礼拝宣教 Ⅰコリント15・1-22,57-58
今日は復活についてのお話でありますが。
キリストは死を通られました。それによって復活があらわされたのです。
3年以上にも及ぶコロナ禍が続き、葬儀の形態も近親者のみの一日葬で行われるところも増え、その形式も変わってきました。
私の母はコロナ禍の折、救急病院に搬送され亡くなりました。コロナ禍で面会もできず、最期の看取りができませんでした。母は北九州におりましたから、2年間、毎月一度は様子を見に行きました。その際母はキリスト教式の葬儀で送られることを望んでおりましたので、それが適ったことは感謝なことでした。だれしもこの肉の体は朽ちてゆきます。その時がいつなのかは誰にもわかりません。ただ全能の神さまだけがご存じなのです。
教会では今年1月にAさんが天に召されました。98年という地上でのご生涯でした。
キリストを信じてクリスチャンになられたのは62歳の時であったそうです。それからの36年間、キリストの救いによって神の愛につながり、福音の喜びが滲み出るそのお姿を通して、証しを立ててゆかれました。歩けなくなる93歳まで電車を乗り継いで礼拝に出席なさるお姿には、私も大変励まされました。愛にあふれる姉妹との主にある霊的な交流を思い出される方も多いことでしょう。Aさんはそうして地上の歩みを全うされ、主のもとにご召天なさいました。私たちも復活の希望の中でお見送りいたしました。
命ある者はみな、生まれる時も、地上の生涯を終える時も、自分の力でその時を動かしたり延ばしたりすることはできません。唯、全能の神だけが命の時を司っておられるのです。
イエス・キリストはローマの支配下の動乱の世に生まれ、33歳ほどの若さで神の御心により死なれました。この苦い杯を取り除いてくださいと、血の汗を滴らせ願われましたが。神に従い神の時に生き、また死なれたのです。それは全身全霊をもって、神と人を愛し抜くご生涯でありました。
人は、自分も例外なく人生を終える時が来ることを覚えるとき、今をどう生きるかを問われます。キリストにある者にとって復活の命は、まさにそのところから始まっているのです。
「復活のキリストとの出会い」
さて、先ほど読まれましたⅠコリント15章1-8節までには、復活されたキリストが、そのお姿を表されたことが記されています。
その中で「最も大切なこと」として伝えられているのは、「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとり、三日目に復活したこと」であります。この聖書というのは旧約聖書のイザヤ書を指し、パウロはキリストによって旧約聖書に記されたことが実現した、と言っているのです。
先に申しましたようにキリストも又、死を経験されました。その死は私たちの罪を贖うためでした。さらにキリストは黄泉(ハデス)にまで下られ、三日後に死よりよみがえられたのです。
その5節以降には、「復活されたキリストが、ケファ(シモン・ペトロ)に現れ、その後12人(弟子)に、次いで500人以上もの兄弟に同時に現れました」とあります。
さらに7節-8節には、「次いでヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と記されているとおり、パウロにも復活のキリストが現れたのです。
ただ、彼は弟子たちのように生前のキリストとの出会いはなく、キリストがどのような人であったか知りませんでした。十字架に磔にされてキリストが死なれるのを見たわけでもありません。さらに、キリストが復活後40日間に亘って、そのお姿を人々に現わされた時も、パウロはそこにいませんでした。
にも拘わらず、パウロは「復活のキリストが自分にも現れた」と言っているのです。
パウロはどうして、そのように断言できたのでしょうか。
イエス・キリストと出会う前まで、パウロはユダヤ教徒として生きていました。神の選びの民としての誇り。神の律法の戒めに対する厳守と忠誠心。指導者としての強い使命感。彼はそれらによって熱心に神に仕えていたのです。
先週は聖霊降臨、ペンテコステの礼拝をおささげしましたが。パウロが熱心なユダヤ教徒であったその当時、キリストの内に働かれていた聖霊が降臨し、「イエスは主なり、救い主である」と、信仰告白へと導かれてクリスチャンとなる人たちが急激に増えていきました。
パウロは、イエスをキリスト、すなわち救い主、メシアと信じる信徒たちを激しく迫害します。
クリスチャンは神を冒涜する邪教だと考えたからです。
そのある日、ダマスコ(現シリア)へ向かう途上で、突然、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という天からの御声が彼に臨みます。これこそが、パウロの言う「復活のキリストが現れた」という出来事であったのです。
パウロは、神への忠誠心からクリスチャンたちを迫害していた事が、実はこれまで愛し敬って来た神ご自身を迫害することだったのだと茫然自失となり、心打ち砕かれ、復活のキリストとの出会うのです。
けれども復活のキリストは、ご自身に敵対し迫害するそのパウロの罪を完全に贖われました。
