主日礼拝 イザヤ40・1-11
このイザヤ書の40章はユダの国がバビロニアによって滅ぼされ、多くの者がその捕囚とされた時代、この民の中から主に召し出された第二イザヤとされる人物が、最初に主から受けた預言の言葉であります。その内容は6章の記事と対比して読むとさらによく理解することができます。
6章でイザヤは神さまに召し出され預言者として遣わされるのですが、ユダの人々に託された主の言葉は、まことに厳しい「懲らしめと審判」でありました。そして遂に預言通りユダと都エルサレムは主の言葉の前に悔改めることなくバビロ二アによって滅ぼされてしまうのです。多くの人が殺され、家々は焼き払われてがれきと化し、能力や役に立つ者はみな捕囚としてバビロンに連れていかれ、もはやイスラエルの民としての土地も生活も、アイデンティティーさえも失われていく。そんな暗闇の時代を彼らは経験しなければなりませんでした。
しかしその中で、この40章からの第二イザヤを通して、バビロニアの捕囚民とユダのエルサレムに残されたる民に神の救いと回復の希望の言葉が語られていくのであります。それは2世代、3世代の後という長い年月を経て、遂に主の導きによるエルサレムへの帰還という形で実現されていくのです。
もはや、神の激しい憤りと裁きの時代は終わり、神からの慰めを受ける新しい時代の始まりが告げられています。エルサレムの滅亡以降、神からも見捨てられた者のようであった捕囚の民、又ユダに残された民に対して、主は1節にございますように「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と第二イザヤに語られるのであります。
2節にこう記されています。
「エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。」
主なる神さまは、罪と咎のゆえに打たれユダの民を、いつまでも捨ておかれることなく、その「苦役の時が満ち、咎は償われた」と宣言なさるのです。このお言葉は、ユダのすべての人々にとってどれほど大きな魂のいやし、心の拠り所となったことでしょう。
さて3節以降には、主なる神さまが、バビロニアから捕囚の身となっている民らを伴ってエルサレムに帰還なさる、ということが語れています。
ここに「主のために、荒れ野に道を備え、わたしの神のために、荒れ地に広い道を通せ」とありますが。それは民の帰還に先立たれる神さまのために、又民と共なる神さまのために道を整備しなさい、と命じられているわけですけれども。ただそれは、ユダの人々が何か準備するとか計画を立てるというようなものではありません。
実はその帰還への道は主である神さまご自身が備えてくださるのであります。
この「荒れ野に道を備え」の「備え」という原意は、実は「一つの方向に体を向ける」ことを意味します。つまり、神さまは、ご自分に向き直って生きていこうとする者らを伴って、エルサレムへの帰還を果たされる。神さまがその栄光の道を備えてくださる、というのであります。
私たちも又態度でもって、主なる神さまに向きを変え、主に向き直って生きていこうとする時、神は荒野のような場所に道を備え、あらゆる険しい道も平らにし、どんな狭い道も広い谷となしてくださるのです。そこに主なる神さまご自身が共にいてくださるからそのようになるのです。
また、「主の栄光がこうして現れる」の現れるとは、隠されていたものが顕わになるという意味であります。かたくなに神さまの愛とゆるしを拒む人には、神の栄光は隠れていて見ることができません。しかし、神さまの愛とゆるしに向き直り、それを受け入れた人には、神さまのお働きがあらわにされ、それを知ることができます。恵みによってそのような霊の眼をいただくのであります。
さらに6節~8節に次のように記されています。
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の草のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけるのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが わたしの神の言葉はとこしえに立つ。」
ここには人の世の「虚しさ」が語られています。この地上のいかなる栄華を極めた王や
権力者であっても、勇者であっても草や花が枯れしぼむのと同様、例外なくいずれは朽
ち果てます。この地上のもの、肉なるものを頼みとしてそれにしがみつき、固執するの
は虚しいことであるのです。
新約聖書のヨハネ第一の手紙2章17節には「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」と記されています。
肉に属するものは朽ちていきますが、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
神さまは私たちの世の虚しさ、荒れ野のような人生にも勝利の道を拓き、永遠の命に通じるその道を「真理の御言葉」によって歩ませてくださるのです。
