主日礼拝宣教 列王記下5章1-19節a
先週の礼拝で「戸を閉めて神と一対一に向き合って祈る」というお話をいたしました。どうですか、実践してごらんになりましたか。実践された方は如何でしたでしょうか。イエスさまは聞くだけでなく行う者になりなさい、とお勧めになりましたが。実践する人だけが受け取ることのできる祝福があります。本当に大切な事なら時間を割いてでも作らないともったいないですね。いろんな問題や悩み、多くの仕事を抱えている時こそ、「神と一対一になって向き合う」時を確保する。そうすることによって、守り導いてくださる神の御業を見せていただくことができます。先週礼拝で読みました列王記下4章33節にあるとおり、「主に祈る」という恵みの特権が与えられていることは、まことに大きな支えでありますよね。
「主の先立ちと導き」
さて、本日は列王記下5章より「主は生きておられる」と題し、聖書の言葉に聞いていきたいと思います。ここにはイスラエルの預言者エリシャとアラムの軍司令官ナアマンの物語が記されています。アラムとは現在のシリアのことです。今日もイスラエルとシリアとの関係はよいものではありませんが、この当時も争いの中、一時的に停戦状態であったようです。
アラム(シリア)の王の軍司令官ナアマンは重い皮膚病を患っていました。彼は戦闘
の勇士であったのですが、患ってからは自宅で療養していたのでありましょう。そんなある日、彼の妻がイスラエルの召使いの少女から思いもよらぬ言葉を聞くことになります。その少女曰く、「北イスラエルのサマリアの預言者のところに行けば、ご主人様のその重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに」と、そのように言うのですね。妻はすぐいさまそのことをナアマンに伝え、ナアマンはその話をアラムの王に伝えるのであります。
驚いたことに5章の冒頭1節には、王がナアマンを重んじ気に入っていたのは「主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである」とあります。アラムの王は異教の神々を信奉していたのですが、ここから読み取れますのは、彼も又知らざる神を畏れる者であったということではないでしょうか。そういうことでアラムの王はイスラエルの王宛に手紙を書き、ナアマンはその手紙と贈り物の金や銀、さらに晴れ着をもってイスラエルの王を訪ねたのであります。
ところが、その手紙を見たイスラエルの王は、アラム王の政治的な策略と見て取り、衣を裂くほどに憤慨しました。
そのことを知った預言者エリシャはイスラエルの王のもとに人を遣わして、「その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」と伝えます。結局イスラエルの王は申し出に許可を与え、ナアマンはエリシャのもとに向かいました。
ここまでが本日のお話の前段であるわけですが。
一つ気づかされたのはナアマンの妻に仕えていた少女の存在です。この少女の働きかけがなかったなら、今日のエピソード自体起こりえなかったでしょう。そこに主なる神さまが国や民族を越えて御自身の栄光を顕わそうとご計画されていたのだということが示されています。このイスラエルの少女は捕虜として異教のアラムの地に連れてこられながらも、生ける主への信頼を持ち続けていました。彼女はきっと主人ナアマンのことを主にとりなし祈ったのではないでしょうか。そこで少女はイスラエルの預言者エリシャの存在とその働きについて思い起こし、女主人に話したのでしょう。
少女にはイスラエル対アラムという国や民族の確執などよりも、主人であるナアマンの
病気がいやされることの方が重要だったのです。
そして預言者エリシャもまた、懐疑心に捕らわれ憤慨するイスラエルの王の思いとは裏腹に、神の栄光がこの異邦人の上にも顕わされることを望みました。エリシャは「主が生きておられ、全世界をすべ治めたもうお方であることを証しする」その機会と捉えていたということですね。
「信仰へ至る道」
さて、ナアマンは数頭の馬と共に戦車にのってエリシャの家に来ました。停戦状態とは
いえ警戒心が働いていたこともあるでしょう。けれどもそれにも増して、療養中の身であるとはいえ、主君に重んじられ、気に入られていた王の軍の司令官としてのプライドといいますか、勇ましさを誇っているかのように見うけられます。
ナアマンはエリシャの家に着くと、その入り口に立ってエリシャが家の中から出迎え
るのを待つのですが、エリシャ本人は中から出てまいりません。ただ使いの者が出てきて、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」と、その言葉が伝えられたというのです。
この対応に対してナアマンはこう言います。
「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上に手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流の水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか」。彼は身をひるがえして、憤慨しながら去っていった、とあります。
プライドがくじかれたナアマンの気持ちもわかる気がします。出迎えることもなくただ使いの者を送って言葉だけを伝えたエリシャの態度は非礼のようにも思えます。しかし先ほども申しましたが、エリシャは自ら衣を裂いたイスラエルの王のもとにわざわざ