キリストはパウロの罪を担い、十字架の苦難と死をもってあがない、救いの道を拓いて下さった。パウロはその救いの恵みを、聖霊のお働きによって知る者とされるのです。
パウロは、その大いなる神の愛によって雷に打たれたように回心し、心の底から神に立ち返って、悔い改めたのです。
こうして彼は後に、異邦人のための福音の使徒としてすべてを献げ、良き知らせ、神の大いなる愛を伝えていくこととなるのです。そのパッションと原動力は、この自らの救いの体験と聖霊のお働きにありました。
バプテスマを受けた皆さまは、聖書のことばを通して、また救いに与った人の証しを通してキリストと出会われたことでしょう。
たとえ肉眼でそのお姿を見ることがなかったとしても、主が言われた「見たから信じるのか。見ないで信じる者は幸いである。」とのお言葉に信頼する人。日毎聖書のみことばに親しみ、主の呼びかけに応えつつ、救いの恵みを確認し、感謝をもって礼拝に与る人。そのようなお一人おひとりに聖霊はお働きくださるのです。また聖霊がお働き下さるからこそ私たちは主の救いの恵みを知って体験するものとされているのです。復活の主は今日も信じる者と共に生きておられます。
「死者の復活」
今日のもう一つのお話は、「死者の復活」についてであります。
12節「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」
当時コリントの教会には、死者の復活を否定する人たちがいました。彼らの中には32節にあるように、「死者が復活しないとしたら、食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」などと考え、人があきれるほどの不道徳な行いをしていた人たちまでいたのです。
パウロはそのような状況が起こっていることを痛烈に批判しました。
救いに与り新しい命に生かされて、神の愛の楽園に立ち返ることができているはずの彼らは、早くもエデンの園を追放されたアダムとエバのように神との関係性を損なっていたのです。
彼らは今一度、最も重要なことを再確認しかければなりませんでした。
それが冒頭の、「キリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと」であり、このことを通して与えられている「救いと復活の希望」です。
パウロはここで、「死者の復活」を信じないのであれば、あなたがたの信仰はむなしく、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったことになる。この世の生活で、キリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(17-19)と、彼らの不信仰を嘆きます。
そこで再確認しておかなければならないのは、20節「キリストが死者の中から復活し、眠りについた者の初穂となられた」ということです。
この「初穂」とは、果物や穀物のうちで、その年の最初に実ったものを指します。初穂は収穫の始まりであり、そこから次々と実りの収穫がなされていくのです。
死から復活されたキリストは、復活の命の初穂となられ、キリストにある者も、朽ちる体から「キリストに似たものとして」に復活するのです。
22節以降にはこう記されています。
「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべて人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」
アダムは罪により神との関係性を損なって死をもたらしましたが、キリストは神との和解を私たちに与え、死と滅びから私たちを解放して下さったのです。
たとえ、この肉の体は朽ちるとしても、パウロはこう言います。
57-58節「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。わたしたちの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の御業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」
そうです、キリストの死における贖いによって救われた私たちは、キリストの復活にも結ばれており、恵みに応えて生きる今、この時も、すでに復活の命に生かされているのです。
この驚くべきキリストの救いに、今日も喜びと感謝をささげつつ、与えられた一日一日を大いなる神に依り頼みながら、大切に歩んでまいりましょう。お祈りします。
聖霊降臨宣教 使徒言行録2章1-13節
本日は聖霊が降臨し、キリストの教会が誕生し、福音が世界中に伝えられてく神さまの偉大な業を記念するペンテコステの礼拝をお捧げしています
2000年前キリストが昇天された後、聖霊はまず使徒(弟子)たちに降り、語られました。そしてユダヤの人々から、次にユダヤにルーツをもち周辺世界に住んでいた人々、さらにはユダヤ以外の世界中の人々にもキリストの福音が伝えられ、偉大な神の救いのみ業が次々に起されていくことになるのです。それはこうして、今も私たちのもとでも日々実現され続けています。
