礼拝宣教 マルコ2章18~22節
①「主イエスと共なる食卓」
今日の聖書の言葉を読み解く鍵は実は前の箇所のところにあります。イエスさまの弟子となった徴税人のレビの家で、イエスさまはレビの仲間や罪人と言われる人たち同席し、一緒に食事をしていました。ところが、その様子を見ていたファリサイ派の律法学者が、弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言って非難したというのです。
当時、徴税人は、高利貸し、行商人、皮なめし、羊飼いらと共に、公の職を得る事ができないばかりか、法廷で証言に立つことさえも認められていませんでした。又、ローマの手下という悪のレッテルを張られ、ユダヤの敵であり罪人と見なされていました。
しかし、主イエスはそのような徴税人のレビを招かれて、レビは神の国の救いを見出し、主イエスに従う者となったのです。その喜びからレビは家を開放し、イエスさまと弟子たち、そして自分の仲間たちで会食の場をもうけるのです。イエスさまは、罪人と言われる彼らと同席し、一緒に食事をなさいました。主の招きに応えた人々と共なる食卓は、天の国にある喜びと祝福の分かち合いの時を意味しているのです。
②「一緒にいる時」
さて、本日の箇所であります「断食についての問答」のエピソードですが、ユダヤの人々が「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」とイエスに問いかけたというのであります。当時、ユダヤの社会で、断食は宗教的な行事としてごく普通に行われていたものです。人々はここでイエスさまや弟子たちが断食していないと、と断定していますが。それは誤りでありました。イエスさまは断食について否定されてはいません。マタイ6章で「断食するときは、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする・・・あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである」とおっしゃっています。
こういう神との誠実な関係における断食を、イエスさまはなさり、弟子たちにも勧められ、実践していたのです。それはファリサイ派の人たちのように週の何曜日に行うとか決まりごとに則したものではなかったのです。ただその時の必要と神の招きに応えてなされ、「神と私」という関係においてなされたものでありましたから、人にはそれと気づかれないことが多かったのです。
ファリサイ派の人々やヨハネの弟子たち、そしてユダヤ人たちは、断食の形式や仕方を守り行おうとしないイエスや弟子たちを裁くのですが。むしろ形にとらわれ、「私は只今断食中です」と言わんばかりに顔つきを見苦しくする彼ら、「あなたは断食していな」と人を裁き優越感に浸る彼らは、どこか断食の本質を見失っていたのでしょう。
先程、イザヤ書58章を交読しましたように、6節「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。」10節「飢えている人に心を配り苦しめられている人の願いを満たす。」すなわち、そのような律法本来の精神を培い神に執り成すことこそ、神の望まれる断食だと聖書は語っているのです。しかし人はなかなか悟り得ないものであります。
イエスさまはそんな彼らの、「なぜあなた方は断食をしないのか」という問いに対して、次のようにお答えになります。
「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」
イエスさまはここで、「花婿が一緒にいるのに断食できない」ということを2度も繰り返し強調しています。
ここで言う「花婿が一緒にいる婚礼の時」というのは、イエスさまが罪人と言われている人や徴税人ら、世間から白い目でみられるような人を招き、何ら排除や差別することなく共に食卓をもって神の国にある喜びと祝福を分ち合われる、救いの時を言い表しています。このマルコの福音書の冒頭には、「イエス・キリストの福音の初め」「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とありますように、主イエスの招きによって神の国は到来し、あらゆる人々が神に立ち帰って生きる喜びと祝福あずかることとなったのです。それが婚礼の時にたとえられているのであり、この花婿は言うまでもなく救い主イエスのことであります。
イエスさまは、断食をはじめ律法を軽んじられたわけではありません。ただ、「婚礼の場に招かれ花婿が一緒にいる前で、断食などできやしない」と言っておられるのです。それをもう少し別の言い方をするなら、「こうして神の祝福から隔てられていた魂が神の国に招き入れられたことを、今わたしたちは本当に喜び合っているんだよ」というメッセージだと思うんですね。
聖書教育の中に次のような言葉を見つけました。
「聖書の物語を読むときのポイントの一つは、自分をどの登場人物に重ねてその話を聞くかにあります。今日の物語でいえば、バプテスマのヨハネの弟子たちやファリサイ派の学者たちの立場に自分を置けば、彼らの『イライラ、ムカムカ』がよくわかります。『自分たちはこんなに真面目に断食しているのに、あいつらときたら・・・』。私たちも似たようなセリフを時々口にしているのかもしれません。自分が何事かを真面目に一生懸命にしているとき、他人の行いは気になるものです。そして、つい他人の行いの無さを裁いている自分がいるのです。」
