日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

解放の告知

2023-11-05 14:32:42 | メッセージ
礼拝宣教 イザヤ42章1~9節    

今月は来週12日が「バプテスト福祉デ-」、26日からは「世界バプテスト祈祷週間」、更に12月3日から主イエス・キリストのご降誕を待ち望むアドヴェント:待降節を迎えます。

ところで、主の救いの福音を信じておられるみなさまは、神さまとの出会いの時、救いの日をきっと思い起こすことができるでしょう。その時から今に至ります道のりを思い起こすと、そこには不思議な主の先立ち、導かれているというほかない出来事が多くあったのではないでしょうか。
ヨハネ15章16節に、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」又、ヨハネの第1の手紙4章10節には、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださった。そうして「わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに神の愛があります」と、述べられています。
救い主であるキリストと出会い、今もキリスト者としてあり続けることができている恵みは、まさにこの「神さまの先立つ選びと愛」があるからです。
以前にもお話しましたが、わたしが初めて教会に行くことになったのは小学校4年生の時でした。その頃近所の同年代の仲間たちと家の近くにある中学校の空き地で草野球をしていました。その仲間の一人に学校では秀才と言われていた男がいまして、彼と草野球の対戦をしたとき、ひょんなことからあるかけをしたのです。彼は、「俺のチームが勝てば俺のいうことを聞いてほしい。ただしお前のチームが勝てば、何でもいうことを聞く」と言ってきたのです。どういう意味かは深く考えず、よしゃ受けてやろうということになりましたが、結果は私のチームが負けてしまい、結局彼のいうことを飲むはめになったのです。約束は約束、その彼の要求というのが、「次の日曜日に教会に来いよ」というものだったのです。
わたしはいさぎよく次の日曜日から、朝9時より始まる教会学校に行くようになったというのがそもそもの始まりだったのです。さらにキリストと教会とのつながりが密になったのは、中学生になってからの少年少女の活動を通してでした。そうしてわたしは「神さまと出会う」きっかけをもらい、中3の時に参加した伊豆の天城山荘で開かれた全国少年少女大会でイエス・キリストをわたしの救い主として信じる決心をし、高1のイースターに信仰告白してバプテスマを受けたのです。これも、わたしが神を選んだということではなく、神さまがわたしを選んでくださった。わたしが神さまを愛したのではなく神さまがわたしを愛し、わたしのためにキリストを救い主として遣わしてくださった、という出来事でありました。
「バプテスマ」は、その語の人生においてもわたしの救いの原点であり、神さまの先立つ選びと愛の確信にわたしを連れ戻してくれます。
わたしはバプテスマを受けた後に高校生時代いじめに遭ったりもしました。社会人になってからも上司とうまが合わず日々顔を合わすのがしんどかったり、企業のやり方にもやるせなさを感じたりと、挫折も経験しました。特に社会人になってから日曜出勤が時々あって、それがほんとうに精神的にしんどかったです。というのも学生時代の日曜日は考えなくても教会に行く日、礼拝の日というのがあたりまえのようになっていたからです。しかし社会人になるとそれが当たり前にはゆかなくなり、礼拝にあずかれない日は魂の渇きを覚えました。そうして悩む日々が生じていったのです。
けれどそうした闘い、葛藤が起こり、自分の信仰について揺さぶられることによって、神さまと自分との関係を改めて考え、見つめ直す機会ができたのです。それで日曜礼拝の他にも水曜祈祷会に極力出るようにしました。仕事帰り体は確かに疲れていましたが、水曜祈祷会は出て、共に御言葉を聞き、共に讃美して祈り合う中で、心が元気にされていきました。次の日曜日たとえ出勤で礼拝に出れなくなっても、水曜祈祷会で信仰の給油をしていたら、また次の水曜日までの1週間あゆんでいく霊の油を蓄えることができました。この信仰の油を切らさないようにする。神と私との関係をしっかり築いていくことの大切さを、社会人になってからほんとうに知らされました。少年少女の学生時代は教会の友や仲間がいたこともあって楽しく、又、自然に教会や礼拝にゆくことができていた。まあそれを妨げるような闘いや葛藤がほとんどなかった、まあそれは確かに良かったともいえます。しかし、そのまま順調に信仰の戦いや葛藤のないまま、ただみんなが教会に行っているから自分も行っているというような気持だけでいたなら、多分自分はその後教会を離れていたかも知れません。ある意味日曜出勤で礼拝が守れない、残業で祈祷会に出れない、そういう妨げや障害が生じることで、神さまと自分との関係を再び見つめ直す機会ができたと、それは今考えると、神さまがわたしにこういう時を備え、信仰を鍛え、育んで下さったのだと、思えるのです。
主の招きと育みは人それぞれです。けれど、その救いは神のご計画による召しである事に変わりありません。

