礼拝宣教 創世記40章1-23節
① 「先週のみ言葉から・・・」
先週までの復習ですが。兄たちの妬みと憎しみによって異国の地エジプトに奴隷として買い取られることになったヨセフは、主人である王の侍従長ポティファルの信任を得て、家の管理をゆだね、すべての財産を任されることとなります。ところが、主人の妻のヨセフへの逆恨み、ねたみによってヨセフは陥れられ、監獄に収監されてしまいます。
しかし、聖書にありますように、「主がヨセフと共におられ、恵みを施された」ので、ヨセフはそこでも監獄の監守長の目にかなうように導かれ、囚人はみなヨセフの手に委ねられ、獄中の人のすることはすべてヨセフが取り仕切るようになるのです。
まあ、ジェットコースターのようにヨセフは何度も下がったり上がったりの途を辿るのでありますけれども。聖書は「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計られた」と、伝えています。
私どもも様々な出来事に遭遇いたしますが、神さまの采配を常に祈り求める者を、主はそのご計画をもって持ち運ばれるのです。
又、先週のもう一つのキーワードは「手」という言葉でした。「手から買い取り」「手に任せ」「手に委ね」「手に残し」など7回も、記されておりますが。聖書において「手」は力や支配、強さを表わす象徴なのです。
奴隷の身であったヨセフに対して、主人ポティファルは王の直近であり、力や権限を所有していました。彼の妻も、奴隷であったヨセフに対して力をもちい、ヘブライ人と見下しおとしめました。
一方のヨセフは、奴隷とされた身分でしたが、主に依り頼む他ないヨセフと共に主がおられたのです。それは世の権力ではなく、神が共におられる神の御手が、彼の上にあったということであります。
私どもも、「主の祝福を担う人」として、すべてを統めておられる主の御手のうちに歩む者とされたいと願うものです。
②「夢を解くヨセフ」
さて本日は40章から「夢を解く人」と題し、み言葉に聞いていきます。
先の37章では、ヨセフ自身が特別な夢を見て、その夢を兄たち、両親に打ち明けるのですが。今日のこの箇所では、エジプト王の給仕役と料理長が見た夢を、ヨセフが解くのです。
この給仕役と料理役は、エジプト王、ファラオに過ちを犯した、と記されています。
詳細については分かりませんが、ともかく王ファラオは怒って、侍従長ポティファルの家にある牢獄に彼らを収監します。ここには王の権限や権力が描かれているように思えます。
先週の物語からの続きになりますが、この2人が収監された監獄には、濡れ衣を着せられたヨセフが先に収監されていました。
先週読んだように、その監獄においてヨセフは監守長の目にかなうようになり、囚人は皆その手にゆだねられ、獄中の人のすることはすべてヨセフが取り仕切るようになっていましたが、侍従長のポティファルは、ヨセフにこの2人の身辺の世話をさせます。まあ監守長よりもさらに力のあった侍従長の命令で、監獄の中でもヨセフは奴隷として仕えさせられるのです。
先週の誰々から誰々の「手」にわたり、といった「力」「所有」の話が、今日のところでも、こういうかたちで出てきているんですね。
その力や権限の頂点にいたのがエジプト王のファラオであったのです。そのファラオの怒りをかったわけですから、まあ、いくら位の高い側近の給仕役や料理長であっても、
問答無用に監獄に収監されてしまうのです。
しかし、さらにその下には、この2人の囚人に仕えるヨセフ、僕としてのヨセフがいたのです。
現代でもこういった「力の関係」というものがあるわけですけれども。近年ではそれがむしろ大きくなってきたように思えます。学生であっても学校カーストなるものが、存在するそうで、残念に思います。聖書は私たち一人ひとりを「神の作品」として、その一人一人が大切な存在であることを伝えています。
ガラテヤの信徒への手紙には「もはやユダヤ人も、ギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなた方は皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」とあります。
「主の霊のあるところには、自由がある。」
キリストの教会は様々な立場の違いを超え、主にあって互いが尊い存在とされることを大切にしていきたいですね。
② 「神の隠れた支配」
さてその牢獄で幾日かが過ぎた時、「この給仕役と料理役は、2人とも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢には、それぞれ意味が隠されていた」とあります。
みなさんは、夢を見ますか。私は幼い頃はよく夢を見ることがありました。とくに怖い夢が多かったように思いますが。大人になるとあまり夢をみることがなくなりました。でも、どこか心のうちに抱えている問題や悩みがあるときに、それが夢になって現れるということも私の場合あります。
けれど、中には霊的な夢を見た人や夢で主御自身がお語りになったという方もおられるかも知れません。いずれにしろ、主は夢に限らず、様々なかたちで、私たちに何らかの示しをお与えになることがあります。
この給仕役と料理役の見た夢の内容は、単に意味のないものではなく、それぞれに意味が隠されたものであったということです。二人はこの夢に何か意味があるに違いないと考え、ヨセフに「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない」とその心のうちを訴えます。するとヨセフは、「解き明かしは神がなさることではありませんか」と答えるのです。
古来より夢は、不思議な現象として捉えられ夢占いが盛んに行われてきました。現代は心理学の分野から、心の状態を知るために夢を分析するようですが。まあ、占いについていえば、神は忌むべきこと、と記されています。
では、ヨセフの夢の解き明かしは、それとどう違うのでしょうか。
それは、このヨセフが言うように「解き明かしは天地の主、生と死を司る神がなさる」ことであるということです。
ヨセフのこの「解き明かしは神がなさることではありませんか」との言葉は、王の側近であった2人にどう聞こえたでしょうか?
