日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

復活のキリストにある希望

2024-03-31 17:48:13 | メッセージ
礼拝宣教    ヨハネ20章11-23節 イースター

主イエスの復活を記念する「イースター」おめでとうございます。
本日は先にドス・サントス・チアゴさんの信仰告白とバプテスマが行われました。主のみ名をほめたたえます。こうして主なる神さまの救いのみ業が目に見える形であらわされ、分かち合われて大変うれしく思います。
バプテスマは、新しく生まれた信仰者の最初の第一歩であります。これからも信仰の闘いや試みが多くあるでしょうが。そんな時もバプテスマの出発点に立ち帰り、主の救いの恵みを再確認して、前に進んでいく力を頂くことができるのです。どうかサントス・チアゴさんのこれからのあゆみのためにとりなし、お祈りください。共にキリストのからだなる教会を立てあげてまいりましょう。

本日の箇所には、イエスさまが十字架刑で死を遂げられてから3日目のまだ薄暗い早朝、イエスさまが葬られた墓へ最初に向かったのはイエスさまの弟子たちではなく、かつて7つの悪霊をイエスさまから追いだしてもらったマグダラのマリアであったと記されています。
このマグダラのマリアは、十字架にかけられたイエスさまの傍らで、イエスさまの苦しみと死を嘆き悲しみました。イエスさまが十字架から降ろされてからも側を離れず、埋葬の場にも付いて行きました。そしてこの安息日明けの早朝、彼女はせめてイエスさまのお身体に香油を塗ってさしあげたいと墓を訪れたのです。彼女はすべての囚われから解放し、新しい人生を与えてくださったイエスさまのことをひとときも忘れることなどできなかったのでしょう。
ところが、マリアがイエスさまの墓に着くと、すでに石が取りのけてあり、イエスさまのお身体は見当らないのです。イエスさまが全く跡形もなく消えてしまった絶望感と悲しみから、墓の外で泣き続けていました。
人はみな草が枯れ花はしぼむように消え去り、やがてだれも思い出さなくなる。その空しさ、そのごとく。残された者はその記憶を忘れないように弔い、思い起こしてもやがては自分も消えてゆくものです。伝道の書(コへレトの言葉)にあるとおりです。
そのように墓の外で立ち尽くして泣いていたマリアでしたが、再び身をかがめて墓の中を確かめるように見ると、白い衣を着た二人の天使が座っているのが見えました。天使は、「婦人よ、なぜ泣いているのか」とマリアに語りかけます。
マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません」と答えるのですが。
後ろに何か、人の気配がしたのでしょう。悲しみに沈んで骨まで枯れそうな時、主が見えなくなる。わからなくなる。私たちだけではありません。このマリアも弟子たちもそのようなところを通りました。
マリアはすぐにイエスさまだと分りませんでしたが、イエスさまは語り続けます。「婦人よ、なぜ泣いているのですか。誰を捜しているのですか」。
マリアはその相手が園丁だと思いました。ただ人がそう言っているだけだと思ったのです。でもそれは、イエスさまでした。
マリアは「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と答えます。
彼女はイエスさまを目の前にして言葉を交しても、それがイエスさまだということがわかりません。それは、彼女が捜していたのはイエスさまのなきがらだったからです。

私たちは何を探しているでしょうか?神学的教義か。生き方の指南か。愛か。希望か。何れも大事でしょう。けれどもそれらの源は生ける神、復活し、生きておられるキリスト、イエスなのです。
その生ける主イエスは彼女に、「マリア」と個人的に呼びかけます。その瞬間、マリアは眼が開かれ、それがイエスさまだとわかって「ラボニ」と、いつものように答えたというのです。
このラボニとはヘブル語で「敬愛する師」という意味でした。マリアはイエスさまのお言葉、その教えに救われ、生かされ、イエスさまを心から尊敬していたことが伝わってきますが。
ヨハネ福音書10章には、「羊は羊飼いの声を知っているのでついて行く」とあります。
マリアはイエスさまの声を知っていました。これは私たちも、毎日聖書のお言葉に親しむことの大切さを教えています。そうすることで、あ、これは主が私に語りかけておられる御声なんだ。逆に、いや、これは主の御声ではない、と聴きわけることができるからです。
マグダラのマリアは、その生きておられるイエスさまのお声だとわかった時、どんなに喜んだことでしょう。歓喜に溢れたマリアは思わずイエスさまにハグしようとしたのでしょうか。
ところが、イエスさまはマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われるのです。
ちょっとつれない気がしますが。イエスさまは彼女を突き放されたわけでは決してありません。
そのことについてイエスさまは、「まだ父のもとへ上っていないのだから」とおっしゃいます。
イエスさまはラボニ、敬愛する師という関係だけにとどまらず、救い主、イエス・キリストなるお方、いつも共におられ、生きておられる主として新しい、全く確かな関係性を築こうとされていたのです。
聖書は人生のためになる本、知識や教訓として学ぶことは意義があるでしょう。そういう意味でイエスさまはラボニ、尊敬できる先生です。
しかし最も大切なことは、イエスさまが死に打ち勝たれて復活された救い主、キリスト。時間、場所、立場をも超え、個人的に出会ってくださるお方であるとのことです。その主イエスとの決定的な出会いこそが重要なのです。
ここで、イエスさまはマリアに「まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」言われました。
そうです。イエスさまは十字架の上ですべての人に救いの道が開かれるという大いなる御業を成し遂げられました。その勝利のしるしこそ、復活です。そしてこのよき知らせ、福音が全世界にもたらされるという大いなる神のご計画は、聖霊の降臨によって実現されるのです。
イエスさまはご自身が天に昇られた後、地上に残された弟子たちはじめ、イエスさまを慕って来た人たちに、弁護者であり、慰め主であられる聖霊を送られると、約束してくださいました。
そして、本日の21節のところで、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。そう言って息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」とおっしゃるのです

