日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

いつも主イエスと共に

2020-06-28 14:35:00 | メッセージ

主日礼拝宣教 

テサロニケ一4章13節―5章11節                     

「主の来臨について」
本日は先ほど読まれましたテサロニケ一4章13-5章11節より「いつも主イエスと共に」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
先週3章を読みましたように、テサロニケの信徒たちは困難や苦難に直面しながらも、すべての信徒の模範となるような信仰の生活を送っていました。彼らは大変厳しい状況の中でも、手紙の冒頭にあるように、「信仰によって働き、愛のために労苦し、主イエス・キリストに対する希望をもって忍耐していた」のです。
その希望とは、コリント一15章に詳しく記されています「主イエスの復活に共に与る希望」です。それは私たちも同様です。「キリストが私たちの罪のために死んで葬られたこと」「三日目によみがえられたこと」「主を信じる者が主と共に結ばれること」「復活の完成に与ること」。その主にある勝利への希望です。

聖書では、時に死を「眠り」と言い表しています。それはたとい肉体が朽ち果てて死んでも、「霊のからだの復活」という勝利のときを待ち望んでいるゆえに、眠りと表現しているのです。
テサロニケの信徒たちは、主イエス・キリストが間もなく来臨されることを信じ、その日を迎えることに大きな希望を抱いていました。
ところが、パウロたちがテサロニケを去った後に幾人かの信徒たちは死を迎えます。
すると残された人たちの中に、主の来臨を前に死んだ人は来臨の祝福と復活の恵みに与ることができないのではないかと、悲しみに沈む人たちが出てきたのです。
たとえ信仰をもっていても、死は破壊的力をもっていますから、きちんとした聖書の理解と信仰の理解をもたないと、信仰が根元から揺らぎかねません。
実にパウロは、そういった問題に応えるかたちで、この手紙を書いたのです。

この第一の手紙には、2章19節「主イエスが来られるとき」、3章13節「わたしたちの主イエスが、御自分に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき」、さらに本日の4章16節「主御自身が天から降って来られます」さらに来週読みます4章23節「わたしたちの主イエス・キリストが来られるとき」と、この短い手紙に4度も「キリストの来臨」について記しているのはそのためです。

キリストを信じる者にとって何よりも大きな希望は、世の中で最大の恐れと不安である死と破壊的力に対して、キリストが勝利してくださった。そこにキリストの福音に与る者にとっての最大の救いがあります。
パウロはコリント一15章で、ある人たちが死者の復活などないと言っていることに対して、「もし死者の復活がないのなら私たちの信仰はむなしいではないか」と言っています。
テサロニケの信徒たちにとって、又、私たちすべてのキリスト者にとっても、聖書にたった復活信仰の理解は大変重要なことであります。

「主の来臨の希望」
では、早速聖書からそのことについて聞いていきたいと思います。
パウロは、テサロニケの信徒たち、そして私たちにも問いかけています。
14節「イエスが死んで復活されたとわたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導いてくださいます。」
イエスさまご自身はルカの福音書に復活があることを否定するユダヤ教のサドカイ派の人たちとの問答で、死者の復活について解き明かしをなさっています。そしてその中で、「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ。すべての人は神によって生きているからである」とおっしゃいました。神はいのちの源であられるのです。
大事なことは、そのいのちの源である神に、キリストによって結ばれて生きるということです。
すでに主イエスによって復活の命に招かれている信仰者にとって、まさにその日々の信仰の生活の延長線上に復活の完成、とこしえの命があるのです。
キリストを信じてキリスト者になったはいいが、その後キリストと結ばれ生きることがないなら、そこには地上における救いの証の記録がなく、主に結ばれた救いは分断されたものになっています。それは信仰において死んでいるのです。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」なのです。主イエスが言われた「すべての人は神によって生きる」ということを常に心に留めたいと思います。
さて、パウロは主の来臨に際して起こる事象を描きます。
彼はもともとユダヤ教のファリサイ派に属していましたので、そういったユダヤ教を背景にした終末観をもっていました。ユダヤ教の中でもファリサイ派はもともと復活の信仰をもつ人たちです。しかし彼らはイエスさまが罪のゆるしと復活のいのちを得させるため神がお遣わしになったメシア、救世主だとは信じようとしません。パウロ自身もかつてキリスト教徒を激しく迫害しました。しかし復活の主イエスと出会い、主イエスの証人となった人たちの証言を聞く中で、自分がずっと学び、信じてきた聖書の言葉が、人となって来られた神の御子、イエス・キリストによって実現したのだとの確信に至ったのです。
ところでパウロは今日の4章16節で、主イエスの来臨に際し「神のラッパが鳴り響く」と話をしていますが。それは何もパウロが思いつきで語ったことではありません。
「ラッパの音」は、旧約聖書においても勝利の響きとして、又神の顕現のしるしとして記されています。
そして主イエスご自身がマタイの福音書24章30節に、「その時、人の子の徴が天に現れる。そしてそのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集められる」と、主イエスはお語りになっています。
パウロはある意味旧約聖書の教えから、そして何よりイエスさまがおっしゃったことに基づいて今日の4章16節やⅠコリント15章52節の「世の終わりのラッパ」(これは聖歌にもありますが)を、神の時の徴として記しているのです。
そのとき、主の来臨が起こり、既に主を信じて眠りについた人たちがまず復活し、それから生きている者も空中に引き上げられ、主と共に出会うことになる、と使徒パウロは主の言葉に基づいてこう記しました。
天に召された者も、今主にあって生きる者も、共に主によって復活のいのちの希望に結ばれる。それはテサロニケの信徒のみならず、この終末的様相がより顕著に思える、この時代を生きる私たちにとっても、大きな希望であります。

