日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主は生きておられる

2016-09-18 22:17:15 | メッセージ
主日礼拝宣教 列王記下5章1-19節a   

先週の礼拝で「戸を閉めて神と一対一に向き合って祈る」というお話をいたしました。どうですか、実践してごらんになりましたか。実践された方は如何でしたでしょうか。イエスさまは聞くだけでなく行う者になりなさい、とお勧めになりましたが。実践する人だけが受け取ることのできる祝福があります。本当に大切な事なら時間を割いてでも作らないともったいないですね。いろんな問題や悩み、多くの仕事を抱えている時こそ、「神と一対一になって向き合う」時を確保する。そうすることによって、守り導いてくださる神の御業を見せていただくことができます。先週礼拝で読みました列王記下4章33節にあるとおり、「主に祈る」という恵みの特権が与えられていることは、まことに大きな支えでありますよね。

「主の先立ちと導き」
さて、本日は列王記下5章より「主は生きておられる」と題し、聖書の言葉に聞いていきたいと思います。ここにはイスラエルの預言者エリシャとアラムの軍司令官ナアマンの物語が記されています。アラムとは現在のシリアのことです。今日もイスラエルとシリアとの関係はよいものではありませんが、この当時も争いの中、一時的に停戦状態であったようです。
アラム(シリア)の王の軍司令官ナアマンは重い皮膚病を患っていました。彼は戦闘
の勇士であったのですが、患ってからは自宅で療養していたのでありましょう。そんなある日、彼の妻がイスラエルの召使いの少女から思いもよらぬ言葉を聞くことになります。その少女曰く、「北イスラエルのサマリアの預言者のところに行けば、ご主人様のその重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに」と、そのように言うのですね。妻はすぐいさまそのことをナアマンに伝え、ナアマンはその話をアラムの王に伝えるのであります。
驚いたことに5章の冒頭1節には、王がナアマンを重んじ気に入っていたのは「主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである」とあります。アラムの王は異教の神々を信奉していたのですが、ここから読み取れますのは、彼も又知らざる神を畏れる者であったということではないでしょうか。そういうことでアラムの王はイスラエルの王宛に手紙を書き、ナアマンはその手紙と贈り物の金や銀、さらに晴れ着をもってイスラエルの王を訪ねたのであります。
 ところが、その手紙を見たイスラエルの王は、アラム王の政治的な策略と見て取り、衣を裂くほどに憤慨しました。                                                     
そのことを知った預言者エリシャはイスラエルの王のもとに人を遣わして、「その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」と伝えます。結局イスラエルの王は申し出に許可を与え、ナアマンはエリシャのもとに向かいました。
ここまでが本日のお話の前段であるわけですが。
一つ気づかされたのはナアマンの妻に仕えていた少女の存在です。この少女の働きかけがなかったなら、今日のエピソード自体起こりえなかったでしょう。そこに主なる神さまが国や民族を越えて御自身の栄光を顕わそうとご計画されていたのだということが示されています。このイスラエルの少女は捕虜として異教のアラムの地に連れてこられながらも、生ける主への信頼を持ち続けていました。彼女はきっと主人ナアマンのことを主にとりなし祈ったのではないでしょうか。そこで少女はイスラエルの預言者エリシャの存在とその働きについて思い起こし、女主人に話したのでしょう。
少女にはイスラエル対アラムという国や民族の確執などよりも、主人であるナアマンの
病気がいやされることの方が重要だったのです。
そして預言者エリシャもまた、懐疑心に捕らわれ憤慨するイスラエルの王の思いとは裏腹に、神の栄光がこの異邦人の上にも顕わされることを望みました。エリシャは「主が生きておられ、全世界をすべ治めたもうお方であることを証しする」その機会と捉えていたということですね。