復活のイエスさまはマリアに、「わたしの兄弟たちのところに行って、わたしが天の父のもとへ上ることを伝えなさい」と言われます。イエスさまはここでご自分の弟子たちを「わたしの兄弟」と呼ばれるのは、主イエスを信じる人たちがみな神の家族、兄弟、姉妹となるように願っておられたからです。それは主のもとに創り出される平和であり、「互いに愛し合いなさい」との主の強い願いとその教えによって実現されるべきビジョンなのです。

感情の嵐によってちりちりばらばらになった弟子たちでしたが、イエスさまを慕い求める思いはママグダラのマリアと同じであったのです。
後悔や自責の念にさいなまれる彼らを復活の主イエスは「わたしの兄弟」と呼んで、同様に神の家族として招かれるのです。
「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」(18節)とあります。彼らはそれをどのように聞いていたことでしょう。

さて、その日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。狭い部屋の中にイエスの弟子たちと、いつもつき従っていた男女らが、いわばすし詰め状態で息を潜めていたのです。彼らは「イエスの仲間だ」ということで、いつ権力をもつユダヤ当局に捕まってしまうか分からない、いわば外的な恐れのため家の戸に鍵をかけていました。又、彼らはイエスさまを見捨てて逃げた事への内的恐れに苛まれていました。彼らの心も、内から鍵がかけられ、閉じこもっているような状態であったのです。
今も、権力や身近な人から激しい迫害を受ける人たちが世界中におられます。又、心の扉を開くことができない苦しみと痛みの中におられる人たちもいます。
ヨハネの福音書はそのような兄弟姉妹の真ん中に主イエスが立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われ、傷のある手と脇腹を見せて、復活のいのちを証明してくださるのです。
それはどれほどの勇気、希望を呼びさますものであったでしょうか。
復活のイエスさまは、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。そう言ってから、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言われるのです。
それは神の家族とされた私たち、すなわちキリストの教会が聖霊により、罪の告白とゆるしの宣言という神の権能を与っていることにほかなりません。
今日まさに信仰告白とバプテスマ式が行われました。罪を告白し、キリストのあがないによるゆるしの宣言を受け、キリストの平和、平安の中に招き入れられているのです。

先に、チアゴさんは信仰告白の中で、どうしても許せない人びとに対しては非常に厳しい批判や厳しい言葉を使って裁いていた。しかし、これらの人びとに対してなした非難や裁きが、自分に対して使用された場合、自分は堪えられず、逃れられないような苦痛と恐れが生じると告白されました。そういう中で、どうすれば厳しく批判しないで済むのか?そのキーワードは、神さまの「受容」「許し」から始り、神さまへの感謝」へと向かった。それは聖書の言葉によるもので、「主の言葉(御言葉)には力がある」ことへの目覚めであったというのです。それはまさしく、生ける主イエス、キリストとの対話であり、体験です。
サントス・チアゴさんは、主イエスが「受けなさい」と言われた聖霊を受けられたからこそ、主イエスにある救いの確信、真の平和、平安を得られるのです。これからは、その主イエスから頂いている平和、平安をより多くの人と共有し、分かち合う者とされていきますよう、祈ります。
キリストにあって神の家族とされた私たちも又、互いにとりなし合いつつ、復活の主イエスは今も生きておられる、その証言者として、このイースター礼拝から心新たに歩み出してまいりましょう。

祈ります。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。
主なる神さま、今日、私たちの救い主、イエス・キリストのご復活をおぼえる主の日を迎えることができ感謝いたします。私たちに復活の信仰が与えられていることは何よりも大きな希望です。
今日はあなたにある平和、平安は揺るぎのないものであり、それは、わたしたちの救いの土台であることを知ることが出来ました。
この世界には悪の力が働いて戦争や紛争、収奪や搾取が繰りかえされてます。私たちはあなたの力に依り頼みます。絶えずあなたの平和と平安が地に満たされていくために祈り続けます。
この地上においてさまざまな葛藤や試みは尽きませんが、復活の主イエスにある希望をもって歩み続けることができますよう、絶えず守り導いてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アァメン
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2024/3/31 イースター礼拝式

2024-03-30 09:54:04 | 教会案内

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十字架の言(ことば)

2024-03-24 18:30:56 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ19章17-30節 受難週

レント(受難節)の1ヶ月あまりヨハネ福音書からイエスさまの告別のお言葉を中心に読んできましたが。いよいよ本日イエスさまの十字架の受難と死を覚えて過ごす受難週を迎えました。今日はイエスさまの最期の1日に起こった記事より御言葉に聞いてまいりましょう。

