賛美礼拝メッセージ 創世記21章1~8節
今日は青年主催の賛美礼拝としてお捧げしていますが。青年たちの賛美、会衆賛美、又Aさんのオリジナルの賛美も加わり、様々で沢山の賛美を共に主に捧げることができほんとうにうれしいです。
「神が約束されたとおりに」
本日箇所であります創世記21章の「イサク誕生の記事」は、1節に「主は、約束されたとおり」、2節に「神が約束されていた時期」、と記されているように、前もって神さまがアブラハムに約束されたとおり、その定められた時にサラを通してイサクが生まれました。
この主のお約束というのは、17章16節で、主がアブラハムに「わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る」というものでしたが、この主のお言葉に、アブラハムはひれ伏しながらも、ひそかに笑って「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」とつぶやきます。
すると主は19節で、「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」とおっしゃるのですね。
また18章10節では、主の使いが再び、「あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」と言うのを聞いて、サラもひそかに笑います。
けれどもその1年後サラは主のお約束どおり男の子を出産するのです。
神が約束された時については、それは人間の理性や頭で考えられるものではなく、万事を益とされる神さまのご計画のもとで遂行されるものなのです。
伝道の書3章11節に、口語訳では「神のなされることは皆その時にかなって美しい」。新共同訳では「神はすべてを時宜にかなうように造られた」とございますように、神は最善の時と場所をご存じであり、それは決して遅れるようなたぐいのものではありません。それは私たち人間の側が決めることのできない神さまの時があるということを私たちは覚えてなければなりません。だからこそ、その主なる神さまへの信頼と祈りが大切なのであります。
「笑い(喜び)を共に」
さて、イサクを授かった時、聖書はサラが「笑った」と伝えます。
6節「サラは言った。『神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう』」。
これは、主がアブラムに「その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい」といわれたその名、イサクの語呂合わせといいますか、駄洒落ということができます。まあそれほどサラの気持ちが高揚していたのかな、と想像しますが。
先に申しましたように、サラは前の18章でも笑っています。
主の使いが来年サラに男の子が生まれるとアブラハムに伝えた時、それを入り口のかげで聞いたサラが「自分も夫も年老いている」ということを思い、「ひそかに笑った」と書かれています。
その笑いは「そんなことはあり得ない」という自嘲的笑い、嘲笑的笑いでした。それは又「そんな今さら」というようなどこかへそ曲がりな笑いであったといえるでしょう。
そして主が「なぜ笑ったのか。主に不可能なことがあろうか」とおっしゃったように、サラの笑いは主に疑いを抱いた嘲笑でありましたが。今日の箇所のサラの笑いは同じ笑いであっても、その中身が全く異なっています。
それはまさに21章1節にあるように、「主は、約束されたとおり・・・顧みられた」という「私は主に決して忘れられていなかった」「主は私をおぼえていて下さるのだ」という魂の底から湧きあふれる喜び、そういう笑いなんですね。
今年度の大阪教会のテーマは「喜び・祈り・感謝」でありますが。私共の「喜び」は、このサラと同様、「私は神に、おぼえられている」「私は神に、愛され、かけがえのない存在とされている」という確信にあるのではないでしょうか。
私たちのイエス・キリストによる救いの約束が、私の人生に実現している、との確信こそ私たちの喜びの、又笑いの源なんですね。それは願いがかなうかかなわないかという次元を超えて、私たちの魂を満たし得る神の力であります。
さて、サラが「聞く者は、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」といっていますが。
これは私に示された思いですが。先日「こどもの産めない人は生産性がない」という某女性議員の心無い発言が世間を揺るがす問題になっていますが。世にはサラのように世の冷たい視線や暗黙の空気の中でおびえ、不安を抱えている方々がおられます。こどもがいる、いないはそれぞれの状況や事情があるということすらわかっておられないのが情けなく、議員は逆にそういった人々の側に立って養護する立場にあるのに、真逆の小さく弱くされた人々を追いやり、切り捨すててしまう行為そのものに他ならないことに心が痛みます。
いずれにしましても、ここでサラが「聞く者は皆」と言ったのは、自分のように世にあって不安や恐れを抱いている人たち、世にあって小さく弱い立場におかれた人たちに向けられた共鳴の連帯を表明したものともとれます。
サラは、その人々に対しても、絶望と闇とを打ち破って私に笑いを与えてくださった主への喜びを共にしてくれるでしょう、と言っているのですね。
これは、それまで閉ざされていた彼女の心が大きく「他者に向かって開かれた」ことを表しています。
「神は私を忘れておられるのか」というような失望感は、どこか周りの人たちに対しても壁を作ってしまうことになっていたのかも知れません。それが、神のいつくしみ、神の顧みを知り、実感した時、サラは主の恵みを証しし、喜びを共にする人へと変えられるのです。
絶望と闇とを打ち破って私に笑いを与えてくださる主への喜びの賛美を共にしてくれる人。サラと同じように解放と救いとを切に求めている人たちです。
昨日、この賛美礼拝のための練習が終った時、Yさんがその中の1曲が歌いにくく思えたので同じ曲で別の歌詞のついたものがありますよ、ともっていったそうです。
そうしたらHさんがその歌の中の「弱さを取りの除いてくださる」という歌詞の表現よりも、選んだ方の「弱さを力に変えてくださる」という歌詞の表現の方がいいよね、とAさんと話し合って決めた、と言われたそうで、Yさんも「そうだね!」とほんとうに思ったそうです。
私もその話を聞いて、「弱さの中でこそ、力は十分に発揮される」という聖書のお言葉を思い出しました。弱さを力に変えて下さる主、その賛美を、サラのように私共も又、共にしてまいりましょう。
「主はサラを顧みられた」
「自分は神さまに忘れられているのではないだろうか」という思いで日々を過ごしていたサラ。けれど神は「約束されたとおりに、自分を顧みてくださるお方」だと知った時、心の底からあふれる喜びをもって、主をほめたたえました。
私たちも、サラではないですが「自分は神に忘れられているんではないか」と思えるような時がないでしょうか。
しかしその後に、やっぱり神さまは私のことを覚えてくださり、導いてくださっておられたんだなあ、と思い知らされたようなご経験がないでしょうか。
それはたとえ、結果として自分の願い通りに事が進まなかったという時も、神さまは私にとっての最善の道を示し、導いてくださるお方なのです。
サラを顧みられた神さまは、私たちをも顧みてくださるお方であります。
唯、主のお約束に、その御救いを共に喜び合い、又主に応えて歩むために、この礼拝からそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。