日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神が約束されたとおりに

2018-07-29 15:12:58 | メッセージ

賛美礼拝メッセージ 創世記21章1~8節 

 

今日は青年主催の賛美礼拝としてお捧げしていますが。青年たちの賛美、会衆賛美、又Aさんのオリジナルの賛美も加わり、様々で沢山の賛美を共に主に捧げることができほんとうにうれしいです。

 

「神が約束されたとおりに」

本日箇所であります創世記21章の「イサク誕生の記事」は、1節に「主は、約束されたとおり」、2節に「神が約束されていた時期」、と記されているように、前もって神さまがアブラハムに約束されたとおり、その定められた時にサラを通してイサクが生まれました。

この主のお約束というのは、17章16節で、主がアブラハムに「わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る」というものでしたが、この主のお言葉に、アブラハムはひれ伏しながらも、ひそかに笑って「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」とつぶやきます。

すると主は19節で、「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」とおっしゃるのですね。

また18章10節では、主の使いが再び、「あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」と言うのを聞いて、サラもひそかに笑います。

けれどもその1年後サラは主のお約束どおり男の子を出産するのです。

 

神が約束された時については、それは人間の理性や頭で考えられるものではなく、万事を益とされる神さまのご計画のもとで遂行されるものなのです。

伝道の書3章11節に、口語訳では「神のなされることは皆その時にかなって美しい」。新共同訳では「神はすべてを時宜にかなうように造られた」とございますように、神は最善の時と場所をご存じであり、それは決して遅れるようなたぐいのものではありません。それは私たち人間の側が決めることのできない神さまの時があるということを私たちは覚えてなければなりません。だからこそ、その主なる神さまへの信頼と祈りが大切なのであります。

 

「笑い(喜び)を共に」

さて、イサクを授かった時、聖書はサラが「笑った」と伝えます。

6節「サラは言った。『神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう』」。

これは、主がアブラムに「その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい」といわれたその名、イサクの語呂合わせといいますか、駄洒落ということができます。まあそれほどサラの気持ちが高揚していたのかな、と想像しますが。

先に申しましたように、サラは前の18章でも笑っています。

主の使いが来年サラに男の子が生まれるとアブラハムに伝えた時、それを入り口のかげで聞いたサラが「自分も夫も年老いている」ということを思い、「ひそかに笑った」と書かれています。

その笑いは「そんなことはあり得ない」という自嘲的笑い、嘲笑的笑いでした。それは又「そんな今さら」というようなどこかへそ曲がりな笑いであったといえるでしょう。

そして主が「なぜ笑ったのか。主に不可能なことがあろうか」とおっしゃったように、サラの笑いは主に疑いを抱いた嘲笑でありましたが。今日の箇所のサラの笑いは同じ笑いであっても、その中身が全く異なっています。

それはまさに21章1節にあるように、「主は、約束されたとおり・・・顧みられた」という「私は主に決して忘れられていなかった」「主は私をおぼえていて下さるのだ」という魂の底から湧きあふれる喜び、そういう笑いなんですね。

 

今年度の大阪教会のテーマは「喜び・祈り・感謝」でありますが。私共の「喜び」は、このサラと同様、「私は神に、おぼえられている」「私は神に、愛され、かけがえのない存在とされている」という確信にあるのではないでしょうか。

私たちのイエス・キリストによる救いの約束が、私の人生に実現している、との確信こそ私たちの喜びの、又笑いの源なんですね。それは願いがかなうかかなわないかという次元を超えて、私たちの魂を満たし得る神の力であります。

 

さて、サラが「聞く者は、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」といっていますが。

これは私に示された思いですが。先日「こどもの産めない人は生産性がない」という某女性議員の心無い発言が世間を揺るがす問題になっていますが。世にはサラのように世の冷たい視線や暗黙の空気の中でおびえ、不安を抱えている方々がおられます。こどもがいる、いないはそれぞれの状況や事情があるということすらわかっておられないのが情けなく、議員は逆にそういった人々の側に立って養護する立場にあるのに、真逆の小さく弱くされた人々を追いやり、切り捨すててしまう行為そのものに他ならないことに心が痛みます。

いずれにしましても、ここでサラが「聞く者は皆」と言ったのは、自分のように世にあって不安や恐れを抱いている人たち、世にあって小さく弱い立場におかれた人たちに向けられた共鳴の連帯を表明したものともとれます。

サラは、その人々に対しても、絶望と闇とを打ち破って私に笑いを与えてくださった主への喜びを共にしてくれるでしょう、と言っているのですね。

これは、それまで閉ざされていた彼女の心が大きく「他者に向かって開かれた」ことを表しています。

「神は私を忘れておられるのか」というような失望感は、どこか周りの人たちに対しても壁を作ってしまうことになっていたのかも知れません。それが、神のいつくしみ、神の顧みを知り、実感した時、サラは主の恵みを証しし、喜びを共にする人へと変えられるのです。

絶望と闇とを打ち破って私に笑いを与えてくださる主への喜びの賛美を共にしてくれる人サラと同じように解放と救いとを切に求めている人たちです。

 

昨日、この賛美礼拝のための練習が終った時、Yさんがその中の1曲が歌いにくく思えたので同じ曲で別の歌詞のついたものがありますよ、ともっていったそうです。

そうしたらHさんがその歌の中の「弱さを取りの除いてくださる」という歌詞の表現よりも、選んだ方の「弱さを力に変えてくださる」という歌詞の表現の方がいいよね、とAさんと話し合って決めた、と言われたそうで、Yさんも「そうだね!」とほんとうに思ったそうです。

私もその話を聞いて、「弱さの中でこそ、力は十分に発揮される」という聖書のお言葉を思い出しました。弱さを力に変えて下さる主、その賛美を、サラのように私共も又、共にしてまいりましょう。

 

「主はサラを顧みられた」

「自分は神さまに忘れられているのではないだろうか」という思いで日々を過ごしていたサラ。けれど神は「約束されたとおりに、自分を顧みてくださるお方」だと知った時、心の底からあふれる喜びをもって、主をほめたたえました。

私たちも、サラではないですが「自分は神に忘れられているんではないか」と思えるような時がないでしょうか。

しかしその後に、やっぱり神さまは私のことを覚えてくださり、導いてくださっておられたんだなあ、と思い知らされたようなご経験がないでしょうか。

それはたとえ、結果として自分の願い通りに事が進まなかったという時も、神さまは私にとっての最善の道を示し、導いてくださるお方なのです。

サラを顧みられた神さまは、私たちをも顧みてくださるお方であります。

唯、主のお約束に、その御救いを共に喜び合い、又主に応えて歩むために、この礼拝からそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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公演 マザーテレサの生涯をお話と音楽でたどる ご案内

2018-07-28 10:06:55 | 教会案内

  MOTHER TERESA

本当の愛~マザーテレサの生涯をお話と音楽でたどる~ 

 

