日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

安心しなさい

2017-02-26 21:38:46 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ14・22-33

今日の箇所の冒頭に、「それからすぐ」とあります。
これは、前の記事の5千人に食べ物をイエスさまが与えられた奇跡の出来事をさしています。群衆たちはその奇跡に酔いしれ興奮冷めやらぬ状況でした。同じ記事が記されたヨハネ福音書6章には、その給食の奇跡の後「イエスは、人々(群衆)が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」とあります。群衆はイエスさまを政治的な王として奉りあげようとしたのです。しかしイエスさまはそれを拒み、祈るためにひとり山に登られるのであります。

イエスさまはご自分がどのようにあるべきかをよくご存じでした。それは、この地上の権力を手にして民衆を支配したり、又国家を再建していくような為政者となることではありません。ただ父の神さまの御旨を行なう。唯そのことのみ、心を向けられたのであります。イエスさまにある神さまの御心、それは神さまの愛と救いを示し顕わし、成し遂げることでした。もし「権力をもって王となった方が効率がいい」とイエスさまが地上の王になられていたなら、一時的にはユダヤの民の国がよくなったとしても、私たちの救いは永遠に絶たれていたでしょう。神さまの御心に従う十字架の道をあゆみ通してくださったからこそ、今日私たちは主の福音、御救いに与ることがゆるされているのですね。
私も牧師として立てられていますが。それは神さまの御心とゆるしの中で役割が与えられているに過ぎません。教会のみなさんと何ら身分的違いはなく牧会という一つの働きを託されているにすぎないのです。プロテスタント(新教)の中でも私たちバプテストは、万民祭司。つまりすべての信徒が祭司であるという新約聖書のメッセージを大切にしてきました。礼拝での牧師の宣教も大事ですが、今日まで牧師だけでなく信徒も協働で教会形成を担ってきたという歴史があります。

イエスさまが周りの期待や目先の効率的手段として上に立つのでは無く、どこまでも父なる神の御心に従われた。王に奉りあげられることを避けて、群衆から退き祈られことを思う時、キリストの教会の中心、頭、リーダーは唯主なる神であられることを知らされます。このお方にこそ共に従ってまいりましょう。
さて、本日のマタイの14章に話はもどりますが。
ここでイエスさまは「弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。祈るためにひとり山にお登りになられた」というのです。

どうしてイエスさまは強いて彼らを舟に乗せ先に向こう岸へ行かせたのでしょうか?なぜ、一緒に舟に載って行かれなかったのでしょうか?
それは、イエスさまが、やがて弟子たちと別れなければならない事、又弟子たちの将来において遭遇するであろう、ありとあらゆる困窮や苦難の折にも、「主は共におられるる」という確信と平安に与る者となるように、切に願われたということであります。

そのためにイエスさまがなしたことは、第一に弟子たちのことを父の神に執り成し祈られたということですね。イエスさまはひとりで父の神と相まみえて弟子たちのことを執り成し祈られると共に、おそらく御自分の使命についても再確認される時を持たれたのではないかと思うのです。
このイエスさまの祈りは、私たちの祈りの手本であります。執り成しの祈りと自分の立ちどころを再確認していく。それは私たちもまたひとりで主なる神さまと相まみえて一対一で祈るときを持つことが如何に大切か。そういうことがここに示されているのであります。

又、一昼夜ひとり山で祈られた後にイエスさまが起された第二のアクションは、弟子たちが悩まされていたまさにその現場に行かれたということであります。

舟は教会を表すとも言われますが。教会も又、時代の波風に、あるいは時々の状況の中で、時に大きく揺さぶられ、にっちもさっちも行かないような状況に陥ることがあります。この弟子たちのみならず、時に嵐に沈みかける舟のように厳しい状況の中で揺れ動く教会、信徒に向けても、主は実に共においでになるのだということをこのエピソードは示しているわけですけれども。
さておき、弟子たちはイエスさまのお姿を海の上に見た時、それが幽霊だと言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげます。彼らはひどい逆風に一晩中悩まされ、怯え、不安を抱えていました。疲労し追い込まれていた。そういう心身状態で、薄暗い夜明けに湖上を歩いてこちらに向かって来る何ものかの姿を見れば、そりゃあ長年漁師をしていた弟子たちであっても怖かったと思うんですよね。

