宣教 イザヤ書2章1~5節
一昨日5月3日は憲法記念日でありましたが。今政府や政権与党による憲法改正への動きが夏の参議院選挙に向け慌ただしくなってきています。今論点となっている96条の改正案についてですが、96条では「憲法を変えるには国会議員の賛成3分の2以上が必要」となっていますが、それを2分の1にすることで憲法そのものを変えやすくしていく、といった思惑があるようです。その先には9条を変え「国防軍」を設置して「戦争のできる体制を作る」ということがあります。もしそれらの動きが進んでいって憲法の精神と本質が根幹から変えられていく時、日本はどんな国になっていくのでしょうか。憲法はそもそも政治権力や国家の暴走を防ぎ、個人の人権や生存権を守り、尊重するために作られました。かつての日本国軍が推し進めた侵略戦争の反省に立っています。ところがその憲法を「個々人」の言動を律するものに変えよう、というのが政権与党の憲法草案であります。憲法の精神や本質とも言うべき個人の尊重が塗り替えられてしまうことは、政治の世界のことというより、私たちひとり一人や隣人の命や信教の自由をも脅かす大きな問題であるということを、私たちは少なくとも知っておく必要があります。
政治経済と何かと不安のつきないような今の日本の状況でありますが、国民をぐいぐいと引っ張ってくれるリーダーの到来が必要だという市民の声を聞きます。だから国際貢献として軍事力や国防軍を政治主導でという政権与党の声を聞きます。が、それは危うい考えではないでしょうか。戦時中の体制も国民を国家権力が取り込むかたちでできていったのです。皆さまにもそれぞれにさまざまな考えやご意見がおありでしょう。私たちの主は何とおっしゃっているのか。先程読んでいただいたイザヤ書2章の御言葉から聞いていきたいと思います。
はじめに、イザヤは北と南に分団された南のユダ王国の祭司でありましたが。紀元前736年頃に神の召命を受けおおよそ35年間預言者として活動したといわれています。彼の生まれ育った時代はユダの国は高度成長を遂げ繁栄いたしますが、次第にその繁栄の陰でゆがみが生じ、階級化による貧富の差の拡大、貧しい者や弱い者が虐げられるような社会的問題が生じていたのです。1章16~17節には「おまえたちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び。裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」とあります。23節にも「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間になり、皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守れず、やもめの訴えは取り上げられない」と、その腐敗した社会の現状を憂う主の御声が記されています。又小さなユダの国は常に近隣諸国との緊張関係にさらされていたがゆえに大国に頼り同盟関係を結び、軍事力や武力による保護を見返りに得るという政治戦略が敷かれていくのであります。
そういったユダの国の状況を目の当たりにしたイザヤは、終わりの日、すなわち神の審判の日が近いことを確信いたします。「罪深く悔改めようとしないユダの国に審判を下される日が来る」「ただ主なる神に信頼することによってのみ、王や民は存続することができる」との神託をイザヤはユダの国において告げていくのであります。
イザヤはこれらユダの社会に蔓延する富の不公正や力や役割を失い形骸化する宗教の衰退を指摘します。神を畏れ敬う心が失われていき、すべてが神ではなく人間と利権のための祭りごとになっていくとき、正義や命の尊厳が軽んじられ、武力や経済力に依存した社会に傾いていく。それは現在の日本にも同様のことが言えるのではないでしょうか。今日の時代においても信仰と宗教の果たすべき役割は決して小さなものではありません。
又、イザヤはユダの大国との同盟関係による軍事力増強の根本的問題について、王や民の虚しい祭りや捧げものに対する主の嘆きと憂いを伝え、主に立ち返り、畏れをもって律法の精神を取戻すように訴えます。2章22節にあるように「人間に頼るのはやめよ、鼻で息をしているだけのものに」と、大国や軍事力に優る主の力にこそ信頼することの必要を説くのです。しかし、このようなイザヤの訴えは、為政者である王やユダの宗教家、さらに民にも聞き入れられません。それでもイザヤはなおその訴えをやめません。ユダの人々が再び神の民として、その信仰と主の配慮に満ちた戒めの御言葉に生きる生活を取戻し、裁きを免れて命を得ることをイザヤは何よりも強く願っていたからです。
けれども誰よりもそのユダの国と民のために心痛め、苦悩しておられるのは父なる神さまご自身であったのではないでしょうか。残念なことにイザヤの警告に耳をかそうとしなかったユダの国はその預言の通り、バビロ二ア帝国によって滅びることになるのであります。しかし、イザヤの終末の預言には神の審判と共に、来るべき神の平和が示されているのであります。それが本日の2章のところであります。小見出に「終末の平和」と付けられています。
預言どおりユダの国は神の審判の日に滅ばされるのでありますが、この2章の預言はそれでもなおもたらされる「終りの日の平和」について述べています。それは具体的に11章に記されている「平和の王の到来によって」実現されると預言されているのであります。
