日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

「すべての民の祈りの家」

2022-02-27 17:28:57 | メッセージ

礼拝宣教 マルコ11章12~26節    

報道等でご存じのように、24日ロシアの一方的な軍事力によるウクライナへの侵攻、今や侵略という戦争行為が起こり深刻な事態となっています。戦闘機による空爆、ミサイルやロケット弾、戦車による砲撃などにより、市民までも巻沿いに遭い多くの血が流されています。憎しみの連鎖が起こることを懸念します。ニュースや新聞報道をただ見て、なにもできず手をこまねいているしかないのか、いたたまれない思いです。恐れと不安のただ中におられる方がたの状況に胸が痛みます。国際連合は第二次世界大戦を防ぐことができなかった国際連盟(1919年-1946年)の反省を踏まえ、つくられた組織ですが、その果たすべき役割をしっかりと果たすどころか、加盟国ロシアが拒否権を表明し、問題が暗礁に乗り上げている状態です。対岸の火事とは決して言えない時代の流れを感じます。こうした先行きが見えない中で、先日ロシア国内から多くの市民が反戦の声をあげ平和を訴えるデモと集会が行われているということをニュースで知り、ロシアの市民の中にこうした人たちがいることに希望を見た思いでした。暴君に対しては武力によるのではなく、民の不支持の方が効果的であり、かつてのベトナム戦争もアメリカ国内の反戦の高まりで終わりました。この反戦の世論の高まりが世界中に広がっていくことを願い、戦争が終ることを信じ、祈ります。

 

主イエスは時を見分けるのに、今日の箇所とは別のマルコ福音書13章でこう仰せになりました。

「いちじくの木の教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていることを悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコ13:28-31)

主の御言葉に信頼し、聞き従っていくものとされていきたいと願います。

 

本日はマルコ福音書11章12-26節の御言葉から聞いていきます。

ここには、主イエスが、葉ばかりが繁りなんら実のなっていないいちじくの木をご覧になられて、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われたその翌朝には、その木が根本から枯れてしまう、という出来事が伝えられています。

それは実りの季節ではなかったのですから、どこか理不尽な気もいたしますが。ただ、食べ時のものとはいかなくとも、過ぎ越しの祭りのあたりなら、小ぶりの実をつけることはあるようです。

けれど、このいちじくは葉ばかりが茂り小さい実が1つも無かった。それは形だけの繁栄のエルサレム、その神殿の有様が重ねられていたのです。

そこには、主イエスが思いがけない時に来られ、その実りをたとえ小さくとも見出すことが出来るかを期待なさるのですが、小さな実である主への信仰の1つも見あたりません。形ばかり祈りと礼拝がささげられる神殿はあたかも実のない木のようであり、その崩壊が近いであろうことをこの出来事から主イエスは示しておられるのです。

「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人びとを追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。」

いわゆるこれが、主イエスの「宮清め」であります。

日本の神社仏閣でも、商売は参道までのところと境内の中で売り買いしているところがあるようですが。それはともかく、福音書の中で、主イエスがここまで激しく公然と行動なさる記事は他にありません。

神殿境内での売買では、犠牲のいけにえとする動物を持ってくることが難しい外国からの巡礼者たちに鳩などの動物を売り、又そのために外国通貨をユダヤ通過に両替する人たちがいたということです。又、祭司や律法学者たちはそれを容認し、そういったやり取りで賑っている境内の有様を神殿の繁栄と捉えていたのでしょう。あの葉ばかりが茂る実の無いいちじくのように。

そこで、主イエスは、「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』「ところが、あなたたち(商人や祭司や律法学者たち)は、それを強盗の巣にしてしまった」と厳しく叱責なさるのであります。

