礼拝宣教 エゼキエル34:1~16 23~25 (平和月間最終)
8月平和月間最終の礼拝を迎えました。
先週より緊迫したアフガニスタンの状況が刻々と伝えられていますが。イスラム主義組織タリバンの一方的な軍事制圧によってたちまち国土の殆どが実行支配されました。命の危険を感じ国外脱出を試みようと空港周辺に多くの市民たちが押し寄せている状況、またその悲痛な表情に胸が痛みます。大規模な爆破テロで血も流されています。
先日の新聞に藤原辰史さんという人間・環境学専門家の方が、中村哲医師の辿って来られた足跡を辿りながら次のように書かれていました。
「中村哲医師は、国会の参考人招致で戦争に前のめりな政権を狂気の沙汰だと批判、自衛隊派遣は「百害あって一利なし」と断じた。(中略)中村医師は自分の考えはタリバンと一線を画している、と述べつつ、現地でアフガンの人びとと共に暮らし、用水路を掘る中で刻まれた感覚からすれば、タリバンは一枚岩ではないと述べている。タリバンの構成員は、ソ連のアフガン侵攻時に難民となった孤児出身者が多い。米国とパキスタンはトルクメ二スタンからの石油のパイプライン沿いの治安維持にタリバンを利用し、その後敵対した。(中村さんの)用水路を手伝うタリバンもいたという。米国の戦争後に過激化し、度重なる「誤爆」で家族を失った人間がタリバンに加わったり、賛同するようになった。タリバンの残虐は大国の「国益」追及の落とし子とも言えるのである。(中略)もちろん、過激化したタリバンの行為は痛ましく、許しがたい。だが、そんなタリバンの復活と人々の支持を許したのも、欧米諸国の大国意識と傲慢さではなかったか。(中略)大国に演出された聞き心地のよい物語だけを消費することはやめ、歴史を学び、事件の背景を一つ一つ考えることが求められている」と、そういった事が記されていました。今後もこの状況を注視していきたいと思います。
本日は「まことの羊飼い」と題し、御言葉を聞いていきます。
前回は18章から、エゼキエルが「立ち帰って、生きよ」と神の御言葉を語った記事を読みましたが。その後もエゼキエルの語る神の情熱とその招きは、南ユダの人々に届かず、彼らは悔い改めることはありませんでした。そうして、エルサレムに残っていた人たちのうちで、武力行使を強硬に押し進める人たちがバビロンに武力で反乱を起こすのです。その結果、33章にありますように南ユダとエルサレムの都は完全に陥落してしまうのです。こうして南ユダはバビロンに併合され国は亡くなります。神殿も焼き払われて指導者たちはみな捕らえられ捕囚とされる、そういう絶望的状況となります。この時期からエゼキエルが取り継ぐメッセージは「将来に向けた回復の希望」へと変わっていきます。
本日34章は、そうした南ユダの人々が頼みとしていたエルサレム神殿の完全な崩壊という人々が神を全く見失ってしまう中で語られているのです。このエゼキエルとほぼ同時期の預言者エレミヤも又、その23章において同じような主の御言葉を聞き、取り継いでいます。
そこを読みますと三つの事が語られているのですが。
第一は「イスラエルの牧者にたとえられる王や指導者の腐敗と審き」
第二は「主である神ご自身がイスラエルを養う牧者となられるとの宣言」
第三は「まことの羊飼いなる牧者、「油注がれた王、メシア到来の預言」であります。
「牧者とは」
その三番目の「羊飼いなる牧者」の牧者という言葉の動詞が「放牧する」「家畜の番をする」というところから「世話をする」「治める」という意味合が強くなり、人間を治める「支配者」「統治者」を指すものとなりました。
聖書は一貫して究極の「牧者」は神ご自身である、と語っています。
すでに創世記49章24節に「イスラエルの岩なる牧者」とありますように、「神ご自身」が揺るぎなき牧者、すなわちすべての「統治者」であるということであります。
一方で世の政治的な「王」や「指導者」たちも又、そのように牧者とたとえられたわけでありますが。詩編の中に登場するダビデ王は、まさにイスラエルを統治した王であり、牧者でありました。
けれどもそのダビデは、「主は、わたしの牧者」と、まことの牧者は「主なる神ご自身である」と詩編23編で讃美しています。そのようにイスラエルの王や指導者たちは、真の牧者である神ご自身の意向を受けて、民の群れを世話する役目を託されたのです。
