日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

どこまでも、あなたは共におられる

2019-10-27 21:56:26 | メッセージ

 

主日礼拝宣教 詩編139編1~24節

                                  

 今日の詩編139編は、詩編の中でも大変印象深い賛歌の一つではないでしょうか。それは、この詩人が全知全能の偉大な神さまと、あたかも向い合って会話するように「あなた」と呼びかけているところにあると思います。神さまは自分の日常的な、身近な存在である。そのような信頼と確信をもって賛美しているところに、わたしたちは信仰者の真の平安を見ることができます。人としての弱さの中で、訴えるように祈り求める詩人のその姿。そこにわたしたち自身の信仰の想いを重ねる時、わたしたちもまた偉大な神さまに向かって「あなた」と呼びかけることができる幸いを覚えるでしょう。この詩人は常に「わたし」という存在を知っておられる主なる神を認識しています。何とこの短い詩の中には、訳されていない原語も含めますと「わたし」という言葉が実に29回も繰り返されているんですね。その「わたし」というところに、皆さん個人個人のお名前を入れて読んでみてください。どうでしょう・・・まあ、それだけ神さまとの信頼関係を持って、或いはまた築こうとして、一対一で向き合っている、そういうこの詩人の心と信仰。それがわたしたちの胸を打つのだと思います。それでは1節から丁寧に見ていきましょう。

 ①「全知の神」まず1節~6節で詩人はすべてのことを知っておられる神さまを賛美しています。どのようにかと申しますと、1節「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる」。そのように、わたしのすべて、私自身が知り得ないような事までも知りつくしておられる、と讃えているのです。「わたしは何処から来たのか」「どういった存在なのか」。これは人間の根源的問題です。しかし、それは人間が自分の頭で考えても、なかなか答えは得られません。よく何かの時に自己紹介をやりますが、大方の人は「わたしはこれこれ、このような者です」とはなかなか答えられないしでしょう。また他己紹介といのもありますね。他人が「この人はこのような人です」と紹介するのですが、言いにくいし、また言われた本人も心外であったりと、なかなかその人の本質を言い当てることなどできはしません。けれど、この詩人は「わたしを造られた神がわたしを究め、わたしを知ってくださる」。そういうのです。自分はいったいどこから来たのか、一体何者で、どういった存在なのか。その答えは神が一切を誤りなく知っておられる。そういうのです。そこにわたしの存在の確かさ、意義がある。それを詩人は知っているのです。宗教改革者の一人であったジャン・カルヴァンは「神を知ることこそが、すなわち、わたしを知ることである」と、著書の中で記していますが。「自分が何者であるか知りたい、わたしは何者なのか」と言う答えが、全能者なるお方の前には確かにあると言っているのです。そういう安心感、平安がこの詩人のように信仰者には与えられているのです。わたしを創造された神は、わたしに関心があり、わたしを究め、知り尽くしていてくださる。わたしは神の御前に確かに存在している。主である神を信じるもののアイデンティティーはまさにこのところにあるといえるでしょう。                        

続いて、2-4節「座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる」。神はわたしの行動、動作を全て知っておられるだけでなく、わたしの心の中の思いその全てを知っておられます。「一言も言わなくても、すべてわかっていてくれる」。それは大変慰められる事であります。しかしまた同時に恐るべき事でもあるでしょう。隠れた罪の思いさえ全能者なる神さまにすべて知られているからです。

5-6節「前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いてくださる。その驚くべき知識はわたしを越え、あまりにも高くて到達できない」。四六時中、休むこともなく神さまがわたしのことをご覧になっていらっしゃる。そんな事を聞いたら、それはとても堅苦しくて、窮屈なことのように感じるかもしれません。日ごろ様々な人間関係の中で忙しく動き回り、人に気を遣いながら生活をしている人にとっては、誰にも知られないところでたった一人になってくつろぎたい、そう思うのは当然でしょう。人間はどんなに気を遣わない相手であっても、一時も離れず一緒にいたのでは、気の休まる暇もありません。自分をあるがままに理解し、受け入れ、裏も表もなく接してくれるような相手がと願っても、現実にはまず難しいでしょう。なぜなら人間はどんなに頑張ってみても自己中心的考えから完全に自由になることはおよそ不可能なことだからです。人はたやすく人を誤解し、人は人のすべてを受け入れ切れないからです。しかし、この詩人はそのような「人の思い」ではなく、全てを知っておられる全知全能の神さまが、「あらゆる方向からわたしを囲ってくださり、御手をわたしにおいていてくださる」と、信頼をもって賛美するのです。                           

誰かに自分のことを一部分だけ知られるということは、それが良いことであっても悪いことであっても、気を遣ってしまいます。自分が実際以上に大きなもののように見られたのでは、いつも背伸びしていなければならなくなってしまいます。逆に実際より小さい者と見下されてしまえば、それもまた心中穏やかではありません。しかし、神の御前では「自分は自分であるとおりに見られ、知られている」のです。何よりも神さまはわたしを造って下さったお方であるので、どんな部分も隠さず知られているのは平安であり嬉しい限りのことです。ただわたしどもは罪多き存在でありますから、だからこそ主イエスさまの御救いが必要であり、その福音によってこそ、この魂の平安があるわけですが。このように主は人の一切を見通しておられるお方であられ、いつも御前に立ち返って生きる者を守り導いていてくださる、驚くべき叡智に満ちたお方なのです。