その「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」とのお言葉は、預言者イザヤをとおして語られたイザヤ書56章7節からの御言葉でありました。その6節から読みますと、「主のもとに集まって来た異邦人が主に仕え、主を愛し、その僕となり・・・わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』」と、あるその御言葉を主イエスはここでお用いになっているのです。境内にはその聖書の御言葉に導かれ、旅費を工面して苦労をしながら何とかエルサレムの神殿に辿り着いた巡礼者たちがそこにいたのではないかと想像いたします。

そんな巡礼者の信心を食い物にするような力が渦巻いている神殿は、神の家、「すべての国の人の祈りの家」からほど遠いものでした。深刻なのは、そのようなユダヤの政治的権力まで有する宗教的指導者たちが、まるでインバウンドに浮かれた観光地のようになっているその状況を支えていたということであります。彼らは律法を守り教えているようであっても、その心奪われ、浮かれた日々の中で、いつの間にか名声や富を得ることに貪欲になっていったのではないでしょうか。それはキリストの教会にあっても気をつけなければならないことに違いありません。当初は神にささげる思いで始めたことが、人の思いにすり替わっていくことに怖さがあります。

18節「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである」と、あります。

彼らは自分たちの形式的で悪しき態度を悔い改めようとしません。それどころか主イエスに対して妬みと憎悪の念を抱き、亡き者にしようと謀るのです。群衆の心が主イエスに向うことで自分たちの立場が危うくなってしまうことを恐れたからです。彼らは自らの信仰を吟味せず、罪を認めて、悔い改めることもしません。

ところでヨハネ福音書の2章にも主イエスの宮清めが、ユダヤの過越しの祭りを前に起こったエピソードとして記されています。

そこでは、主イエスの宮清めを見たユダヤ人たちが、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日目に立て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿を建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日目で立て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(ヨハネ2:20-22)と、記されています。

それは、すべての人間の罪を主イエスが十字架によって贖われて死んで、その3日後に死よりよみがえられたことによって、すべての人のための救いの業を完成されたことを表しています。

ヨハネの福音書には、弟子たちが主イエスの復活の際に、主イエスの言われたお言葉を思い出し、「主イエスの語られた言葉を信じたということが記されてあり、その復活の証人となった主イエスに従う人たちの信仰によってキリストの教会が建て上げれていくのです。

私たちも又、主イエスにおける救いの信仰によってこの礼拝をお捧げしているという事であります。

 

マルコの福音書に戻りますが。本日の後半の20節以降で、主イエスは「枯れたいちじくの木の教訓」から「信仰と祈り」について説かれます。

「翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧下さい。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」

ペトロが注目したのは、主イエスが語ろうとされた事ではなく、主イエスの「お言葉の力」でした。

そこで、主イエスはペトロ、弟子たちすべてに言われます。以下明快な岩波訳聖書でお読みします。

22節「神への信仰を持て。アーメン(まことに)。わたしはあなたたちに言う、この山に『引き抜かれて、海に投げ込まれてしまえ』と言い、その心の中で疑わず、ただ語ることは生じると信じる者には、そのようになるだろう。このために、わたしはあなたたちに言う、あなたたちの祈り、かつ求める一切のことは、受け取ったものと信じよ。そうすれば、あなたたちにそのようになるだろう。」

祈りの核心は、自分がどれだけ熱心に「信じます」と力強く叫ぶかにかかっているのではなく、自分が祈っていることを聞いてくださるお方を信じることです

先週の宣教「信仰に基づく祈り」に対してのうれしい応答が、山形におられるOさんから寄せられました。くわしくは週報の表面に載せていますが。その聖書のエピソードは、こどものいやしを求める父親が、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」と言うと、主イエスが「できれば」と言うのか。信じる者には何でもできる」とおっしゃいます。

そのことを受けてOさんは次のような応答の言葉と感謝をお寄せ下さいました。

「イエス様のできればというのか」とのお言葉にドキッとしました。重い皮膚病の人を癒やされたり、様々な病気を癒やされた事が聖書に記されていますが、10年以上も苦しんでいると今の時代に生きているわたしは、全身全霊で信じられないでいました。教会の皆さまが私の事を覚え信じて、お祈り下さっているのにすみませんでした。信じます。信仰の無い私を助けて下さい、心から思わされました。」

