礼拝宣教 エレミヤ33章1-3節、10-11節 世界祈祷週間
本日から来週の日曜日まで、世界バプテスト祈祷週間として覚えていきます。それに先立ちお世話下さっている女性会より、世界バプテスト祈祷週間の主旨や祈りの課題等の説明とアピールがありました。日本バプテスト連盟の国内伝道、又国外伝道の働きをはじめ、世界各地において行われています様々な救援活動、和解といやし等の奉仕活動が守られ、世界の至るところで主の栄光が顕わされますよう共に祈ります。
10月から2ヶ月間に亘り読んできましたエレミヤ書、今日で最終回となりました。
先週は、危機的な時代の中で、王に主の言葉を語ったために獄舎に拘留されていた預言者エレミヤが主の命じられたとおりいとこのアナトトの畑を買うというエピソードから聞きました。その畑のある地にはベニヤミン族のレビ人たちが住んでいたのです。
それは、神に対して背を向け続けたことによって崩壊していく町々が、いつの日か回復し、人々が再びその地の畑を売り買いするようになる、というユダの民の希望のメッセージであったのです。
エレミヤは紀元前(BC)627年に預言者としての召命を神から受け、40年間預言者として活動しました。預言者は「見張り人」と呼ばれていました。見張り人は、「見張り台」の上に立って、寝ずの番をして、外敵が襲ってくるのを見張ります。人びとや社会の危機を察知して警告を発する者です。そのような、時代のときを見張る預言者が警告したにも拘わらず、人びとがそれに聞こうともせず、剣によって殺害された場合、その責任はその個々人にあるのです。(エゼキエル33章)
その一方で、預言者が危機を警告しなかったがために死者が出た場合には、血の責任は預言者にあると、預言者エゼキエルの書同33章に記されています。警告を発すべき者が発しないことの責任は重大であることを熟知していたエレミヤは、自ら迫害に遭いながらも、「神に立ち返って、その回復に与るように」と、熱く、誠心誠意をもって民に語りかけ続けます。
エレミヤはエルサレムから4キロほどに位置するベニヤミンの地のアナトトの祭司の息子でした。アナトトはレビ人の町であったようです。(ヨシュア21:17)祭司の系統であり神に仕える働きをするレビ人は他の部族と異なり嗣業の土地を与えられず、他の部族の捧げ物の中から糧を得ていました。また、共同の放牧地で羊を飼って生活をしていたのです。それは神がお命じになったことであり、神はご自身こそが彼らの嗣業となられると、おっしゃったのです。彼らは神に仕える者として敬われることはありましたが、人々の心が神から離れていく中で、レビ人を疎んじられ、流浪の民と見下されることもあったようです。エレミヤはそのような人びとの視座から、神の預言者としての召命を受け、その務めを担うことになったのです。
さて、本日の箇所も、獄舎に拘留されていたエレミヤに神は再び語られます。3節「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる」。
エレミヤが囚われの身となったことは、ユダの民がやがて捕囚の身となることを象徴的に表していました。神の警告を聞かなかったエルサレムは陥落し、荒れ果て、バビロンの支配下におかれてしまうのです。苦しみと将来の希望など持てない状況に置かれていたそのエレミヤに、主が「わたしを呼べ」とおっしゃったのも、ユダの民が苦境の中で絶望することなく、主が「わたしを呼び求めよ」と語られた神の愛のメッセージ(使信)であったのです。預言者エレミヤその者が神の解放、救いのメッセージとしてもちいられていくのです。いや、預言者というのは、本当に大変な任務であるなあと思わされます。
さらに、ここで神はエレミヤに、「あなたに隠された大いなること」、新改訳では「あなたの知らない、理解を越えた大いなる事」を告げようとお語りになりました。それは2節にあるように、「神は創造者、主、すべてを形づくり、確かにされる」お方であるからです。人の理解できることはほんの僅か一部分でしかありません。それさえ正しいかどうかわかりません。しかし主なる神さまは、すべてを確かにすることがおできになられるのです。その主なる神さまが「わたしを呼べ」とお語りになるのです。
こんなにも直接的に、一対一で相対して、「わたしを呼べ」と主が大胆お語りになっているのです。それは先に申しましたように、エレミヤのみならず、苦境におかれる者すべてに向けて呼びかけられているのです。エレミヤ書29章では「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしに出会うであろう。」と主は語られます。この力強い呼びかけに私たちも応え、主を呼び求めまていきましょう。