②「遍在の神」さらに詩人は主を賛美します。今日の礼拝の招詞の言葉ですが。7-10節「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる」。詩人は神が霊的なお方であることを知っています。神が霊であるなら、神は場所に縛られることはありません。神は霊なるお方、偏在の神はどの場所にも、どの時間にも、どの空間にもおられるお方です。この詩人は「どこに逃れれば、御顔を避けることができよう」と問い、この遍在の神さまのもとから逃れようと試みますが、神の力の及ばぬ世界はありません。又、神の目の届かない所もありません。どこにも隠れることはできない。それが不可能であることを知らされたのです。この詩の主人公とされるダビデ王は人の妻に横恋慕して、その夫を戦の最前線に送り死なせてしまうと言う、恐ろしい罪を犯してしました。しかし神さまはそれを全て知っておられ預言者をお遣わしになってその恐ろしい罪を指摘なさるのですね。その時彼は「ああ神は全てをご存知であった、自分は何と恐ろしいことをしてしまったのか」と大変後悔するのです。どこに行けばあなたの霊から離れることが出来よう。どこに逃れれば、御顔を避けることが出来よう。神のもとから逃れようとする詩人の試みはこうして失敗します。しかし、そのことは彼にとって幸いなことでした。わたしが天に登ろうとも、海のかなたに行き着こうとも、どこに行ってもわたしをご存知の神を知ることとなったからです。それはまた、どこまでも共にいてくださる神であられると言うことを悟ることとなったからです。神に立ち返る者にとっては決してわずらわしいことではなく、むしろ大いなる慰め、平安であることを知ったからです。神がおられない場所はどこにもない。いつどこにいてもそこに主が共におられるのです。    11節「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す」。闇、夜は人間を孤独にします。けれどこの闇、夜はただそう言った時間帯を言っているのではなくて、人生の闇、死の闇、陰府の闇、絶望の闇を指しているのですね。しかし、主なる神は闇の中でもわたしを見ておられる。暗い暗い夜も主の光がわたしを照らし出すと言うのです。12節「闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない」。闇も神の御前では闇ではなくなる。命と光の神の御前にいるわたしには、たとえ暗闇に思えるような時でさえ、真昼と同じように主の光を見るものとされる、というんですね。わたしたちも日々その人生の歩みにおいて、神さまのそのようなみ光の中を生きる者とされたいものです。

③「全能の神の業」詩人はさらに主を賛美します。13-15節「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない」。わたしの命の誕生に際し、神さまが如何なる愛を注ぎ、深い知恵と緻密な業によって、わたしを創造されたか。その驚くべき神の御業に、詩人は驚きをもって主を賛美します。 16節「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから」。わたしどもは自分のことは自分が一番よく知っていると思っています。けれども、わたしどもは自分が誕生した時のことなど知りません。誕生前に母の胎内にいた時のことなど知りはしません。しかし、私どもを創造された神は、わたしの誕生前、胎児の時、誕生の時、すべてを知り、見ておられた。何ともミステリアス、神秘的なことであります。この詩人は、わたしという人間の始めから、その全ての日々が神の書に書き記されているといいます。そして、その御前にある一日一日が「あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる」。そう賛美するのです。わたしたち一人ひとりの命の創造、そして人生の歩みに、どんなに深い神さまの御計らいがあったことでしょうか。その神の御計らいは、砂粒よりも多く、数え尽くすことは出来ません。神の御計らいを極め尽くすことは出来ません。「わたしはなお、あなたの中にいる」と、詩人が賛美していますように、まさに神の御手の中でわたしたちも又、どこまでも神さまと共におり、そのご計画を持って守られ、生かされているのです。                       

④「神の審きと導きを訴え求める祈り」さて、この詩編139編の詩人は、ここまで神の全知、神の遍在、神の全能を、賛美のうたをもって表してきました。ところが突然、最後に審きの祈りがなされており、いささか読み手としては驚かされます。一説によりますと、この139編は元々、「どうか神よ、逆らう者を滅ぼしてください。わたしを離れよ、流血を謀る者。と、ここにあるような神の審きを嘆き訴える祈りから始まり、展開されていったものではないかとも言われています。この詩人の目の前には神に逆らう者たちがおり、それが詩人を苦しめ、神を悲しませていたのです。神が造られた世界に何故、神に逆らう者が存在し、不条理な現実が存在するのか、という問題、問は現代もあります。詩人自らもいわれのない罪を背負わされ、さらに流血を諮る者がおり、神の名を騙り町々を虚しくしていた現実があった。そういう中で詩人は、「逆らう者を打ち滅ぼしてください」と祈らざるを得ませんでした。彼は神に報復を求めて祈ります。罪を憎み、罪から遠ざかることは、何処までも聖なる神に対する真実な畏れに相応しい礼拝する者の態度でありました。詩人はこの潔白な態度から、神に敵する者の裁きを訴えたのです。彼は、神の聖なる御名を汚して流血を謀る者を憎み、このように祈ったのです。ただその一方で、この詩人は1-17節で読みましたように、自分の限界と不確かさを知っていました。神こそ全知全能なるお方であるとわきまえていたのです。自分もまた過ちを犯す不完全な人間であるに過ぎない。この詩人は神のまえにあって謙遜に生きる道を心得ていました。こうして至った祈りが、23-24節の「神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。ご覧ください わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを とこしえの道に導いてください」との、祈りであったのです。このどこまでも共にいてくださる主なるお方に救いの確信を抱きつつ、賛美の歌をもって今週もこの礼拝から、それぞれの場へ遣わされてまいりましょう。「人の一歩一歩を究め、御旨にかなう道を備えてくださる主」(詩編37:23)にあって。


 

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ナインの会 vol.@大阪

2019-10-22 09:01:27 | お知らせ

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サウンドクローザーvol.15

2019-10-21 10:12:20 | イベント

サウンドクローザーvol. 15の公演では、今回もフレッシュな感動をいただき、元気にされました。ありがとう!