自分の存在を丸ごと、主の方へ向きを変え、主に委ねていく。そこからしか得られない救いの真実を受け取って歩み出そうとなさっている、その尊いお証しであります。自分の存在を丸ごと主の方へ向き直り、歩んで生きる人は神さまとのつながりを戴いている幸いな人であります。

主イエスは、さらに祈りについてこのように説かれます。

「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

ちなみに、二次的な写本にはこの後「しかし、もしあなたたちが赦さないならば、天にいるあなたたちの父も、あなたたちの過ちを赦さないだろう」と、あるそうですが。

いずれにしろ、主はこの祈りを通して、罪の縄目にからめとられている私自身が解き放たれる、とお教えになっておられるのです。

私自身がどれほど許せないまま、受け入れないまま生きているでしょうか。あの人のあの言葉、行いや態度、又自分自身に対してもゆるせない思い、罪悪感で苦しんでいるのです。

主は、今日「あなたの罪は赦されている」と宣言なさいます。

すべての人の罪を贖い、和解と解放をもたらすため十字架に死なれた主イエスは、3日後死よみがえられ、すべての国の人を招く生ける神殿となられた。復活された主イエス・キリストのうちに、私たちを生かす信仰と祈りの力が充ち満ちています。私たち一人ひとりも又、どんなときもこの主を信じ、絶えず祈り、喜びと感謝に満ち溢れる生けるキリストのみ体なる教会とされてまいりましょう。

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「信じます。信仰のないわたしをお助けください」

2022-02-20 15:04:31 | メッセージ

礼拝宣教    マルコ9章14~29節

 

本日はマルコ9章14-29節の御言葉から聞いていきます。

ペトロとヤコブとヨハネの3人を連れて高い山に登っていた主イエスが他の弟子たちのいるふもとに戻って来られます。すると、待っていた弟子たちが大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していました。群衆は皆、主イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶します。

主イエスが「何を議論してしているのか」と、弟子たちと律法学者たちに尋ねますと、彼らではなく、悪霊に取りつかれた息子の父親が代わりに答えます。

彼は息子のいやしを求めて主イエスのもとを訪ねたのですが、肝心の主イエスは山に登られてそこにおられなかったので、残っていた弟子たちに悪い霊を追いだしてくれるようにと願ったのですが、この時弟子たちは悪霊を追い出すことができなかったのです。

この時はと言いますのは、その前の3章にありように、主イエスは弟子たちの中から12人を任命し、「彼らを自分のそばにおくため、又派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせる(3:14-15)のであります。実際その遣わされた村々で弟子たちは主イエスから受けた権能をもって多くの悪霊を追い出すのです(6:12-13)。けれども今回それができませんでした。

そこで、そこに居合わせた律法学者たちが悪霊を追い出すことができなかった弟子たちに議論をふっかけ、あわよくば主イエスなど信用できないと群衆を説得しようとしたのかも知れません。

律法学者たちから議論をふっかけられた弟子たちは、自分たちには非がないことを主張し、自分たちの正しさや立場を守ろうとすることに必死であったのではないでしょうか。山からお帰りになられた主イエスのことなど気づくことなく、ひたすら律法学者たちと議論に熱中していた弟子たちがそこにいました。そこには悪霊を追い出すことが出来たというような自分の経験を誇りたかぶり、頼みとしていたからです。その周りにいた群衆は、山から帰って来られた主イエスを見つけて駆け寄り、挨拶したとあります。そのひたすら主イエスにより頼もうとする姿は、弟子たち対照的でした。

 

さて、ここで父親の説明をお聞きになった主イエスは、「なんと信仰のない時代なのか」と投げかけられます。

それは、その場にいた人たちみながそれぞれの立場で問われることであったでしょう。それは私たちも又、そこにいた人同様問われているのです。

 

