礼拝宣教 マルコ11章12~26節
報道等でご存じのように、24日ロシアの一方的な軍事力によるウクライナへの侵攻、今や侵略という戦争行為が起こり深刻な事態となっています。戦闘機による空爆、ミサイルやロケット弾、戦車による砲撃などにより、市民までも巻沿いに遭い多くの血が流されています。憎しみの連鎖が起こることを懸念します。ニュースや新聞報道をただ見て、なにもできず手をこまねいているしかないのか、いたたまれない思いです。恐れと不安のただ中におられる方がたの状況に胸が痛みます。国際連合は第二次世界大戦を防ぐことができなかった国際連盟(1919年-1946年)の反省を踏まえ、つくられた組織ですが、その果たすべき役割をしっかりと果たすどころか、加盟国ロシアが拒否権を表明し、問題が暗礁に乗り上げている状態です。対岸の火事とは決して言えない時代の流れを感じます。こうした先行きが見えない中で、先日ロシア国内から多くの市民が反戦の声をあげ平和を訴えるデモと集会が行われているということをニュースで知り、ロシアの市民の中にこうした人たちがいることに希望を見た思いでした。暴君に対しては武力によるのではなく、民の不支持の方が効果的であり、かつてのベトナム戦争もアメリカ国内の反戦の高まりで終わりました。この反戦の世論の高まりが世界中に広がっていくことを願い、戦争が終ることを信じ、祈ります。
主イエスは時を見分けるのに、今日の箇所とは別のマルコ福音書13章でこう仰せになりました。
「いちじくの木の教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていることを悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコ13:28-31)
主の御言葉に信頼し、聞き従っていくものとされていきたいと願います。
本日はマルコ福音書11章12-26節の御言葉から聞いていきます。
ここには、主イエスが、葉ばかりが繁りなんら実のなっていないいちじくの木をご覧になられて、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われたその翌朝には、その木が根本から枯れてしまう、という出来事が伝えられています。
それは実りの季節ではなかったのですから、どこか理不尽な気もいたしますが。ただ、食べ時のものとはいかなくとも、過ぎ越しの祭りのあたりなら、小ぶりの実をつけることはあるようです。
けれど、このいちじくは葉ばかりが茂り小さい実が1つも無かった。それは形だけの繁栄のエルサレム、その神殿の有様が重ねられていたのです。
そこには、主イエスが思いがけない時に来られ、その実りをたとえ小さくとも見出すことが出来るかを期待なさるのですが、小さな実である主への信仰の1つも見あたりません。形ばかり祈りと礼拝がささげられる神殿はあたかも実のない木のようであり、その崩壊が近いであろうことをこの出来事から主イエスは示しておられるのです。
「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人びとを追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。」
いわゆるこれが、主イエスの「宮清め」であります。
日本の神社仏閣でも、商売は参道までのところと境内の中で売り買いしているところがあるようですが。それはともかく、福音書の中で、主イエスがここまで激しく公然と行動なさる記事は他にありません。
神殿境内での売買では、犠牲のいけにえとする動物を持ってくることが難しい外国からの巡礼者たちに鳩などの動物を売り、又そのために外国通貨をユダヤ通過に両替する人たちがいたということです。又、祭司や律法学者たちはそれを容認し、そういったやり取りで賑っている境内の有様を神殿の繁栄と捉えていたのでしょう。あの葉ばかりが茂る実の無いいちじくのように。
そこで、主イエスは、「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』「ところが、あなたたち(商人や祭司や律法学者たち)は、それを強盗の巣にしてしまった」と厳しく叱責なさるのであります。
その「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」とのお言葉は、預言者イザヤをとおして語られたイザヤ書56章7節からの御言葉でありました。その6節から読みますと、「主のもとに集まって来た異邦人が主に仕え、主を愛し、その僕となり・・・わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』」と、あるその御言葉を主イエスはここでお用いになっているのです。境内にはその聖書の御言葉に導かれ、旅費を工面して苦労をしながら何とかエルサレムの神殿に辿り着いた巡礼者たちがそこにいたのではないかと想像いたします。
そんな巡礼者の信心を食い物にするような力が渦巻いている神殿は、神の家、「すべての国の人の祈りの家」からほど遠いものでした。深刻なのは、そのようなユダヤの政治的権力まで有する宗教的指導者たちが、まるでインバウンドに浮かれた観光地のようになっているその状況を支えていたということであります。彼らは律法を守り教えているようであっても、その心奪われ、浮かれた日々の中で、いつの間にか名声や富を得ることに貪欲になっていったのではないでしょうか。それはキリストの教会にあっても気をつけなければならないことに違いありません。当初は神にささげる思いで始めたことが、人の思いにすり替わっていくことに怖さがあります。