まあそうして彼らのところに行かれたイエスさまは、すぐに彼らに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と話しかけられます。
この「わたしだ」というのは、幻想などではない。幽霊なんかじゃない。正真正銘「わたしだ」ということです。
この「わたしだ」と訳されたエゴー エイミーは旧約聖書の出エジプト記3章で神さまがご自分を言い表わされる時にお使いになった「わたしはある」と同じ意味の言葉なんですね。それを確か口語訳では「わたしは有って有る者」と確か訳されていたかと思いますが。
つまり、イエスさまが「安心しなさい。わたしだ」とおっしゃるとき、それは不確かな幻想などではなく、エゴ- エイミー。確かに「私がここに存在している。安心しなさい」。そういうことなんですよね。それは私たちの側がどんなに深い闇、不安と恐れの中で、唯主に叫びながら右往左往していようとも、主は確かに共におられる。世にはまたとなき平安。安心がここにあります。

さて、湖の上を歩くイエスさまの記事は、マルコとヨハネの福音書にも共通に記されているのですが。このマタイにしか記されていないのが、12弟子の一人ペトロの行動であります。

28節、「すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください』。イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった」。

ここを読みますと、注目すべきは、イエスさまのお言葉に目を向けていった時、ペトロも水の上を歩くことができたのですね。ところが強い風に気がついた瞬間。どっと恐怖が押し寄せて来て、あわや沈みかけてしまうのです。慌てたペトロは「主よ、助けてください」と叫び求めると、すぐにイエスさまはペトロに手を伸ばしてお助けになったということであります。

先週の事でありましたが。私事、母の回復のためにお祈り頂きまして、ありがとうございました。感謝なことに、無事意識が回復し、現在は自宅で普段通りの生活ができております。18日の土曜日の午後6時に行方不明になったとの連絡が入り、その後見つかったとの連絡が入ったのが日をまたいだ翌日の深夜1時頃でしたが。とにかく礼拝の為の準備をしながらも正直心配でなりません。ペトロが強風に気がついて怖くなったように最悪の状況がふと頭をよぎりますと、もう「主よ、助けてください」と心の中で叫ぶような思いでした。実は発見されたときの体温が25度しかなくて、「あと少しでも遅れていたなら凍死していた」と、妹が医師から言われたと聞いてゾッといたしましたが。暗い中路上に倒れていた母を発見して救急に連絡してくださった方には唯々感謝であります。そして何よりその背後で神さまの御守りがあったことをひしひしと感じ、心から主を賛美します。

聖書にもどりますが。まあ吹きつける強風に気がついて怖くなり沈みかけたペトロに、
イエスさまは「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」と言われます。
ここでイエスさまはペトロに対して「信仰の無い者よ」とはおっしゃっていないのです。「信仰の薄い者よ」とおっしゃった。それは「信仰が小さい」と同じことですが。まあ、そう聞きますとどういうのが薄く小さい信仰で、どういうのがぶ厚い信仰なのかなど考えてしまうわけですけれども。ここを見ますと、イエスさまはペトロに「なぜ疑ったのか」とおっしゃいます。
この疑うの原語は「二つの方向に歩んで行く」という意味です。ドイツ語で「Zwei-fel」二重の状態を表します。つまり人が二つの心を胸に抱いているという状態のことですね。
日本でも「二心」などと申します。ドイツ語と同様心の状態が二通りという意味と、さらにそれは「不忠実な心」「謀反の心」「疑いの心」ということです。

ここでペトロは主イエスの言葉、ご意志に従ってまっすぐにあゆみ通せば無事イエスのもとに辿りつけたんでしょうが。けれど強い風に気づき気持ちがそちらに囚われたことで心が二つの状態にわれて、疑いと恐れの念が生じたという事なんでしょうか。

でも、ここでイエスさまはその「信仰の薄く、疑った」ペトロが必死に「主よ、助けてください」と叫ぶその声に、すぐに手を伸ばして救い出されたのですね。実はここでペトロは自らのそんな挫折によって、真の信仰を見出すのであります。それは自分の思い描くような強い信心によってではなく、「主よ、助けてください」というほかない自分を、主が救ってくださるという信仰です。この確かなお方、この主イエスに唯まっすぐに従い行く。それが自分のなすべき道なのだ、とこの出来事をとおしてペトロは確認したのではないでしょうか。
ここを読みますとき、私たちもともすれば人間はまっすぐに主への信仰を堅持していたいと望みながらも、実際の生活の中では、自分の力を頼みとしていたり、又別のものを祭り上げて頼みとしていくような、「疑い多き」「信仰のちっぽけな」者ではないでしょうか。みなそれぞれに信仰と疑いの中を揺れ動いている日常がある。けれども、幸いなことは、今日の聖書にありますように、大きな問題や困難の中で怖じ惑い、「主よ、助けてください」と叫ぶほかない私たちを決して忘れことも、見捨てることもなく、イエスさまは「わたしが共にいる」「わたしは在ってある者」「安心しなさい」と御手を伸ばしていてくださっているということですね。そこに真の平安がございます。このイエスさまのみ声を聞いて、人生の荒波を主と共にあゆみ通してまいりましょう。祈ります
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宝を見出した人

