宣 教 マタイ5:1~12
さて、皆さまはどのような時に幸せだなとお感じになるでしょうか。おいしいものを食べている時、ひいきのチームが勝った時。いや、家族が変わりなく健やかであること、など様々おありでしょう。また、どのような人を皆さまは「幸せな人だな」とお思いになるでしょう。社会的な成功者ですか。お金に不自由のない人ですか。強い人ですか。麗しい人ですか。本日のイエスさまのお話はそのような世の常識を覆すようなメッセージであります。今まさに、イエスさまがここで言われているような人びに神さまのみ国が、神さまの深い慰めと力が与えられるとの福音であります。
今回このイエスの山上の宣教の記事を読んで、新たなる発見をいたしました。
それは、3~10節まで「幸いなるかな、、そのような人々は、、云々」と三人称で語られていますが、11節は「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と、「あなたがた」という二人称の呼びかけの言葉に変わっているということであります。
それは、イエスの弟子たち、そしてマタイの教会の人たち、さらに2000年の時を越えた私たち一人ひとりに向けて呼びかけられた言葉であります。
この聖書の「幸いなる人々」との福音メッセージは、神さまの一方的な祝福であり、恵みの出来事ですが、それは人ごとでは決してなく、あなたとわたしという関係性の中で語られた言葉であります。
釜ケ崎の越冬夜まわりで知り合った日頃から野宿者の支援に関わっておられるNさんは、2、3ケ月の割合で元釜ケ崎の周辺で野宿していて現在心の療養とリハビリのため病院に入院されている方々のもとを訪問しておられます。普段はこの方お一人で1日に3~4つの病院をバスなど乗り継いで回り、元野宿者の方の訪問をされているということでしたが。「一度ご一緒に如何ですか」とお誘いを受け、先日私も連れて行って戴きました。
まあ、このNさん、すごいパワーといいますか。彼女の一体どこからそういう力が出てくるのか不思議に思ったのですが。Nさん曰く「これは私の趣味です、神が釜ケ崎に行くようにとの召命があったので、そうしている」というのです。でも、こういう働きをしていて、ああ夜明けがこない、どうにもこうにもならない、あれだけ心と時間を使ったのに裏切られたり、逃げられたりで元の木阿弥というようなことがこれまでに何度もあり、嘆き、つぶやくことも、ちょいちょいあるということです。「それでも、やりとおして行けるのは何やろうね」と彼女の手製のお弁当を戴きながら、その心の思いを聞くことができました。
私が同伴させて戴いたその日、4つの病院をほぼ朝から夕方までかけて回ったのですが、彼女の知っている4名のうち、2名の方はすでにお亡くなりになっていました。一応それぞれご家族があり、お亡くなりになった通知はなされていたようですが。
しかし、亡くなるまでずっと孤独であられ、そのつど訪問し、何の気のない会話がなされていたということでした。
人は住むところであるハウスを得ても、その人が人間らしく生きていけるような社会、温かな関係のホームがそこにないのなら、本当に人は安住することはできないということを思い知らされます。Nさんのような働きは、社会全体から見れば、一体そんなことをして何になるのかと言われるようなものかも知れません。けれども、本当に人を生かす力というものは、「あなたは決して見捨てられてなどいない。不用な者などではない」「あなたは尊くかけがえのない存在だ」という声ならざる声でありましょう。この声を聞き取り伝える働きをNさんは召命と受けとめておられました。彼女は70歳近くで、自分は天涯孤独などとおっしゃっていましたが。その彼女、「私はこの働きは信仰を基盤にしているから出来るんのよ」とも言われていました。
主の「幸いなるかな!」との恵みを受け取った人は、その幸いを誰かと分かち合う者とされているんですね。
イエスさまは、今日この「幸いなるかな」との福音、救いのメッセージを、私ども一人ひとりに与えて下さいます。今度はその福音を受け取った私が、あなたが、誰と、どのようにそれを分かち合っていくのかと、そのことをイエスさまは期待しておられます。
この「幸いなるかな」とのメッセージを持って主が示される人のかたわらに主イエスと伴い行き、とりなし、祈りることができますように。
痛みを知るからこそ出来ることがあります。主にあっていつも謙虚にされつつ、主のみ業に参与し、「幸いなるかな」との福音を一人ではなく共に分かち合っていきましょう。
