日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

帰還の約束

2014-10-26 12:43:02 | メッセージ
主日礼拝 イザヤ40・1-11      

このイザヤ書の40章はユダの国がバビロニアによって滅ぼされ、多くの者がその捕囚とされた時代、この民の中から主に召し出された第二イザヤとされる人物が、最初に主から受けた預言の言葉であります。その内容は6章の記事と対比して読むとさらによく理解することができます。
6章でイザヤは神さまに召し出され預言者として遣わされるのですが、ユダの人々に託された主の言葉は、まことに厳しい「懲らしめと審判」でありました。そして遂に預言通りユダと都エルサレムは主の言葉の前に悔改めることなくバビロ二アによって滅ぼされてしまうのです。多くの人が殺され、家々は焼き払われてがれきと化し、能力や役に立つ者はみな捕囚としてバビロンに連れていかれ、もはやイスラエルの民としての土地も生活も、アイデンティティーさえも失われていく。そんな暗闇の時代を彼らは経験しなければなりませんでした。
しかしその中で、この40章からの第二イザヤを通して、バビロニアの捕囚民とユダのエルサレムに残されたる民に神の救いと回復の希望の言葉が語られていくのであります。それは2世代、3世代の後という長い年月を経て、遂に主の導きによるエルサレムへの帰還という形で実現されていくのです。
もはや、神の激しい憤りと裁きの時代は終わり、神からの慰めを受ける新しい時代の始まりが告げられています。エルサレムの滅亡以降、神からも見捨てられた者のようであった捕囚の民、又ユダに残された民に対して、主は1節にございますように「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と第二イザヤに語られるのであります。

2節にこう記されています。
「エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。」
主なる神さまは、罪と咎のゆえに打たれユダの民を、いつまでも捨ておかれることなく、その「苦役の時が満ち、咎は償われた」と宣言なさるのです。このお言葉は、ユダのすべての人々にとってどれほど大きな魂のいやし、心の拠り所となったことでしょう。

さて3節以降には、主なる神さまが、バビロニアから捕囚の身となっている民らを伴ってエルサレムに帰還なさる、ということが語れています。
ここに「主のために、荒れ野に道を備え、わたしの神のために、荒れ地に広い道を通せ」とありますが。それは民の帰還に先立たれる神さまのために、又民と共なる神さまのために道を整備しなさい、と命じられているわけですけれども。ただそれは、ユダの人々が何か準備するとか計画を立てるというようなものではありません。
実はその帰還への道は主である神さまご自身が備えてくださるのであります。
この「荒れ野に道を備え」の「備え」という原意は、実は「一つの方向に体を向ける」ことを意味します。つまり、神さまは、ご自分に向き直って生きていこうとする者らを伴って、エルサレムへの帰還を果たされる。神さまがその栄光の道を備えてくださる、というのであります。
私たちも又態度でもって、主なる神さまに向きを変え、主に向き直って生きていこうとする時、神は荒野のような場所に道を備え、あらゆる険しい道も平らにし、どんな狭い道も広い谷となしてくださるのです。そこに主なる神さまご自身が共にいてくださるからそのようになるのです。
また、「主の栄光がこうして現れる」の現れるとは、隠されていたものが顕わになるという意味であります。かたくなに神さまの愛とゆるしを拒む人には、神の栄光は隠れていて見ることができません。しかし、神さまの愛とゆるしに向き直り、それを受け入れた人には、神さまのお働きがあらわにされ、それを知ることができます。恵みによってそのような霊の眼をいただくのであります。

さらに6節~8節に次のように記されています。
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の草のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけるのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが わたしの神の言葉はとこしえに立つ。」
ここには人の世の「虚しさ」が語られています。この地上のいかなる栄華を極めた王や
権力者であっても、勇者であっても草や花が枯れしぼむのと同様、例外なくいずれは朽
ち果てます。この地上のもの、肉なるものを頼みとしてそれにしがみつき、固執するの
は虚しいことであるのです。
新約聖書のヨハネ第一の手紙2章17節には「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」と記されています。
肉に属するものは朽ちていきますが、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
神さまは私たちの世の虚しさ、荒れ野のような人生にも勝利の道を拓き、永遠の命に通じるその道を「真理の御言葉」によって歩ませてくださるのです。

私はそのことを思う時、何と素晴らしい道、何と確かな道を与えられことか、と感謝が湧いてくるのです。確かな目的のないうつろいゆく人生はどんなに虚しいことでしょう。神の愛を知らずに滅びゆくことはどんなに悲しいことでしょう。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」私どもにとってこの「神の言葉」とはいうまでもなく、救い主イエス・キリストでございます。

さて、9節「高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振って声をあげよ 
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな ユダの町々に告げよ。」
良い知らせを告げる使者が派遣されます。
ここで目に留まりますのは、良い知らせはエルサレムやシオンといった中心の都だけで
なく、荒れ果てて住民も家々も殆ど消えうせた近郊のユダの町々にも伝えられる必要が
あったということです。
主は、聞くには聞くが理解することのない。見るには見るが悟ることのなかった民を裁
かれ、その栄光はユダの国から去った。そして今、去られた神さまが再び戻って来られ
ユダの国の都も小さな町々までも、慰めと回復を得るのです。その大いなる喜びの知ら
せです。
「見よ、あなたたちの神 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ 御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い 主の働きの実りは御前に進む。主は羊飼いとしての群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