人を遣わして、「その男・ナアマンをわたしのところによこしてください」とそう言いました。エリシャには考えがあってのことだったのです。そのことはまた後でお話する
として。
さて、ナアマンが腹を立て帰っていくその途中で、彼の家来たちが近づいて来ていさめたとございます。これもまた不思議な感じがいたしますが。その家来たちの判断と
賢明な態度も先の少女と同じように、やはりこれも主の導き、お取り扱いと言わざるを得ません。
家来たちはナアマン司令官にこう言います。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか」。これはもう
本当に信仰者の言葉ですよね。
家来たちにいさめられたナアマンは、「神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸します」。するとどうでしょう。「彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった」というのです。
ヨルダン川に身を浸す。それはバプテスマを受ける者の姿のようであります。そしてまた、小さい子供の体のように柔らかな皮膚にされたナアマン。それは生まれたての赤ちゃんのように、彼は新しい人として生まれ変わったことを象徴しているかのようです。事実ナアマンは川から上がった後に、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」と、その神を大胆に告白します。
古き人であったナアマンは、エリシャを通して示された神の言葉をまともに受け入れることができませんでした。司令官として王の命令に従うことは出来ても、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」といういとも単純な指示には、それがあまりにも簡単なことであるがゆえに受け入れることができませんでした。そんなことで治るものか、人を馬鹿にしている。
神さまはエリシャをして、ただ御言葉のみを与えることで実はそのナアマンの信仰を試されたのではないでしょうか。ナアマンの体を元に戻し、清くするのはエリシャではなく、生ける神、主御自身であります。ただその主の言葉を信じ、単純に受け入れて、その通りに行なう信仰が求められていました。そうですよね。神さまの救いの御業は教会に通えば与えられるのでしょうか。牧師が祈ったら受けるんでしょうか。たくさん努め
よく奉仕したら与るのでしょうか。そうではありません。救いの力は神の御言葉、ただこの聖書の言葉にあるのです。
一旦は憤慨しつつその場を立ち去り帰ろうとしたナアマンでしたが。家来たちの言葉に耳を傾け、聞き入れる事ができたのは幸いでした。イエスさまは、「だれでも子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18:3)とおっしゃいましたが。人が神に救われるために必要なものは一体なんでしょう。特別な知識や教養、学問が必要でしょうか。むろん誤った解釈を避けるためにそれもあった方がよいでしょうが。それはおいおい学んでゆけばよいことです。何より大切なこと、それは主の言葉、福音の言葉を「聞いて受け入れ、信じて行なう」。その事に尽きるのであります。
「主は生きておられる」
さて、そうしていやされ生ける神の栄光を体験したナアマンですが。彼は神の人エリシャに対して、「今この僕からの贈り物をお受け取りください」と申し出たところ、エリシャは「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退したとあります。
この「主は生きておられる」ということと「わたしは受け取らない」ということとはどういう関係があるのかと思われるかも知れませんが。エリシャは「ナアマンを清くしたのはわたしではなく、生ける神さまなのだから」と言っているのですね。
エリシャは自分が神のようになって、称讃され神格化されることに対して生ける主を畏れていましたから、そのような誘惑から離れるように努めていたのではないでしょうか。今日は読みませんでしたが、このエピソードの終盤、従者ゲバジがエリシャと同じように「主は生きておられる」と言うのですが。ところが彼は自分が働いたからこのことが起こったのだ、として当然のように報酬を要求するのですね。怖いですね。これは神さまの栄光を横取りしているんですね。先日のリオのオリンピックのサッカーで最終的にゴールを決めたネイマール選手が表彰台で「100%ジーザス」のはちまきをしていましたが。あれはまさに100%主イエスが働かれたことであるとして、主にすべての栄光をお返しする姿だったんですが。その姿に非常に感激したわけですが。
私どもも又、何らかの働きをした時、神の御業が現わされた時、それを主がなして下さったこととして100%主にお返しするものでありたいものです。
さて、信仰告白をして信仰生活のスタートを切ったナアマンは、エリシャにいいます。「らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。」
それはイスラエルの地、ヨルダン川で自分の身に起こったことをいつも思い起こして、忘れないためであり、自分の家で主なる神を礼拝するためにその土が役に立つと考えたからでしょう。新しい人として生まれ変わったばかりのナアマンには不安や心配の思いが強くありました。この記念の地の土を持っていけば、きっと信仰の力になると考えたのでしょう。
