宣教 出エジプト記16:1-32
大いなる主の御業によって葦の海を渡りエジプト軍から逃れた民は、荒れ野を三日の間進みますが、水を得ることができません。ようやく湖に辿り着いたものの、その水は苦くて飲むことができず、民はモーセに向かって不平を言うのでありますが。主から与えられた一本の木をモーセが湖に投げ込むと、水が甘くなり民はそれを飲むことができたのであります。
この個所はその出来事から2カ月以上は経っていたようですが、民はここにきて食べ物が底をつき、空腹のあまりまたまた指導者のモーセとアロンに3節、「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と、不平不満を述べたてるのです。先週の個所の背水の陣に追い込まれた時と同じことを言うんですね。
民はここで、指導者のモーセとアロンに向かって不平を言うのでありますが、それは実は主に対して不平を言っているのであります。不平不満だらけの民の心からは、もはやあの2つに分かれた海を渡り奇跡を目の当たりにした高揚感も、主への感謝も消え去っていました。日々の思うようにいかぬ生活の苦しさと飢え渇きに不満が爆発し、「こんなことなら従って来なければよかった」と、振り出しに戻ってしまうような不信仰の言葉を口にするのです。
過酷な荒れ野での旅路は本当に厳しく大変なことだったでしょう。現代のように自動車に乗ってある程度整備された荒れ野を横断でき、途中で飲食物を販売している売店があるというような状況とは全く違います。お年寄りや乳飲み子、小さな子どもたちも抱えていたことでしょう。病人や体の身体の不自由な人たちもいたでしょう。又家畜を率いながらの大移動です。日中は炎天下、深夜や早朝は冷え込みの厳しい荒れ野で野宿生活をし、わずかな水や食料で飢え渇きをしのぎながら、来る日も来る日も旅を続ける。私どもには想像もつかない過酷な道のりであったことでしょう。ある意味、イスラエルの民が不平を言い出すその気持ちも分かる気がいたします。
ただ、ここで不平を言ったとは書かれているのですが、彼らが「主に向かって祈った。切に願った」などとは、一言も書かれていないんですね。もちろん彼らは祈りもしたでしょうが、その信仰の思いよりも、肉の弱さ、不平不満の方が大きくまさっていたということでしょう。
にも拘らず主はそのような救いのみ業を忘れ、感謝と喜びを失い、不平を言い続ける民の不平を退けたりなさらず、お聞きになるのです。それはモーセが、「主は不平を聞かれた」と、何度も繰り返し語っているとおりです。
その主は単に民の不平を聞かれるだけでなく、その民の必要を満たすと約束してくだいます。4節「見よ、わたしはあなたのために、天からパンを降らせる。」5節「六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている」 12節「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。」
そして13節以降にあるとおり、民の飢え渇きを私が満たすとおっしゃられた主のみ約束は、そのとおり現実のものとなります。
この天からのパン、マナについて、神学校の授業でならいました前西南学院大学神学部で聖書考古学がご専門であられた関谷定夫先生はご著書の中で、「シナイ山から車で2時間ほど北西に行ったところに砂漠の平地一面にマナギョウリュウと呼ばれる一種のタマリスクの植物林があり、5月頃にこの木の小枝の先に貝殻虫が寄生し、新陳代謝のバランスのために栄養となる樹液を吸い、取り過ぎた過剰炭水化物が排泄され、それが夜中の冷気に触れて固形化し、朝早く地に落ちる。これがマナの正体で、甘くておいしいもので、遊牧民の貴重な食料とされている」と解説されていました。聖書にはマナを粉にしてパン菓子のように焼いたり、煮たりしたとありますが、一度食べてみたいですね。マナは荒唐無稽なものではなく、天地万物の造り主なる神からの贈りものといえます。
さて、民の不平を聞かれ、天からウズラとマナを与えられた主は、民に次のように命じます。16節「あなたたちはそれぞれに必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。」
その主のみ言葉に対して民はどうだったでしょうか?