まずここには、「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神」と、2度も「神を見よ」と
語られています。第二イザヤが最も大事にしているのは、主なる神、救いの神さまを見
上げていくところにございます。それは先程も触れましたが、主の方向に体を向ける、
主の方に向きを変えることです。そこに真の幸いが臨むのであります。
その神さまは力を帯びて来られ、御腕をもって統治されるお方です。それは、かつてイスラエルをエジプトから導き出された時と同様に、再び捕らわれの民をバビロニアから救い出されるのであります。主の御腕は力を帯びているのでありますが、同時に羊飼いがその群れ守り養い、散らされた羊たちを集め、小羊をその懐に抱くように、民を導きお治めになるのです。その統治のもとにおいて主を仰ぎ見ていく神の民は、主のこのような細やかな保護と導きを受け、ゆたかに生きていくことができるのです。
私たちクリスチャンはこの地上にあっては主と共に歩む確かな道が備えられている
ということを感謝したいと思います。又、今日は「帰還の約束」と題し御言葉を聞き
ましたが。私たちはこの命の道の先に「帰還の約束」を戴いていることをさらに感謝したいと思います。それは、やがて再びこの地上に来臨される私たちの主イエスの帰還であります。その最終的喜びの時が来ることを、「マラナタ」:主よ、来たりませ、と待ち望んで生きる希望と喜びが与えられていることを本当に感謝します。第二イザヤに臨んだ主の言葉は、主イエス・キリストによって今も私たちに命の力をもって語りかけてくるのであります。

最後に、一昨日JR西日本安心財団主催の「いのちを考える」連続講座に参加しました。講師は木村利人(りひと)さんという40年間に亘り「バイオエシックス(生命倫理)」のパイオニアとして研究と教育に従事なさっておられる方でした。このバイオエシックという言葉を私は存じませんでしたが、医療の現場でよく用いられるインフォームドコンセント、あるいはコンプトという言葉をご存じの方はおられるでしょう。患者さんの側に立った病状の告知や治療目的の説明及び提案がきちんとなされ、患者さんはその処方箋や治療方法を理解して選択していくということですが。一昔までは病院やお医者さんの一方的な医療方針で、患者さん自身で自分の病の理解や治療に関する選択枝もなかったのですが。近年からこういうインフォームドコンセント、あるいはコンプトが大事にされてきたのです。これもバイオエシックス(生命倫理)から生まれたものであるとのことでした。
この木村先生は現在80歳になられるのですが、少年時代にかつて戦争を経験なさった世代でいらっしゃいますが。当時木村さんは大東亜共栄圏(アジアの解放)という理想社会の実現のための聖戦と軍国教育をたたきこまれて戦争したはずであるのに、戦後青年時代に日本がフィリピンの多くの人々の命を奪い崩壊させた事実を知らされ大変な衝撃を受けられたそうです。木村さんはその時YMCAのボランティアキャンプに参加なさっていたそうですが、ある夜、フィリピンの仲間の一人が涙を流しながら木村青年の手をとってこう言ったそうです。「今度の戦争で父親を失った、日本軍と日本人が憎らしく、どうしても許せなかった。しかし、今、日本人の若い世代の君にこうして平和の中で一緒に仕事をし、汗を流し、心に変化が起きた、過去をゆるし、未来に向けて悲惨な戦争を再び起こさぬように若いぼくらが誓い合おう」と。
その時、木村さんは一人の日本人として罪責感に苛まれ、フィリピンの方々に謝罪していかれたそうです。するとフィリピンの方々は木村さんを暖かく迎え歓待し、木村さんはゆるしを得ることができた、ということでした。そしてこのような和解の出来事の中に実はキリスト教の愛とゆるしの精神があったことに気づかれたそうです。その体験をもとに木村さんは大学生の時に作詩をなさいまして、それがあの坂本九さんが歌って一躍客光を浴びることになった「幸せなら手をたたこう」という歌だった、ということでした。
YMCAの奉仕活動で出会った青年がそのゆるしと和解の思いを「態度に示して」くれたこと。又、そこには木村さんご自身が謝罪と平和への願いを「態度に示された」こともあったでしょう。そうしてあの、「しあわせなら手をたたこう、しあわせな態度でしめそうよ、ほら みんなで手をたたこう」という歌になったということでありました。  
また、この歌は実はですね、木村さんが詩編47編をヒントにして作られた歌でもあったということで、私はさらに驚いたのでありますが。47編2節には「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫び声をあげよ」とあります。みなさまもご存じのようにこの「しあわせなら手をたたこう」は1964年の東京オリンピックの年に大流行し、日本を訪れた各国の選手や観光客と共に歌われ世界に広まっていったのです。
木村さんは、平和のしあわせを大事にし、共に手をたたいて喜び、態度に示して手をつなぎ、お互いに助け合おうという願いがこめらて作詩されました。そこには実にキリスト(教)の愛の精神が息づいていたということです。それは又、木村先生のご専門分野であられるバイオエシックス(生命倫理)の根本にある精神と一つに重なり合っている、ということでありました。私は今回この木村利人さんのご講演をお聞きしながら、私もクリスチャンでよかったと思いましたし、本当に励ましと元気をもらいましたね。