エジプトにおいては、あらゆる権力を掌握するファラオは、あたかも神のような存在として崇められていました。が、ヨセフのこの神宣言は、まさにエジプトにおける絶対的権力への挑戦ともとれる発言であったのです。
ファラオの力と支配を遙かに凌駕する権威は、唯主なる神さまのみにあり、いっさいを司っておられることを、ヨセフは宣言しているのです。
世において神さまのご支配は、目には見えません。けれども、ヨセフはその神さまの働きを知っていました。
ここで、神はヨセフに夢を解かせて給仕役には救いの知らせを、料理役には死の知らせをお示しになります。それは一見、私たちの目からすれば非情です。
しかし、人の生も死も、エジプト王ファラオの行く末をも、すべてを司っておられるのは天地の造り主であり、この神のうちにすべての決定権があるのだということを、聖書は伝えんとしているのです。
先週より「手」と言う言葉には「所有」や「権力」が象徴されているという話をしていますが。旧約聖書の箴言19章21節には「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」と記されています。
そのように、神の御手のうちにこそ、わたしたちのすべてがおかれ、この神に信頼して生きる道にこそ、希望と救いがあることを、聖書は伝えているのです。
ところで、ヨセフはそれぞれ2人に、神の隠されたご計画について解き明かしますが。給仕役にはよい知らせであっても、料理役には審きの告知です。
この時のヨセフの心情については、ここには何も触れられておりません。しかし、そこに旧約の預言者たちがイスラエルと南ユダの人々に対して、神の審きと、その罪による滅びについて告知しなければならなかった時と同様の困難や苦悩を想像することができます。
世の人々の心地よさや調子に合わせて「平和」「平安」「心配ない」「大丈夫」と言って偽りの平和を安易に約束する偽預言者たちが、旧約の時代にもおりました。
神は聖なるお方、義なるお方であります。ほんとうに必要なときに「神の裁き」と「悔い改め」が語られることなく、滅びに至ることを、決して主なる神さまは願っておられません。
③ 「神の恵み・ヘセド」
最後に「神の恵み、ヘセドの愛」についてお話ししたいと思います。
先週、ヨセフがポティファルの妻の逆恨みを買って監獄に入れられた折も、「主がヨセフと共におられ、恵みを施し」(39章21節)た、とありましたが。
この主の「恵み」はヘブライ語でヘセド、慈しみ・慈愛を意味する言葉です。
相手の苦しみや悲しみを自らのものとして、腸が千切れんばかりに感受するということです。主イエスさまもまた、飼い主のいない失われた民たちの姿を見て、深く憐れまれた。ヘセドの愛をおぼえられたのであります。
この神の恵み、ヘセドの愛が、今日のところでは自分と同じくファラオの牢獄に収監された2人にヨセフを向かわせるのです。その出会いは隠れた神さまのご計画によるものでありましたが。私の人生においても貴重な出会いが与えられました。それは小学生の時代、悩み多かった私を教会に誘ってくれた友は、やはり神さまのヘセドの愛に生きる人であったし、もし彼との出会いがなかったら、教会の方々との出会い、その温かい執り成しと祈りの支えに与ることも、主イエス・キリストとその御救いに与ることはなかったでしょう。これも又、隠れた神さまのご計画であったのだと思います。
大切なことは、ヨセフのうちに臨んでいた神の恵み、神の慈しみ、ヘセドがこの二人へと向かわせ、関わりとなって次週以降に続きます。神の救いのご計画へとつながっています。
神の恵み、神の慈しみ、ヘセドの愛に与っている人たちは、その神の恵みをもって遣わされる人とされるのであります。
④ 「忘れられたヨセフを忘れない神」
まあ、そのように神の恵みをもって夢の解き明かしをしたヨセフは、ファラオの給仕役の方に「ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取りはからってください」と、強く訴えます。
そして3日目のファラオの誕生日に、給仕役の長はヨセフの解き明かしたとおり、王が元の職務に復帰させます。ところが、この給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、なんと忘れてしまったのです。
そのためヨセフはその後も2年間ファラオの監獄に入れられたままになったという何とも切ない状況で、今日の箇所は終っています。
人は忘れてしまうのです。おおかた忘れます。なぜなら、自分のことで精いっぱい。その時その時、身近に起って来ることに懸命に生きているのが人間です。
けれども、確かに、自分は誰からも関心が向けられないと想うと寂しく、失望しやすいのも私たちではないでしょうか。
ヨセフは確かに今日の箇所では人に忘れられてしまいます。が、そこでこの物語は終っていない、終らないのです。主なる神さまは人々に忘れられたヨセフをずっとおぼえ続けておられ、2年の後遂に、時は満ちた、とヨセフを牢から救い出すべく立ち上がってくださるのです。「人は忘れても神は忘れない。」
私たちは決して忘れられていません。このヘセドの愛なる神さまが共におられます。
この主なる神さまへの信頼と感謝とをもって、今週もこの礼拝からそれぞれの場所へと遣わされてまいりましょう。