礼拝宣教 マタイ14・22-33
今日の箇所の冒頭に、「それからすぐ」とあります。
これは、前の記事の5千人に食べ物をイエスさまが与えられた奇跡の出来事をさしています。群衆たちはその奇跡に酔いしれ興奮冷めやらぬ状況でした。同じ記事が記されたヨハネ福音書6章には、その給食の奇跡の後「イエスは、人々(群衆)が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」とあります。群衆はイエスさまを政治的な王として奉りあげようとしたのです。しかしイエスさまはそれを拒み、祈るためにひとり山に登られるのであります。
イエスさまはご自分がどのようにあるべきかをよくご存じでした。それは、この地上の権力を手にして民衆を支配したり、又国家を再建していくような為政者となることではありません。ただ父の神さまの御旨を行なう。唯そのことのみ、心を向けられたのであります。イエスさまにある神さまの御心、それは神さまの愛と救いを示し顕わし、成し遂げることでした。もし「権力をもって王となった方が効率がいい」とイエスさまが地上の王になられていたなら、一時的にはユダヤの民の国がよくなったとしても、私たちの救いは永遠に絶たれていたでしょう。神さまの御心に従う十字架の道をあゆみ通してくださったからこそ、今日私たちは主の福音、御救いに与ることがゆるされているのですね。
私も牧師として立てられていますが。それは神さまの御心とゆるしの中で役割が与えられているに過ぎません。教会のみなさんと何ら身分的違いはなく牧会という一つの働きを託されているにすぎないのです。プロテスタント(新教)の中でも私たちバプテストは、万民祭司。つまりすべての信徒が祭司であるという新約聖書のメッセージを大切にしてきました。礼拝での牧師の宣教も大事ですが、今日まで牧師だけでなく信徒も協働で教会形成を担ってきたという歴史があります。
イエスさまが周りの期待や目先の効率的手段として上に立つのでは無く、どこまでも父なる神の御心に従われた。王に奉りあげられることを避けて、群衆から退き祈られことを思う時、キリストの教会の中心、頭、リーダーは唯主なる神であられることを知らされます。このお方にこそ共に従ってまいりましょう。
さて、本日のマタイの14章に話はもどりますが。
ここでイエスさまは「弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。祈るためにひとり山にお登りになられた」というのです。
どうしてイエスさまは強いて彼らを舟に乗せ先に向こう岸へ行かせたのでしょうか?なぜ、一緒に舟に載って行かれなかったのでしょうか?
それは、イエスさまが、やがて弟子たちと別れなければならない事、又弟子たちの将来において遭遇するであろう、ありとあらゆる困窮や苦難の折にも、「主は共におられるる」という確信と平安に与る者となるように、切に願われたということであります。
そのためにイエスさまがなしたことは、第一に弟子たちのことを父の神に執り成し祈られたということですね。イエスさまはひとりで父の神と相まみえて弟子たちのことを執り成し祈られると共に、おそらく御自分の使命についても再確認される時を持たれたのではないかと思うのです。
このイエスさまの祈りは、私たちの祈りの手本であります。執り成しの祈りと自分の立ちどころを再確認していく。それは私たちもまたひとりで主なる神さまと相まみえて一対一で祈るときを持つことが如何に大切か。そういうことがここに示されているのであります。
又、一昼夜ひとり山で祈られた後にイエスさまが起された第二のアクションは、弟子たちが悩まされていたまさにその現場に行かれたということであります。
舟は教会を表すとも言われますが。教会も又、時代の波風に、あるいは時々の状況の中で、時に大きく揺さぶられ、にっちもさっちも行かないような状況に陥ることがあります。この弟子たちのみならず、時に嵐に沈みかける舟のように厳しい状況の中で揺れ動く教会、信徒に向けても、主は実に共においでになるのだということをこのエピソードは示しているわけですけれども。
さておき、弟子たちはイエスさまのお姿を海の上に見た時、それが幽霊だと言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげます。彼らはひどい逆風に一晩中悩まされ、怯え、不安を抱えていました。疲労し追い込まれていた。そういう心身状態で、薄暗い夜明けに湖上を歩いてこちらに向かって来る何ものかの姿を見れば、そりゃあ長年漁師をしていた弟子たちであっても怖かったと思うんですよね。
まあそうして彼らのところに行かれたイエスさまは、すぐに彼らに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と話しかけられます。
この「わたしだ」というのは、幻想などではない。幽霊なんかじゃない。正真正銘「わたしだ」ということです。