ユダの国が倒れた跡に残された切株の中に芽生えるひこばえ、その希望のような真の平和の王。それは切り株、すなわち倒された中に残されて芽生え育つ真実な神の民、その中から生れ出る平和の王を示しています。
11章3節以降には、その方についてこのように述べられています。
「彼は目に見えるところによって裁きを行わず。耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い。この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義を腰の帯とし、真実を身に帯びる。」その平和の王なるお方は、ユダの滅亡からおおよそ600年近くの時を経て主イエス・キリストとしてこの地上にお生まれになりました。
主は権力によらず真理の言葉を持って正義と公平な裁きを行い、私たちの神の真に望まれる平和の道を拓いてくださったのであります。
本日の2章のイザヤが見た幻、「終末における平和」。そこには2節「終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ちどの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい」とあります。それはその日が来るとユダの民だけでなく、全世界の国々・様々な人種の人たちが主を礼拝するために集い、主の教えと御心に聞く、そのような平和の日がやがて訪れると言っているのです。今やほぼ全世界の国々で主の福音は宣べ伝えられ、今日も世界各国で礼拝がもたれておりますけれども。しかし終末の平和はただ礼拝に与るだけで実現されるものではないのです。人々が主の神殿すなわち教会や礼拝に集う時、3節にあるように「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と、あらゆる国々、人種がその平和の道を共に歩んでいく中で実現されていくのであります。私たちが主の教えと御言葉の招きに応え、そのように具体的に生きていくそのところに主の平和が実現していきます。私たちの属するバプテスト連盟でも、又女性連合でも世界宣教の一端として、かつての戦争において痛ましい被害をもたらした近隣アジア諸国へ宣教師を派遣しており、主の和解の福音のもと奉仕と交流が行なわれています。キリストの平和を築いていくためであります。
さらにイザヤは終末の平和について、4節に「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」と言っていますが。ニューヨークの国連本部の入り口の所にこの4節の「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」との御言葉が刻まれているそうですが。「剣や槍といった武力を振りかざして国は国に向かって戦うことを拒否する」。そこに国連の平和理念があります。平和の主イエス・キリストは「剣をとる者は剣によって滅びる」とおっしゃいました。
主の民とされた者が「主の平和」の到来に備えて如何に歩んでいくか。そのことが本当に大事なのです。
イザヤの時代同胞であった北イスラエルとの間に戦争が起こりました。日常の生活の糧を生みだす農具は権力者に奪われ、殺す道具へ姿を変えます。日本でも武器を作るために鍋などの金属が徴収されたと聞いています。尊い命が皆一かたまりの戦力として戦争に組み込まれていきました。それは何もイザヤの時代に限ったことではなく、同じように人類は戦争を繰り返してきたのです。神がいるならなぜ戦争が起こるのか?宗教戦争があとを絶たないのはなぜかという人もいます。けれどもそれは果たして神のせいでしょうか?否、人が幸せに生きるための道具が人を不幸にするものと分かるとき、誰よりも私たち人間をお造りになられた主なる神さまが嘆き、痛んでおられるのです。
イザヤが見た終末の平和は単なる理想郷でもユートピアでもありません。それは主に立ち帰って生きること。剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とするといった、悔い改めと忍耐を伴う努力のうえに実現されていくものなのです。
主イエスさまが私たちの罪のためにその裁きを引き受けてくださった。そのことによって私たちは主なる神さまとの和解の道、回復の道が開かれたのです。そこに究極の「平和への道」が敷かれた、ということを覚えたいと思います。
私たちもこの平和の主イエス・キリストにあって、「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」という平和の宣言に生きるよう招かれているのであります。
権力や武器の象徴、戦争や争いの武器である剣や槍といった道具が、命の糧となる農作物を植え、育て、作っていく鋤や鎌といった道具に打ち直されていくように、私たちもまた主の平和の道具として用いられていきたいと願います。
「ヤコブの家よ、主の光の中で歩もう」。私たちはどこまでも、この平和の主イエス・キリストに聞き、このキリストが示される道を歩んでいく者とされてまいりましょう。
権力や偶像に頼るのではなく、ただ主に信頼し、祈り、執り成し、平和を実現する者として、主の光の中を歩んでまいりましょう。