さて、10節以降には、その「あなたの知らない、理解を越えた大いなること」について語られています。
それは、その神に背を向けて陥落し廃墟と化したエルサレムが、何と再び人びとで満ち、喜び祝う声、感謝と「万軍の主をほめたたえよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美する高が聞こえるようになるという大いなるビジョンがここに示されています。
かつて神に背き腐敗していた民、打たれ、砕かれ、嘆きと後悔ばかりであった民が、日常の生活を取りし、回復してくださった神に感謝し、主をほめたたえる賛美に満ちた活き活きとした礼拝がささげられるのです。今年の大阪教会のテーマをみなさん覚えておられるでしょうか。「まず、礼拝から」ですね。その「まず、礼拝から」の本質は、主の大いなる解放と救いに感謝を携え、「主をほめたたえよ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主の御名がほめたたえられ、賛美されるところにございます。
「わたしを呼べ」と仰せのとおりに、「主よ」と呼び、叫び、祈り求める者の声に、主はお答えくださるのです。そしてその声が、やがて喜びと感謝、主をほめたたえる賛美の声に変えられるのですね。それこそが、主に信頼して生きる者の希望であります。
先週の礼拝後、肺炎の重度化で緊急入院をされているMさんの状況について担当医師はかなり深刻であるということと、検査や治癒についてもまだ当分の日数はかかるということをお嬢さんから伺いましたので、祈祷会に参加されている方々と共にお祈りしました。又、朝の早天祈り会でも祈りました。さらに先週の礼拝後、Mさんのお連れ合いとお嬢さん、教会員の有志の方々と共に、「わたしを呼べ」と仰せになる主に信頼し、「主よ、おいやしください」と思いを一つにして共に祈りました。すると、その日の夕方、何と吉田さんの主治医から、もう退院しても大丈夫ですよ、というお話しがあったという、ご連絡があったのです。まさに、すべて主によってなされたという以外無いような出来でした。思わず、「ハレルヤ、感謝します」と、主をほめたたえました。
先日も、やはり途方に暮れていたときに、「わたしを呼べ」という、御言葉にすがり「主よ」と祈ったところ、即座にその祈りが答えられる出来事が起りました。信仰は御言葉による体験です。御言葉によって祈り、神の霊の力の証明を確認して生きる。これこそ神が私たちに期待している、生きた信仰の生活です。主は生きておられ、わたしたちが主に信頼し、祈り求めることを喜んでいてくださいます。又、教会の祈りに神さまが即答してくださることを私自身経験してきました。それがたとえ思っていた通りでなくても、後になってみると最善なことであったということもあります。主イエスは「はっきり言っておく。どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ17:19)そのように言われています。
コロナ禍で集うことが困難になった2年間、信仰によるつながり、教会性を保っていくために、お一人おひとりの近況とともに、祈祷課題を載せたメールや郵送を続けました。「祈りの輪」という名をつけましたが。コロナ禍も落ち着きを見せた時点で、直接お会いできるなら、と一旦祈りの輪は終りましたが。しかし本日の「わたしを呼べ」との主の呼びかけに再びわたしたちっが心を合わせて応えていく時が来たと思っています。
私たちはもっと、「わたしを呼べ」と仰せになるこの主に期待をしていいのです。私たちがもっともっと主に依り頼み、祈り求めるところに主は答え、わたしたちのまだ知らないような大いなることを表わしてくださるでしょう。そしてそれは「主は我らの救い」と、心の底からほめ歌う、賛美へと変えられていくと信じます。
信仰という希望の道を与えられた者として、互いを祝福し祈りましょう。神が創られた世界を祝福し祈りましょう。神の国の地上における実現を祈り求めてまいりましょう。
祈ります。
主よ、互いに祈りに覚え合うことにより、平安と神の国の喜びを知ることができますように。
主よ、教会の主にある霊的交わりによって、神への期待と信頼を学ぶことができますように。