この「わたしだ」と訳されたエゴー エイミーは旧約聖書の出エジプト記3章で神さまがご自分を言い表わされる時にお使いになった「わたしはある」と同じ意味の言葉なんですね。それを確か口語訳では「わたしは有って有る者」と確か訳されていたかと思いますが。
つまり、イエスさまが「安心しなさい。わたしだ」とおっしゃるとき、それは不確かな幻想などではなく、エゴ- エイミー。確かに「私がここに存在している。安心しなさい」。そういうことなんですよね。それは私たちの側がどんなに深い闇、不安と恐れの中で、唯主に叫びながら右往左往していようとも、主は確かに共におられる。世にはまたとなき平安。安心がここにあります。
さて、湖の上を歩くイエスさまの記事は、マルコとヨハネの福音書にも共通に記されているのですが。このマタイにしか記されていないのが、12弟子の一人ペトロの行動であります。
28節、「すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください』。イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった」。
ここを読みますと、注目すべきは、イエスさまのお言葉に目を向けていった時、ペトロも水の上を歩くことができたのですね。ところが強い風に気がついた瞬間。どっと恐怖が押し寄せて来て、あわや沈みかけてしまうのです。慌てたペトロは「主よ、助けてください」と叫び求めると、すぐにイエスさまはペトロに手を伸ばしてお助けになったということであります。
先週の事でありましたが。私事、母の回復のためにお祈り頂きまして、ありがとうございました。感謝なことに、無事意識が回復し、現在は自宅で普段通りの生活ができております。18日の土曜日の午後6時に行方不明になったとの連絡が入り、その後見つかったとの連絡が入ったのが日をまたいだ翌日の深夜1時頃でしたが。とにかく礼拝の為の準備をしながらも正直心配でなりません。ペトロが強風に気がついて怖くなったように最悪の状況がふと頭をよぎりますと、もう「主よ、助けてください」と心の中で叫ぶような思いでした。実は発見されたときの体温が25度しかなくて、「あと少しでも遅れていたなら凍死していた」と、妹が医師から言われたと聞いてゾッといたしましたが。暗い中路上に倒れていた母を発見して救急に連絡してくださった方には唯々感謝であります。そして何よりその背後で神さまの御守りがあったことをひしひしと感じ、心から主を賛美します。
聖書にもどりますが。まあ吹きつける強風に気がついて怖くなり沈みかけたペトロに、
イエスさまは「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」と言われます。
ここでイエスさまはペトロに対して「信仰の無い者よ」とはおっしゃっていないのです。「信仰の薄い者よ」とおっしゃった。それは「信仰が小さい」と同じことですが。まあ、そう聞きますとどういうのが薄く小さい信仰で、どういうのがぶ厚い信仰なのかなど考えてしまうわけですけれども。ここを見ますと、イエスさまはペトロに「なぜ疑ったのか」とおっしゃいます。
この疑うの原語は「二つの方向に歩んで行く」という意味です。ドイツ語で「Zwei-fel」二重の状態を表します。つまり人が二つの心を胸に抱いているという状態のことですね。
日本でも「二心」などと申します。ドイツ語と同様心の状態が二通りという意味と、さらにそれは「不忠実な心」「謀反の心」「疑いの心」ということです。
ここでペトロは主イエスの言葉、ご意志に従ってまっすぐにあゆみ通せば無事イエスのもとに辿りつけたんでしょうが。けれど強い風に気づき気持ちがそちらに囚われたことで心が二つの状態にわれて、疑いと恐れの念が生じたという事なんでしょうか。
でも、ここでイエスさまはその「信仰の薄く、疑った」ペトロが必死に「主よ、助けてください」と叫ぶその声に、すぐに手を伸ばして救い出されたのですね。実はここでペトロは自らのそんな挫折によって、真の信仰を見出すのであります。それは自分の思い描くような強い信心によってではなく、「主よ、助けてください」というほかない自分を、主が救ってくださるという信仰です。この確かなお方、この主イエスに唯まっすぐに従い行く。それが自分のなすべき道なのだ、とこの出来事をとおしてペトロは確認したのではないでしょうか。
ここを読みますとき、私たちもともすれば人間はまっすぐに主への信仰を堅持していたいと望みながらも、実際の生活の中では、自分の力を頼みとしていたり、又別のものを祭り上げて頼みとしていくような、「疑い多き」「信仰のちっぽけな」者ではないでしょうか。みなそれぞれに信仰と疑いの中を揺れ動いている日常がある。けれども、幸いなことは、今日の聖書にありますように、大きな問題や困難の中で怖じ惑い、「主よ、助けてください」と叫ぶほかない私たちを決して忘れことも、見捨てることもなく、イエスさまは「わたしが共にいる」「わたしは在ってある者」「安心しなさい」と御手を伸ばしていてくださっているということですね。そこに真の平安がございます。このイエスさまのみ声を聞いて、人生の荒波を主と共にあゆみ通してまいりましょう。祈ります