私はそのことを思う時、何と素晴らしい道、何と確かな道を与えられことか、と感謝が湧いてくるのです。確かな目的のないうつろいゆく人生はどんなに虚しいことでしょう。神の愛を知らずに滅びゆくことはどんなに悲しいことでしょう。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」私どもにとってこの「神の言葉」とはいうまでもなく、救い主イエス・キリストでございます。
さて、9節「高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振って声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな ユダの町々に告げよ。」
良い知らせを告げる使者が派遣されます。
ここで目に留まりますのは、良い知らせはエルサレムやシオンといった中心の都だけで
なく、荒れ果てて住民も家々も殆ど消えうせた近郊のユダの町々にも伝えられる必要が
あったということです。
主は、聞くには聞くが理解することのない。見るには見るが悟ることのなかった民を裁
かれ、その栄光はユダの国から去った。そして今、去られた神さまが再び戻って来られ
ユダの国の都も小さな町々までも、慰めと回復を得るのです。その大いなる喜びの知ら
せです。
「見よ、あなたたちの神 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ 御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い 主の働きの実りは御前に進む。主は羊飼いとしての群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」
まずここには、「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神」と、2度も「神を見よ」と
語られています。第二イザヤが最も大事にしているのは、主なる神、救いの神さまを見
上げていくところにございます。それは先程も触れましたが、主の方向に体を向ける、
主の方に向きを変えることです。そこに真の幸いが臨むのであります。
その神さまは力を帯びて来られ、御腕をもって統治されるお方です。それは、かつてイスラエルをエジプトから導き出された時と同様に、再び捕らわれの民をバビロニアから救い出されるのであります。主の御腕は力を帯びているのでありますが、同時に羊飼いがその群れ守り養い、散らされた羊たちを集め、小羊をその懐に抱くように、民を導きお治めになるのです。その統治のもとにおいて主を仰ぎ見ていく神の民は、主のこのような細やかな保護と導きを受け、ゆたかに生きていくことができるのです。
私たちクリスチャンはこの地上にあっては主と共に歩む確かな道が備えられている
ということを感謝したいと思います。又、今日は「帰還の約束」と題し御言葉を聞き
ましたが。私たちはこの命の道の先に「帰還の約束」を戴いていることをさらに感謝したいと思います。それは、やがて再びこの地上に来臨される私たちの主イエスの帰還であります。その最終的喜びの時が来ることを、「マラナタ」:主よ、来たりませ、と待ち望んで生きる希望と喜びが与えられていることを本当に感謝します。第二イザヤに臨んだ主の言葉は、主イエス・キリストによって今も私たちに命の力をもって語りかけてくるのであります。
最後に、一昨日JR西日本安心財団主催の「いのちを考える」連続講座に参加しました。講師は木村利人(りひと)さんという40年間に亘り「バイオエシックス(生命倫理)」のパイオニアとして研究と教育に従事なさっておられる方でした。このバイオエシックという言葉を私は存じませんでしたが、医療の現場でよく用いられるインフォームドコンセント、あるいはコンプトという言葉をご存じの方はおられるでしょう。患者さんの側に立った病状の告知や治療目的の説明及び提案がきちんとなされ、患者さんはその処方箋や治療方法を理解して選択していくということですが。一昔までは病院やお医者さんの一方的な医療方針で、患者さん自身で自分の病の理解や治療に関する選択枝もなかったのですが。近年からこういうインフォームドコンセント、あるいはコンプトが大事にされてきたのです。これもバイオエシックス(生命倫理)から生まれたものであるとのことでした。
この木村先生は現在80歳になられるのですが、少年時代にかつて戦争を経験なさった世代でいらっしゃいますが。当時木村さんは大東亜共栄圏(アジアの解放)という理想社会の実現のための聖戦と軍国教育をたたきこまれて戦争したはずであるのに、戦後青年時代に日本がフィリピンの多くの人々の命を奪い崩壊させた事実を知らされ大変な衝撃を受けられたそうです。木村さんはその時YMCAのボランティアキャンプに参加なさっていたそうですが、ある夜、フィリピンの仲間の一人が涙を流しながら木村青年の手をとってこう言ったそうです。「今度の戦争で父親を失った、日本軍と日本人が憎らしく、どうしても許せなかった。しかし、今、日本人の若い世代の君にこうして平和の中で一緒に仕事をし、汗を流し、心に変化が起きた、過去をゆるし、未来に向けて悲惨な戦争を再び起こさぬように若いぼくらが誓い合おう」と。