本日読まれましたイザヤ書42章1節に、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」と、神さまの選びが語られています。さらに6節では、「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った」と、主が直接呼びかけ、手を取って僕を立てられます。
先にお読みしました、主イエスの「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ。それは行ってあなたがたが実を結ぶようになるためである」との神さまの先立つ選びについてのお言葉。又「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださった」という一方な神さまの愛によって、私たちひとり一人はキリスト者とされているのです。

さて、今回の箇所で言われている「主の僕」についてですが。
主なる神は、都エルサレムの陥落により捕われてわれていた主の民の中からご自身の僕を選び、霊を注いでお立てになられます。その人は、イスラエル・ユダだけでなく島々の国々、つまり世界のすべての人に、「解放の告知」をなすために立てられるというのです。それはここでは第2イザヤ、預言者イザヤのいわば2代目となる人物であったでしょう。

この神さまが選び、お用いになられる「主の僕」は、まずどういう人かと申しますと。
2節「国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」とありますように、王や世の力をもつ指導者たちがするように権勢をもって「叫び、呼ばわり、巷に声を響かせ」るようには振舞う事をしません。
その主の僕は、3節、柔和に「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく裁きを導き出し、確かなものとする」のです。
この「傷ついた葦」、あるいは「暗くなってゆく灯心」とは、ここでユダ、イスラエルの人びとの心の状態を示していました。それは罪のゆえに捕囚の身となり、神に対する信頼が薄れ、信仰が瀕していく彼らの姿です。神に見捨てられたと嘆く彼らの心は暗くなり、消え入りそうでした。傷ついた葦も同様です。滅ぼされがれきと化した中に取り残された弱く傷ついた人びと。しかし、主の選びと愛は変わることがありません。主は僕を選び、立てて民に遣わされたのです。
世の王や指導者達は国益や繁栄など世の事柄に関心を寄せます。そういう中で「傷ついた葦」は折り取られ、「消えそうな灯心」は吹き消されそうです。
しかし、主がお選びになった「主の僕」は、傷ついた魂、消え入りそうな魂に寄り添い、いやしを与えようとします。折れそうな心に伴われ、今にも消えてしまいそうな灯を優しく両手で包みこみ、再び光を取り戻すようにと働かれるのです

その僕は、1節に「彼は国々の裁きを導き出す」とあります。又3節にも「裁きを導き出して、確かなものとする。」さらに4節「この地に裁きを置くときまでは」と続きます。
「裁き」と言いますと、罪が有るか無いかを問い、それに従って厳罰に処するか否かハッキリとさせることが頭に浮かびますが。ここでの「裁き」と訳され原語は、「道」とも訳されるとのことです。
それに沿って口語訳聖書は3節を次のように訳しています。
「傷ついた葦を折ることなく、ほのくらい灯心を消すことなく、真実をもって『道』を示す。」
主の僕は、「傷ついた葦」「消えそうな灯心」である捕囚のユダの人びと、また都に遺されたユダの民が主の愛と真実に目覚め、主の御心に生きていくように、まことの道を示し、働きかけるのです。心の目が開かれ、主に心を向けていくようにたゆみなく働きかけ、促し道を示すのです。
4節も口語訳でお読みしますと、「彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。島々は彼の教えを待ち望む。」
主の僕はどのような時もその魂は衰えず、落胆することもありません。なぜなら彼は自分の考えや力によるのではなく、主から受けた「霊」によって主の僕として生かされていたからです。そうして主の召命、その使命の業を果たし、遂に示すべき道を確立するのです。