2017-02-19 18:22:57 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ13・44-50

先週は3日間全国牧師研修会が3.11東日本大震災の被災地であります宮城県松島で開かれ参加させて頂きました。「教会形成と災害」~東北・松島で考える~とのテーマのもと、お二人の講師のお話。そして8つの分科会。又、津波の被害がひどかった被災地東松島や石巻まで足をはこぶことができました。
一日目少し仙台空港に早く着きましたので、私は仙台市で津波の被害が最も大きかった若林地区をローカルバスに乗り、海の防波堤近くに行き着く中野という停留所まで参りました。バスの車窓からは震災から6年経っても、未だに空き地となっているところ、まだぼこぼこの土地が一面に広がっているところがあり、ここに6年前の震災の折、10メートル以上の津波が押し寄せて来た地なのだと知り、信じられなかったです。又、そのバスの路線上には震災前にはいくつもの小中学校があり賑わいでいたのですが。大津波の折は避難所となりその後は壊滅的な状態となり、後に建て替えられていた仙台私立東六郷小学校を見ると何ともいえない寂しさをおぼえました。
また2日目には石巻の被災地に参りました折も、津波の時に町の方々が避難した高台に上りそこに立ったのですが。石巻市の町中が大津波に襲われ、次々にありとあらゆるものが流されていく映像と、それが重なって見えてきました。わたしはただその高台に立ちつくし、何ともいえない思いがこみ上げてきました。その思いは研修会の期間中ずっと続きました。東日本大震災で未だに行方不明者が2556名おられるということです。
そのお一人おひとりにはそれぞれの人生があり、歴史があった。又日常とその生活があったということに思いを馳せました。研修会の前日には震災と津波で一人の女性の方の遺体の一部が見つかったということを伺いました。
大地震と津波、さらに原発事故によって、そこにあった尊いいのちや人々の生活や日常が奪われていったということを、被災地に実際に足を運ぶことによって、強く感じることができました。今回の研修会では、そこで声なき声、声に出すこともできない声に心を向け、聞いていくことの大事さをほんとうに知らされました。
これは被災地の教会のある教派のお話を聞いたのですが。それは震災時現存した教会が震災後減少したのではなく、さらに増加したというのです。その一つの教会のあかしが次のように紹介されています。「私たちの教会では5つの家族が家を失いました。身内を亡くした人もいます。そのような痛みの中を通りましたが、神様は私たちの教会を被災者に寄り添うボランティア活動に導いてくださいました。そしてその中から聖書の話に耳を傾け、イエス様を信じて人生が変えられる方が起されました。」
今回の研修会からほんとうに様々なことを学び、又、被災地に足を運ぶことによって気づきが与えられることもありました。

本日は先ほど読まれ、こどもメッセージもございましたマタイ13章44~50節より「宝ものを見出した人」と題し、御言葉に聞いていきます。

ここには3つの「天の国」のたとえが語られています。それはユダヤの日常を支える仕事と関わりのある「農夫」「商人」「漁師」といった人たちをたとえとしてイエスさまは用いて、「天の国」をお示しになるのです。人は「天の国」を別の世界のことのように夢見たり、あるいは社会的規範を守り行なうことで到達のしうるように考えたりします。「私もあの人も悪いことはしていないのだから死後は天国に行く」という考える方もおられます。けれども、本日のたとえ話は、つまるところ「天の国」は実は私たちの日常と直結しているのだというお話であります。

まず最初の「天の国」のたとえは、「宝ものを見出した人」について語られています。当時ユダヤでは、人々は財宝を壺に入れ土の中に隠したそうです。これはまあ強盗や武装した兵隊の略奪から守るための最も安全な方法だったのでしょう。
ところがその持ち主が死亡したり、何かのアクシデントに遭い行方が分からなくなった場合、その埋められた宝ものは土の中に放置されたままになってしまいます。

このたとえでは、その隠されていた宝ものを、おそらく畑仕事に雇われていた農夫が偶然にも見つけるのですね。彼は「それをそのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑ごと買う」。つまり畑ごと自分のものにするのです。

この宝の大発見は全く予想もしていなかった思いがけないものでした。自分がどんなに苦労して働いてもらえることのできないような、すばらしい宝。その人は唯驚き、喜び、その宝を自分のものとするために、これまで自分が大切にしていた物すべてを売り払って、畑の土地ごと買いあげ、宝を手に入れようとするのです。