ギターリスト、ピアニスト、ドラマー、ラッパー2、シンガーソングライタ-と、6つの素敵な個性が化学反応を起こすと、ホンマにすごい! 神わざ!

 

また次回に期待します!

 

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深い淵の底から・・・

2019-10-20 14:12:50 | メッセージ

礼拝宣教  詩編130編1~8節

 

先週は詩編121編から、私どももそれぞれの人生における巡礼者であり、信仰の友と互いに呼びかけ合いつつ、この旅路を歩んでまいりましょう、との奨めでありました。

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ、わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから」。

「人生、山あり谷あり」と申しますが。先週はそびえ立つ山々。本日の詩編130編は「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」で始まります高い山々とは対照的に、深い淵の底に目が向けられています。                                                                  実はこの詩編130編は、神の御もとに「立ち帰る」、「悔い改め」の詩編の一つとされていまして、先ほど宗教改革者であったマルチン・ルターが作った讃美歌を歌いましたが。この讃美歌を見ますと、如何にルターが詩編130編を黙想しながらそれを作ったかが感じられます。ルターは宗教改革前、この詩編の作者の「深い淵の底」にも通じる、同様な苦悩を経験していました。130編の詩人の苦悩は、修道士時代のルター自らの嘆きでもあったのです。どんなに敬虔な祈りの修道生活を送っても、又どんなに立派で善い行いをしても、それまでの信仰理解と行いによっては、救われているという確信が持てない。又、当時のカトリックにおける組織体制のあり方にも、腐敗や民衆の反発があることを強く感じていた。そういったルターの苦悩が、この130編の詩人の言葉と重なり合ったのです。

「深い淵の底から・・・」1-2節「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」。詩人は今、深い淵の底から、主を叫び求めています。この「深い淵」とは、どのような所なのでしょうか。まあ、様々な解釈があるでしょうが。ある人は、死んだ人が行く陰府(地獄)を指すともいいます。又、個々人に起ってくる様々な苦悩。「災い」や「災害」、あるいは「人間関係の泥沼」なども、「深い淵」を見るような思いにもさせられることがあろうかと思います。因みに詩編69編3節では、「深い沼」というものがでてきます。「わたしは深い沼にはまり込み、足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み、奔流がわたしを押し流します。

一度、底なし沼に足を踏み入れますと、自らの重さによって、さらにもがけばもがくほど、どんどん沈んで行く。もう底なしの深みというような絶望感。そういう泥沼状態に陥ったら、自分で自分を救い上げることは出来ません。そういう底なし沼にともすればもう転げ落ちてしまうような、その深みの淵にいるこの130編の詩人。この人はいったいどうして、そんなところにいるのでしょうか。

それは3節、「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう」とあるように、この人に罪があるからです。この人は全き聖なる神のみ前に、自分の罪が露わにされていることを強烈に自覚しているのです。「罪」をギリシャ語原語で「ハマルティア」と言いますが。それは、神さまから離れた的外れな生き方を差します。まあ通常、「あなたに罪がある」と面と向っていいますと、言われた方としては「何てこというんだ」「失礼な者か」と思われて当然でしょう。まあ、不法や犯罪を犯していない人からすれば「罪がある」と指摘されれば誰もが、心外であり反感と怒りすら持つでしょう。けれども、目に見えないところで、自分の無意識のうちにわたしたち誰もが人を傷つけたり、つまずかせたりする言動を日々犯しているのです。又、この旧約の「罪」という言葉は「不義」とも訳すことができます。それは「曲がる」という意味をもちます。人は主なる神さまに向って心が真っ直ぐになれない。自己中心に生きることを求め、心が曲がり、神さまから離れてしまう。それは「罪」「不義」があるからです。それが神を、また他者を悲しませるのです。自分を満たすためだけに生き、自分を正当化して、神など要らないと曲がった心、即ち「不義」に生きるなら、たとえいっとき楽しい思いをして過ごしたとしても、結局は虚しさと後悔しか残りません。わたしどものうちに一点の曇りなく「正しい」といいきれる人がいるでしょうか。神がわたしどもの罪に目を留められるならば、神の審きに誰が耐え得るでしょうか。この詩人は幸いです。なぜなら主であられる神さまを知っていた。だからこそ立ち返って生きていきたい、何とかして罪を赦されて平安を得たいと望むことができたからです。                               

深い淵の本当の恐ろしさは、それが深い淵だということを知らない、自覚していないことにあります。実に多くの人が自分が今どういうところに立っているのかに気づきません。神さまとの断絶の、深い淵に立っていることを知らないでいる人が、ある時突然、自分がどういうところに立っていたかを自覚するような時が来て、まさに引きずり込まれるように底なしの沼に落ちてゆくような絶望に陥ってしまう。わたしの考えは正しく、不義などない。神など自分は要らない、信じる必要などない。そんな風に自己完結して、この世の不確かな価値観だけを頼りとする自分中心の世界。しかし誰も完全なお方、全能者のみ前に自己正当化など出来はしません。