今日の3節「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ、険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」とありますが。私たちも又、主にある帰還の約束に備え、主に向きを変えつつ態度に示して、キリストの愛と平和を胸にあらゆる違いを超え、手をつなぐあゆみを、今日もここからはじめるべく遣わされてまいりましょう。

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切り株から希望の芽が

2014-10-19 13:04:56 | メッセージ
主日礼拝 イザヤ11・1-10       

先日、人権を大切にする共生社会をめざして「へイトスピーチについて考える」というテーマで郭辰雄(カク・チヌン)さん(コリアNOGセンター所長)のご講演を聞く機会がありました。ヘイトスピーチは、生まれ、門戸、国や民族など自分で選ぶことができないもの、それを特別な属性として差別と排除の意図をもって暴力や誹謗中傷する言動であるということです。そしてこういった人種差別は人を死に追いやり、戦争につながっていくということであります。ユネスコ憲章の前文に「すべての人の心に平和の砦を」という言葉が謳われていることをあげて、戦争は「人を人として認めない」「憎悪の念を植え付け」「人を恐れる恐怖心を教えこむ」ところから起こる。それは「人の心の中に生まれるものであるのだから」、私たちはそれに抗する心に平和の砦を築いていく人権感覚をあらためて深めていくことが大事だということを、おっしゃられていた言葉が心に留まりました。社会的な構造悪というものは確かにありますが、その構造を変えていくには「すべての人の心に平和の砦を」とあるように、やはり一人ひとりの「心」や「魂」の根っこのところが大事であるということを強く思わされました。

本日はイザヤ書11章より「切り株から希望の芽が」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。今日のイザヤ書の箇所は、キリスト教会では「この若枝こそ救い主メシヤ、キリスト」の到来であり、預言の成就であるということで、クリスマスを祝うための待降節にもよく読まれる箇所でもございます。

この預言がなされた時代背景は、紀元前722年の北イスラエルがアッシリアによって滅び陥落した後、南ユダも又そのアッシリアの脅威にさらされる状況下で、イザヤはそのユダに向けて、10章24節「シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れるな」「主の怒りは彼らの滅びに向けられる」と語ります。
さらにイザヤは、10章33節「見よ、万軍の主なる神は 斧をもって、枝を切り落とされる。・そびえ立つ木も切り倒され、高い木も倒される。主は森の茂みを鉄の斧で断ち レバノンの大木を切り倒される」と言うのでありますが。それは大国アッシリアの傲慢と偶像礼拝による滅びであると同時に、何と南ユダもまたその主への背信と罪のゆえに台頭するバビロニアによって滅ぼされる、という真に厳しい裁きの預言でありました。
主の言葉を聞きながら悔改めることのなかったユダは後にバビロニアによって崩壊の途を辿り、都エルサレムも遂に壊滅的な状況とされるのであります。それはかつて日本が戦争に破れ、焼け野原となった光景と重ねて見る事もできましょう。
エルサレムの神殿は倒壊し、その周辺の家々は焼き払われ、廃虚と化し、若者らは捕囚として連れ去られ、まさに切り倒された大木の切り株のみが残されるような惨たんたる結末を迎えるのです。
ところが、11章1節「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。」

これで終わりではなかったのですね。主なる神さまは彼らがその裁きのため滅ぼされることを決してよしとはなさいません。神さまのご計画は人の目に見えないところにおいて着々と推し進められていたのであります。
この「エッサイ」とは、統一イスラエル王国の初代王であるダビデの父親の名です。ダビデはエッサイの7番目の末っ子であったのですが、神の召命によりイスラエルの王となるのです。列王記や詩編には、ダビデの人としての弱さや罪深さまでもありのまま記されておりますが。その人間くさいといいますか、神さまに依りすがらなければ到底立ち得ないその祈り、嘆願、その賛美というものは、時代を越えた今の私たちにも深い共感を与えて続けているのであります。
まあ、そのようなダビデ王が築き治め、ゆたかな葉を茂らす大木のようになったイスラエルの王国もやがて南北に2分され、北イスラエルは滅び、遂に南ユダも切り倒される木のように滅びるしかない裁きの時を迎えるのであります。しかし、今日の聖書はその切り株からひとつの芽が萌え出でる、というのですね。
このエッサイの大木は切り倒されて切り株のみが残りましたけれども、そうです、その根っこの部分はしっかり生きていたのですね。「その根からひとつの若枝が育つ」のです。根っこのところというのは土の下ですから目には見えません。大木でありますならその根はその地表に現れる大木の大きさの何倍何十倍もの大きな根を地中に張りめぐらしているものです。根のことをルーツと言い、根源とか根本、核心あるいは基礎というのもルーツです。ユダの人々にとってのルーツ。根っこはまさしくアブラハムから脈々と受け継がれてきた救いのバトン、それは弱く小さい民を選び導かれる神さまへの信仰でありました。
この根っこをして語っているのは、「大事なものは目には見えない」という事であります。この地上、世界にあって人を生かし支えているのは、目には見えないもの、希望や夢。愛。私たちにとりましてそれはまさしく「信仰」であります。それは人の目には見えませんが、この世界の根底にあって芽ぶき育ち実らせる原動力となっているのです。

