梅林坂を右手の進むと平川門があります。
説明板発見:「平川門は、竹橋門より侵入した敵を撃退できるよう平川濠に伸びた細長い城郭(帯曲輪)を持つのが特徴です。
また城内で罪人や死人が出るとこの門から出されたので、不浄門とも呼ばれました」だって。
なんかね。昨日紹介した松の廊下で刃傷の及んだ浅野内匠頭は、その日のうちに平川門から退出したんだって。
退出といっても既に詮議も終わり当面の身の預け先も芝愛宕下の田村邸って決まってましたので、既に罪人扱いです。しかも浅野内匠頭の処分は護送中に決定されてます。
ま~な。時の将軍が生類憐れみの令を出した五代綱吉だからさもあらん…。
ちなみに、浅野内匠頭は預け先の田村邸の到着した当日に赤穂藩の改易・切腹を命じられています。
ええそうなのです。赤穂藩の殿は、松の廊下で刃傷に及んだ当日には切腹してるのね。大石内蔵助を始めとした四十七士が仇討ちに成功してなかったら、現代まで語り継がれる事もなく、単なるバカ殿で片付けられただろうな。だって、生類憐れみの令を発令する将軍と重鎮ならば、浅野内匠頭の事件は「なかった事」として削除対象にすることだろうし。
他に平川門といえば、確か大奥の側室や女中の通用門でもあります。
確かね、門限がとても厳しくて、あの春日局であっても門限に遅れた時は、門前で一夜を明かしたと云われています。まあ一説には、春日局閉め出し事件は、門限厳守のデモンストレーションだったのでは?という説もあるようです。まああの春日の局でさえ門限厳守でないと閉め出されるとあっては、遊びたい盛りの大奥の女性であっても、歌舞伎見物を切り上げてでも城へ戻るよな。
ちなみに不浄門を生きてくぐったのは、浅野内匠頭と絵島の2人だけだとか。や。不名誉な記録だな。

さて、平川門の先には大手濠にかかる橋がかかっています。
上の画像がそれ。
わざわざあっこさんをここへ案内したのは、平川橋の欄干をみて欲しかったから。


う~む。判読出来るでしょうか?欄干には慶長年間・寛永年間の銘が刻まれているのです。
現存する平川橋は、『昭和37年2月に千代田区が建立。昭和57年3月再建。平成20年3月補修』の説明碑が橋の袂にありました。
ん?
橋の補修ってもしかしてこれのこと?

大工の技が光りますね。
うなってたらあっこさんが「池上本門寺の石段の補修を思い出すわ」って。
確かに。池上本門寺へ(2012年2月19日)の記事 この記事で切り貼りの石段の画像を確認出来ます。
さて平川門。
トップ画像を解説すると、画像手前の左右にあるのが高麗門。奥に見えるのが渡櫓門の構造。
ちなみに不浄門はどこにあるか?というと。

上の画像の右奥にある。でも近づけません。これ竹橋の方に行く帯曲輪の…。え~と下の上空からの画像を見て欲しい。大手濠と平川濠を分けるように伸びてるの。ここが不浄門なのだね。
平川門の構造は結構複雑です。

上空からだとこんなに複雑。何が変って、平川橋を渡った先にある高麗門が、橋に対し90度回転して門があるんだよね。しかも、トップ画像をもう一度確認して欲しい。華奢な高麗門に鉄板をバッチリ巻き付けてあります。あ。ちなみに、トップ画像の方の高麗門は御三家の登城口でもあります。
ウ~ム。混乱する書き方になってしまった!それもこれも平川門が複雑なのがイカン。しかも奥へいかれないなんて。
あ。違いますね。私の記述力が未熟なのもイカンな。
さて、次は二の丸庭園でお昼ご飯~。
や。思いの外東御苑の散策に時間がかかってしまい、葛西臨海公園で水仙の花畑と見ながらお昼ご飯~が出来なくなっちゃった!あっこさん、ごめ~ん。計画の見通しが甘かったよ…。
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今朝は昨日までの寒さが嘘のように気温が上昇してます。これはもう杉花粉サマが暴れ放題になってしまうな。と。
部屋の中の対策を始めました。
つまり。居間のこたつを片付け、こたつ布団も洗濯して押し入れに収納。床のラグは撤去はまだ早いが、極力小さく折り畳みました。それもこれも花粉がくっつかない為の対策です。
空は青空。お出かけ日和ですが、急に上昇する天気というのがイカンな。
環境省の花粉観測の数値を日に何度も確認してしまうこのごろ。既に数度お出かけ取りやめちゃったよ~。
あ。
花粉対策ですがね、結構帽子は有効ですよ。髪は静電気を帯び、浮遊する花粉を引き寄せちゃうので、それを防止する為にもツルツル素材の帽子に花粉防止スプレーアレルクリンをシュシュと振りかけて出かけるのがおススメ。特にまだ花粉症発生してないお子さんの発症時期を数年でも遅らせるために有効です。
花粉症患者の嘆きはな~。花粉症は発症してからじゃ遅いんや。発症しないことが肝心なんや。
花粉症程後の祭り感たっぷりの残念な病もあんまりないと思う。発症してない人には分からない嘆きや…。
説明板発見:「平川門は、竹橋門より侵入した敵を撃退できるよう平川濠に伸びた細長い城郭(帯曲輪)を持つのが特徴です。
また城内で罪人や死人が出るとこの門から出されたので、不浄門とも呼ばれました」だって。
なんかね。昨日紹介した松の廊下で刃傷の及んだ浅野内匠頭は、その日のうちに平川門から退出したんだって。
退出といっても既に詮議も終わり当面の身の預け先も芝愛宕下の田村邸って決まってましたので、既に罪人扱いです。しかも浅野内匠頭の処分は護送中に決定されてます。
ま~な。時の将軍が生類憐れみの令を出した五代綱吉だからさもあらん…。
ちなみに、浅野内匠頭は預け先の田村邸の到着した当日に赤穂藩の改易・切腹を命じられています。
ええそうなのです。赤穂藩の殿は、松の廊下で刃傷に及んだ当日には切腹してるのね。大石内蔵助を始めとした四十七士が仇討ちに成功してなかったら、現代まで語り継がれる事もなく、単なるバカ殿で片付けられただろうな。だって、生類憐れみの令を発令する将軍と重鎮ならば、浅野内匠頭の事件は「なかった事」として削除対象にすることだろうし。
他に平川門といえば、確か大奥の側室や女中の通用門でもあります。
確かね、門限がとても厳しくて、あの春日局であっても門限に遅れた時は、門前で一夜を明かしたと云われています。まあ一説には、春日局閉め出し事件は、門限厳守のデモンストレーションだったのでは?という説もあるようです。まああの春日の局でさえ門限厳守でないと閉め出されるとあっては、遊びたい盛りの大奥の女性であっても、歌舞伎見物を切り上げてでも城へ戻るよな。
ちなみに不浄門を生きてくぐったのは、浅野内匠頭と絵島の2人だけだとか。や。不名誉な記録だな。