「いつも主イエスと共に」
先週、去る1月25日89歳で天に召されましたT姉の納骨式が行われましたが。それは私にとっては忘れられないような時となりました。
当初納骨式はご長男お一人ということで伺っておりましたけれども。私は少し寂しいと思い、幾人かの主にあるきょうだいしまい、Tさんと親交があった方にも声をおかけしたところ、思った以上に多くの方々が集ってくださいました。
ご長男でご子息は、仏教徒の檀家総代とうお立場でありますが、しかし先に天に召されたお父様、の葬儀から納骨式の折も、お父様の信仰の意志を尊重してくださり、キリスト教式で行うことが許されました。今回のお母様も同様に故人の信仰を尊重なさり、葬儀から納骨式までキリストの名のもとに執り行われました。
私はこの納骨式において、先に天に召されたこのYご夫妻と地上に生きる親族でもない私たちが、唯、主イエス・キリストの救いと復活の希望のうちに一人ひとりが引き合わされ、1つ処に集められ、共に主を賛美する不思議さと幸いを覚えました。
確かにTさんはこの地上を去っていかれましたが、私は主にあってTさんは生きておられる、という思いをさやかにいだくことができました。
Yご夫妻、その後、Iさん、Yさんのお連れ合いのTさんと敬愛するきょうだいしまいが次々と天に召されていかれましたけれども、先週の主にある交わりは、今日の聖書の4章17節「わたしたちはいつまでも主と共にいることになる」、さらに5章10節の「わたしたちが、目覚めていても、眠っていても、主と共に生きるようになるためです」との御言葉の一端を、味あわせて頂いた思いです。

「主の来臨への備え」
最後に、「主の来臨への備え」について、御言葉に聞いていきます。
聖書には終末の預言や世の終わりのしるしについていくつもの記述がございますが。
その時や時期については、聖書は何も書かれていません。
主イエスは世の終わりの前兆についてはお語りになりましたが、その時や時期について何もおっしゃっていません。ですから、何年とか、その時や時期を予告し、もっともらしく起こると言うのは大変怪しいものと言えます。
ただその日がいつ来るかわからないからこそ、目を覚ましていなさい、日々備えていなさい、とおっしゃったのです。
5章2節には「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです」とあります。
そのことについては、マタイ24章36節で「ただ、父(神)だけがご存じである」とあります。突然予期しないときに来る。5章3節「人々が『無事だ。安全だ』と言っているやさきに、突然、破滅が襲う」とあります。
旧約の時代の預言者エレミヤは次のように語りました。「身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う。」
自分たちの利をむさぼるばかりで、神に立ち返って生きることなく、神の義を求めることを怠った末に、民は神の裁きを招いてしまいました。目を覚まして神の御声に聞き、祈り続けることを怠った結果、突然の破滅が彼らを襲ったのです。
主の来臨のときがいつ来るかわからない、突然やって来るということを知ったなら、その日がいつ来てもよいように、日毎に準備しておくことが大事です。
主イエスはそのことについて、マタイの福音書24章43節で「家の主人は盗人がいつごろ来るかわかっているなら、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである」と戒められました。
まあ、テサロニケの信徒たちは、主の来臨前に眠った人たちの行く末を心配すると共に、突然主が来られた時、果たして自分たちは大丈夫だろうかという懸念を抱いていたようです。
それに対してパウロは、5章4節ではっきりと、「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が盗人のようにあなたがたを襲うことはないのです」と力づけます。
盗人に襲撃されるのは、暗闇を歩いている者だけです。
テサロニケの信徒たちの過去は、暗闇の子、滅びの子でした。しかし、主イエスの福音と出会い、神に立ち帰って生きる者、光のうちに移された今は、「光の子、昼の子」とされているのです。
光の子としての成すべき備えは、神のみ前に「目を覚ましている」こと。それは、霊的に信仰的に目覚めている状態にあることです。

それに関してパウロは8節、「わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」という勧めを語ります。また11節には「励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」と奨めます。
次週の箇所にはさらにキリストの来臨に備えた具体的なキリスト者の信仰のあり方とライフスタイルを提示します。
昨今の世の終わりの前兆ともいえるような状況下にあって、闇の力が人々の愛を冷ませようと働きかけています。
しかし9節、「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定めたのです」。アーメンです。
主にある信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、謙虚にされて励まし合いつつ互いの向上に心がけていく。ここに主にあって共に生きる者の生き方、又、主の来臨に備えていく私たちの生き方が明示されています。
「いつ来られても」喜んでお迎えできる備えをなしてまいりましょう。