さて、話を戻しますが、イザヤは、この切り倒されたエッサイの切り株から、若枝、すなわち平和の王(メシア)が出現なさると預言します。そしてこの王がダビデやソロモンといった世的な王と異なりますのは、「主の霊がその上にとどまる」という点です。
2節にありますように「知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊」に満たされた全く新しい王である、という点でありました。
さらに、この新しい王は3節以降で語られるように「目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭でもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義を腰の帯とし 真実をその身に帯び」と、そのように世界を治めるお方だというのです。
これまでの旧約聖書におけるたとえばサムソンやギデオンのような士師たち。彼ら12人はイスラエル王国が出来るまでの間さばき司として仕えたとされますが。彼らはイスラエル王国成立のために主に軍事的指導をなした者たちでありました。
今巷では「軍事官兵衛」の大河ドラマがヒットしておりますが、彼も「シメオン」という洗礼名を有していたようで、クリスチャン武将として戦国の世においてその軍事的手腕と知恵は人並み外れていたということが評価されております。けれども旧約時代の士師たちや黒田官兵衛らのその活動も、限定的なものでまた限界をもっていたと言わざるを得ません。いかなる軍事力や武力によってしても恒久平和は築かれるものではありません。ましてや6節以降に暗示されるような共生、共存の世界は実現しないのです。
意味じくもイザヤ書2章4節、5節に終末の平和についての預言がこう語られています。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ。主の光の中を歩もう。」
この預言の言葉はまさに日本国憲法9条と共鳴しているように私には思えるのであります。時代を越えても決して変わらない聖書の真理は今も生きているんですね。この福音の響きを有する憲法の精神がどうか守られますようにと祈るばかりでありますけれども。イザヤが預言する「新しい王」は、世の論理や見える権力や武力によって裁くのではなく、「主の正義と真実を帯びた王」として、弱い立場に立たされた人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護されるお方であります。又、そのようなご意志逆らう者らをその正しいみ言葉によって打ち、断罪なさるお方でもあられます。
新しい王による統治は、これまでのイスラエルの政治的、民族的な王国と結びついたものではありません。切り倒された木に象徴されるように、権力による支配は終わり、血筋による継承は断たれるのです。そしてそこから芽生え育った若枝、主の霊がとどまるメシアなる王によって全く新しい救いのご計画が始められていくのであります。
6節以降では、その平和の王が治める世界観が描かれているのであります。
「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さな子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの
 聖なる山においては 何ものをも害を加えず、滅ぼすことはない。」

そのようにダビデ王に勝る、平和の王であられるメシアのもとでは、神と人との和解、国々の平和がもたらされるのです。それは「狼は子羊と共に宿り」「乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる」ごとく、もはや対立や恐れもない。世の力に小さくされていた者をもはや脅かすものもない。敵対していたものが牙をむくこともない。あたかもそれは天地万物の造り主であられる神さまが創世記1章において、すべてのものを創造し終えた時にそれらを御覧になって、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1章31節)とおっしゃった、そのような世界であるでしょう。まさに「大地が主を知る知識で満たされる」とありますように、あらゆる国々のあらゆる民が、国や民族を越えて共々に主なる神さまの臨在とその働きを知るに至るときが訪れるという素晴らしいビジョンが語られているのであります。

10節「その時が来れば エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。

イザヤ自身は地上の生涯においてその出来事を目にする事はありませんでしたけれども、彼はその出来事が将来必ず実現するとの信仰による希望を抱いていました。
イザヤの時代から700年余の想像しがたい幾多の道のりと苦難の時代を経、遂に神の御独り子イエス・キリストが真の救い主、平和の君としてユダの地にお生まれになられたのであります。それも単にユダヤ人、イスラエルという民族や国だけの救い主ではなく、すべての民、世界のメシア、平和の王としてお出でくださったのであります。私たちも今こうして、その旗印を見上げ、その栄光を拝しているということでございます。

最後に、今日のこの「平和の王」と「その御国」についてのイザヤの預言というのは、当時のユダヤの状況と現実的にはあまりにもかけ離れたものであったと思うのです。
けれども、イザヤはそれでもこの「平和の王」到来の預言を掲げ、かたくなな聞く耳をもたないユダの人々にそれでも訴え続けていったのですよね。
私たちの生きる世界や時代も戦争や紛争が後を絶えません。平和への道のりは険しいばかりです。しかし、私たち一人ひとりも又微力ながら、イザヤのように主の約束とそのお言葉を信じ、望みながら、平和の王として来られたイエス・キリストに倣い、和解の福音に生きる者として、それぞれの場所に今週も遣わされてまいりましょう。
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神の告発と招き

