日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

命をかけた証し人

2009-10-25 07:52:03 | メッセージ
使徒言行録7:46-8:3 より

ステファノはアブラハムから始まるイスラエルの歴史を踏まえつつ、終始冷静に淡々と証言します。それは感情的になり理性を失う人々の姿と対照的です。そこには、み霊によって語る者の確信に満ちた強さがあります。彼のこのみ霊によって語る確信、すなわち「知恵と霊」はどこからきているのでしょうか。それは、ステファノ自身がメシヤである神の子イエスを十字架につけて、殺害したという罪の自覚、「悔い改め」からではないでしょうか。それはまさに聖霊降臨によってもたらされました。聖霊が臨んだ時、神の民として生きてきたこの自分こそが、実は神に逆らうような罪びと、神の子を十字架にかけて殺すような者であり、まことにメシヤ・キリストの救いを必要とする者であることを彼は思い知らされたのではないでしょうか。
 ステファノはイエスさまの福音と出会うことを通して、イスラエルの民である自分について新たな目で見ることができるようになりました。まさに聖霊の力と、恵みであります。
私どもの日本バプテスト大阪教会は来年度宣教60周年を迎えようとしています。
バプテストの教会としての経験や信念を積み重ねて来た60年であったことでしょう。そのことについて自信と誇りを持つことはよいことです。が、ともすればそのことがかえって視野を狭くさせ、こだわりや偏見となって他教会や他教派との交わりを妨げることがあってはならないし、何よりも私たちはどこまでもキリストの救いの福音を土台として建つ共同体でありたいと願います。そこにキリストのからだである教会ビジョンの根底があると信じます。
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命の言葉を告げなさい 

2009-10-18 07:04:53 | メッセージ
使徒言行録5:12-42(抜粋)

「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者とされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシヤ(キリスト)・イエスについて福音(命の言葉)を告げ知らせていた」(41-42)とあります。使徒たちはイエスの名のために辱めを受けたことを喜んだ。牢に入れられ、ののしられ、鞭を受けたにも拘わらず、「なんで主に従っているのにこんな目にあわねばならないのか」などと言わず、それどころか主の名のために辱めを受けるにたる者とされたことを喜び、益々盛んに主イエスの救いの素晴らしさを公然と伝えていったというのです。
ルカの福音書6:22-23でイエスさまが「人の子のために人々に憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい」とおっしゃったことが、使徒たちのうちに受肉したのです。彼らはイエスの受難と共にある喜びと、また主の復活に共に与る光栄に満ち溢れるのです。
使徒たちは最高法院や神殿という公の場でも、家々でもイエスをキリスト(救い主)と宣言し、命(救い)の言葉をあますことなく人々に伝え続けました。最高法院で「今後、イエスの名によって話しはならない」と鞭打たれ禁止命令を受けたにも拘わらず、使徒たちは公の場で「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と証言したとおり、時がよくても悪くても、あらゆる機会をとらえて「命の言葉」である福音を伝え続けたのです。
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力と祝福に満ちた教会

2009-10-11 06:37:08 | メッセージ
使徒言行録2章32~47節より

今日は小学4年生のTくんの信仰告白とバプテスマの喜びの日です。これから主イエスと共に歩む彼のためにお祈りとお支えを戴けると感謝です。

41~42節は、ペトロの宣教を受け入れた人々の回心とその後の信仰者としての歩みを要約しています。聖霊降臨という激しく感動的な出来事が起こり、多くの回心者が与えられたということだけで、もしこの使徒言行録が締めくくられてしまっていたとしたなら、どうでしょう。現代にも、一時的に盛り上がり、感情の高鳴りと高揚を焚きつけるような宗教現象やそういった集会は数々あります。
しかし、ルカの使徒言行録はそれだけでは終っていません。聖霊の力を受け、回心を経験した人々は、「使徒の仲間に加わり、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(42)とあります。この42節の4つの活動は43~47節でさらに詳しく説明されていますが。そのように主の赦しと愛のもと豊かな実を結んでいくのであります。それは信仰が一時的な感情や高揚で終わるものではなく、日々の生活の中で実践され、継続的なものとしてあかしされていくものであることを伝えます。何か霊的な体験をした。ああ恵まれた。よかった。そこで終わるのではなく日常的にみ霊の働きが実りを伴っていく、これがほんとうの信仰復興なのであります。逆にいえば、聖霊の恵みに与ったなら、その油を切らせないために、そのような日々の実践が継続され実を結んでいくことが必要です。そのような中でみ霊の注ぎは継続されていくのであります。
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わたしたちの使徒言行録

2009-10-04 06:31:12 | メッセージ
使徒言行録1・3~11より

 この使徒言行録はルカによる福音書を記した医者ルカによって書かれたとものだと言われています。ルカは初めに福音書を記し、続いて使徒言行録を記したのです。つまりルカ福音書が前篇で、使徒言行録が後篇というふうに二つで1セットとして記されているわけです。
 ルカによる福音書はキリストの地上での働きについて記されていますが、ルカは復活し昇天されたキリストの働きがそれで終わるのではなく、聖霊の降臨とともに使徒や弟子たちを通して働かれるさまを記します。それは肉の目には見えませんがキリストの天上での働きについての記録であるとも言えます。聖霊の働きはキリストの地上の働きが終わり天に上げられることから始まります。使徒や弟子たちは「聖霊」を受けるとキリストの苦難と死、復活と昇天の証人となっていきます。
 その働きは、8節にありますように、イエスさまが約束された「聖霊」が初めて降った後に本格的に始まります。そして、2000年の時を経た今も、ご聖霊は豊かに臨み、力強く働かれ、世界中にキリストの福音が宣べ伝えられ、証しされ続けているのであります。
 私たちはこの聖霊の働きを知るか、知らないか、聖霊に頼るか、否かによって、キリスト者としての生き方というものが大きく変わってくるのであります。
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