使徒言行録7:46-8:3 より
ステファノはアブラハムから始まるイスラエルの歴史を踏まえつつ、終始冷静に淡々と証言します。それは感情的になり理性を失う人々の姿と対照的です。そこには、み霊によって語る者の確信に満ちた強さがあります。彼のこのみ霊によって語る確信、すなわち「知恵と霊」はどこからきているのでしょうか。それは、ステファノ自身がメシヤである神の子イエスを十字架につけて、殺害したという罪の自覚、「悔い改め」からではないでしょうか。それはまさに聖霊降臨によってもたらされました。聖霊が臨んだ時、神の民として生きてきたこの自分こそが、実は神に逆らうような罪びと、神の子を十字架にかけて殺すような者であり、まことにメシヤ・キリストの救いを必要とする者であることを彼は思い知らされたのではないでしょうか。
ステファノはイエスさまの福音と出会うことを通して、イスラエルの民である自分について新たな目で見ることができるようになりました。まさに聖霊の力と、恵みであります。
私どもの日本バプテスト大阪教会は来年度宣教60周年を迎えようとしています。
バプテストの教会としての経験や信念を積み重ねて来た60年であったことでしょう。そのことについて自信と誇りを持つことはよいことです。が、ともすればそのことがかえって視野を狭くさせ、こだわりや偏見となって他教会や他教派との交わりを妨げることがあってはならないし、何よりも私たちはどこまでもキリストの救いの福音を土台として建つ共同体でありたいと願います。そこにキリストのからだである教会ビジョンの根底があると信じます。
ステファノはアブラハムから始まるイスラエルの歴史を踏まえつつ、終始冷静に淡々と証言します。それは感情的になり理性を失う人々の姿と対照的です。そこには、み霊によって語る者の確信に満ちた強さがあります。彼のこのみ霊によって語る確信、すなわち「知恵と霊」はどこからきているのでしょうか。それは、ステファノ自身がメシヤである神の子イエスを十字架につけて、殺害したという罪の自覚、「悔い改め」からではないでしょうか。それはまさに聖霊降臨によってもたらされました。聖霊が臨んだ時、神の民として生きてきたこの自分こそが、実は神に逆らうような罪びと、神の子を十字架にかけて殺すような者であり、まことにメシヤ・キリストの救いを必要とする者であることを彼は思い知らされたのではないでしょうか。
ステファノはイエスさまの福音と出会うことを通して、イスラエルの民である自分について新たな目で見ることができるようになりました。まさに聖霊の力と、恵みであります。
私どもの日本バプテスト大阪教会は来年度宣教60周年を迎えようとしています。
バプテストの教会としての経験や信念を積み重ねて来た60年であったことでしょう。そのことについて自信と誇りを持つことはよいことです。が、ともすればそのことがかえって視野を狭くさせ、こだわりや偏見となって他教会や他教派との交わりを妨げることがあってはならないし、何よりも私たちはどこまでもキリストの救いの福音を土台として建つ共同体でありたいと願います。そこにキリストのからだである教会ビジョンの根底があると信じます。