日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

幸いなる人々

2010-04-25 08:01:16 | メッセージ
宣 教 マタイ5:1~12

さて、皆さまはどのような時に幸せだなとお感じになるでしょうか。おいしいものを食べている時、ひいきのチームが勝った時。いや、家族が変わりなく健やかであること、など様々おありでしょう。また、どのような人を皆さまは「幸せな人だな」とお思いになるでしょう。社会的な成功者ですか。お金に不自由のない人ですか。強い人ですか。麗しい人ですか。本日のイエスさまのお話はそのような世の常識を覆すようなメッセージであります。今まさに、イエスさまがここで言われているような人びに神さまのみ国が、神さまの深い慰めと力が与えられるとの福音であります。

今回このイエスの山上の宣教の記事を読んで、新たなる発見をいたしました。
それは、3~10節まで「幸いなるかな、、そのような人々は、、云々」と三人称で語られていますが、11節は「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と、「あなたがた」という二人称の呼びかけの言葉に変わっているということであります。
それは、イエスの弟子たち、そしてマタイの教会の人たち、さらに2000年の時を越えた私たち一人ひとりに向けて呼びかけられた言葉であります。

この聖書の「幸いなる人々」との福音メッセージは、神さまの一方的な祝福であり、恵みの出来事ですが、それは人ごとでは決してなく、あなたとわたしという関係性の中で語られた言葉であります。

釜ケ崎の越冬夜まわりで知り合った日頃から野宿者の支援に関わっておられるNさんは、2、3ケ月の割合で元釜ケ崎の周辺で野宿していて現在心の療養とリハビリのため病院に入院されている方々のもとを訪問しておられます。普段はこの方お一人で1日に3~4つの病院をバスなど乗り継いで回り、元野宿者の方の訪問をされているということでしたが。「一度ご一緒に如何ですか」とお誘いを受け、先日私も連れて行って戴きました。
まあ、このNさん、すごいパワーといいますか。彼女の一体どこからそういう力が出てくるのか不思議に思ったのですが。Nさん曰く「これは私の趣味です、神が釜ケ崎に行くようにとの召命があったので、そうしている」というのです。でも、こういう働きをしていて、ああ夜明けがこない、どうにもこうにもならない、あれだけ心と時間を使ったのに裏切られたり、逃げられたりで元の木阿弥というようなことがこれまでに何度もあり、嘆き、つぶやくことも、ちょいちょいあるということです。「それでも、やりとおして行けるのは何やろうね」と彼女の手製のお弁当を戴きながら、その心の思いを聞くことができました。
私が同伴させて戴いたその日、4つの病院をほぼ朝から夕方までかけて回ったのですが、彼女の知っている4名のうち、2名の方はすでにお亡くなりになっていました。一応それぞれご家族があり、お亡くなりになった通知はなされていたようですが。
しかし、亡くなるまでずっと孤独であられ、そのつど訪問し、何の気のない会話がなされていたということでした。

人は住むところであるハウスを得ても、その人が人間らしく生きていけるような社会、温かな関係のホームがそこにないのなら、本当に人は安住することはできないということを思い知らされます。Nさんのような働きは、社会全体から見れば、一体そんなことをして何になるのかと言われるようなものかも知れません。けれども、本当に人を生かす力というものは、「あなたは決して見捨てられてなどいない。不用な者などではない」「あなたは尊くかけがえのない存在だ」という声ならざる声でありましょう。この声を聞き取り伝える働きをNさんは召命と受けとめておられました。彼女は70歳近くで、自分は天涯孤独などとおっしゃっていましたが。その彼女、「私はこの働きは信仰を基盤にしているから出来るんのよ」とも言われていました。
主の「幸いなるかな!」との恵みを受け取った人は、その幸いを誰かと分かち合う者とされているんですね。

イエスさまは、今日この「幸いなるかな」との福音、救いのメッセージを、私ども一人ひとりに与えて下さいます。今度はその福音を受け取った私が、あなたが、誰と、どのようにそれを分かち合っていくのかと、そのことをイエスさまは期待しておられます。