「信仰へ至る道」
さて、ナアマンは数頭の馬と共に戦車にのってエリシャの家に来ました。停戦状態とは
いえ警戒心が働いていたこともあるでしょう。けれどもそれにも増して、療養中の身であるとはいえ、主君に重んじられ、気に入られていた王の軍の司令官としてのプライドといいますか、勇ましさを誇っているかのように見うけられます。
ナアマンはエリシャの家に着くと、その入り口に立ってエリシャが家の中から出迎え
るのを待つのですが、エリシャ本人は中から出てまいりません。ただ使いの者が出てきて、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」と、その言葉が伝えられたというのです。
 この対応に対してナアマンはこう言います。
「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上に手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流の水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか」。彼は身をひるがえして、憤慨しながら去っていった、とあります。
プライドがくじかれたナアマンの気持ちもわかる気がします。出迎えることもなくただ使いの者を送って言葉だけを伝えたエリシャの態度は非礼のようにも思えます。しかし先ほども申しましたが、エリシャは自ら衣を裂いたイスラエルの王のもとにわざわざ
人を遣わして、「その男・ナアマンをわたしのところによこしてください」とそう言いました。エリシャには考えがあってのことだったのです。そのことはまた後でお話する
として。
さて、ナアマンが腹を立て帰っていくその途中で、彼の家来たちが近づいて来ていさめたとございます。これもまた不思議な感じがいたしますが。その家来たちの判断と
賢明な態度も先の少女と同じように、やはりこれも主の導き、お取り扱いと言わざるを得ません。
家来たちはナアマン司令官にこう言います。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか」。これはもう
本当に信仰者の言葉ですよね。
家来たちにいさめられたナアマンは、「神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸します」。するとどうでしょう。「彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった」というのです。
ヨルダン川に身を浸す。それはバプテスマを受ける者の姿のようであります。そしてまた、小さい子供の体のように柔らかな皮膚にされたナアマン。それは生まれたての赤ちゃんのように、彼は新しい人として生まれ変わったことを象徴しているかのようです。事実ナアマンは川から上がった後に、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」と、その神を大胆に告白します。

古き人であったナアマンは、エリシャを通して示された神の言葉をまともに受け入れることができませんでした。司令官として王の命令に従うことは出来ても、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」といういとも単純な指示には、それがあまりにも簡単なことであるがゆえに受け入れることができませんでした。そんなことで治るものか、人を馬鹿にしている。
神さまはエリシャをして、ただ御言葉のみを与えることで実はそのナアマンの信仰を試されたのではないでしょうか。ナアマンの体を元に戻し、清くするのはエリシャではなく、生ける神、主御自身であります。ただその主の言葉を信じ、単純に受け入れて、その通りに行なう信仰が求められていました。そうですよね。神さまの救いの御業は教会に通えば与えられるのでしょうか。牧師が祈ったら受けるんでしょうか。たくさん努め
よく奉仕したら与るのでしょうか。そうではありません。救いの力は神の御言葉、ただこの聖書の言葉にあるのです。

一旦は憤慨しつつその場を立ち去り帰ろうとしたナアマンでしたが。家来たちの言葉に耳を傾け、聞き入れる事ができたのは幸いでした。イエスさまは、「だれでも子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18:3)とおっしゃいましたが。人が神に救われるために必要なものは一体なんでしょう。特別な知識や教養、学問が必要でしょうか。むろん誤った解釈を避けるためにそれもあった方がよいでしょうが。それはおいおい学んでゆけばよいことです。何より大切なこと、それは主の言葉、福音の言葉を「聞いて受け入れ、信じて行なう」。その事に尽きるのであります。

