主日礼拝宣教
テサロニケ一4章13節―5章11節
「主の来臨について」
本日は先ほど読まれましたテサロニケ一4章13-5章11節より「いつも主イエスと共に」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
先週3章を読みましたように、テサロニケの信徒たちは困難や苦難に直面しながらも、すべての信徒の模範となるような信仰の生活を送っていました。彼らは大変厳しい状況の中でも、手紙の冒頭にあるように、「信仰によって働き、愛のために労苦し、主イエス・キリストに対する希望をもって忍耐していた」のです。
その希望とは、コリント一15章に詳しく記されています「主イエスの復活に共に与る希望」です。それは私たちも同様です。「キリストが私たちの罪のために死んで葬られたこと」「三日目によみがえられたこと」「主を信じる者が主と共に結ばれること」「復活の完成に与ること」。その主にある勝利への希望です。
聖書では、時に死を「眠り」と言い表しています。それはたとい肉体が朽ち果てて死んでも、「霊のからだの復活」という勝利のときを待ち望んでいるゆえに、眠りと表現しているのです。
テサロニケの信徒たちは、主イエス・キリストが間もなく来臨されることを信じ、その日を迎えることに大きな希望を抱いていました。
ところが、パウロたちがテサロニケを去った後に幾人かの信徒たちは死を迎えます。
すると残された人たちの中に、主の来臨を前に死んだ人は来臨の祝福と復活の恵みに与ることができないのではないかと、悲しみに沈む人たちが出てきたのです。
たとえ信仰をもっていても、死は破壊的力をもっていますから、きちんとした聖書の理解と信仰の理解をもたないと、信仰が根元から揺らぎかねません。
実にパウロは、そういった問題に応えるかたちで、この手紙を書いたのです。
この第一の手紙には、2章19節「主イエスが来られるとき」、3章13節「わたしたちの主イエスが、御自分に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき」、さらに本日の4章16節「主御自身が天から降って来られます」さらに来週読みます4章23節「わたしたちの主イエス・キリストが来られるとき」と、この短い手紙に4度も「キリストの来臨」について記しているのはそのためです。
キリストを信じる者にとって何よりも大きな希望は、世の中で最大の恐れと不安である死と破壊的力に対して、キリストが勝利してくださった。そこにキリストの福音に与る者にとっての最大の救いがあります。
パウロはコリント一15章で、ある人たちが死者の復活などないと言っていることに対して、「もし死者の復活がないのなら私たちの信仰はむなしいではないか」と言っています。
テサロニケの信徒たちにとって、又、私たちすべてのキリスト者にとっても、聖書にたった復活信仰の理解は大変重要なことであります。
「主の来臨の希望」
では、早速聖書からそのことについて聞いていきたいと思います。
パウロは、テサロニケの信徒たち、そして私たちにも問いかけています。
14節「イエスが死んで復活されたとわたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導いてくださいます。」
イエスさまご自身はルカの福音書に復活があることを否定するユダヤ教のサドカイ派の人たちとの問答で、死者の復活について解き明かしをなさっています。そしてその中で、「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ。すべての人は神によって生きているからである」とおっしゃいました。神はいのちの源であられるのです。
大事なことは、そのいのちの源である神に、キリストによって結ばれて生きるということです。
すでに主イエスによって復活の命に招かれている信仰者にとって、まさにその日々の信仰の生活の延長線上に復活の完成、とこしえの命があるのです。
キリストを信じてキリスト者になったはいいが、その後キリストと結ばれ生きることがないなら、そこには地上における救いの証の記録がなく、主に結ばれた救いは分断されたものになっています。それは信仰において死んでいるのです。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」なのです。主イエスが言われた「すべての人は神によって生きる」ということを常に心に留めたいと思います。
さて、パウロは主の来臨に際して起こる事象を描きます。
彼はもともとユダヤ教のファリサイ派に属していましたので、そういったユダヤ教を背景にした終末観をもっていました。ユダヤ教の中でもファリサイ派はもともと復活の信仰をもつ人たちです。しかし彼らはイエスさまが罪のゆるしと復活のいのちを得させるため神がお遣わしになったメシア、救世主だとは信じようとしません。パウロ自身もかつてキリスト教徒を激しく迫害しました。しかし復活の主イエスと出会い、主イエスの証人となった人たちの証言を聞く中で、自分がずっと学び、信じてきた聖書の言葉が、人となって来られた神の御子、イエス・キリストによって実現したのだとの確信に至ったのです。
ところでパウロは今日の4章16節で、主イエスの来臨に際し「神のラッパが鳴り響く」と話をしていますが。それは何もパウロが思いつきで語ったことではありません。
「ラッパの音」は、旧約聖書においても勝利の響きとして、又神の顕現のしるしとして記されています。
そして主イエスご自身がマタイの福音書24章30節に、「その時、人の子の徴が天に現れる。そしてそのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集められる」と、主イエスはお語りになっています。
パウロはある意味旧約聖書の教えから、そして何よりイエスさまがおっしゃったことに基づいて今日の4章16節やⅠコリント15章52節の「世の終わりのラッパ」(これは聖歌にもありますが)を、神の時の徴として記しているのです。