6-7節には、その主の僕に対して、主自らの特別な力強い語りかけがなされます。
「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き、捕われた人びとをその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。」
その人は、「見ることのできない目」「捕われ人」を救い出すために立てられるのです。    
この「見ることのできない目」「「捕われ人」とは、主である神のお心に聞き従うのではなく、この地上の神ならざるものに依り頼んで虚しく生きる人たち、世の力に捕われたかたくなな心で真理の道から外れ、暗闇に住む人のことです。それは又、このイザヤの時代のユダの民だけでなく、すべての国々、地上のあらゆる島々で主の真理の教え待ち望む人たちのことです。
主の僕はそれらすべての人に、解放をもたらすために主である神が特別に選び、霊を授けられます。
こうして主の僕はユダの人々のみならず、「諸国、世界の人びとの光」として立てられるのです。

新約聖書のルカによる福音書の4章を読みますと、主イエスがその公の活動をお始めになるにあたり、会堂で会衆を前にイザヤ書61章の言葉をお読みになられたということが記されています。
そこを読みますと、「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」と記されています。
主イエスはこのイザヤ書の言葉を会衆に読まれた後で次のように言われました。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。つまり、イザヤ書で主なる神さまが油と霊を注ぎ、良い知らせを伝えるために選び立てられたこの「主の僕」の出現は、実に新約聖書の時代に至って決定的な実現のときを迎えます。このイザヤ書で語られている全世界の解放の告知は、このイエス・キリストの到来と十字架と復活のみ業を通して、実現されていくのです。それは、この世の力や政治的業によってではなく、「主の僕」として義と愛であられる主なる神に仕えることを通して実現されていくのです

8節には、「わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず、わたしの栄誉を偶像に与えることはしない」とあります。
ここには活ける神さまの「栄光」と「栄誉」が宣言されております。世の権力や勢力といったものは活ける神の前では偶像に等しく、その支配下のもとで人は真の解放も救いも得ることができません。

9節「見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に。わたしがあなたたちにそれを聞かせよう。」
人間が根底から救われるために主の新しいご計画が告知されます。それは、世の権勢によらず、能力にもよらず、唯主の霊により仕える方が、それも僕となってこの世界にお出でくださるという驚くべき救いと解放の神のご計画であります。

フィリピ2章にこう記されています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、その十字架の死に至るまで従順でした。」
救い主であるキリストが人間と同じ者になる、ましてや僕のように仕える者の姿でお出でになるとは、人には考えも及ばないことです。しかし神の愛は、このキリストが人の痛みや苦悩を自らのものとして引き受け、痛み苦しむことを通して示されました。
神の愛のその究極のかたち、それは私たちの罪のために磔にされた十字架の苦難と死にほかなりません。私たちはその主の僕のお姿を通して、見ることのできなかった目を開かれ、罪の縄目やあらゆる捕らわれからの解放と共に、滅びの闇に住む絶望という名の牢獄から救い出されているのです。

イザヤ書41章9節~10節にこのようにあります。
「わたしはあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」
地の果て、その隅々から呼び集められたキリスト者、クリスチャン。それは僕となられた神の子、イエス・キリストによって解放され、救い出された者であります。それは、私たちがキリストに倣い、主の僕として召し出されるためであります。
この神のご計画、そして、主が共におられ、助け支えてくださるとのお約束。この揺るぎない希望をもって、私たちも又、悩み多き世にあっても恐れ、たじろぐことなく、神と人とに仕え、福音を分かち合う者として今日もここから遣わされてまいりましょう。
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