このダビデは王となる前は実際羊飼いとして働いていたわけですが。その仕事は乾燥した暑さの厳しいパレスチナにおいて、毎日群れを湧水がある所へ導いて水を与え、水がないところでは地に穴を掘り雨水(あまみず)を溜めて羊に与えました。牧草もそうですが、特に水は即命に直結しますから、それを与えるために苦労が尽きなかったのです。又、夕方には羊を囲いに入れます。羊飼いは囲いの入り口に立って杖の下を一頭ずつくぐらせ、群れの一頭一頭を確認しました。良い羊飼いは数でかぞえるのでなく一匹一匹の名を呼び、点呼するように確認したと聞いたことがあります。そうやって囲いに入れたら、囲いの入り口の場所に寝泊まりして外敵から守る「群れの番」をしたということです。一般的に一人の羊飼いが羊と山羊の群れを放牧し管理する能力は100~150頭が限界だそうであります。現代はオートメーションで管理され、沢山の羊が飼われているところも多いでしょうが、羊にとっては一頭一頭とその群れ全体のことを心に留めてくれる羊飼いの方が良いに違いありません。
まあ、そんな羊飼いのような牧者を神はイスラエルの王、政治的指導者として立て、その職務を託されたのであります。しかし、イスラエル歴代の王たちの大半は、職務を正しく果たすことなく、神に逆らい罪を犯し、私腹を肥やしたあげく、民は放置され、国は滅び、民はちりぢりに散っていくことになってしまうのです。
本日の箇所の1節冒頭でエゼキエルに臨んだ主の言葉それは、「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たち。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物をほふるが、群れを養おうとはしない」というイスラエルの指導者たちに対する告発でした。
4-6節「お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力づくで、過酷に群れを支配した。彼らは飼うものがいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の前面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。」
主なる神が期待されたのは、「弱いものを強め、病めるものをいやし、傷ついたものを包む」、そんな額に汗して群れの一頭一頭のことを思いやり、労する羊飼いのような王や指導者たちの姿でした。しかし彼らはその期待に反し、かえって権力を笠に群れを過酷に支配したのです。その結果は周辺諸国に侵略され、遂に散り散りにされ流浪の民となってしまうのです。
このような為政者の姿と民衆に降りかかる災難は何も遠い昔のイスラエルだけのことではありません。文明が発達した現代社会においても世界の国々でこういった事態が起こっています。世界の大国と言われる主要国はグローバリゼーションの下、経済一辺倒な施策ばかりを推進し、弱い立場におかれた国の人々が利用され、搾取されているのが現状です。日本でも、今や子どもの貧困は6人に1人と言われ、教育を受ける機会さえも損なわれています。又、これまで日本の社会を支え担ってこられた高齢者の医療費負担が益々増えていますけれども、生きるために医療が必要なのに受けることが困難な人が日増しに増加しています。
より良い未来はこれからの社会を生きていく子どもたちが守られること、又歴史の「良しと悪しき」を体験した人たちの証言によって築かれていくはずです。
さて、10節で主は遂に次のように宣言なさいます。
「見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。」
主は王・為政者の、牧者としての権限を奪うというのです。
しかし、その主は、23節のところで次のように仰せになられます。「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデある。彼は彼らを養い、その牧者となる。」
ここにダビデの名が出てきますが、確かにイスラエルの牧者としてのダビデ王の働きは大きかったということはできるでしょう。しかし、彼も人の子(人間)でありました。殊に王という権力、力の行使による罪と過ちを犯したのです。その罪を隠すために更に罪を重ねていったダビデ。その自分の姿に、彼は神に遣わされた預言者に指摘されるまで気づきませんでした。その時初めてダビデは主の前にあって如何に自分はおごり高ぶっていたか、又、なんというおぞましいまでの罪の性質があるのかを思い知らされて、深い悔い改めとともに主に立ち帰っていくのです。
