宣教(神学校週間) 石橋 誠一 神学生
マタイによる福音書9章35節-10章1節(新共同訳)
35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。36 また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」10:1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。
(試訳)
35 そしてイエスは全ての町と村とを歩き回り、彼らの会堂で教えたり、御国の福音を宣べ伝えたり、全ての病気と全ての疾病を手当てしたりしていた。36 で群衆を見て、彼らについて世話する者を持たない羊たちのように悩み、落胆していることに胸を痛めた。37 その時、自分の弟子たちに言う、刈入れは多い一方で、働き手が少ない。38 そこで刈入れの主に、働き手を彼の刈入れへと投げ出してくださるように願いなさい。10,1 そして彼の十二人の弟子たちを呼んで、彼らに汚れた霊の権威を与えた。それらを投げ出して全ての病気と全ての疾病とを手当てするために。
この、私たちの教会が加盟している日本バプテスト連盟では、毎年6月の最終日曜日からの8日間を「神学校週間」と定めているわけですが、6月は神学校週間の他に、第二主日に「バプテスト病院デー」という日も定められています。私の妻も、バプテスト看護学校を卒業した後、バプテスト病院で看護師として数年間働きましたし、私自身も、バプテスト医療団の牧師室スタッフとして1年間働く機会が与えられました。
1つの教会だけではなしえない伝道活動を協力してやっていくための協力体としてつくられたバプテスト連盟がなぜ病院や看護学校を創立しようと考えたかというと、戦後の国土が荒廃し、多くの人が心身ともに傷ついていた時代に、キリストがなさった癒しのわざに倣い、医療を通して人々にキリストの愛を証ししたいとの願いがあったからでした。そのような医療団の創立聖句として選ばれたのが、先ほどお読みいただいた本日の聖書箇所の最初の1節、マタイ福音書9章35節であります。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。この言葉は、同じマタイ福音書の4章23節にもほぼ同じ言葉で出てきています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。イエス様のなさった伝道活動を一言で言い表すとすると、神の国の福音を宣べ伝えることであり、人々の病や苦しみを癒すことであったということなのでしょう。
そこで医療伝道を、ということで病院が建てられ、看護学校が建てられたわけですが、病を癒すと書かれているからといって、医療の専門家にしかできない、そうでない者には関係ないことだ、というわけではありません。「癒す」と訳されている言葉はもともとは「仕える」とか「奉仕する」とかいう意味の言葉で、病気に関して使われる時に「看病する」とか「治療する」とかいう意味になるのです。病気の人、苦しんでいる人を看病するとかお世話するとかいうのであれば、専門家でなくてもできることです。
そもそもイエス様も職業は大工だったのであって、医療の専門家だったわけではありません。たとえ医療の専門家であったとしても、治療すれば必ず病気が治癒する、癒されるとは限らないのです。まして、専門家でもないイエス様が看病したからといって、いつもいつも病気が治っていたとは限りません。病気が治ってしまうというような奇跡的な出来事は、それほど多くはなかったのではないでしょうか。たまに起きる奇跡的な出来事であったからこそ、福音書にも癒しの奇跡が特筆すべきこととしていくつか伝えられているのだと思います。イエス様が触ってくだされば、病気はなんでも治る。そのようなイメージを持っておられた方、私自身もかつてはそのように考え、イエス様と同じ時代に生きていないことを残念がったりしていたわけですが、そういう方には申し訳ないですけれども、イエス様といえども、なんでもかんでも病気を治しておられたわけではないのです。福音書にも、イエス様が癒しの奇跡をほとんど起こせなかったことがあったと記されているほどです。「イエスは町や村を残らず回って、・・・ありとあらゆる病気や患いをいやされた」と書かれていますが、イエス様がなさったのは奇跡の大盤振る舞いではありません。そうではなくて、病気で苦しんでいる人、思い悩んでいる人のことを誰一人としてお見過ごしにならずに、一人一人のお世話をし、慰め、励まされたということなのです。
続く36節に次のように記されている通りです。「また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。イエス様のもとに集まった人々は、飼い主がいない、お世話をしてくれる人がいない状況の中で、弱り果て、打ちひしがれていたのです。このような状況にイエス様は胸を痛められました。本田神父風に言うならば、はらわたを突き動かされたのです。そして弟子たちに言います。「収穫は多いが、働き手が少ない。38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。
