「主のお導きのもとで」 マタイ福音書2章13節~23節
今年もまた悲しいかな世界において、争いや自爆テロ、災害、民族紛争による残忍な虐殺が後を絶ちませんでした。日本国内にあっても、異常気象や地震による災害、凶悪な犯罪や政治の汚職など、又身近なところではガソリンや灯油など生活必需品の大幅な値上がりが、生活者や働く者を直撃しています。人がますます生きにくい、先の見えない、暗い社会になっていくように思えてなりません。
キャンドルライトサービスは、暗闇の中にもたらされる希望の光を表しています。人々が暗闇と思うそのような時代のただ中に、救い主誕生の預言・告知・降誕・喜びの知らせを聞いて訪れる羊飼い・星をめあてに訪ね来る東の賢者たちという希望の灯がひとつ一つともされてまいります。光は暗闇の中で最大限その輝きを放つものです。世相が暗ければ暗いだけ、そこに与えられた一筋の灯は威力を発揮し、その暗いところを一層明るく照らし出すのであります。
マタイ2章の後半部分の箇所が読まれました。普通このところは、クリスマスの折りにあまり読まれることがないかも知れません。それは何より、ヘロデ王による「幼児虐殺」という極めて残忍な記事が記されているからです。クリスマスという喜び祝う席にあってはできるだけ避けて通りたい箇所であります。なぜ神による出来事の中で、このようなあってはならない事が起こったのか。それはいわゆるクリスマスの歴史上の影の部分と言えましょう。
けれどもマタイは、この惨事を包み隠さずクリスマスの一連の出来事として書き記しています。あえてこの後半の影の部分を含めて記すことによって、主のご降誕のメッセージをより深く伝えているのです。このマタイのクリスマスの記事を読みます時、「救い主イエスはお生まれになられるその時から、十字架を背負っておられたのだ」と思わずにいられません。ユダヤの王ヘロデは、その王メシア誕生の知らせに「不安を抱き」、それを亡き者にしようと企てました。それは「エルサレムの
人々も皆、同様の思いを持っていた」ということであります。救い主を待ち望む反面、今の生活が失われるかも知れないという不安は理解できるでしょう。しかし、王や人々が抱いた不安は、神への信頼が薄れていたことによるものでした。やがて、その人々が「イエスを十字架につけろ」と叫ぶことになるのです。あなたも、神のともされた希望の灯を、暗闇が打ち消そうとするかのようです。
しかし、この箇所にありますように、救い主として生まれた幼子イエスさまは、家族共々、主の天使の3度にも及ぶお告げと導きとによって、エジプトへの避難、又エジプトからの帰国、さらにイスラエルにおいても、守られていくのであります。
どんなに暗闇が深くとも、希望の灯を消すことなどできないのです。
本日のメッセージを準備している折、「エリカ~奇跡のいのち」という一冊の絵本を本棚に見つけました。今から74年前の1933年から1945年までの12年間に、ドイツのナチスがユダヤ人600万人にも及ぶ人たちを虐殺するという未曾有の事件が起こりました。この絵本はその背後で実際に起こった一つの出来事を基にして書かれたものです。主人公である一人の女性エリカは、その大虐殺から奇跡的に生き延びました。エリカは当時生まれて間もない赤ちゃんでした。強制収容所に沢山のユダヤ人を送り込むすし詰め状態の貨物列車の中で、彼女は母親に抱かれていました。貨車が強制収容所の門をくくれば、二度とこちら側に戻ることができません。ところが、貨車がその収容所に入る直前に、避けられない死への道を歩んでいることを知った母親が、せめてこの子だけでも生き延びてほしいと願って、貨車の換気用口から、赤ちゃんを投げ捨てました。エリカはその出来事を回想してこう言いました。「お母さまは、じぶんは[死]にむかいながら、わたしを[生]にむかってなげたのです。」翻訳なさった柳田邦男さんはこう解説を加えています。「この作品は、単に大量虐殺の悲惨さだけを訴えているものでもないことが、読み進むうちにわかってきた。赤ちゃんを走る列車から投げ出すなどということは、平時であれば、殺人行為と見られてしまう。しかし、親も子も殺されるのが不可避という限界状況の中では、たとえ生きられる確立は1万分の1であっても、ゼロではない道をわが子のために選んだ母親の決意は、一筋の「生」の光を求める崇高なものとして、人々の心を揺さぶらずにはおかないだろう。エリカの物語は、ナチス・ドイツや戦争の問題を超えて、いのちを尊ぶことや生きることについて根元的な問いかけをつきつけている。」
絵本の最後でエリカは次のような言葉でもって締め括っています。「わたしと同じ民族の人たちは星の数だけいると、昔から言われてきました。それらの星の中の600万個が、1933年から1945年までの間に流れ星となって消えました。消えた星のひとつ一つが、かけがえのないいのちを踏みにじられ、家族のつながりを引き裂かれれた、わたしの民族のひとり一人だったのです。今、わたしの家族の樹は、再び根をはり、大きく育っています。わたしの星ーわたしのかけがえのないいのちは、今も輝いています。
