宣教 ローマ3・21-31
今日は青年主催のさんび&あかしの礼拝を捧げています。バプテスト教会は神の前に上下の身分はなく、先週のローマ書にもありましたように、「互いの持っている信仰によって励まし合う」関係性を大切にしてきました。
今日は青年の方々を通して福音の恵みを分かち合えますことを心より感謝しています。
先月のあかしでもお話しましたが。私は高校1年生の時に、主イエスを信じてバプテスマを受けてクリスチャンとなったんですが。社会人になってからは学生の頃とは違いいろんな社会の厳しさ、人間関係の難しさ、又信仰生活を守ることの困難などを経験し、悩み苦しむことが多々ありました。
そうして20歳の時だったかと思いますが、京都にある同じ系列の会社の研修のために半年間ほど長岡京市にあった会社の寮に入って仕事の研修をしながら生活する機会がありました。当時は一番近かった日本基督教団の長岡京教会の礼拝と祈祷会に出席していました。そこの村上牧師、京都洛西教会の杉野牧師のお友達で、しかもお二人とも北九州の戸畑バプテスト教会出身ということで近しい思いをいただきました。又、たまに京都の北山教会の青年たちと交流したり、や南千里教会の当時福島牧師にもかわいがっていただいたりして、個人的に信仰や教会についてのお話を伺ったり、良書をいろいろと紹介していただき、読んだりしていたのですが。
そういう折に、改めて新鮮に響いてきたのが今日のこのローマ3章の特に21節-24節の御言葉だったのです。この箇所はそれまで何度も読んでいたはずでしたが、その時まるで初めて福音と出会ったような衝撃を受けました。そして、未熟な独りよがりのキリスト教信仰の概念から解放され、心踊るような経験をしたのです。それがきっかけになって、もっと聖書を学びたいとの思いを与えられ、神学校、そして牧師としての働きの道が開かれていったんですが。
それまでの私は、クリスチャンかくあるべしというような、どこか道徳的、律法主義的な捉え方をしたように思います。けれど、どうしたってそう成りきれない自分との狭間で何か悶々としていたんですね。
クリスチャンになったにも拘わらず、いろいろな悩みが尽きず、罪を犯し続ける自分に対して嫌悪感さえ持ち続けていたのです。
今日のローマ書のところの一つ前の3章20節に「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」とあるとおり、自分の頑張りと熱心ですればするほど自分の内面には不義しか思い出せなかったのです。
けれど21節「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」
改めてこのお言葉を聞いたとき、神の愛と救いに気づかされた。初めて福音と出会ったんですね。本当の悔い改めって、ああ自分は悪い者だ、どうしようもない者だと自分を責めたり、良い行いで補う、償おうと内向きになることじゃないんですね。
聖書で悔い改めは、メタノイア。それは全身を神の方へ向きを変える。方向転換するということです。罪とは神に対して的外れな状態を現しますが。まさに的外れな生き方から神の方へ方向転換する。向き直る。キリストに望みをおいているのがクリスチャンです。そこに十字架の贖いのゆるしが与えられているのですから、そのゆるしを日々頂きつつ、主の恵みに喜びと感謝をもって生きていくことに意義があるんですね。
聖書に戻りますが。
21節「ところが今や。」
その「今や」、という原語の時制は、ただ一回限りのときを指すものです。イエスさまが十字架で私の罪を贖うために死なれた、そのとき、それはただ一度です。しかし、その今やというのは、それが単なる過去の出来事で終わるものではなく、今もその救いの業は変わることなく、続いているという意味であります。その主イエスのゴルゴダの十字架の出来事、救いは2000年以上を経た、このユダヤからすれば異邦人ともいえるこの私にも、「今や」与えられているのです。まさに恵みだということを改めて知るとき、何ともいえない感謝がわきあがってきたんですね。
22節「そこには何の差別もありません」とありますように、主の救いを求めておられるお一人おひとりにもれなく与えられている、文字通りそれは福音なのであります。
さて、今日の箇所には、「義」(ディカイオスシュネイ)という原語が9回、そして「信じる」(ピィステェオウ)「信仰」ピィスティスという原語がやはり9回記されていますように、この「義」と「信」がこの部分の鍵語;キーワードなのです。
ここを読み解くには、まず、聖書の「義」とは何かを知らなければなりません。
聖書の示す「義」は普通の倫理的な意味における「正義」や「善」、人の良い行いといった人間の属性にあるものとは違います。それは唯一の主である神に属するものであります。
旧約聖書では神の義は神の行為として現れ,ユダヤ民族は示された神の意志に従い,律法を尊んでそれを守り行なう時に救われると考えています。
そのため律法を守ることができなくて罪を犯したなら、その罪の身代わりとして牛や羊などの動物をほふって贖いのささげものとしたのです。しかしそれでは、福音を知る以前の私がそうであったように、何度悔いても、たとえ犠牲をささげても、自分の義に生きようとすると、益々罪の自覚が生じるばかりです。