一昨日5月3日は憲法記念日でありましたが。今政府や政権与党による憲法改正への動きが夏の参議院選挙に向け慌ただしくなってきています。今論点となっている96条の改正案についてですが、96条では「憲法を変えるには国会議員の賛成3分の2以上が必要」となっていますが、それを2分の1にすることで憲法そのものを変えやすくしていく、といった思惑があるようです。その先には9条を変え「国防軍」を設置して「戦争のできる体制を作る」ということがあります。もしそれらの動きが進んでいって憲法の精神と本質が根幹から変えられていく時、日本はどんな国になっていくのでしょうか。憲法はそもそも政治権力や国家の暴走を防ぎ、個人の人権や生存権を守り、尊重するために作られました。かつての日本国軍が推し進めた侵略戦争の反省に立っています。ところがその憲法を「個々人」の言動を律するものに変えよう、というのが政権与党の憲法草案であります。憲法の精神や本質とも言うべき個人の尊重が塗り替えられてしまうことは、政治の世界のことというより、私たちひとり一人や隣人の命や信教の自由をも脅かす大きな問題であるということを、私たちは少なくとも知っておく必要があります。
政治経済と何かと不安のつきないような今の日本の状況でありますが、国民をぐいぐいと引っ張ってくれるリーダーの到来が必要だという市民の声を聞きます。だから国際貢献として軍事力や国防軍を政治主導でという政権与党の声を聞きます。が、それは危うい考えではないでしょうか。戦時中の体制も国民を国家権力が取り込むかたちでできていったのです。皆さまにもそれぞれにさまざまな考えやご意見がおありでしょう。私たちの主は何とおっしゃっているのか。先程読んでいただいたイザヤ書2章の御言葉から聞いていきたいと思います。
はじめに、イザヤは北と南に分団された南のユダ王国の祭司でありましたが。紀元前736年頃に神の召命を受けおおよそ35年間預言者として活動したといわれています。彼の生まれ育った時代はユダの国は高度成長を遂げ繁栄いたしますが、次第にその繁栄の陰でゆがみが生じ、階級化による貧富の差の拡大、貧しい者や弱い者が虐げられるような社会的問題が生じていたのです。1章16~17節には「おまえたちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び。裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」とあります。23節にも「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間になり、皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守れず、やもめの訴えは取り上げられない」と、その腐敗した社会の現状を憂う主の御声が記されています。又小さなユダの国は常に近隣諸国との緊張関係にさらされていたがゆえに大国に頼り同盟関係を結び、軍事力や武力による保護を見返りに得るという政治戦略が敷かれていくのであります。
そういったユダの国の状況を目の当たりにしたイザヤは、終わりの日、すなわち神の審判の日が近いことを確信いたします。「罪深く悔改めようとしないユダの国に審判を下される日が来る」「ただ主なる神に信頼することによってのみ、王や民は存続することができる」との神託をイザヤはユダの国において告げていくのであります。
イザヤはこれらユダの社会に蔓延する富の不公正や力や役割を失い形骸化する宗教の衰退を指摘します。神を畏れ敬う心が失われていき、すべてが神ではなく人間と利権のための祭りごとになっていくとき、正義や命の尊厳が軽んじられ、武力や経済力に依存した社会に傾いていく。それは現在の日本にも同様のことが言えるのではないでしょうか。今日の時代においても信仰と宗教の果たすべき役割は決して小さなものではありません。
又、イザヤはユダの大国との同盟関係による軍事力増強の根本的問題について、王や民の虚しい祭りや捧げものに対する主の嘆きと憂いを伝え、主に立ち返り、畏れをもって律法の精神を取戻すように訴えます。2章22節にあるように「人間に頼るのはやめよ、鼻で息をしているだけのものに」と、大国や軍事力に優る主の力にこそ信頼することの必要を説くのです。しかし、このようなイザヤの訴えは、為政者である王やユダの宗教家、さらに民にも聞き入れられません。それでもイザヤはなおその訴えをやめません。ユダの人々が再び神の民として、その信仰と主の配慮に満ちた戒めの御言葉に生きる生活を取戻し、裁きを免れて命を得ることをイザヤは何よりも強く願っていたからです。
けれども誰よりもそのユダの国と民のために心痛め、苦悩しておられるのは父なる神さまご自身であったのではないでしょうか。残念なことにイザヤの警告に耳をかそうとしなかったユダの国はその預言の通り、バビロ二ア帝国によって滅びることになるのであります。しかし、イザヤの終末の預言には神の審判と共に、来るべき神の平和が示されているのであります。それが本日の2章のところであります。小見出に「終末の平和」と付けられています。
預言どおりユダの国は神の審判の日に滅ばされるのでありますが、この2章の預言はそれでもなおもたらされる「終りの日の平和」について述べています。それは具体的に11章に記されている「平和の王の到来によって」実現されると預言されているのであります。