2014-10-12 12:45:08 | メッセージ
主日礼拝 イザヤ1・10-20       

お帰りなさい。七日の旅路を守られ主の礼拝へと導かれましたことを感謝します。
先週はノーベル物理学賞に日本人三人の方々が受賞されました。又ノーベル平和賞の発表もあり日本国憲法9条がとれなかったのは残念でしたね。しかし、すべての子供の教育を受ける権利のために危険を顧みず活動するパキスタンの女子青年マララさん17歳と、インドで不当に就労させられている子供たちの解放を支援する活動を長きに亘り続けてこられたサティアルティさんが受賞されました。素晴らしいですよね。お二人の受賞は、多くの人々にインパクトを与え、平和な世界が築かれるため人がどうあるべきかを考えさせてくれるよい機会となりましたことに感謝したいと思います。
また、先週に引き続き台風19号接近しているということで今回は非常に大型と聞いております。風も強まっていますが、その影響が気がかりです。どうか大きな被害が出ませんようお祈りいたしましょう。

さて、本日はイザヤ書1章から「神の告発と招き」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。この「告発」ということで、先週は二つの出来事に目が留まりました。
一つは、アスベスト公害についての被害者の方々の「告発」です。最高裁がその訴えを認め、国に過ちがあったとの判決を下したというニュースでした。もっと早い対策がとられていれば、という被害者の方々の訴えは、人のいのちよりも経済成長を最優先にしてきた日本の国と社会に対する「告発」です。そしてもう一つは、香港の学生たちによるデモです。真の開かれた選挙が行われるために非暴力で訴えている彼らに向かって催榴弾を投じ力で制圧しようとしている為政者たち。学生たちの叫びは民主的な選挙を認めようとしない権力の横暴に対する「告発」であります。正義はどこにあるのか?今の時代の私たち自身、「告発」する者であり、「告発」される者でもあります。そんな思いでこのイザヤ書をご一緒にひもといていきたいと考えております。

先週は6章より預言者イザヤの召命の記事を読みました。彼はその時、主の臨在に触れ、主の御使いらが「聖なるかな」と、その栄光を賛美するのを聞くのでありますが。イザヤは御使いらと共に主を賛美することができませんでした。それは、ユダの国の民を裁き、断罪した自分もまたその罪人の一人であることを思い知らされたからです。
イザヤは「わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」、もう自分は滅される者でしかない、とその罪を主に告白するのであります。しかし主は、その罪を告白するイザヤの咎と罪を赦し、主の預言者として立て民のもとへ派遣していく、というそのようなエピソードでありました。
大事なことは、イザヤ自身もまた唇の汚れた者である、という罪の自覚をもって主の言葉を伝えるか否かによって全くそのメッセージの内容が変わってくるということです。自分は彼らのようではない、とか。彼らはどうして改めないのか、というように。自分は高い所から又、外側からの視線で人を裁き、断罪するのであればそれは偽善そのものになります。私たちもまたイザヤが真に主に立ち帰って、新しく生まれ変わったように、主と相対して、いつも自分の立ち位置を確認しながら、主の御業に励んでいきたいと思います。
ところで、本日1章のイザヤに臨んだ「ユダの審判」から始まります主の語られた御言葉自体は間違いないもの、揺るがぬ真実でありました。それは天の法廷さながらであり、被告のユダに向けて、原告である神さまが「告発」なさっているという大変厳粛な場面であります。その神の告発の中心は、ユダの礼拝(祭儀)にありました。
主なる神さまは11節以降で次のように厳しくユダを告発します。
「お前たちのささげる多くのいけにえが わたしにとって何になろうか。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが 誰がお前たちにこれらのものを求めたのか わたしの庭を踏み荒らす者よ。」 大変厳しいお言葉であります。さらに続けて「むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など 災いを伴う集いにわたしは耐ええない。お前たちの新月祭や、定められた日の祭を わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほどの祈りを繰り返しても、決して聞かない。」どうして彼らの礼拝を神さまはこんなにも嫌がられたのでしょう。それには2つのことを知る必要があります。1つは、これらの告発を受けたのは、ユダのエルサレムに住む権力者や富める人たちであったということです。もう1つは、彼らの繁栄が社会的に弱い立場におかれた人々の上に成り立つものであったという事です。
ウジヤ王の治世下、ユダの国は経済的に繁栄します。そういう中で、神殿では数多くの献げものがささげられます。ところが、エルサレムの神殿から一歩出た社会では、その豊かさとは裏腹に生活困窮者があふれかえっていました。この神さまのお言葉は「礼拝」を行う事そのものを否定されたということではありません。神さまは「礼拝」を捧げている一人ひとりの実際の生き方を、ここで問うておられるのです。神を礼拝していると言っても、実際に神の愛と赦しをもって、それぞれの生かされている場に恵みを受けた者として相応しい歩みがなされていないのなら、献げもの、いけにえも虚しいではないか、と嘆いておられるのです。

主なる神さまは15節以降で次のように言われます。
「お前たちの血にまみれた手を 洗って清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ 善を行うことを学び 裁きをどこまでも実行して 搾取する者を凝らし、孤児の権利を守り やもめの訴えを弁護せよ。」
このウジヤ王の時代は、経済成長を遂げるその一方で社会の階級化が進んでいき、神殿で礼拝をする者たちの大半は裕福で経済力や地位のある者たちであったことが推測されます。繁栄とその豊かさに酔いしれる彼らの心は鈍くなり、神殿の祭儀や礼拝はもはや彼らに神の救いと戒めとを思い起こさせるものとはならなかったのです。結果、不正や搾取がまかり通り、社会的に弱い立場におかれた人たちが顧みられる事はありません。