しかし、神は十字架の主イエスを通して、罪を犯すすべての者に救いと解放をもたらしてくださったのです。その神の独り子、主イエスの十字架の死にあらわされた神の義
を心から信じ受入れる者を、神は義とされるのです。これが新約聖書の福音、救い、神の義なのですね。
一方、「神は愛である。」それが聖書のメッセージでありますが。それなら何も神の子イエスさまが十字架にかかったりなさらないで、罪を犯した人をそのご権威によってゆるし、帳消しすることもできたのでは、と思う人もいるかも知れません。
しかし、神さまは全き聖なるお方であります。ご自分を偽ることなどあり得ません。すべての人は偽りなき神の前ではすべてが明らかであり、その犯した罪もまた必ず清算され、審かれなければならないのです。けれどもそれでは、罪を犯した人間すべては罪の審きを受けて滅びるしかありません。
しかし、神は義であられるとともに、すべての創造主、愛なるお方であります。人が心から立ち返って生きることを願ってやまない義であり愛なる神がお選びになった唯一つの救いの道、それがご自身の独り子イエス・キリストの十字架による罪の贖いであったのです。神さまはこのことをしてご自身が義であり、愛であることをお示しになられたのです。神の義と愛とが交差する、それがまさに主イエスの十字架であり、それだからこそ、信じる私たち罪ある人間を根底から救う力がここにございます。
だから、24節「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」救いの確かさがここにあります。
ところが、罪を犯した人間が義と認められる。それも「無償で」。関西弁でしたら、「タダやでえタダ」ということでしょうか。そんなまたとない恵みを、自分のこととしていただくという人は、日本ではごくわずかです。「タダほどあやしいものはない。」疑いと勘ぐり、あるいは遠慮して、「ありがとう」と感謝し、ただ受けることが難しいんですね。そんな虫のいい話とばかりに、せっかくの神さまの尊い愛をもって支払われたプレゼントを受け取れない。そんなもったいないことはありません。
私たちに求められていることは、何か功徳を積まねばとか、修行を積まねばとか、知識を得なければということではなく、ただ神さまが私の罪のゆるしと和解のために御独り子イエスさまを与えてくださった。その義と愛の十字架を仰いで救いを得る、ということであります。そうしていくときに、私たちは自ずと湧き上がる感謝とともに、主の恵みに応えていきたいという願いが自ずと起こってくるでしょう。神の義と愛。主イエス・キリストの救いの業を信じ仰ぎ救いに入れられて、新たないのちに生かされていく。これこそが、27節の「信仰の法則」ですね。主の御名を心から賛美します。
今日は青年主催のさんび&あかしの礼拝を捧げています。バプテスト教会は神の前に上下の身分はなく、先週のローマ書にもありましたように、「互いの持っている信仰によって励まし合う」関係性を大切にしてきました。
今日は青年の方々を通して福音の恵みを分かち合えますことを心より感謝しています。
先月のあかしでもお話しましたが。私は高校1年生の時に、主イエスを信じてバプテスマを受けてクリスチャンとなったんですが。社会人になってからは学生の頃とは違いいろんな社会の厳しさ、人間関係の難しさ、又信仰生活を守ることの困難などを経験し、悩み苦しむことが多々ありました。
そうして20歳の時だったかと思いますが、京都にある同じ系列の会社の研修のために半年間ほど長岡京市にあった会社の寮に入って仕事の研修をしながら生活する機会がありました。当時は一番近かった日本基督教団の長岡京教会の礼拝と祈祷会に出席していました。そこの村上牧師、京都洛西教会の杉野牧師のお友達で、しかもお二人とも北九州の戸畑バプテスト教会出身ということで近しい思いをいただきました。又、たまに京都の北山教会の青年たちと交流したり、や南千里教会の当時福島牧師にもかわいがっていただいたりして、個人的に信仰や教会についてのお話を伺ったり、良書をいろいろと紹介していただき、読んだりしていたのですが。
そういう折に、改めて新鮮に響いてきたのが今日のこのローマ3章の特に21節-24節の御言葉だったのです。この箇所はそれまで何度も読んでいたはずでしたが、その時まるで初めて福音と出会ったような衝撃を受けました。そして、未熟な独りよがりのキリスト教信仰の概念から解放され、心踊るような経験をしたのです。それがきっかけになって、もっと聖書を学びたいとの思いを与えられ、神学校、そして牧師としての働きの道が開かれていったんですが。
それまでの私は、クリスチャンかくあるべしというような、どこか道徳的、律法主義的な捉え方をしたように思います。けれど、どうしたってそう成りきれない自分との狭間で何か悶々としていたんですね。
クリスチャンになったにも拘わらず、いろいろな悩みが尽きず、罪を犯し続ける自分に対して嫌悪感さえ持ち続けていたのです。
今日のローマ書のところの一つ前の3章20節に「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」とあるとおり、自分の頑張りと熱心ですればするほど自分の内面には不義しか思い出せなかったのです。
けれど21節「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」