その時、木村さんは一人の日本人として罪責感に苛まれ、フィリピンの方々に謝罪していかれたそうです。するとフィリピンの方々は木村さんを暖かく迎え歓待し、木村さんはゆるしを得ることができた、ということでした。そしてこのような和解の出来事の中に実はキリスト教の愛とゆるしの精神があったことに気づかれたそうです。その体験をもとに木村さんは大学生の時に作詩をなさいまして、それがあの坂本九さんが歌って一躍客光を浴びることになった「幸せなら手をたたこう」という歌だった、ということでした。
YMCAの奉仕活動で出会った青年がそのゆるしと和解の思いを「態度に示して」くれたこと。又、そこには木村さんご自身が謝罪と平和への願いを「態度に示された」こともあったでしょう。そうしてあの、「しあわせなら手をたたこう、しあわせな態度でしめそうよ、ほら みんなで手をたたこう」という歌になったということでありました。
また、この歌は実はですね、木村さんが詩編47編をヒントにして作られた歌でもあったということで、私はさらに驚いたのでありますが。47編2節には「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫び声をあげよ」とあります。みなさまもご存じのようにこの「しあわせなら手をたたこう」は1964年の東京オリンピックの年に大流行し、日本を訪れた各国の選手や観光客と共に歌われ世界に広まっていったのです。
木村さんは、平和のしあわせを大事にし、共に手をたたいて喜び、態度に示して手をつなぎ、お互いに助け合おうという願いがこめらて作詩されました。そこには実にキリスト(教)の愛の精神が息づいていたということです。それは又、木村先生のご専門分野であられるバイオエシックス(生命倫理)の根本にある精神と一つに重なり合っている、ということでありました。私は今回この木村利人さんのご講演をお聞きしながら、私もクリスチャンでよかったと思いましたし、本当に励ましと元気をもらいましたね。
今日の3節「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ、険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」とありますが。私たちも又、主にある帰還の約束に備え、主に向きを変えつつ態度に示して、キリストの愛と平和を胸にあらゆる違いを超え、手をつなぐあゆみを、今日もここからはじめるべく遣わされてまいりましょう。
このイザヤ書の40章はユダの国がバビロニアによって滅ぼされ、多くの者がその捕囚とされた時代、この民の中から主に召し出された第二イザヤとされる人物が、最初に主から受けた預言の言葉であります。その内容は6章の記事と対比して読むとさらによく理解することができます。
6章でイザヤは神さまに召し出され預言者として遣わされるのですが、ユダの人々に託された主の言葉は、まことに厳しい「懲らしめと審判」でありました。そして遂に預言通りユダと都エルサレムは主の言葉の前に悔改めることなくバビロ二アによって滅ぼされてしまうのです。多くの人が殺され、家々は焼き払われてがれきと化し、能力や役に立つ者はみな捕囚としてバビロンに連れていかれ、もはやイスラエルの民としての土地も生活も、アイデンティティーさえも失われていく。そんな暗闇の時代を彼らは経験しなければなりませんでした。
しかしその中で、この40章からの第二イザヤを通して、バビロニアの捕囚民とユダのエルサレムに残されたる民に神の救いと回復の希望の言葉が語られていくのであります。それは2世代、3世代の後という長い年月を経て、遂に主の導きによるエルサレムへの帰還という形で実現されていくのです。
もはや、神の激しい憤りと裁きの時代は終わり、神からの慰めを受ける新しい時代の始まりが告げられています。エルサレムの滅亡以降、神からも見捨てられた者のようであった捕囚の民、又ユダに残された民に対して、主は1節にございますように「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と第二イザヤに語られるのであります。
2節にこう記されています。
「エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。」
主なる神さまは、罪と咎のゆえに打たれユダの民を、いつまでも捨ておかれることなく、その「苦役の時が満ち、咎は償われた」と宣言なさるのです。このお言葉は、ユダのすべての人々にとってどれほど大きな魂のいやし、心の拠り所となったことでしょう。
さて3節以降には、主なる神さまが、バビロニアから捕囚の身となっている民らを伴ってエルサレムに帰還なさる、ということが語れています。
ここに「主のために、荒れ野に道を備え、わたしの神のために、荒れ地に広い道を通せ」とありますが。それは民の帰還に先立たれる神さまのために、又民と共なる神さまのために道を整備しなさい、と命じられているわけですけれども。ただそれは、ユダの人々が何か準備するとか計画を立てるというようなものではありません。