日時 8月5日(日)

公演時間 16開演(開場15時半)

会場:日本バプテスト大阪教会 

入場料 2000円 こども小学生迄 1000円 

お問い合わせ・ご予約(事務局) ☏075-862ー2551

                 090-3940-6280

             メールアドレス onpana4u@yahoo.co.jp

主催  音譜の花束

 

会場には公共交通機関をご利用下さい。

尚、近隣に有料パーキングもございます。

 

出演者 吉村美穂(ソプラノ)

    立命館大学法学部卒業後、京都市立芸術大学音楽学部音楽専攻卒業。

    ウイーンに留学、グラーツ国立音楽大学(オーストリア)リート、

    オラトリオ科修了。ウィ-ンを拠点とするアーノルド・シェーンベルク

              合唱団員として、

    ウィ-ンフィルやベルリンフィルと世界各地でオペラやコンサート活動する。

    傍ら、ソリストとしても研鑽を積む。2006年に、

    クリスチャンシンガーとして活動開始。

    現在国内外のキリスト教会をはじめ、病院、教育機関、施設などで、

    賛美コンサートを開催している。CDを8枚オリジナル楽譜集を発売している。

 

    野田常喜(ピアノ)

    両親の影響を受け7才からキリスト教会で賛美歌やゴスペルの演奏を始める。

    大阪音楽大学ピアノ科卒業。岡山若い芽のコンサート入賞。

    なにわ芸術祭等出演。現在、クラッシック、ゴスペルを中心に演奏活動。

    レコーディング、アレンジ、ミュージカル作曲等も手掛け、

    多数の音楽家のサーポートに力を入れている。

    ジャンルを超えた音楽性と心深く語りかける瑞々しいピアノの音色には、

    定評がある。

   

    中沢旨宣(テノール)

    2016年より湖南地区(滋賀県)クリスマスミュージカルに出演。

    演技・歌・演出にも秀で、マザーテレサでは、準主役の神父役を熱演。

 

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限られた時

2018-07-22 20:11:56 | メッセージ

礼拝宣教 創世記19章15~29節 

 

本日は創世記19章からソドムとゴモラの火と硫黄による裁きと滅亡。又、そこでなされたロトの救出劇から御言葉に聞いていきたいと思います。

その中でも、なぜロトは裁きと滅びから逃れることができたのか、ということを重点的に見ていきたいと思います。

 

①  「主の憐み」

1節以降で、2人の御使いがソドムの町の状況を調査するためソドムを訪れるのであります。その調査は前回読んだ18章20節にあるように「ソドムとゴモラの罪は非常に重いと訴える叫びが実に大きく」、主が御もとに届いたその叫びのとおりかどうかを確認するため、主の御使いたちがお出でになったということです。

するとその時、町の門の所に座っていたロトが、この御使たちを立ち上がって迎え、地にひれ伏し、彼らを歓待したというのですね。

ここは少し不思議な気がします。なぜロトは一人、門の所に座っていたのか。又、なぜ主の御使いだとわかって引き留めたのか。それらは想像の域を出ませんが、ロトは罪の重いソドムの町とその人々に馴染めず一人門の外にたたずんでいたのかも知れません。又、肥沃な潤った土地での定住者としての生活は安定していても、心は虚しく飢え渇いていたのかも知れません。だからこそ主の訪れを敏感に感知できたのかも知れません。

そうして主の御使いをもてなしていたところ。その彼らが床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞってロトの家に押しかけ、取り囲んで「彼らをなぶりものにしてやる。ここに連れてこい」とわめきたて、ロトに迫って来たのです。ソドムの人たちも御使いを見て、ただならぬ人たちだと思ったようですが。何と自分たちの欲求を満足させるために「なぶりものにする」というんです。人間というのは堕落すると神への畏れを失うばかりか、自分の欲求のはけ口にまでしてしまう、というのはおぞましいことでありますが。それに対してロトは娘を差し出してまでも主の御使いに手を出さないようにと懇願します。

すると2人の御使いは戸口にいる男たちに、老若を問わず、目つぶしを食わせて難を逃れることができたのであります。

 

そのような緊迫した状況の中で2人の御使いはロトにこういうのです。

「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです」。

ソドムの町にはアブラハムが主に執り成した10人も正しい者がいなかったという事でありましょう。

しかし、もしあの時、ロトが門の前にいた主の御使い気づくことがなかったなら、ロトとその家族親族もソドム町の人々諸共滅ぼされてもおかしくなかったのです。何事にも時があります。

これを聞いたロトは娘の嫁いだ婿のところに行き、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促すのですが、婿たちは冗談だと思ったというのです。

彼らにはその町の状況、もっといえばその時代に対する危機感や憂いが無かったのです。その潤った地に安住し、どっぷりと浸り込んで心が鈍くなっていたので、いくら促され警告されても、その心に響かなかったのでありましょう。

 

さて15節、夜が明けるころ御使いたちはさらに強く、「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう」とロトをせきたてます。ところが、ロトはためらいます。

それは、もとの言葉では「時を引き延ばす」「ぐずぐずする」との意味なんです。

 

すると、二人の御使いではなく、何と「主が憐れんで、2人の御使いにロト、妻、2人の娘の手を取らせて町の外へ避難させた」、いわば強制退去させたというのです。ロトが自主避難したんじゃないのです。主自らロトを憐れまれ、御使いに手を引かせ町の外に連れ出されるのです。

 

主はさらに、ロトに「命がけで逃れよ後ろを振り返ってはいけない低地のどこにもとどまるな山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる」と言われます。

この4つの主が命令形で語られていることを行えば、滅びから救われる、と言われるのです。

ところがです。それに対してロトは、「主よ、できません。あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。御覧ください。あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さい町です。あそこへ逃げさせて下さい。・・・どうか、そこでわたしの命を救って下さい」と、主に願うのです。

 

13章のアブラハムとロトの別れの記事には、ロトがアブラハムと別れていくにあたって、ヨルダン川流域一帯のソドムからツォルに至る低地の、肥沃で主の園のように潤っていたそのような地に移り住むことを選ぶわけですが。彼は家族らと、その財産である家畜とそれを管理する者たちと共にその地に移り住んで、定住者として安定した日々を過ごしていたのです。ですから再び先行きの見えない遊牧民の天幕に暮らすような生活に戻ることには、ためらいがあったのではないでしょうか。

ロトは主に対して「山まで逃げ延びることができません。小さい町・ツォルなら逃げて行けると思います」と言ったのは、ロトの心に山まで逃げるよりは、まだソドムに近い小さい町・肥沃な地に逃げ延びれば、今迄の生活に近い日常が送れるのではないか、という考えがあったんだと思うのです。