主よ、今日は特に、世界各地の友を覚えて祈る世界祈祷週間ですが。苦しみと困難の中で祈る友、平和を造り出そうとする友、厳しい状況下で子どもたちに教育を得させ、将来に希望を育もうとする友を覚え、あなたの守りと祝福がありますように。
主よ、全世界があなたの御名を高く掲げ、賛美する日が一日も早く訪れますように。
主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン。
礼拝宣教 エレミヤ32章6-15節、36-44節
「希望」とは何でしょうか。「実現を待ち望むこと。」です。私たちの日常においても「希望」があるから生きることができます。当座の目標や目的を立て、それに向かって努めています。Gemiさん、Eimiさん夫妻が12月に日本語の検定試験を受けられるとのことです。みなさんもお祈りに覚えてください。お二人はきっと、希望をもってその実現を待ち望んでいることでしょう。私たちはそれぞれに人生の課題やその時々の困難があるかと思いますが。「希望」が生きるうえで大きな力と支え、元気の元になっているといえるでしょう。
本日はエレミヤ書32章から「希望の言葉」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
ユダの民の都であったエルサレムはバビロンの軍隊に包囲されるのです。そのような中エレミヤはユダの王宮にある獄舎に拘留されていたのです。それはエレミヤがユダの王に「バビロンと戦っても負けるので止めなさい」との主の言葉を語ったため、それに反感を抱いた王がエレミヤを拘留したのです。このような絶望的な状況の中で、「伯父の子ハナムエルの畑を買え」という主の言葉がエレミヤに臨みます。(32:6-7)
エレミヤがそうした中でも主の言葉を敏感にキャッチできたのは、たえず主と相対してきたからです。人からは理解されず反感を買うような時も、又、投獄という不条理ともいえる境遇の中でも、彼は主に相対して祈り、訴え、嘆きつつも、同胞の民のために執り成し続けたのでした。そうした神との関係性を保っていたエレミヤに、主は御言葉をお与えになるのです。
彼はエレミヤ書15章16節でこう言っています。「あなたの御言葉が見いだされたとき わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び躍りました」。
どんなに神の御心を伝えても、世間は彼の言動を理解しようとせず、エレミヤは涙の預言者と言われていますが。彼はその中で主の御言葉を切に求め、主に依り頼み、主を望みとして希望を抱き、生きたのです。
それにしてもユダの全土が間もなくバビロンの手に渡るような中、しかも監禁されているような時に、一体だれが「畑を買う。」そんなことをするでしょう。一体何になるというのでしょう。それが常識というものです。
そういう中、主のお言葉通り、親族のハナムエルがエレミヤの監禁されている獄舎に来て、「アナトトの畑を買ってください。あなたに親族として相続し所有する権利があるのですから、どうか買い取ってください」と申し出たというのです。
こうしてエレミヤは主のお言葉どおり、ハナムエルからその畑を、銀17シュケルを量って買い取り、購入証書をもって契約を完了することになるのです。(32:6-12)
それにしても一体なぜ主は、そのようなことを命じられたのでしょう。
獄舎に囚われているエレミヤがその畑の所有権を持つことは、この後ユダの地がバビロンの支配下におかれたとしても、やがてはユダの民が再び帰って来て、それを所有するようになる。そのような回復の実現を象徴的に表していました。しかもそれは「神の新しい契約」でした。先週も申しあげたように、神の契約には神の熱情の愛が伴います。罪にまみれたユダの民を神は正しく裁かれますが、主は熱情の愛をもってなおも愛し、再びその地に連れ帰り、これを与えると言われるのです。この約束の言葉は、やがて土地を奪われ絶望的状況に陥ったユダの人々の希望となっていきます。