ここを読んで、何で畑まで買う必要があるのだろう。宝ものだけ持って帰ればいいのにと思われる方もおられるかも知れません。それは、当時の合法的手段で罪を問われないようにということもあったのかも知れませんが。しかしここで強調されているのは、すばらしい本物の宝を前に、この人がそれまでの自分の生活を形づくってきたすべてのものと比較にならないほどの価値をその宝に見出したということです。
もう一つは、まあちょっとこの箇所を読んで思い浮かんだのは、高額宝くじが当たった人たちのことです。このような人たちがその後どのような生活を送っているのか興味がわいて調べてみました。すると、わりとそれまで通り勤勉に働き、ふつうに暮らしている人たちが多いようです。その一方で、「当たれば天国」のはずが、金銭トラブルに巻き込まれたり、人から嫉まれ、やっかみで人間関係が崩壊する人。浪費癖がついたり、また当選するのではというヘンな自信からギャンブル的なものにはまってしまう人などもいるそうです。その調査報告の末尾には、ご丁寧なことに「高額当選しても不幸にならない方法」というのが書かれてありました。
私も又、銀行に預けても今は利子がほんと低いですが、それでも6億円あれば定期預金にすればそりゃあまだ利子分で生活も楽になるだろうとか。そういうことかと思ったんですが。
違っていました。そこにはこうあったんです。「お金持ちに相応しい実力を身につけよう」。まあそれだけを聞くと何かいやらしい気がしますが。具体的には、「一番確実な方法として本や人との出会い、実践を通してビジネスを学ぶ」とありました。
否、今私たちは「天の国」について学んでいるのですが。ある面似ていると思うんです。いくら「神の国」を見つけた。「宝」を得たといっても、その宝に相応しい生き方がなければ何になるでしょうか。み言葉に聞き、人と出会い、主の教えを実践して生きていく。それが「畑ごと宝を買う」ということなのかと思いました。

この宝を見出した人は驚きと喜びから自分で畑を買い、この人は、ここが肝心なのですが、これからも農夫であり続けるのです。日毎汗水流して畑を耕す、そのような日常の生活をとおして本物の宝の真の価値を確認して生きる。そこに天の国の恵みが地上に開かれいくのであります。

この商人は真珠の買い付けを始めてから、「これぞ」というものをこの人はずっと探し続けてきた。
さて、天の国の二つ目のたとえ、「高価な真珠を見出した商人」について見ていきましょう。先の農夫のたとえでは、「思いがけない」こと、「予想もしていなかった」こと、「突然」ということが強調されていましたが。この高価な真珠を見つけた商人は、逆に「これまでずっと良い真珠を探し続けていた」ということが強調されています。

真珠の買い付けを始めてこのかた、「これぞ」というものをその人はずっと探し続けてきた。そして遂に見つけたのは、「高価な真珠」であった。「やっぱりいいもんは高いんやなあ」と。しかしそれは値段が高価だというのではなく、「価高い、価値がある」ということです。
私はこどもの頃、牛乳のフタを集めるのが趣味でした。それを友達とメンコ遊びするんですが。中でも1枚の生クリームのフタがピカイチで、これで勝負すると必ず勝つのです。おとなにとってみれば、それはゴミみたいものでしょうけど、私にとって最高に価値ある1枚でした。
この商人にとってこの真珠は、何ものにも代えがたい世界中でたった一つの、唯一の尊い真珠なのであります。この商人も、前の宝を見つけた農夫と同様、自分の「持ち物をすっかり売り払い、それを買い」求めるのであります。

今日の3番目の「天の国」のたとえでありますが。これは最初の「宝を見つけた農夫」や次の「高価な真珠を見つけた商人」のものとは異なります。何が違うかといえば、よい魚を手に入れようとするのは実は神であり、その網にかかった魚というのは、主イエスの福音に捕えられた一人ひとりであるということです。ここが大きな違いですよね。そしてこれがこの3番目のたとえのポイントなのですが。その獲れた魚は選り分けられる、というのであります。漁師の網が湖に投げ降ろされ、いろんな魚を集める。網がいっぱいになると人々は、漁師がいっぱいになった網を岸に引き上げ、良いものは器に、悪い者は投げ捨てる」。

このたとえは、実は前の24節からの「天の国」に関する「麦と毒麦」のたとえを受けたものです。良い種を畑に蒔いたけれど、敵が来て毒麦を蒔き両方育ってくる中で、気づいた僕たちが「その毒麦を抜き集めましょうか」というのですが。主人は29節にあるように、「いや、毒麦を集めるとき麦まで一緒に抜き取ってしまうことにもなりかねない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言うのです。そして遂に、
刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさいと、刈り入れる者に言いつけよう」と、いったというたとえであります。

