礼拝宣教 ヨハネ20章11-23節 イースター
主イエスの復活を記念する「イースター」おめでとうございます。
本日は先にドス・サントス・チアゴさんの信仰告白とバプテスマが行われました。主のみ名をほめたたえます。こうして主なる神さまの救いのみ業が目に見える形であらわされ、分かち合われて大変うれしく思います。
バプテスマは、新しく生まれた信仰者の最初の第一歩であります。これからも信仰の闘いや試みが多くあるでしょうが。そんな時もバプテスマの出発点に立ち帰り、主の救いの恵みを再確認して、前に進んでいく力を頂くことができるのです。どうかサントス・チアゴさんのこれからのあゆみのためにとりなし、お祈りください。共にキリストのからだなる教会を立てあげてまいりましょう。
本日の箇所には、イエスさまが十字架刑で死を遂げられてから3日目のまだ薄暗い早朝、イエスさまが葬られた墓へ最初に向かったのはイエスさまの弟子たちではなく、かつて7つの悪霊をイエスさまから追いだしてもらったマグダラのマリアであったと記されています。
このマグダラのマリアは、十字架にかけられたイエスさまの傍らで、イエスさまの苦しみと死を嘆き悲しみました。イエスさまが十字架から降ろされてからも側を離れず、埋葬の場にも付いて行きました。そしてこの安息日明けの早朝、彼女はせめてイエスさまのお身体に香油を塗ってさしあげたいと墓を訪れたのです。彼女はすべての囚われから解放し、新しい人生を与えてくださったイエスさまのことをひとときも忘れることなどできなかったのでしょう。
ところが、マリアがイエスさまの墓に着くと、すでに石が取りのけてあり、イエスさまのお身体は見当らないのです。イエスさまが全く跡形もなく消えてしまった絶望感と悲しみから、墓の外で泣き続けていました。
人はみな草が枯れ花はしぼむように消え去り、やがてだれも思い出さなくなる。その空しさ、そのごとく。残された者はその記憶を忘れないように弔い、思い起こしてもやがては自分も消えてゆくものです。伝道の書(コへレトの言葉)にあるとおりです。
そのように墓の外で立ち尽くして泣いていたマリアでしたが、再び身をかがめて墓の中を確かめるように見ると、白い衣を着た二人の天使が座っているのが見えました。天使は、「婦人よ、なぜ泣いているのか」とマリアに語りかけます。
マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません」と答えるのですが。
後ろに何か、人の気配がしたのでしょう。悲しみに沈んで骨まで枯れそうな時、主が見えなくなる。わからなくなる。私たちだけではありません。このマリアも弟子たちもそのようなところを通りました。
マリアはすぐにイエスさまだと分りませんでしたが、イエスさまは語り続けます。「婦人よ、なぜ泣いているのですか。誰を捜しているのですか」。
マリアはその相手が園丁だと思いました。ただ人がそう言っているだけだと思ったのです。でもそれは、イエスさまでした。
マリアは「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と答えます。
彼女はイエスさまを目の前にして言葉を交しても、それがイエスさまだということがわかりません。それは、彼女が捜していたのはイエスさまのなきがらだったからです。
私たちは何を探しているでしょうか?神学的教義か。生き方の指南か。愛か。希望か。何れも大事でしょう。けれどもそれらの源は生ける神、復活し、生きておられるキリスト、イエスなのです。
その生ける主イエスは彼女に、「マリア」と個人的に呼びかけます。その瞬間、マリアは眼が開かれ、それがイエスさまだとわかって「ラボニ」と、いつものように答えたというのです。
このラボニとはヘブル語で「敬愛する師」という意味でした。マリアはイエスさまのお言葉、その教えに救われ、生かされ、イエスさまを心から尊敬していたことが伝わってきますが。
ヨハネ福音書10章には、「羊は羊飼いの声を知っているのでついて行く」とあります。
マリアはイエスさまの声を知っていました。これは私たちも、毎日聖書のお言葉に親しむことの大切さを教えています。そうすることで、あ、これは主が私に語りかけておられる御声なんだ。逆に、いや、これは主の御声ではない、と聴きわけることができるからです。
マグダラのマリアは、その生きておられるイエスさまのお声だとわかった時、どんなに喜んだことでしょう。歓喜に溢れたマリアは思わずイエスさまにハグしようとしたのでしょうか。
ところが、イエスさまはマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われるのです。
ちょっとつれない気がしますが。イエスさまは彼女を突き放されたわけでは決してありません。
そのことについてイエスさまは、「まだ父のもとへ上っていないのだから」とおっしゃいます。
イエスさまはラボニ、敬愛する師という関係だけにとどまらず、救い主、イエス・キリストなるお方、いつも共におられ、生きておられる主として新しい、全く確かな関係性を築こうとされていたのです。
聖書は人生のためになる本、知識や教訓として学ぶことは意義があるでしょう。そういう意味でイエスさまはラボニ、尊敬できる先生です。
しかし最も大切なことは、イエスさまが死に打ち勝たれて復活された救い主、キリスト。時間、場所、立場をも超え、個人的に出会ってくださるお方であるとのことです。その主イエスとの決定的な出会いこそが重要なのです。
ここで、イエスさまはマリアに「まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」言われました。