なるほど、そういうものでしょう。教会も、そもそも喜びのうえに建てられた群れであります。礼拝の場をはじめ、奉仕も、献金も、どれも主イエスさまによって神の国に招き入れられたこの上ない喜びがベースにあるのです。それは単なる宗教的儀礼や仕来たり、又仕事や義務ではありません。心を突き動かす喜びから出された行動であります。しかしイエスさまの教会の中でさえも、イライラとした感情や不平不満が起こることもあるかも知れません。そんな時、今度はイエスさまと食事を共にする場に招かれた人々の側に自分を置き替えて今一度、何の条件も資格もない自分が、イエスさまの御救いに招き入れられている喜びと感謝を思い起こしてみるとよいかも知れません。
花婿の婚礼に招かれたのは私だけではありません。互いに、何がしか不行き届きな面や失敗もあるかもしれませんが。何より、同様に花婿なる主が共におられる席に招かれた一人ひとりであり、共に喜び合うために集められた神の家族であることを感謝したいですね。
さて、一方でイエスさまは、「花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」とおっしゃいました。「花婿が奪い去られる時。」
これは、イエスさまが十字架に架けられて苦難を受け、死を遂げられる時を表しています。先週は主イエスのご復活をお祝いするイースター礼拝が持たれましたが。この祝いの日であるイースターは、イエスさまの受難と死を通して与えられたものです。その受難と死は、私どもが持つ罪と咎のためであり、その私の罪の性質がイエスさまを十字架に架けて死へと追いやったのです。私たちは日常の歩みの中で知らず知らずのうちにも神と人に対して罪を犯し、欺き、傷つけ、躓かせていることがあります。そういう事に対して、神に日々祈り、悔改めて、生きるのは大事なことではないでしょうか。それは、主イエスの十字架の苦痛と苦悩と死が私の罪のためであるにもかかわらず、主イエスはその私の代わりに裁かれ、その罪を贖ってくださった、という尊い恵みと救いの御業を改めて気づかせてくれます。
さらには、日々を過ごす中で、神の存在が遠く感じられる時、あるいは先行きに対する希望すら見出せずに苦境の中でうめき、苦しんでいる隣人を覚える時、すなわち、花婿はどこにおられるのか、と思える時、断食をし、祈り、とりなし、主の臨在と御業を願うということもあるでしょう。大事なのは、その私どもの間、このただ中に十字架の主イエスが一緒におられるということであります。
最後になりますが。イエスさまは「織りたての布切れを取って、古い服に継ぎ当てたりしない」「新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりしない」とおっしゃいました。イエスさまはユダヤの日常生活に身近ある題材をもちいて語られます。
古い革袋に新しいぶどう酒を入れると、新しいぶどう酒は発酵するガスの勢いで革袋を破って出てしまうということです。
この新しいぶどう酒とは、罪人たちと、神の祝福から隔てられていた人たちと食卓を共にするイエス・キリストによってもたらされた神の国の到来。すなわち、「救いの福音」であります。それは当時のファリサイ派の律法学者や祭司たちの信仰観に収まりきれない、彼らにすれば何とも受け入れ難いものでした。彼らは自分たちの立場が危うくなることを恐れ、イエスを罪に陥れようと魂胆を計り、遂には十字架に引き渡し、殺害するのです。古い革袋をそういう勢力にたとえることができます。しかし、古い革袋は主イエスの福音の活き活きとしたその力によって打ち破られ、やがては全世界の人々の喜びの福音として拡張していったのであります。
もう一つ、始めの古い服に新しい布を継ぎ当てるというたとえですが。古い服とは一言で言ってしまえば、旧約聖書の教えを指しているのでしょう。新しい主イエスの福音も、元来はユダヤ教の旧約聖書の教えをバックボーンとしており、私たちの礼拝でも、旧約の詩編の朗読や旧約聖書からの宣教がなされております。それは旧約聖書の教えの中に、私たちの信じる神の御心や戒めが確かに示されているからです。イエスさまは律法についてマタイ5章17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。ですから、旧約聖書はユダヤ教の聖典だから読んでも意味がない、というのは暴論なのであります。ただここできちんと確認しておくことは、主イエスは旧約を完全に満たすに足り得る救い主メシア、キリストとしてこの地上に来られ、十字架の苦難と死を通られて、あらゆるすべての人に救いの道、神の国への道を備えて下さり、その新しい神の救いの真実を表すために復活なさったお方であられるということですね。
本日は、「一緒にいる時」と題し、御言葉を聞いてきました。
私たちがこの地上にあって生きる時間は限られております。その限られた時の中で、肉親、親族、友人、隣人との出会いと親交が織りなされています。今この時、一緒にいることがゆるされる方との時を大事に刻んでいけますように、祈り、願うものです。
今日はギデオン協会の方のお証しを通して、主の豊かな導きと御業を仰ぎ、その働きの尊さを覚えることができました。「花婿なる主イエスが一緒にいる今この時」。主が共におられる喜びを身近なところから分かち合ってまいりましょう。