世には様々な突発的な出来事、予期せぬ出来事が起ります。世の価値観によって得たものがことごとく失われてしまうこともあるでしょう。そこで人はなってちっぽけな者であるのかを知らされることもあります。さらに、わたしたちすべての人間は、例外なく死ぬべき存在であるということが定められています。弱く、有限な存在であるのです。そこで自らの罪を認め、主である神さまを見出して人生を歩んでいくのか。それとも、この世で好き勝手に私利私欲の限りを尽くす人生を送り、底なしの沼、深みの淵の底へと沈んでいくのか。天と地のそれは違いです。                                

さて「主よ、あなたが罪をすべて心に留めるなら、主よ、誰が耐え得ましょう」と訴えた詩人は、4節でこう言います。「しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです」。この人には「罪からの助け」、救いの確信が語られているのですね。ここに希望があります。それは、もう自分の力ではどうしようもない、ずぼずぼと深い罪の泥沼の底にはまりこんでいくしかない者の手を、神さまがグッと握りしめて引き上げてくださると言う事です。深い淵の底に、罪の滅びに沈み込むわたしを、主は「赦し」という名の力強い御腕を持って救い出してくださる。この4節の「赦し」と「畏れ」という言葉について、水曜日の聖書の学びの時に出された事ですが。ゆるしにも2つあると。一つは許可するとかの許しですね。それはまあこれくらいの範囲ならよろしいですよと言う限定的な許し。確かにそうかも知れませんね。そしてまあ多くの場合日常において何かあって許すと言う事に使われます。けれども4節で使われている赦しは違います。これは、罪や過失を咎めだてしない事、また服役中の人を方面するときに用いられる、ある意味法的裁きに関して用いられる漢字です。恩赦などにも用いられる言葉です。しかしこの世の恩赦も制限、限定的なものでしかありません。聖書の神の赦しは、もう、神の裁きの座の前においては申し開きの出来ない、罪に滅ぶほかないような者をもはや咎めだてせず、放免してくださる無制限の赦しなのです。それは驚くべき神さまの赦し、御慈悲であります。す それゆえ詩人は4節で、もはや罪の恐怖の恐れではなく、主によってすべてを赦された感謝と平安をもって、唯々み前にひれ伏し、神を畏れ敬う、その畏れ(畏敬の畏れ)へと変えられるいうことです。

詩人は5-6節でこう言います。「わたしは主に望みをおき わたしの魂は望みをおき 御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして」。                                                                             詩人は深い淵の底から、赦しと慈しみと豊かな贖いをもっておいでくださる主を待ち望んでいます。見張り(ここではおそらく町の城壁に立つ夜回り、あるいは夜営をしている夜警の者であったようですが)、彼らが無事に夜明けを待ちわびるように、詩人は主なる神さまのお言葉を待っているのですね。闇がどれほど深くとも必ず朝が来るように、神はみ赦しをきっと与えてくださる。わたしの魂は主を待ち望むと、詩人はうたっているのです。

「主が共におられるから・・・」

7-8節には「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを すべての罪から贖ってくださる」と讃美しています。   これまで詩人は個人的な神と私の関係における罪の問題、その深い淵の苦悩と神の赦しについて語ってきました。しかしこの7、8節からは、イスラエルという民、その共同体の罪と苦悩。その事における神の慈しみと贖いについて語っています。「贖い」、それは代価を払って買い取り、囚われた人に自由を与え、赦しを得させるということです。

今日の詩編130編に繰り返されているのは、4節「赦しはあなたのもとにあり」、7節「慈しみは主のもとに」「豊かな贖いも主のもとに」と言う、「もとに」という言葉です。この「もとに」とは、「神、我らと共にいます」「インマヌエル」の「イン」原語で「共に」を表わす言葉です。つまり、聖書の限りない赦しと慈しみ、罪を贖ってくださった神さまは、高い所から遠く隔てをもってまあしょうがない許してやろうと言う様なお方ではなく、わたしたちの罪から生じる苦悩を知ってくださり、深く憐れみ、慈しみをもって、自から深い淵の底にまで共に下って、泥沼にのめりこんで滅ぶしかないようなわたしたちを引きあげ、助け出してくださる共なるお方なのです。詩人が6節で「わたしの魂は望みをおき 御言葉を待ち望みます」と祈り、讃美した、この「御言葉」とは何でしょうか。その豊かな赦し、そして贖い。それは言うまでもなく来たるべき救い主、イエス・キリストに他なりません。ヨハネによる福音書1章14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とありますように、御言葉がいのちをとって、わたしたちのもとに「インマヌエル」の救い主として来て下さった。それが、救いの主、イエス・キリストであられます。

この神の御独り子イエス・キリストによってもたらされたのです。そしてこのキリストにある「赦し」「慈しみ」「贖い」は、単にわたしだけにとどまるべきものではありません。この130編のように、多くの人の祈りやお奨めや執りなしの中で、わたしのもとにも福音が届き、救われ、今こうして豊かな恵みに与っているのですね。そうであるなら、この救いの福音は、わたしだけのもでなくて「わたしたち」という拡がりをもって分かち合われていくことが期待されているのですね。主の救い、福音を私のもとにだけとどめておくことは残念なことであります。わたしたちそれぞれが出来るところで主の恵みとみ救いをあかししていくことは、さらに幸いなことではないでしょうか。今週も今日のみ言葉をもって、この礼拝からそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。                      