私たちは苦難に遭い自分ではどうすることもできない時にどうするでしょうか。聖書は、主の御言葉の約束をにぎりしめ、決して落胆せず祈り続けるようにと奨めています。そこから主との信頼は築かれ、希望と平安に生きる確かな道が拓かれていくのです。日ごろから主との信頼関係を築いていくことが大切です。そうでないと、いざ何か起こるとすぐにつまずき、祈ることも出来なくなります。主イエスは、「暗闇に追いつかれないように光のあるうちに歩みなさい」(ヨハネ15:34)と言われました。暗闇に追いつかれないように、主と共に生きていることが大事です。自分の力が尽きて、どうすることもできないような状況になった時に祈りを知らず、生ける神の御言葉を思い出せず、主の御手の業に期待できないなら本当に残念なことです。主はすべてをご存じのお方ですが、私たちがそこで主と向き合うように語り合うように祈る。その生きた関係性をもたなければ、何も始まりません。高慢になって自分のことぐらい自分で出来る。放っておいてくれ、と考えている間は、主がいくらお語りになっても、それをキャッチすることができないのです。主は、心砕かれ、主を呼び求める者の声を聴き分け、御許に引き寄せてくださるのです。祈り求める者に生きた御言葉をお与えになります。エレミヤのように私たちも、主の御言葉をキャッチできる心を持ち続けたいものです。
さて、畑の売買契約後、エレミヤはその証人たちとそれを見ていた獄舎の全てのユダの人たちに主の言葉を語ります。
14節、15節「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。これらの証書、すなわち封印した購入証書と、その写しを取り、素焼きの器に納めて長く保存せよ。イエスラエルの神、万軍の主が、『この国で家、畑、ぶどう畑を再び買い取る時が来る』と言われるからだ」。
主なる神は、バビロンの侵攻とその捕囚後、長い時間を経たのちに、捕囚の民はユダの地に帰還し、家や畑を再び買うようになると告げられました。その預言の象徴的行為として、エレミヤはこの荒れ果てたぶどう畑を買い取るのです。それはその場に立ち会った人たちの記憶にしっかりと刻まれたことでしょう。それが後の世のユダの人々の希望となっていくのです。
本日のもう一箇所の37‐42節を見てみましょう。
そこにも破壊されたエルサレム、ユダとその民を主が回復される約束が預言されています。
ユダの民は神が語られた言葉への背信と罪のゆえに、剣と飢饉と疫病により破壊され、バビロンの王の手にわたされていました。多くの人々がその破壊されたエルサレムに、もはや回復の余地はないと考えます。しかし主は何といわれるでしょう。
37-38節「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰られ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」。
これは驚くべき神のご計画です。神はユダの民が悔い改めの後、民を新たにされるのです。
その回復の約束は、第1に、「約束の地への帰還」です。
神でないものを神として拝み、忌むべき行いを止めず、神の強い怒りを引き起こしたユダの民。彼らは神の裁きとして約束の地から追われ、諸国に散らされますが。しかし主は、その散らされた民をすべての地から集め、再び約束の地に帰らせ、安らかに住まわせようと、約束されるのです。
第2の回復の約束は、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」と語られます。
罪による裁きによって国を失い、散らされたユダの民。しかし主はなおも、その民を背信の滅びから救い出し、新しい契約を結ばれるのです。
主は39節で、「わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫とによって幸いとなる」と語られます。
主は民の心を新しくされます。それは民の内面的変化、覚醒による神との関係性の回復です。ユダの民が罪に陥ったのは、神への背信と忌むべき行いからでした。しかし、後に主に立ち返り、悔い改めと救いを待ち望む日々を通して、主は彼らに「一つの心と一つの道を与え」、主の御心に生きるようにされるのです。
主は40節で、「わたしは彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることがないようにする。」と語られます。
主の裁きは、民を滅ぼすことが目的ではありませんでした。彼らが主に立ち返って「主の民となり、主が彼らの神となる。」しかもそれを「永遠の契約」として結び、神の民の世々の子孫に恵みを与えてやまないとまで仰せになるのです。これこそ天地を創造され、私たちのいのちの源であられる主なる神さまの望まれる御心なのです。
さらに41節で、「わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える。まことに、主はこう言われる。かつて、この民にこの大きな災いを下したが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える」。と仰せになります。