このイエス様の言葉は、神学校週間の時などに好んで読まれる、有名な言葉の一つです。この言葉は、キリスト教伝道を意図したものとして理解されてきました。キリスト教に回心させるべき人は大勢いるけれど、そのために働いてくれる人が少ないので、もっと伝道者が起こされるように願いなさい、というように。しかし、「収穫」ということで、本当にクリスチャンでない人をクリスチャンにするというようなことが言われているのでしょうか。まだクリスチャンになっていない人がたくさんいるから、その人たちをクリスチャンにさせるための働き人がたくさん必要だ、というようなことが言われているのでしょうか。
ここで、「収穫」と訳されている単語に注目してみたいと思います。「収穫」と言うと、皆さん、どのようなイメージがありますでしょうか?農作物をとりいれる作業のことを言うのはもちろんですが、とりいれた「成果」であるところの収穫物を意味することもあるのではないでしょうか。今年の収穫は多かった、今日はたくさんの収穫があったよ、とかいうようにですね。そうすると、農作物に限らず、様々な行為によって得られる成果のことをも意味する、肯定的なニュアンスを持った単語として使われることになります。そこから、伝道活動の成果と結び付けて考えられるようになったのだろうと思います。しかしギリシャ語の原文を見ますと、この単語(therismos)は、「刈り入れる」(therizō)という動詞から派生した名詞で、まずは「刈り入れ」という行為そのものを意味します。これはニュアンスとしては肯定的でも否定的でもない、中立的なものです。これに肯定的なニュアンスを含めると「収穫」の意味にもなりますが、逆に否定的なニュアンスを込めて使うと刈り入れという「重労働」を意味することにもなろうかと思います。
この重労働を誰が担っているのでしょうか?38節を見ますと、「収穫のために働き人を送ってくださるように」とありますが、この「収穫」という言葉に原文では「彼の」という言葉がついています。「彼の刈り入れのために」、つまり、「主が刈り入れておられる刈り入れのために」ということであります。
では、その主の刈り入れの業とは何でしょうか。それは単なるキリスト教の宣伝活動なのでしょうか。そうでないことは、前後の文脈から明らかです。既に神の刈り入れの業を神と共に担っておられるイエス様がなさっていたのは、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている人々から汚れた霊を追い出し、病気や悩みの中にある人々のお世話をすることなのでした。このことは、言い換えるならば、神様に与えられている一人一人のいのちが真に生きるための援助をする働き、と言えるのではないでしょうか。私たちのいのちは、単なる生物としての生命というだけでなく、神様が一人一人にいのちの息吹を吹き込むことで、神様によって生かされているいのちなのだということを信じるのが、私たちの信仰であります。しかし、そうして生かされているいのちを生き生きと生きることのできない状況に置かれている人がいるのが現実です。病気が原因のこともあるでしょうが、病気を抱えていても生き生きと生きておられる方もいる一方で、体は健康であっても生きる喜びを失っていたり、何のために生きているのかわからないというような人もいます。誰もが神様に生かされてあるいのちを生き生きと生きられるようになるためにはどのようなことができるのか。それは決して、医療の専門家とか宗教の専門家とか、何かの専門家でなければならないというものではないのです。
イエス様は仰います。そのような働きを共に担ってくれる人が少ない。「そこで、刈り入れの主に、働き手を主の刈り入れへ投げ出して(ekballō)くださるように願いなさい」。今、働き手を「投げ出してくださるように」と言いました。新共同訳では「送ってくださるように」と訳されていますが、「投げ出す」というのが直訳です。直後の10章1節に「汚れた霊を追い出し」、と言われていますが、ここで「追い出す」と訳されているのと同じ単語が使われています。汚れた霊は力づくで投げ出さないと人から出ていかないのです。「働き人を送り出してください」というと、神様に特別に選ばれたスペシャリスト、プロフェッショナルを送り出してください、というような感じがしますが、「投げ出される」となると、もっと違った印象を受けます。主の刈り入れのような重要な働き、大変な働きなど、とても自分のような者には担えない、そういって尻込みをする人、まさにこの私のような者をもその働きに投げ出してください、押し出してくださいというのです。
イエス様は、弱っている人々を目の前にしてはらわたを突き動かされ、神の刈り入れの業に押し出されていった方でありました。そして、同じ神の刈り入れの業に押し出されることを人々に呼びかけたのでありました。神の刈り入れのわざ、人々のいのちに向き合うことは、時に「重労働」と思えることもあるかもしれません。しかしそれには「収穫」の喜びが伴います。そしてなにより、それは「主の」刈り入れなのであって、私たちではなく、主が主体となってなしてくださっているわざだと信じることができるのが、私たちの強みです。そのような主のわざにつらなることを私たちは呼びかけられています。私たちはどのような形でその呼びかけに応えるでしょうか。神学校週間のこの時に、神学校の働きとそこで学ぶ神学生たちのことを祈りにおぼえていただくとともに、皆さんお一人お一人に語りかけられている主の呼びかけに耳を傾け、それぞれの応答について考える時としていただけたらと願っています。お祈りをいたします。