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SOUND CLOSER vol15公演

2019-10-17 09:34:36 | イベント

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あなたを見守られるお方

2019-10-13 15:16:24 | メッセージ

礼拝宣教 詩編121編1-8節

この詩編は「都に上る歌」となっておりますように、聖地エルサレムの都を目指した巡礼者の歌であります。

申命記12章には、「必ず、あなたたちの神、主がその名を置くために全部族の中から選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね、そこへ行きなさい」。さらに16章には、「年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない」と記されております。

その戒めは単なる決り事というより、神の救いの御業を思い起こし、その民とされた幸いを喜び祝うことに、その目的があります。

 

今でもそうですが、エルサレムの都には、世界のさまざまな地域から世界三大宗教の

巡礼者が集まっています。そこはユダヤ教徒の聖地であるとともに、主イエス・キリストが十字架におかかりになられ死をもってあがないの業を成し遂げてくださった、その神の救いの御業を信じるすべての人にとっての聖地となっています。

まあ、私どももエルサレムまで巡礼できればそれはすばらしい恵みでしょうが。けれど、そこまで行かなくとも今や主御自身が私どもの聖なる神殿、天幕となっていてくださるのであり、主がいつも共においでになるのですから幸いです。

その上で、こうして共に主を拝する信仰の同志とともに毎週ごとに捧げる主日の礼拝が与えられているのは、本当に感謝なことです。

みなさんそれぞれに、七日の旅路を主に守られて、その歩みをなし、又それぞれの場所からこの礼拝の場に帰ってこられ、そしてまた新たな一週の歩みへと祝福の祈りのうちに送り出されて行く。そういった信仰者の日常的歩みそのものが巡礼の旅そのものであると思います。

 

さて詩人は1節で「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか」と歌います。

エルサレムの都へ至るその道のりを思いますとき、当時の旅人の不安や覚悟は相当なものであったでしょう。パレスチナの山々は険しく、自然の環境も大変厳しいものです。当時のことですからむろん車も鉄道もありません。コンビニも自動販売機もありません。

さらには、おいはぎに襲われることさえ、しばしばあったようです。

エルサレムの都を目指す巡礼者は、旅路においてそれらの苦難をも乗り越えていかなければならなかったのであります。険しい山々を前にして、巡礼の期待と共に、大きな不安を抱く、そんな巡礼者の祈りと、互いに励まし合う声とがこの詩から聞こえてくる気がいたします。

 

先週の詩編90編に「山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神」とありました。そこでお話ししましたが。聖書で「山」は、創造主である神さまが造られたものの中で最も古く、変化しないもののように記されており、永遠にその場所にあり続けるかのように見えます。しかし、それらをお造りになられた天地創造の神さまは、その山々が造られる前から存在しておられたのです。

日本では山の神、海の神と、自然の中に神々が宿られているとの自然崇拝が根強くありますけれども、しかしこの聖書の詩人は2節に、「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから」と歌います。

その崇高で清らかで威厳をたたえたように見える山々も、それらをお造りになられたのは主であられる。天地万物の創造者なる神。その主に信頼するところに、わたしの助けがある、と歌うのです。

6節では、「昼、太陽はあなたを撃つことはなく、夜、月もあなたを撃つことがない」とも歌っています。「それらを造られた主が巡礼者を見守ってくださるから」。そういう信仰が詠まれているのですね。

 

ところで、この詩を見ますと1、2節迄は「わたし」の助けはと言うように、主を頼みとする巡礼者個人の心情が歌われていますが。3節以降は、「主」が「あなた」をという他者への呼びかけに変わっております。

それは、巡礼の旅を続ける者同志が互いのことを気遣い、励まし、お互いのために主に執り成し祈っている、かけ合いの声であります。

「主があなたを助けて」「主はあなたを見守る方」。ってくださるように」。7、8節「主があなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように」。そのように、1節2節の巡礼者一人ひとりの祈りの信仰が、旅で出会った巡礼者たちとの、祈りの呼びかけ合いと拡がっていくのですね。そこにこの詩編のゆたかさ、美しさがありますよね。

 

6節に「昼、太陽はあなたを撃つことなく 夜、月もあなたを撃つことはない」とございますけれども。

私は2000年のミレニアムの年の1月の末にエジプト・イスラエルのツアーに参加する機会を得ましたが。

カイロのピラミットの石段に立ったとき気温は30度をゆうに超える熱さでした。まさに日差しがとても強く太陽があなたを撃つというその人を射るような日差しを体感しました。

その後、シナイ半島の砂漠路を横断するようにバスで走り、シナイ山のふもとのホテルに泊まって翌早朝シナイ山の山頂で初日の出を見るということを経験いたしましたが。夜中の午前2時半にホテルを出発し、徒歩で山頂を目指します。まだ周りは暗く、道も結構アップダウンがあり険しかったうえ、気温は0度以下で手がかじかみ、持参したカメラのリチウム電池があまりの冷たさで度々起動しなくなるほどでした。一日に30度以上の気温の差がゆうにあるシナイ、パレスチナ地方なのですね。

