今年4月中旬にNHKBSプレミアムで「財閥解体ものがたり〜日本占領はこうして行われた〜」という番組を見ました。財閥の栄華を物語る豪邸とその後の運命から戦後の一断面を描く。というコンセプトな番組でした。日本の財閥、戦前の四大財閥は、
三井・三菱・住友・安田。番組内では住友の豪邸として、
旧住友家俣野別邸が紹介されてて、実は番組内で紹介された豪邸のうちい見たことない!知らない!豪邸だったんだよね。
検索しました!すると、藤沢市にあるじゃないですか!しかも地図を見たら小田急線藤沢本町駅から歩ける距離!是非見たい〜~っ!と。ところがゴールデンウィーク明けに激痛な腰痛ですよ!しかも痛みを感じなくなるまで長引いてしまいまして。ようやく見に行ったのが、2017年7月16日でした。ええ、
鵠沼で蓮見遊行寺と小栗判官のお墓旧俣野別邸庭園(←今ここ)です。
トップ画像は俣野別邸庭園の正門ですると緩やかに坂。やがて見えてきたのがお目当ての古建築です。
ん?「古」建築??新築じゃね??と思った方、いますよね?私もそう思う。戦前に建てらた家じゃない!!
実はですね。本来の
旧住友家俣野別邸は、1939年に住友財閥の創業者一族である住友家が建築させた和洋折衷の住宅でした。しかし、国の重要文化財に指定されたオリジナルの建物は、2009年3月15日に焼失しちゃったのです。あの頃に、俣野別邸のすぐ近くのモーガン邸や、大磯の吉田茂邸が相次いで焼失したのを覚えてますか?あの一連の事件の中にこの建物もあったんですよ。
そして、数多く残っている建物の写真と、オリジナルを設計施工した会社が再建したので、ほぼ当時の姿を再現できました。
へえ〜へえ〜へえ〜〜!!不幸中の幸いってことな?
そうだったのかぁ〜!そういえば、大磯の吉田茂邸もこの春に再建して公開になりましたね。実は俣野別邸も今年の3月よりの公開です。公開されてると認知度が低いのかも?ちなみに、
入館料:一般400円 休園日:毎月第3木曜日と年末年始です。
特徴的でこの建物の象徴でもある2階の丸い部屋。外から見るとこんな感じ。本当ならば、上の画像の右側から撮影したいのですが、建物の右側は急な坂になってます。
こんな感じ。敷地は河岸段丘を利用した、高低差のある地形に立地してまして、
内苑部(建物)が段丘の上部、段丘の下に外苑部があります。今日は、建物の2階部分を中心に紹介します。
カテゴリーが「レトロ建築」にしてあるのも、可能な限りオリジナルの再現にこだわったから!あえて「レトロ建築」に入れました。
まずは外観を見上げてから入館。
車寄せはありますが、玄関はこじんまりとしてます。住友財閥の迎賓館というコンセプトならば、もっと玄関は派手に大きく造るハズ。上の画像は、玄関の入口にある石板。入るとこんな感じ。
ピ、ピンボケ…。玄関が狭くて暗いんじゃ〜〜!!
ちなみに、これは玄関の床です。外から入ると栗の木の床です。あちこちの豪邸見てますが、玄関入ってすぐが木製の床って初めてですわ。ちなみに、ここまで土足です。
ここで入館料を支払い、靴を預けてスリッパに履き替えます。ちなみに、この部屋(控え室)は建物の中でデザインが浮いてて変わってるので、立ち寄った際は是非ともよく見てください。特に、床が玄関から連続して木材の栗をまるで煉瓦ブロックのように加工してあるの。あと天井の梁がイギリスのハーフティンバーみたい。わざわざ木肌をなぐり加工してでこぼこを出してる。最初から面白いです。
開館時間:9時半で、現在時刻は9時47分です。スリッパを履き替えたら、係員さんと目が合いました。
係員さん「ご説明しましょうか?」
私「いいんですか?ぜひっ!お願いします!!」
ラッキーですっ!!まさかまさかの出来事です。こんなことなら「財閥解体ものがたり」を見直してくるんだった〜。そうすれば突っ込んだ質問できたのに〜〜。と。ひとしきり後悔していたらですね。まさかの事前ご注意が!!