「主は生きておられる」
さて、そうしていやされ生ける神の栄光を体験したナアマンですが。彼は神の人エリシャに対して、「今この僕からの贈り物をお受け取りください」と申し出たところ、エリシャは「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退したとあります。
 この「主は生きておられる」ということと「わたしは受け取らない」ということとはどういう関係があるのかと思われるかも知れませんが。エリシャは「ナアマンを清くしたのはわたしではなく、生ける神さまなのだから」と言っているのですね。
エリシャは自分が神のようになって、称讃され神格化されることに対して生ける主を畏れていましたから、そのような誘惑から離れるように努めていたのではないでしょうか。今日は読みませんでしたが、このエピソードの終盤、従者ゲバジがエリシャと同じように「主は生きておられる」と言うのですが。ところが彼は自分が働いたからこのことが起こったのだ、として当然のように報酬を要求するのですね。怖いですね。これは神さまの栄光を横取りしているんですね。先日のリオのオリンピックのサッカーで最終的にゴールを決めたネイマール選手が表彰台で「100%ジーザス」のはちまきをしていましたが。あれはまさに100%主イエスが働かれたことであるとして、主にすべての栄光をお返しする姿だったんですが。その姿に非常に感激したわけですが。
私どもも又、何らかの働きをした時、神の御業が現わされた時、それを主がなして下さったこととして100%主にお返しするものでありたいものです。
 さて、信仰告白をして信仰生活のスタートを切ったナアマンは、エリシャにいいます。「らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。」
それはイスラエルの地、ヨルダン川で自分の身に起こったことをいつも思い起こして、忘れないためであり、自分の家で主なる神を礼拝するためにその土が役に立つと考えたからでしょう。新しい人として生まれ変わったばかりのナアマンには不安や心配の思いが強くありました。この記念の地の土を持っていけば、きっと信仰の力になると考えたのでしょう。
またナアマンは続けてこう言っています。「僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません・・・ただし・・わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき・・わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません・・・主がその事についてこの僕を赦してくださいますように」。
ナアマンは異教のアラムの王に仕える軍司令官でした。一国の王がリモンの神殿(アッシリアの雷を祀った偶像神)にひれ伏すとき、彼は王の介添えをしなければならない立場でした。その際、彼も王と一緒に神ならざるものにひれ伏さなければならなかったのです。そういう信仰的な戦いが今後待ち受けていることを、神の人エリシャに打ち明け、神の赦しを乞うたのです。
 異教の地、神ならざるものを神とあがめ信奉するような世界に帰ってゆかねばならなかったナアマン。これは決して人ごとではありません。この国で仕事をしようとする
時、なにがしかのこういった問題に直面した方も少なくないでしょう。そういう不安を抱えていたナアマンに対して、エリシャは「安心して行きなさい」と彼を送り出します。エリシャはナアマンの願いに対して、その信仰をあるがまま受けとめます。そうです、ナアマンはまだ生まれたばかりの神の子、神の民でした。エリシャはアラムの地でナアマンが神の子、神の民として救いの業と信仰をしっかりともって生きることを願い、祈りつつ、主にお委ねしたのでした。「安心して行きなさい」。
 かの地にいても主は生きておられ、信じて従う者を知っていてくださる。そう確信して送り出したに違いありません。

最後に、選びの民イスラエルの歴史とそのあゆみについて描く旧約聖書の時代に、
一人の外国人がいやされることで、生ける神が讃美されるというこのことから、私たちは何を聞くことができるでしょうか。私たちの主イエス・キリストはガリラヤで伝道をお始めになるにあたりイザヤ書を引用してこう言われました。マタイ4章15節「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダンの川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
異邦人のナアマンは救いを記念するため土を持って帰りましたが。今や私たちは、主イエスの十字架を仰ぎ見るとき、この世界のどこにおりましても、国や民族の違いに関わらず、愛とゆるしを与えんとしてくださる神さまの救いを知ることができます。主は
人を分け隔てなさることなく、一人一人大切な存在として今日この日を招いておら
れます。エリシャが申しましたように、「わたしの仕えている主は生きておられる」。
この生ける主の招きに応えてまいりましょう。祈ります。
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大阪教会バザーのご案内

2016-09-15 21:24:49 | お知らせ


日時 9月22日(木・秋分の日)午前10時30分-午後2時30分

会場 日本バプテスト大阪教会(日本バプテスト連盟)
  
   JR/大阪市営地下鉄・天王寺駅より谷町筋を北(一心寺・四天王寺方向)へ徒歩5分。


   掘り出し物もあるかも。
   みなさまのご来場を心よりお待ちしております。
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祈り・真剣に向き合う