「権限について」
まずこの19章8節以降には、「イエスさまを十字架につける権限」をめぐるローマ総督ポンテオ・ピラトとイエスさまとの問答が記されています。
その中でピラトが、「お前を釈放する権限も十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と言うのでありますが、イエスさまは、「神に与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」とお答えになります。
そこでは、イエスさまが神の主権によって十字架にかけられたこと。イエスさまが、その父なる神の御心をお成し遂げられたことが明らかにされています。すべては世の力をもつ者の権限によらず、唯神さまの主権による救いの計画が成し遂げられ。この事実をイエスさまは明らかにされるのです。
このイエスさまのお言葉は、ローマ総督のピラトに神への畏れを呼び覚ましたのでしょうか。彼はイエスさまが十字架刑に相当するような罪を犯したと認めることはできず、その責任から逃れるために何とかイエスを釈放しようと努めるのです。
しかし、ユダヤの指導者たちは「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」と叫びながら激しく抗議します。
さらに、ピラトが今一度「見よ、あなたたちの王だ」「あなたたちの王を十字架につけるというのか」と問いかけると、ユダヤの祭司長たちは「わたしたちは、ローマの皇帝のほかに王はありません」と断言するのです。彼らは神が約束された救い主、メシアなる主を拒んで、事もあろうに地上の王以外の王はいないと、彼らが何に仕えているかを暴露するのです。ピラトも又、神への畏れを抱きつつもイエスを彼らに引き渡します。

17節「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴダという所、それは処刑場でありますが、そこへ向かわれた」とあるように、イエスさまは「自ら十字架を背負われた」のです。
それは、イエスさまがあのゲッセマネの園で血の汗をしたらせながら懸命に祈られた末、父なる神の御心を悟り得、そこで確か父なる神の御心にご自身を従わせる道を選び取られた事によるものでしょう。一人の人間として大きな恐れや深い葛藤がある中で、なおも父なる神の御心、ご計画は成し遂げられることを切に願われたからでありましょう。まさに、「御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るため、御子によって世が救われるため」(ヨハネ3章16節)であります。イエスさまはそのために自ら十字架を負われたのです。唯この神の愛と救いにすべての権限があるのです。

「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」
さて、ローマの総督ピラトは、イエスさまの十字架の上に「ナザレのイエス、ユダヤの王」と、その罪状書きを掛けた。それは「ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれてあった」とあります。ヘブライ語はユダヤ人の言葉で、ラテン語はローマ帝国の公用語、ギリシャ語は当時の地中海世界で広く使われていた共通語でした。それはいわば全世界に向けられた、「ナザレのイエスこそ王、神の救い」という真理のメッセージであったのです。
ユダヤの民は旧約時代からずっと来たるべきメシア(救世主)、ユダヤの王の到来を待ち望んでいました。この罪状書きを見たユダヤの指導者たちはピラトに、「この男はユダヤの王と自称した」と書き直してくださいと言うのであります。しかしピラトは「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と退けます。ピラトの中に正しい人を引き渡したという罪悪感があったかどうかはわかりませんが。このことによってナザレのイエスがユダヤの王であるばかりか、世界の王、救い主、キリストであることを全世界に布告されることになったのです。実にここに神の摂理が示されているのです。

「成し遂げられた」
このヨハネの福音書は、旧約聖書で預言された来るべきメシア(救世主)が、イエスさまであられることを証しています。
18節には「イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真中にして両側に十字架につけた」とありますが。それは預言者イザヤの書53章12節に、「彼は罪人のひとりに数えられた」と記されたことが事実となったことを示しています。
又、「兵士たちがイエスさまの服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着は一枚織の衣になっていたのでくじ引きをして決めた」とあります。これはメシアの苦難を預言したといわれる詩編22編19節に「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」と記されていることと同様のことがなされたということです。そのようにイエスさまの十字架の苦難と死は、旧約聖書に予め預言されていた神の救いを成し遂げられる苦難のしもべのお姿そのものであり、そのお方によって神のご計画の実現は成し遂げられたのだということが証されているのです。
28節「イエスが、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した」とありますのも、「口は渇いて素焼きのかけらとなり」という旧約聖書の言葉が実現したのであり、兵士たちが、酸いぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口元に差し出したのも、詩編の「人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇くわたしに酢(酸いぶどう酒)を飲ませようとします」と記されたメシアの苦難に対する預言の成就ととれます。
この酸いぶどう酒を差し出すために使われたヒソプの枝は、かつてイスラエルの民が囚われのエジプトから神によって導き出される折、エジプトで起ころうとしていた災いを過ぎ越すためにほふられた小羊の血をそのいヒソプの枝に浸してから、それぞれの家の門柱に塗ったのです。それによって民は滅ぼすものから守られ、救われるのです。
バプテスマのヨハネは、イエスさまを「世の罪を取り除く神の小羊」と証言しました。イエスさまはまさに世の罪を取り除く過ぎ越しの小羊として十字架上でほふられたのです。ヒソプの枝はその神の御心、救いのご計画が実現する証しであったのです。