ちなみに口語訳では、「わたしは彼らに恵みを施すことを喜びとし、心を尽くし、精神を尽くし、真実をもって彼らをこの地に植える。」となっています。何と、ユダの民が神さまに対して心を尽くし、精神を尽くしてということではなく、神さまご自身が「心を尽くし、精神を尽くし」て彼らを約束の地に植える、との回復をなさるというのです。それは42節で、主が「かつてこの民にこの大きな災いをくだしたが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える。」とありますように、ユダの民の罪を神は、厳格に裁かれ、懲らしめをもって臨まれるのでありますが。主が心に望んでおられることは、主御自身が彼らのために心を尽くし、精神を尽くして、回復を与えると仰せになられるのです。神の愛はその民に対してどこまでも誠実で変ることはありません。その主の誠実な愛は、キリストにより神の民として接ぎ木された私たちに対しても変わることはありません。
さて、ここまでエレミヤを通して主が語られた「回復の約束」の言葉を読んできました。
43節以降には、ユダの地の全土で人々はまた畑を買うようになる。と主は回復の予告をされます。それはユダの全土で見られるようになるというのです。その最初に回復される土地をエレミヤが売買契約したアナトトの畑のあったベニヤミン族の地であると告げられています。
ユダの民はバビロンの捕囚から解放され、約束の地に帰還が適ったとき、再びエレミヤが先に買い取ったアナトト畑があるベニヤミンの地をはじめ、エルサレムの周辺、ユダの町々、山あいの町々などで畑を買うようになるのです。エレミヤが主のお言葉通り、荒廃していたぶどう畑を買い取ったのは、人々が絶望の中で主の言葉に希望を見出して生きるためでした。
ヘブル人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」とあるとおり、彼らはエレミヤを通して示された神の言葉を希望として待ち望み、遂にその実現を確認するに至るのです。
私たちはどうでしょうか。いかに揺さぶるような出来事が起りましても、神が与えて下さる救いと命のことばを確信し、確認の日々をもって希望としているでしょうか。
今日の世界をとりまく状況、この日本の状況も、このエレミヤの時代のように「国々は騒ぎ立ち、地の面は揺さぶられている」事態といえますが。これを主イエスは「生みの苦しみ時」(マタイ24:8)と言われました。それは大変厳しく困難苦ともいえます時代の中にあっても、主が再び来られるという、主の来臨の希望が語られているのです。今、与えられたわたしたちの命の日々が、その希望の実現に向けた歩みとなりますよう、祈り求めてまいりましょう。
お祈りします。
礼拝宣教 エレミヤ31章27-34節
本日はエレミヤ書31章から「新しい契約によって生きる」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
聖書は新約と旧約とからなっております。そのどちらにも約束の「約」がついていますが。これは契約を意味しております。神が人と契(ちぎ)りを結んだ、約束を交した。聖書は言わばその誓約書であるとも言えるでしょう。
この世の中も「契約」社会として、物を買ったり、保険に加入するにも、家を建てたり住宅を借りるにも、又就職するのにも、相手があり、契約を交わします。大阪教会の会堂建築も建築業者との間で請負契約を互いに取り交わした時は大変緊張しましたが。双方の契約内容は守られ無事完成に至り幸いでありましたが。契約には互いの信頼関係、信用を基にした誠実さが求められます。まああってはならないことですが、契約した約束事に違反するようなことが起これば、契約は破棄されて大変なことになってしまうわけです。旧約聖書の時代、ユダの民は神との契約を軽んじ、自ら滅びを招いてしまいました。祝福をもたらすはずの契約が破綻してしまったのです。しかし神は彼らを見放してはおられませんでした。
なぜ神は、呼びかけにそむき罪に滅びるような民を、なおも導き救いの回復をお与えになるのでしょうか。
今日は神が人と約束された「新しい契約」についての記述から、まず「神の救いの確かさ」を読み取っていきたいと思います。