2016-09-11 20:09:58 | メッセージ
礼拝宣教 列王記下4章8節-37節 

列王記下4章には預言者エリシャの4つの奇跡が記載されておりますが。そのどれもが日常的な問題、病や飢えや欠乏、生と死に対してなされたものであることがわかります。
神の奇跡の御業は実は私たちの身近な問題の中に現わされるということです。
その中の一つは、預言者の夫を亡くした貧しい女性の助けを求める叫びに応え、与えられたものでした。債権者が来て肩代わりに2人の子供を連れ去ろうとしているという、まあ大変な状況でしたが。
エリシャはその女性に、近所から沢山の器を借りてくるように伝えます。彼女の家にはたった1つ、油の入った壺があるだけでした。彼女がエリシャの言ったとおりその1つの壺から油を注ぐと借りてきた器すべてに油がいっぱいになります。それを聞いたエリシャは、その油を売り、負債を払うように伝え、残りの油で生活していくことができる、と保証します。こうして2人の子どもたちは奴隷に取られることなく救われたという奇跡でした。
そして本日読みました箇所は、シュネムの地に裕福な婦人がおりまして、エリシャを神の人として待遇していたのですが。彼女に子供が与えられるもある日突然頭が痛いといって母親の膝の上で死んでしまった。その子供がエリシャの取りなしの祈りによって生き返ったという2つ目の奇跡であります。ちなみにこのエピソードの後には、死に至らす毒ウリの毒を消し、食することがでたという3番目の奇跡、更にわずか20個の大麦のパンで100人もの人たちが食べ、おなかを満たすことができた奇跡と続きます。
忘れてはならないのは、これらの奇跡が44節に「主の言葉どおり」とありますように、それらのすべてが主によってなされたということであります。
エリシャは取りなし、祈り、御言葉を伝えますが、奇跡の御業は神ご自身によって起こされるということです。主なる神こそが命の源であり、すべてを司るお方なのです。

さて、本日は祈りがテーマであります。今日の箇所の奇跡は、最初の預言者の妻に起こった奇跡と共通していることがあります。
それは、どちらも「戸を閉じ」(戸を閉め)て、という言葉が出てくることです。戸を閉めるとは外との関係を遮断するということです。4節でエリシャは預言者の妻に言います。
「戸を閉じて子供たちと一緒に閉じこもり、器に油を注ぎなさい。」
彼女はエリシャのもとから出て行くと、戸を閉め子供たちと一緒に閉じこもり油を器に注いだ。一方シュネムの婦人の話では、21節にあるように「死んだ子供の体をエリシャの部屋に横たえ、戸を閉めて出て行きます。そして彼女は夫にさえその事は言わず、まっしぐらに神の人エリシャの元に来て足にすがりついたとあります。そしてさらに33節には、エリシャが「死んで寝台に横たわっていた子どもと二人だけになって主に祈った」とあります。その時彼は外との関係を遮断して死んだ子供を見ると、中に入って戸を閉じ、2人だけになって主に祈った」とあります。このようにいずれも、外との関係を一時遮断し、真っ直ぐに、一心に主に向かったのです。

新約聖書のマタイ6章6節で、主イエスさまはこうおっしゃっています。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
イエスさまは大変多忙な中、しばしば山に退かれて祈られたのです。それは人の思惑が渦巻く雑然とした世界、その外界を遮断して一時山に身を隠して、集中して一対一で「父の神に祈る」ためであったのですね。神の人と呼ばれたエリシもそうでした。彼も神の助けなくして何事もなしえないことを知っていたがゆえに、神との深い交わりをもつため戸を閉め、主に祈ったのです。
 私たちも又、様々な問題の前に右往左往するしかない時があります。けれども、そこですべてを司っておられる主なる神の前にまず出て、主と向き合うことが大切なのではないでしょうか。奥まった自分の部屋で、差し向かいで主に一心に祈り、対話する時間を持つことの意義を今日のこの箇所から受け取っていきたいと思います。