民は主の命じられたとおりにするのですが、その中の何人かは、「翌朝まで残しておいてはならない」という主の言葉に従わず、翌朝まで残しておいたところ虫がついて臭くなってしてしまったというのです。
つまり主のおっしゃった必要以上の分をとって蓄えたがゆえに、それは翌日腐ってしまったんですね。それで、彼らは朝毎にそれぞれ必要な分を集めたとあります。又、「六日目になると、彼らは二倍の量を集めた。」とあります。七日目は安息日だから野には何もないから、二日分を集めて蓄えることができるということですね。しかし何人かはその主の言葉に反して7日目の安息日に野に出て行くのですが、何も見つからなかったとあります。
ここを読みますと、彼らの生活の糧については「主がすべての主権をもっておられる」ということであります。そして、それが日毎彼らにとって丁度必要な分であったということがわかります。それは私どもにとりましても同様であります。まず私どもが主を第一としていく時に、私どものすべての必要は満たされていくということであります。私どもの命、健康、経済、日々の糧も、すべて主が治められ、私どもを養ってくださいます。
主は、4節で「彼らがわたしの指示どおりにするかどうか試す」。又12節で「こうして、わたしがあなたたちの神、主であるということを知るようになる」とおっしゃっています。
しかし民の中の幾人かは、主に聞き従わず、自分の判断でマナを取っておいたり、安息日に集めに行ったりするんですね。
先の見えない不安と恐れ、思い煩いによって、主の言葉に信頼し、従う事ができなかったのです。主が必ずあなたに必要な分を与え、養うというみ約束を信じることができなかったのであります。
主イエスは、マタイ6:33―34で「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と、おっしゃいました。
人間は物や食べ物がないと生きられませんが。しかしそれがあれば思い煩いがなくなるというものではありません。確かに現代世界の南北問題や格差社会において、貧しい者にとっては本当に食糧が不足し、富裕層においては物がありあまり無駄にされているという矛盾が生じています。私どもは少なくとも今日明日飢え死にするような状態とは言えません。けれども今日の不安な時代にあって、備えや将来への計画は必要でありましょう。
しかしその多くは、今日一日に必要な分だけでなく、明日、明後日、その先、老後のこと、はたまた遺産についてまで、安心や保証を得ようと、より多くの安心材料を人は求め、そして思い煩うのです。そういった蓄えが人の思い煩いを解消してくれるかといえば、決してそうではないのです。
箴言に次のような言葉があります。30:7-9「二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず わたしのために定められたパンで わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り 主など何ものか、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません。」
今日は、主の試みと養いについてみ言葉を戴きました。このみ言葉に従っていきましょう。
最後に、本日の「主が民の不平を聞かれた」ということについて、もう一言述べて終わります。人は厳しい状況に置かれたり、思いがけず突如としてこの身に襲ってくるような出来事に、不平や不満、つぶやきをこぼさない人がいるでしょうか。こぼさなくとも心に持たない人などいるでしょうか。それは人間の弱さゆえの性質といえます。それは主を信じる私どもであっても、その苦難の意味、主の御心を計り知ることができず苦悩することがございます。そのような時、それを打ち明けられる場所というのでしょうか。それに耳を傾け、聞いてくれる場がないというのは本当にしんどく、不幸なことであります。
聖書教育誌の青年成人科のところに、「教会には行けないけども、聖書を読み、祈りを大切にしている方は少なくないと思います。そのような方も心のどこかでは教会生活に復帰したいと願っているのではないでしょうか。健全な教会生活を続けて行くためには共同体性が大切です」と書かれていました。
この健全な共同体性という事ですが、その内実がとても大事だと思うのです。
主にあって共に聞き合い、祈り執り成し合うことが私どもには必要です。独りよがりの考え方に陥っていかないためにもそれは必要なのです。教会は、互いに、共に信仰によって培われ、形成される主の共同体なのです。教会に集う一人ひとりは聖人ではありません。決してきれいごとばかりとは言えないでしょう。みな罪深く、弱い者であり、人間関係に疲れる事もあります。けれども、主が備え与えられた教会、主の共同体をあきらめ、投げ出すのは、「エジプトにいた方がましだった」と不平を言った人々と同様であります。