実はその帰還への道は主である神さまご自身が備えてくださるのであります。
この「荒れ野に道を備え」の「備え」という原意は、実は「一つの方向に体を向ける」ことを意味します。つまり、神さまは、ご自分に向き直って生きていこうとする者らを伴って、エルサレムへの帰還を果たされる。神さまがその栄光の道を備えてくださる、というのであります。
私たちも又態度でもって、主なる神さまに向きを変え、主に向き直って生きていこうとする時、神は荒野のような場所に道を備え、あらゆる険しい道も平らにし、どんな狭い道も広い谷となしてくださるのです。そこに主なる神さまご自身が共にいてくださるからそのようになるのです。
また、「主の栄光がこうして現れる」の現れるとは、隠されていたものが顕わになるという意味であります。かたくなに神さまの愛とゆるしを拒む人には、神の栄光は隠れていて見ることができません。しかし、神さまの愛とゆるしに向き直り、それを受け入れた人には、神さまのお働きがあらわにされ、それを知ることができます。恵みによってそのような霊の眼をいただくのであります。
さらに6節~8節に次のように記されています。
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の草のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけるのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが わたしの神の言葉はとこしえに立つ。」
ここには人の世の「虚しさ」が語られています。この地上のいかなる栄華を極めた王や
権力者であっても、勇者であっても草や花が枯れしぼむのと同様、例外なくいずれは朽
ち果てます。この地上のもの、肉なるものを頼みとしてそれにしがみつき、固執するの
は虚しいことであるのです。
新約聖書のヨハネ第一の手紙2章17節には「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」と記されています。
肉に属するものは朽ちていきますが、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
神さまは私たちの世の虚しさ、荒れ野のような人生にも勝利の道を拓き、永遠の命に通じるその道を「真理の御言葉」によって歩ませてくださるのです。
私はそのことを思う時、何と素晴らしい道、何と確かな道を与えられことか、と感謝が湧いてくるのです。確かな目的のないうつろいゆく人生はどんなに虚しいことでしょう。神の愛を知らずに滅びゆくことはどんなに悲しいことでしょう。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」私どもにとってこの「神の言葉」とはいうまでもなく、救い主イエス・キリストでございます。
さて、9節「高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振って声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな ユダの町々に告げよ。」
良い知らせを告げる使者が派遣されます。
ここで目に留まりますのは、良い知らせはエルサレムやシオンといった中心の都だけで
なく、荒れ果てて住民も家々も殆ど消えうせた近郊のユダの町々にも伝えられる必要が
あったということです。
主は、聞くには聞くが理解することのない。見るには見るが悟ることのなかった民を裁
かれ、その栄光はユダの国から去った。そして今、去られた神さまが再び戻って来られ
ユダの国の都も小さな町々までも、慰めと回復を得るのです。その大いなる喜びの知ら
せです。
「見よ、あなたたちの神 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ 御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い 主の働きの実りは御前に進む。主は羊飼いとしての群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」
まずここには、「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神」と、2度も「神を見よ」と
語られています。第二イザヤが最も大事にしているのは、主なる神、救いの神さまを見
上げていくところにございます。それは先程も触れましたが、主の方向に体を向ける、
主の方に向きを変えることです。そこに真の幸いが臨むのであります。
その神さまは力を帯びて来られ、御腕をもって統治されるお方です。それは、かつてイスラエルをエジプトから導き出された時と同様に、再び捕らわれの民をバビロニアから救い出されるのであります。主の御腕は力を帯びているのでありますが、同時に羊飼いがその群れ守り養い、散らされた羊たちを集め、小羊をその懐に抱くように、民を導きお治めになるのです。その統治のもとにおいて主を仰ぎ見ていく神の民は、主のこのような細やかな保護と導きを受け、ゆたかに生きていくことができるのです。