さて、エリシャは真剣勝負で主に祈り、「死んで寝台の上に横たわっていた子供の上に伏し、自分の口を子供の口に、目を子供の目に、手を子供の手に重ねてかがみ込んだ」とあります。すると「子供の体は暖かくなった」と。そしてさらに、エリシャが家の中をあちこちと歩き回ってから、再び寝台に上がって子供の上にかがみ込むと、子供は7回くしゃみをして目を開いた」というのです。

なんとも不思議なお話のよう思えますが。そこに流れているメッセージとは何でしょうか。
戸を閉じて、真剣に神と向き合って祈ったエリシャは、今度はその子供に相対して口と口、
目と目、手と手を重ね合わせて真正面に向き合っているということです。そのとき子供の体は暖かくなりました。これはある意味人のぬくもりが伝わったというふうにも読めます。本気で真剣に向き合うと、人の息づかいとかぬくもりとかが伝わるものです。けれどもそれだけでは命は取り戻されません。
エリシャはあちこちと家の中を歩き回ったとありますが。この落ち着かない様子はエリシャのこの時の心境を表しているようにも思えます。命を司るのは神であり、人がどれだけ努力したとか、長時間祈ったとかではどうにもできないんですね。何だ、先ほどの話と違うじゃないかとお思いになるかも知れませんが。神は、イエスさまがおっしゃったように祈りを確かに聞いておられるのです。それは間違いないのですが、最終的決定権は人がどんなに祈ろうとも人にではなく神にあるということです。エリシャはこの時、その事実に直面せざるを得なかったのではないでしょうか。そうして神にゆだね、謙遜な心で今一度その子に身を重ねた時、人の思いを遙かに超えてお働きになる神の力によってその子の命は取り戻され、7回くしゃみをして目が開いたというのであります。
なぜくしゃみなのかと思いますが。くしゃみは息を吸わない限りでません。
その息とはギリシャ語でプネウマ。それは神が人を創造された時に神ご自身の息を吹きかけることによって人は生きるものとなった、と創世記に記されています。7は完全数、つまり神の息がこの子供のうちに完全に吹き入れられたということですね。くしゃみは生きているという証です。

今日のお話の中で、エリシャから杖を預かった従者のゲハジが、「杖をその子供の顔の上に置いたが、声も出さず、何の反応もなかった」とありますが。一体エリシャとの違いは何であったのでしょうか。彼はおそらくエリシャの杖に力があると、思い違いをしていたのではないでしょうか。真の力は杖にあるのではなく、命の基なる神にあります。
私たちも世にあって、このような魔法の杖を拝む誘惑や罠が満ちています。神の人エリシャ様の杖なら万能で何でも思い通りに叶う。そういうものに私たちも心引かれやすい者です。もしここで、その杖によって子供が息を吹き返したなら、神の人エリシャの霊験あらたかな杖として崇められたでしょう。しかし神はそうされませんでした。しかしそのことによってエリシャは神の御言葉を伝える預言者として祈り、ゆたかに働くことができたのです。

今日私はこの4章から「祈り・真剣に向き合う」という宣教題をつけましたが。この箇所から、私たちもまたエリシャのように、まず主の前に謙虚にされ、主の栄光が現わされることを求め、祈る者とされたいものです。主は私たちが真剣に祈る祈りを聞いていてくださり、何が最善であるかをご存じで、万事が益として働くご計画をお立てになることが出来るお方です。また主は、私たちに必要なことを示して、それを受けとめたり、行うために必要な愛と力とを備えてくださるでしょう。

最後に今日の箇所から、戸を閉じて神の前に祈る。神と一対一で向き合い祈る大切さについて聞いてきました。それは社会と断絶することや、世の中から逃避することではありません。それとはまったく逆に、世にある私たちが主にあって生きるためであり、又、様々な関係性の中で共に生きるものとなるためであります。そのためにこそ、戸を閉じて一人になってまず主と向き合い、主に祈って主の御言葉に聞く必要があるということなのです。そうして人の間に遣わされていく者となるのです。でないと、真の神の愛と力を受けたり分かち合ったりすることはできません。