使徒言行録2章はじめには、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎
のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえにとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。
旧約聖書の創世記のバベルの塔の記事を読みますと、「世界中は同じ言葉を使い、同じように話していた」と記されているように、人は同じ言語でコミュニケーションをとっていた事が伝えられています。
そういう中で「我々こそ優れた文明や思想をもつ民族である」と、権力を誇示し、自分たちと異なる民族を蔑すむ勢力が現れていきます。高くそびえるバベルの塔はその人間のおごりと高ぶりの象徴であります。それは排他主義的な統一の思想、偏狭な民族主義と相通じるものがあります。神はそれを憂い、バベルの塔の建設を中断させ、民を全地に散らされました。
天地の創り主なる神を忘れ、そのままバベルの塔の建設がなされていたなら、その傲慢さのゆえに民は滅びへと突き進んでいったでしょう。
現代はさらなる傲慢と背きが行われる混乱の時代ともいえますが。神はそれを見逃しておられるのではなく、忍耐しておられるのです。それはキリストによって顕わされたみ救いを一人でも多くの人が知って救われるためです。
そうして今日このように集う私たちでありますが。
まあ私たち人間にとりましては、主なる神が言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないよ
うになさったことは残念な気もいたします。私もできれば数多くの言語を使いこなせたらなあと思ったりしますが。神のご計画はゆたかです。神は様々な言語や文化が形づくられていくことを良し、となさったのです。
この世界には誰ひとり同じ人間はいない、一人ひとりの存在がオリジナルです。だれにでもその人だけの人生のストーリーがあり、存在の意義があります。しかし私たち人間というのは、その多様性、違いのゆたかさに気づけない。自分を守ろうとする思いや不安から世界では争いと分断が絶えまなく起こり、混沌とした状況が続いているわけですが。
神はキリストを通して和解と平和の道を拓いてくださいました。この神との和解を通して違いをもった他者の存在をも尊重し、その多様性を認め合い、共に生きるゆたかさを現して下さったのです。
それは神が具体的にキリストを通して顕わされた偉大なみ業です。
神の慈愛、いつくしみは、小さく貧しい姿でこの暗き世界に生まれ、人間の罪を担い、贖うため十字架にかかられました。底知れない闇に、救いの光として降られたキリストは、信じる者の希望として3日後に復活なさいました。そうして使徒(弟子)たち、又最後まで慕い仕えてきた女性たち、さらに多くの人々に復活のお姿を現わされてから天に昇っていかれた、と聖書に記されています。
復活のキリストは天に昇られる際、使徒言行録1章4節-5節で「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」と、お語りになります。聖霊の降臨の約束です。
さらに、8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と、お語りになるのです。そしてまさに、そのキリストが約束された通りの事が起こるのです。
それが本日2章の聖霊降臨の出来事であります。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえにとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と。
まず、聖霊は使徒や女性たちがキリストのお言葉に聞き従い、心を一つにして祈り続けていたところにお降りになるのです。
キリストの十字架の出来事からそれ程日が経っておりませんでしたから、彼らは身に危険を感じ、不安や恐れもあったに違いありません。
しかし彼らはキリストの御言葉をしっかり握って、心を合わせて一つになって祈り続けました。
そうして聖霊が降り、一人ひとりの上に炎のような舌がとどまるのです。
炎のような舌は、すぐさま語り始めます。
「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」注目すべきは、」この「ほかの国々の言葉で語りだした」という点です。
この時エルサレムには、古くは戦争、また迫害によってユダの地から散らされた人々の子孫が遠い地や周辺諸国に移り住んでいました。ちょうどこの時ユダヤの五旬節という祝祭が行われ、多くのそうした人々が巡礼のためにエルサレムに集まっていたのです。又、そこには様々な国の人たちもいたようですが。なんと、みな自分の生まれ育った国々や地域の言葉で、神さまの偉大な業について聞くことになったのです。
あのバベルの塔が象徴するような、散らされた人々が、聖霊によって共に神の救いを仰ぎ見る出来事がここで起こるのです。
