日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

「出発する」にも「休止する」にも時がある。

2009-03-30 23:17:10 | メッセージ
29日礼拝の聖書  出エジプト記40章36節~38節 より

「雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。」 

先週は、日本のWBC連覇のニュース一色に湧いた。手に汗にぎる展開にハラハラ、ドキドキ、そして久しぶりに心躍った。韓国チームのチャレンジャー精神にも感服した。決勝打を放ったイチロー選手はその塁上で表情一つ変えなかった。「普段と変わらない自分でいることが僕の支え。この支えを崩すと、タフな試合の中では、自分を支えきれなくなってしまう」という矜持からだそうだ。予選リーグでは絶不調が続きスランプのどん底にあった時も、この矜持は生きていた。そのどん底を通り抜けた末に放った決勝打。好不調(浮き沈み)に左右されず、ひたむきにプレーするイチロー選手の言葉として重く響いてきた。
上記の聖書のみ言葉を読んで思いますのは、主を信じてはいても、「希望を持て」「がんばれ」と言われても、そうできない時がある。「出発する」にも「休止する」にも時がある。荒れ野の旅路をあゆむ人々は、日常(雲)からそのことを、学び取っていった。しかしそこで、「投げ出さず」「あきらめず」主に忠実なあゆみをなしていった時、「主が彼らとともに生き、働いてくださる」との体験と確信をもつことができた。それは今も聖霊を介し、私たちにも体験できる出来事、「福音」であります。
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「3週間の病院実習を終えて」

2009-03-22 08:10:17 | 巻頭言
「3週間の病院実習を終えて」 N・I

今回2月16日(月)~3月6日(金)の日程で3週間の病院実習を経験してきた。この実習での目標は、担当患者さんを一人もたせていただき、実際に検査・測定を行い、身体のどこに問題があるのか、なぜそうなるのかその原因を挙げることであった。実習中の一日の流れとしては、朝8時過ぎに病院に行き、午前・午後ともにリハビリを行う理学療法の先生方が患者さんに治療しているところを見学させていただき(その内の1時間は自分の担当患者さんの評価)、夕方の5時から一日を終えてのフィードバックがあり、夜7時くらいに帰宅するという生活であった。
今回の実習の感想を一言で言うと、『何もできなかった』というのが本音である。暗記だけで覚えていた知識は全く役に立たず、現場ではその個々の性質を知った上で、お互いを関連させ生かされていた。また、病名だけをみて評価や治療はできず、社会的背景が全く異なるそれぞれの患者さんに合った適切な治療プログラムを作成する必要があるということを学んだ。
 この3週間は毎日、毎日が初めて知ることばかりで本当に新鮮であり、あっという間に過ぎたこの3週間は普段の生活の何年分にも相当する経験であったと感じた。次回の実習は7週間半となるが、今回と同様に全力で頑張り、また大きく成長したいと思う。最後となりましたが、実習中ずっと見守って下さった神様、またお祈りしていただいた大阪教会の兄弟姉妹、家族に感謝致します。本当にありがとうございました。 
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礼拝宣教「命がけの約束」

2009-03-15 08:26:37 | メッセージ
宣教テーマ「命がけの約束」出エジプト紀34章1~10節         
  
先日、奥田先生(東八幡教会牧師)の北九州ホームレス支援機構での働きがNHKプロフェッショナルの番組で紹介された。「ホームレス支援などない。一人の人間と向き合い、関わっていることでしかない」と言われた言葉が心に響いてきた。関わりの中で「たとえ裏切られるようなことがあっても、あなたは孤独ではない」というメッセージを送り続け、一人ひとりに寄りそっておられる姿にキリストの福音に裏打ちされた意志と覚悟を感じた。
本日の箇所を読んで思いますのは、主なる神が戒めの再授与と契約を結び直されたのは、モーセがイスラエルの民のために粘り強く、主に執り成し続けていったことがあるわけですが、そこにはまず何よりも主なる神の「約束に対する真実と忍耐」があったということです。モーセは信仰の祖父アブラハムに語られた約束に対する主の真実と忍耐を頼りに執り成していったのです。再び交されることになった契約において主は、この先繰り返し罪を犯すであろうかもしれない民、ご自身を裏切ることがあろう民と「一緒に生きる覚悟」をなさるのであります。それは又、決して彼らを見捨てない、あきらめないという決意でもあります。主はその民が犯す罪で痛みを負っていかねばならない覚悟をなさったということであり、そのような民と一緒に生きていこうとされる決意をなさったのであります。
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礼拝宣教「神の前に向き合う一人」

2009-03-08 08:22:46 | メッセージ
宣教テーマ「神の前に向き合う一人」出エジプト32・1~14から          
          
イスラエルの民は、モーセがなかなか神の山から下りて来ないのを見て、アロンに不満と不安を伝え「我々に先立って進む神々を造ってください」と詰め寄ります。アロンは彼らの勢いに流されるかのように民の全員から金を集めさせて金の子牛の像を造り、「主のまつり」と称して偶像礼拝をさせたのであります。民もアロンも主の前に大きな罪を犯すのです。
それを知った神はモーセに「民を滅ぼす」と宣言されるのですが、モーセは「思い直してください」と必死に信仰をかけて神に執り成し、懇願します。民やアロンとは違い、モーセは神の前に一人で立ち、信仰をもって向き合うのです。そのモーセと神の対話は祈りの格闘ともいえるでしょう。そして遂に、神は「災いを思い直された」のであります。
今日のこの箇所から、リーダーの良し悪しでこのように事態が変わってしまうということがよく分かります。しかし、根本的な問題は民もアロンも、目に見えなくとも、まず神にみ心を聞き、祈り求めていくということが欠如していたところにあります。彼らはモーセとは対照的に、その信仰の恵みの特権と責任をいわば放棄したということであります。
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礼拝宣教「寄留の民として」

2009-03-01 07:50:56 | メッセージ
主日礼拝宣教「寄留の民として」 出エジプト記23章1~9節より           
この箇所は、神とイスラエルの民との間に交わされた「契約の書」の一部でありますが、先週まで読んだ十戒をさらに詳細なかたちで示したもので、法廷や訴訟等について記されています。私たちに何が語りかけられているのでしょうか。

先日、靖国神社への合祀の取り下げを願う訴訟の判決がありました。これは戦時中、国のために働いて戦死したということで強制的に靖国神社に合祀され、英霊として祀られたクリスチャンや仏教徒の方々の遺族が原告となって合祀を取り消してほしいと訴えた裁判です。200人位が傍聴券を求めて抽選となりましたが今回は法廷には入れませんでしたが。判決は原告遺族家族の訴えを全面的に退ける不当な判決で、個々人の思想信条を侵害したことにはならないというものでした。遺族の心からの願いがあの自衛官合祀訴訟と同様、また踏みにじられた結果となりました

今年から裁判員制度がいわば見切り発車的に実施されようとしています。裁判の迅速性、庶民感覚をもった裁判、開かれた裁判などと謳われていますが、裁判員に選ばれた者は大抵断れない、なかば強制的であります。思想信条の上で、いのちの尊厳に関わる死刑判決には関われないという意見もそこでは通用しません。今日の2節に「法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し判決を曲げてはならない」とありますが、説得力や影響力の大きい裁判員に他の裁判員もつい同調し、流さてしまうと客観性が損なわれる等の問題も起こりかねません。この制度についてはまだまだ十分に審議される必要を感じますが、いつその制度に関わらなければならなくなるのか分からない現状に於いて、今日のみ言葉は私たちに大切なことを教えてくれます。
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