その根本的な問題は「信仰がない」ということだと、主イエスは指摘されます。

弟子たちはさぞかしドキッとしたことでしょう。けれどもその次の主のお言葉にこの親子だけでなく、弟子たちも救われるのです。それはさらに私たちも又救われるのであります。「その子をわたしのもとに連れてきなさい.。」

1月23日の礼拝では、ユダヤの地で5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人たちを主イエスが養われた記事(6章)を読みました。さらにその後、今度は異教の地において7つのパンと少しの魚で4千人以上の人たちを主イエスが養われた(8章)記事が続きます。僅かなパンと魚とを取り、賛美の祈りを唱え、裂いて配るとみんなが満腹し、残ったパンの屑をかごに集めてもまだ有り余るほどあったあった、その主イエスの養いの出来事を弟子たちは目の当たりにします。

そして、その直後の8章14節以降に記される、次のようなエピソードが報告されています。

「弟子たちはパンをもって来るのを忘れ、舟の中には1つのパンしか持ち合わせていなかった。そのとき、イエスは『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい』と戒められます。ファリサイ派やヘロデのパン種とは、人の力を誇りそれを頼みとする高慢と言ってもよいでしょう。そのような人間の罪を膨らます思いにあなたがたは気をつけなさいと、おっしゃっているのです。

ところが、弟子たちは「これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。まあ、弟子たちはそのファリサイ派やヘロデのパン種の意味する事がわからなかったのです。本日の箇所においても、悪霊を追い出すことが出来なかった弟子たちは律法学者たちと議論し合っていますね。

イエスはそれに気づいて言われた。『なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのかと、これまた嘆かれるのですが。主イエスはここでも忍耐強く弟子たちを諭して、「覚えていないのか。わたしが5千人に5つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。』弟子たちは『12です』と言った。『7つのパンを4千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか』『7つです』と言うと、イエスは、『まだ悟らないのか』と言われた」。そのように主ご自身をとおして顕される神の御業に信頼するようにと導かれるのです。まさに主イエスへの信仰が問われているのです。

「自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた」弟子たちの姿は、本日のところでも、主イエスがそばにおられるのに気づきもせず議論に熱中しているというように、何ら変っていないのです。どれほどの体験をしても、たとえしるしを目にしたとしても、人は弱く目の前の状況に揺れ動かされ、流されてしまいやすいものなのです。自分の力、自分の知識、経験、持てるもので何とかせねばともがき、泥沼でもがけばもがくほどずぶずぶと沈んでいく、それが私たち人間です。そのような私たちに主イエスは愛と忍耐をもって、固く信頼するようにと諭し、招いておられるのです。その恵みにまっすぐに応えていきたいと、私自身日々願い祈るものであります。

 

さて、主イエスがその子を御自分のもとに連れて来させると、悪霊は子どもを地面に引きつけさせます。父親の心境はいかばかりであったでしょう。主イエスはその父親と一対一で向き合われます。

並行記事のマタイやルカの両福音書では、父親との対話は記されていません。このマルコの福音書は父親と主イエスとの対話をとおして、「信仰」とは何かを丁寧に解き明かしているのです。

この父親は主イエスに、「おできになるなら、わたしどもをお助けください」と言います。幼い時からずっとそのようであったということですから、父親はどれほどの思いで神に願い続けて来たことかと想像します。自分が罪深いからか。自分はどれほど神の恵みからほど遠いことか。律法を何とかして守るだけ守れば神は顧みてくださるだろうか。しかしどんなに頑張ってみても悪霊は出て行きませんでした。何とかして頂けるかも知れないと連れて来たものの、弟子たちでは状況は変わらず、何もできなかったのを見た彼は、「おできになるなら」と言ってしまう思いになっていたのかも知れません。

 