この偉大な神の業とは、キリストの贖いの死と復活によって信じる者がみ救いに与るという経験です。聖霊に満たされた12弟子の一人ペトロは14節以降で、そのキリストのみ救いの証しを力強
く語るのでありますが。そこでも記されているように、聖霊がお働き下さる時、誰もが如何に神さまに対して背を向けてきた者であるか、自分本位に生きてきたかということに気づかされていくのです。
そして、そのような罪の滅びの中から私を救い導き出すために、キリストがこの世界に遣わされ、十字架の贖いの業を成し遂げてくださった神の愛を、聖霊は悟らせてくださるのです。これは神さ
まの唯一方的な恵みであります。先週もコリント13章の愛の賛歌の箇所を読みましたが。この愛にあって心一つとされ、共にその恵みに感謝して生きる。それは、「まず、神への礼拝から」始ります。
私たちの教会は日本語で行っていますが。不思議なことに様々な国から来られた方々と共に礼拝をお捧げしています。イースターにはサントスさんがキリストを信じてクリスチャンになられ、バプテスマを受けみなで神のみ名をほめたたえることができました。今は礼拝メッセージを翻訳した原稿をお配りすることぐらいしかできていないのですが。それにも拘わらず、みなさんそれぞれが共にここに集められている、まさに聖霊のお働きです。
又、4月より、青年有志の会に「はこぶねかふぇ」というネーミングがつけられ、年齢、性別、国籍を超えて福音を分かち合う場として新しい歩みが始まりました。その一環として例会の時に女性会や壮年会の方をお迎えし、証しに耳を傾けることになりました。その初回となった先週は、女性会の88歳になられる方をゲストにお迎えしました。この方はフィリピの信徒への手紙3章13節の「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」とのみ言葉に生きてこられたこと。それによって「何か自分にできることはないかとチャレンジし続け、傾聴ボランティアなどを行ってひたすら走って来た。今はそれもできなくなったが、最近も近所の人に話しかけると、その方は1時間も話をなさり、何日間も人と話をしていなかったと言われた。そのような日々の出会いと、今も歩き続ける毎日にわくわくする。」ということでした。この例会が終わった後、事務室におりますと、「香港から参加された学生さんが礼拝堂で泣いている」というのを聞いて慌てて様子を見にいきました。
すると、その88歳の方と引き続きお話をして涙が止まらなかったということでした。国の違い、年齢の違い、言葉の違いを越えて、共に主のみ救いの恵みとそのゆたかさを覚える幸いを、キリストの教会にその聖霊のお働きによって与えられている事を心より感謝します。
聖霊を受けた使徒パウロは、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法に支配されている人には律法に支配されている人のように、律法を持たない人には律法を持たない人のように、弱い人には弱い人のようになりました。福音のためならわたしはどんなことでもします」(Ⅰコリント9章20節以降)と、そのように生きたのです。それはがんばってそうしたのではなく、「神の愛と救い」という素晴らしいキリストの福音を伝えずにはいられなかったからです。
聖霊に満たされた人は実に愛のために豊かで自由であります。聖霊降臨は、新しい愛の言葉が降り、互いを理解し合える世界の訪れを告げます。
確かに私たちは、時に相手が理解できず手詰まり状態になることもしばしばございます。けれども聖霊はそうした困難な中においても、なお神の愛によって私たちを導こうとなさいます。
それは、ローマの信徒への手紙8章26節にあるように、私たちがどう祈ったらいいのかさえ分からなくなってもいる時も、「聖霊自らが、言葉で表せないうめきをもって執り成してくださる」のです。
聖霊降臨によって、今や世界中で神の偉大な業が伝えられ、証しとなる出来事が起こり続けています。それは神の愛であるキリストの福音によるのであり、キリストを通してお降りになった聖霊の力強いお働きです。今日も聖霊のお働きをとおして新しく神の子として生まれ変わる人たちが世界中のいたるところで起こされています。
今日ここに集われたお一人おひとりに、もれなく聖霊がとどまってくださり、イエス・キリストに顕される神の愛を悟らせてくださいますように。神の偉大な業を証しする者とされるよう、聖霊に満たされますよう祈ります。今週もここから遣わされてまいりましょう。
礼拝宣教 Ⅰコリント12章31章-14章1節前半
神は目的をもって私たちそれぞれに霊的な賜物を与えておられます。
パウロは12章の終わり31節で「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と、促しました。それはキリストのからだである教会が建て上げられていくためです。教会といいますと、多くの人は教会の建物を思い浮かべるでしょう。又それを建て上げるとなると組織づくりとか、良き運営の仕方のことを考えるかも知れません。けれど教会は人の業によって存在するのではなく、神の霊、聖霊のお働きによって形づくられているのです。