クリスマス。それは、救い主イエス・キリストが、悲しみや苦しみの闇に覆われる私たちを取り巻く暗き世界に、一筋の光としてお生まれくださったことを覚える日であります。
去る11月19日、家族ぐるみでお付き合いのある友人のご長女が14歳9ヶ月のご生涯を終え、主のみもとに・天に召されました。ご長女は生まれながらに難病を抱え、歩んでおられました。そのご家族はいちもこのご長女を中心にしながら明るく、神さまの家族としての歩みをなさっておられました。前夜式で挨拶で、「この子は生まれながら十字架を背負っていましたが、精一杯生きてくれました」とお父さんがおっしゃった言葉が印象深く残っていました。それから、数週間後のお手紙には、「彼女の親とされたことを感謝しております。彼女によってまた多くの方々との出会いが与えられたことを感謝しております」という言葉が記されていました。ご一家は、これまでご長女を守るために、ほんとうに心も体も、時間もお金もいっぱい使い、多くを尽くしてこられた。そのような中でなお、福音宣教の業とその働きに励んでおられたそのお姿に、心から敬意をおぼえます。牧師である友人のこれらの言葉をかみしめながら、今改めて思わされるのです。ご長女のEさんはご家族にとって灯であったと。それはおそらく教会にとっても、又ご長女を知るすべての人々にとってもそうであったと。私たちはその灯を守っているようでありながら、実はその灯にともされて、暖められていたのだ、と。
主イエスの誕生についての一連の記事を通して知らされますのは、マリアやヨセフらが神のひとり子イエスを必死に守り抜こうとするその姿であります。そこに、予期せぬ様々な事どもが起こります。それは人間の持つ闇の部分を示すものであります。しかし、そのような闇の中に、一筋の光が差し込んで、闇を照らし出しているのであります。私たちは、闇に輝く一筋の灯なる、この神のひとり子イエスさまを抱きあげ、ふところに包み、暖めながら、人生の旅路を歩んでゆきます。ある時は闇路のようであり、逃れの道のようです。しかし、そのようにある意味険しく厳しい道を生きているように思える時こそ、実は不思議な不思議な事どもが起こる。
それは、「この幼子イエスさまによって、その小さな灯によって、その歩みが守られ、支えられ、導かれる」という不思議。そのような経験をするのであります。
クリスマスのメッセージを、マタイは「インマヌエル」;「神が我らと共にいます」ことである、と告げます。このお約束を、世にある限られた生涯のうちにあって、経験し、神をほめたたえていく豊かな人生を歩んでまいりましょう。
今年もまた悲しいかな世界において、争いや自爆テロ、災害、民族紛争による残忍な虐殺が後を絶ちませんでした。日本国内にあっても、異常気象や地震による災害、凶悪な犯罪や政治の汚職など、又身近なところではガソリンや灯油など生活必需品の大幅な値上がりが、生活者や働く者を直撃しています。人がますます生きにくい、先の見えない、暗い社会になっていくように思えてなりません。
キャンドルライトサービスは、暗闇の中にもたらされる希望の光を表しています。人々が暗闇と思うそのような時代のただ中に、救い主誕生の預言・告知・降誕・喜びの知らせを聞いて訪れる羊飼い・星をめあてに訪ね来る東の賢者たちという希望の灯がひとつ一つともされてまいります。光は暗闇の中で最大限その輝きを放つものです。世相が暗ければ暗いだけ、そこに与えられた一筋の灯は威力を発揮し、その暗いところを一層明るく照らし出すのであります。
マタイ2章の後半部分の箇所が読まれました。普通このところは、クリスマスの折りにあまり読まれることがないかも知れません。それは何より、ヘロデ王による「幼児虐殺」という極めて残忍な記事が記されているからです。クリスマスという喜び祝う席にあってはできるだけ避けて通りたい箇所であります。なぜ神による出来事の中で、このようなあってはならない事が起こったのか。それはいわゆるクリスマスの歴史上の影の部分と言えましょう。
けれどもマタイは、この惨事を包み隠さずクリスマスの一連の出来事として書き記しています。あえてこの後半の影の部分を含めて記すことによって、主のご降誕のメッセージをより深く伝えているのです。このマタイのクリスマスの記事を読みます時、「救い主イエスはお生まれになられるその時から、十字架を背負っておられたのだ」と思わずにいられません。ユダヤの王ヘロデは、その王メシア誕生の知らせに「不安を抱き」、それを亡き者にしようと企てました。それは「エルサレムの
人々も皆、同様の思いを持っていた」ということであります。救い主を待ち望む反面、今の生活が失われるかも知れないという不安は理解できるでしょう。しかし、王や人々が抱いた不安は、神への信頼が薄れていたことによるものでした。やがて、その人々が「イエスを十字架につけろ」と叫ぶことになるのです。あなたも、神のともされた希望の灯を、暗闇が打ち消そうとするかのようです。
しかし、この箇所にありますように、救い主として生まれた幼子イエスさまは、家族共々、主の天使の3度にも及ぶお告げと導きとによって、エジプトへの避難、又エジプトからの帰国、さらにイスラエルにおいても、守られていくのであります。