話は変わりますが、日本の敗戦後の焼け野原から再生し、経済成長を遂げてきたのは今の後期高齢者の方々でありますが、さらに経済、産業を底支えしてきたのは人手不足の最中、よせばと呼ばれる釜崎や山谷での日雇い労働者の方々であったことを、決して忘れてはならないことを、私は20数年前大阪に来たときにその歴史と実体を遅まきながら知らされたのですが。今日もまた、原発事故後の過酷な処理作業のために、釜ヶ崎からフクシマに雇われ使い捨てのようにされていく生活困窮者の方々がおられ、そのような現状にも拘わらず原発再稼働に向け、事故の際誰がその収拾のために働くのかあてもないまま事を進めようとする人たちがいるという現実であります。過酷な負担や危険を弱い立場のおかれた人に負わせている社会の構図を知るとき、イザヤではありませんが、「ああ本当に私たち人間は罪深い。なんと罪深いのか」と思い知らされるのであります。同じ過ちを繰り返さないために、やはり再稼働は人の道理に反すると思います。

話を戻しますが。主なる神さまは、16節以降で「悪い行いをわたしの目から取り除け。悪を行うことをやめ、裁きをどこまでも実行して 搾取する者を凝らし 孤児の権利を守りやもめの訴えを弁護するように」と命じます。

先程も言いましたが。これはユダにおいていわゆる地位や立場のある祭司、預言者、役人、地主や商業主の人たちに向けられた言葉であります。主が彼らに求められるのは「自己吟味の徹底」であります。1章2節以降に「わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。牛は飼い主を知り らばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず わたしの民(ユダの民)は見分けない」と主が指摘しているように、イスラエルの民のルーツは、もとは小さく貧しい民であり、奴隷のように扱われ、寄留者であったのに、主なる神さまが、そのさまよい行く小さきイスラエルを選び、モーセを通して解放させられたうえに、このユダの人々が存在しているということであります。それは、ただ神の憐れみ以外の何ものでもなかったということを、忘れてはならないということです。ユダの人々は、その神の憐れみをもって神と人を愛して生きることが、期待されているのです。
また、主は、ユダの虐げられる生活困窮者の訴えに耳を傾けておられ、その苦悩や痛みをご存じであられます。しかし人はなかなか他の人の苦悩や痛みに気づくことができません。このイザヤの時代から700年余りの時を経て、遂にメシヤ、救い主がお生まれになります。イザヤ書53章にはそのメシヤは輝かしい風格も好ましい容姿もなく、彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。そのようなお方として来られると預言されています。それは、神さま自ら苦悩と痛みを負う者となられた、ということであります。私たちはこのメシヤ、イエス・キリストを通して、苦しみ痛む人に寄り添い、共に歩まれる神さまを見、私たち自身もこの慰めと励ましのうちに隣人の痛みに無関心でいることがないように促されるのであります。

さてそして、今日の箇所の中心部分である18節以降を読んでみたいと思います。
「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも 雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても 羊の毛のようになることができる。お前たちが進んで従うなら 大地の実りを食べることができる。かたくなに背くなら、剣の餌食となる。主の口がこう宣言される。」

これは単に、議論や討論をすることが大事ということを言っているのではありません。私たちは互いに論じ合うとき、お互いに向き合って顔と顔、目と目を合わせ会話します。そのように神と私が向き合う姿勢を神さまは求めておられるということです。
それは真に神に立ち返って生きる、ということでもあります。そこに「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても 羊の毛のようになることができる」という驚くばかりの恵みが、与えられるのです。それはまさに、私どもにとりましてはイエス・キリストの贖いであります。
主なる神さまは、ユダの人々に「わたしと向き合って生きるように」と招かれ、主に自ら進んで従う中に、ユダの民の祝福があることを大地の実りにたとえて示されます。
主イエスの十字架の贖いによる赦しと救いを受けた私たちも又、今日の箇所は決して耳ざわりのよい話ではないでしょう。しかしイエス・キリストの愛と救いが、主の大きな自己犠牲の上に与えられているものであることを知るとき、私たちもまた、「主の告発と招き」に謙遜に耳を傾ける者でありたい、と願う者であります。

今日は「神の告発と招き」と題し、御言葉を聞いてきました。
主は罪人を断罪するために告発されたのではありません。それはユダの人々、この地上の人々が真の神さまに立ち返り、愛と憐れみの救いに与り、その喜びをもって恵みに相応しく生き、真の幸いを得ることを何よりも願っておられるのです。

最後にヨハネ3章16-17節を読んで宣教を閉じたいと思います。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
今週も主の救いの招きの言葉をもって世に遣わされてまいりましょう。
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罪の告白と新生

2014-10-05 15:53:41 | メッセージ
主日礼拝宣教 イザヤ6・1-13      

本日から11月末まで、礼拝ではイザヤ書から御言葉を聞いていきます。
先週までの創世記から随分時代はとびますが、イザヤは南北に分断された南ユダ王国で働いていた祭司でした。
本日はその6章初めの、イザヤが主の召命を受け、預言者として立てられていく箇所であります。何で1章でなく6章かと思われる方もおられるでしょうが。イザヤは1章の初めに記されているように、ユダの王であるウジヤの治世から、宮廷専属の祭司として活動していたようであります。まずその背景を踏まえて今日のこの6章の主の召命があったということです。