32章27-28節にこう記されています。「見よ、わたしがイエスエルの家とユダの家に、人の種と動物の種をまく日が来る、と主は言われる。かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる」。
神は打ち砕かれた彼らを回復、復興なさるというのです。
この「見よ、わたしが」とのお言葉には、主なる神さまの力強い再創造の業が宣言されています。そのむかし神は、出エジプトしたイスラエルの民と契約を結ばれました。彼らが祝福に与るか、滅びに至るか、その契約にかかっていました。
これについて神は、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(19章5節~6節)と言われました。
イスラエルとユダの家が神に信頼をし、忠実に従うのなら「神の民」として祝福されるのです。しかしこれに反して不信と背信とに生きるなら、厳しい裁きがなされるという警告がなされたのです。にも拘らずイスラエルの民は、度々その神との契約を軽んじ、欲するままにふるまい続けるのです。このユダの民はエレミヤの再三にわたる「悔い改めよ、主に立ち返れ」という警告にも拘わらず、罪を犯し続け、遂に先の北イスラエル同様、崩壊して捕囚の民となってしまうのです。その彼らの中には、「神に見放された、見捨てられたのだ」と言う者もいました。
しかしそうではありません。神はそのような彼らを断腸の思いをもって「立ち返って命を得よ」と、見守り続けておられたのです。
北イスラエルと南ユダ王国の崩壊で何もかもが終わったように見えました。けれども、そうではなかったのです。神は後に実現する「新しい契約の日」に向け、「今、わたしは彼らを建て、また植えようとして見張っている」とおっしゃるのです。神は決して民から目を離してはおられないのです。たとえ絶望的といえる状態であっても、神は決してお見捨てになることなく、彼らがゆるしの恵みによって新しく創造されていくようにと、見守り導かれようとしておられたのです。
さらに29節を見ますと、「人々はもはや言わない。『先祖が酸いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く』と。人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。」とあります。
国の崩壊と捕囚の惨禍は、確かにその時社会を腐敗させ、又それを容認していた世代の責任とも言えるでしょう。しかし新たな世代は次の時代をどう生きるかが問われているのです。先祖の後を追うように背信の道を行くのか。神に立ち返って生きるのか。それが各人に問われているのです。神は一人ひとりが神に立ち返り、新たな一歩をあゆみゆく者が祝福を受けるようにと望んでおられるのです。私たちも又その祝福に与るものとされてまいりましょう。
さて、その「新たな契約」についてでありますが。
31-33節に「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはわたしの契約を破った、と主は言われる。しかし来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と語られています。
神さまは新しい契約について、「わたしの律法(御心)を人の胸に授け、人の心にそれを記す」と語られました。エゼキエル書36章26節には、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊をおく。」とも語られています。
かつてエジプトから導き出された時に結ばれた神の契約は「十戒」に基づくもので、それは本来神の民とされた彼らが祝福に満ちた世界を築くために与えられた高い倫理性をもった優れた戒めでした。しかいイスラエルの民はその戒めを軽んじ、逆らい続けたのです。再三にわたる預言者たちの「悔い改めよ、神に立ち返れ」との警告に対しても民は聞く耳を持ちませんでした。そうした彼らの不誠実によって遂に始めの契約ははたんしてしまい、北イスラエル王国、そして南ユダの王国は崩壊し、捕囚の民となるのです。
それにも拘わらず神はその民から目を離されることなく、なんと彼らと「新しい契約」を結ぶ日が来る、と予告されるのです。
始めの契約は石に刻まれた戒めが民の指導者モーセを通して授けられましたが。この新しい契約は、「神御自身が彼ら一人ひとりの胸の中に授け、その心に記す」というのが大きな特徴であります。ユダの民はその後、捕囚から解放され、その歴史を省みて心新たに神殿の再建の着手や神への信仰復興へと歩み出します。しかし世の戦いは険しく、民はその後も時代に翻弄されながら、様々な厳しい迫害の時代を経験するのです。