主イエスはたとえの説明を求める弟子たちに「刈り入れは世の終わり」のことで、天使たちが遣わされ「正しい人々の中にいる悪い者どもを選り分け、燃え盛る炉の中に投げ込む」というのです。それがこの箇所の地曳網の中に入った良いものと悪いものを選り分けるといったたとえに繰り返されているんですね。ここで非常に気になりましたのが、正しい人々の中にいる悪い者どもという言葉です。それは世の人々という世界より、前の文脈から考えても、福音を聞いて救いに与っているはずの人たちということでしょう。本物の宝ものを見出したはずなのに、一つの高価な真珠を手に入れたはずなのに。いつの間にか喜びと感謝は色あせ、生活と言動が天の国と相容れないものとなっている、そんな姿が浮かんできます。しかしそれらは人には分からないし、人が人を裁くことは出来ません。むしろ私たちは忍耐強く互いの救いのために主に執り成し合うことに、希望を見出す事こそ大事です。選り分けるのは天使とされている通り、審きは神の領域なのです。

最後に、今日このところから思いましたことは、確かに私たちが「宝」や「高価な真珠」を見出しているわけですが。それは又、主なる神さまが私たち一人ひとりを御自身の「宝」「価高き真珠」として見出してくださっているということです。それは尊い御子イエスさまを代価としてまでも、私を、あなたを、この世界でたった一つの高価な真珠のような存在として愛してくださる。その福音メッセージであります。

冒頭宮城での研修会でのことをお話しました。私はその大津波にさらわれ、何もなくなったその静まりかえった地に一人立った時、海はほんとに穏やかなんですけれども、心が重くなりました。そこで暮らすお一人おひとりの日常があった。その声なき声が聞こえて来る思いがして。福島の原発事故から6年目にもうすぐなりますが、「アンダーコントロールできている」とか。避難解除までなされて帰宅される方もおられるそうですが。未だ原発事故非常事態宣言は解除されていないという驚くべきこの事実を知らされたのですが。そこにもそのような中で日常を生きる人たちがおられるのです。

今日の主イエスのたとえ話を思いめぐらしながら、あの私の心に訴えかけた声なき声は「いのちこそ宝」「いのちこそ唯一の値高き真珠なのだ」という声であったような気がしてなりません。
見出した者、見出されたいのちの存在として、それぞれの日常がこの福音の恵みを基にしてあゆむものとされてまいりましょう。ここから。

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神の業に対する冒涜

2017-02-12 14:38:38 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ12・22-32

昨日はこの教会を会場に「2・11信教の自由を守る日」を覚えての関西地方連合社会委員会主催の集会がもたれました。こうして自由に集い主の福音に触れ、賛美ができるということがどんなに幸いなことか。映画の「沈黙(サイレンス)」も観に行きましたが。神の救いの業はどこまでも人を生かす力として働かれる。世には体制や勢力、イデオロギーによって個々人のいのちが軽んじられていく力が働き、時に神の救いの業を冒涜するようなことが起るのです。今日は2000年前の、そのような今に通じるお話であります。

まず、この出来事の前の箇所には、イエスさまの弟子たちが安息日に働いてはならないのに麦の穂を摘んでそれを食べ、ファリサイ派の人たちと問答になったエピソード。
さらに安息日にイエスさまが「手の萎えた人をいやす」エピソードが記されております。ファリサイ派の人々はその出来事を機に、「どのようにイエスを殺そうかと相談した」とあります。その一方、「大勢の群衆がイエスに従った」ともあります。ここに神の救いを切に求め、体験し、喜び迎える動きと、それを拒み、イエスさまを抹殺しようとする動きが起っていったことがわかります。

そういう中で今日のところでは、一人の悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人がイエスさまのもとへ連れられてきて、イエスさまがいやされると、その人は、ものが言え、目が見えるようになります。
すると、群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言ったとあります。ダビデの子とは、来たるべきメシヤ、救世主、油注がれた王ということで、群衆はイエスさまこそ自分たちをローマの圧政から解放し、イスラエルを回復してくださる方ではないか、と期待したんですね。まあイエスさま御自身はそういう群衆に対して16節にあるように「自分のことはいいふらさないように」と、御自分がまつりあげられることをこばまれたのです。
それは18節以降の預言者イザヤの言葉を引用され、「神の霊の働きこそ心に留めるように」と促されるのであります。そしてイエスさまのうちに働いておられた「神の霊の業」は、20節にあるように「神の義であり、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」そのような神の救いの業であり、異邦人、つまり全世界すべての人にもたらされる主の救いの福音であります。
まあそのようなイエスさまを群衆は皆歓迎したのでありますが。この出来事を聞いたファリサイ派の人々の態度は、そんな群衆とはまったく対照的でした。
彼らは、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」。すなわちイエスのなしたその行為は、「悪霊の力」によるものだ、と難癖をつけたというんですね。