ほかの国々からシナイ、パレスチナ地方を経由してエルサレムの都を目指した巡礼さんたちは、その旅路において熱中症や凍死、野獣や追いはぎにも襲われるトラブルにも巻き込まれるといういのちの危機に何度もさらされるようなことが確かにあっただろうとリアルに感じました。

そうした自然の厳しさや険しさ、いのちが危険にさらされる中で、巡礼者たちが、主にあって互いに励まし合い、とりなし祈りあいながら、巡礼の旅を続け、エルサレムの都を目指していく、それを信仰者の喜びと歌っているのですね。

 

私たちも又、それぞれの人生における巡礼の旅路にはさまざまな困難や苦難、危険や災いにも思えるような日があります。けれども私たちは自分の力だけで人生の旅路を続けているのではありません。

同行二人(どうぎょうににん)というお遍路さんの言葉が日本にもあります。もうひとりその旅路を共にしてくださっている弘法大師が共におられるということでしょうが。私どもにとってそれは主なる神さまであられます。そしてさらにその主を信じる同志の励ましがあって、私たちの歩みは支えられています。自分が気づかないうちにもだれかが祈っていてくれる。集会の場が備えられ、掃除がされ、様々にご奉仕くださる方がいて、いつも待っていてくださる。又、私も今日は~さんいらっしゃるかなと待っている。それは集会ごとに備えられた主の愛と恵みの具体的な表われでもあります。

私たちも又、この詩編121編の「都に上る歌」のように、主の愛と恵みによって、麗しい呼びかけ合い、祈り合いを祝福の思いの中で益々深めていきたいと願うものです。

 

毎週水曜日の祈祷会は多くの方が集われ祈り合いの時をもっておりますが。お仕事諸事情で祈祷会に集うことが難しい方もおられるでしょう。

どうぞ、この祈祷会の時間、又その日をそれぞれの場で祈りの心を合わせてくださいますか。主は必ず祈りを通して私たちをつないでくださり、ゆたかな恵みと祝福を分かち合わせてくださいます。

又、教会には礼拝に集いたくても病気やさまざまな事情のために集えない方もおられます。

その昔イスラエルの民は他国の侵略により捕囚となった後、エルサレムに帰還できた人もいれば、それがかなわず異国の地に散らされ離散の民として生きていった人々も多くいました。

そのような人びとにとってエルサレムの都に上るというのは悲願のようなものであり、望みつつも行くことの出来ない人は旅立つ人に思いを託したのです。

行きたくとも行くことのできないそういう一人ひとりのためにも、「主がすべての災いを遠ざけて、あなたを守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」と祈る。執り成しの祈り。

ちなみに「とこしえに」とは、「どこにあっても」という意味です。それは具体的にはこの限られた地上の生、日常のどこにあってもということです。主はわたしたちの生の全領域を見守ってくださるお方なのです。

私たちも、この詩人の歌のように、主の見守りを期待し、互いの祝福を祈り合う者でありたいと願います。

 

もう一つこの詩編121編から来るゆたかなメッセージがあります。

この詩の中には、「主の見守り」というフレーズが6回も繰り返されます。殊に4節の「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない」という言葉は強いインパクトをもって心に迫ってきます。

熱射病や凍死、自然災害、追い剥ぎや、猛獣などによるいのちの危機に、恐れや不安を抱えながら旅を続ける者たちを単に見守るというのではなく、眠ることもなく見守っていてくださる。まあ子どもが熱でうなされ苦しんでいる時というのは親御さんは寝ずに、というより眠れずに看病されるのではないでしょうか。

もう「何とかしてこの子を守ろう」という強い意志が「寝ずの番」「寝ずの看病」になるんですよね。

 

かつてイスラエルの民が荒野の路なき路を進む時、「主は昼は雲の柱で射るような日差しから民を守り、夜は夜で火の柱をもって凍てつく寒さから守られました」。

主はまどろむことなく眠ることなくその民を守り導かれました。その民を愛するがゆえに主自ら寝ずの番をされたのです。

その恵みに満ちた父なる神は、罪にさまよい救いを求めるすべての人が滅びることがないようにと御独り子を地上に送り、十字架に引き渡してまで、私たちをあがない出してくださいました。「とこしえに」、どこにあっても昼も夜もまどろむことなく見守ってくださる主。神は愛なるお方であられます

私たちは御子イエスさまの十字架を仰ぎ見るとき、「まどろむことなく、眠ることなく見守っていてくださる」主なる神さまの愛を知ることができるのです。

私たちには人生の旅路において山のように立ちはだかるさまざまな問題があります。

「わたしの助けはどこから来るのか」。「わたしの助けは天と地を造られた主からくる」。

今日の詩編、賛歌にありますように、主は決して私たちのことを見捨てることなく、私たちの抱えている恐れや不安、痛みや苦悩をご自身のものとして感受され、子のために寝ずの番を親の心にも増して私たちを見守ってくださる愛のお方であられます。

このような活ける主が、私たちと共にいてくださることは何ものにもかえがたい力、支えであります。

私たち一人ひとりは主と顔と顔を合わせるその日に向って旅を続ける巡礼者です。

けれども決して孤独ではありません。キリストの教会の何よりも素晴らしい恵みは、十字架と復活の主イエスの救いを共に仰ぎ、主の御名によって、互いに呼びかけ合い、祈り合うという信仰の友、主にある同志が与えられていることです。