この「幸いなるかな」とのメッセージを持って主が示される人のかたわらに主イエスと伴い行き、とりなし、祈りることができますように。
痛みを知るからこそ出来ることがあります。主にあっていつも謙虚にされつつ、主のみ業に参与し、「幸いなるかな」との福音を一人ではなく共に分かち合っていきましょう。
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先立ちの主に信頼し続けて

2010-04-18 07:34:14 | メッセージ
宣 教 マタイ4章1~17節

荒れ野の試みに打ち勝たれたイエスは、いよいよ天の国を伝える宣教を開始されます。その最初の地は、ユダの中心地エルサレムではなくガリラヤの地でありました。ガリラヤは辺境の地、異邦人が多くいるとさげすまれていた地、又大国から完全に占領され全く失われた地でもありました。イエスは、いとこでもある洗礼者ヨハネが逮捕されたことを聞き、「ガリラヤに退かれた」とあります。どのような心情であられたでしょうか。自らの身の危険もこの時すでにお感じになっていたことでしょう。

「ガリラヤに退かれた」。しかし考えてみますと、ガリラヤはヨハネを捕えたヘロデ・アンティパスが治める領地であります。わざわざそういうガリラヤへ「退く」なんておかしくないでしょうか。そんな自らを危険にさらすような地へ「退いた」などと言うでしょうか。普通は言いません。しかし、この「退く」という言葉には特別な意味があります。これは幼子であったイエスのいのちが危険にさらされた時、父ヨセフが、幼子とマリアを連れてエジプトに退いた、そして再びガリラヤへ退いた。その退いたと同じ言葉であります。それは、イエスの家族たちがまさに試練の連続の中で、夢で神のお告げを受け、神に聞き従ったことを示すキーワードなのです。つまりこの「ガリラヤに退かれた」とは、逃げた、隠れたというようなことではなかった。試練の中でイエスが「主のみ心に聞き、従って」ガリラヤに向かわれた。つまり、荒れ野と同様ガリラヤにおいても、先立つ主に信頼し続けた信仰的決断がそこに示されているであります。

そして「その時」からイエスは宣教を開始されたのであります。順風満帆。追い風を受けて始められたんではないのです。試み。試練が次々にやってきて、遂には身の危険さえ感じるそのような時に、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝え始めたのです。荒れ野の悪魔の試み、そして荒れ野を出てからもイエスの試練は続きますが。イエスは霊の目でもってその先立つ主にどこまでも信頼していかれます。 
このみ言葉に聞き従っていきましょう。
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復活の主イエス(2)

2010-04-11 07:52:08 | メッセージ
イースター宣教  マタイ28:1-10

主イエスの復活の記事はそれだけで終っていません。
他の福音書にはない続きがあるのです。「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われた」というのです。ちなみに、この「おはよう」はギリシャ語原語であなたに「喜びがありますように」という意味です。
そうです、何と復活の主イエスさまはこの二人に先立ち、自ら女たちに出会ってくださるのです。すると「女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」とあります。彼女たちの喜びはいかばかりであったことでしょう。ひれ伏したとは、まことの主を礼拝したという意味ですね。

聖書教育4~6月号(日本バプテスト連盟発行)に本日の聖書個所を読む視点として、「私たちは復活のイエスさまがどこにいるのかと探そうとしますが、実は、復活したイエスさまの方が私たちを探しておられます」と記されています。ほんとうにそうなんですね。私たちが探す前からイエスさまが私たちを探し出し、たとえ私たちが気づかなかったとしても、イエスさまは私たちに近寄って来てくださっている、どんなにうれしい知らせでしょうか。

イースター礼拝のために、祈りのしおり、又案内のはがき、チラシを作りました。そのイースターの「案内はがき」の大きな見出しに、導かれるままにこういう言葉を記しました。「わたしのそばにはいつも、もうひとつのあしあと」
これは友人の牧師が、学生の時でしたか当時まだ作者不明であった「あしあと」という英語の詩からイメージして曲をつけたのですが、その歌詞の一部分であります。ちなみに、その詩の原文の邦訳は以下のとおりです。

ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ、わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみのときに、あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」