D.ボンフェッファーは「共に生きる生活」という名著の中で、「交わりと孤独」についてこういう言葉を残しておられます。
「多くの者は、ひとりでいることを恐れて、交わりを求める。彼らはひとりでいることに耐えられず、その焦燥感ゆえに人々の中へ入っていくのである。・・・中略・・ひとりでいることのできない者は、交わりに入ることを用心しなさい。神があなたを呼んだ時、あなたはひとりで神の前に立ったのではなかったか。ひとりであなたはその召しに従わなければならなかったのではなかったか。ひとりであなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らなければならなかったのではなかったか。・・・中略・・・・
 しかしこれとは逆の命題もまた真実である。交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい。あなたは教会の中へと召されたのである。その召しはあなたひとりに向けられたものではない。あなたは、召された者の共同体の中で、自分の十字架を負い、戦い、祈るのである。あなたはひとりではないのだ。われわれは、交わりの中にいる時のみ、ひとりでいることができる。そして、ひとりでいることのできる者だけが、交わりの中にいることもできるのである。」

何とも含蓄のある言葉ですが。私たちもまた、主の前に一人で、主と向き合い祈るときがほんとうに必要なのです。忙しく慌ただしさの中にあればあるだけ、ひとりになって心を主に向けて祈る時が必要なのです。そこからまた主に召しだされた者として、問題や課題と向き合い、さらに隣人と向き合う愛と、主に取りなし祈る力を頂くのであります。

新会堂が建って11月で3年になろうとしていますが、ほんとうに新しい会堂が与えられたことによって、主のすばらしい御業を日ごと見せていただき感謝なことです。けれども本当に幸いなのは、主イエスの救いと神の愛をここで共に確認できる幸いがある。又、主に祈りとりなし合う神の人に取り囲まれているという幸いがあるということです。
私たち大阪教会が今後さらに「主に祈る」教会、又、祈りとりなすひとりひとりとなって主の栄光を表すことができますように。その祈りをもって、今週もここからそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう。祈ります。

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朽ちない種による新生

2016-09-04 17:54:47 | メッセージ
礼拝宣教 ペトロ一1章13-25節

本日は召天者記念礼拝として先に主の御もとに召された会員会友を偲びつつ、御遺族又、教会の兄弟姉妹と共に、復活の主に礼拝を捧げることができます幸いを感謝します。
先程召天会員会友のお名前が読み上げられました。
昨年の9月以降3名の方々が主の御もとに旅立って行かれ、大阪教会の召天会員会友者の名簿に加えられました。ご遺族、そして教会にとりましては寂しい別れとなりましたけれども、今は天の神の御手に抱かれその魂は憩いを得ておられることと、信じ、復活の主の御名を心から賛美いたします。

昨年も申し上げましたが、本日の召天者記念礼拝にご列席くださいましたご遺族の皆様のうちには、故人は会員でクリスチャンであられても、ご自身はクリスチャンでない方、あるいは他の宗教をもっておられる方もおいででしょう。私は特に今日、故人の信仰を寛容に尊重してくださったそのような皆さまが、この場に集って頂けたことに心から感謝と敬意を表したいと思います。

昨年10月に丘の家が改装され大阪教会の記念室、通称「希望の家」が完成いたしました。それはYさんが天に召されるその日、きれいに改装され覆いが取り除かれたその「希望の家」を、いそいでスマホの写真とビデオに収めてYさんの病床で、「今日記念室ができましたよ」と、お見せして主にお祈りをしたその後、安らかなお顔で天国に帰っていかれたのです。

さて、本日は召天者記念礼拝ですので、従来の列王記下から一旦離れて、ペトロ一1章から「朽ちない種による新生」と題し、聖書のメッセージに耳を傾けていきたいと思います。
まず、わたしがこの箇所を選ばせて頂きましたのは、ここには主イエス・キリストの十字架による救いと復活の希望がはっきりと語られているからです。またここには、福音の知らせによって「新たに生まれた者」、クリスチャンの新しい生き方が語られており、故人を偲びつつ私共もまた、その歩みを確かにされるべく招かれていることをここから聞いていきたいと、願っております。