彼らファリサイ派の人々にとっては、安息日に弟子たちが空腹のあまり麦の穂を摘んで食べたことに関するイエスさまの対応、また安息日に手の萎えた人をいやしたイエスさまの行為は、律法の安息日規定に違反するものであり断じて許されるものではなく、神に従う者が戒めをないがしろにするなどあり得ないと考えたのです。
ファリサイというのは「分離された者」という意味です。彼らは世俗から自分たちを分離し、律法を厳格に守り行なうことで神の前に聖別された者になろうと決心した人たちです。その志は熱心で立派であるかもしれません。しかし自らの義、正しさを「律法厳守」という自分の行いによって達成しようとしたとき、彼らは高慢になっていきました。神の側からの救いが訪れたのに、それを拒絶するという高慢です。
麦の穂を摘んで食べた弟子たちに軽蔑の視線を向ける彼らに、イエスさまは「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪のない人たちをとがめなかたであろう」とおっしゃいました。又、手に障がいを負っている人の痛みも思わないで、イエスさまを訴える口実に利用しようとする彼らに、イエスさまは「穴に落ちた羊より遙かに大切なその人の救いを示さた」のです。
それでもう逆恨みといいましょうか、逆ギレというんでしょうか、彼らはその高慢によってイエスさまのことが目の上のこぶのようのように邪魔な存在となり、「どうやって殺そうかと相談した」というのです。

さて、話を本日の箇所に戻しますが。
この当時ユダヤでは、異邦人を中心に、怪しげな呪術が横行していたという背景もあったようです。ユダヤのファリサイ派の人たちから見れば、イエスもうさんくさい呪術魔術で群衆を惑わすやからのように映ったのでしょうか。とにかく群衆がイエスさまを「ダビデの子、メシヤではないだろうか」といったことが、もう彼らには許されないんですよね。イエスをベルゼベル「悪霊の頭の力によらなければ、この者は悪霊を追い出せない」と非難したのであります。

それに対してイエスさまは、「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くのだろうか」と、独特なたとえでもって反論いたします。そして「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」と、反対に問い質されます。
実は当時、ユダヤ教の中でも悪霊追い出しによる病人のいやしが行なわれていたということです。それでイエスさまは、「あなたたちの仲間は何の力で悪霊を追い出しているのか。もし言うように悪霊の頭によって癒しが起こるのなら、あなたたちの仲間もそうなのか。それでは内輪もめだなあ」と皮肉を込めておっしゃったのですね。イエスさまもやるなあと思いますが。
まあそう釘を刺された後でイエスさまは威厳をもってこうおっしゃるのです。
28節「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追いだしているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。

それはですね。イエスさまが宣教を開始して「悔い改めよ。天の国は近づいた」。それが接近しているとおっしゃった時よりも、さらに、もう天の国、神の国はあなたたちのところに近づいた。いやすでに今ここに来ている、とおっしゃっているのです。神の霊で悪霊を追いだしているのであれば、この悪霊にとりつかれているとされている人が解放され、言葉をもたなかった人が自分で話せるようになり、見えなかったことが見えるようになった。それは一人の人間が神の前に取り戻されたという事を現しているのです。

イエスさまはこのようなかたちで現に「神の国があなたたちのところに来ているのだ」
とおっしゃっているんですね。別の箇所で、イエスさまは神の国というのは、あそこにあるとか、どこにあるというようなものではなくて、「実にあなたたちの間にある」とおっしゃっています。
今私たちもそうですが。神の前に尊い一人ひとり、かけがえのない命として取り戻されたことを知った時、又認められた時。それが救いであり、神の国と実感できる時。信じ得る時ではないでしょうか。聖書はそれこそが、神の霊の業であり、神の国の到来であるというのですね。

最後に今日の箇所からもう一つ大事なメッセージをお伝えして宣教を閉じたいと思います。それはイエスさまがおっしゃった末尾の「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが。霊に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない」というお言葉です。

イエスさまはファリサイ派の人たちのように自分を正当化したり、自己絶対化されません。それどころか、自分に対しての悪口や非難の言葉、あるいは言い逆らう言動があったとしても、それは赦されるとおっしゃるのです。そこがすごいなあと思うのですが。イエスさまは自分を正当化するのではなく、ただ神の霊の業である、先ほど申しあげた「救いと神の国」が現されるそのことを何よりも最優先になさっているんですよね。
イエスさまはその後、遂に十字架にかけられ、すべての人の犯す罪や冒瀆の言葉の一切を身に引き受け、神の霊による完全な救いの業を成し遂げてくださいました。
その赦しの福音は、まさに悪魔の縄目にある私たち人間を完全に解放へと導くものです。
この神の霊の壮絶な愛によって、私たちは今日も主の御救いに与ることを許され、神の国の訪れを体験しているのです。
イエスさまは「人が犯す罪や冒涜はどんなものでも赦されるが、この神の霊の業に対する冒涜は決して赦されない。聖霊に言い逆らう者は、赦されることはない」とおっしゃっています。
ファリサイ派の人々がそうであったように、自分の主義主張を絶対化し、正当化し、「神の霊の救いの業によって一人の人が神の前に取り戻されていくその救いの御業を否定し、冒涜する者はその救いを受けることなく、それがすでに滅びであり裁きとなっているということでありましょう。