この詩はマーガレット・F・パワーズさんという方が書かれたものです。彼女が学校の先生をしていた時、教室で雷に打たれて、激しいショックを身に受けました。彼女が雷に打たれた同じ日、帰宅途中に雷に打たれた彼女の教え子は亡くなってしまいました。彼女は自分の体に残る苦しみと、亡くなった子供のことで悩み、つらい毎日を送ります。どうしてあの子が死ななくてはいけなかったのか、どうして自分は生きているのか。彼女は毎日祈り続ける中、ついに聖書に答を見つけます。それは、死が終わりではないということ、神様を愛し、イエス・キリストを信じるなら、永遠の命が保証されているということを知るのです。しかし、彼女は落雷のショックから体調が戻るのに何ヶ月もかかるということが分かり、仕事を断念せざるをえなくなります。自分の体調、大切な教え子、そして生きがいだった仕事を同時に失って、彼女は深い悲しみの中にいました。
 マーガレットさんと結婚したポールさんも、つらい生い立ちを背負った人でした。彼は、母親を幼くして亡くし、酒に酔った父親から虐待を受けて育ったのでした。ポールが血を流し泣いていても、父親は彼を殴り続けたのだそうです。母親を失い、楽しい少年時代も奪われてしまったポールは、警察沙汰を起こす少年に育ちました。彼は一つの少年院からまた別の少年院に転々として何年もの歳月を過ごします。しかし、彼は、「あるキリスト教の集いに誘われ、何度か参加するうちに、神と対話するようになります。母親が死んで以来心の中に隠してきた自分の思いを神に打ち明け、「わたしはあなたを愛している」とささやく神のみ声に聞きしたがって、神様を信じるようになりました。
 この二人が出会い、親しくなっていきます。二人はお互いの過去を話し、「でも、どんな時でも、神様がすべてを導いてくださる」と涙を流して語り合います。この二人が、結婚を決意するときのことです。二人は砂浜を歩きながら話していました。二人は波に流されたあしあとをめぐってさまざまな話しをします。その時、マーガレットがこう語ります、「二人で対処できないような大変なことがこれから起こったらどうしよう」。するとポールは答えます、「そういう時が来たら、その時こそ、主が私たちを背負い、抱いてくれるときなのだ」。これが「あしあと」という詩の作られた背景であったというのです。

実はこのあしあとの詩にまつわるエピソードにはまだ続きがあります。
この多くの人々を感動させた「フット・プリント(あしあと)」という詩は、長い間、作者不明とされていました。この作者がマーガレット・パワーズさんのものだということが分かったのは、まったく思いもかけない出来事によってであったのです。
それはマーガレットさんの夫と娘が水難事故に巻き込まれ、自分も腕を折るという試練の時、入院していた夫に看護婦さんが「この詩をお読みすれば、きっと励ましになると思うの」と読んでくれたのが、マーガレットさん自身が若い頃に作ったあの「フット・プリント(あしあと)」という詩だったのです。ほんとうに不思議なことは起こるものですよね。

「神さま、あなたはどこにおられるのですか」「あなたは助けてくださらないのですか」と
思うようなつらい時。神さまは私たちを背負って共に歩いてくださっている。
あの二人のマリアが主イエスと出会われた時のように、私たちがあなたはどこにおられるのですか、と探そうとする前から、私たちを探し出し、主イエスは共にいてくださる。
「わたしのそばにはいつも、もうひとつのあしあと」。私たちの信じる生ける神さまはこのようなお方であられるのです。
復活の主イエスに出会うことを願うすべての人に、聖書はそのように語りかけ続けます。
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復活の主イエス

2010-04-07 19:48:51 | メッセージ
イースター宣教(1)マタイ28:1-10

「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓に見に行った」と記されています。
安息日が金曜夕方から始まり土曜夕方に終わりますので、安息日が終わって週の初めの明け方というのは、これは日曜日の明け方のことであります。この日、主イエスはよみがえられ、死より復活されたと聖書は伝えます。
この朝、それまでずっとイエスさまに同行して来た二人のマリアはイエスさまの葬られた墓を訪れます。彼女たちはイエスさまが十字架刑で処刑される折も、ずっとそれを見守っていました。弟子たちは逃げ去ってどこかエルサレム周辺の場所に身を隠していたようでありますが。彼女たちは心からイエスさまをお慕いしていたんでしょう。彼女たちのイエスさまを失った悲しみや嘆き、その涙はつきなかったことでしょう。
そんな時、大きな地震が起こり、イエスさまの葬られたお墓に天使が出現します。
天使たちは、墓をふさいでいた石をわきへ転がし、その上に座りました。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かったとあります。
墓の番をしていた番兵たちはこの光景をみると、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったと聖書は伝えます。この番兵たちとは、前の62節以降に記されているように、イエスが生前「三日後に復活する」と言っているのを聞いたユダヤの祭司長や律法学者たちが、もし弟子たちが来て墓から遺体を盗み出し、復活したなどと言いふらすなら、人びとをさらに惑わすことになりかねないと、ピラトに願い出てユダヤ人の番兵たちをそこにおき、墓に封印をしていたのです。この番兵たちは、あたかもイエスの復活を、そんなことはありえない、あるわけないと否定する不信仰を象徴しているかのようです。しかし、その不信は恐怖のうちに打ち破られます。