改めてこのお言葉を聞いたとき、神の愛と救いに気づかされた。初めて福音と出会ったんですね。本当の悔い改めって、ああ自分は悪い者だ、どうしようもない者だと自分を責めたり、良い行いで補う、償おうと内向きになることじゃないんですね。
聖書で悔い改めは、メタノイア。それは全身を神の方へ向きを変える。方向転換するということです。罪とは神に対して的外れな状態を現しますが。まさに的外れな生き方から神の方へ方向転換する。向き直る。キリストに望みをおいているのがクリスチャンです。そこに十字架の贖いのゆるしが与えられているのですから、そのゆるしを日々頂きつつ、主の恵みに喜びと感謝をもって生きていくことに意義があるんですね。
聖書に戻りますが。
21節「ところが今や。」
その「今や」、という原語の時制は、ただ一回限りのときを指すものです。イエスさまが十字架で私の罪を贖うために死なれた、そのとき、それはただ一度です。しかし、その今やというのは、それが単なる過去の出来事で終わるものではなく、今もその救いの業は変わることなく、続いているという意味であります。その主イエスのゴルゴダの十字架の出来事、救いは2000年以上を経た、このユダヤからすれば異邦人ともいえるこの私にも、「今や」与えられているのです。まさに恵みだということを改めて知るとき、何ともいえない感謝がわきあがってきたんですね。
22節「そこには何の差別もありません」とありますように、主の救いを求めておられるお一人おひとりにもれなく与えられている、文字通りそれは福音なのであります。
さて、今日の箇所には、「義」(ディカイオスシュネイ)という原語が9回、そして「信じる」(ピィステェオウ)「信仰」ピィスティスという原語がやはり9回記されていますように、この「義」と「信」がこの部分の鍵語;キーワードなのです。
ここを読み解くには、まず、聖書の「義」とは何かを知らなければなりません。
聖書の示す「義」は普通の倫理的な意味における「正義」や「善」、人の良い行いといった人間の属性にあるものとは違います。それは唯一の主である神に属するものであります。
旧約聖書では神の義は神の行為として現れ,ユダヤ民族は示された神の意志に従い,律法を尊んでそれを守り行なう時に救われると考えています。
そのため律法を守ることができなくて罪を犯したなら、その罪の身代わりとして牛や羊などの動物をほふって贖いのささげものとしたのです。しかしそれでは、福音を知る以前の私がそうであったように、何度悔いても、たとえ犠牲をささげても、自分の義に生きようとすると、益々罪の自覚が生じるばかりです。
しかし、神は十字架の主イエスを通して、罪を犯すすべての者に救いと解放をもたらしてくださったのです。その神の独り子、主イエスの十字架の死にあらわされた神の義
を心から信じ受入れる者を、神は義とされるのです。これが新約聖書の福音、救い、神の義なのですね。
一方、「神は愛である。」それが聖書のメッセージでありますが。それなら何も神の子イエスさまが十字架にかかったりなさらないで、罪を犯した人をそのご権威によってゆるし、帳消しすることもできたのでは、と思う人もいるかも知れません。
しかし、神さまは全き聖なるお方であります。ご自分を偽ることなどあり得ません。すべての人は偽りなき神の前ではすべてが明らかであり、その犯した罪もまた必ず清算され、審かれなければならないのです。けれどもそれでは、罪を犯した人間すべては罪の審きを受けて滅びるしかありません。
しかし、神は義であられるとともに、すべての創造主、愛なるお方であります。人が心から立ち返って生きることを願ってやまない義であり愛なる神がお選びになった唯一つの救いの道、それがご自身の独り子イエス・キリストの十字架による罪の贖いであったのです。神さまはこのことをしてご自身が義であり、愛であることをお示しになられたのです。神の義と愛とが交差する、それがまさに主イエスの十字架であり、それだからこそ、信じる私たち罪ある人間を根底から救う力がここにございます。
だから、24節「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」救いの確かさがここにあります。
ところが、罪を犯した人間が義と認められる。それも「無償で」。関西弁でしたら、「タダやでえタダ」ということでしょうか。そんなまたとない恵みを、自分のこととしていただくという人は、日本ではごくわずかです。「タダほどあやしいものはない。」疑いと勘ぐり、あるいは遠慮して、「ありがとう」と感謝し、ただ受けることが難しいんですね。そんな虫のいい話とばかりに、せっかくの神さまの尊い愛をもって支払われたプレゼントを受け取れない。そんなもったいないことはありません。
私たちに求められていることは、何か功徳を積まねばとか、修行を積まねばとか、知識を得なければということではなく、ただ神さまが私の罪のゆるしと和解のために御独り子イエスさまを与えてくださった。その義と愛の十字架を仰いで救いを得る、ということであります。そうしていくときに、私たちは自ずと湧き上がる感謝とともに、主の恵みに応えていきたいという願いが自ずと起こってくるでしょう。神の義と愛。主イエス・キリストの救いの業を信じ仰ぎ救いに入れられて、新たないのちに生かされていく。これこそが、27節の「信仰の法則」ですね。主の御名を心から賛美します。