マタイによる福音書9章35節-10章1節(新共同訳)
35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。36 また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」10:1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。
(試訳)
35 そしてイエスは全ての町と村とを歩き回り、彼らの会堂で教えたり、御国の福音を宣べ伝えたり、全ての病気と全ての疾病を手当てしたりしていた。36 で群衆を見て、彼らについて世話する者を持たない羊たちのように悩み、落胆していることに胸を痛めた。37 その時、自分の弟子たちに言う、刈入れは多い一方で、働き手が少ない。38 そこで刈入れの主に、働き手を彼の刈入れへと投げ出してくださるように願いなさい。10,1 そして彼の十二人の弟子たちを呼んで、彼らに汚れた霊の権威を与えた。それらを投げ出して全ての病気と全ての疾病とを手当てするために。
この、私たちの教会が加盟している日本バプテスト連盟では、毎年6月の最終日曜日からの8日間を「神学校週間」と定めているわけですが、6月は神学校週間の他に、第二主日に「バプテスト病院デー」という日も定められています。私の妻も、バプテスト看護学校を卒業した後、バプテスト病院で看護師として数年間働きましたし、私自身も、バプテスト医療団の牧師室スタッフとして1年間働く機会が与えられました。
1つの教会だけではなしえない伝道活動を協力してやっていくための協力体としてつくられたバプテスト連盟がなぜ病院や看護学校を創立しようと考えたかというと、戦後の国土が荒廃し、多くの人が心身ともに傷ついていた時代に、キリストがなさった癒しのわざに倣い、医療を通して人々にキリストの愛を証ししたいとの願いがあったからでした。そのような医療団の創立聖句として選ばれたのが、先ほどお読みいただいた本日の聖書箇所の最初の1節、マタイ福音書9章35節であります。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。この言葉は、同じマタイ福音書の4章23節にもほぼ同じ言葉で出てきています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。イエス様のなさった伝道活動を一言で言い表すとすると、神の国の福音を宣べ伝えることであり、人々の病や苦しみを癒すことであったということなのでしょう。
そこで医療伝道を、ということで病院が建てられ、看護学校が建てられたわけですが、病を癒すと書かれているからといって、医療の専門家にしかできない、そうでない者には関係ないことだ、というわけではありません。「癒す」と訳されている言葉はもともとは「仕える」とか「奉仕する」とかいう意味の言葉で、病気に関して使われる時に「看病する」とか「治療する」とかいう意味になるのです。病気の人、苦しんでいる人を看病するとかお世話するとかいうのであれば、専門家でなくてもできることです。
そもそもイエス様も職業は大工だったのであって、医療の専門家だったわけではありません。たとえ医療の専門家であったとしても、治療すれば必ず病気が治癒する、癒されるとは限らないのです。まして、専門家でもないイエス様が看病したからといって、いつもいつも病気が治っていたとは限りません。病気が治ってしまうというような奇跡的な出来事は、それほど多くはなかったのではないでしょうか。たまに起きる奇跡的な出来事であったからこそ、福音書にも癒しの奇跡が特筆すべきこととしていくつか伝えられているのだと思います。イエス様が触ってくだされば、病気はなんでも治る。そのようなイメージを持っておられた方、私自身もかつてはそのように考え、イエス様と同じ時代に生きていないことを残念がったりしていたわけですが、そういう方には申し訳ないですけれども、イエス様といえども、なんでもかんでも病気を治しておられたわけではないのです。福音書にも、イエス様が癒しの奇跡をほとんど起こせなかったことがあったと記されているほどです。「イエスは町や村を残らず回って、・・・ありとあらゆる病気や患いをいやされた」と書かれていますが、イエス様がなさったのは奇跡の大盤振る舞いではありません。そうではなくて、病気で苦しんでいる人、思い悩んでいる人のことを誰一人としてお見過ごしにならずに、一人一人のお世話をし、慰め、励まされたということなのです。
続く36節に次のように記されている通りです。「また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。イエス様のもとに集まった人々は、飼い主がいない、お世話をしてくれる人がいない状況の中で、弱り果て、打ちひしがれていたのです。このような状況にイエス様は胸を痛められました。本田神父風に言うならば、はらわたを突き動かされたのです。そして弟子たちに言います。「収穫は多いが、働き手が少ない。38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。