それは、主の言葉にそのまま従うことよりも、どこか自分の考えや生活の便宜性を優先させていた、と言えるのかも知れません。

 

そのようなロトの申し出に対して、主は言われます。

「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさない。あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから」。

 

まあここを読みますと、主は駄々っ子のようにぐずぐずするロトのいうことを何と寛大にお聞きになられることかと思います。

山に逃げた方がよいに決まっているから、山まで逃げろ、と主は言われたのです。

それをためらうロトに主は叱責なさってもおかしくないのに、主はロトのことを憐れまれるのですね。なんとも不甲斐なく、肉の思いを捨て去り難い。又、そばで激しく葛藤しているロトを主は放っておくことができなかった。否、それ以上に、この主の憐れみ、ヘブライ語で「ヘセド」という言葉は何度も申しますが。自分の腸が痛むように憐れんだごとく、主はアブラハムの申し入れを飲まれるんです。ただその主の御憐れみのみによるのです

 

②  「アブラハムの執り成し」

さて、ロトが救いに与ったもう一つの大きなポイントは、29節に「神はアブラハムを御心に留め」と記されています、このアブラハムの存在にあります。

先週読みました18章でアブラハムは主と向き合いながら、とことん「ソドムのために取り成し」続けました。

それはソドムに正しい人が50人いたら、45人、40人、30人、20人、そして遂には10人しかいないかもしれません、とアブラハムは主に執り成すのです。

そして主は「その10人のためにわたしは滅ぼさない」というお約束下さるのです。

 

しかし今日の箇所にありますように、ソドムの町の悪行の実態はひどいものでした。まあそういうなかで、このロトとその家族も先に申しましたように、その主の御憐れみによらなければ救われない者であるにも拘わらず、29節「神はアブラハムを御心にお留めになって、ロトを破滅のただ中から救い出された」のです。

ロトには自分を滅びから救い出せる力はありませんでした。しかし彼は独り孤独ではなかったのです。彼のこと、彼が滅びから救い出されるために、その背後で親身になって執り成し続けたアブラハムの存在があった。主はそれを御心に留めて、ロトを救われるのです。

まあ、ここを読みますと、アブラハムの旧約聖書の時代の神の選びと祝福、又その

執り成しの大きさ、その力強さを本当に思わされますが。

それは今、新約の時代に生きる私たちにとりまして、まさに神の憐れみの顕現、顕れイエス・キリストの存在とその執り成しによって私たちも又、たとえ救いようのない者であっても、滅びの中から救い出されているこの幸いを思うものです。

 

私たちもロトではないですが、肉的生活に安住し、主に頼りきって生きる強い信仰を持ちえないような事がなきにしもあらずです。

しかしそのような私たちのためにイエス・キリストがヘセドの愛、腸を強く傷めるような憐れみのゆえに、十字架の上で執り成し、罪の贖いと救いを成し遂げて下さったのです。今日もこの主イエス・キリストのとりなしのゆえに、神さまは受ける資格のない私たちに救いの恵みを与えてくださっているのです。

この愛を頂いた私たちも又、愛をもって隣人のために執り成し祈る者でありたいと切に願うものです。

 

③  「限りある時」

最後に今日の宣教題を「限りある時」とつけました。

これまでの記事を時系列追っていきますと、アブラハムの執り成しは一日前の昼下りになされ、その日の夕方、2人の御使いはソドムに到着します。ロトが彼らを家に迎え、食事の後ソドムの者らがやって来て追い払われ、娘婿の所に行き、夜が明ける頃、ためらうロトは妻と2人の娘とともに町の外れへと連れ出されます。

先に読んだように、ロトは山ではなく近くの小さい町に逃れ、太陽が昇ったとき、主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地

一帯を、町の全住民、地の草木諸共滅ぼされたということです。

 

このように今日のところは、「昼下がり」「夕方」「夜明け」「太陽が昇った真昼」と、どこか時間や時の流れを意識しながら記録されているように思えます。アブラハムの執り成しからロトらの救出とソドムの滅びに要した時間は、僅か16時間前後であったということもわかります。

 

「ユダヤ5000年の教え」の著者であるラビ・マービン・トケイヤー師は、そのご著書の中でこう述べています。

「『タルムード』は「限られているものは何か?」と尋ねている。それは、人の生命であり、時間である。金銭よりは、時間の方が大切なのだ。それなのに、人々は金銭を使うときには慎重であっても、時間を浪費することについては、さして気にとめない。中略。しかし、2つのなかでは、時間のほうが大切であることを忘れてはならない。中略。お金で時間を買うことはできないが、時間でお金を買うことができる」と。

こうしたユダヤの人たちの考え方の根底には、聖書のコヘレトの言葉(口語訳は伝道の書)が示す、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」。又、「神はすべてを時宜に適うように造られる」という信仰と思想とが反映されているように思います。

 

私たちは時間というある意味限られた中で、生かされ、生きています。時間が限られているからこそ尊いし、価値ある命とその営みを享受し得るのでしょう。もう二度と繰りかえされる事のない今という時。失われた時間は金銭では買う事ができません。

主の御使いがロトに「ソドムの町を滅ぼすために来た。家族を皆連れて逃げなさい」と告げた時、先にも触れましたが、ロトは「ためらった」のです。

それは限られた時を先に延ばそうとする企てなんですね。

でも時は限られているのです。その限られた時は、ロトのもつ財産や資産で賄えるものではなのです。まさにお金で時間は買えません。

「後ろを振り返ってはいけない」との主の警告に背いたロトの妻は「塩の柱になった」とございます。後ろのもの、過ぎた時間に囚われたら今を生きる事の価値が損なわれてしまう。

聖書はいつの日か必ずやって来る主の日と救いの完成に向けて、「私たちが限られた時をどう使い、どう活かして、生きるのか」を、いつも問いかけ続けています。

 

礼拝の招詞、エフェソ5章15-17節をもう一度読んで今日の宣教を閉じます。

「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」

今週も私に語られた主の御言葉をもってそれぞれの場へと遣わされて参りましょう。

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なお、主の御前に

2018-07-15 15:55:58 | メッセージ

礼拝宣教 創世記18章16~33節

 

本日は創世記18章16-33節より「なお、主の御前に」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

新共同訳聖書では16節のはじめに「ソドムのための執り成し」と小見出しがつけられていますが。

アブラハムのもてなしを受け、しばし旅の歩みを止めていた旅人たち。それは主のみ使たちでありますが、その一行は目的地でソドムを見下ろす所に立ちます。アブラハムも又彼らを見送るためにその丘の上に一緒に立つのであります。

 

そうしますと、主は「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」とおっしゃって、「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは下って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」と、そのご計画を明らかにされるのであります。

主は、アブラハムには敢えてご自身がソドムとゴモラの罪をお確かめになり、裁きを下されようとしておられることを隠さず告げられたのですね。別にアブラハムに何もおっしゃらないで行くこともおできになったわけです。ではなぜわざわざ主がアブラハムにそれをお伝えになったのでしょうか。