さて、皆さまはどのような時に幸せだなとお感じになるでしょうか。おいしいものを食べている時、ひいきのチームが勝った時。いや、家族が変わりなく健やかであること、など様々おありでしょう。また、どのような人を皆さまは「幸せな人だな」とお思いになるでしょう。社会的な成功者ですか。お金に不自由のない人ですか。強い人ですか。麗しい人ですか。本日のイエスさまのお話はそのような世の常識を覆すようなメッセージであります。今まさに、イエスさまがここで言われているような人びに神さまのみ国が、神さまの深い慰めと力が与えられるとの福音であります。
今回このイエスの山上の宣教の記事を読んで、新たなる発見をいたしました。
それは、3~10節まで「幸いなるかな、、そのような人々は、、云々」と三人称で語られていますが、11節は「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と、「あなたがた」という二人称の呼びかけの言葉に変わっているということであります。
それは、イエスの弟子たち、そしてマタイの教会の人たち、さらに2000年の時を越えた私たち一人ひとりに向けて呼びかけられた言葉であります。
この聖書の「幸いなる人々」との福音メッセージは、神さまの一方的な祝福であり、恵みの出来事ですが、それは人ごとでは決してなく、あなたとわたしという関係性の中で語られた言葉であります。
釜ケ崎の越冬夜まわりで知り合った日頃から野宿者の支援に関わっておられるNさんは、2、3ケ月の割合で元釜ケ崎の周辺で野宿していて現在心の療養とリハビリのため病院に入院されている方々のもとを訪問しておられます。普段はこの方お一人で1日に3~4つの病院をバスなど乗り継いで回り、元野宿者の方の訪問をされているということでしたが。「一度ご一緒に如何ですか」とお誘いを受け、先日私も連れて行って戴きました。
まあ、このNさん、すごいパワーといいますか。彼女の一体どこからそういう力が出てくるのか不思議に思ったのですが。Nさん曰く「これは私の趣味です、神が釜ケ崎に行くようにとの召命があったので、そうしている」というのです。でも、こういう働きをしていて、ああ夜明けがこない、どうにもこうにもならない、あれだけ心と時間を使ったのに裏切られたり、逃げられたりで元の木阿弥というようなことがこれまでに何度もあり、嘆き、つぶやくことも、ちょいちょいあるということです。「それでも、やりとおして行けるのは何やろうね」と彼女の手製のお弁当を戴きながら、その心の思いを聞くことができました。
私が同伴させて戴いたその日、4つの病院をほぼ朝から夕方までかけて回ったのですが、彼女の知っている4名のうち、2名の方はすでにお亡くなりになっていました。一応それぞれご家族があり、お亡くなりになった通知はなされていたようですが。
しかし、亡くなるまでずっと孤独であられ、そのつど訪問し、何の気のない会話がなされていたということでした。
人は住むところであるハウスを得ても、その人が人間らしく生きていけるような社会、温かな関係のホームがそこにないのなら、本当に人は安住することはできないということを思い知らされます。Nさんのような働きは、社会全体から見れば、一体そんなことをして何になるのかと言われるようなものかも知れません。けれども、本当に人を生かす力というものは、「あなたは決して見捨てられてなどいない。不用な者などではない」「あなたは尊くかけがえのない存在だ」という声ならざる声でありましょう。この声を聞き取り伝える働きをNさんは召命と受けとめておられました。彼女は70歳近くで、自分は天涯孤独などとおっしゃっていましたが。その彼女、「私はこの働きは信仰を基盤にしているから出来るんのよ」とも言われていました。
主の「幸いなるかな!」との恵みを受け取った人は、その幸いを誰かと分かち合う者とされているんですね。
イエスさまは、今日この「幸いなるかな」との福音、救いのメッセージを、私ども一人ひとりに与えて下さいます。今度はその福音を受け取った私が、あなたが、誰と、どのようにそれを分かち合っていくのかと、そのことをイエスさまは期待しておられます。
この「幸いなるかな」とのメッセージを持って主が示される人のかたわらに主イエスと伴い行き、とりなし、祈りることができますように。
痛みを知るからこそ出来ることがあります。主にあっていつも謙虚にされつつ、主のみ業に参与し、「幸いなるかな」との福音を一人ではなく共に分かち合っていきましょう。