そのとき、主の来臨が起こり、既に主を信じて眠りについた人たちがまず復活し、それから生きている者も空中に引き上げられ、主と共に出会うことになる、と使徒パウロは主の言葉に基づいてこう記しました。
天に召された者も、今主にあって生きる者も、共に主によって復活のいのちの希望に結ばれる。それはテサロニケの信徒のみならず、この終末的様相がより顕著に思える、この時代を生きる私たちにとっても、大きな希望であります。
「いつも主イエスと共に」
先週、去る1月25日89歳で天に召されましたT姉の納骨式が行われましたが。それは私にとっては忘れられないような時となりました。
当初納骨式はご長男お一人ということで伺っておりましたけれども。私は少し寂しいと思い、幾人かの主にあるきょうだいしまい、Tさんと親交があった方にも声をおかけしたところ、思った以上に多くの方々が集ってくださいました。
ご長男でご子息は、仏教徒の檀家総代とうお立場でありますが、しかし先に天に召されたお父様、の葬儀から納骨式の折も、お父様の信仰の意志を尊重してくださり、キリスト教式で行うことが許されました。今回のお母様も同様に故人の信仰を尊重なさり、葬儀から納骨式までキリストの名のもとに執り行われました。
私はこの納骨式において、先に天に召されたこのYご夫妻と地上に生きる親族でもない私たちが、唯、主イエス・キリストの救いと復活の希望のうちに一人ひとりが引き合わされ、1つ処に集められ、共に主を賛美する不思議さと幸いを覚えました。
確かにTさんはこの地上を去っていかれましたが、私は主にあってTさんは生きておられる、という思いをさやかにいだくことができました。
Yご夫妻、その後、Iさん、Yさんのお連れ合いのTさんと敬愛するきょうだいしまいが次々と天に召されていかれましたけれども、先週の主にある交わりは、今日の聖書の4章17節「わたしたちはいつまでも主と共にいることになる」、さらに5章10節の「わたしたちが、目覚めていても、眠っていても、主と共に生きるようになるためです」との御言葉の一端を、味あわせて頂いた思いです。
「主の来臨への備え」
最後に、「主の来臨への備え」について、御言葉に聞いていきます。
聖書には終末の預言や世の終わりのしるしについていくつもの記述がございますが。
その時や時期については、聖書は何も書かれていません。
主イエスは世の終わりの前兆についてはお語りになりましたが、その時や時期について何もおっしゃっていません。ですから、何年とか、その時や時期を予告し、もっともらしく起こると言うのは大変怪しいものと言えます。
ただその日がいつ来るかわからないからこそ、目を覚ましていなさい、日々備えていなさい、とおっしゃったのです。
5章2節には「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです」とあります。
そのことについては、マタイ24章36節で「ただ、父(神)だけがご存じである」とあります。突然予期しないときに来る。5章3節「人々が『無事だ。安全だ』と言っているやさきに、突然、破滅が襲う」とあります。
旧約の時代の預言者エレミヤは次のように語りました。「身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う。」
自分たちの利をむさぼるばかりで、神に立ち返って生きることなく、神の義を求めることを怠った末に、民は神の裁きを招いてしまいました。目を覚まして神の御声に聞き、祈り続けることを怠った結果、突然の破滅が彼らを襲ったのです。
主の来臨のときがいつ来るかわからない、突然やって来るということを知ったなら、その日がいつ来てもよいように、日毎に準備しておくことが大事です。
主イエスはそのことについて、マタイの福音書24章43節で「家の主人は盗人がいつごろ来るかわかっているなら、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである」と戒められました。
まあ、テサロニケの信徒たちは、主の来臨前に眠った人たちの行く末を心配すると共に、突然主が来られた時、果たして自分たちは大丈夫だろうかという懸念を抱いていたようです。
それに対してパウロは、5章4節ではっきりと、「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が盗人のようにあなたがたを襲うことはないのです」と力づけます。
盗人に襲撃されるのは、暗闇を歩いている者だけです。
テサロニケの信徒たちの過去は、暗闇の子、滅びの子でした。しかし、主イエスの福音と出会い、神に立ち帰って生きる者、光のうちに移された今は、「光の子、昼の子」とされているのです。
光の子としての成すべき備えは、神のみ前に「目を覚ましている」こと。それは、霊的に信仰的に目覚めている状態にあることです。
それに関してパウロは8節、「わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」という勧めを語ります。また11節には「励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」と奨めます。
次週の箇所にはさらにキリストの来臨に備えた具体的なキリスト者の信仰のあり方とライフスタイルを提示します。
昨今の世の終わりの前兆ともいえるような状況下にあって、闇の力が人々の愛を冷ませようと働きかけています。
しかし9節、「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定めたのです」。アーメンです。
主にある信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、謙虚にされて励まし合いつつ互いの向上に心がけていく。ここに主にあって共に生きる者の生き方、又、主の来臨に備えていく私たちの生き方が明示されています。
「いつ来られても」喜んでお迎えできる備えをなしてまいりましょう。