それは18節以降にあるように、「アブラハムが大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」。

そのような驚くべき神のご計画と召しをアブラハムが主から受けていたからであります。そして、そのような選びにアブラハムが与ったのは、「彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」からです。

主の道を守り、主に従って正義を行うそのような信仰による神の民の、その信仰の父祖となるであろうアブラハム。

主は、このソドムとゴモラの罪に対する裁きを前に、アブラハムが主のこれから行おうとされている裁きに対して、どう応えていくかを、実はご覧になっておられたのではないか、と、私には思えるのです。

 

さて、そのアブラハムが聞いたソドムとゴモラの罪について、主のもとに届いた非常に重い「訴える叫び」。この「訴える叫び」というのは裁判法廷で用いられる用語だそうです。

それは「権利を著しく侵害された者があげる、助けを求める叫びを意味する」とのことです。

まあソドムとゴモラにおいて、そういう著しく尊厳や権利を奪い、抑圧するような暴虐が日常的に繰り返されていたということでありましょう。

 

今日の時代の私たちの世界においても、むごく暴虐といえるような事がらが日毎に起こっています。世界中に神に訴え叫ぶ声があふれています。

それは、抑圧や暴力に遭っている人、搾取されている人、置き去りにされ忘れ去られている人びとの叫びです。人間らしく生きることが不当に奪われている人たちの訴える叫びは、時に一部は報道として流れてくることはあっても、その多くは世間に知られないままです。又たとえ聞こえても耳を閉ざされ、その声はかき消されてしまうことがどんなに多いことかと想像いたします。しかし、人の世はそうであっても、今日の箇所を見ますと、主が人の「訴える叫び」を聞いて、それをお確かめになる」というのですね。

 

アブラハムの後の時代に、主があのモーセを出エジプトのご用にお立てになられる時にも、出エジプト記3章で主はこうモーセにおっしゃいました。

「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った・・・見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた」。

 

今も、世界中の訴える叫び声は、主のもとに届いている、という確信を私たちは聖書の御言葉から頂くことができます。

主イエスはおっしゃいました。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」(やもめと裁判官のたとえ・ルカ18章)。

人間らしく生きることを不当に損なわせている事に対して、私たちが主なる神に祈る訴えと叫び、執り成しを、主のもとに届き、聞いていてくださっています。又、私たちは祈り、執り成すそのような務めを主から期待されているのです。

 

さて、今日の宣教題を「なお、主の御前に」とつけました22節をお読みしますと。

「その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の前にいた」と記されています。

ところが、この「アブラハムはなお、主の御前にいた」と訳された文は、原文のヘブライ語聖書では「主はなお、アブラハムの前に立った」と、なっています。逆なんですね。なお、その場になお佇んでいたのはアブラハムではなく主ご自身であったのです。

主の使いたちはソドムへ向ったけれども、主自身はアブラハムの前になお残られたのであります。

因みに、何でこういう原文を改変するようなことになったかというと、紀元後のユダヤ教の学者らが、「主がアブラハムの前に立ち尽くす他ないというその有様は、主の威光や尊厳にかかわることでふさわしくない」ように考え、「アブラハムはなお、主の御前にいた」と改変して、自分たちの願うユダヤ教の面目を保ったと、されています。

 

いずれにしましても、ここで大切なことは、主ご自身がソドムとゴモラの罪と滅びを憂うアブラハムの前に佇まれた。そうして人の子であるアブラハムと向き合い、一対一で対話なさることを望まれたということであります。

そのお姿から思わされますのは、主がソドムとゴモラの滅びではなく、その救いをこそ望んでおられたのではないか、ということです。

 

あの悪名高いニネベの町が、滅びるから立ち返って生きるように主がヨナを送られたごとく、又主の戒めと教えを離れたユダヤの民に預言者を送り続けられたように、主は滅びではなく、人が立ち返って生きることを望んでおられるのです。

 

そのようにアブラハムの前になおも立たれる主ご自身の御前にあって、アブラハムは悪徳の町、ソドムとゴモラのために主に執り成し、実に6度にも及ぶ嘆願の交渉を重ねていくのであります。

それは「ソドムの町に悪い者が多数を占めることが明らかになったとしても、正しい者までも一緒に滅ぼされることになるのですか」という問いであります。

アブラハムは、「正しい者が50人いるとしても、それでも滅ぼしその50人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえない事です。「全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」と主に訴えます。

すると主は言われます。「もしソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」。それは凄い事です。その町にどれだけの人がいたかわかりませんが。仮に1000人であったとしても、数字にすればわずか5%です。

そうしてアブラハムはさらに主に、45人の正しい人がいたら、40人の正しい人がいたら、30人の、20人の、そして遂にアブラハムは「主よ、どうかお怒りにならず、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、正しい人が10人しかいないかもしれません」と尋ねます。

すると、主は「その10人のためにわたしは滅ぼさない」と言われた、というのですね。

1つの町にわずか10人、家族でいえば2、3家族の正しい人がいれば滅ぼさないとおっしゃるのです。

主である神さまは、この一連のアブラハムとの対話からも、ソドムとゴモラが罪のゆえに滅びるのではなく、救われること。又、そのわずかな正しい人たちを通して町全体が救いに与っていくことを誰よりも願っておられる、ということがよくわかります。

 

又、アブラハムがソドムの人々の救いのために必死に主に執り成し、主に祈って嘆願していくその姿は、もちろんソドムには甥のロト一家とその親族もいたということもあり、もう必死であったということもあったかと思いますが。

けれどもそこまで主に熱く訴え、執り成していく姿を私たちもほんとうに見倣い、実践していく者でありたいと願います。

 

今日のエピソードを読む時、私たちは、その主人公やヒーローはアブラハムのように思って、こんなすごい執り成しをする偉大な人物、さすが信仰の父祖と思うかも知れません。しかし、実はこのエピソードの主体は主なる神さまであられるのです。

 

主自らがソドムの罪をお確かめになり、ソドムを裁かれ、その罪のゆえに滅ぼすこともおできになったはずです。けれども主が敢えてこれからなす事をアブラハムに話されたのは、主自らアブラハムを執り成しへと導かれたのです。

先に申しましたように、主の願いが、ソドムを滅ぼすことでなく、ソドムの人々が救われることにあったからです。

主は聖なるお方です。全きお方であり、それゆえ本来罪を見過ごすことはおできにならないお方です。そのことゆえに私たち人間も又、その聖なる正しさの前に到底立ち得る者ではございません。

けれど主は、深い慈愛で人をいつくしまれるお方であられるのです。そこに主はアブラハムに寄り添いながら、執り成しを起こされたのです。

そのアブラハムの時代からずっと後の時代、主なる神さまは預言者イザヤを通して、全人類のためにその苦難をもって執り成しをなす神の僕が、やがてお出でになることをお示しになりました。