今日の箇所の冒頭に、「それからすぐ」とあります。
これは、前の記事の5千人に食べ物をイエスさまが与えられた奇跡の出来事をさしています。群衆たちはその奇跡に酔いしれ興奮冷めやらぬ状況でした。同じ記事が記されたヨハネ福音書6章には、その給食の奇跡の後「イエスは、人々(群衆)が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」とあります。群衆はイエスさまを政治的な王として奉りあげようとしたのです。しかしイエスさまはそれを拒み、祈るためにひとり山に登られるのであります。
イエスさまはご自分がどのようにあるべきかをよくご存じでした。それは、この地上の権力を手にして民衆を支配したり、又国家を再建していくような為政者となることではありません。ただ父の神さまの御旨を行なう。唯そのことのみ、心を向けられたのであります。イエスさまにある神さまの御心、それは神さまの愛と救いを示し顕わし、成し遂げることでした。もし「権力をもって王となった方が効率がいい」とイエスさまが地上の王になられていたなら、一時的にはユダヤの民の国がよくなったとしても、私たちの救いは永遠に絶たれていたでしょう。神さまの御心に従う十字架の道をあゆみ通してくださったからこそ、今日私たちは主の福音、御救いに与ることがゆるされているのですね。
私も牧師として立てられていますが。それは神さまの御心とゆるしの中で役割が与えられているに過ぎません。教会のみなさんと何ら身分的違いはなく牧会という一つの働きを託されているにすぎないのです。プロテスタント(新教)の中でも私たちバプテストは、万民祭司。つまりすべての信徒が祭司であるという新約聖書のメッセージを大切にしてきました。礼拝での牧師の宣教も大事ですが、今日まで牧師だけでなく信徒も協働で教会形成を担ってきたという歴史があります。
イエスさまが周りの期待や目先の効率的手段として上に立つのでは無く、どこまでも父なる神の御心に従われた。王に奉りあげられることを避けて、群衆から退き祈られことを思う時、キリストの教会の中心、頭、リーダーは唯主なる神であられることを知らされます。このお方にこそ共に従ってまいりましょう。
さて、本日のマタイの14章に話はもどりますが。
ここでイエスさまは「弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。祈るためにひとり山にお登りになられた」というのです。
どうしてイエスさまは強いて彼らを舟に乗せ先に向こう岸へ行かせたのでしょうか?なぜ、一緒に舟に載って行かれなかったのでしょうか?
それは、イエスさまが、やがて弟子たちと別れなければならない事、又弟子たちの将来において遭遇するであろう、ありとあらゆる困窮や苦難の折にも、「主は共におられるる」という確信と平安に与る者となるように、切に願われたということであります。
そのためにイエスさまがなしたことは、第一に弟子たちのことを父の神に執り成し祈られたということですね。イエスさまはひとりで父の神と相まみえて弟子たちのことを執り成し祈られると共に、おそらく御自分の使命についても再確認される時を持たれたのではないかと思うのです。
このイエスさまの祈りは、私たちの祈りの手本であります。執り成しの祈りと自分の立ちどころを再確認していく。それは私たちもまたひとりで主なる神さまと相まみえて一対一で祈るときを持つことが如何に大切か。そういうことがここに示されているのであります。
又、一昼夜ひとり山で祈られた後にイエスさまが起された第二のアクションは、弟子たちが悩まされていたまさにその現場に行かれたということであります。
舟は教会を表すとも言われますが。教会も又、時代の波風に、あるいは時々の状況の中で、時に大きく揺さぶられ、にっちもさっちも行かないような状況に陥ることがあります。この弟子たちのみならず、時に嵐に沈みかける舟のように厳しい状況の中で揺れ動く教会、信徒に向けても、主は実に共においでになるのだということをこのエピソードは示しているわけですけれども。
さておき、弟子たちはイエスさまのお姿を海の上に見た時、それが幽霊だと言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげます。彼らはひどい逆風に一晩中悩まされ、怯え、不安を抱えていました。疲労し追い込まれていた。そういう心身状態で、薄暗い夜明けに湖上を歩いてこちらに向かって来る何ものかの姿を見れば、そりゃあ長年漁師をしていた弟子たちであっても怖かったと思うんですよね。
まあそうして彼らのところに行かれたイエスさまは、すぐに彼らに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と話しかけられます。
この「わたしだ」というのは、幻想などではない。幽霊なんかじゃない。正真正銘「わたしだ」ということです。