人間ですから時にはすれ違いや意見の食い違いもあるでしょう。不快な思いをすることもあるかもしれません。けれどもそれにも増して、あまりあるところの恵み、互いを大切に思い、祝福し祈り合い、執り成し合う中に、人知では計り知れない神さまの守りと祝福の出来事が起こされていくのです。これまでもそうでしたし、これからもそうです。

この人生の巡礼の旅路を共にこれからも進んでまいりましょう。

「主がすべての災いから遠ざけて、あなたを守り、あなたの魂を見守ってくださる。あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」。今週もこの礼拝からそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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夕べの礼拝(主の食卓を囲んで)ご案内

2019-10-10 14:35:46 | お知らせ

日 時 10月13日(日)午後6時-7時半 

みなさまこんにちは。

夕べの礼拝は、

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝です。

気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金の時はあります。


お気軽にいらしてください。

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こども食堂「おいでや」のおしらせ

2019-10-08 09:50:19 | お知らせ

☆10月9日(水)


☆午後3時~7時

 

☆ばしょ:大阪教会の2階ホール


☆こんだて おたのしみ


☆さんかひ 小学生50円 中学・高校生100円 

      親・おとな200円


みんなでいっしょにたべて、うたい、あそぼうー。

宿題ももっておいでや~。

赤ちゃん連れのママ・パパも、歓迎いたします。


ボランティアさん、ほぼ10人おります。

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人の子よ、帰れ

2019-10-06 15:01:23 | メッセージ

礼拝宣教 詩編90編1-17節

 

「序」

先ほど今日の詩編90編の聖書交読をご一緒にいたしましたが、その見出しが「召天・葬儀」となっていることにお気づきになられたでしょうか。

私たちは週ごとの主日礼拝で、主イエスの十字架と復活をおぼえます。罪の性質をもつ私たちが主イエス・キリストの十字架とともに死に、キリストのよみがえりと共に、私たちも復活のいのちに新たに与ることがゆるされている。この信仰の確認と更新の時として礼拝を捧げつつ、今日の御言葉に聞いてきたい願っております。

 

今月は詩編を礼拝で読んでいきますが、今日は90編、「祈り、モーセの詩」からメッセージを聞いていきます。

主なる神はイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から導き出し、その指導者としてモーセを立てられました。モーセは神の御心に聴き従いつつ、民の指導者として40年間彼らと共に荒野を旅しました。しかしモーセはイスラエルの民と神との間に立って苦悩するその重圧から怒りを発し、神はその出来事のゆえにモーセをお咎めになります。

彼は約束の地・カナンに入ることがゆるされず、世を去らなければなりませんでした。

その詳細については民数記20章の「メリバの水」の問題があったとされます。

この詩編はモーセが、カナンの地を目前にしながらも、そこに足を踏み入れることができず、ピスガの高嶺から「神に祈った歌」ものと読みとれますが。よく礼拝や祈祷会で歌います新生讃美歌430「しずけき祈り」の一節に「ピスガ」とありますが。それはヘブライ語で「裂け目」を意味し、これはモーセをしても渡り得ない裂け目、断絶をそこに表わしているのですね。そのピスガの高嶺は、モーセが留まったとされるヨルダン川を挟んで東側のヨルダンのネボ山の頂のことであったのです。

この詩編はモーセがまさにそのピスガの高嶺にあって主なる神に相対して、その生涯を回顧しつつ、願い、祈ったものなのです。

 

この「モーセの祈り、詩」は、私たちに向け何を語っているのでしょうか。

①  「人の子よ、帰れ」

まず1節に「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」とあります。

それは主なる神さまこそが、私たちの永遠の住まいであるということですが。それは地上の祝福の地に入ることができなかったモーセの心情を思えば感慨深いものがあります。

2節には「山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神」と言っています。
聖書で「山」は、創造主である神さまが造られたものの中で最も古く、変化しないものとして記されており、永遠にその場所にあり続けるかのように見えますが、それらをお造りになられた神さまは、山々が造られる前から存在しておられたのです。つまり、世に存在しているすべての源は神であり、神さまから出たものなのです。すべては神から成り、神によらないものは何一つないのです。

人がこのすべての源であられる神さまとの関係なしに生きようとするのなら、その人生はほんとうに虚しく、不確かなものとなるでしょう。どんなに偉業を成し遂げようとも、多くの富を築こうとも、人から賞賛を受けようとも、すべてを造り、すべてを司っておられる方とその御心を思わず、背を向けて生きるなら、その人は本来の自分の存在意義を見出すことが出来ません。それを聖書では「罪」と申します。ギリシャ語でハマルティア「的外れ」という意味です。

 

そんなアダム以来の罪の性質をもつ私たち人間に対して3節で、こう記されています。

「あなたは人を塵に返し『人の子よ、帰れ』と仰せになります。

「塵に返る」とは死であり、「人を塵に返す」のは神さまであります。又、ここでの「人」はヘブライ語のエノシュ、「一般的な人」を指します。その一方で、『人の子よ、帰れ』と呼びかけられている「人」は、ヘブライ語のアダム、創世記2章の初めの人アダムです。その初めの人以来の「罪」「的外れ」という性質を帯びている状態の「人」を指します。神さまはそのような私たち人間に対して、「人の子よ、帰れ」と、わたしに立ち帰れ、と呼びかけておられるのですね。