 

旧約聖書のイザヤ書53章10節、「多くの人の過ちを担い、背いた者のために取り成しをしたのは、この人であった」という主の僕の苦難と死。これこそがイエス・キリストという罪の無い神の独り子なるお方が、私たちの人間の姿となって世に来られ、最期は十字架の苦難と死をもって、全世界の罪を贖い、その裁きと滅びから救い出してくださるという究極の執り成し手であります。その主の救いの御業は成し遂げられていくのであります。今日の私たちもその執り成しのもとに滅びではなく、救いに与る者とされているのです。

 

幸いなことは、今日も私たちは主が滅びではなく、救いを願っておられることを知らされました。だから私も執り成し祈る。アブラハムのように。そして私の救い、すべての人の救いである主イエスの御名によって私も執り成し祈る。

祈る私たちには本当に祈ることが山ほどあります。もう切りがないほどです。それはしかし、揺るぎない確かな希望へと続いています。

主のお約束のとおり、主の御業を私たちは仰ぐことになる。その確かな希望のもと忍耐強く、そして信頼をもって執り成し続ける者でありますように。

今日もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

 

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幸いの根っ子に!

2018-07-08 16:04:15 | メッセージ

礼拝宣教 創世記12章1~9 

 

先週は、あの九州北部豪雨から丁度一年を迎えましたが。その当日は私の母の介護のため北部九州の上空を飛行機で飛んでいて猛烈に発達した恐ろしい雨雲に巻き込まれ今まで経験したことのないような状況でありましたが。ところがその日と同じような集中豪雨が長期にわたり九州、中国四国地方、さら兵庫大阪北部、京都と襲い、各地からあらゆるところで数十年に一度という特別警報、避難指示、避難勧告が出され、亡くなられた方、まだ多くの行方不明の方がたもおられるという、考えられないような甚大な被害が出ております。6月18日に大阪北部地震が起きたばかりなのに、ほんとに何が起ってもおかしくないような恐怖を覚えますが。

 

本日は創世記12章、神からの召命を受けたアブラハムの記事から「幸いの根っ子」と題し、御言葉に聞いていきます。

 

(前背景)

アブラハムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいわゆる世界3大宗教の信仰の父祖と言われていますが。もとの名をアブラムと言い、今日12章の前の31節にはその父テラについてこう記されています。

「テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナンの地に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。」 そしてアブラムの父テラはハランの地で死ぬのです。

アブラムの前にその父テラもカナンの地を目指してその家族ともども移動していたのですね。ヨシュア記24章2節を読みますと、

「イスラエルの神、主はこういわれる『あなたたちの先祖は、アブラハムとナホルの父テラを含め、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた。しかし、わたしはあなたたちの先祖アブラハムを川向こうから連れ出してカナン全土を歩かせ、その子孫を増し加えた』」とございますように、テラはその家族と一緒に偶像を崇めていたということです。

そのハランの地で父のテラを亡くしたアブラムですが、そこで彼は主からの召しを受けることになります。

 

(神の召しと約束)

まず神はアブラムに1節、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言われます。

この「行きなさい」と言うのは命令や強制ではなく「自ら」「自分のために」行きなさいというのが正しく、それは自発的意志をもって行いなさいということです。

それに対してアブラムは自ら主のお言葉に従うことを選び取り旅立ったということであります。

 

さらに、ここで主はアブラムに「私が示す地に行きなさい」と招いておられるのですが。この

「示す」とは「見せる」とも訳されることから、主はアブラムにビジョンを見るために「自ら行け」と招かれるのです。

アブラムがハランを発ったとき75才であったとありますが、75才にして彼はビジョンを見るための決意をもって、自ら主のお言葉に従い立ち上がったということですね。

 

大方の人は60を過ぎますと、もう盛りも過ぎて、あと残りの人生何とか元気に、という方も多いかもしれません。けれども神の御言葉の招きを自ら選び取って、主が示されるビジョンを見るために立ち上がる。

私たちに年齢制限はありません。大切なことはいつでも、主の招きに自ら応えて、神のビジョンを見るために立ち上がる、ということですね。今日もこの主の御言葉の招きに応える者でありたいと願います。

 

2節で、神さまはアブラムに3つの約束をなさいます。

その1つは「わたしはあなたを大いなる国民にする」という約束です。

この族長時代に「あなたを大いなる国民にする」ということは、子孫が繁栄して増え拡がっていくということを表していました。

この約束は、アブラムの妻が不妊の女性で、子どもがいなかったときに与えられたのです。世の常識や見識を超えた神の約束であります。

 

2つ目の主の約束は「アブラムを祝福し、彼の名を高める」というものでした。

それは前の11章で、バベルの塔を建設しようとした人々が「有名になろう」。口語訳では「われわれは名を上げよう」と、人間の高慢が神のようになっていこうとすることとは対照的です。

「神が」人を祝福し高めてくださるということです。

 

そして3つ目が、今日の宣教題といたしました神の約束。アブラム自ら「幸いの根っ子になれ」という祝福の約束であります。

新共同訳の「祝福の源となるように」いう言葉の「源」は原語にはありませんで、「あなた自身が祝福である」、「あなたが幸いの根っ子」だ、という神の宣言であり約束なのです。

 

(神の祝福)

神はアブラムに続けて語りかけます。

3節「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」

ここで興味深いのは、新共同訳ではわかりにくいのですが、もとの言葉では「アブラムを祝福する人は複数形ですが、呪う者は単数形」なのです。つまり、呪う者はわずかだが、祝福する人は大勢いるということです。

言い換えますと、アブラムのこれからのカナンに向かっていく道のりにおいて呪う者がいるのではないかと思えるような出来事が待ち受けているかもしれないが、それにまさってあなたを祝福する人の方が圧倒的に多い、ということなのです。

 

先ほどこどもメッセージの中にも、神さまは「あなたを愛し、あなたが生きていることを喜ぶ人は数えきれないほどたくさん現れるでしょう。わたしはその人たちのことも愛し、その人たちのいのちを喜びます。わたしは世界中のどの国の人も、どの民族の人も、あなたによって祝福へと招きます」とございました。

聖書には「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」とありますが。そのように神さま

が祝福したアブラムを通して、その祝福は地上に拡がって行き、その祝福の根であるアブラムによって地上の氏族すべては祝福に入る、という神さまのお約束であります。

 

(御言葉に聞き従う)

まあ、そうは言いましても、アブラムには子もなく、また父と共に住んだハランの地は安住の地であり、今のままでも何ら問題もないような状況であったわけですから、アブラムも常識的