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苦難に直面しながらも

2020-06-21 16:43:47 | メッセージ

礼拝宣教 テサロニケ一3・1~13  沖縄(命どぅ宝の日)を覚えて

本日は6月23日の「沖縄(命どぅ宝)の日」をおぼえつつ、礼拝を捧げています。
バプテスト女性連合前会長さんが聖書教育の中で次のように書かれておられます。
「2008年から毎年6月23日前後に3泊4日の沖縄学習ツアーをスタート。全国から友が集い、沖縄戦の追体験と基地の課題を身をもって知る旅にでかけています。参加者は戦跡を辿り、そこで非業の最期を遂げた人々の声なき声に耳を澄ませ、悲しみや痛みに思いを馳せます。また辺野古のキャンプシュワブの前で長年座り込みを続ける地元の方々から、基地がどれほど人々のいのちと生活を脅かしているかを直接伺います。沖縄バプテスト連盟の女性会の方々とも、回を重ねるごとに相互理解が深まり、親しい友との再会もツアーの楽しみの一つとなりました。
辺野古で出会った80代の女性は『戦争で何もかも失った私らにとって、この海は命をつなぐ宝の海だった。魚やモズクをとって子どもに食べさせ何とか生き延びたさぁ。その美(ちゅ)ら海を孫子の代まで残してやりたい、なんでそれが許されないの?もう戦争なんかこりごりさ』と語られました。人々は今日もまた、忍耐強く座り非暴力による基地反対を表明し続けているのです。
キリストの心を自らの心とする私たちは、もはや沖縄の苦しみを見過ごしにすることはできません。私たちもまた沖縄を苦しめている一人であるのですから。沖縄に行くと、そこで人々に寄り添い続けるキリストにお会いできるのです。沖縄の平和はすなわち私たちの平和、「平和を実現する者は幸い」と言われる主に従って、誠実に歩みたいと願っています。」
命どぅ宝、命こそ宝。辺野古の埋め立てが再開されました。今も続く苦闘を強いられる沖縄の叫びを知って、命と平和への祈りを共に捧げてまいりましょう。

本日はテサロニケ一3章から「苦難に直面しながらも」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
「愛と信仰のために」
前章17節以降によれば、パウロはテサロニケを離れた後、幾度もテサロニケの信徒たちに会いに行こうと切に願いますが、「サタンによって妨げられて」実現しなかったとのことです。それが病のためであったのか、敵対する勢力による妨げだったのかは分かりませんが。
そこでパウロは、1節「もはや我慢できず」、口語訳では「これ以上耐えられなくなって」、代わりに福音のために働く神の協力者テモテをサロニケの教会に送るのです。
サタンの働きは、人が福音を聞いて、主イエスを信じ、受け入れることを妨げます。
それだけではありません。主イエスを信じ、受入れた人の信仰をも奪おうとするのです。
まあですから、パウロはそのようなことが愛するテサロニケの信徒たちにあってはならないと、さらに5節でも(1節と5節は同じ原語です)「これ以上耐えられなくなって」(口語訳)と重ねてその思いを吐露したのです。

テサロニケの信徒たちを襲う苦難を思うとき、パウロの心も耐えられないほど深く痛んでいたということであります。パウロはテサロニケの信徒たちの苦しみや痛み、彼らのことが心配でたまらなかったのです。
先週の箇所では、パウロの母の心、父の心というようなテサロニケの信徒たちへの愛情を知らされたわけですが。その愛するテサロニケの信徒たちが迫害に遭うばかりでなく、
サタン、誘惑するものの惑わしによって、彼らに語り伝えて来た主イエスにある福音が台無しにされ、その信仰まで奪い去られてしまうのではないかと、気が気でならなかったのです。
だから、パウロは2-3節、テサロニケの信徒たち「励まして、信仰を強め、苦難に遭ってもだれ一人動揺することがないようするため」、福音の同労者テモテをテサロニケ教会に遣わすのですね。

一人のひとが福音を信じ、主イエスを救い主として受け入れたというところでハッピーエンドではなく、信仰の歩み、主にある歩みは一生涯続くことによってキリストに結ばれた証しが立てられていきます。
パウロの思いというのは単なる信仰のサポーターという領域を超え、まさに親心でテサロニケの信徒たちを愛するのですが。私は牧師という立場からこのパウロのような情熱・パッションを持ち得るのか問われるものでありますが。
このパウロの愛の源はとりもなおさず主イエス・キリストの愛にありました。
私たちもまた、その主イエスの愛に与った者として、互いに励まし、信仰を強め、苦難に遭っても誰も動揺することがないよう共に生き、生かされていることのです。

「励ます者も励まされる」
さて、パウロはサロニケの教会から帰って来たテモテの報告を受け、「あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました」と大変喜んでいます。
その「うれしい知らせ」とは、1章3節にもありました苦難の中でテサロニケの教会が「信仰による働きと愛のための労苦」を惜しまず勤しんでいた、といううれしい知らせです。
パウロは4節で「あなたがたのもとにいたとき、わたしたち(主を信じるキリスト者)がやがて苦難に遭うことを、何度も予告しました」と記しています。