今日のメッセージから、神の霊のお働きの何たるかを心に留めて、ここから遣わされてまいりましょう。

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来たるべき方は、あなたですか

2017-02-06 09:28:37 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ11・2-19

洗礼者ヨハネは3章に記されているように、ユダヤの荒れ野において「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言しました。そして彼のもとにぞくぞくと集まって来て、罪を告白する人々に「悔い改めに導くバプテスマ」を施していました。
ヨハネは「自分の後に来られるお方こそ、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語っていました。
ヨハネはその後、領主ヘロデの兄弟と妻の結婚が律法で許されていないことや、ヘロデ自身に行なったあらゆる悪事について、率直に神の前によろしくないと、苦言を呈したため、捕えられ投獄されてしまいます。
そういう中、「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」とあります。ここにわざわざイエスでなく「キリスト」(救世主)と記されています。それはヨハネがイエスさまこそ来たるべき救い主として大きな期待をもっていたことを表しています。ヨハネは「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えるまで火で焼き払われる」とかつて言っているように、この世の義人と悪人とを選り分け、正しい裁きを行なって世を正される。そういった政治力をもった王であると、考えていたのです。
ところが自分が牢の中でその「キリスト」のなさったことを聞くと、そのようなイメージとは何ともほど遠いのですね。正面切って政治批判するわけでもないし、民衆を奮い立たせて革命を起す気配もない。伝わってくるのは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え続けておられることや、罪人と呼ばれる人と飲み食いしているらしいとの噂。ヨハネにとっては、病人のいやしなどの多くのしるしを行ったところで、政治権力のもとから神の民を解放することができないなら何になるか。現代的にいえば社会が変えられないなら一人ひとりも救われないじゃないか、というような焦りやじれったさがあったのではないでしょうか。
そこで、ヨハネは自分の弟子たちを(イエスさまのもとに)送って、「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせたのです。
 さて、そうしますとイエスさまは、ヨハネのお弟子さんたちに「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」とお答えになります。ここで肝心なのは「あなたたちが実際見聞きしていること」をヨハネに告げなさいと、言われていることです。人の噂ではなくて、あなたがたが実際に目で見て、耳で聞いて体験したことをヨハネに伝えなさい。「自分の体験をあかししなさい」いうことです。

主イエスは言われます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。
聖書はその後、ヨハネの弟子達がどうなったかについては何も記されていないのでわかりません。しかし、イエスさまはここで、人や噂ではなく、「あなた」が見聞きした体験を伝えること、あかしすることが大事だとお語りになっていることを心に留めたいと思うのです。

先ほど招きの言葉でイザヤ書29章18節19節の「その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉すら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い。貧しい人々は、イスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る」という主の到来によってもたらされる回復の預言が読まれました。
そはまさに主イエスによって事実となるのです。イエスさまはヨハネの弟子達に対して、「わたしにつまずかない人は幸いである」と語られますが。この回復の預言をして主イエスによってもたらされた恵みの事実に与って生きるようにと、招かれるのです。

話は変わりますが、先週、大阪キリスト教連合と大阪南YMCA共催のキリスト教オープンセミナー、テーマ「共に生きる」~熊本地震の体験を通して~と題し、大阪南YMCAを会場に講演会が開催されましたので、聴講させて頂きました。講師の神田牧師は、22年前の阪神淡路大震災に中学2年の時に遭われ、その後28歳の時にお母様の死という大変辛い経験をされた後、牧師となる献身に導かれ関西学院大学神学部を卒業されて、2014年から熊本の日本基督教団武蔵ヶ丘教会の牧師として赴任されて、昨年4月の熊本地震に遭われたという方です。
4月16日未明の震度7の本震が起った時のことについて、神田牧師は「2階の牧師館で寝ていましたが、20分ほどの猛烈な揺れが続き、あまりの恐怖で死を覚悟し、父親に連絡したほどです。幸い、身近では人的被害が少なくて済みましたが、被災者としての苦労は阪神・淡路と変わりません。精神的ダメージは熊本地震の方が大きいと思います」と述べておられます。
そうして御教会が日本基督教団九州教区の震災対策本部となって様々なお働きをされ、その体験談を伺うことができましたが。その本震の後も豪雨、雨漏りとたたみかけるように起っていく中で、「心が折れる」とおっしゃっていました。地震から9ヶ月たっても未だに「闘っている」と、その思いを吐露されましたが。
そのご講演の後で質疑応答が行なわれたのですが、その一コマが私は心に焼きつきました。それはある方が「被災者の支援はもっと政治家の活動が必要じゃないでしょうか」という質問をされたんですけれど。それに対して神田牧師は丁寧にお答えになって、「私たちの活動は政治力ではなく、政治の力さえ及ばない、そういうところからも漏れている人たちに寄り添う、そこに教会にしかできないことがあるのではないでしょうか」とおっしゃったんですね。
この日は、水曜祈祷会が午前中あり、この聖書の箇所を共に読み分かち合った後、このご講演に臨んだのですが。まさに今日のこの箇所が語りかけている、主イエスさまのお働きと大切にされている思い、神の慈愛というものが心に迫ってまいりました。

