増上寺は上野の東叡山寛永寺(天台宗)と共に徳川将軍家の菩提寺です。
増上寺に埋葬されたのは、二代徳川秀忠・六代徳川家宣・七代徳川家継・九代徳川家重・十二代徳川家慶・十四代徳川家茂の六人の将軍と、崇源院(二代秀忠の奥さん、つーか去年のNHKの大河ドラマ『江』)、皇女和宮(十四代家茂の奥さん)ら五人の正室、三代家光の側室桂昌院(五代綱吉の母)を始め5人の側室、及び三代家光の第三子甲府宰相綱重ほか歴代将軍の子女計38名です。
壮麗な霊廟の数々はご霊廟とよばれて増上寺に立ち並んでましたが、昭和20年(1945)3月10日に北廟68棟被災、5月25日に南廟28棟被災。二度にわたる空襲で増上寺のほとんどが焼失。わずかにのこった建物も国宝の指定を解除されました。
昭和33年(1958)から詳細な学術調査が行われ、南北に配していた墓所は一カ所にまとめられ現在地に改装されました。
普段徳川将軍家の墓所は限られた日にのみ特別公開されてます。
ですが~??アレレ~??
入れるっ!!何でやっ!?
訪れたのは1月27日だったのですが、実はですね、去年のNHKの大河ドラマ『江』の主人公が徳川二代将軍徳川秀忠の奥さん崇源院だった為に「墓参したい~~」という要望が多くて特別公開されていたのでした。
ラ・ラッキー~~
。
普段の特別公開は入場無料なのですが、今回は入場料500円でした。
高いと思いますよね?私もそう思った!だから同行のあっこさんと相談したら「せっかくだから」と入場することに。したら~~~っ
絵はがきをいただきました。
それが~~~ッ!!かつての壮麗な霊廟の写真をハガキに仕立てたもの。そしてかつて増上寺が壮麗な建物が立ち並んでいた頃の絵が大延ばしに印刷してあったんですよ。
ラ・ラララ超大ラッキーじゃっ!!!
いそいそと入ります。
まずはトップ画像。これはかつて六代将軍徳川家宣の宝塔前の唐門です。かつて国宝だった鋳抜き門でした。日陰での撮影だったので、画像が真っ暗になったので修正しました…。扉の龍の模様はさすが元国宝!でしたが、撮影に失敗しました。無念。
静寛院和宮(青銅製)の墓。
14代将軍家茂の正室。和宮は仁孝天皇第8皇女として弘化3年(1846)に生まれる。
和宮は嘉永4年、6歳の時に有栖川宮と婚約が成立していたが、婚儀間近になって前述した公武合体策によって降嫁。この時和宮は15歳。家茂死後、落飾して静寛院と称した。明治10年(1877)31歳で逝去。
14代徳川家茂の墓(石塔)。
家茂は11代徳川家斉の子、斉順の長子として弘化3年に生まれる。安政5年、将軍家の養子となり13歳で14代将軍となった。
尊王攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂は第一次長州征伐を指揮し、第二次長州征伐中、大阪城で病没。慶長2年(1866)、享年21歳。
…確か、直接の死因って脚気じゃなかったっけ?甘いモノ大好きな人だったとか?どっかで読んだ気がする~。すごく人望のあった人で、家茂の死を持って徳川の世が終わった!と誰ぞが言ったとかなんとか~?…勝海舟だった気がする。なんかのドラマで見た気がする。や。私の記憶は大概漫画かテレビから入ってるんで確実じゃないけど~。
六代徳川家宣公夫妻(青銅製)の墓
家宣は家光の三男綱重の子(家光の孫)として寛文2年(1662)に生まれる。将軍職を継ぎ、間部詮房や新井白石を重用し、生類憐れみの令や酒税を廃止したが、将軍になりわずか3年で病に倒れた。正徳2年(1712)享年51歳。
七代徳川家継の墓(石塔)
家継は6代家宣の第3子として、宝永6年(1709)に生まれる。父家宣逝去の時、わずか3歳。家継は元来病弱で、正徳6年(1716)、8歳で亡くなった。
9代徳川家重の墓(石塔)。
家重は8代暴れん坊将軍吉宗の長子として、正徳元年(1711)に生まれる。
成長するにつれ病がちとなり、将軍となっても政務は重臣にまかせた人。確か大河ドラマ「吉宗」の中では、どもりがある暗い男として描かれていたような~?
49歳で将軍職を譲り、宝暦11年(1761)、51歳で逝去。
12代徳川家慶の墓(石塔)
家慶は11代家斉の第2子として、寛政2年(1793)に生まれる。天保8年(1837)12代将軍となった。
家慶は「天保の改革」に着手するが失敗。嘉永6年(1853)に亡くなった。61歳。