ウジヤ王がユダ王国を治めていた当初は、高度成長が進み大変繁栄していました。ところがウジヤ王の時代の後半は、富の不公正、社会の階級化が著しく、それはあたかも今日の時代と同様に、経済一辺倒の政策を推し進める中で一部の富む者と多くの貧しい者の格差社会が拡がっていったのであります。
ウジヤ王は、その名が「ヤハウエはわが力」と示すとおり、神に仕える祭司でもありましたが、その晩年にはおごり高ぶり彼はもはや神を頼りとせずユダの国は堕落していくのです。礼拝や祭儀というものは形だけのものとなり、政治と宗教は腐敗していき、人々の間からは正義と慈悲の精神が失われ、神の悲しみと怒りをまねくこととなってしまうのです。

イザヤはそのようなウジヤ王の時代にあって、エルサレムとユダの国に対する神の審判、又、高ぶる者に対する審判を語り、富める者の横暴を非難します。遠くからの侵略者による審きを1章から5章で予告し、民に厳しい言葉で神への悔改めを迫ります。まあそのような時代背景がございました。

本日の6章はイザヤが預言者として主から召命を受けた時の記事でありますが。それはウジヤ王が死んだ時のことと記されてあります。神はウジヤ王の存命中は少なくともユダの国が滅ぼされることはないと約束しておられました。つまり、イザヤはウジヤ王存命中からユダの祭司や預言者として活躍していたのでありますが、この王権と時代が移り変わる時にイザヤは主なる神を目にすることにより、真の預言者として新たに主によって立てられた、というのが今日のこの箇所なのであります。

ここでイザヤは主の神殿、礼拝の場所において「主なる神が高く天にある玉座に座しておられるのを見た」と言っていますが、この衣の裾が神殿いっぱいに広がっている様は、その統治が隅々にまで及んでいることを表しているかのようです。
そこにセラフィムたち(神託を伝える天の使たち)が互いに呼びかわして唱えた声をイザヤは耳にしました。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
聖書には、この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた」とあって、それは神の顕現を示すものと言われていますが。これはただの現象であるだけでなく、主なる神さまの天上の統治とその力がこの地上で起こり、その働きがすべてを覆うものであることを示しているのです。
 
しかしイザヤは、そのようなセラフィムたちの「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」との荘厳な賛美を耳にした時、彼は共に賛美することができなかったのです。

そればかりか、彼は次のように告白するのです。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は 王なる万軍の主を仰ぎ見た。」

イザヤは主の栄光を前にして、セラフィムたちと一緒にそのように賛美し互いに呼び交わすところに自ら立ちえないことを思い知らされるのであります。
それは彼自身が「汚れた唇の者であり、汚れた唇の民の中に住む者」、つまり言葉や口先では主を敬っていながら、その実不正にまみれ主の戒めを蔑ろにしている者でしかない。まさに彼が「わたしは災いだ、もう滅ぼされるしかない」と言っているように、自分がこれまで民に向けて語ってきたメッセージの数々が、意味をなし得ず、自らの汚れた唇が語ったものに過ぎないことを思い知らされるのであります。そこにはイザヤの上からの目線で人を裁くおごりもあったかも知れません。自分は彼ら罪人とは違うという思いがあったのではないでしょうか。
しかし実は、わたし自身も「汚れた唇の民の中に住む者の1人であるのだ」という自覚と罪の告白へイザヤは導かれるのです。ここを読む時、人ごとではないなと思います。クリスチャン、キリスト者は、自らが罪人なのだということ、それだからイエス・キリストの流された血、裂かれた体による贖いが必要である、ということを忘れてはならないのです。それを忘れてしまうとクリスチャンであっても自分のことを棚に上げ、人を裁いてしまったり、ユダの民のように神の愛から離れ背いていってしまうんですね。

さて、イザヤはここで主を見た。そしてその罪深さのゆえに滅びるほかない、と思ったのです。すると6節「セラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来、祭壇から火鉢で取った炭火を、イザヤの口に触れさせ」、こう言ったというのであります。「見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
この炭火は単なる炭火ではありませんでした。イスラエルでは歴史のその初めから人の罪を清めるために神へ様々な動物が捧げられ、火で焼き尽くされてきました。その炭火には贖いのために焼かれた数えきれない動物の血が染みついていたのです。つまりイザヤの口に触れた熱い炭火、それは「贖いの炭火」であったのですね。
イザヤはこの贖いの炭火によって「その咎は取り去られ、罪は赦された」のです。それはほんとうに神の一方的なみ業、お取り扱いによるものでした。

このイザヤの罪の告白と主のお取り扱いが、イザヤを新しく生まれ変わらせ、真の神の僕、神に仕える者として立てられる原体験となっていったのであります。
この炭火は私どもクリスチャンにとりましては、言うまでもなくイエス・キリストによる十字架の贖いであります。私どもの信仰の原点はまさしくここにあるわけですが。