さて、平川門の先には大手濠にかかる橋がかかっています。
上の画像がそれ。
わざわざあっこさんをここへ案内したのは、平川橋の欄干をみて欲しかったから。


う~む。判読出来るでしょうか?欄干には慶長年間・寛永年間の銘が刻まれているのです。
現存する平川橋は、『昭和37年2月に千代田区が建立。昭和57年3月再建。平成20年3月補修』の説明碑が橋の袂にありました。
ん?
橋の補修ってもしかしてこれのこと?


大工の技が光りますね。
うなってたらあっこさんが「池上本門寺の石段の補修を思い出すわ」って。
確かに。池上本門寺へ(2012年2月19日)の記事 この記事で切り貼りの石段の画像を確認出来ます。
さて平川門。
トップ画像を解説すると、画像手前の左右にあるのが高麗門。奥に見えるのが渡櫓門の構造。
ちなみに不浄門はどこにあるか?というと。

上の画像の右奥にある。でも近づけません。これ竹橋の方に行く帯曲輪の…。え~と下の上空からの画像を見て欲しい。大手濠と平川濠を分けるように伸びてるの。ここが不浄門なのだね。
平川門の構造は結構複雑です。

上空からだとこんなに複雑。何が変って、平川橋を渡った先にある高麗門が、橋に対し90度回転して門があるんだよね。しかも、トップ画像をもう一度確認して欲しい。華奢な高麗門に鉄板をバッチリ巻き付けてあります。あ。ちなみに、トップ画像の方の高麗門は御三家の登城口でもあります。
ウ~ム。混乱する書き方になってしまった!それもこれも平川門が複雑なのがイカン。しかも奥へいかれないなんて。
あ。違いますね。私の記述力が未熟なのもイカンな。
さて、次は二の丸庭園でお昼ご飯~。
や。思いの外東御苑の散策に時間がかかってしまい、葛西臨海公園で水仙の花畑と見ながらお昼ご飯~が出来なくなっちゃった!あっこさん、ごめ~ん。計画の見通しが甘かったよ…。

今朝は昨日までの寒さが嘘のように気温が上昇してます。これはもう杉花粉サマが暴れ放題になってしまうな。と。
部屋の中の対策を始めました。
つまり。居間のこたつを片付け、こたつ布団も洗濯して押し入れに収納。床のラグは撤去はまだ早いが、極力小さく折り畳みました。それもこれも花粉がくっつかない為の対策です。
空は青空。お出かけ日和ですが、急に上昇する天気というのがイカンな。
環境省の花粉観測の数値を日に何度も確認してしまうこのごろ。既に数度お出かけ取りやめちゃったよ~。
あ。
花粉対策ですがね、結構帽子は有効ですよ。髪は静電気を帯び、浮遊する花粉を引き寄せちゃうので、それを防止する為にもツルツル素材の帽子に花粉防止スプレーアレルクリンをシュシュと振りかけて出かけるのがおススメ。特にまだ花粉症発生してないお子さんの発症時期を数年でも遅らせるために有効です。
花粉症患者の嘆きはな~。花粉症は発症してからじゃ遅いんや。発症しないことが肝心なんや。
花粉症程後の祭り感たっぷりの残念な病もあんまりないと思う。発症してない人には分からない嘆きや…。