コリントの教会はこの時、残念なことに賜物をして自分を誇る人や賜物を適切に用いないため関係性が損なわれてしまうような事が起こっていました。
そこでパウロは言います。「わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」
パウロはコリントの信徒たちに、1~3節「わたしが異言や天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかなしいシンバル、たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘と知識に通じていようとも、たとえ山を動かすほどの完全な信仰をもっていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしは何の益もない」と述べます。
パウロは「愛」のない状態を「騒がしいどら」や「やかましいシンバル」にたとえます。
ギリシャの異教の神殿では当時どらやシンバルを打ち鳴らしては悪霊を追い出す儀式が行われていました。
それらは、真の神さまを知るパウロにとってやかましいただの騒音に過ぎなかったのです。
異言という賜物は、私たちの言葉にならないような祈り、うめきや嘆き、そして讃美を聖霊がとりなして下さる、その言葉でありますから、神の恵みそのものであります。
ところが信徒の中には、それを受けたから本物のクリスチャンになったとか、受けなければ半人前などと言うような人がいたわけです。彼らは誇ろうとして所かまわず異言で語り出し、人をつまづかせていました。パウロはその人たちの行いを、やかましいだけのどらやシンバルに過ぎない、人の耳を疲れさせる騒音に過ぎないと言っているのです。
又、たとえ「預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていたとしても、愛がなければ、無に等しい」と言っていますが。
よく有名な伝道者やいろんな聖霊の賜物を与えられた人を招いては大集会が開かれたりします。ところが、そのように偉大に見られる働きや業であっても、「愛がないならば無に等しい」、働きも集会も何も無いのと同じ、と言うのです。
さらに、尊い財産や金銭をたとえ貧しい人のために使い尽くすような事をしたとしても、さらには自らを誇ろうとして為した殉教の犠牲でさえも、「愛がなければ、何の益もない」と言います。
これらの行いは、世の中では立派だと称賛される行為でしょう。
けれども、その動機が自分の栄誉や誇りのため、独りよがりのものであるのなら、「何の益もない」と言うのです。そこには神の愛が不在だからです。
あのマザー・テレサさんはかつて、「大切なのは、どれだけたくさんの偉大な事をしたかではなく、どれだけ心を込めたかです」とおっしゃいましたが。神の前に尊くされるのはどんな偉大な業を行ったかではなく、たとえ小さく見える事でも、どれだけ心を込め、愛に根差してなしたか、という事なのであります。
4節~7節には「愛」のもつ特性について述べられています。
このところは、結婚をされる方がたとの準備会でも読まれる箇所でありますが。
愛は、「忍耐強い」「情け深い」「ねたまない」「自慢しない」「高ぶらない」「礼を失しない」「自分の利益を求めない」「いらだたない」「恨みを抱かない」「不義を喜ばない」、「真実を喜び」「すべてを忍び」「すべてを信じ」「すべてを望み」「すべてに耐える」と、具体的に15項目並べられています。
その「愛」とあるところ全てにご自分の名前を入れて読んでみて下さると、どうでしょうか。自分にはそのようない愛がないということを思い知らされるのではないでしょうか。それでも何とか頑張って愛に生きようとして、たとえば「忍耐強く」「情け深く」と、ひたすら我慢して無理にゆるそうとしてストレスいっぱい、その相手は悪いことを行うがままとなれば、状況も人間関係もゆがんだままになってしまいます。
「愛は不義を喜ばないで、真実を喜ぶ」とあるとおり、間違った事はやはり正しされていくように、愛をもって祈り、努めることが問われます。
さらに、愛の特性として「ねたまない」「自慢しない」「高ぶらない」「礼儀を失わない」「自分の利益を求めない」「いらだたない」「恨みをいだかない」と述べられます。
妬み、自慢、高慢、非礼な態度がコリントの教会の分裂を引き起こしていたのでしょう。これらは愛の特性とは正反対の人間の罪、エゴから生じるものです。
主イエスは良いパン種と悪いパン種の話をされましたが。良いパン種、すなわちキリストの愛に根差した言葉は私たちの間に天国の喜びをもたらします。一方悪いパン種、すなわち反キリスト(サタン)の言葉は混乱や不満を膨らませる、と言われました。あの人はこう言った、あの人はこうしたという誹謗中傷も同様でしょう。
しかし、ここを読んで愛の特性というのがよくわかった、じゃあそれを行おう、そのように生きてゆこうと考えて実際過ごせるかというと、先ほどこの「愛」のところに自分の名前を入れて読んでみても分かりますように、なかなかそうはいかない。私たち自身のうちにもコリントの教会の人々が抱えていた弱さがあることに気づかされます。