その父親の願いに主イエスは厳しい語調で、「『できれば』と言うのか。信じる者には何でもできる」と宣言なさいます。

「~たら、れば」は信仰ではありません。不可能は主イエスの側にではなく人の側にあったのです。そのように厳しく言われたのは、主イエスがこの父親の信仰を立てるためであったのです。それは又、主イエスのそばにいた弟子たち又、その場にいたすべての人の信仰を立てるためでもあったのです。

今の時代も主イエスが仰せになられた不信仰な時代といえますが。国内外に目を向けますと罪と不信による憎しみ争いは未だに絶えません。ほんとうに主イエスの時代も今日の時代も何も変っていません。私たちも又、この主イエスのお言葉に目を覚まされる思いです。

 

すると、父親ははすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。

一方で「信じます」といいながら、一方で「信仰のない」という言葉は相反しているようにも読めますが。最初の「信じます」は主イエスに全幅の信頼をもって依り頼んで行くということです。又「信仰のない」とは、自分を救い得る力が自分にはないということです。

この父親は、そんなわたしをお助け下さいと叫ぶのです。実はそれが「信仰」なのです。私たちも今日主イエスと向き合い、信頼をもって一緒に叫びましょう。「主よ、信じます!信仰のないわたしを助けてください。」

 

最後に、弟子たちが主イエスに「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねると、主イエスは次のようにお答えになります。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」

この種のものとは、神への不信を起こさせるような私事をはじめ様々な世の事象や物事のことです。

祈りなくして主への信頼、信仰は得られません。又主への不信仰は祈りなくして追い出すことはできません。この「祈り」はまさに「信じます」に基づいた信仰の祈りなのであります。

主に信頼をもって願う祈りを主は聞いておられます。主は今も生きておられます。

信仰に基づく活き活きとした祈りを日々捧げ、主により頼みつつ、主と共に歩んでまいりましょう。

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「あなたは、わたしを何者だというのか」

2022-02-13 14:11:29 | メッセージ

礼拝宣教 マルコ8章27~38節 

 

本日の聖書箇所において、主イエスと弟子たち一行はフィリポ・カイサリア地方に向います。そこはユダヤの地でありますがバアルの神々などが祀られ、偶像に満ちていました。 

その近くにはヘロデ大王が建てたローマ皇帝アウグストゥスの神殿があったのです。ローマ・ギリシャ文明とパレスチナ文化が入り混じるカイサリアの地。2000年にイスラエル旅行をした折、ガリラヤ湖東岸から西岸を眺めると、美しい山間に臨むこのカイサリアの街並みを見たときの事が思い起こされました。主イエスは弟子たちとその方々の村々にお出かけになるのです。

 

その途中、主イエスは弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか?」とお尋ねになります。

弟子たちは口々に、「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」と言う人たちがいると答えます。民衆は、主イエスのことを神から遣わされた遣わされた旧約の預言者たちと重ねて見ていたということであります。それは又、ローマの支配下による抑圧から解放してくださるダビデ王のような勇ましい政治的統治者を待望する民も多くいたのです。

 

そこで主イエスはがお尋ねになります。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」

みなさま方の中でご家族がクリスチャンであったという方もおられるでしょう。しかし大半は家が無宗教であるとか、家の宗教が仏教や神道であったり、様々な背景のなかでご自分だけが教会に行き始めるようになってキリスト教の福音と出会い、主イエスを信じるようになられたという方も多いのではないでしょうか。

日本のクリスチャン数は総人口の1パーセントくらいと言われています。日本においてキリスト教と出会う場合、こうした異教的な環境の中でキリスト教と出会うわけであります。