この「わたしだ」と訳されたエゴー エイミーは旧約聖書の出エジプト記3章で神さまがご自分を言い表わされる時にお使いになった「わたしはある」と同じ意味の言葉なんですね。それを確か口語訳では「わたしは有って有る者」と確か訳されていたかと思いますが。
つまり、イエスさまが「安心しなさい。わたしだ」とおっしゃるとき、それは不確かな幻想などではなく、エゴ- エイミー。確かに「私がここに存在している。安心しなさい」。そういうことなんですよね。それは私たちの側がどんなに深い闇、不安と恐れの中で、唯主に叫びながら右往左往していようとも、主は確かに共におられる。世にはまたとなき平安。安心がここにあります。
さて、湖の上を歩くイエスさまの記事は、マルコとヨハネの福音書にも共通に記されているのですが。このマタイにしか記されていないのが、12弟子の一人ペトロの行動であります。
28節、「すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください』。イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった」。
ここを読みますと、注目すべきは、イエスさまのお言葉に目を向けていった時、ペトロも水の上を歩くことができたのですね。ところが強い風に気がついた瞬間。どっと恐怖が押し寄せて来て、あわや沈みかけてしまうのです。慌てたペトロは「主よ、助けてください」と叫び求めると、すぐにイエスさまはペトロに手を伸ばしてお助けになったということであります。
先週の事でありましたが。私事、母の回復のためにお祈り頂きまして、ありがとうございました。感謝なことに、無事意識が回復し、現在は自宅で普段通りの生活ができております。18日の土曜日の午後6時に行方不明になったとの連絡が入り、その後見つかったとの連絡が入ったのが日をまたいだ翌日の深夜1時頃でしたが。とにかく礼拝の為の準備をしながらも正直心配でなりません。ペトロが強風に気がついて怖くなったように最悪の状況がふと頭をよぎりますと、もう「主よ、助けてください」と心の中で叫ぶような思いでした。実は発見されたときの体温が25度しかなくて、「あと少しでも遅れていたなら凍死していた」と、妹が医師から言われたと聞いてゾッといたしましたが。暗い中路上に倒れていた母を発見して救急に連絡してくださった方には唯々感謝であります。そして何よりその背後で神さまの御守りがあったことをひしひしと感じ、心から主を賛美します。
聖書にもどりますが。まあ吹きつける強風に気がついて怖くなり沈みかけたペトロに、
イエスさまは「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」と言われます。
ここでイエスさまはペトロに対して「信仰の無い者よ」とはおっしゃっていないのです。「信仰の薄い者よ」とおっしゃった。それは「信仰が小さい」と同じことですが。まあ、そう聞きますとどういうのが薄く小さい信仰で、どういうのがぶ厚い信仰なのかなど考えてしまうわけですけれども。ここを見ますと、イエスさまはペトロに「なぜ疑ったのか」とおっしゃいます。
この疑うの原語は「二つの方向に歩んで行く」という意味です。ドイツ語で「Zwei-fel」二重の状態を表します。つまり人が二つの心を胸に抱いているという状態のことですね。
日本でも「二心」などと申します。ドイツ語と同様心の状態が二通りという意味と、さらにそれは「不忠実な心」「謀反の心」「疑いの心」ということです。
ここでペトロは主イエスの言葉、ご意志に従ってまっすぐにあゆみ通せば無事イエスのもとに辿りつけたんでしょうが。けれど強い風に気づき気持ちがそちらに囚われたことで心が二つの状態にわれて、疑いと恐れの念が生じたという事なんでしょうか。
でも、ここでイエスさまはその「信仰の薄く、疑った」ペトロが必死に「主よ、助けてください」と叫ぶその声に、すぐに手を伸ばして救い出されたのですね。実はここでペトロは自らのそんな挫折によって、真の信仰を見出すのであります。それは自分の思い描くような強い信心によってではなく、「主よ、助けてください」というほかない自分を、主が救ってくださるという信仰です。この確かなお方、この主イエスに唯まっすぐに従い行く。それが自分のなすべき道なのだ、とこの出来事をとおしてペトロは確認したのではないでしょうか。
ここを読みますとき、私たちもともすれば人間はまっすぐに主への信仰を堅持していたいと望みながらも、実際の生活の中では、自分の力を頼みとしていたり、又別のものを祭り上げて頼みとしていくような、「疑い多き」「信仰のちっぽけな」者ではないでしょうか。みなそれぞれに信仰と疑いの中を揺れ動いている日常がある。けれども、幸いなことは、今日の聖書にありますように、大きな問題や困難の中で怖じ惑い、「主よ、助けてください」と叫ぶほかない私たちを決して忘れことも、見捨てることもなく、イエスさまは「わたしが共にいる」「わたしは在ってある者」「安心しなさい」と御手を伸ばしていてくださっているということですね。そこに真の平安がございます。このイエスさまのみ声を聞いて、人生の荒波を主と共にあゆみ通してまいりましょう。祈ります