そうして実際にテサロニケの教会は困難や苦難に直面します。
すると彼らはパウロの教えを忘れず、その困難や苦難の中で、その信仰が弱まるどこかますます主に従い、主に依り頼んで生きる信仰者とされていったのです。
「クリスチャンになったらいつも問題が解決され、すべてうまくいくからあなたも信じたらいいですよ。」と言うなら、それは神を自分の思い通りに動かそうとする偶像礼拝と変わりありません。
パウロが初めから伝えたのは、主イエスが神に従い、人を愛するために十字架にかかられたこと。その主イエスを神が三日目によみがえらせてくださったことでした。
主イエスの愛と苦難によって救われた私たちも又、世にあっての苦難や困難は尽きませんが、むしろそこで主イエスがわがうちに生き、聖霊がお働きくださっていることを身をもって知ることができるのではないでしょうか。
昨今の状況も、まさにそのような時であると言えるでしょう。
パウロはローマの信徒への手紙の5章で、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。希望はわたしたちをあざむきません。聖霊によって神の愛がわたしたちに注がれているのです」と書き記していますが。
テサロニケの信徒たちも又、その苦難に直面しながらも「信仰による働きと愛のための労苦」を実践していたのであります。
又、この3章で、パウロがテサロニケの信徒たちにぜひ会いたいと望んでいるように、テサロニケの信徒たちも又パウロたちにしきりに会いたがっていることをテモテから知らされたパウロは、喜びに満たされ「うれしい知らせ」と、その思いを言葉にしています。
たとえ遠く離れていても、又試みる勢力が働こうとも、テサロニケの教会とパウロとの主イエスにある深い絆は決して揺らぐことはなかったのです。

パウロはそれらの報告を受けて、7-8節で次のように書き綴っています。
「兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きているといえるからです。」
驚くことにあの使徒のパウロがテサロニケの信徒の信仰によって「わたしは励まされました」と言うんですね。
パウロが一方的にテサロニケ教会の信徒たちを励ましたというのではなく、実にテサロニケの教会の信徒の信仰による「生きた証と愛の労苦」とを知って、パウロ自身が彼らのその信仰に励ましを受けているのですね。

ここでパウロが、「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きているといえるからです」と、書き綴った言葉にハッとさせられます。
パウロは使徒でしたが、自分だけが一人孤高の信仰を保っていることで満足する人では決してなかったのです。主にある人々とのよき信仰の分かち合いを離れては、キリストの使徒としての存在理由を見出せなかったのです。

神さまと一対一で向き合う関係は大切でありますが。
同時に、主に結ばれたきょうだいしまいが共に主の福音の働きや主の愛の業に携わり、共に与っていくことを通して、互いが励まされ、ゆたかにされていくのです。(今日の命どぅ宝の日やバプテスト連盟で共に担う世界祈祷の働きなどもその一つですね。)
今日の箇所で、パウロ自らテサロニケの教会を訪問したくてもできないとき、キリストの福音のために働く神の協力者であり、同労者であるテモテが立てられました。あらゆる点で優れていた信仰者パウロにも思うようにできないことがいくつもあったのです。
又テサロニケの信徒たちも、パウロにとってはかけがえのない神の協力者、福音のための同労者となり、相互に励まし支える存在とされたのですね。
私たちの主にある交わりも同様です。
キリストにあって共に生き、生かされていく私たちとされたいと願います。

最後に、パウロはテサロニケの信徒たちのことをおぼえながら祈ります。
テサロニケの信徒たちの信仰と愛に励まされて喜びにあふれ、神に感謝をささげたパウロは、さらにその愛する彼らの信仰に必要なものがあるなら補いたいと日夜祈り続けるのです。
まあ、大抵はもうこれで大丈夫だろうと思えたら祈らなくなることが多いのではないでしょうか。しかしパウロはその愛のゆえに「絶えず祈り続けた」というのです。

さて、ここでパウロは3つの点について祈っています。
1つは、何よりもテサロニケの信徒たちとの再会が叶うことです。もう一度顔と顔を合わせ福音を分かち合いたいと切に願ったのです。
けれども先にも触れたとおり、テサロニケへの再訪が実現しない。どのような熱意と願望をもっても神が道を開いてくださらなければそれはできないとパウロは知っていました。 
又、どんなに難しく困難に思えるような状況にあっても神が道を開いてくださるなら、それができると確信していました。
パウロはこのテサロニケ教会の再訪も、この道を開いてくださるのは神御自身であることを信じて祈ります。

2つめは、テサロニケの信徒たちの愛が増し加わることです。あれだけテサロニケの信徒たちの愛に励まされたパウロなのになぜこのように祈ったのでしょうか。
困難や苦難に直面しながらも教会はこれまでにない愛の一致を生みだしたのでしょう。しかしその一方で、苦しみに動揺する者もいたのでしょう。
非常に厳しい事態におかれた時、教会内の関係もギスギスとし、軋轢を引き起こしやすくなります。又、社会の状況と同じように排他的、独善的になってしまうかもしれない。そういった人間の弱さをパウロは知ったうえで、「神が、あなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを、増し加えて豊かにして下さるように」と切実に祈るのです。

そして3つめは、主イエスの来臨に際して、「その心を強められ、神の前で聖なる、非の打ちどころのない者としてくださるように」と、祈ります。
主イエスは世の終わりの前兆として、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる・・・・偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(マタイ24・7-12)と、仰せになりました。
まさに今の時代状況とこの世の終わりの前兆とが重なってくるようですが。
けれども、私たちはそこで特別に慌てふためいたり、世の風潮に流されるのではなく、
日常と変わることなく主にある互いの愛とすべての人への愛に勤しみ、励んでいくことが、主の来臨に備えるふさわしい在り方なのです。
本日は「沖縄・命どぅ宝の日」をおぼえる日の礼拝です。
世に生かされている一人ひとりの命とその存在が大切にされていくように祈り求め、それぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