そういう日本においても多くの人がキリスト教への関心や興味を持っていると思えますが。本当にイエス・キリストを信仰の対象として信ずるに至るその道のりは狭い門といえるのかも知れません。今も世界で一番読まれている書物のベストセラーは聖書であり、世界中の人に読み親しまれております。日本でも聖書に対する世間の人たちの見方やキリスト教会への印象はそんなに悪くはないと思います。どこの本屋でも聖書をはじめ、キリスト教についての様々な入門書や信仰書も書棚に並び、手にすることもできます。又、ギデオン協会のご尽力により、実に多くの聖書が学校、病院、ホテルにも配布されてきました。日本のミッションスクールで聖書を読み、学ぶ機会があったという方も多くおられます。

それでも、「では、あなたにとってイエス・キリストはどのようなお方か」と言う、まさに聖書の核心的な問いかけに対して、答えを持ちあわせている人は少ないというのが現状であります。

世間がどうこう言っているキリスト教、本や参考書に書かれているような一般的な知識としての答えではなく、「あなたはわたしを何者だと言うのか?」という、天地万物の創造主、救い主なる神が私に向けられた個人的な問いかけが、ここには語られているのであります。

本日は、フィリポ・カイサリアの人々と同じように異教的な文化の中で暮らす私が、どうこの問いかけに応えて生きるか。本日はこのところから御言葉に聞いていきたいと思います。

 

さて、弟子の筆頭格であったペトロはそのイエスさまの問いかけに対して、「あなたは、メシア(救い主)です」と答えます。彼は「わたしにとってイエスは救い主です」と、そう言い表すのです。

ところが、主イエスはなぜかここで、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められます。それは実に不可解に思えます。だれもが「イエスはメシアである」と知ったほうがよいはずです。しかしそこには訳がありました。

 

31節にあるように、「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と、ペトロはじめ弟子たちにはっきりと、御自身の受難告知をなさいます。

すると、それを聞いたペトロは「そのイエスさまをわきへお連れして、いさめ始めた」(32節)とういうのです。「いさめる」とは、主イエスに対して「あなたは間違っていますので改めてください」と、そう忠告したということです。

 

先ほど、「あなたは、メシアです」と告白したペテロでしたが。主イエスが言われるようなことは決してあってはならないという自分の強い心情による思いからでしたが、それはイエスさまのご意思を否定するようなことであったのです。

この後、主イエスはエルサレムに入城し、十字架の贖いの業を成し遂げられることによって神の御救いをうち立てられるのですが。ぺトロはじめ他の弟子たち、さらにユダヤの民衆は解放をもたらす強い統治者としてのメシア像を持っていたのです。

 

33節で「主イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」。

当然ながらこの時はまだ十字架の苦難による救いなど到底理解できないペトロはじめ弟子たち、又群衆であったのです。

だから、主イエスはペトロに対して、ご自分がメシアであることについて「まだだれにも話さないように」とおっしゃったのです。

 

この後の24節以降においては、主イエスは弟子たち、さらに群衆をも呼び寄せて、ご自分が神からお受けになろうとしておられる十字架の道に重ねつつ、神の御心に生きる心構えを説かれます。

「わたしの後に従いたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。

ここでは自分「捨て」と訳されていますが、岩波訳は自分自身を「否み」と訳されています。けれど、どちらにしても人にはなかなかできないことです。なにか自分の命がすり減っていくような気さえする。

そんな人の思いを見抜かれる主は続けて、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と、諭されます。

 

ここでは2つの「命」が語られていますが。その1つはこの地上の命であり、もう1つは永遠の命であります。ここを読んだとき、殉教ということを思い浮かべる方もいるかも知れませんが。大切なのは、死ぬことそのものにあるのではなく、人の思いに優る神の御心に従うことにこそ、永遠の命に至る幸いがあることが、ここで語られているのです。

 

さて、ペトロは先ほど申しましたがこの時点で、救い主(メシア)がどのような形で救いの業を成就されていくのかまで知るよしもなかったのです。だからこの主イエスの受難告知に躓いてしまうのです。

ペトロといえば確かにイエスさまの愛弟子、筆頭格の弟子でありましたけれども。その彼のあゆみを辿って観てみますと、彼の実直な性格とともに弱さや優柔不断さ、又失敗や挫折までも赤裸々に容赦なく福音書には記されています。