聖書に戻りますが。
イエスさまは、ヨハネの弟子達が帰った後、群衆にヨハネについて話し始められます。
「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。・・・(そして強調して)はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネよりも偉大な者は現れなかった」。
イエスさまはここで、時代や風潮に移り変わるヒーロー的なスター、権力をもった指導者、宗教的指導者を崇め、仰ぐために荒れ野に行ったのかと群衆に問いかけておられるんですね。いや、そうではないだろう。権力者や指導者に対してもまっすぐに「悔い改めよ。天の国は近づいた」と勧告するバプテスマのヨハネのもとに行ったのではないか。彼は正に預言者以上の者で、人間の世に於いて彼より偉大な者は現れなかった、とイエスさまは絶賛します。ヨハネこそ律法による義に生きる者として最高の人であったということです。
イエスさまは「しかし、天の国で最も小さい者でも、彼より偉大である」と語られます。この「天の国で最も小さい者」とは一体どういう存在でしょうか。それは天使のような存在を指しているのではなく、天の国が到来したという恵みのうちに生きる者を指しているんですね。私たち主を信じ救いに与る者もそうであります。しかしそれは何も、私たちが偉大だという事ではなく、繰り返しますが、主イエスによってもたらされた神の義と救いの恵みこそが偉大なのであり、私たちはその尊い恵みに与る存在であるという事であります。実はそこに主イエスさまが救い主として来られた真理があるのです。
イエスさまは世にあって小さくされた者、弱くされた者、病いをもつ者、罪人とされた者と交流され、食事をなさいました。それは何か上から目線、してあげるということではなく、それこそ共に生きる者、寄り添う者としておいでになられたのです。それら一人ひとりが心から救いを願ってやまないことをご存じであられるお方です。本当に救われた喜びをもつ人は、その喜びと感謝をもって生きるでしょう。天の国は近づいたとの恵みの中に歩み出すでしょう。イエスさまはその救いをして「信仰によって生きる人は、ヨハネに優る義に生きている」とおっしゃっているのです。

最後に、イエスさまは「耳のある者は聞きなさい」とおっしゃいます。
そして、当時のユダヤの社会や時代の人々を、市場(広場ではない)に集まっているこどもたちの結婚式ごっこや葬儀ごっこといった遊びのたとえをなさいます。ところ変われば、ユダヤではそういうごっこ遊びをしていたようですが。いわばこれは、わらべ唄ですよね。
「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった」。自分たちが一緒にごっこ遊びをやろうと呼びかけたのに、誰ものってこない。他のこどもたちは無関心で、ただ傍観者のようにしている態度に、ちょっと悔しがりながら、又残念な気持ちを歌ったのかも知れません。
そんなふうに「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取り憑かれている』と言い、人の子(主イエス)が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。そうです。律法の義にまっすぐに生きた「ヨハネ」にも、又、福音をもたらし実現された「主イエス」にも、人々は冷淡で無関心であると、たとえを通し嘆かれているのです。

人々の無関心や冷淡さは確かに存在します。「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」と主イエスは語られます。
 
ヨハネは、主イエスに「来たるべきお方は、あなたですか」と尋ねましたが。それはキリスト、救世主(メシア)である王はあなたですか、との問いでありました。世を正し、権威をもって統治されるお方には変わりありません。けれどもゼカリヤ書4章6節に「武力によらず、権力によらず、能力によらず、ただわが霊によって」ともあるとおり、主はそのように神の国を到来を成し遂げるお方なのです。
このマタイ福音書は、イエスさまがお生まれになるに際し、「その名はインマヌエル」:「神が我々と共におられる」という意味であると、伝えます。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。
主イエスは私たちの日常の中に、そのひきこもごも、喜びも悲しみのときも共にいてくださるお方として今日もおいでになる。ここに私たちの救いがあります。祈ります。
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