またナアマンは続けてこう言っています。「僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません・・・ただし・・わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき・・わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません・・・主がその事についてこの僕を赦してくださいますように」。
ナアマンは異教のアラムの王に仕える軍司令官でした。一国の王がリモンの神殿(アッシリアの雷を祀った偶像神)にひれ伏すとき、彼は王の介添えをしなければならない立場でした。その際、彼も王と一緒に神ならざるものにひれ伏さなければならなかったのです。そういう信仰的な戦いが今後待ち受けていることを、神の人エリシャに打ち明け、神の赦しを乞うたのです。
異教の地、神ならざるものを神とあがめ信奉するような世界に帰ってゆかねばならなかったナアマン。これは決して人ごとではありません。この国で仕事をしようとする
時、なにがしかのこういった問題に直面した方も少なくないでしょう。そういう不安を抱えていたナアマンに対して、エリシャは「安心して行きなさい」と彼を送り出します。エリシャはナアマンの願いに対して、その信仰をあるがまま受けとめます。そうです、ナアマンはまだ生まれたばかりの神の子、神の民でした。エリシャはアラムの地でナアマンが神の子、神の民として救いの業と信仰をしっかりともって生きることを願い、祈りつつ、主にお委ねしたのでした。「安心して行きなさい」。
かの地にいても主は生きておられ、信じて従う者を知っていてくださる。そう確信して送り出したに違いありません。
最後に、選びの民イスラエルの歴史とそのあゆみについて描く旧約聖書の時代に、
一人の外国人がいやされることで、生ける神が讃美されるというこのことから、私たちは何を聞くことができるでしょうか。私たちの主イエス・キリストはガリラヤで伝道をお始めになるにあたりイザヤ書を引用してこう言われました。マタイ4章15節「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダンの川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
異邦人のナアマンは救いを記念するため土を持って帰りましたが。今や私たちは、主イエスの十字架を仰ぎ見るとき、この世界のどこにおりましても、国や民族の違いに関わらず、愛とゆるしを与えんとしてくださる神さまの救いを知ることができます。主は
人を分け隔てなさることなく、一人一人大切な存在として今日この日を招いておら
れます。エリシャが申しましたように、「わたしの仕えている主は生きておられる」。
この生ける主の招きに応えてまいりましょう。祈ります。
先週の礼拝で「戸を閉めて神と一対一に向き合って祈る」というお話をいたしました。どうですか、実践してごらんになりましたか。実践された方は如何でしたでしょうか。イエスさまは聞くだけでなく行う者になりなさい、とお勧めになりましたが。実践する人だけが受け取ることのできる祝福があります。本当に大切な事なら時間を割いてでも作らないともったいないですね。いろんな問題や悩み、多くの仕事を抱えている時こそ、「神と一対一になって向き合う」時を確保する。そうすることによって、守り導いてくださる神の御業を見せていただくことができます。先週礼拝で読みました列王記下4章33節にあるとおり、「主に祈る」という恵みの特権が与えられていることは、まことに大きな支えでありますよね。
「主の先立ちと導き」
さて、本日は列王記下5章より「主は生きておられる」と題し、聖書の言葉に聞いていきたいと思います。ここにはイスラエルの預言者エリシャとアラムの軍司令官ナアマンの物語が記されています。アラムとは現在のシリアのことです。今日もイスラエルとシリアとの関係はよいものではありませんが、この当時も争いの中、一時的に停戦状態であったようです。
アラム(シリア)の王の軍司令官ナアマンは重い皮膚病を患っていました。彼は戦闘
の勇士であったのですが、患ってからは自宅で療養していたのでありましょう。そんなある日、彼の妻がイスラエルの召使いの少女から思いもよらぬ言葉を聞くことになります。その少女曰く、「北イスラエルのサマリアの預言者のところに行けば、ご主人様のその重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに」と、そのように言うのですね。妻はすぐいさまそのことをナアマンに伝え、ナアマンはその話をアラムの王に伝えるのであります。
驚いたことに5章の冒頭1節には、王がナアマンを重んじ気に入っていたのは「主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである」とあります。アラムの王は異教の神々を信奉していたのですが、ここから読み取れますのは、彼も又知らざる神を畏れる者であったということではないでしょうか。そういうことでアラムの王はイスラエルの王宛に手紙を書き、ナアマンはその手紙と贈り物の金や銀、さらに晴れ着をもってイスラエルの王を訪ねたのであります。
ところが、その手紙を見たイスラエルの王は、アラム王の政治的な策略と見て取り、衣を裂くほどに憤慨しました。
そのことを知った預言者エリシャはイスラエルの王のもとに人を遣わして、「その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」と伝えます。結局イスラエルの王は申し出に許可を与え、ナアマンはエリシャのもとに向かいました。