今日のこのペトロの信仰告白というのも岩のように頑丈であるとはいえず、むしろもろく砕けやすい不完全なものであったと言えます。口でいくら立派な主告白をしても、自我の思いを優先させ、神の御心を受けとめることができないとんちんかんな過ちを繰り返すようなペトロと弟子たち。

けれど彼らを決して笑うことは出来ません。私の中にもそういうところがあるからです。

しかしそのペトロは、主イエスの十字架を前にして本当に自分の無力さ、優柔不断さ、弱さに打ちのめされるのです。

主イエスは、そのようなペトロが立ち直ったら他の弟子たちを力づけ、神の福音のために力強く働く者となるようにと望み、信じ、執り成し祈られていたのです。

さらに、十字架の死よりよみがえられた主イエスはこのペトロと出会い、「わたしの羊を飼いなさい」と、使徒として新たなる召命に招かれました。こうして彼は神の御心こそなるようにと、自分を捨て、自分の十字架を負って生きる人生を歩き始めるのです。

このペトロの新しいあゆみは、まさに主イエスの十字架上の愛とゆるしの執り成しによるものでありました。ペトロ同様私たちも又、この「主イエスがいなけば」、人の思い、肉の思い、罪に滅びる外ない者であります。

人の思いに優る神の御心に従うことにこそ、永遠の命に至る幸いがある。私たちもまた、主の永遠の命に向けた歩みを日毎に選びとって、主に従い行きたいと願うものであります。

唯、主イエスの十字架こそが、私たちに神の御心に生きる道を示し、神に従い行く永遠の命に至る歩みをなさせたもう生ける力なのです。

今週もこの主の招きに聞き従いつつ、喜びと希望をもって主の命の道を歩み続けてまいりましょう。

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目を覚ましていなさい

2022-02-06 14:48:31 | メッセージ

礼拝宣教 マルコ13章32~37節

 

この13章の始めで、エルサレムの神殿を目の当たりにした主イエスの弟子の一人が、「ご覧下さい。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と主イエスに言います。すると主イエスは、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)とおっしゃいます。

この主イエスのお言葉を聞いた弟子はいったい何のことを言われているのかと、ちょっと不安になったのでしょう。主イエスに、「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんなしるしがあるのですか」と、尋ねます。

すると、主イエスはその弟子たちの質問に対して、終末、世の終りを前にして起こる数々の諸現象や苦難についてお語りになります。「キリスト(救い主・メシア)の名を騙る者が大勢出現するので、「人に惑わされないように気をつけなさい」。又「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるにきまっているが、まだ世の終りではない。民は民に、国は国に敵対してたちあがり、方々に地震があり、飢餓が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」とも仰せになります。

 

まあそれらは歴史の上で幾度も繰り返し起こってきたことであります。近年強いリアリティーをもって響いてまいります。けれども大事なのは、「そういううわさを聞いても慌ててはならない」「まだ終わりではない」(7節)ということであり、その結語として「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9節)とおっしゃっていることです。キリストと一対一の関係性こそが重要なのです。

24節以降においては、その終末についての核心を主イエスは次のようにお語りになります。

「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」。

終末や世の終りというと人類の破滅や滅亡の絶望的状況ばかりが頭に浮かんでくるかも知れません。しかし聖書は、その時こそキリストは再びお出でになり、神の支配と権勢が現わされるというのです。ここにキリストにある希望が語られているのです。

かのすばらしい石で築かれたすばらしい建物、エルサレム神殿は、それから数十年後の「ユダヤ戦争」におけるローマ帝国によって主イエスのお言葉どおり、石の上に石が残ることがないほど壊滅し、ユダヤの民は離散することとなってしまうのであります。

 

