいて」と指示されてるので、一緒にしてしまいました。
そういえば、私の実家の祖母は100歳ほどで亡くなったのですが、自分の葬式に必要なものを全て揃えてありました。遺影写真はもちろん、棺桶に納める品や衣装まであったのを思い出しました。
難儀なミッション2も無事終わり、清々しい気分だったのに。まさかミッション3があるなんて!
「ミッション3  古いアルバムを100歳超えたおばさんに渡して欲しい」
ええっ!どのアルバムやねんっ!
どうもね。ミッション1の時にどさっと私た古いアルバムの中に該当するアルバムがあったらしいのですが。しかも、見つけたアルバムを渡すべき100歳超えたおばさんって今どこにいるんだよ!!ここ数年年賀状を送っても返信がない。
ともかく先にアルバムを見つけないと!
ヒントは?
紀元二千六百年(昭和15年)と書いた写真発見!怪しいアルバム発見。同じアルバムには兵隊さん姿の男性や、羽織姿の美人さんの写真もある。この美人さんが100歳超えのおばさんの若かりし頃の姿ならば、届けてあげたいと思う。けどまずはおばさんの居場所を突き止めねば。難しいなあ。
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ミッション1昔の私の雛祭りの写真を探せ

2023年01月16日 13時47分59秒 | 雑記
義母は去年の正月に脳梗塞を発症し、脳神経外科に入院しました。
入院当日に見せられた義母のMRI画像に写る梗塞部位は運動を司る部分に1箇所のみ。私の梗塞画像と比べれば軽度で、うまくリハビリすれば帰宅も見込まれる状態で一安心でした。けれど既にコロナ禍で入院当日来、家族といえど入院患者に面会は叶わず。洗濯物を交換に病院に行くと、本人から「リハビリに励んでます」という手紙がありまして、心配だけど頑張ってるね。と、それなりに安心していたのが3月末頃まで。
4月に入り、介護監視員さんに義母の介護度をあげてもらわないと、退院後の準備が何も出来ないとなりまして。というのも、介護保険は介護度により家に介護者の移動を助けるバーや階段をつける工事の補助が受けれるのですが、入院前の義母の介護度は1で、脳梗塞発症後とは乖離してたのです。ならばまずは監視員さんが直接義母と顔を合わせて状態を確認した上で介護度を上げてからとなったのですが、家族でさえ面会が出来ない状態でどうすればいいの?と。
ここは義母と似たような患者さんの対応に経験がある病院が間に入ってくださり、介護度の見直しは時間はかかったものの無事に終わりまして、伝えられた義母の新しい介護度は3でした。
この時点で、私は介護度3がどういう状態の患者さんにつけられた介護度なのか理解しておらず。実は後々この介護度が重要でした。
ダンナは母親が退院したら生活できるようにと、建設会社と相談して母親の部屋の押し入れを改造して、移動が楽なように簡易トイレやシャワーをつける工事をしよう!とか。取り壊した納屋の跡地に義母が蔵を作りたいというので、義母の部屋から一々外に出て蔵に行かずとも良いように部屋から蔵に行ける廊下をつけよう!とか予定を立てて退院する日を心待ちにしてました。
が、義母が退院後帰宅出来そうにないと4月末になり判明しました。
ある日、義母の担当看護師さんに病院に呼び出しされ「5月半ばまでにお母さんが退院した後、どんな生活になるか決めて欲しい」と伝えられまして。
あれ?何かおかしいぞ!?と始めて思いまして、よくよく聞いたらば、私たちが思ってる状態より義母は格段に脳梗塞の後遺症が出てて回復してなかったのです。