そうです。イエスさまは十字架の上ですべての人に救いの道が開かれるという大いなる御業を成し遂げられました。その勝利のしるしこそ、復活です。そしてこのよき知らせ、福音が全世界にもたらされるという大いなる神のご計画は、聖霊の降臨によって実現されるのです。
イエスさまはご自身が天に昇られた後、地上に残された弟子たちはじめ、イエスさまを慕って来た人たちに、弁護者であり、慰め主であられる聖霊を送られると、約束してくださいました。
そして、本日の21節のところで、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。そう言って息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」とおっしゃるのです
復活のイエスさまはマリアに、「わたしの兄弟たちのところに行って、わたしが天の父のもとへ上ることを伝えなさい」と言われます。イエスさまはここでご自分の弟子たちを「わたしの兄弟」と呼ばれるのは、主イエスを信じる人たちがみな神の家族、兄弟、姉妹となるように願っておられたからです。それは主のもとに創り出される平和であり、「互いに愛し合いなさい」との主の強い願いとその教えによって実現されるべきビジョンなのです。
感情の嵐によってちりちりばらばらになった弟子たちでしたが、イエスさまを慕い求める思いはママグダラのマリアと同じであったのです。
後悔や自責の念にさいなまれる彼らを復活の主イエスは「わたしの兄弟」と呼んで、同様に神の家族として招かれるのです。
「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」(18節)とあります。彼らはそれをどのように聞いていたことでしょう。
さて、その日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。狭い部屋の中にイエスの弟子たちと、いつもつき従っていた男女らが、いわばすし詰め状態で息を潜めていたのです。彼らは「イエスの仲間だ」ということで、いつ権力をもつユダヤ当局に捕まってしまうか分からない、いわば外的な恐れのため家の戸に鍵をかけていました。又、彼らはイエスさまを見捨てて逃げた事への内的恐れに苛まれていました。彼らの心も、内から鍵がかけられ、閉じこもっているような状態であったのです。
今も、権力や身近な人から激しい迫害を受ける人たちが世界中におられます。又、心の扉を開くことができない苦しみと痛みの中におられる人たちもいます。
ヨハネの福音書はそのような兄弟姉妹の真ん中に主イエスが立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われ、傷のある手と脇腹を見せて、復活のいのちを証明してくださるのです。
それはどれほどの勇気、希望を呼びさますものであったでしょうか。
復活のイエスさまは、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。そう言ってから、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言われるのです。
それは神の家族とされた私たち、すなわちキリストの教会が聖霊により、罪の告白とゆるしの宣言という神の権能を与っていることにほかなりません。
今日まさに信仰告白とバプテスマ式が行われました。罪を告白し、キリストのあがないによるゆるしの宣言を受け、キリストの平和、平安の中に招き入れられているのです。
先に、チアゴさんは信仰告白の中で、どうしても許せない人びとに対しては非常に厳しい批判や厳しい言葉を使って裁いていた。しかし、これらの人びとに対してなした非難や裁きが、自分に対して使用された場合、自分は堪えられず、逃れられないような苦痛と恐れが生じると告白されました。そういう中で、どうすれば厳しく批判しないで済むのか?そのキーワードは、神さまの「受容」「許し」から始り、神さまへの感謝」へと向かった。それは聖書の言葉によるもので、「主の言葉(御言葉)には力がある」ことへの目覚めであったというのです。それはまさしく、生ける主イエス、キリストとの対話であり、体験です。
サントス・チアゴさんは、主イエスが「受けなさい」と言われた聖霊を受けられたからこそ、主イエスにある救いの確信、真の平和、平安を得られるのです。これからは、その主イエスから頂いている平和、平安をより多くの人と共有し、分かち合う者とされていきますよう、祈ります。
キリストにあって神の家族とされた私たちも又、互いにとりなし合いつつ、復活の主イエスは今も生きておられる、その証言者として、このイースター礼拝から心新たに歩み出してまいりましょう。
祈ります。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。
主なる神さま、今日、私たちの救い主、イエス・キリストのご復活をおぼえる主の日を迎えることができ感謝いたします。私たちに復活の信仰が与えられていることは何よりも大きな希望です。
今日はあなたにある平和、平安は揺るぎのないものであり、それは、わたしたちの救いの土台であることを知ることが出来ました。
この世界には悪の力が働いて戦争や紛争、収奪や搾取が繰りかえされてます。私たちはあなたの力に依り頼みます。絶えずあなたの平和と平安が地に満たされていくために祈り続けます。
この地上においてさまざまな葛藤や試みは尽きませんが、復活の主イエスにある希望をもって歩み続けることができますよう、絶えず守り導いてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アァメン