一方、同じようにイエスの墓にいた二人の女たちですが、彼女たちも天使の出現と墓が開かれる光景を目の当たりにして恐れるのでありますが、彼女たちは天使から語りかけられ、その希望のみ言葉を耳にするのです。そこが番兵たちと全く違いました。
同じ出来事に遭遇して片や不安と恐怖。片や天からの励ましと希望。キリスト者の日常についても同じことが起きますよね。不信が起これば不安や恐れに取りつかれますが、キリストを訪ね求めるなら天からの励ましと希望を受けます。


さて、そのみ言葉は、「恐れることはない。あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」というものでした。「イエスは死からよみがえられて墓にはもうおられない」というのです。
さらに天使は彼女たちに、「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」確かに、あなたがたに伝えました」と語りかけます。
すると、女たちは「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」とあります。恐れながらも大いに喜んでいたという様子、どうでしょう。まだ復活の主イエスをその目で見たわけじゃない。その復活の主イエスと顔と顔を合わせたわけじゃない。その知らせを聞いた時、喜びが湧きあがってきたのです。
Ⅰペトロの手紙1章8節に「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています」とありますように、主イエスを訪ね求める人は、この墓という場所に象徴されるような絶望や悲しみの中でさえ、希望が、喜びまでもが与えられていくのです。彼女たちが急いで墓を立ち去ったというのも、このよき知らせを一刻も早く弟子たちにもたらしたい、伝えなければという思いでいっぱいであったということなのでしょう。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」ヘブライ11:1
目に見えないものを信じる信仰は、希望と喜びの源であります。

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人は二度死ぬ

2010-04-02 10:56:01 | メッセージ
受難週宣教 Ⅰコリント15:51-53

寒さの厳しい1月から2月までの期間、釜ヶ崎キリスト教協友会による、夜まわりを軸にした、医療、生活相談に取り組んだ越冬活動に初めて参加しました。
夜まわりの目的は、野宿をよぎなくされている方のいのちを守る。「一人でも死者」を出さないということが第一でなされます。緊急に体調不調の方がいれば病院へ連れていく。その他、毛布、下着、おにぎり、みそしる、ホッカイロなどを配って回ります。夜わまりの地区は釜ヶ崎(シェルター除)とその周辺、山王、天王寺・四天王寺、日本橋、えびすちょう駅、道具屋筋、なんば駅周辺、なんばハッチ、心斎橋筋で野宿者数はおおむね300人でした。
日、月、火、木、金、土を各団体、主に釜ヶ崎でさまざまな働きをしているカトリック教会・プロテスタント教会などが働きを担っているのですが。金曜日は喜望の家(福音ルーテル教会のアルコール依存症回復センターが萩之茶屋にある)が担当で、そこの夜まわりに(毎週金曜日午後9時半~午前1時迄)わずか6回ほどですが参加させてもらいました。きっかけは天王寺にも多くの野宿者がいるという現状やそういった方々の相談に何か応えられるような情報や案内ができればという思いがあり、1月17日震災の日の集会の後泊りに来られた親友の牧師に紹介してもらいました。

先週の日曜日にそのキリスト教協友会の夜まわりに参加した各グループや個人が喜望の家に集まり、報告会があったのですが。そこには子どもの里から、今回も子ども夜まわりに参加した多くの子どもたちとリーダーの顔もあり、にぎやかな報告会になりました。ちなみに、先日新聞でこの子ども夜まわりのときの光景が写真と言葉で紹介されていました。そこに映し出された子どもたちそれぞれのまなざし、瞳はとっても生き生きと輝いています。普段の学校では見られないような表情です。