ユダの国が倒れた跡に残された切株の中に芽生えるひこばえ、その希望のような真の平和の王。それは切り株、すなわち倒された中に残されて芽生え育つ真実な神の民、その中から生れ出る平和の王を示しています。
11章3節以降には、その方についてこのように述べられています。
「彼は目に見えるところによって裁きを行わず。耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い。この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義を腰の帯とし、真実を身に帯びる。」その平和の王なるお方は、ユダの滅亡からおおよそ600年近くの時を経て主イエス・キリストとしてこの地上にお生まれになりました。
主は権力によらず真理の言葉を持って正義と公平な裁きを行い、私たちの神の真に望まれる平和の道を拓いてくださったのであります。
本日の2章のイザヤが見た幻、「終末における平和」。そこには2節「終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ちどの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい」とあります。それはその日が来るとユダの民だけでなく、全世界の国々・様々な人種の人たちが主を礼拝するために集い、主の教えと御心に聞く、そのような平和の日がやがて訪れると言っているのです。今やほぼ全世界の国々で主の福音は宣べ伝えられ、今日も世界各国で礼拝がもたれておりますけれども。しかし終末の平和はただ礼拝に与るだけで実現されるものではないのです。人々が主の神殿すなわち教会や礼拝に集う時、3節にあるように「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と、あらゆる国々、人種がその平和の道を共に歩んでいく中で実現されていくのであります。私たちが主の教えと御言葉の招きに応え、そのように具体的に生きていくそのところに主の平和が実現していきます。私たちの属するバプテスト連盟でも、又女性連合でも世界宣教の一端として、かつての戦争において痛ましい被害をもたらした近隣アジア諸国へ宣教師を派遣しており、主の和解の福音のもと奉仕と交流が行なわれています。キリストの平和を築いていくためであります。
さらにイザヤは終末の平和について、4節に「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」と言っていますが。ニューヨークの国連本部の入り口の所にこの4節の「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」との御言葉が刻まれているそうですが。「剣や槍といった武力を振りかざして国は国に向かって戦うことを拒否する」。そこに国連の平和理念があります。平和の主イエス・キリストは「剣をとる者は剣によって滅びる」とおっしゃいました。
主の民とされた者が「主の平和」の到来に備えて如何に歩んでいくか。そのことが本当に大事なのです。
イザヤの時代同胞であった北イスラエルとの間に戦争が起こりました。日常の生活の糧を生みだす農具は権力者に奪われ、殺す道具へ姿を変えます。日本でも武器を作るために鍋などの金属が徴収されたと聞いています。尊い命が皆一かたまりの戦力として戦争に組み込まれていきました。それは何もイザヤの時代に限ったことではなく、同じように人類は戦争を繰り返してきたのです。神がいるならなぜ戦争が起こるのか?宗教戦争があとを絶たないのはなぜかという人もいます。けれどもそれは果たして神のせいでしょうか?否、人が幸せに生きるための道具が人を不幸にするものと分かるとき、誰よりも私たち人間をお造りになられた主なる神さまが嘆き、痛んでおられるのです。
イザヤが見た終末の平和は単なる理想郷でもユートピアでもありません。それは主に立ち帰って生きること。剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とするといった、悔い改めと忍耐を伴う努力のうえに実現されていくものなのです。
主イエスさまが私たちの罪のためにその裁きを引き受けてくださった。そのことによって私たちは主なる神さまとの和解の道、回復の道が開かれたのです。そこに究極の「平和への道」が敷かれた、ということを覚えたいと思います。
私たちもこの平和の主イエス・キリストにあって、「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」という平和の宣言に生きるよう招かれているのであります。
権力や武器の象徴、戦争や争いの武器である剣や槍といった道具が、命の糧となる農作物を植え、育て、作っていく鋤や鎌といった道具に打ち直されていくように、私たちもまた主の平和の道具として用いられていきたいと願います。
「ヤコブの家よ、主の光の中で歩もう」。私たちはどこまでも、この平和の主イエス・キリストに聞き、このキリストが示される道を歩んでいく者とされてまいりましょう。
権力や偶像に頼るのではなく、ただ主に信頼し、祈り、執り成し、平和を実現する者として、主の光の中を歩んでまいりましょう。