4-6節に、「千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。

あなたは眠りの中に人を漂わせ 朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れていきます」とありますように、私たち人が神との関係性なしに生き、独りで存在しようとするのなら、この移ろいゆく草花のように、その人の生涯も人生も虚しく、はかないものだということであります。

的外れな罪の性質をもつアダム、すべての人間が虚しい人生から救われ得ためには、私たち「人」のいのちの源、永遠の住まいとなられる神さまのもとに、「立ち帰る」ことこそが、最も重要なのです。

たとえこの肉体、身体が朽ち果てエノシュ・人として塵に返ったとしても、私たちが「人としての罪の性質」を知り、認め、神に立ち帰って生きるのなら、「神は私たちの宿るところ」であり、それは変わることのない平安に至る道につながっていくのです。

 

しかしそう言いながらもモーセはこのように言うのです。

7-8節、「あなたの怒りにわたしは絶え入り あなたの憤りに恐れます。あなたはわたしの罪を御前に 隠された罪を御顔の光の中に置かれます。わたしたちの生涯は御怒りに消え去り 人生はため息のように消え失せます」。

モーセは素晴しい信仰者であり、指導者でしたが。人としてこのような苦悩を抱えていたんですね。

11節にあるように、神を畏れ敬うにつれて益々自分の罪深さを知って、「神の人」と呼ばれていたモーセは、御前に恐れおののくです。

だからモーセは「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」と祈り求めます。

 

10節には、「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません」とあります。まあ現代の世界の最たる長寿国である日本では100歳を超える方々も多くいらっしゃるわけですが。けれど、どんなに長く生きたとしても、神さまの御前に自分の生涯を正しく数え、知恵ある心をもって生きてこなかったとしたなら、その得るところは労苦と災いに過ぎない。あっというまに時が過ぎ終わりを迎え、「私の人生はいったい何だったのか」ということになりはしないか、とそのように問いかけられているように思います。

「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」。

それは、人を創造し、日々いのちを与えられる神の御前に、私たちの一日一日が的外れなものにならないように、どうか主の御心に沿う正しい歩みとなりますように、という切なる祈りです。

人を造られ、生かしておられる神を知っているか、知らないか。日々神と向き合って生きるか否かの生涯は、もう雲泥の差であるということは言うまでもなく、ここにおられるお一人お一人が実感しておられることでありましょう。

人生、健康、家庭も、経済も恵まれていることが、幸せだという世の価値観のみに生きる人は、それが崩れた時どうでしょう。逆にそれらの価値観によって苦しむことになるでしょう。又、たとえ神を信じていても、救いの道を知らなかったならどうでしょう。11節にあるように、畏れ敬うにつれ自分の罪深さと神の憤りを知るばかりです。

モーセは祈ります。「生涯の日を正しく数えて生きられますように」滅びではなく、いのちへ至らせる「知恵ある心を得させてください」と。

私たちにとっての「救いの教え」と「知恵の心」。それが、救い主イエス・キリストによってもたらされていることを心から感謝します。

 

②「神に対する訴え、祈り」

さて、13節には「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください」という訴えが記されています。

さらに15節には「あなたがわたしたちを苦しめた日々と苦難に遭わされた年月を思って、わたしたちに喜びを返してください」とまで言っています。

「あなたがわたしを苦しめた、苦難に遭わせた」というのは、一見すると不満や怒りを表わしているようにも思えますし、また「喜びを返してください」というのも、その責任を問うているような感がいたします。

それは又、私たち一人ひとりの人生の苦しみ中で祈らずにおれない祈りの言葉でありましょう。

詩編22編にも「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という一節がございます。これは、私どもが救いの主とあがめるイエス・キリストが、十字架上において苦しみの極みに絶叫された言葉でもあります

しかしこれらの神に訴えかける叫びは、決して神に対する不信や恨みを示したものではありません。

むしろそれは、如何に絶望的な状況におかれようとも、すべてのことを御手のうちに治めておられる主なる神がおられる。「主よ」と叫び、訴えるお方がおられる。この主である神への信仰があるがゆえに、このように訴えているんですね。

私たちも、時として「どうしてこんなに苦しまなければならないのか」「なぜこんなに苦難ばかり続くのか」と、思うことがあるのではないでしょうか。

そのような時、このモーセのように、私たちは訴えつつも、14節の「朝にはあなたの慈しみに満ちたらせ、あなたによって生涯、喜び歌い、喜び祝わせて下さい」と生けるまことの主に願い求めることができるのは、真に幸いなことです。

 

最後の16-17節で、「あなたの僕らが御業を仰ぎ、子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。わたしたちの神、主の喜びが、わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを、わたしたちのために確かなものとし、わたしたちの手の働きを、どうか確かなものとしてください」と祈られています。

 

「人の子よ、帰れ」とのみ声に答える私たちは、救い主イエス・キリストによって、もはや虚しい生涯を送るものではなく、神の作品として日々新しく創られた人とされています。

今週もこの礼拝からそれぞれが遣わされる場で、私たちの手の働き、それは祈り、奉仕、とさまざまあるでしょうが。それらの働きが主にあって確かなものとされますように。主の救いのみ業を喜び、讃美しつつ、生きる者とされてまいりましょう。

 

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SOUND CLOSER vol15 

2019-10-04 21:17:26 | イベント

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