日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

巻頭言

2007-06-28 10:08:23 | お知らせ
神学校週間  

24日~7月1日までは神学校週間です。日本バプテスト連盟の教派神学校として西南学院大学神学部があります。また、全国各地には九州、東京、北海道などに連合立他の神学校(夜間・通信制度)もあり、近年では卒業生たちが全国各地の教会・伝道所に遣わされ、伝道の最前線で働いておられます。各神学校はそれぞれの違いや多様性を堅持しつつ、神学教育がなされており、現実にその役割や存在も大きくなっています。このこともおぼえて祈り・支えていくことも大切でありましょう。
ただ、西南学院大学神学部は夜間や通信制による学びがありませんので、社会人であれば仕事や勤めを辞めなければ入れません。このハードルを越えていくことが求められます。特に妻帯者、家族がいて神学部へ入り、学ぼうとされる方々にとりましては「退路を断たれる」という大変な決意が求められます。
全国壮年会連合では西南学院大学神学部をおぼえ、奨学金制度がさらに充実し用いられるために「神学校献金」がアピールされています。
その目玉に、神学生たちの「生活費のための奨学金制度」の復活があります。かつては多くの神学生がその恩恵に与り、大変助けられたこの奨学金制度が現在ありません。神学生たちは学びの傍らアルバイトなどをして生活費をかせぎ、家族をもつ者には負担がかかっています。早期にこの奨学金制度の再開が望まれます。それはかならずや特に神学部で学ばれる献身者の大きなサポートになることでしょう。
ご加祷・ご支援よろしくお願い致します。(俊)                      

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あかし

2007-06-21 08:44:31 | メッセージ
礼拝・あかし  N・I

みなさんは今までに重症児(者)と呼ばれる障がい者の人たちと接したことはありますか。あるという方はどういった思いをもっていますか、またない方はどのような印象をもっているでしょうか。今日はこのことについて証させてもらいたいと思います。
 僕は昨年の10月、大学を通してガイドヘルパーの資格を取りました。現在は主に土曜日、日曜日にその介助をしています。ガイドヘルパーの仕事内容は、一人で屋外に出ることができない障害者のために、移動介助や、食事介助、トイレ介助などです。その障がい者のほとんどは脳性まひの人たちです。言葉は話せても聞き取りにくかったり、ゆっくりでしか話せなかったり、何も話すことができなかったり、症状は本当に人それぞれです。僕はこのガイドヘルパー以外でも学校を通してバスケットや水泳といった障害者スポーツ、またさまざまなボランティア活動に参加しています。
なぜ僕がここまでして、障がい者の人たちとの関わりを大事にしているのかというと、やはりその原点には親の存在があり、重症心身障害児(者)施設である久山療育園の障がいをもった人たちとの出会いがあったからだと思います。
 僕は小さい頃から、久山療育園の夏のワークキャンプに参加していました。そのキャンプのメインはもちろん園内の伸び切った草を刈ることだったのですが、そのキャンプではもう一つの大きなプログラムとして、障がい者と交わる時間がありました。しかし、僕はこの時間が本当に嫌でした。扉を開けると聞こえてくる「アァー、ウゥー」という奇声、変な方向に曲がっている手足の関節、こんな言い方はしてはいけませんが、そのときは子どもながらにして、その人たちを自分と同じ『人』としてみることができませんでした。しかし、僕の両親は逆でした。平日の夜は2人で久山療育園のことについての話し合いに行っていたし、毎月1回の土曜日は父に連れられ久山療育園を支援するための街頭募金に小さいころから行っていました。また、母も教会で開かれている障がいをもった子どもたちの集まりである「やかまし村」に積極的に関わっていました。このように両親は本当に障がい者の人たちのために様々なサポートを熱心にしていました。僕はいつからか心の底からなんで他人のためにここまで尽くしているのだろうかと疑問を持つようになりました。障がいをもつ子どもと接している母の顔はいつも本当に嬉しそうでした。それは病気になった今でも全く変わっていません。そんな中、僕もある時を境に彼らに対する意識が変わるようになっていきました。ある年に、その久山療育園のキャンプに参加した時、今までは障がいをもった子どもたちを何かただ漠然としか見れていなかったのですが、一人一人の顔がはっきりと自分の目に映るようになっていました。
ふれ合うことによって分かる、その子の表情、動作その1つ1つがとても輝いて見えました。彼らは話すことはできません。しかし、表情や全身を使って自分の気持ちを伝えることができます。僕は彼らとのふれ合いを通して障がいも1つの個性ではないか、と思えるようになりました。
 今になって分かる親の思いが少なからず分かってきました。彼らは一人では何もできないけど、一人一人素晴らしい笑顔を持っていること。彼らを通して学ぶことの多さ…。僕が両親のもとに性を与えられたのも、神様が僕に障がいをもった人たちと共に生きなさいと言ってくれ、その道を示してくれたからだと思います。大阪に来て、大学生活を送る中である1つの聖書の御言葉を与えられたので紹介させてもらいます。コリント信徒への手紙一12章12節から31節です。だから僕はこれからも障がい者の人たちと関わっていきたいし、将来就職したとしても、また様々な形で彼らと関わっていきたいと思います。それが神様が僕に与えた使命ではないかと思うからです。