私たちクリスチャンはこの地上にあっては主と共に歩む確かな道が備えられている
ということを感謝したいと思います。又、今日は「帰還の約束」と題し御言葉を聞き
ましたが。私たちはこの命の道の先に「帰還の約束」を戴いていることをさらに感謝したいと思います。それは、やがて再びこの地上に来臨される私たちの主イエスの帰還であります。その最終的喜びの時が来ることを、「マラナタ」:主よ、来たりませ、と待ち望んで生きる希望と喜びが与えられていることを本当に感謝します。第二イザヤに臨んだ主の言葉は、主イエス・キリストによって今も私たちに命の力をもって語りかけてくるのであります。
最後に、一昨日JR西日本安心財団主催の「いのちを考える」連続講座に参加しました。講師は木村利人(りひと)さんという40年間に亘り「バイオエシックス(生命倫理)」のパイオニアとして研究と教育に従事なさっておられる方でした。このバイオエシックという言葉を私は存じませんでしたが、医療の現場でよく用いられるインフォームドコンセント、あるいはコンプトという言葉をご存じの方はおられるでしょう。患者さんの側に立った病状の告知や治療目的の説明及び提案がきちんとなされ、患者さんはその処方箋や治療方法を理解して選択していくということですが。一昔までは病院やお医者さんの一方的な医療方針で、患者さん自身で自分の病の理解や治療に関する選択枝もなかったのですが。近年からこういうインフォームドコンセント、あるいはコンプトが大事にされてきたのです。これもバイオエシックス(生命倫理)から生まれたものであるとのことでした。
この木村先生は現在80歳になられるのですが、少年時代にかつて戦争を経験なさった世代でいらっしゃいますが。当時木村さんは大東亜共栄圏(アジアの解放)という理想社会の実現のための聖戦と軍国教育をたたきこまれて戦争したはずであるのに、戦後青年時代に日本がフィリピンの多くの人々の命を奪い崩壊させた事実を知らされ大変な衝撃を受けられたそうです。木村さんはその時YMCAのボランティアキャンプに参加なさっていたそうですが、ある夜、フィリピンの仲間の一人が涙を流しながら木村青年の手をとってこう言ったそうです。「今度の戦争で父親を失った、日本軍と日本人が憎らしく、どうしても許せなかった。しかし、今、日本人の若い世代の君にこうして平和の中で一緒に仕事をし、汗を流し、心に変化が起きた、過去をゆるし、未来に向けて悲惨な戦争を再び起こさぬように若いぼくらが誓い合おう」と。
その時、木村さんは一人の日本人として罪責感に苛まれ、フィリピンの方々に謝罪していかれたそうです。するとフィリピンの方々は木村さんを暖かく迎え歓待し、木村さんはゆるしを得ることができた、ということでした。そしてこのような和解の出来事の中に実はキリスト教の愛とゆるしの精神があったことに気づかれたそうです。その体験をもとに木村さんは大学生の時に作詩をなさいまして、それがあの坂本九さんが歌って一躍客光を浴びることになった「幸せなら手をたたこう」という歌だった、ということでした。
YMCAの奉仕活動で出会った青年がそのゆるしと和解の思いを「態度に示して」くれたこと。又、そこには木村さんご自身が謝罪と平和への願いを「態度に示された」こともあったでしょう。そうしてあの、「しあわせなら手をたたこう、しあわせな態度でしめそうよ、ほら みんなで手をたたこう」という歌になったということでありました。
また、この歌は実はですね、木村さんが詩編47編をヒントにして作られた歌でもあったということで、私はさらに驚いたのでありますが。47編2節には「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫び声をあげよ」とあります。みなさまもご存じのようにこの「しあわせなら手をたたこう」は1964年の東京オリンピックの年に大流行し、日本を訪れた各国の選手や観光客と共に歌われ世界に広まっていったのです。
木村さんは、平和のしあわせを大事にし、共に手をたたいて喜び、態度に示して手をつなぎ、お互いに助け合おうという願いがこめらて作詩されました。そこには実にキリスト(教)の愛の精神が息づいていたということです。それは又、木村先生のご専門分野であられるバイオエシックス(生命倫理)の根本にある精神と一つに重なり合っている、ということでありました。私は今回この木村利人さんのご講演をお聞きしながら、私もクリスチャンでよかったと思いましたし、本当に励ましと元気をもらいましたね。
今日の3節「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ、険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」とありますが。私たちも又、主にある帰還の約束に備え、主に向きを変えつつ態度に示して、キリストの愛と平和を胸にあらゆる違いを超え、手をつなぐあゆみを、今日もここからはじめるべく遣わされてまいりましょう。