「主イエスの十字架の下から始まる新しい関係」
最後に本日の箇所の中で、もう一つ心に留まる光景がございます。
それは、十字架のイエスさまの側に留まり続けていた女性たちのことです。
25節「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」とあります。
マタイの福音書によれば、そこでは大勢の婦人たちが遠くから見守っていたともありますが
この女性たちはイエスさまがガリラヤにおられた時からいつも付き添い従ってきたようです。彼女らはイエスさまとその一行の身のまわりのことや食事のお世話をしてきたようですが。イエスさまが捕えられて弟子たちがみな逃げて行く中、なおイエスさまの十字架の側に留まり続け、その死の最期を見届けた彼女たちの姿にはひときわ存在感があります。 
苦しみの果てにいまわの息であられたイエスさまは、十字架の上から母とそのそばにいた愛弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。それから愛弟子に「見なさい。あなたの母です」と言われます。
この愛弟子とはヤコブの兄弟ヨハネであったようですが。彼はイエスさまのお言葉を受けると自ら進んでイエスさまの母マリアを引きとり、世話をしたようです。イエスさまの母マリアも同様に彼の申し出を受けたのでしょう。
死ぬ直前にはよく自分の母親を家族や親族に、この人はあなたの親なのだからとか、子どもなのだからよろしく頼んだよ、と言うのが一般的にはあるでしょう。しかしここでイエスさまは、自分の肉親ではない愛する弟子に「この婦人はあなたの母です」。母には「この人はあなたの子です」と言われるのです。
イエスさまはマタイの福音書12章において、ご自分の母と兄弟が訪ねて来たことを聞かれた時、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」とおっしゃって、弟子たちの方を指してこう言われました。「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟姉妹、また母である」と言われるのです。イエスさまに信頼し従って来た弟子たちや女性たちはどんなに嬉しく誇らしかったことでしょう。

この十字架のみそばで母マリアは、愛するわが子が、嘲りと暴力によって血にまみれた姿を前にしていました。かつて預言された通り、剣で心を刺し貫かれる苦しみがマリアを襲っていました。
イエスさまはわかっていらっしゃったのだと思います。たとえ肉親の兄弟がどんなに慰めても、到底癒されない。一生立ち直れない。それほどの状況、それほどの状態です。弟子たちも又、人生をかけて従って来たイエスさまを取り去られる絶望と暗闇の中にいました。
唯彼らが救われるとするなら、それはまさにすべてのご計画は神の御手のうちにあると知ること。その苦難の先には全世界に向けて、大いなる救いの喜びと神への賛美が起こされていく、そのキリストの勝利を体験していくことの外ありません。それは、主イエスが生きておられるという体験であり、今もとこしえまでも主イエスが共におられるという永遠の命の希望です。

イエスさまがこの時、愛する母、嘆き悲しむ母に「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と仰せになった。また愛する弟子に「見なさい。あなたの母です」と仰せになった。この瞬間、イエスさまと苦しみを共にする者の間に、血縁を超えた新しい人間の関係が生まれたのです。
主イエスにある者はだれも、この神の愛と救いによってつながる神の共同体へと招かれます。
ここにキリストの教会の本質がございます。それは、いかなる人もキリストにある父母兄弟姉妹として名を連ねる者として、互いを尊重し合う救いの喜びを共有しています。
今日もこの礼拝で、主イエスの恵みと救いを共に確認しましょう。さらにその喜びと平安がそれぞれの遣わされる場所に拡がっていきますよう、祈りつつ歩んでまいりましょう。

祈り
主なる神さま。受難週にあってイエスさまが十字架を自ら背負われてゴルゴダへの道を辿り、十字架に磔にされて死なれた箇所から、今日はイエスさまの十字架の言(ことば)からあなたのメッセージを聞いてきました。
今も、世界においてロシアとウクライナ、イスラエルとガザの間に激しい戦争が続き、先行きの見えない現状であります。又、中国と香港、ミャンマーの内戦、さらに先日はモスクワにおいて壮絶なテロが起こりました。今も憎悪と自己保身が渦巻く世界において、愚かな戦争や紛争が飽くことなく起こっております。イエスさまを十字架に再び磔にようとする悪しき力が働いておりますが、それらはあなたに対しては何の力も無い存在です。すべてを治めておられるあなたに私たちは信頼し続けます。
どうか、主よ、あなたがお造りになられたこの世界を憐れんでください。又、あなたご自身の愛と救いのもとに立ち返ることができるように導いてください。又、戦火の中で逃れる場もなく飢えと寒さと苦しみの中におかれているお一人おひとりをどうかお助けください。主よ、あなたの愛につながって、すべての悪と災いにも打ち克つことができるように、この世界を守り、導いてください。
私たちの主イエスのみ名によって祈ります。アァメン。
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2024/3/24 受難週 主日礼拝式 