①「主イエスと共なる食卓」
今日の聖書の言葉を読み解く鍵は実は前の箇所のところにあります。イエスさまの弟子となった徴税人のレビの家で、イエスさまはレビの仲間や罪人と言われる人たち同席し、一緒に食事をしていました。ところが、その様子を見ていたファリサイ派の律法学者が、弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言って非難したというのです。
当時、徴税人は、高利貸し、行商人、皮なめし、羊飼いらと共に、公の職を得る事ができないばかりか、法廷で証言に立つことさえも認められていませんでした。又、ローマの手下という悪のレッテルを張られ、ユダヤの敵であり罪人と見なされていました。
しかし、主イエスはそのような徴税人のレビを招かれて、レビは神の国の救いを見出し、主イエスに従う者となったのです。その喜びからレビは家を開放し、イエスさまと弟子たち、そして自分の仲間たちで会食の場をもうけるのです。イエスさまは、罪人と言われる彼らと同席し、一緒に食事をなさいました。主の招きに応えた人々と共なる食卓は、天の国にある喜びと祝福の分かち合いの時を意味しているのです。
②「一緒にいる時」
さて、本日の箇所であります「断食についての問答」のエピソードですが、ユダヤの人々が「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」とイエスに問いかけたというのであります。当時、ユダヤの社会で、断食は宗教的な行事としてごく普通に行われていたものです。人々はここでイエスさまや弟子たちが断食していないと、と断定していますが。それは誤りでありました。イエスさまは断食について否定されてはいません。マタイ6章で「断食するときは、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする・・・あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである」とおっしゃっています。
こういう神との誠実な関係における断食を、イエスさまはなさり、弟子たちにも勧められ、実践していたのです。それはファリサイ派の人たちのように週の何曜日に行うとか決まりごとに則したものではなかったのです。ただその時の必要と神の招きに応えてなされ、「神と私」という関係においてなされたものでありましたから、人にはそれと気づかれないことが多かったのです。
ファリサイ派の人々やヨハネの弟子たち、そしてユダヤ人たちは、断食の形式や仕方を守り行おうとしないイエスや弟子たちを裁くのですが。むしろ形にとらわれ、「私は只今断食中です」と言わんばかりに顔つきを見苦しくする彼ら、「あなたは断食していな」と人を裁き優越感に浸る彼らは、どこか断食の本質を見失っていたのでしょう。
先程、イザヤ書58章を交読しましたように、6節「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。」10節「飢えている人に心を配り苦しめられている人の願いを満たす。」すなわち、そのような律法本来の精神を培い神に執り成すことこそ、神の望まれる断食だと聖書は語っているのです。しかし人はなかなか悟り得ないものであります。
イエスさまはそんな彼らの、「なぜあなた方は断食をしないのか」という問いに対して、次のようにお答えになります。
「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」
イエスさまはここで、「花婿が一緒にいるのに断食できない」ということを2度も繰り返し強調しています。
ここで言う「花婿が一緒にいる婚礼の時」というのは、イエスさまが罪人と言われている人や徴税人ら、世間から白い目でみられるような人を招き、何ら排除や差別することなく共に食卓をもって神の国にある喜びと祝福を分ち合われる、救いの時を言い表しています。このマルコの福音書の冒頭には、「イエス・キリストの福音の初め」「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とありますように、主イエスの招きによって神の国は到来し、あらゆる人々が神に立ち帰って生きる喜びと祝福あずかることとなったのです。それが婚礼の時にたとえられているのであり、この花婿は言うまでもなく救い主イエスのことであります。
イエスさまは、断食をはじめ律法を軽んじられたわけではありません。ただ、「婚礼の場に招かれ花婿が一緒にいる前で、断食などできやしない」と言っておられるのです。それをもう少し別の言い方をするなら、「こうして神の祝福から隔てられていた魂が神の国に招き入れられたことを、今わたしたちは本当に喜び合っているんだよ」というメッセージだと思うんですね。
聖書教育の中に次のような言葉を見つけました。
「聖書の物語を読むときのポイントの一つは、自分をどの登場人物に重ねてその話を聞くかにあります。今日の物語でいえば、バプテスマのヨハネの弟子たちやファリサイ派の学者たちの立場に自分を置けば、彼らの『イライラ、ムカムカ』がよくわかります。『自分たちはこんなに真面目に断食しているのに、あいつらときたら・・・』。私たちも似たようなセリフを時々口にしているのかもしれません。自分が何事かを真面目に一生懸命にしているとき、他人の行いは気になるものです。そして、つい他人の行いの無さを裁いている自分がいるのです。」