聞けば本人は「この身体では自宅に戻れない。入れる施設を探して欲しい」と言ってるとのこと。
病院としては、現状がリハビリで回復したMAXの状態で、これ以上の回復は望めない。現状維持だと思ってくれ。義母は最大7月上旬までこの病院を利用出来る。しかし5月半ばには退院後に入る(もしくは使う)施設ににあわせ、食事内容を変更して食べる訓練を始めなければならない。と。
あれあれ??予定と違う!私たちは大混乱です。しかし時間は待ってくれない。この時既に世間ではゴールデンウィークに入ってました。5月半ばまであと2週間しかなかったの。
混乱する私たちを置き去りに、看護師さんの説明は続きます。
介護度3の義母が退院後に使える施設の種類や施設個々の所在地のレクチャーを受けまして一旦帰宅です。
混乱のままにまずは調べることから始めたのですが、調べが進むと介護度3の高齢者の現状は非常に厳しかった!該当する施設はあっても空いてないんですよね。それに義母が手紙で知らせてきてた状態と現状の落差に私もダンナも心が追いつかない。コロナで全く義母に面会が出来なかったのが本当にダメダメです。
そんなこんなでゴールデンウィークに予定してた家庭菜園やらサボテンの植え替えは頓挫。
なんとかかんとか頑張って、義母の退院後の行き先が決まった時は決まったことがもう信じられなかった程でした。何しろ調べたら入居待機が100人待ちとかいう場所もありましたからね。
次は施設の方と義母の顔合わせを終えて打ち合わせ。義母がすんなり決まった介護施設に入居することを了承して心の底からホッとしました。
具体的に話を進めて、車椅子の義母を車椅子に乗ったまま移動出来る車を病院から施設まで出してもらい。長期間の入院で溜まった荷物の移動で私も義姉も大忙し。病院の退院手続きしてる間に車は出てしまい、以降、またしても義母と面会できない日々が始まりました。そうなのです。コロナ禍の高齢者の介護施設は建物内にさえ立ち入りできませんでした。現在進行形で入れません。
月日は流れて。
病院ではレンタルの浴衣で生活してた義母ですが、介護施設では私服になりまして。突然おしゃれに目覚めてしまった〜。もうね。あれが欲しい。これが欲しい。こんなの着ない。自分が使ってた基礎化粧品を買って来てと日々大騒ぎ。まあ、元気ならもういいや!と。
さて。前置きはこれくらいに。今日のタイトルの「ミッション」ですよ。
秋のある日、義母よりミッションが発令されました。
曰く、「私のお雛祭りの時の写真を探して大事に保管して欲しい。あれはどこにもない写真だ」とのこと。
そんなん!自分で探して欲しいよ!と。古い白黒写真が貼られたアルバムを数冊介護施設に届けました。で、義母が見つけた写真がトップ画像です。
義母は昭和9年(1934)8月26日生まれ長女でしたので、両親が盛大なお祝いをしたようです。撮影日は昭和10年3月です。つまり古写真の中で生後半年で母に抱かれてるのが義母です。
ちなみに、探したついでに義母の弟の午の節句の写真も発見。
昭和13年(1938)9月の午の節句。
すごく大事にされていた子供だったのねえ。ってか、叔父さんの豪華な午の節句の写真は、郷土史を編纂する時におじさんの友人が使わせてくれと言ってきたそうなので、そっちにも収まってるらしいです。
これでミッション終わりかと思いきや?実は続けてミッション2がありました。
「ミッション2 私の遺影を探して」に続きます。
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あけましておめでとうございます