2024-03-23 08:29:26 | 教会案内

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イースター礼拝式 2024/3/31 10:30AM-

2024-03-21 13:34:50 | お知らせ
イースター礼拝式 2024/3/31 10:30AM-

「イースター」とは、イエス・キリストの復活を記念し祝う日です。十字架にかけられ亡くなったキリストが、その3日後に復活された出来事を祝うのです。イースターは「春分の日のあとの、最初の満月の次の日曜日」に行われるのです。そのため、「イースターサンデー」とも呼ばれていますよ。2024年のイースターは3月31日(日)です。
イースターの時期になると、街のウインドウに、カラフルにペイントされたたまごのモチーフを見かけます。カラフルにペイントされたたまごは「イースターエッグ」と呼ばれ、生命の始まりや復活の象徴となっています。鳥がたまごの殻を破ってこの世に誕生するように、イエス・キリストは「死という殻を破って復活なさった」という意味が込められているのです。
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2024/3/17 主日礼拝式(レントⅥ)

2024-03-17 07:07:24 | 教会案内

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「わたしはひとりではない」

2024-03-11 07:37:24 | メッセージ
礼拝宣教   ヨハネ16章 レントⅣ
                         
3月11日は東日本大震災から13年目となります。宣教後に「3.11東日本大震災から13年を数えての祈り」(東北バプテスト連合震災支援委員会)を共に心を合わせてお祈りいたします。
今年は元旦の日の夕方に能登半島を震源地とする大きな地震が起こりました。家族や親しい方を亡くし、悲しみと痛みのうちにある被災地の方に神さまの深い慰めと一歩ずつでも前にあゆみ出すことができますように。被災地から離れられて避難生活を余儀なくされた方には先行きが見える安心が与えられますように。一方ふるさとにとどまる決意をされた方に、一刻も早い生活環境、水道下水道等ライフラインの回復が進みますように、とお祈りいたします。

受難節も4週目に入りましたが。ヨハネ福音書から、イエスさまが御自分の時が来たことを自覚され、弟子たちに別れの説教をなさった箇所を読んでいます。先週は「ぶどうの木であるイエスさまにその枝である私たちがしっかりつながって生きることで、豊かに実を結ぶキリストの弟子となるなら、神は栄光をお受けになる」というお勧めをいただきました。福音に生きる歩みを続けてまいりましょう。

本日の16章はイエスさまの告別説教のクライマックスともいえる箇所であります。
ここでイエスさまはまず、弟子たちに「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と語られました。
キリストの使徒となった弟子たちは、イエスさまのお言葉のように迫害を受け、殉教する事も多くありました。そしてこの福音書を記したヨハネが教会の指導者として生きた時代、それはキリスト教会とその信徒への激しい迫害の最中でありました。
イエスさまの時代から2000年がたった今日の世界においても、混迷を深めるロシア・ウクライナ、中東、又中国やミャンマー、あるいは明るみにはなっていない様々な地域で、いまだに激しい思想統制や力による激しい弾圧や迫害が平和と正義を求めている人たちに向けられている現実がございます。今の日本では直接的に迫害や弾圧を受けることはめったにないでしょうが。戦時下にあって信条や信仰を貫こうとする時にバッシングを受けたり、脅されたり、職務を追われたりすることも実際に起こりました。家族、親族、又地域コミュニティーからの疎外も起こります。

イエスさまは「迫害の予告」の中で、「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」とヨハネ5章18節以降のところで弟子たちにおっしゃったとおりです。
イエスさまご自身、迫害をお受けになり十字架の苦難と死を遂げられました、弾圧と攻撃の鉾先はキリストを証しし、福音を語り継いでいく弟子たちに向けられていくことになるのです。
イエスさまの存命中、弟子たちはイエスさまが一緒におられたので直接そういった危害が及ぶことはなかったのです。しかしイエスさまはご自分が去っていった後、弟子たちにそのような事態が起こって来ることを十分承知しておられました。
そうなった時に「慌てふためき、つまずくことがないように」と、弟子たちに語られたお言葉、それが今日16章なのです。
それは4節に「これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしがそのように語ったということをあなたがたに思い出させるためである」とあるとおりです。

この後必ずつまずきを覚えるようなことがある。迫害も起こってくる。しかしその折に、信じていたのに思いがけないことがふりかかって来たと、意気消沈するのではなく、「あの時、イエスさまがあのようにおっしゃったなぁ」と、思い出すようにということです。
このようにイエスさまは弟子たち、さらにイエスさまを信じるわたしたちすべての信徒の苦難の日、そこで起こって来る葛藤を予見なさって、危険や災難が間近に迫ってきた時にも、慌てふためき信仰を失うことのないようにと、語られたのです。

イエスさまが離れ去ることを聞いた弟子たちは、「本当にイエスさまが去って行かれるとしたら自分たちは一体どうなるのか」と、その心は悲しみと不安でいっぱいになりました。
そのような弟子たちにイエスさまは、「わたしが去って行くのは実を言うとあなたがたのためになる」と、思いがけないことを口になさるのです。
弟子たちは「なんでイエスさまが去って行かれることが、わたしたちのためになるのか」と、思っていたのではないでしょうか。
その弟子たちの思いを知っておられたイエスさまは、「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者(助け主)をあなたがたに送る」(7)と約束されます。それは、イエスさまの弟子たち、さらに信徒たちを導いて真理をことごとく悟らせるお方、真理の霊、聖霊が来られるという約束であります。
そのとおり、イエスさま御自身が十字架におかかりになって死なれ、復活されて天に昇られた後、一同が一つとなって祈り求める中に聖霊が臨まれた出来事によって、イエスさまは生きておられ、永久までも共におられることを弟子たちは知るようになるのです。
しかし弟子たちは、この時が実現するまでまだイエスさまの言われた事がまったくわかりません。悲しみと先の見えない不安の中で一層頭は混乱するばかりであったのでしょう。  