なるほど、そういうものでしょう。教会も、そもそも喜びのうえに建てられた群れであります。礼拝の場をはじめ、奉仕も、献金も、どれも主イエスさまによって神の国に招き入れられたこの上ない喜びがベースにあるのです。それは単なる宗教的儀礼や仕来たり、又仕事や義務ではありません。心を突き動かす喜びから出された行動であります。しかしイエスさまの教会の中でさえも、イライラとした感情や不平不満が起こることもあるかも知れません。そんな時、今度はイエスさまと食事を共にする場に招かれた人々の側に自分を置き替えて今一度、何の条件も資格もない自分が、イエスさまの御救いに招き入れられている喜びと感謝を思い起こしてみるとよいかも知れません。
花婿の婚礼に招かれたのは私だけではありません。互いに、何がしか不行き届きな面や失敗もあるかもしれませんが。何より、同様に花婿なる主が共におられる席に招かれた一人ひとりであり、共に喜び合うために集められた神の家族であることを感謝したいですね。
さて、一方でイエスさまは、「花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」とおっしゃいました。「花婿が奪い去られる時。」
これは、イエスさまが十字架に架けられて苦難を受け、死を遂げられる時を表しています。先週は主イエスのご復活をお祝いするイースター礼拝が持たれましたが。この祝いの日であるイースターは、イエスさまの受難と死を通して与えられたものです。その受難と死は、私どもが持つ罪と咎のためであり、その私の罪の性質がイエスさまを十字架に架けて死へと追いやったのです。私たちは日常の歩みの中で知らず知らずのうちにも神と人に対して罪を犯し、欺き、傷つけ、躓かせていることがあります。そういう事に対して、神に日々祈り、悔改めて、生きるのは大事なことではないでしょうか。それは、主イエスの十字架の苦痛と苦悩と死が私の罪のためであるにもかかわらず、主イエスはその私の代わりに裁かれ、その罪を贖ってくださった、という尊い恵みと救いの御業を改めて気づかせてくれます。
さらには、日々を過ごす中で、神の存在が遠く感じられる時、あるいは先行きに対する希望すら見出せずに苦境の中でうめき、苦しんでいる隣人を覚える時、すなわち、花婿はどこにおられるのか、と思える時、断食をし、祈り、とりなし、主の臨在と御業を願うということもあるでしょう。大事なのは、その私どもの間、このただ中に十字架の主イエスが一緒におられるということであります。
最後になりますが。イエスさまは「織りたての布切れを取って、古い服に継ぎ当てたりしない」「新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりしない」とおっしゃいました。イエスさまはユダヤの日常生活に身近ある題材をもちいて語られます。
古い革袋に新しいぶどう酒を入れると、新しいぶどう酒は発酵するガスの勢いで革袋を破って出てしまうということです。
この新しいぶどう酒とは、罪人たちと、神の祝福から隔てられていた人たちと食卓を共にするイエス・キリストによってもたらされた神の国の到来。すなわち、「救いの福音」であります。それは当時のファリサイ派の律法学者や祭司たちの信仰観に収まりきれない、彼らにすれば何とも受け入れ難いものでした。彼らは自分たちの立場が危うくなることを恐れ、イエスを罪に陥れようと魂胆を計り、遂には十字架に引き渡し、殺害するのです。古い革袋をそういう勢力にたとえることができます。しかし、古い革袋は主イエスの福音の活き活きとしたその力によって打ち破られ、やがては全世界の人々の喜びの福音として拡張していったのであります。
もう一つ、始めの古い服に新しい布を継ぎ当てるというたとえですが。古い服とは一言で言ってしまえば、旧約聖書の教えを指しているのでしょう。新しい主イエスの福音も、元来はユダヤ教の旧約聖書の教えをバックボーンとしており、私たちの礼拝でも、旧約の詩編の朗読や旧約聖書からの宣教がなされております。それは旧約聖書の教えの中に、私たちの信じる神の御心や戒めが確かに示されているからです。イエスさまは律法についてマタイ5章17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。ですから、旧約聖書はユダヤ教の聖典だから読んでも意味がない、というのは暴論なのであります。ただここできちんと確認しておくことは、主イエスは旧約を完全に満たすに足り得る救い主メシア、キリストとしてこの地上に来られ、十字架の苦難と死を通られて、あらゆるすべての人に救いの道、神の国への道を備えて下さり、その新しい神の救いの真実を表すために復活なさったお方であられるということですね。
本日は、「一緒にいる時」と題し、御言葉を聞いてきました。
私たちがこの地上にあって生きる時間は限られております。その限られた時の中で、肉親、親族、友人、隣人との出会いと親交が織りなされています。今この時、一緒にいることがゆるされる方との時を大事に刻んでいけますように、祈り、願うものです。
今日はギデオン協会の方のお証しを通して、主の豊かな導きと御業を仰ぎ、その働きの尊さを覚えることができました。「花婿なる主イエスが一緒にいる今この時」。主が共におられる喜びを身近なところから分かち合ってまいりましょう。