に考えるなら、今さらそんな大ごとは無用だ、と拒絶することもできたと思うのです。

しかしアブラムはその神の約束の言葉を自ら受けていくのですね。4節にあるように、唯「主の言葉に従って旅立った」のですね。

 

アブラムに与えられた目的地は、地図を見てココ、というのではなく、唯導かれる道を行くというものでした。主が示す地、主がビジョンを見せようとなさる地でした。

それが実際どこなのかはアブラムに語られていませんでした。

彼はその行き先も知らないまま、ただ主のお言葉に従うことを選び取って旅立ったのです。これが信仰です。何か保証があるから始めようか、ではなく。主の約束の言葉と導きの他ない、けれどもこれに従っていく。そこに信仰によるゆたかな人生のあゆみが与えられていくのですね。

さてそうして、彼は実際に「カナンの地に入った」というのであります。

彼はカナンの地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木のところまで来ます。そこにはすでにカナン人が住んでいたのでありますが、アブラムはひるむことなく、そのカナンの地に入ったというのですね。なぜなら彼には神のお約束があったからです。

 

 

 

(信仰と主の御業)

まあ、そうしたところがブラムは、7節『あなたの子孫にこの土地を与える』との主の御声を聞くこととなるのです。まさにアブラムは神さまの約束の地を確認するのです。

聖書はそれを信仰といいます。

先に今日の礼拝の招きの言葉としてヘブライ11:1読まれました。「信仰とは、望んでいることがらを確信し、見えない事実を確認することです」。

アブラムにとっては、子孫はどこにいるのか? あの砂漠の中のどこに行くのか?行く先も知らないまま家族を連れて踏み出すというまさに人生の大きな決断でありました。何か見えるような保護があったわけでもありません。必要な若さや力があるとも思えない状態でした。しかしアブラムは「わたしが見せる地に行きなさい」との主のお言葉に、唯自分をかけて踏み出すのであります。すると、「あなたの子孫にこの土地を与える」という具体的な確約と神の御業をアブラムは体験していくことになるんですね。これが信仰であります。見えるから信じる、保証があるから信じるのは、信仰とはいえません。これが私たちに与えられた神の御恵みです。

 

私たちも、主の御言葉を聞いて終わるのならなんの益もありません。

シンプルではありますが、聞いたことを信じて実際に行うとき、主は御業を起こしてくださるのです。何事に対しても、ああ自分に力がない、できないと思えることであったとしても、それが主の御心だと祈りの中で確信し、願いを起こしてくださった主により頼んでしっかりと祈りつつ、行動していくとき、主は必ず御業を仰がせてくださるのです。大切なのはその私のために用意してくださっている素晴らしい主の招きに自ら応え、信仰の人生を歩み出すことです。

 

(主の御目と語りかけと主への信頼)

さてそのような信仰とともにもう1つ大切なこと忘れてはならないことがございます。

それは主への信頼です。

主はアブラムに対し御自ら何度も「わたしが」と一人称で呼びかけられ、その呼びかけはあたかも「わたしに任せなさい。あとはわたしが責任を負うから」とおっしゃっているかのようです。

その「わたしが」とおっしゃる主の呼びかけに、アブラムは胸を打たれ、主に信頼して立ち上がったのではないでしょうか。

主は共においでくださる、との信頼は本当に大切だし、すばらしい祝福です。まあ、そう言うと、それはアブラムに起ったことで私には関係ないという方もあるかも知れません。しかし主は「地上の氏族はすべてアブラムによって祝福に入る」と言われました。そのアブラハムを経てそして今や、私たちはイエス・キリストによって「主はわたしと共におられるお方」となられたのです。

「わたしがあなたと共にいる」。

その主の御声が聞こえてこない。主が私たちに絶えず働きかけておられるにも拘わらず、自我の思いや願望でいっぱいになるあまり、その主の御声が聞こえなくなってしまうようなことが私たちにないでしょうか。そこには霊の耳が閉ざされているという状態が起っているのかも知れません。しかしそれはもったいないことです。確かに言葉にして祈れないような時もあるでしょう。しかしそんなときこそ、牧師や信仰の友に「わたしのために祈って」と遠慮無く伝えてください。

「主よ、あなたが働いてください、あなたの栄光を私に見せてください」と必死に求め続ける中に、主は不思議に証となることを起こしてくださるのです。信仰は体験です。

 

(献身について)

さて、そのアブラムの旅立ちについて5節にこうあります。

「アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かった。」

このアブラムの旅立ちをよく献身になぞらえることもあります。献身と申しますと、何もかも捨てて、いわばその身一つで従っていく、ということを想像しがちですが。

ここでアブラムは何もかも捨ていったかというと、そうではいないのです。その理由は族長として家族やその仲間を養い守るために財産を管理するという責務もあったのでしょう。彼は家族や財産・家畜を管理しつつ大勢の人々と一緒に主の示される地へ旅立つのです。

 

ここで私が注目したのは、アブラムは神からいただいた、又いただこうとしている祝福を分かち合う仲間とともに旅を続けたということであります。

先週は神学校週間を覚えての礼拝でした。イエスさまは「収穫は多い、しかし働き人が少ない、働き人を起こしてくださるよう神に願いなさい」とおっしゃいましたが。まあ、そのお言葉のように、直接献身して伝道者になる方が起こされることは確かに必要なことでありますが。

その一方で、仕事や事業を通して神と人とに仕え、祝福を分かち合う働きに召された方も必要なのです。いや、むしろそういう人が生み出され、御言葉に養われ、世にあって福音をもたらす存在として用いられていく働きはまた尊く、大切です。

主によって立てられた各々がその遣わされた所で与えられた賜物や分に応じて主の働きに参与していく。それは本気で祈り、又執り成すこと、礼拝を心込めて捧げることも、それがどんなに小さなことであったとしても、主に忠実に仕えようとするとき、私たちも又、祝福、幸いの根っ子であり、主から戴いた祝福を「共に分かち合う」祝福をもたらす存在であるのです。

ある賛美歌の歌詞に「祈りと証し、愛の業 なさしめたまえ我らにも」とございますが。主が私の人生の旅路を証しとして下さるように祈りをもって、共々に愛の業に励んでまいりたいと切に願います。その実践を通して主は大いなるビジョンを私たちに仰がせて下さることでしょう。

 

(共なる礼拝)

最後に、アブラムはカナンの地に入るや、主のために、祭壇を築いた、とありますね。

また、ベテルの東の方に移ると、そこに天幕を張って、そこでも祭壇を築き、主の御名を呼んだ、とあります。おそらくそこにはアブラハムと共なる一行もいたのだろうと思われます。

そのように私たちも又、どこにいようと、又どのような状況であっても、私の生きる基盤である、主の恵みと愛による救いを一日一日、確認する時がほんとうに大切なのです。どんなよい業も私たちの救いの源、いのちの主を他において祝福、幸いの根っ子になることはできません。