ここまでが本日のお話の前段であるわけですが。
一つ気づかされたのはナアマンの妻に仕えていた少女の存在です。この少女の働きかけがなかったなら、今日のエピソード自体起こりえなかったでしょう。そこに主なる神さまが国や民族を越えて御自身の栄光を顕わそうとご計画されていたのだということが示されています。このイスラエルの少女は捕虜として異教のアラムの地に連れてこられながらも、生ける主への信頼を持ち続けていました。彼女はきっと主人ナアマンのことを主にとりなし祈ったのではないでしょうか。そこで少女はイスラエルの預言者エリシャの存在とその働きについて思い起こし、女主人に話したのでしょう。
少女にはイスラエル対アラムという国や民族の確執などよりも、主人であるナアマンの
病気がいやされることの方が重要だったのです。
そして預言者エリシャもまた、懐疑心に捕らわれ憤慨するイスラエルの王の思いとは裏腹に、神の栄光がこの異邦人の上にも顕わされることを望みました。エリシャは「主が生きておられ、全世界をすべ治めたもうお方であることを証しする」その機会と捉えていたということですね。
「信仰へ至る道」
さて、ナアマンは数頭の馬と共に戦車にのってエリシャの家に来ました。停戦状態とは
いえ警戒心が働いていたこともあるでしょう。けれどもそれにも増して、療養中の身であるとはいえ、主君に重んじられ、気に入られていた王の軍の司令官としてのプライドといいますか、勇ましさを誇っているかのように見うけられます。
ナアマンはエリシャの家に着くと、その入り口に立ってエリシャが家の中から出迎え
るのを待つのですが、エリシャ本人は中から出てまいりません。ただ使いの者が出てきて、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」と、その言葉が伝えられたというのです。
この対応に対してナアマンはこう言います。
「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上に手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流の水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか」。彼は身をひるがえして、憤慨しながら去っていった、とあります。
プライドがくじかれたナアマンの気持ちもわかる気がします。出迎えることもなくただ使いの者を送って言葉だけを伝えたエリシャの態度は非礼のようにも思えます。しかし先ほども申しましたが、エリシャは自ら衣を裂いたイスラエルの王のもとにわざわざ
人を遣わして、「その男・ナアマンをわたしのところによこしてください」とそう言いました。エリシャには考えがあってのことだったのです。そのことはまた後でお話する
として。
さて、ナアマンが腹を立て帰っていくその途中で、彼の家来たちが近づいて来ていさめたとございます。これもまた不思議な感じがいたしますが。その家来たちの判断と
賢明な態度も先の少女と同じように、やはりこれも主の導き、お取り扱いと言わざるを得ません。
家来たちはナアマン司令官にこう言います。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか」。これはもう
本当に信仰者の言葉ですよね。
家来たちにいさめられたナアマンは、「神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸します」。するとどうでしょう。「彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった」というのです。
ヨルダン川に身を浸す。それはバプテスマを受ける者の姿のようであります。そしてまた、小さい子供の体のように柔らかな皮膚にされたナアマン。それは生まれたての赤ちゃんのように、彼は新しい人として生まれ変わったことを象徴しているかのようです。事実ナアマンは川から上がった後に、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」と、その神を大胆に告白します。
古き人であったナアマンは、エリシャを通して示された神の言葉をまともに受け入れることができませんでした。司令官として王の命令に従うことは出来ても、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」といういとも単純な指示には、それがあまりにも簡単なことであるがゆえに受け入れることができませんでした。そんなことで治るものか、人を馬鹿にしている。
神さまはエリシャをして、ただ御言葉のみを与えることで実はそのナアマンの信仰を試されたのではないでしょうか。ナアマンの体を元に戻し、清くするのはエリシャではなく、生ける神、主御自身であります。ただその主の言葉を信じ、単純に受け入れて、その通りに行なう信仰が求められていました。そうですよね。神さまの救いの御業は教会に通えば与えられるのでしょうか。牧師が祈ったら受けるんでしょうか。たくさん努め
よく奉仕したら与るのでしょうか。そうではありません。救いの力は神の御言葉、ただこの聖書の言葉にあるのです。