そんな弟子たちに向けてイエスさまは希望の言葉を語られます。
「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変る」「今は、あなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はない」。これは実体のない、安っぽいなぐさめではありません。
その日から2000年の間、今日の私たちもイエスさまを肉眼で見ることはできなくても、確かに弁護者、真理の霊、助け主なる聖霊が私たちのうちにも来られ、生きてお働きになっていることを私たちは知っています。
聖霊はキリストのからだなる教会をとおしてお働きになり、私たち一人ひとりにキリストが生きておられることを示し、その救いの御業を起し続けてくださるのです。
「悲しみは喜びに変る」。それは神からも見捨てられたと思った人生が、キリストを知って神の愛に生かされる人生に変わるその喜びです。「この喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。
聖霊に満たされるなら、どのような人もそのおかれた状況如何に関わらず、キリストにある喜びの人に変えられるのです。
「いや、自分は長く信仰生活を続けているが、そんな喜びなどない」と言う人もおられるかもしれません。そのようn神さまがまるで沈黙しておられるように感じられる時は、神さまはさらなる祈りと対話を待っておられるのかも知れません。ご一緒に祈り求めましょう。
それこそ、イエスさまが23-24節で「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。わたしの名によって願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」と言われたことです。

ところで、弟子たちはこれまでも祈りについてイエスさまから学んできました。主の祈り、神さまと一対一での祈り、密室での祈り、野や山での祈りなど。しかし「イエスさまの御名によって」祈ったことはなかったのです。イエスさまが一緒におられたからそう祈る必要はなかったのです。
けれどもイエスさまはこの地上を去るにあたり、弟子たちに今後御自分の名によって父の神に祈ることを教えられます。
それは、父なる神さまと私たちの間を隔てていた壁が、イエスさまの十字架の死、すなわち罪の贖いによって取り除かる。聖霊がそのことをさとらせて下さり、イエスさまの御名で祈るとき直接父なる神さまが私たちの祈りを聞いてくださるのです。
本当に苦しい時、不安な時、もうどうしてよいかわからない時、心の内をさらけ出し、ヤコブのようにじっくりと相撲を取るように助けと祝福を主に求めて祈りましょう。主は生きておられます。

さて、弟子たちはイエスさまの言葉を聞き、30節「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と宣言します。それはその時の弟子たちなりの精一杯の信仰の表明でした。
しかし、イエスさまは「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」と、おっしゃるのですね。
そして、こう言われます。
「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる」。
その後イエスさまは捕えられて十字架に引き渡されます。この時肝心の弟子たちはイエスさまを置き去りにして逃げてしまうのです。イエスさまはひとりきりにされるのです。
しかし、イエスさまは「わたしはひとりでない。父が、共にいてくださる」という確信によって遂に十字架の苦難と死に向かわれるのです。
一方、「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と言った弟子たちは、自責の念にさいなまれることになります。
イエスさまはそのような弟子たちのことをお見通しでした。その弱さを十分ご存じでした。その弱さに泣き、落胆した時、そして苦難の時、まさに4節「その時が来たときに、わたしが語ったということを、あなたがたに思い出させるために」とイエスさまはこれらのことをお語りになりました。
弟子たちは、このイエスさまの深い愛を復活のイエスさまと出会うとき、さらに聖霊降臨を経験するとき、そして厳しい迫害に遭ったときにも思い出したことでしょう。

イエスさまはこうおっしゃいます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」。
つまり、イエスさまがもっておられた「わたしはひとりではない、父の神が共にいてくださる」という確信と平和。イエスさまはその確信と平和の中に弟子たちを、そして主イエスを信じる私たちを招いておられるのです。
「わたしはひとりではない」「神が共にいて下さる」。

人はだれも弱さを持っており、失敗はあります。人の決心もともすれば激しい風に遭えば飛んでいってしまうようなものです。にも拘らずイエスさまはそんな私たちの弱さを愛によってあるがまま包み込み、聖霊のお働きを通して、何度も立ち上がることができる「勇気」をくださいます。
それは人の努力やがんばりではなく、神の恵みであり、平安と喜びから生じる神の力なのです。

イエスさまは最後に言われます。
「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。
私たちも又、世の罪と死に勝利してくださった十字架のイエスさまを見上げつつ、神さまの愛と平和、聖霊に生かされて、救いの主、イエス・キリストの福音を分かち合ってまいりましょう。
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2024/3/10 主日礼拝式

2024-03-09 08:58:01 | 教会案内

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TiA クワイアWS 

2024-03-06 08:51:59 | イベント

16歳で歌手デビュー、その後アメリカ・ニューヨークに渡り、本場のゴスペルとの出会いを経験され、Jesusと出会う!
アメリカ最大級のMCゴスペル大会で優勝!
日本に帰ってからTiAさんは、TiAクワイアを率いても活動中。
全国に800人以上のクワイアがおられ、WSが行われている。
昨年TiAさんと出会い、当教会で初めてTiAクワイアWS(大阪)が行われた。(写真下)
3月2日には少しボリュームアップしたWS VoL2が開催された。
(写真上)