今日の礼拝の冒頭で読まれた招きの言葉は、ペトロ一1章3節~4節でした。
「主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」。礼拝がまさにそうですが、クリスチャンの生活はまず神への賛美からすべてがはじまります。人はみな創造主、すべての造り主であり、命の基である神を知り、ほめたたえるために造られ、生かされています。
しかし、そうは言っても神への賛美は、私たち人間の内側からなかなか出来るものではありません。かえって不平や不満が口をついて出てきてします。それが罪のため神を見失った私たち人間でありましょう。それでは如何にして私たちは人間本来の神をほめたたえる存在へ立ち返ることができるのでしょう。
それは3節後半から4節にございますような、神の愛と救い、そして計り知れない恵みを得ることによってであります。「神の豊かな憐れみにより」。この憐れみという言葉は元のギリシャ語では最も大きな憐れみと、最上級のことばが用いられています。そのような神の最上級の憐れみによって、「わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え下さった」。もっとわかりやすく言いますなら、イエス・キリストの死者たちのうちからのよみがえりを通して、私たちを生ける希望へと移してくださった、その恵みであります。そしてそれは又、「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださるためであるという恵みであります。さらには5節にあるとおり、新しい人として生かされている今、「終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力、すなわち聖霊と信仰によって守られている、そのようなくすしき恵みと希望のゆえに、神への感謝と喜びが満ち溢れ、神をほめたたえずにいられないのであります。
神をほめたたえる賛美の歌は、まさにそのような神の御救いによるものです。その喜びは、地上における試練の日々に練りきよめられ、キリストが再び現れる来臨の時には、称讃と栄光とほまれをもたらす、という希望のゆえにクリスチャンは言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれるのですね。それは9節にありますように、信仰の実りとしての魂の救いを受けているからであります。
さて、本日の13節で、ペトロは「だから」と言葉を続けて、神への賛美から、次は神の恵みへの応答を説きます。それはまず神を賛美する者とされたことによって、勧めのことばに聞く者とされるのです。この順序が大事です。まずのです。この順序は逆ではありません。まず心に溢れる喜びと希望があって、勧めの言葉に従い得るのです。

その勧めの第一は、13節「いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵み(救い)を、ひたすら待ち望みなさい」ということです。それは、すべての希望をそこにおきなさいという勧めであります。
 ここの「心を引き締め」とは、括るという意味で、ある事柄に備えて、着物の帯をしっかりと締め直すことを表します。日本では「かぶとの緒」を締めるとか、「ふんどし」を締めてかかるとか、受験生など「はちまき」を締め直すなどといいますよね。そのように、やがて訪れるキリストの再臨、神の国の到来に備え、霊的に目をさましておくように、という勧めです。
私たちの信仰の先達もそれぞれにその神の約束を信じ、来たるべき時に備えて、あたかも着物の帯をしっかり括り直すように祈り、御言葉に聞き備えていかれた事でしょう。
私はそのように闘病生活が続く中で、それでもイエス・キリストが現れるときに与えられる恵み(救い)を、切望しつつ天に召された信仰の先達のお姿を今でも思い起こすことができます。

勧めの第二は、17節「あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」ということです。

クリスチャンはこの地上での営みは仮住まいであり、永住すべき故郷があることを知っています。神を知らず生きる人は、この地上がすべてで、そこに安住することに執着します。人はあらゆるものをそろえ、倉に納め、保証を得ようとしますが。問題はそれらのものによって本当に平安を得ることができず、社会の状況や取り巻く環境、不測の
事態にそれらを失う不安や心配ばかりが膨らんでいくとしたら、それはどんなに残念な人生であるでしょう。私たちの人生はほんの先のことでさえ何が起こるかわかりません。ましてやいつその終わりの日が訪れるのかもわかりません。すべては天地万物をお造りになり、治めたもう神の御手のうちにそのご計画によって時が定められています。命の源である神の存在を知っているか、知らないかでは天と地の違いがあります。
すべてをご存じで、正しくお裁きになられる方がおられることを知るのはある意味厳しいことかもしれません。しかしその神の義と共に神の最上級の憐れみ、すなわちイエス・キリストにある赦しと救い、復活と希望を見いだすとき、この地上はもはや仮住まいであり、神を畏れて生活することが如何に「平安と安らぎ」をもたらすものであるかを自ら体験する者となるのであります。神を畏れて生きる。そこに人間にとって幸いな最高の道がございます。