 

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教会から臨む光景

2020-06-16 09:22:12 | 教会案内

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生きて働かれる神の言葉

2020-06-14 15:05:44 | メッセージ

礼拝宣教 テサロニケ一2・1~13

 

先週から礼拝と祈祷会が短縮というかたちではありますが再開され、今日もこうして顔と顔とを合わせて主を礼拝することができる喜びは何にも替えがたい恵みであります。

先ほど今日の聖書の箇所が読まれましたが、その後の17節以降にこう書かれています。「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、―顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですがーなおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。」

これは私たちが経験した2か月間の状況と重なって来るような思いで読まされました。

礼拝が休会となった間、礼拝の音声データや宣教原稿の送信を行い、場所は離れていても礼拝が共有できるように努めました。

それも意義があったと思うのであります。ただ、こうして主イエスが復活された主の日に共に集い、神を中心にした私たちの交わりの基となる礼拝に共に与ることができる。これはやはりネットや文書では得ることのできない喜び、幸いです。

 

本日はテサロニケの信徒への手紙2章から「生きて働かれる神の言葉」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

まずこの手紙ですが。パウロらは迫害のためにテサロニケの地を追われコリント地方に逃れます。彼らはテサロニケの教会にテモテを遣わし、その報告を受け書き送ったのがこの手紙であります。

ここには1章3節にあるように「信仰によって働き、愛のために労苦し、主イエス・キリストに対する希望をもって忍耐している」テサロニケの信徒たちへのパウロの愛が満ちています。

パウロはテサロニケを離れた後、テサロニケの教会が自分の受けたものと同等の迫害や妨害に遭っていないか、又福音宣教に敵対する勢力に牛耳られていないか、という心配があったのでしょう。

しかし、先週1章を読みましたように、テモテからの報告を受けたパウロは、テサロニケの教会の信徒たちが、6節「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしに倣う者となり、そして主に倣う者なった」そのことを知り、神に感謝して、その思いを綴ったのです。

本日の2章のところも感謝の言葉があふれています。

何よりここでパウロが神に感謝していることは、13節にありますように「わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」という点です。単に人の教えや教訓としてではなく、生ける神の言葉と信じ、受け入れた。

パウロは続けて「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」と書き記しています。

テサロニケ教会の信徒の中に神の言葉が現に働いている様子をテモテから知らされたパウロの喜びが伝わってくるようですが。

 

パウロは2節で「兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしがそちらに行ったことは無駄ではありませんでした。無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中で(テサロニケの)あなたがたに神の福音を語ったのでした」と言っていますが。

このように神の言葉の働きは苦難の中で語られました。

苦しみや攻撃に遭いますと、人は口を閉ざしたり、語り伝えることをやめてしまうのではないでしょうか。

しかし、厳しい苦しみの中でも、神の言葉はパウロらのうちに働いて福音を大胆に語らせ、神の恵み福音を分かち合う力として働き続けたのです。そして、その生ける神の言は2千年を経た今も変わることなく力をもって働き続けているのです。

 

パウロはコリント一1章18節で、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と記しました。十字架の言葉は、救われる者には生きた神の力なのです。この十字架の言葉は神の力の「力」は原語で、

デュナミス。それはダイナマイトの語源となった言葉で、爆発的力を示すものです。

同2章4節には「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力と証明によるものでした」とも言っています。

テサロニケ1章5節にも「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったかです」とあります。

パウロが語った宣教は、主イエスの十字架の苦難と死を通して啓示されたものでした。

フィリピでの苦しみや辱めに遭いながらも、彼が福音をテサロニケにおいてなおも語り続けることができたのは、彼が人の知恵や力に依り頼まず、神の知恵と力に依り頼んでいたからです。

先に、パウロはテサロニケでの宣教について、「わたしたがそちらに行ったことは無駄ではありませんでした」、さらに8節で「兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう」とも言っていますが。

これらの無駄、労苦や骨折りというのは、出来れば避けて通りたいことです。

けれどもパウロは、一見無駄に見える労苦や骨折りの中に実は神の言葉が生きて働いていたという神さまの恵みとお働きを見出すのです。

人間は見える成果や働きに目が向きます、それはある意味自然といえましょう。けれども主を信じる者は神さまの恵みとお働きを見ていく霊の眼が備えられているのですね。

 

先週礼拝宣教の中で、教会の恵みや喜びは単に活気があるとか、教会に人が増えたというもので決して計ることができるものではないし、かえって困難や課題の中で「信仰によって働き、愛のために労苦している」一人ひとりが主にあってつながり、祈り合い、主イエス・キリストにある希望をもって忍耐している事が、キリストの教会の恵みや喜びの証しとして立てられていくのではないでしょうか、と申しました。

 

先週の再開された最初の祈祷会に出席なさったある方が、この2か月間教会に集うことができないことを通して「忍耐と希望について学ぶ機会となった。又、自分は一人ではない、支え合い、祈り合う関係があることはどんなに大きな支えや慰めになるかを再確認した」とおっしゃっていたことが心に留まりました。