このイエス様の言葉は、神学校週間の時などに好んで読まれる、有名な言葉の一つです。この言葉は、キリスト教伝道を意図したものとして理解されてきました。キリスト教に回心させるべき人は大勢いるけれど、そのために働いてくれる人が少ないので、もっと伝道者が起こされるように願いなさい、というように。しかし、「収穫」ということで、本当にクリスチャンでない人をクリスチャンにするというようなことが言われているのでしょうか。まだクリスチャンになっていない人がたくさんいるから、その人たちをクリスチャンにさせるための働き人がたくさん必要だ、というようなことが言われているのでしょうか。
ここで、「収穫」と訳されている単語に注目してみたいと思います。「収穫」と言うと、皆さん、どのようなイメージがありますでしょうか?農作物をとりいれる作業のことを言うのはもちろんですが、とりいれた「成果」であるところの収穫物を意味することもあるのではないでしょうか。今年の収穫は多かった、今日はたくさんの収穫があったよ、とかいうようにですね。そうすると、農作物に限らず、様々な行為によって得られる成果のことをも意味する、肯定的なニュアンスを持った単語として使われることになります。そこから、伝道活動の成果と結び付けて考えられるようになったのだろうと思います。しかしギリシャ語の原文を見ますと、この単語(therismos)は、「刈り入れる」(therizō)という動詞から派生した名詞で、まずは「刈り入れ」という行為そのものを意味します。これはニュアンスとしては肯定的でも否定的でもない、中立的なものです。これに肯定的なニュアンスを含めると「収穫」の意味にもなりますが、逆に否定的なニュアンスを込めて使うと刈り入れという「重労働」を意味することにもなろうかと思います。
この重労働を誰が担っているのでしょうか?38節を見ますと、「収穫のために働き人を送ってくださるように」とありますが、この「収穫」という言葉に原文では「彼の」という言葉がついています。「彼の刈り入れのために」、つまり、「主が刈り入れておられる刈り入れのために」ということであります。
では、その主の刈り入れの業とは何でしょうか。それは単なるキリスト教の宣伝活動なのでしょうか。そうでないことは、前後の文脈から明らかです。既に神の刈り入れの業を神と共に担っておられるイエス様がなさっていたのは、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている人々から汚れた霊を追い出し、病気や悩みの中にある人々のお世話をすることなのでした。このことは、言い換えるならば、神様に与えられている一人一人のいのちが真に生きるための援助をする働き、と言えるのではないでしょうか。私たちのいのちは、単なる生物としての生命というだけでなく、神様が一人一人にいのちの息吹を吹き込むことで、神様によって生かされているいのちなのだということを信じるのが、私たちの信仰であります。しかし、そうして生かされているいのちを生き生きと生きることのできない状況に置かれている人がいるのが現実です。病気が原因のこともあるでしょうが、病気を抱えていても生き生きと生きておられる方もいる一方で、体は健康であっても生きる喜びを失っていたり、何のために生きているのかわからないというような人もいます。誰もが神様に生かされてあるいのちを生き生きと生きられるようになるためにはどのようなことができるのか。それは決して、医療の専門家とか宗教の専門家とか、何かの専門家でなければならないというものではないのです。
イエス様は仰います。そのような働きを共に担ってくれる人が少ない。「そこで、刈り入れの主に、働き手を主の刈り入れへ投げ出して(ekballō)くださるように願いなさい」。今、働き手を「投げ出してくださるように」と言いました。新共同訳では「送ってくださるように」と訳されていますが、「投げ出す」というのが直訳です。直後の10章1節に「汚れた霊を追い出し」、と言われていますが、ここで「追い出す」と訳されているのと同じ単語が使われています。汚れた霊は力づくで投げ出さないと人から出ていかないのです。「働き人を送り出してください」というと、神様に特別に選ばれたスペシャリスト、プロフェッショナルを送り出してください、というような感じがしますが、「投げ出される」となると、もっと違った印象を受けます。主の刈り入れのような重要な働き、大変な働きなど、とても自分のような者には担えない、そういって尻込みをする人、まさにこの私のような者をもその働きに投げ出してください、押し出してくださいというのです。
イエス様は、弱っている人々を目の前にしてはらわたを突き動かされ、神の刈り入れの業に押し出されていった方でありました。そして、同じ神の刈り入れの業に押し出されることを人々に呼びかけたのでありました。神の刈り入れのわざ、人々のいのちに向き合うことは、時に「重労働」と思えることもあるかもしれません。しかしそれには「収穫」の喜びが伴います。そしてなにより、それは「主の」刈り入れなのであって、私たちではなく、主が主体となってなしてくださっているわざだと信じることができるのが、私たちの強みです。そのような主のわざにつらなることを私たちは呼びかけられています。私たちはどのような形でその呼びかけに応えるでしょうか。神学校週間のこの時に、神学校の働きとそこで学ぶ神学生たちのことを祈りにおぼえていただくとともに、皆さんお一人お一人に語りかけられている主の呼びかけに耳を傾け、それぞれの応答について考える時としていただけたらと願っています。お祈りをいたします。