係員さん「実は前の持ち主の意向で、歴史的なお話はしない条件での公開になっています」
私「え?そうなの!!じゃあ、この部屋がかつて誰の部屋だったとか?」
係員さん「NGです」
私「住友家が…」
係員さん「NGです。建物についてできる範囲でご紹介します」(説明したい気持ちはあっても大人の事情です)
というがっくり、肩透かしなスタートになりました。でもさ、そうは言っても「レトロ建築」カテゴリーなので、歴史部分はwikiに書かれてる部分を抜粋しますね。
旧住友家俣野別邸は、1939年(昭和14)に当時の住友家当主であった16代住友吉左衛門が発注した住宅で、住友家の東京本宅の別邸として現在の神奈川県横浜市戸塚区東俣野町の丘陵地に建築された。
設計は佐藤秀三であった。
基本的には当時の代財閥一家が生活するために、使用人の居住区も備えた大規模な西洋風建築であるが、設計に際し北欧の伝統的な建築様式である柱や梁を露出させる様式を基本としながらも、屋根に日本瓦をのせるなどの伝統的な和風様式も取り入れている。建物はY字形で、昭和時代初期に流行したモダニズムの影響を受けており、和洋と現代建築が融合し、折衷した建築物があった。
1998年ごろまでは住友家に所縁の者が生活していたが、2000年に相続税として国に物納され、政府に所有権が映った。2004年7月に国の重要文化財に指定され、保存と一般公開に向けて2008年1月から修復工事が進められていたが、2009年3月15日に焼失した」
では見学開始。
入館料を支払い、スリッパに履き替えてすぐの場所。2階への階段。
係員さん「再建する時に安全上階段の手すりをオリジナルに手を加えています。元より手すりを高く、頑丈にするために縦木を足しました」
上の画像の手すりの上の段と、下の段だけにある縦木の部分が足した部分。
壁はオリジナルと同じ刷毛目です。
2つ上の画像の階段の上にある踊り場部分ですが。ええ、これ2階じゃない。
係員さん「なぜにここに踊り場を作ったのか?わかりません」とのこと。だって、2畳くらいの広さの踊り場をわざわざ作ってるんですよ?
ちなみに、上の画像は踊り場から階段を見下ろしたところ。
そして、2階部分へ。まずはあの外から見上げた丸い部屋へ。
ここが何のために作った部屋か?窓の外に答えがあります。
空が澄んだ日には、正面左に富士山が、右に丹沢山系が見えるそうな。
訪問した7月16日は、真夏の空らしく山は全く見えませんでした!
ここから芝庭が見下ろせます。
再建する時に、床もオリジナルと同じデザインで再現したそうな。
ちなみに、丸い部屋の入り口の扉を係員さんが占めてくださいまして。
係員さん「戦後、俣野別邸は米軍に接収された時期があります。元は襖のように厚い壁の間に収納した引き戸には布が貼ってありましたが、接収中にペンキが塗られてしまいました。接収が終わって返却されても、一旦塗られたペンキは取れなかったそうです。これも建物の歴史ですから、ペンキを塗った姿で再現しました」
これは〜。説明聞かないと分からんわ〜。
係員さん「こちらをご覧ください。窓の段差の部分にかつてはソファが据え付けてあったそうです」
建物のあちこちに椅子やテーブルが配置してあって、休憩できるようになっています。公開してあるレトロ建築で見学者が座れる場所ってそうそいありません。結構レアな体験ができますよ?
ちなみに、上の画像は丸い部屋のすぐ外にある展示室。オリジナルに再現してあるそうです。見ていただきたいのは、ソファ部分。
丸い部屋のソファもこんな感じだったのかな?
ちなみに、本棚は、ソファの反対側です。一旦廊下に出て隣へ。
分かります?ここで見ていただきたいのは、パネルの裏側にある障子窓。部屋の反対側の窓の上には空気を逃がす横長の換気窓がありまして、涼しく暮らせる工夫があります。
バルコニーには出られませんが、部屋の中から見上げるとおしゃれなデザインがなされています。画像右下には瓦屋根が写り込んでます。主屋の南棟部分です。再建にあたり、焼け残った瓦を型取りして、新しく焼き直したそうです。
隣の部屋です。畳がありますね。黒い柱はこれ、黒漆です。実は1階にも同じ太さの黒漆の柱と、もっと太い赤漆の柱がありまして、連続性のあるデザインになっています。
畳と黒漆の柱のある部屋の天井です。船底天井がモチーフ。間接照明になっています。オリジナルと同じです。これ、昭和14年に建てられた建物ですよ。古さが感じられません。設計した佐藤秀三ってどんな人?
係員さん「日光のプリンスホテルを設計しました」
多分ご主人の寝室として作られた、建物で一番いい部屋だと思うけども、質問しても係員さんが答えられない質問だろうからさ。想像です。ちなみに、上の画像は、この部屋から芝庭を見下ろしたところです。
畳の部屋の隣にバスルームがあります。
実は接収時代にアメリカの将校が改築しちゃいました。バスタブを広く。
洗面台を高く。背が高いアメリカ人が使い勝手がいいように。
ちなみに、バスルームに残る青い古い蛍光灯。
係員さん「パナソニックの前身・松下電気産業時代の蛍光灯です。焼け残ったので、再利用しました」
俣野別邸の見取り図です。