その主、救いの主イエスへの感謝にあふれ、父の神に立ち返り、聖霊の親しき交わりの中で主の祭壇を築いて日々をあゆむことは本当に大切です。そして週のはじめの主の日の礼拝に主にある家族、兄弟姉妹と一緒に集い捧げることを通して自らの立ち位置が正され、主にきよめられて「神と人の交わりに生きる力を戴く」。そのことが私たちはどうしても必要なのです。ここに、共なる礼拝の大切さがあります。

 

今日は「幸いの根っ子に」と題し、御言葉に聞いてきました。

今日の宣教からそれぞれに必要な御言葉が語られたことでしょう。そのお一人おひとりに語りかけられた主の御言葉に自ら立ち、「神のビジョン」を仰がせていただく、その実現への御業に与る者とされてまいりましょう。主の祝福がさらに私たちを通して分かち合われていきますよう、今日もここから遣わされてまいりましょう。祈ります。

 

 

 

 

 

 

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ささげる恵み、あふれる感謝

2018-07-01 15:34:53 | 教会案内

礼拝宣教 コリント二8:1-15、9:1-15 神学校週間

 

おかえりなさい。7日の週のあゆみを守られ導かれて今こうして主日礼拝をともに捧げられます恵みを感謝します。5日前の火曜日、Sさんご夫妻が今年3月まで長年お住まいであった茨木のご実家に同行いたしました。まあその現状たるや台所の食器棚は倒れ食器類はほぼひっくり返っていて、電子レンジも落っこちているは、居間の大きなタンスも倒れ惨たんたる状況は衝撃的でした。地震が起った時間帯はお二人がちょうど台所のテーブルについている頃であったそうで、その時そこに大きな食器棚が崩れ落ちていたらと思うとゾッといたしますが、ほんとうに守られたということをご夫妻はおっしゃっていました。再び3日前の木曜日にご夫妻に同行し茨木のご実家を、その時はIさんも時間を作って下さり、片付けの準備万端でお越し下さったようですが、その日は損害保険会社から派遣された現況調査員の方もその被災状況を確認しに来られていたのですが。結局その倒壊状況がひどいため片付けもできず、茨木市の社協にボランチアセンターが開設されていることを役所で知り、足を運んでスマホに撮った倒壊状態を見ていただき、ボランティアの方がたが近く動いてくださるという説明を受けて、少しホッとしながら帰宅の途につきました。昨日Sさんから伺うと、あのスマホで撮った惨たんたる状態の報告が伝わり、ボランティアの方がたが少しでも早く来てくれるようになったようだ、ということでした。とはいえ思い出のいっぱいつまった家がそのような状態でございますので、どうぞご夫妻を覚えていただきますようお願いいたします。

 

又先程の司式者のお言いにございましたように、先週Yさんが入院をされて新しい3種の抗がん剤を受けられるということをご本人から伺い祈りに覚えておったのですが。体調が急に悪化してゆき遂に金曜日の夜に天に召されました。入院前お会いしてお元気にお話もできた状態でしたので、まさかこんなに早くとは思いもいませんでした。が、しかしこれは主の御領域でありますから。今はこの出来事を理解することができませんが、いつか主がこのことを通してなされる御業をお示しくださることと唯信じたいと願っております。姉妹の前夜式が本日の夕方に、告別式が明日午前中に行なわれます。特に残されたご長女の幸恵さん、ご長男のこうたろうさんのためにお祈りくださるとありがたいです。

 

さて今日は7月に入り最初の主日礼拝ですが。特に神学校週間をおぼえての礼拝となっております。バプテストの連盟・関西地方教会連合の壮年会のつながりの中で、毎年アピールや献金のお奨めがなされてきたわけですが。西南大神学部、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校とそこに学ぶ献身者のみなさんを覚え、福音宣教の業が続けられていくようとりなす働きであります。

私も今から33年前になりますが、この大阪教会の推薦を受けて西南学院大学神学部に当時は2年次編入学を許されました。専攻科を含め曲がりなりに4年間西南大神学部での学び、又教会研修を経て、初任地は福岡県粕屋郡篠栗町にありました粕屋バプテスト教会篠栗伝道所の牧師として招聘を受け、その後篠栗キリスト教会として教会組織を経て14年間牧師を務めさせて頂きました。

2005年4月この大阪教会から牧師招聘を頂き、現在に至っておりますが。

思い返してみましても、大阪キリスト教短大神学科での2年と西南学院大神学部での4年のいわゆる神学生として6年間、主の深い御憐みがなければやはり学び続けることはできなかたと思わされています。そこには具体的な助けとして生まれ育ったシオン山バプテスト教会やこの大阪教会の主にある兄弟姉妹の方々の熱いお祈りとご支援があったこと、又神学生時代の研修教会の兄弟姉妹のとりなし。神学校の教師、諸先輩仲間たち、寮母さんなど尊いお一人お一人のお支えがあったことを私は忘れることができません。

牧師となった今もほんとうに欠けたる面、足りない面を感じることが度々あります。又「自分が頑張らねば」と気負いのような思いをもつこともありますが。そのようなとき、自分一人の力や働きではなく、多くの方々のお祈りとお支えによって主がお働き下さるのであり、私は主と共に働く同労者であることを示され、私は謙虚にされます。

 

私たち大阪教会ではKさんを西南学院大学神学部に推薦いたし現在4年次の学生として神学の研鑽、教会研修に励んでおられます。

彼の学びと、又生活面のために、主の御恵みとお支えがあるようにと祈るものです。主の御業のため共に働く同労者として彼や西南、九バプ、東バプの神学生とその家族をおぼえて祈り、サポートしていきたいと願います。

 

さて、先ほど読まれました8章と9章は各々が独立した手紙だとする説が多くの支持を得ているそうですが、今日はあえてこのところを一つの文体として読みながら、 「ささげる恵み、あふれる感謝」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

 

パウロはマケドニア地方の異邦人の諸教会で、エルサレムの教会を助ける献金を募りました。福音宣教の初めの拠点ユダヤのエルサレム教会が貧しくてその働きが十分にできないのを助けて、支援するためでありました。

又、パウロにはもう一つの目的がありました。

それは、ユダヤ人信徒たちと異邦人信徒たちの間に生じていた主義主張の違いによる対立が、その献金というささげものを通して和解のきっかけになれば、と願っていたのです。

 

この手紙が書かれる以前から、すでにコリントの教会の信徒たちはこの献金に賛同し、それを献げていたようでありますが。まあ何事も継続的に行ない全うすることは難しいものです。この時には、彼らが熱意をもって始められた働きが頓挫する状況にあったのですね。

 

そこでパウロはマケド二ア州のフィリピやテサロニケの教会がそのささげものを通して立てられている恵みの業を、証しとして記し、コリントの信徒たちに引き続きその働きを続けていくように奨めをなしたのです。