この「愛」を自分の中に探そうとしても到底見出せし得ない、見つけたと思っても次の瞬間、短気に怒り、額にしわを寄せるような自分が顔を出すわけですが。
ところで、私たちが愛というとき、新約聖書のギリシャ語では男女間の愛をエロス、身近な人や家族、友への友愛をフィリアと言い表されます。
私たちがこの地上に生まれて最初に感受する愛は、親や親のように養護してくれる存在からでしょう。さららに成長とともに、家族以外の人とも接する機会が増え、ある人は友だちや異性との出会い、ある人は恋愛や結婚、又ある人は新しい家族というふうに、様々な愛を知る時が与えられるでしょう。
けれども私たちの愛は燃え上がることはあっても、それがずっと持続可能かというと、そういったものではありません。
状況や事態が変わってしまうと、愛情が薄れたり、揺れ動いたり、果ては泡のように消えてしまうようなことも生じていくものです。
私たちの愛情で最も次元が高いとされている母親の子への愛情でさえも、無償の愛といいきれるでしょうか。
どんな人間の愛もエゴや自我の思いが混ざり込んでいるのではないでしょうか。
しかし、たとえそんな未熟な愛でも、神さまはいつくしんでくださることを、私たちは知っています。
さて、この4-7節までに語られている愛について特に心に留まりますのは、愛は忍耐することで始まり、すべてに耐えることで完結している事です。
パウロはローマの信徒への手紙5章で、「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。(次が大事です。)わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。
先に申しましたように、愛も、そこに必要な忍耐も自分の中に探したところで十分だと言えるものはありません。しかしその私たちの心に神の愛が注がれると、希望と共に忍耐強く愛に生きる力が与えられるのです。
この愛は、人間の自己愛や友愛ではなく、ギリシャ語でアガペの愛、神のご性質を示す愛です。それは、キリストがすべての他者、それも敵対する者に対してさえ自らを与え尽くされた愛です。唯、神のひとり子イエス・キリストを通して具体的にあらわされたこの愛と私たちは出会い、本当の愛を知ったのです。
キリストが侮辱を受けても、傷つけられても、苦しめられても、あの十字架上で自分をののしる者、敵対する者の救いと真の解放のため祈られ、最期を遂げられたそのお姿。私たちは唯、この神の愛の奥深さを知らされ、その愛に満たされて初めて自分も他者も神の愛によって愛せるのです。
さらに、パウロは8節~13節で「愛は決して滅びない」と、その愛の永続性を語っています。一方で、「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」と、それらの賜物が一時的なものに過ぎないことを伝えます。
私たちも又、神さまから様々な霊の賜物を戴いているのでありますが。そうした種々の賜物はみなこの地上において神の愛と救いがよりゆたかに分かち合われてゆき、神がほめたたえられるためにと、与えられたものです。だからこそ、それぞれに与えられている賜物を活かし、神と人に仕えることが大事です。
パウロがⅡコリント4章で「わたしたちは土の器」と言っているように、人はだれも欠け多い者、もろさを持つ者であります。けれどもその土の器の中に宝を納めている。それこそが愛なるキリストであり、土の器であるわたしたちのうちに生きておられる、その事が土の器を価値あるものとしているのです。私たちの内に住まわれるキリストの愛によって、私も又神の愛を持ち運ぶ者とされているのです。
パウロは又、「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」と言います。
では、何が残るのでしょうか。「愛」です。
パウロが言うように、私たちがまだ神の愛を知らなかった時、幼子のような身勝手な愛しか持てませんでした。しかし神の愛に出会い、幼子であることを棄てたのです。そうして神の愛に生きるようになりますが、しかしその働きも完全なものとは言えません。それをパウロは「おぼろに自らを映す鏡」にたとえたのです。
ちなみに、この当時の鏡は、今のようにはっきり映る物ではなく、銅を磨きこんでおぼろげに映るようなものでした。つまり、どんなに素晴らしい賜物や祈りをもった行いも、今は神の栄光をおぼろげにしか映し出せないのです。しかし、必ずいつの日か、完全なものが来る。その時には、もはやおぼろげにではなく、全てが明らかにされます。キリストが私たちのことをすべて知っていてくださることを、私たちもはっきりと知ることになる、というのです。
その日が来たなら、私たちはもはや、神の賜物は必要でなくなります。顔と顔とを合わせて神を直接見る者とされるからです。私たちはその日を神の愛によって共に忍耐しつつ、待ち望んでいるのです。
それゆえに、13節「信仰と、希望と、愛、この3つは、いつまでも残る。」
そして「その中で最も大いなるものは、愛である」。
聖書は今日も、私たちに呼びかけます。「この愛を追い求めなさい」。
祈ります。