この子ども夜まわりは今年で24年目になるそうですが、新聞の記事の中で、こどもの里の館長は夜回りを始めた当初のことをこう回想しています。「6歳の児童が、このおっちゃんら、かあちゃんからうまれたんやろ。なんで、こんなところで、ねなあかんの」と言った。おかしいことに率直な疑問をもつ「子どもの力」に気づかされた」と。
その児童は釜ヶ崎の歴史も恐らく知るよしもなかったでしょう。しかし、子どもの曇りのない素直な感性で同じ人間が路ばたの段ボールで寝る他ない現状に疑問をもったのです。

その日曜日の報告会の中で、子どもの里のその館長だったと思いますが、子ども夜回りの報告書を見せてくださいまして、そこに子どもたちが夜回りで出会ったおじさん、おばさんたち一人ひとりの顔や名前、名前が手がきで書かれていて、ファンキーなおっちゃん、笑っているおっちゃん、怒っているおっちゃん、泣いているおっちゃん、あめくれるおばちゃん、などなどニックネームをつけて紹介しているんです。館長はいろいろな一人ひとりの存在があるそのページの大事さを伝えてくれました。

その館長が子ども夜まわりの報告書の中にこういうことを書いておられました。「「人は二度死ぬ」。これは、クリスチャン・ボルタンスキ―というフランスの芸術家が言った言葉です。一度目は自分が死んだとき。二度目は、自分のことを忘れ去られるときだというんです。震災で路上で死んでいった人たちには名前がありませんでした。統計で行方不明者何名とかいう数でしか知らされていません。同じように野宿している人たちの中で路上で亡くなる方がいます。身寄りがなくて一人で死んでいく人、路上であれアパートであれ、釜ヶ崎にはそういう人だけで年間120人ほどいます。大阪全体で1,000人を超しています。日本全体でどれくらいいるかわからなですが。でもその人たちはほとんど名前がわかりません。誰もその人の名前も知らない。つまり生きている時に、すでに「2度目の死」の状態にあるということです。そして路上で亡くなったときに「1度目の死」を迎えるのです。想像してみてください。自分の名前を呼んでくれる人が一人もいない状態を」。
そのようなことを、子ども夜まわりの前に毎回行われる事前学習会で、子どもたちと大人に語りかけてきたそうです。そして子どもたちは単に気のどくな人に何か配るというのではなくて、同じ人間として出会うその経験をしていくのです。人は一人では生きていけないのだと、きずなや、つながりの大切さをつくづく思わされされますが。


本日の聖書の中で強く心に留まりましたのは、51節「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」との言葉です。ここに、わたしたちは皆とありますね。一人ではないんです。わたしはでもないし、あなたはでもない。「わたしたちは皆」なんです、孤独・孤立した状態ではないんですね。私たちは皆、共に、一緒に、つながって、今とは異なる状態に変えられということなんです。ここが肝心だと思います。そういう復活のからだを戴く希望を実に戴いているのであります。

しかし、この地上に生きる私たちは、現実にいつも罪との戦い、死の恐怖や不安を抱えながら生きています。ある意味それは孤独との戦いであります。先ほど、「人は2度死ぬ」というショッキングな言葉がありましたが。やはりこの地上にあって、忘れ去られていく死、その人の存在すら消し去られてしまうような孤独死ほど悲しく、つらいものはありません。
パウロがこの51-52節のところで、「私」という個人でなく、「わたしたちは皆、眠りに云々」「わたしたちは皆、今と異なる状態に」「わたしたちは皆、変えられます」と何度もわたしたちはと語りかけている意味を受け取っていきたいですよね。パウロは52節で「最後のラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」と述べます。この死なない者はとは、「あがないによる救い」をして「キリストの復活の命」です。そして、その時、「主の勝利によって死は飲みこまれた」。イザヤ書25章8節の「主が永久に死を滅ぼしてくださる」ということが成就される、とパウロは言います。そういうことが、主に結ばれる「わたしたち」に起こるというのです。
「復活の命を共に生きる」とは、、、、そのことを深く思わされます。
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