労苦や困難も決して無駄ではない。無駄でないどころか「生きて働かれる神の言葉」が私たちのうちにも現に働いているという証しとなるのですね。

益々主にある交わりが、昨今の困難な状況の中でゆたかにされていくように祈り努めたいものです。

 

さて、パウロはまた「神の言葉の働き」について7節以降で次のように書き記します。

「わたしたちは、キリストの使徒としての権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。」

パウロは使徒という立場を得ていましたので、その権威によって指導者として立つこともできたわけです。実際テサロニケ教会に哲学を持ち込む者や雄弁家が権威的にふるまったりすることもあったようです。

けれどもパウロは使徒的権威を用いず、かえってテサロニケの信徒たちの間で「幼子」のようになったのです。

4節のところで、パウロは「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくために」と、神に対する純真な思いを語っています。

それは、主イエスの福音をまあ幼子のように一途に実直に語り続けたということです。

ユニークなのはパウロが幼子のたとえの後に、母親、さらに父親をたとえに用いているのですね。

「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたは私たちにとって愛する者となったからです。」

「愛する者となった」この「愛」は、原語でアガペー、神の愛ですから、まさしく神の言葉の力によって生じた愛なのです。

神の言葉の第二の働き、それは人の教えや雄弁家とは異なる神の愛によって人を愛する働きであります。

 

さらに、パウロは「神の言葉の働き」について、11節以降「わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。」

パウロは父親の気持ちで、神の御心にそって歩むための励まし、慰め、強い勧めを愛をもってなしたのです。

もう言うまでもなくその母の愛、父の愛は人から出たものではなく、アガペーの愛、すなわち神の愛によるものです。

私どもも又、その神の愛から働く信仰によって互いに励まし、慰め、勧めをなす関係を築いていくものでありたいと願います。

 

最後に、神の言葉がテサロニケの信徒たちの中にパウロが絶賛するほど生き生きと働くようになったのは、パウロの宣教の言葉を聞いて信じ受け入れたという事によります。

単にパウロが一方的に宣教の言葉を語っても、テサロニケの信徒たちが心を開いてそれに耳を傾け、神の言葉として受け入れて信じなければ、その信仰がテサロニケの信徒の生活の中に現に働くということはなかったのです。

13節の「信じているあなたがたの中に現に働いている」の、「働く」という原語はエネルゲイタイ、エネルギーの語源ですが。そのように神の言葉を信じて生きる交わりの中に、神の愛が爆発的力となって働かれるということです。

それは具体的には先週1章6-10節で読みましたように、ひどい苦しみの中でも聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れたパウロに、何より主に倣う者となり、すべての信徒の模範となるような実を結んでいったということです。

 

礼拝も信仰の生活も宣教者が一方的に御言葉を語るものではなく、一人ひとりがそれに心を開いて聞き、神の言葉として受け入れ、分かち合われていく中で、神の生きた力となって働かれるということであります。

使徒パウロは宣教するにあたり、「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくために」(4節)と書き記しました。

生ける神の言葉、救い主イエス・キリストこそが語られ、聞かれ、現に私たちの間に力を発揮してお働きくださるように、宣教のため、又それを共に聞くお一人おひとりのためにお祈りください。

今日から始まりました新しい週の一日一日も「神に喜んでいただくために」、愛と感謝をもって一切が捧げられていくように、神の言葉とそのお働きに共に与ってまいりましょう。

 

祈ります。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

主なる神さま、今日こうして主の日の礼拝に私たちを招き導いてくださり、ありがとうございます。

あなたの御言葉は愛の力であり、あなたを信じる者のうちに生きてお働きくださるメッセージを今日頂きました。

今私たちを取り巻く世界、社会はほんとうに先行きが見えず、不安と恐れに満ちていますが。どうか、いのちの御言葉である主イエス・キリストに聴き従い、益々主への信仰によって希望を見出し、主の愛によって互いに愛し合い、慰め支え合う世界となりますようお導きください。今日の礼拝を感謝して、主の御名で祈ります。

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キリストに倣い、信じ愛し望む

2020-06-08 09:39:57 | メッセージ

礼拝宣教  テサロニケ一1・1~10 

4月12日から大阪教会での主日礼拝が8回・約二ヶ月間も休会となり、その間イースターやペンテコステの礼拝を集まって行うことがきませんでした。まったく私も、みなさんも初めての経験であったかと存じます。
しかし、今日こうして主日礼拝の再開へと導かれましたことを、主に感謝します。
みなさんも礼拝再開を祈り、どんなにか待ち望んでおられた日々であったことでしょう。
教会に集まり礼拝や祈祷会を共にもつことが生活の一部となっていた私たちですが。
それがままならないこの8週間という日々を通して、主からどのようなメッセージを受け取られたでしょうか。当然のように思っていたそのことが、そうならなくなった時に、それが如何に尊く大きな恵みであることに改めて気づかされます。同時に自分にとっての信仰の本質とは何なのかという問いに直面した方もおられるでしょう。そういう中で迎えた先週のペンテコステでしたが。
聖霊降臨に際し、イエスさまの弟子たちや婦人たち、イエスの母や兄弟たちが一つになって集まり、心を合わせて熱心に祈り続けていたところに聖霊が降り、そこから偉大な神の業が彼らを通して語られていった、ということです。
私たちはこの大阪教会に集まって礼拝することができませんでしたが、その期間、主に結ばれるきょうだいしまい一人ひとりをおぼえ、また共に社会の状況をおぼえつつ主にとりなし、祈り続けてきました。そうして今日の主の日の礼拝を迎えることが叶い、感謝に満ちあふれています。
今年度の私たち教会のテーマ憶えておられますか。「心を一つにして」です。
どのような状況下にありましても、引き続き主にあって心を一つにして祈り、支え励まし合いつつ、共に主イエスにあって歩んでまいりたいと願います。その主にあるところの交わりの中に、今日の5節にもあります、神は私たちをゆたかに恵み支えられる「力と、聖霊と、強い確信」とをお与えくださるのです。