18節「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである」と、あります。
彼らは自分たちの形式的で悪しき態度を悔い改めようとしません。それどころか主イエスに対して妬みと憎悪の念を抱き、亡き者にしようと謀るのです。群衆の心が主イエスに向うことで自分たちの立場が危うくなってしまうことを恐れたからです。彼らは自らの信仰を吟味せず、罪を認めて、悔い改めることもしません。
ところでヨハネ福音書の2章にも主イエスの宮清めが、ユダヤの過越しの祭りを前に起こったエピソードとして記されています。
そこでは、主イエスの宮清めを見たユダヤ人たちが、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日目に立て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿を建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日目で立て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(ヨハネ2:20-22)と、記されています。
それは、すべての人間の罪を主イエスが十字架によって贖われて死んで、その3日後に死よりよみがえられたことによって、すべての人のための救いの業を完成されたことを表しています。
ヨハネの福音書には、弟子たちが主イエスの復活の際に、主イエスの言われたお言葉を思い出し、「主イエスの語られた言葉を信じたということが記されてあり、その復活の証人となった主イエスに従う人たちの信仰によってキリストの教会が建て上げれていくのです。
私たちも又、主イエスにおける救いの信仰によってこの礼拝をお捧げしているという事であります。
マルコの福音書に戻りますが。本日の後半の20節以降で、主イエスは「枯れたいちじくの木の教訓」から「信仰と祈り」について説かれます。
「翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧下さい。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
ペトロが注目したのは、主イエスが語ろうとされた事ではなく、主イエスの「お言葉の力」でした。
そこで、主イエスはペトロ、弟子たちすべてに言われます。以下明快な岩波訳聖書でお読みします。
22節「神への信仰を持て。アーメン(まことに)。わたしはあなたたちに言う、この山に『引き抜かれて、海に投げ込まれてしまえ』と言い、その心の中で疑わず、ただ語ることは生じると信じる者には、そのようになるだろう。このために、わたしはあなたたちに言う、あなたたちの祈り、かつ求める一切のことは、受け取ったものと信じよ。そうすれば、あなたたちにそのようになるだろう。」
祈りの核心は、自分がどれだけ熱心に「信じます」と力強く叫ぶかにかかっているのではなく、自分が祈っていることを聞いてくださるお方を信じることです。
先週の宣教「信仰に基づく祈り」に対してのうれしい応答が、山形におられるOさんから寄せられました。くわしくは週報の表面に載せていますが。その聖書のエピソードは、こどものいやしを求める父親が、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」と言うと、主イエスが「できれば」と言うのか。信じる者には何でもできる」とおっしゃいます。
そのことを受けてOさんは次のような応答の言葉と感謝をお寄せ下さいました。
「イエス様のできればというのか」とのお言葉にドキッとしました。重い皮膚病の人を癒やされたり、様々な病気を癒やされた事が聖書に記されていますが、10年以上も苦しんでいると今の時代に生きているわたしは、全身全霊で信じられないでいました。教会の皆さまが私の事を覚え信じて、お祈り下さっているのにすみませんでした。信じます。信仰の無い私を助けて下さい、心から思わされました。」
自分の存在を丸ごと、主の方へ向きを変え、主に委ねていく。そこからしか得られない救いの真実を受け取って歩み出そうとなさっている、その尊いお証しであります。自分の存在を丸ごと主の方へ向き直り、歩んで生きる人は神さまとのつながりを戴いている幸いな人であります。
主イエスは、さらに祈りについてこのように説かれます。
「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
ちなみに、二次的な写本にはこの後「しかし、もしあなたたちが赦さないならば、天にいるあなたたちの父も、あなたたちの過ちを赦さないだろう」と、あるそうですが。
いずれにしろ、主はこの祈りを通して、罪の縄目にからめとられている私自身が解き放たれる、とお教えになっておられるのです。
私自身がどれほど許せないまま、受け入れないまま生きているでしょうか。あの人のあの言葉、行いや態度、又自分自身に対してもゆるせない思い、罪悪感で苦しんでいるのです。
主は、今日「あなたの罪は赦されている」と宣言なさいます。
すべての人の罪を贖い、和解と解放をもたらすため十字架に死なれた主イエスは、3日後死よみがえられ、すべての国の人を招く生ける神殿となられた。復活された主イエス・キリストのうちに、私たちを生かす信仰と祈りの力が充ち満ちています。私たち一人ひとりも又、どんなときもこの主を信じ、絶えず祈り、喜びと感謝に満ち溢れる生けるキリストのみ体なる教会とされてまいりましょう。