私どもは主が導かれたこの教会で喜びを共に見出し、時には忍耐強く共に信仰の旅を続けることで、主の民として養われてゆくのです。この私たちの交わりの中心に、主がおられ、試みの中で、私どもを養い、豊かに成長させてくださると、信じます。
ヨハネ福音書6章35節を読んで本日の宣教を閉じます。
イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
大いなる主の御業によって葦の海を渡りエジプト軍から逃れた民は、荒れ野を三日の間進みますが、水を得ることができません。ようやく湖に辿り着いたものの、その水は苦くて飲むことができず、民はモーセに向かって不平を言うのでありますが。主から与えられた一本の木をモーセが湖に投げ込むと、水が甘くなり民はそれを飲むことができたのであります。
この個所はその出来事から2カ月以上は経っていたようですが、民はここにきて食べ物が底をつき、空腹のあまりまたまた指導者のモーセとアロンに3節、「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と、不平不満を述べたてるのです。先週の個所の背水の陣に追い込まれた時と同じことを言うんですね。
民はここで、指導者のモーセとアロンに向かって不平を言うのでありますが、それは実は主に対して不平を言っているのであります。不平不満だらけの民の心からは、もはやあの2つに分かれた海を渡り奇跡を目の当たりにした高揚感も、主への感謝も消え去っていました。日々の思うようにいかぬ生活の苦しさと飢え渇きに不満が爆発し、「こんなことなら従って来なければよかった」と、振り出しに戻ってしまうような不信仰の言葉を口にするのです。
過酷な荒れ野での旅路は本当に厳しく大変なことだったでしょう。現代のように自動車に乗ってある程度整備された荒れ野を横断でき、途中で飲食物を販売している売店があるというような状況とは全く違います。お年寄りや乳飲み子、小さな子どもたちも抱えていたことでしょう。病人や体の身体の不自由な人たちもいたでしょう。又家畜を率いながらの大移動です。日中は炎天下、深夜や早朝は冷え込みの厳しい荒れ野で野宿生活をし、わずかな水や食料で飢え渇きをしのぎながら、来る日も来る日も旅を続ける。私どもには想像もつかない過酷な道のりであったことでしょう。ある意味、イスラエルの民が不平を言い出すその気持ちも分かる気がいたします。
ただ、ここで不平を言ったとは書かれているのですが、彼らが「主に向かって祈った。切に願った」などとは、一言も書かれていないんですね。もちろん彼らは祈りもしたでしょうが、その信仰の思いよりも、肉の弱さ、不平不満の方が大きくまさっていたということでしょう。
にも拘らず主はそのような救いのみ業を忘れ、感謝と喜びを失い、不平を言い続ける民の不平を退けたりなさらず、お聞きになるのです。それはモーセが、「主は不平を聞かれた」と、何度も繰り返し語っているとおりです。
その主は単に民の不平を聞かれるだけでなく、その民の必要を満たすと約束してくだいます。4節「見よ、わたしはあなたのために、天からパンを降らせる。」5節「六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている」 12節「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。」
そして13節以降にあるとおり、民の飢え渇きを私が満たすとおっしゃられた主のみ約束は、そのとおり現実のものとなります。
この天からのパン、マナについて、神学校の授業でならいました前西南学院大学神学部で聖書考古学がご専門であられた関谷定夫先生はご著書の中で、「シナイ山から車で2時間ほど北西に行ったところに砂漠の平地一面にマナギョウリュウと呼ばれる一種のタマリスクの植物林があり、5月頃にこの木の小枝の先に貝殻虫が寄生し、新陳代謝のバランスのために栄養となる樹液を吸い、取り過ぎた過剰炭水化物が排泄され、それが夜中の冷気に触れて固形化し、朝早く地に落ちる。これがマナの正体で、甘くておいしいもので、遊牧民の貴重な食料とされている」と解説されていました。聖書にはマナを粉にしてパン菓子のように焼いたり、煮たりしたとありますが、一度食べてみたいですね。マナは荒唐無稽なものではなく、天地万物の造り主なる神からの贈りものといえます。
さて、民の不平を聞かれ、天からウズラとマナを与えられた主は、民に次のように命じます。16節「あなたたちはそれぞれに必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。」
その主のみ言葉に対して民はどうだったでしょうか?