 

パウロが引き合いに出したマケドニア州の諸教会でありますが。

彼らの献げものは決してその有り余っていた中からしたものではありませんでした。

彼らは極度の貧しさにおかれていました。又、苦しみによる激しい試練を受けていたとも書いてあります。

マケドニア地方は豊かな天然資源に恵まれた地域でしたが、ローマ帝国の支配下におかれると、それらの豊かな資源を採取する権利が奪われるなど、搾取されて、さらに過大な税をかけられていたのです。加えてクリスチャンたちは、ユダヤ教徒たちからの迫害をも受けていました。

マケドニアの教会の信徒たちは、このような極度の貧しさや、苦しみによる激しい試練を受ける中にも、救いの福音によって恵みを分かち合うべく、エルサレムの教会に献金を送るための働きを続けていたんですね。

 

2節でパウロがいうように「その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」とあるとおりです。ただ、この「極度の貧しさが溢れ出て」というのはちょっと不思議な表現です。豊かな中から溢れ出てというのは、誰でもわかりますけれども。貧しさ、それも極度の貧しさが溢れ出た、というのです。どういうことでしょうか?

口語訳は「極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て」ととてもわかりやすいですが。しかしこれは使っている新共同訳が原語に忠実で、「喜びと貧しさがあふれ出て」というのがふさわしいんですね。

そのように見ますと、マケドニア州の諸教会の献げものは、何かゆとりがあるからなされたものではなく、信徒たちが抱えていた貧しさや苦しみによる激しい試練。しかしそれこそが、福音の満ち満ちた喜びの中で、溢れ出る愛と献身になっていった、ということであろうかと思います。

 

このマケドニアの諸教会がエルサレムの教会を助けるためになした献金、パウロは1節で「神の恵み」と言い表しました。この献げものは神から受けた恵みによるものである、というのです。

今日の表題にある通り、ささげる事ができる、与える事ができるのは主の恵みであるのです。

 

パウロはコリント教会の人々に向けて8章9節で、「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と、そのように言っています。

別のフィリピ2章6節にも「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようと思わず、かえって自分を無にし、僕の身分になり、人間と同じ者となられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とありますように、この神の御子が僕となって貧しくなられた救いの恵みと愛をわたしたちは知っている。この主が貧しくなられたことによってわたしたちは豊かにされている。それは金銭では到底計りがたい豊かさがあふれて、諸教会の兄弟姉妹までも思いみる慈善の業を引き続き行なうそういう豊かな者となりなさい、とパウロは奨めているんですね。

8章11節「だから、今それをやりとげなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです」とありますが。これは今から27年前、私が神学校を卒業して最初に牧師として赴任する折に与えられた御言葉でしたが。今もそのやり遂げてゆくということを恵みの中で歩ませて頂いているのは本当に幸いなことです。

 

9章7-8節以降には、「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」と、パウロは語ります。

私たちキリストの教会は献金の義務や強制はありません。金額の指定もありません。神の恵みへの応答、感謝、喜び。キリストの教会を愛し、その継続を願うそれぞれの自由な意志によってささげられます。

 

本日は神学校週間をおぼえての礼拝を捧げておりますが。もちろん神学生や神学校のことをおぼえて共に祈り、捧げていくという礼拝でありますが。

パウロは5節に「彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」と言っています。自分自身をささげる献身ですね。

神学生は確かに献身者であるでしょうが、それを助け支える私たちも又、「まず主に、神の御心にそって」自分自身をささげる。そのことにおいて献身者であるということです。

 

本日の箇所は、最初にも申し上げましたように、コリントの教会の信徒たちとエルサレムの教会の信徒たちが和解によって主に結ばれるように、というパウロの願いが込められていました。そのことによって益々主の救いと伝道の業が豊かにされていくと(いわば協力伝道ですよね)パウロは望んでいたのです。

8章14節「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになる」とパウロは言い、出エジプトの天からのマナの出来事を引き合いに出して、「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することがなかった」。つまり主が必ずそれぞれに見合うようにして下さるというのです。

 

この事は神学校とは又別ですが。

教会の2階で今こども食堂が第二水曜日に開かれておりますが。これを始めるにあたり経済面やほんとうにできるのかという不安な思いが私にもありました。

が、主はほんとうに不思議と思えるようなことを次々と起こしてくださっています。

まず食事を作る材料代等まったく回転資金がゼロでしたが、日本のこどもの貧困の現実を知って献金をささげてくださる方がた、又その貧困を知人や起業家に訴えて献金をささげてくださった方がた等によって、回転資金の必要が満たされています。又、ボランティアについても、教派・国籍を超えて他教会のメンバーなどが自主的、主体的にこのこども食堂にかかわり、時間や労力、交通費をささげてくださり、現在10名近いボランティアが集ってくださって、主にあることの豊かさを経験しています。又、こどもたちは現在、5,6名が参加していますが。近所のご家族が続けてこられ、平日もそのこどもたちが教会を訪ねて来たりもしています。さらに、こども食堂に天王寺区の社会福祉協議会のボランティアピュローのスタッフ2名が来られこの働きをご理解くださりFBで紹介してくださっております。

又、近くの小学校の校長先生が私たちの開いているこども食堂のことについて知りたいと、区役所の福祉課に連絡があり情報を提供いたしました。

すると早速天王寺区福祉課の職員の方が教会を訪ねて来られ、今行政が作ろうとしているネットワークをご紹介下さり、近くこども食堂を見学にいらっしゃるということでした。

また、沖縄のこども食堂で主にある素晴らしい証を立てておられる方々との交流や情報交換も与えられています。

まあ、こども食堂など当初、私たちにできるのか。私たちにそれだけの力があるのか、と不安や恐れをいだいていたのが正直なところでありましたが。いや正直今でもどうなっていくのか想像不能ですけれども。この働きのために主に信頼し、祈り、何より主にある喜びがあふれて関わってくださっている方々の存在。そして何より私たちの力や思いを遥かに超えて働かれ、そのすべての必要を満たしてくださる生ける主の力を本当に思い知らされるばかりで、唯々、主をほめたたえ、感謝であります

 

私たち主の救いに与っている者の特権は、この主に信頼して生きる者に与えられる祝福の体験であります。

今日は、「ささげる恵み、あふれる感謝」と題して御言葉に聞いてまいりました。

 

最後に9章12-14節のお言葉をともに味わい祈りたいと思います。

「なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われる結果として、彼らはあなたがたがキリストの福音を従順に公言していることを、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。」

神のなさることは私たち肉なるものには計りがたいですけれど、主が明らかにされるみ業を信じて生きる私たちに、主は必ず栄光を仰がせてくださると信じます。

今週も今日のみ言葉から、この主の恵みの豊かさに満ちあふれた信仰の日々へと遣わされてまいりましょう。

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