どんなに暗闇が深くとも、希望の灯を消すことなどできないのです。
本日のメッセージを準備している折、「エリカ~奇跡のいのち」という一冊の絵本を本棚に見つけました。今から74年前の1933年から1945年までの12年間に、ドイツのナチスがユダヤ人600万人にも及ぶ人たちを虐殺するという未曾有の事件が起こりました。この絵本はその背後で実際に起こった一つの出来事を基にして書かれたものです。主人公である一人の女性エリカは、その大虐殺から奇跡的に生き延びました。エリカは当時生まれて間もない赤ちゃんでした。強制収容所に沢山のユダヤ人を送り込むすし詰め状態の貨物列車の中で、彼女は母親に抱かれていました。貨車が強制収容所の門をくくれば、二度とこちら側に戻ることができません。ところが、貨車がその収容所に入る直前に、避けられない死への道を歩んでいることを知った母親が、せめてこの子だけでも生き延びてほしいと願って、貨車の換気用口から、赤ちゃんを投げ捨てました。エリカはその出来事を回想してこう言いました。「お母さまは、じぶんは[死]にむかいながら、わたしを[生]にむかってなげたのです。」翻訳なさった柳田邦男さんはこう解説を加えています。「この作品は、単に大量虐殺の悲惨さだけを訴えているものでもないことが、読み進むうちにわかってきた。赤ちゃんを走る列車から投げ出すなどということは、平時であれば、殺人行為と見られてしまう。しかし、親も子も殺されるのが不可避という限界状況の中では、たとえ生きられる確立は1万分の1であっても、ゼロではない道をわが子のために選んだ母親の決意は、一筋の「生」の光を求める崇高なものとして、人々の心を揺さぶらずにはおかないだろう。エリカの物語は、ナチス・ドイツや戦争の問題を超えて、いのちを尊ぶことや生きることについて根元的な問いかけをつきつけている。」
絵本の最後でエリカは次のような言葉でもって締め括っています。「わたしと同じ民族の人たちは星の数だけいると、昔から言われてきました。それらの星の中の600万個が、1933年から1945年までの間に流れ星となって消えました。消えた星のひとつ一つが、かけがえのないいのちを踏みにじられ、家族のつながりを引き裂かれれた、わたしの民族のひとり一人だったのです。今、わたしの家族の樹は、再び根をはり、大きく育っています。わたしの星ーわたしのかけがえのないいのちは、今も輝いています。
クリスマス。それは、救い主イエス・キリストが、悲しみや苦しみの闇に覆われる私たちを取り巻く暗き世界に、一筋の光としてお生まれくださったことを覚える日であります。
去る11月19日、家族ぐるみでお付き合いのある友人のご長女が14歳9ヶ月のご生涯を終え、主のみもとに・天に召されました。ご長女は生まれながらに難病を抱え、歩んでおられました。そのご家族はいちもこのご長女を中心にしながら明るく、神さまの家族としての歩みをなさっておられました。前夜式で挨拶で、「この子は生まれながら十字架を背負っていましたが、精一杯生きてくれました」とお父さんがおっしゃった言葉が印象深く残っていました。それから、数週間後のお手紙には、「彼女の親とされたことを感謝しております。彼女によってまた多くの方々との出会いが与えられたことを感謝しております」という言葉が記されていました。ご一家は、これまでご長女を守るために、ほんとうに心も体も、時間もお金もいっぱい使い、多くを尽くしてこられた。そのような中でなお、福音宣教の業とその働きに励んでおられたそのお姿に、心から敬意をおぼえます。牧師である友人のこれらの言葉をかみしめながら、今改めて思わされるのです。ご長女のEさんはご家族にとって灯であったと。それはおそらく教会にとっても、又ご長女を知るすべての人々にとってもそうであったと。私たちはその灯を守っているようでありながら、実はその灯にともされて、暖められていたのだ、と。
主イエスの誕生についての一連の記事を通して知らされますのは、マリアやヨセフらが神のひとり子イエスを必死に守り抜こうとするその姿であります。そこに、予期せぬ様々な事どもが起こります。それは人間の持つ闇の部分を示すものであります。しかし、そのような闇の中に、一筋の光が差し込んで、闇を照らし出しているのであります。私たちは、闇に輝く一筋の灯なる、この神のひとり子イエスさまを抱きあげ、ふところに包み、暖めながら、人生の旅路を歩んでゆきます。ある時は闇路のようであり、逃れの道のようです。しかし、そのようにある意味険しく厳しい道を生きているように思える時こそ、実は不思議な不思議な事どもが起こる。
それは、「この幼子イエスさまによって、その小さな灯によって、その歩みが守られ、支えられ、導かれる」という不思議。そのような経験をするのであります。
クリスマスのメッセージを、マタイは「インマヌエル」;「神が我らと共にいます」ことである、と告げます。このお約束を、世にある限られた生涯のうちにあって、経験し、神をほめたたえていく豊かな人生を歩んでまいりましょう。