さて、本日の箇所は32節以降の世の終り、主の再臨の日時について主イエスが、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子(主イエス)もしらない。父(神)だけがご存じである」と仰せになったところからでありますが。

ここで最も強調されているのは、「目を覚ましていなさい」という事であります。主イエスがここで「目を覚ましていなさい」と4度も繰り返し強く命じられている、それはいったいどういう意味があるのでしょう。

 

そのことを説明するために主イエスは例話をお用いになります。

34節「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておいたようなものだ」。

「家の主人」は主イエス。「旅に出て」とは主イエスが地上の御業を成し遂げられて天に昇られたことを意味し、その間、僕たちや門番である聖徒たちは家の主人が再び帰って来るまで、それぞれの任務を託されます。

ところが、いつ家の主人が帰って来るのかわかりません。夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、それはわからないのです。目を覚ましていなければ「主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない」と、主イエスはおっしゃいます。

 

この例話から「世の終り」すなわち「主の再臨」についてのポイントが2つあります。

1つ目は「その日、その時は誰も知らない」という点であります。

驚きますのは、主イエスは「その日、その時は『子』も知らないと。つまりイエスさま御自身ですら知らないとおっしゃっているのです。

先日ニュースで、海底火山の爆発はこれほど科学が進歩してもまったく予想がつかないと言っていましたが。この終わりの時は、だれしも、イエスさまであってもわからないのです。

先のところでも、世の終りの前兆、しるしとしてキリストや救世主を騙る者が多く出現するので、人に惑わされないように気をつけなさいと、主イエスは言われていますが。ここでも主イエスは最初に、「気をつけて、目を覚ましていなさい」とお命じになっています。

それは、如何に世の終りの前兆と思えるような事があったとしても、まず一人ひとりが主の御前にあって、主を見失うことのないように気をつけて、目を覚ましているように努める、ということなのであります。

 

2つ目のポイントは、「その日、その時」が「夕方」「夜中」「鶏の鳴くころ」「明け方」とあることです。その4つの時間帯に日中はありません。これは夜を4つに分けたローマ式の時間配分だそうですけれども。まあイエスさまの住まれたユダヤの日常において、旅行者たちがそんな暗い中に帰宅することはまずないことなので、本当におもいがけない時に帰って来られるということを言い表しておられるわけです。

では、それならばずっと目を覚まして生き続けなければならないのか。いつも緊張し続けていければいけないのか。それはしんどくて疲れると、思われる方もおられるかもしれません。

けれど人生の暗闇の夜に思える中で、やがて主なるイエスとお会いできる時を思うとき、その信仰によって私たちは世にはない希望を見出すのです。

本日は後ほど主の晩餐がございますが。主が再びお出でになるまで、キリストのからだなる教会は代々に亘り、その主の救いの希望に対して目を覚まして記念し続けているのであります。

私は今日のこの箇所から、文字通り「目を覚ましていなさい」という宣教題をつけました。復活の主イエスは今、天に昇られておられますが。私たちに主の霊、聖霊をお送りくださり、時空を越えて、私たちとつながり、共にいてくださるお方なのであります。

やがて来るべき主の日、主と顔と顔を合わせるその日を待ち望んでいる私たちにとりまして、その日に向けた1日1日が、すでに終末であり、その希望に生きることができるのです。

 

主イエスは、最後に弟子たちにこう言われます。

37節「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」。

この主イエスのみ約束とみ教えは、世界中のすべての人、この日本に住む私たちにも与えられた大いなる希望なのです。

先にS・Kさんの証しを伺いました。ウルグアイにおいて救われ、遠い異国のこの日本に住む人たちと主の福音を分かち合っていきたいとの、宣教のビジョンをもって誠実に歩んでおられる姿に本当に励まされています。

私たちも日々主のみ教えに聞き、たとえ人生の暗闇の夜におかれましても、目を覚まして、どのような時も主が共におられる希望の信仰を戴きつつ、歩んでまいりたいと願うものです。

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