民は主の命じられたとおりにするのですが、その中の何人かは、「翌朝まで残しておいてはならない」という主の言葉に従わず、翌朝まで残しておいたところ虫がついて臭くなってしてしまったというのです。
つまり主のおっしゃった必要以上の分をとって蓄えたがゆえに、それは翌日腐ってしまったんですね。それで、彼らは朝毎にそれぞれ必要な分を集めたとあります。又、「六日目になると、彼らは二倍の量を集めた。」とあります。七日目は安息日だから野には何もないから、二日分を集めて蓄えることができるということですね。しかし何人かはその主の言葉に反して7日目の安息日に野に出て行くのですが、何も見つからなかったとあります。
ここを読みますと、彼らの生活の糧については「主がすべての主権をもっておられる」ということであります。そして、それが日毎彼らにとって丁度必要な分であったということがわかります。それは私どもにとりましても同様であります。まず私どもが主を第一としていく時に、私どものすべての必要は満たされていくということであります。私どもの命、健康、経済、日々の糧も、すべて主が治められ、私どもを養ってくださいます。
主は、4節で「彼らがわたしの指示どおりにするかどうか試す」。又12節で「こうして、わたしがあなたたちの神、主であるということを知るようになる」とおっしゃっています。
しかし民の中の幾人かは、主に聞き従わず、自分の判断でマナを取っておいたり、安息日に集めに行ったりするんですね。
先の見えない不安と恐れ、思い煩いによって、主の言葉に信頼し、従う事ができなかったのです。主が必ずあなたに必要な分を与え、養うというみ約束を信じることができなかったのであります。
主イエスは、マタイ6:33―34で「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と、おっしゃいました。
人間は物や食べ物がないと生きられませんが。しかしそれがあれば思い煩いがなくなるというものではありません。確かに現代世界の南北問題や格差社会において、貧しい者にとっては本当に食糧が不足し、富裕層においては物がありあまり無駄にされているという矛盾が生じています。私どもは少なくとも今日明日飢え死にするような状態とは言えません。けれども今日の不安な時代にあって、備えや将来への計画は必要でありましょう。
しかしその多くは、今日一日に必要な分だけでなく、明日、明後日、その先、老後のこと、はたまた遺産についてまで、安心や保証を得ようと、より多くの安心材料を人は求め、そして思い煩うのです。そういった蓄えが人の思い煩いを解消してくれるかといえば、決してそうではないのです。
箴言に次のような言葉があります。30:7-9「二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず わたしのために定められたパンで わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り 主など何ものか、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません。」
今日は、主の試みと養いについてみ言葉を戴きました。このみ言葉に従っていきましょう。
最後に、本日の「主が民の不平を聞かれた」ということについて、もう一言述べて終わります。人は厳しい状況に置かれたり、思いがけず突如としてこの身に襲ってくるような出来事に、不平や不満、つぶやきをこぼさない人がいるでしょうか。こぼさなくとも心に持たない人などいるでしょうか。それは人間の弱さゆえの性質といえます。それは主を信じる私どもであっても、その苦難の意味、主の御心を計り知ることができず苦悩することがございます。そのような時、それを打ち明けられる場所というのでしょうか。それに耳を傾け、聞いてくれる場がないというのは本当にしんどく、不幸なことであります。
聖書教育誌の青年成人科のところに、「教会には行けないけども、聖書を読み、祈りを大切にしている方は少なくないと思います。そのような方も心のどこかでは教会生活に復帰したいと願っているのではないでしょうか。健全な教会生活を続けて行くためには共同体性が大切です」と書かれていました。
この健全な共同体性という事ですが、その内実がとても大事だと思うのです。
主にあって共に聞き合い、祈り執り成し合うことが私どもには必要です。独りよがりの考え方に陥っていかないためにもそれは必要なのです。教会は、互いに、共に信仰によって培われ、形成される主の共同体なのです。教会に集う一人ひとりは聖人ではありません。決してきれいごとばかりとは言えないでしょう。みな罪深く、弱い者であり、人間関係に疲れる事もあります。けれども、主が備え与えられた教会、主の共同体をあきらめ、投げ出すのは、「エジプトにいた方がましだった」と不平を言った人々と同様であります。
私どもは主が導かれたこの教会で喜びを共に見出し、時には忍耐強く共に信仰の旅を続けることで、主の民として養われてゆくのです。この私たちの交わりの中心に、主がおられ、試みの中で、私どもを養い、豊かに成長させてくださると、信じます。
ヨハネ福音書6章35節を読んで本日の宣教を閉じます。
イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」