2023年01月01日 10時39分48秒 | リアル農業育成ゲーム
本年もよろしくお願いします。

去年は激動の年でした。どうやって乗り切ってきたのやら。もういっぺん同じ年を繰り返せと言われたら、乗り切れる自信がないよ。
トップ画像は今年の年賀状に使ったものです。毎日眺めてる里山が、紅葉してきたので秋空が大きく写せる財田川から撮影しました。
上の画像は、昨年葉牡丹の植え込み鉢を購入したのですが、とても高かったので、7月に自分で種まきから育てました。画像には写ってませんが、玄関の反対側には白の葉牡丹もあります。ついでにこじんまりとした松竹南天の造り物は、ダンナが作りました。うちの山で竹を切り出し、松は庭を12月に植木屋さんが切り揃えてたのを使い、南天は自宅の裏の築山から。寄せ植えです。
先程正月の朝ごはんが終わりまして。ちょっと時間が出来たので原稿書いてます。
2022年は一年通して家庭菜園で自分が食べたいものを作ってました。
例えばこれ。丹波黒大豆です。
年末に黒豆をスーパーに買いに行ったはいいものの、結構なお値段で驚きませんでしたか?そんなこともあろうかと。

7月に丹波黒大豆を種まきしました。そもそもは丹波黒大豆の枝豆を食べる為に育てたものです。一部を残して黒豆として収穫しました。
それを12月30日に「黒豆 作り方」でweb検索して作りました。先程、新年の朝ごはんで食べました。うまかったです。
正月料理とお屠蘇の美味しさに気をよくし、いそいそと取り出したのがこれ。
庭の枝垂れ梅から作った梅酒。
こちらは庭の白梅から作った梅干し。
2022/6/10収穫
6月に仕込んだものの、熟成するまで時間がかかるとあって放置してたのですが、お正月で開けてみました。
上出来!いや〜、庭の白梅は義姉から枯れるかもしれん。植木屋さんからも去年手入れをお願いした時に老木だし、難しいかも?と言われたのですよ。
けどさ、春には花をつけ。初夏に気づけば青梅を見つけ。それを収穫して梅干しと梅酒を作りまして。現金な私は「使えるならお手入れするよ?」と。去年の空梅雨も猛暑の小雨も枯らしてたまるか!とばかりに、お米のとぎ汁やらお風呂の残り湯をせっせと運びまして。下草も雑草にやられないようにせっせと抜きまくり。毒虫も防除してお手入れに勤しんだところ。12月に1年ぶりにやってきた植木屋さんに褒められた。立派に枝にはたくさんの蕾がついたのです。義姉にも褒められた。私の美味しんぼパワーはすごいのね。
問:これ、何だ?
答え:本鷹唐辛子。
香川の地場唐辛子です。普通の唐辛子に比べてキリッと辛い。辛いもの好きにはたまらん唐辛子らしい。
去年スーパーで野菜苗を三株198円で売ってたのですよ。で、ピーマン・ししとう・唐辛子を購入して育てました。その唐辛子を12月に収穫。しばらく株ごと干して乾かしてたのですが、強風で落ちてしまいまして。千切ってこれを使ってお節料理を作ったところ、美味しく出来上がりました。色も赤が冴えてていいでしょ?今年も育てよう!
さて、トップ画像は12月2日に撮影しました。財田川から移動して、スイートスプリング側の元耕作放棄地へ移動。上の画像を撮影。手前のトンネルの中は早生の玉ねぎと奥手のもみじという品種の玉ねぎです。
中央奥のトンネルは秋じゃが。じゃがいもは植え付けから収穫まで90〜100日必要なのですが、ここに植えたのは9月18日でして。あと2週間は持って欲しい!と植え付けた時からかけ続けていた不織布のトンネルの上からビニールをかけて二重で保温しました。
秋じゃがの左隣は冬至カボチャです。
もう一月も前のことですが、12月の初めに四国香川を最低気温が0度になる寒波が襲いました。事前に分かっていたので保温の為に家庭菜園と元耕作放棄地には手持ちの資材を総動員でトンネルをかけまくりました。
けども。寒波が一番強かった時に菜園に出ることが出来ず。というのは12月第1週の月曜にコロナワクチンの5回目の接種がありまして。オミクロン対応の奴。2回目から4回目まで熱を出して寝込んでた私は、5回目もそうなるだろうと予測をしてたのですが、まさかの接種当日より体調を崩してしまい、幸い熱は大したことなかったのですが、関節痛と頭痛で2日も寝込んでしまいまして。体調が回復してから確認に出かけてみると。
冬至カボチャが枯れてました。カボチャはつるが伸びててトンネルかけが出来なかったので自然に任せたけどもダメでした。幸い6〜8個は収穫出来たのでよしとしよう。
この時の寒波は植物に大ダメージでした。上の真っ白になってるターサイは、幸い寒さには強くて食べてみたらうまかったのですが。
花はもうダメダメです。残ったのは寒菊とキンセンカくらいで、咲き誇ってた百日草(ジニア)とマリーゴールドは寒さにより強制終了になってしまいました。
咲いてる時はお花畑だったのに、枯れてしまうと汚い。これはいけない!とマリーゴールドは撤去。けども、マリーゴールドには虫を寄せ付けないという特性がありまして。花も葉っぱも茎も根っこにさえその力があるのならば、撤去して捨てるではなく使わねばならん!と土づくりです。跡地を綺麗にしたら掘って切り刻んだマリーゴールドと米糠にカルスを振り掛けて水をかけて畝を作り直し。
しかしです。お花畑がなくなれば、地面には雑草が蔓延っててですね。たまりませんわ〜。暮れも押し迫るというのに、このところ毎日雑草抜いてました。
こちらは12月8日に撮影した寒咲き菜の花です。地域の人が元耕作放棄地沿いの道を散歩道にしてるので、見て楽しんでくれるといいなと思いまして。春に収穫した種を植えてみたら一杯芽が出た。いや〜、スズメに襲われてしまい。
 
菜の花の種が熟成する前に刈り取ったので多めに種まきしたらいっぱい出た。
こんなに芽が出ると思わなかったのね。まあ、咲けばいいや。そうだ。コミコミの部分の苗を少し家庭菜園に苗を少し移動しようと思う。幸い正月から晴れてるし、頑張ろう!
ってな感じで、植物は水と気温管理が大事と知れた2022年でした。
2023年が始まりました。今年も美味しいものを作って食べます!
何を作ろうかな〜?
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