分かりにくいですが、墓所に入場する時にいただいた『増上寺御霊屋』のパンフレットより転載します。
や~、去年MYMAC BOOKがクラッシュして以後、それまで普通に使ってたスキャナー読み込みやfohto shopなども使えなくなり不便です。今回ちらしを携帯電話で撮影したんだけど~。
も、読めればいいや。
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増上寺に埋葬されたのは、二代徳川秀忠・六代徳川家宣・七代徳川家継・九代徳川家重・十二代徳川家慶・十四代徳川家茂の六人の将軍と、崇源院(二代秀忠の奥さん、つーか去年のNHKの大河ドラマ『江』)、皇女和宮(十四代家茂の奥さん)ら五人の正室、三代家光の側室桂昌院(五代綱吉の母)を始め5人の側室、及び三代家光の第三子甲府宰相綱重ほか歴代将軍の子女計38名です。
壮麗な霊廟の数々はご霊廟とよばれて増上寺に立ち並んでましたが、昭和20年(1945)3月10日に北廟68棟被災、5月25日に南廟28棟被災。二度にわたる空襲で増上寺のほとんどが焼失。わずかにのこった建物も国宝の指定を解除されました。
昭和33年(1958)から詳細な学術調査が行われ、南北に配していた墓所は一カ所にまとめられ現在地に改装されました。
普段徳川将軍家の墓所は限られた日にのみ特別公開されてます。
ですが~??アレレ~??
入れるっ!!何でやっ!?
訪れたのは1月27日だったのですが、実はですね、去年のNHKの大河ドラマ『江』の主人公が徳川二代将軍徳川秀忠の奥さん崇源院だった為に「墓参したい~~」という要望が多くて特別公開されていたのでした。
ラ・ラッキー~~

普段の特別公開は入場無料なのですが、今回は入場料500円でした。
高いと思いますよね?私もそう思った!だから同行のあっこさんと相談したら「せっかくだから」と入場することに。したら~~~っ


それが~~~ッ!!かつての壮麗な霊廟の写真をハガキに仕立てたもの。そしてかつて増上寺が壮麗な建物が立ち並んでいた頃の絵が大延ばしに印刷してあったんですよ。
ラ・ラララ超大ラッキーじゃっ!!!
いそいそと入ります。
まずはトップ画像。これはかつて六代将軍徳川家宣の宝塔前の唐門です。かつて国宝だった鋳抜き門でした。日陰での撮影だったので、画像が真っ暗になったので修正しました…。扉の龍の模様はさすが元国宝!でしたが、撮影に失敗しました。無念。

14代将軍家茂の正室。和宮は仁孝天皇第8皇女として弘化3年(1846)に生まれる。
和宮は嘉永4年、6歳の時に有栖川宮と婚約が成立していたが、婚儀間近になって前述した公武合体策によって降嫁。この時和宮は15歳。家茂死後、落飾して静寛院と称した。明治10年(1877)31歳で逝去。

家茂は11代徳川家斉の子、斉順の長子として弘化3年に生まれる。安政5年、将軍家の養子となり13歳で14代将軍となった。
尊王攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂は第一次長州征伐を指揮し、第二次長州征伐中、大阪城で病没。慶長2年(1866)、享年21歳。
…確か、直接の死因って脚気じゃなかったっけ?甘いモノ大好きな人だったとか?どっかで読んだ気がする~。すごく人望のあった人で、家茂の死を持って徳川の世が終わった!と誰ぞが言ったとかなんとか~?…勝海舟だった気がする。なんかのドラマで見た気がする。や。私の記憶は大概漫画かテレビから入ってるんで確実じゃないけど~。

家宣は家光の三男綱重の子(家光の孫)として寛文2年(1662)に生まれる。将軍職を継ぎ、間部詮房や新井白石を重用し、生類憐れみの令や酒税を廃止したが、将軍になりわずか3年で病に倒れた。正徳2年(1712)享年51歳。

家継は6代家宣の第3子として、宝永6年(1709)に生まれる。父家宣逝去の時、わずか3歳。家継は元来病弱で、正徳6年(1716)、8歳で亡くなった。

家重は8代暴れん坊将軍吉宗の長子として、正徳元年(1711)に生まれる。
成長するにつれ病がちとなり、将軍となっても政務は重臣にまかせた人。確か大河ドラマ「吉宗」の中では、どもりがある暗い男として描かれていたような~?
49歳で将軍職を譲り、宝暦11年(1761)、51歳で逝去。

家慶は11代家斉の第2子として、寛政2年(1793)に生まれる。天保8年(1837)12代将軍となった。
家慶は「天保の改革」に着手するが失敗。嘉永6年(1853)に亡くなった。61歳。

分かりにくいですが、墓所に入場する時にいただいた『増上寺御霊屋』のパンフレットより転載します。
や~、去年MYMAC BOOKがクラッシュして以後、それまで普通に使ってたスキャナー読み込みやfohto shopなども使えなくなり不便です。今回ちらしを携帯電話で撮影したんだけど~。
も、読めればいいや。

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