一旦は憤慨しつつその場を立ち去り帰ろうとしたナアマンでしたが。家来たちの言葉に耳を傾け、聞き入れる事ができたのは幸いでした。イエスさまは、「だれでも子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18:3)とおっしゃいましたが。人が神に救われるために必要なものは一体なんでしょう。特別な知識や教養、学問が必要でしょうか。むろん誤った解釈を避けるためにそれもあった方がよいでしょうが。それはおいおい学んでゆけばよいことです。何より大切なこと、それは主の言葉、福音の言葉を「聞いて受け入れ、信じて行なう」。その事に尽きるのであります。
「主は生きておられる」
さて、そうしていやされ生ける神の栄光を体験したナアマンですが。彼は神の人エリシャに対して、「今この僕からの贈り物をお受け取りください」と申し出たところ、エリシャは「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退したとあります。
この「主は生きておられる」ということと「わたしは受け取らない」ということとはどういう関係があるのかと思われるかも知れませんが。エリシャは「ナアマンを清くしたのはわたしではなく、生ける神さまなのだから」と言っているのですね。
エリシャは自分が神のようになって、称讃され神格化されることに対して生ける主を畏れていましたから、そのような誘惑から離れるように努めていたのではないでしょうか。今日は読みませんでしたが、このエピソードの終盤、従者ゲバジがエリシャと同じように「主は生きておられる」と言うのですが。ところが彼は自分が働いたからこのことが起こったのだ、として当然のように報酬を要求するのですね。怖いですね。これは神さまの栄光を横取りしているんですね。先日のリオのオリンピックのサッカーで最終的にゴールを決めたネイマール選手が表彰台で「100%ジーザス」のはちまきをしていましたが。あれはまさに100%主イエスが働かれたことであるとして、主にすべての栄光をお返しする姿だったんですが。その姿に非常に感激したわけですが。
私どもも又、何らかの働きをした時、神の御業が現わされた時、それを主がなして下さったこととして100%主にお返しするものでありたいものです。
さて、信仰告白をして信仰生活のスタートを切ったナアマンは、エリシャにいいます。「らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。」
それはイスラエルの地、ヨルダン川で自分の身に起こったことをいつも思い起こして、忘れないためであり、自分の家で主なる神を礼拝するためにその土が役に立つと考えたからでしょう。新しい人として生まれ変わったばかりのナアマンには不安や心配の思いが強くありました。この記念の地の土を持っていけば、きっと信仰の力になると考えたのでしょう。
またナアマンは続けてこう言っています。「僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません・・・ただし・・わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき・・わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません・・・主がその事についてこの僕を赦してくださいますように」。
ナアマンは異教のアラムの王に仕える軍司令官でした。一国の王がリモンの神殿(アッシリアの雷を祀った偶像神)にひれ伏すとき、彼は王の介添えをしなければならない立場でした。その際、彼も王と一緒に神ならざるものにひれ伏さなければならなかったのです。そういう信仰的な戦いが今後待ち受けていることを、神の人エリシャに打ち明け、神の赦しを乞うたのです。
異教の地、神ならざるものを神とあがめ信奉するような世界に帰ってゆかねばならなかったナアマン。これは決して人ごとではありません。この国で仕事をしようとする
時、なにがしかのこういった問題に直面した方も少なくないでしょう。そういう不安を抱えていたナアマンに対して、エリシャは「安心して行きなさい」と彼を送り出します。エリシャはナアマンの願いに対して、その信仰をあるがまま受けとめます。そうです、ナアマンはまだ生まれたばかりの神の子、神の民でした。エリシャはアラムの地でナアマンが神の子、神の民として救いの業と信仰をしっかりともって生きることを願い、祈りつつ、主にお委ねしたのでした。「安心して行きなさい」。
かの地にいても主は生きておられ、信じて従う者を知っていてくださる。そう確信して送り出したに違いありません。
最後に、選びの民イスラエルの歴史とそのあゆみについて描く旧約聖書の時代に、
一人の外国人がいやされることで、生ける神が讃美されるというこのことから、私たちは何を聞くことができるでしょうか。私たちの主イエス・キリストはガリラヤで伝道をお始めになるにあたりイザヤ書を引用してこう言われました。マタイ4章15節「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダンの川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
異邦人のナアマンは救いを記念するため土を持って帰りましたが。今や私たちは、主イエスの十字架を仰ぎ見るとき、この世界のどこにおりましても、国や民族の違いに関わらず、愛とゆるしを与えんとしてくださる神さまの救いを知ることができます。主は
人を分け隔てなさることなく、一人一人大切な存在として今日この日を招いておら
れます。エリシャが申しましたように、「わたしの仕えている主は生きておられる」。
この生ける主の招きに応えてまいりましょう。祈ります。