さて、本日から7月末までテサロニケの信徒への手紙を礼拝で読んでいきます。
この手紙は、新約聖書の中に納められた使徒パウロの書簡の中で最も古いものとされており、紀元50年頃、パウロがコリントに滞在していた時に書き記されたものです。
当時のテサロニケは、ローマ帝国の支配下にあったギリシャのマケドニアの首都、ローマと東方を結ぶ主要な政治、商業、軍事の中心地として栄えていました。
パウロ一行がテサロニケで福音を伝えたのは、第2伝道旅行の途上でした。
使徒言行録17章によると、テサロニケにあるユダヤ人の会堂で3回の安息日にわたり聖書を解き明かして福音を伝えたとあります。
そのテサロニケで、幾人かのユダヤ人、神を敬う多くのギリシャ人とその地方の有力な多くの女性たちが福音を信じ、回心して、クリスチャンとなったのです。
こうしてパウロらの働きとその新生した信徒たちを中心に、テサロニケの教会は立てあげられます。
まあ、このマケドニア州の主要都市テサロニケの地に福音が届けられることによって、さらにアカイア州、やがてギリシア全土に福音が拡がっていったのです。
テサロニケの教会はそういう意味で、ギリシャ全土への福音宣教のためにゆたかに用いられたのです。その信徒たちの生きた信仰の証は、「ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信」に満ちたものとなって、全ギリシャ地方を行き巡ることとなるのです。

まず、この手紙の書き出しは「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ」との挨拶から始まっています。
それは、パウロたちとテサロニケ教会が信頼に満ちた関係であったということを物語っています。
ここで注目すべきは、信仰の種を蒔いたパウロもテサロニケの信徒たちも、父なる神と主イエス・キリストにあって互いに結ばれている、ということです。
パウロはその教会の設立に貢献した人であります。しかし彼はそれを誇ったりすることなく、テサロニケの教会の信徒たちは、共に主に結ばれた福音の同労者であると、言い表しているのです。私たちは誰もがみな主に結ばれ、主と人に仕える神の福音の同労者なのです。
パウロは続けてテサロニケの信徒こう書き記します。
「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。」
パウロは遠く離れた地よりテサロニケの教会の信徒たち一人ひとりの顔を思い浮かべながらとりなし、祈り続けていました。
5章に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい」と書かれているとおり、それは時折思い出したように気まぐれに祈るのではなく、絶えずテサロニケの教会の信徒たちのことを主イエスに結ばれる者としておぼえ、祈り続けていたのです。

先にお話ししましたように、私たちも8週間という礼拝に集うことのできなかった間、主に結ばれた一人ひとりを覚え、主にとりなし、祈り続けてきました。
主が私たちのことを覚えてくださり、今日の礼拝の再開へと守り導いてくださったことを心から感謝します。

さて、パウロがテサロニケの教会のことを祈る時、絶えず思い起こし、神に感謝していることがありました。
それは「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐している」ということでした。
「信仰をもって各々働きをなし」「愛のために労苦をいとわず」「主イエス・キリストに対する希望をもって忍耐している」パウロは、これらテサロニケの教会のきょうだいしまいの信仰をいつも思い起こして、喜びと共に、主に感謝を捧げていたのです。

先週バプテスト連盟へようやく昨年度の教勢報告をまとめ送ることができましたが。
教会の恵みや喜びは、単に活気があるとか教会に人が増えたかというもので決して計ることができるものではないように思います。かえって困難があっても、課題があっても「信仰によって働き、愛のために労苦している」一人ひとりが主にあってつながり、祈り合い、「主イエス・キリストにある希望をもって忍耐している」事がキリストの教会の証しとして立てられていくのではないでしょうか。
使徒パウロが神に感謝したというこのようなテサロニケ教会の信仰の背後には、教会の信徒たちを襲うひどい苦しみ、艱難があったということです。
それは先にも触れましたように、テサロニケの教会はユダヤ人もいれば、ギリシャ人もおりました。ユダヤ教からクリスチャンとなったユダヤ人たちは、一部の原理主義的ユダヤ教徒たちから「ねたみ」をかい、妨害があったのです(使徒言行録17章)。
又、テサロニケ教会のギリシャ人の信徒たちは、ギリシャ社会の同胞からの非難や排除や攻撃に遭っていたと考えられます。偶像に満ちた世界からクリスチャンとなることには大きな闘いがあったのですね。
けれども、その艱難の中でテサロニケの教会は主にあってユダヤ人もギリシャ人もなく、心を一つにして、「信仰による働き」「愛のための労苦」「主イエス・キリストに対する希望から生まれる忍耐」と、それらの実をゆたかに結んでいくのです。