その後(のち)ユダヤの民がローマ帝国の植民地下におかれていた時、遂に神の御子イエス・キリストが世に誕生なさるのです。それはエレミヤ、又エゼキエルといった預言者が、「神自ら人の胸の中に授け、人の心にそれを記す」「新しい心を与え、人のうちに新しい霊をおいて、石のようなかたくなさを打ち砕き、柔らかくしなやかな心を与える」と語られた新しい契約の実現の始まりでした。エレミヤによって語られた預言の言葉は、神の御子イエス・キリストによって実現されていくのです。神によって始められた主の救いの実現の出来事は、今も時代を超え世界のいたるところで、新しい霊をもって人のかたくなな石の心を取り除き、柔らかな肉の心を授け、新しい人に造り変えられる再創造の出来事として起こり続けています。
34節「彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる」。
「主を知る」。それはまさに、神さまの側のお働きと導きであり、聖霊のお取り扱いになされます。「神は生きてお働きになられる」「神はわたしと共におられる」という確信、その信仰の体験によって私たちは神の前に日々新しく創造されていくのです。そこから世にはない喜び、感動が溢れ出てくるのです。
ところで皆さまは聖書の神をどのようなお方であるとイメージするでしょうか。私たちは聖書の中にそのお姿を垣間見ることができるでしょう。創造主、クリエーターなるお方。あるいはご自分の民を教え導き、正しく裁かれる厳格なお方。そうでしょう。
31章3節には「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し 変ることなく慈しみを注ぐ」。さらに20節「神がエフライム(これは北イスラエルのことですが)、エフライムはわたしのかけがえのない息子 喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り わたしは彼を憐れまずにいられないと主は言われる。」とありますように。神さまは「熱情愛をもつ、いつくしみ深いお方である」と言い表されています。
ご自身に逆らい続け、罪の滅びに向かう民に対して、神の愛は常識をはるかに超えています。 わたしは彼を憐れまずにはいられない」と主は言われます。
この神の愛はヘブル語でヘセド、「憐み」と訳されます。それは神さまが人と契約を結ぶときに伴う神の熱情的な愛を意味します。「神はとこしえの愛をもってあなたを愛し 変ることなく慈しみを注ぐ」「彼のゆえに、胸は高鳴りで、わたしは彼を憐れまずにいられない。」お方なのです。
世にあって私たちは様々な困難や苦難があるでしょう。けれどもそれは、神が私たちを子として取り扱っておられるからです。神は試みの中で私たちが神に信頼して生きるように願っておられるのです。これはご自分の宝の民とされるためです。私たちが失敗した時も、弱った時も、もがき苦しむ時も、神は契約に伴う熱情の愛といつくしみで私たちを愛してくださるのです。
かつてイスラエルの民は神に選ばれ宝の民とされました。申命記7章7節によれば、「主が心引かれて選ばれたのは、あなたたちがどの民より数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対することのゆえに、」とあります。しかし、民は高慢になり、主のその愛を忘れてしまいました。神の憐れみ、熱情的な愛によらなければ彼らは滅んでしまったことでしょう。
私たち一人ひとりも又、主イエスにある新しい契約のもとこのいつくしみ深い、熱情の神の愛を受けて今を生かされていることを忘れずに日々心新たでいたいものです。
主は言われます。34節「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。
神は罪に滅びるほか無いような人間を深く憐れみ、熱情の愛を注いでいて下さる。私たちはこの事実を主イエスの十字架に血を流されるとてつもない代償によって知り、信じることができます。その大いなる赦し、救いが私どもにももたらされているのです。
この神の熱情の愛が注がれていることを忘れて高慢になることがないように、私たちの胸の中に主の十字架の愛のお姿を刻んで歩んでまいりましょう。日々感謝と賛美をもって、主の良き知らせを伝え、証しするものにされてまいりましょう。新しい契約に与った者として。