勧めの第三は、22節「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」ということです。
新改訳聖書でそこを読みますと、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい」と訳されています。「真理を受け入れて、魂を清め云々」という新共同訳ですが。原語は「真理への従順」ですから、新改訳の「真理に従うことによって、たましいを清め云々」の方がしっくりとくるように思います。真理であるキリストに従うことによって魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった、それがクリスチャンですけれども、しかし現実に、私たちはそのように「偽りのない兄弟愛を不断に抱く者となるのはそうそう簡単なことではありません。
また、「清い心で深く愛し合いなさい」というのは、もともとは「清い心を尽くし、全力で愛し合いなさい」という原意なのです。そう考えますと、この勧めに重荷さえ感じてしまうと思われる方もおられるでしょう。誰も気の合わないような人、自分にとって不快な思いを与えられた相手とはあまり関わりたくないと思うものです。
ただここで、「清い心で深く愛し合いなさい」と勧められるこの「愛」はアガペー、神の愛なのですね。「神の愛によって愛する」という意味なのですね。まさに神を認めず敵対し、裁かれ滅びる以外になかった罪人の私たち人間のために十字架の苦難と死を通して、滅びから贖い救いとってくださった神の愛なのです。その神の愛によって「深く愛し合いなさい」と勧めているのですね。
先週の水曜日の朝の祈祷会のときに、研修神学生が「どうしても祈れない人がいるときには、その相手が喜んでいる笑顔を思い浮かべて祈ってみられるといいかも知れません」とお勧めくださったのですが。それはとてもよい方法だと思います。相手が喜ぶ顔を思い浮かべる。それはその人が神の祝福に生きる姿であり、そこから神の愛における赦しや和らぎが祈るその人の心にまず起こされてくるでしょう。何よりも聖書はそのように深く愛し合うことの根拠を、救いの福音によって新しくされたその恵みにおいています。

23節「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」。

こうして新たに生まれ者に、神さまはアガペーの愛をもって深く全力で愛し合うことを期待しておられるということです。
ここの「朽ちる種」とは、一時地上に花を咲かせても虚しく散っていく人生です。それはどんなに美しさを誇ったとしても、やがては枯れて、散っていく虚しい人生です。

ペトロは神の言葉の永遠性について、イザヤ40章6-8節を引用しながら、「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」と言いました。

この手紙を受け取ったのは、小アジアの各地に離散して仮住まいをしていたクリスチャンたちでした。彼らはそれぞれローマ帝国の迫害と苦難に遭っていたのですが、その同心の友らに対してペトロは、預言者イザヤの言葉をして、「厳しい迫害はいつまでも続くものではなく、一時的なものである」と知らせたのです。そして、神の言葉が永遠に変わることがないように、神に希望をおいて信じ続ける人たちの救いとそれに伴う栄光は、とこしえに変わることがない、と伝えたのです。

今日の宣教題を「朽ちない種による新生」といたしました。朽ちない種とは、神の変わることのない生きたみ言葉、いのちの言葉のことです。朽ちない神の言葉、主イエス・キリストの救いと希望によって私たちは生かされています。私たちの本国は天にございます。仮住まいであるこの地上における限られたときを、「清い心で深く愛し合いなさい」という勧めを受け入れ、さらなる福音の恵みの種まきを内に外になし、育んでまいりましょう。

信仰の先達のお一人おひとりを偲びつつ、私たちも心引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みをアガペーの愛のうちに、ひたすら待ち望んでいきたいと思います。
祈ります。

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