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「わたしにつながっていなさい」

2024-03-03 20:10:33 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ15・1-17 レントⅢ

本日は「わたしはまことのぶどうの木」で始まる、よく知られるヨハネ15章の箇所から御言葉を聞いていきます。
旧約聖書のイザヤ書やエレミヤ書ではイスラエルがぶどう畑やぶどうの木にたとえられています。良いぶどうの木として植えられたはずのイスラエルの民が、良い実を結ばず悪い実、酸っぱすぎて口に入れる事もできないようなものになってしまいます。
そこで御父なる神は古いイスラエルに代わる新しい神の共同体を形づくるために、この世界に御子イエス・キリストを遣わされたのです。
ここで、イエスさまはぶどうの木のたとえを用いて、新しい神の民がイエスさまにつながって神の愛の共同体となるビジョンを示されます。そこには目的がありました。かつてイスラエルの民が陥った神の愛といつくしみを忘れ、人を裁き、分け隔てするような悪い実、腐ったような酸っぱい実ではなく、イエスさまにつながった一人ひとりが良い実を豊かに結ぶようにと教えられたのです。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。原文では「このわたしこそ、まことのぶどうの木である」、又は「まことのぶどうの木こそ、このわたしである」と訳せます。
神の御心に逆らう民の指導者たち、偽りのぶどうの木に対して、イエスさまは「わたしこそ、まことのぶどうの木である」と宣言なさったのです。
そこで、農夫である御父なる神さまは入念にその木の手入れをなさるのです。実を結ばない枝は取り除いて、良い実を結ばせるために注意深く選定をなさるのです。

2月に教会玄関先のバラの剪定が有志の奉仕者によって行われました。剪定の時期を逃しますと、バラの花がきれいには咲かないのだそうです。良い花がたくさん咲きそうな枝、柔軟に誘引することができる枝を残し、ゴロゴロして堅い枝は取り除く外ないそうです。そうしないと柔らかい枝の芽の成長を妨げ、花も傷めてしまう。ぶどうの木を剪定する場合もそうですが。良い実をみのらせるには手入れが欠かせません。実がついたぶどうを収穫したら、枝を支えていたつっかえを外し、良くない枝を取り除く選定をします。冬は幹とわずかな枝だけになりますが、そうする事で土からの養分やエネルギーを十分蓄えることができ、枝も力強く伸びて豊かに実をみのらせる事になるのです。又、ぶどうの苗木の場合は植えられてから3年は実を結ぶことはないそうですが。石の上にも3年、その間徹底した剪定で刈り込まれることによって生命を貯え、良き実を結ぶために備えられるそうです。まあそうやって手入れをされながら実を結ばない枝は取り除かれ、実を結ぶ枝はなお手入れがなされるというのですが。これってどこで実を結ぶか実を結ばないかを農夫である神さまは見分けられるかということですが。人にはわかりません。
唯ここで救われますのは、イエスさまが弟子たちに「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」とおっしゃっていることです。
教会の玄関前のバラも土を消毒し、葉がつながってくればこまめに消毒しないと根も葉も病気になり害虫がついて花は美しく咲きません。ぶどうも良い実をつけるためそういう手入れが大事です。
私たちも良い実を結ぶ者となるため「主のお言葉によって清くされる」のです。
私たち人間は自分でいくら洗っても、拭ってもなかなか消えない頑固でしつこい罪の性質というものがあります。
全き聖なるお方の前に立つと、「わたしはきよい者です」などとは決して言える者ではないでしょう。そのような私たちにとって本当にありがたいのは、イエスさまが「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とおっしゃっている事です。
御父なる神さまは「イエスさまの話した言葉によって私たちをきよく」し、私たちが良い実を結ぶものとなることを何より望んでおられるのです。

まさにそのために、4節でイエスさまが「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」とおっしゃっている事が最も重要です。
「ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない。」
ぶどうの枝だけでは実を生み出す生命力を持ち合わせていません。当然枝を土に差し込んでも実はつきません。同じようにイエスさまのお姿に倣う弟子たち、又私たちイエスさまを信じる者も、イエスさまにしっかりとつながり、結びついていかなければ実を結ぶことができません。どんなに良いように思える業を行っても、イエスさまとそのお言葉につながって生きるのでなければ、神さまの喜ばれる実を結ぶことはできないのです。
私たちはぶどうの幹であるイエスさまにつながり続け、御言葉にとどまり、聞き続けることによって豊かに実を結ぶ枝とされるのです。