8節「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』 わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしをお遣わしください。』 すると主は言われます。「行け。」

神は、咎を取り去られ、罪ゆるされた者を招かれ、お用いになられるのです。
この世はその働きに能力を要求します。しかし、神さまがお用いになるのは本当に救いに与った人、神の救いの恵みを知る人なのです。罪赦された感謝と救いに与った喜びのあせない人を神さまは信頼し、お用いになるのです。

そのような事ですから、ここでイザヤが「わたしがここにおります。わたしをお遣わしください」と言っていますが。それは何か自信満々に、私に能力があり、私ならやれると思ってそう答えたのではないことがわかりますよね。彼はきっと、「このような者をも用いてお役立てくださるのなら、どうぞ主よ、お使いください」と、ただ主の御憐れみのみによって答え得たのでありましょう。

さて、このようなイザヤの応答に対して、主は驚くべきことをその派遣に際して語られるのです。
主は言われた。「行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔改めていやされることのないために。」

これはどういうことだろうと皆さんもお思いになられたのではないでしょうか。
ユダの民らは主の言葉を聞くけれども理解せず、実際それらの出来事を目にしていくとしても悟り得ない、と言うのです。どんなにイザヤが主の御旨を伝えても、ますます彼らの心の目は暗くなり、その心はかたくなにされ、悔い改めることがない。主は、イザヤをその民らのもとに遣わし、イザヤは主の審判を語り続けなければならないのです。何と希望もなく、無駄な骨折り、徒労のような働きではないでしょうか。

しかし、それに対してイザヤは、なぜですか? どうしてですか?とは聞かず、「主よ、いつまででしょうか」と尋ねます。普通であれば、そんな意味もないことをするのはどうしてですか、と言いたくもなるところでしょう。けれども、イザヤは「主よ、いつまででしょうか」と問うのです。実はこの「いつまででしょうか」という問いは、単なる抗議のようなものではなく、イザヤの願い、祈りがそこに込められた言葉なのです。それは、イザヤ自身がまさに主の御憐れみによって罪ゆるされたこの救いの喜びを、ユダの民らも共にする日が来るのはいつなんですか、という主への祈りであり、信仰の問いかけであったのです。

しかし、主の答えは変わらず厳しいものです。「町々が崩れ去って、住む者もなく 家々には人影もなく 大地が荒廃して崩れ去るときまで。」

その後イザヤと主との対話はありませんが、イザヤはこの主の派遣のメッセージを背負いつつも、汚れた唇を清め、罪を赦してくださった主の御憐れみをいつも忘れることなく、ユダの同胞もいつかは主に立ち返って、主の御憐れみに与る日が来ることを祈り、願いつつ、預言者としての務めを果たしていったと思うのであります。

イザヤが預言者としていつも出発した原点は、私もユダの民の中に住む罪も咎もある者の1人である、という自覚であります。ただ主の御憐れみによる赦しと救いを受け、主によって生まれ変わり生かされている。そのことをいつも忘れることなく、彼は「民の外から」言葉や口先だけで語るのではなく、「民のただ中で」主に打ち砕かれた救われた者として主のメッセージを語っていくのであります。
聖書は、12節以降で「主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。なお、そこに十分の一残るが それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切株が残る。その切り株とは聖なる種子である」と語られていますが。
これはこの時代既に起こりつつあった北イスラエル王国の滅亡、さらに後々の南ユダ王国の滅亡と捕囚の出来事を示すものであり、その残りの民までも焼き尽くされ、切り倒されてしまいますが、それでも切株が残る。その切り株とは聖なる種子。口語訳聖書でははっきりと「聖なる種族」と訳されています。つまり、その人たちこそ神の救いとその喜びを共にする人たち、神の民であります。そして何よりも、その切り株からやがて芽生える「ひこばえ」こそ、すべての民の救いの主として到来されるメシヤ、イエス・キリストであります。私たちはいわばそこに接ぎ木された者としてその残された切り株につながれ、共に救いの喜びに与る者とされているのです。

イザヤはむろんその事を目にすることなく生涯を閉じたのでありますが。
しかし、確かに主の御憐れみによる救い主メシヤ・キリスト到来の預言は、イザヤの預言者としての地道な働きの延長線上にあり、確かにつなげられていくのであります。
「主よ、いつまでですか」との切なる祈りが答えられる時が必ず来る、いやすでに来ているのであります。

このようにこれから礼拝で読んでいきますイザヤ書は、民の背信と人の罪を鋭く問いかけ、厳しくも神の審判を語るのでありますが。一方で、神の救いとその先にある希望を指し示す貴重な記録でもあるのです。
今日の私たちの取り巻く社会もまたウジヤ王、又その後の王権の時代と重って見えてまいります。そういうただ中で、自分も民らと同じ罪人に過ぎない者であるという自覚をもって、民のうえに悔改めと主の御憐れみが臨むことをあきらめず祈り、その民の中で主の言葉を語り続けていったイザヤ、その信仰者としてのスピリットを今日私たちも一緒に受け取って生きる者とされていきたいと思います。

最後にⅠヨハネ3章18節を読んで、本日の宣教を閉じます。
「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」
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