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巻頭言

2007-06-18 09:34:32 | メッセージ
あかし K・I

「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」「主に喜ばれるものが、なんであるかをわきまえ知りなさい。」「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように心から働きなさい。」「人の心には多くの計らいがある、主の御旨のみが実現する。」・・・
ノンクリスチャンの家族(夫、長女、二女)に聖書を少しでも身近に感じて欲しと願って、毎日ではありませんが、夕食時に、御言を1つ聴いてもらい、誰かに短く祈ってもらっております。  
20年程前の小学科の教師はYさんでしたが、長女、二女の心に御言の種を蒔くという大きなプレゼントをして下さいました。
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が1人も滅びないで永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)
二人ともこれだけは今でも暗記しております。  
この御言が二人のものとなり、彼女達らしいかたちとなって現れてくるのを祈りつつ楽しみに待っております。
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巻頭言

2007-06-11 10:47:13 | メッセージ
「ボアズ農園」日誌より  

大阪教会の西側に小高い緑の丘があり、その地を利用して0兄が小さな菜園をしていた。4月貴兄が天に召され、しばらく主(あるじ)を失ったその地は寂しそうだった。そういう中、教会の青年たちから菜園を引き継ぎたいとの声が出た。5月12日、新しく「ボアズ(ルツの夫の名)農園」と命名され、初めての作業が始まった。
青年たちは毎週土曜日毎に集まり草抜き、整備作業、苗購入と苗植え、水まき等を行っている。(水まきは有志が週に何日も)
この農園にはすでにユスラウメやビワなどが実っているが、新にサツマイモ、マリーゴールド、スイカ、イチゴ、ゴーヤ、トマト、トウモロコシ、カボチャ、トウガラシなど実に多種多彩な苗が植えられた。中にはもう実をつけているものも?ある。
6月3日の日誌には、「自動水やり器の設置、土壌活性剤の活用、観察;トウモロコシ;背が伸びていた トウガラシ;実ができかけていた スイカ;花が咲いていた マリーゴールド;順調に芽を出している サツマイモ;少しぐったり」と記されていた。
いずれその苗の過程を記録した写真も紹介して頂けるだろう。
都会の一角に植えられた苗たちは今後如何に育つのだろう、どのような出来事が待ち受けているのだろう。汗を流し、土にまみれ、蚊に刺されながらもひたむきに、楽しそうに作業している青年たちの姿がとてもさわやかに思える。アドナイ・エレ(主の山に備えあり)! 俊 

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巻頭言

2007-06-03 14:58:07 | メッセージ
「同伴者イエス」  Y・S

ある小雨の降る日だった。
子どものお迎えでいつもの道を歩いていると向こうから「サザエさん」の歌声が、、、(そう、日曜夕方のあれです)
目をあげると二人の青年が肩を並べ歌いながら歩いて来た。おそらく20代であろう彼らの一人は障害をもっていらっしゃる様子で、もう一人は付添の方のようだった。
私は彼らと擦れ違いながら少なからず感動していた。
歌いたいから歌うありのままの人。
その人に寄り添い共に歌う同伴者なる人。
彼はまだ気はずかしさや人目が気になるような年頃なのに、あたかもそうすることが当然であるようにして無垢なその人と歌いながら一緒に歩いていた。

作家の遠藤周作氏はキリストを「同伴者」と言った。それはカトリックの権威からは異端的発想だと批判された。(後に彼の名誉は回復されるけれども)
イエス・キリストは人の罪をあがなうために十字架にかかられた。
はぎ取られぼろぼろになり、「神よ、なぜわたしを見捨てられたのか」と絶叫し死なれた。
それは人の弱さ、苦しみ、なさけなさのどん底までも寄り添うため、すべての人の同伴者となるためだったと信じている。
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