ブラジルのCさんがイースター礼拝でのバプテスマに向けた準備会を持っていますが。彼は大阪教会に初めて来られたのが8月の水曜祈祷会、それから日曜の主日礼拝にほぼ毎週欠かさず出席し続けて6ヶ月が経ちました。早いものですが、また主のお計らいとお導きも早いものです。先日の準備会で彼に問いかけたのは、「なぜ、バプテスマがあなたに必要か?」ということでした。彼は「大阪教会に来る前までは、自分は正しい人間だから、キリストも教会も必要ないと否定的な感情を持っていた。ところが、全ての事はキリストがお裁きになられるので、もう自分で他人を裁く必要がなくなり、心が軽くなっていった。それに伴い周りの世界も変わった。変わることで自分の中にあった否定的な感情が変わった。キリストと教会が自分には必要だと感じるようになり、大阪教会に来た。キリストを知るためにもっともっと聖書から聞き、知識を求める生き方をしたい」と話してくださったのです。
今日のところで、イエスさまが「わたしにつながっていなさい」とおっしゃっていること。又、イエスさまが「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既にきよくなっている」とおっしゃったことをこの6ヶ月の間に彼の経験してきた事がよく分かりました。それが彼の「バプテスマ」を受ける理由であることを知ることができました。

イエスさまはおっしゃいます。5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人はゆたかに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
では、イエスさまにつながる生活、実を結ぶ生き方とはどのようなものでしょう。
9節-10節において、イエスさまは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と言われます。それはイエスさまの愛にとどまり続けることです。
「イエスさまが御父の神さまに愛されているように、わたしはイエスさまから愛されている」と信じていますか。わたしのために十字架について下さったこのイエスさまの愛、皆さんお一人おひとりは一人残らずイエスさまから愛されている存在です。その愛にどんな時もとどまり続けましょう。
そして10節「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とおっしゃいました。
この、イエスさまが「わたしの愛にとどまりなさい」とおっしゃる掟です。
「互いに愛し合う」ことが「イエスさまの愛にとどまっている」事の証となるのです。

かの12弟子といえどもイエスさまのこのお言葉なくして神の愛に生きることはできませんでした。シモン・ペトロはイエスさまに他の弟子の不義に対して、「何度までゆるすべきでしょうか。7回までですか」と尋ねると、イエスさまが「7の70倍、つまり際限のないほどゆるしなさい」といさめられたというエピソードもありますが。
イエスさまは又、マタイ5章46節以降で、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか」とおっしゃっています。
イエスさまは、「隣人を愛し、敵を憎め」という昔ながらの価値観を、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言い換え、自らそれを十字架の最期の時まで生きられたのです。

どこか心地よい関係、自分にメリットのある関係ならその苦労は負えるかも知れません。けれどもイエスさまが背負われたのは、ご自身にとって何のメリットにもならないこの世では非常識な程の愛なのです。
イエスさまは私たちをしばるためにおっしゃったのではありません。むしろ11節にありますように、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」とおっしゃるのです。
イエスさまにつながり、その愛と救いの福音を知れば知るほど感謝と喜び満ち溢れるようになるでしょう。それはまた、私たちが神さまのご計画によって、キリストのからだなる教会につながり続ける中で、「互いに愛し合う」というイエスさまの御言葉の深さと広さを発見し、私たちの神さまへの愛はゆたかに育まれていくのです。
神さまの愛はあまりにも大きく、私たちが持ち得うるものではありません。ちょっとしたことが起こると落ち込み揺らぐような私たちでありますけれども。だからこそイエスさまにつながり、とどまり、倣い従っていく者のうちに神さまは確かに働かれ、豊かに実を結ぶものとならせてくださるのです。
今日の個所の前には、イエスさまが弟子たちの前に身をかがめて仕える人となられて、その一人ひとりの足を洗われた「洗足」の記事があります。
「愛し合う」という事は、具体的に「仕え合う」ことなのだと、イエスさま自ら示されたのです。お互いの汚れた足をもいとわず仕え合う。
それは8節で、「あなた方が豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それが明らかになることによって(傍線原文)、わたしの父は栄光をお受けになる。」アーメン。

イエスさまは、弟子たちをもはやしもべとは呼ばず、「友」と呼ばれました。それは「御父から聞いたことをすべて隠すことなく、弟子たちに知らせた」からです。
随分前ですが、ある高校生に「友」と呼べる存在についてのアンケートをとった結果を見て知ったのですが。1番多かったのは、「心を開いて安心して話せる人」。2番目に多いかったのは「本気で叱ってくれる人」。3番目に多かったのは「一緒にいるだけで楽しい人」だということです。おそらく今の高校生もこれに近い回答がでるのかも知れませんが。なるほどなぁと思いましたが。果たして3つの愛すべてを満たす友がいるでしょうか。いる人は幸いですね。けれど多くの場合、いつ、いかなる時も、いつまでも、という関係性は見出せないのではないでしょうか。
しかしイエスさまはいかなる時も、私たちのまことの「友」となってくださったのです。
今日は「わたしにつながっていなさい」との御言葉から、まずイエスさまと私の関係を築いていくことの大切さを確認しました。それは、私たちがゆたかに実を結ぶためだと、約束をしてくだったことなのです。この豊かな実の最高の結実は、イエスさまが十字架を通して示された神の愛です。その愛によって私たちはイエスさまにつながることが赦されているのです。イエスさまと私たちがつながることによって、私たちも豊かに実を結ぶものとされるのです。それは「互いに愛し合う」ことです。それこそが、神が栄光をお受けになることです。神の国を求め、平和を造り出すようここからあゆみだしましょう
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