ところで、テサロニケの教会の信徒たちの実のある信仰は、2つのことに起因していることが読み取れます。
それは4節にあるように、「神に愛され」「神に選ばれている」という事実であります。
その根拠は、パウロがテサロニケの人々に伝えた福音が、言葉だけによるものではなく「力と、聖霊と、強い確信によるもの」だったところにあります。
神の選び、その祝福は、旧約聖書の時代においてはユダヤ人だけに限定されていました。
しかし預言されてきたとおり、時満ちて、主イエス・キリストによる救いと祝福の道が、ユダヤ以外のすべての人にも開かれたのです。
それは人を分け隔てるものではありません。人の計画、人の思いではなく、神の計画と聖霊のお働きによって実現されていくのです。
パウロ自身、聖霊による幻に導かれてマケドニア州に入り、福音を伝えるようになったのでした(使徒16章)。だからパウロはユダヤ人以外の異邦人のテサロニケの人々も神に愛され、神に選ばれている存在であることを強く確信していたのです。

又、神がテサロニケの人々のうちにそのように救いをもたらされたのは、彼らに何か優れた要因があったからというのではありません。
彼らは福音を知らなかった以前、唯虚しく偶像を礼拝していたのです。そんな物質的世界に心奪われ囚われていた彼らが、真に解放され、救われるため、神はただ愛と恵みをもって実現してくださったのです。
テサロニケの教会の信徒たちは、その素晴らしい神の救い、イエス・キリストの福音を受け入れて、自らも「力と、聖霊と、強い確信」に満たされる経験をするのです。
私たちも又、唯、主の力と聖霊のお働きによって救いに与ったという確信によって、神に愛され、神に選ばれていることを互いに喜び合うものとされています。

パウロはこのテサロニケの教会の報告をテモテから受けての事だったと想像しますが。
次のように書き記します。
「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。」
パウロがここで「わたしたちに倣う者になりなさい」といっていますが、それは何も自信過剰でこう語ったのではありません。
ここに「主に倣う者となり」とも書き記されていますように、パウロ自身、主イエスの示された神の愛といつくしみ、その言葉と行いに倣う者として生きていたのです。

パウロをはじめは使徒たちのそのような信仰の姿勢は、テサロニケの教会の信徒たちに大きな影響を与える証しとなったことでしょう。パウロに倣い、キリストに倣う者とされたテサロニケの教会の信徒たちは、そうして「マケドニア州とアカイヤ州とギリシア全土にいるすべての信者の模範となるに至った」と、パウロは伝えています。
この模範というのは「型」ということです。つまりキリストの姿を帯びるという事です。
私たちクリスチャンは、それぞれこのキリストの似姿とされていくということですね。
キリストの香りを放つ私、主の教会とされてまいりましょう。
このようなテサロニケの信徒たちを通して、主イエスにある信仰は破竹の勢いでギリシャの町々に広まっていきます。
なかでも際立っていたのは、彼らが偶像から立ち返ったことです。
ギリシャといえば、パウロがその都市を訪れた時に、市中で目にしたのがおびただしい数の偶像です。それはこのテサロニケにおいても同様でした。
けれどもパウロから福音を聞いて、信じた者は空しい偶像から離れて神に立ち帰り、活ける真の神に仕え、テサロニケ教会の基礎を築くのです。
テサロニケの信徒たちの主イエスに倣う証の生活が、テサロニケからマケドニアとアカイア地方へ、それがギリシャ全土の町々にも伝わり、拡がっていくのです。
まさに、「力と、聖霊と、強い確信」によって神の救いの計画が実現していくのです。

偶像といえば何も石造や木像だけを指すものではありません。それは主なる神よりも大切な拠り所とすることです。
たとえば財産、名誉、地位、立場、主義主張、人物などを心の最高位に据えるなら、これらも偶像に変わりありません。
今のこの世界的状況下において、これまでの私たちを取り巻く社会が如何にそのような偶像を取り込んで、神と人、人と人との関係性を蔑ろにし、蝕んできたかが露わになっています。
まさに神に造られた人間が主を畏れ、主に立ち帰り、主に倣って生きるところに本来の神と人の「恵みと平和」(1節)が実現する、と信じます。
困難なこの状況の中にあっても、主イエス・キリストにある信仰、希望、愛(コリント一13章)は変わることはありません。
この福音を日々の生活において、具体的に分かち合って生きる者とされていきましょう。

祈ります。
「愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」
慈愛の神さま、今日8週間の時を経て、礼拝の再開が導かれました。感謝します。
私たちにとって、偶像の満ち溢れる世にあって、活ける真の主であられるあなたに礼拝を捧げること、又、共に集まってあなたを礼拝できますことは、私たちの生きる力、喜び、希望です。
現況下において、世界、又国内においてこれまで抱えていた様々な問題が露わになってきています。
あなたはすべてをご存じであり、すべてを治めておられます。
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」
私たちがどうか世にあってあなたの子どもとして御心に聴き従って生きることができるよう導いてください。
主の御名によって祈ります。

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今年も咲きました琉球朝顔

2020-06-06 08:18:05 | 教会案内

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