先にダビデの詩編23編について触れました。偉大なダビデ王であっても「主なるまことの羊飼い」がいなければ、救われない者であるということです。
11節、主なる神は腐敗したイスラエルの王に代わって、「わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と宣言なさいます。
さらに12節、「牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と蜜雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す」とおっしゃるのです。
それは、イスラエルの王たちが怠った「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」牧者としての働きを、正に主なる神ご自身が実行なさるということであります。
さらに16節、「肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」と言われます。主なる神は、牧者として群れを養うと共に正しく公平に審かれるお方であられるのです。
神が、打ちひしがれ、さ迷う群れに向けて幾度も、「わたしがそのようになす」と繰り返しお語りになりますのは、ご自分の民を打たれても、なお変わることのない憐みのゆえです。
マタイによる福音書9章を読みますと、主イエスが町や村を残らず回っておられたとき、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(36節)という記事がございますが。それは先ほどのエゼキエル書の神が起こされる牧者を彷彿とさせます。
主ご自身が、失われた者のその悲しみを自らのものとしてくださる。主御自身が傷いついた者のその痛みを自らのものとしてくださる。主御自身が弱った者のその弱さを自らのものとしてくださるのです。私たちはその預言が主イエス・キリストのうちに働かれ実現されたことを見るのです。エゼキエルの預言から幾歳月(いくさいげつ)もの時を経、この地上にお出でくださった大牧者なる主イエス・キリスト。
30節で、「そのとき、彼らはわたしが共にいる主なる神であり、彼らはわが民、イスラエルの家であることを知るようになる」とありますが。
実に、私たちも主イエス・キリストによる「信仰の義」によって、アブラハムの子、神の民とされるという、この預言の成就に与っているのです。
私どもにとりまして、主イエスが、そのために成し遂げて下さった十字架の苦難と死は、「失われていた私たちが見い出され、慰めを受け、傷ついたものがいやされ、弱ったものが強められる」という、生きる命の源であります。飼う者のない羊のようなものであった私たちは、この主の尊い救いの恵みを戴いて生かされていることにいくら感謝しても足りない者であります。この、まことの羊飼いであられる「主の深い憐れみ」に与り、私たちもその生かされている場所において、主のお姿とそのお言葉に養われ、導きに従いつつ、歩んでまいりたいと願います。
そこに、25節「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ」と主が確約して下さった「主の平和」が建て上げられていきます。それはまた、全世界の福音としてすべての人、すべての国々に向けられたメッセージ、呼びかけでありましょう。
冒頭ご紹介したアフガンの記事を読んで、今のアフガンの事態は対岸の火事とは決して言えないと思わされました。大国に寄りかかっても自国第一主義の時代です。又、武力によっては憎しみの連鎖が続くだけです。経済が回れば人の命は本当に生かされるのでしょうか。
中村哲医師が自らいのちをかけて現地でなしてきたお働きは、1人の医師として、人間として、人が生きるため、また武器を持たなくても生活できるようになるためには「水と大地の実り」が重要という信念からであったと思います。事実、そこで「もう戦わなくてもよい」と胸をなでおろす人たちがいた。武器を鎌や鋤に打ちかえて働く人たちがいたということです。本当にすべてのしかるべき立場の人たちが生ける神への畏れとその御心を知り、「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」働きを実現していけるように、祈り願います。
神がイエス・キリストをこの世界にお送り下さって、平和の契約を地球上のすべての人類と結んでくださったことに、私たちも応えて生きる者とされてまいりましょう。