日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

おしらせ

2024-07-31 17:19:52 | お知らせ
皆様へ

いつも当ブログをご愛顧くださり、ありがとうございます。

先日8月1日から1ヶ月間、ブログの掲載を休ませて戴きますとおしらせいたしましたが。一部、ブログの公開をさせていただくこととなりました。


どうぞ、よろしくお願いいたします。

平安



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「わたしはあなたと共にいる」

2024-07-28 18:35:57 | メッセージ
主日礼拝宣教     創世記28章10-22節  

先週は27章の弟息子のヤコブが父ヤコブをだまし、祝福を奪い取ったお話でしたが。その後兄息子のエサウは父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになり、遂には殺意を抱くようになるのです。そのことを知った母リベカは、そのエサウの強い憎しみと殺意をヤコブに伝え、伯父ラバンのいるハランに逃げるようにと勧めました。母リベカには溺愛していたヤコブと別れなければならないというつらさや寂しさがきっとあったと思うのです。でも、彼女は「一日のうちにお前たち二人を失うことなど、どうしてできましょう」と、苦渋の決断をしてヤコブを送り出します。ヤコブもその母の勧めに従い、700キロ以上、(大阪から秋田ほどの距離くらいしょうか)離れたハランの地へ一人で向かうことになるのです。
28章の始めのところには、そのヤコブが父イサクに祝福され、ハランの地に送り出されていったという場面がありますが。父イサクはヤコブにだまされたにも拘わらず、ヤコブを愛していました。父イサクも母リベカと同様、二人の息子が失わないために祈りつつ、、ヤコブを送り出すのです。
ハラン、そこはかつて信仰の祖父アブラハムが召命を受けたとされる地であり、ヤコブもまた、用意された神の召命に与る時に向けて険しい長い旅路が始まるのです。

さて、ヤコブは10-11節「ベエル・シェバを立ってハランに向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。」
「とある場所」とは後のベテルのことですが、そこは荒れ野のような場でした。このベテルが後には聖地となるのです。ヤコブはそこで一夜を過ごすこととなったのですが、彼は石を枕にして休んだようです。この時の彼の心境はどのようなものであったことでしょう。親もとから離れ、兄エサウには殺意を持つほどの恨みを持たれ、父が祝福して与えると約束した土地や財産、さらに家を継ぐという希望も持てず、身も心もボロボロになるくらい疲れ切っていたのではないでしょうか。これが神から祝福を受ける者の姿であろうかと自らの状況を嘆いていたのかも知れません。そういう中で、石を枕にして荒野で寝入ったヤコブでありました。その石の枕は涙でぬれていたのかも知れません。

そうして眠りについた時、彼は真に不思議な夢を見るのです。
それは12節「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下りたりしていた」というのです。
この光景は、「神が人の生きている地に深く関わり、近づき、交わりをもってくださる」ことを示していました。
この地上の生涯を生きる私たちにも、悩みや苦難の中で、まるで神さえ私をお見捨てになり、神の助けすらも得られないように感じることがあるかも知れません。しかし、主はすべてをご存じです。又、共におられ、うめきをもって祈り執りなして下さいます。(ローマ8章)
天から地に向かって伸びる階段を天使たちがせわしなく行き来するように、主は私どもをいつも気にかけ、助けを送り、見守っていてくださるお方であることが、ここに示されているのです。

13節、「見よ、主が傍らに立って言われた。」
ヤコブは何と、自分の傍らに立っておられる主の御声を聞きます。それは驚くような祝福と力強い約束の言葉で満ちていました。
「あなたとあなたの子孫に今横たわっているこの土地を与える。」「あなたの子孫は大地の砂粒のように多く広がり、地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」さらに「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。」「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
「決して見捨てない。」この力強い約束と共に、何とヤコブとその子孫によって地上の氏族すべてが祝福に入る。そんなあまりにも壮大なビジョンまで神はヤコブに語られるのです。

16節で、ヤコブは眠りから覚めて次のように答えます。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
「主が共におられるお方である」そのことに目が開かれる時、それは平穏で何事もないような時よりも、むしろ逆境の中で石の枕に涙するような時なのではないでしょうか。自分にとって最低と思えるようなところにまで落ち、身も心もボロボロのヤコブ。そのような打ち砕かれた思いの中にあるからこそ、「わたしはあなたと共にいる」「あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る」「あなたを決して見捨てない」との主なる神さまの臨在に気づくことができたのではないでしょうか。そして主の約束が希望となり、生きる力を取り戻していったことでしょう。

17節、ヤコブは畏れおののきつつ、このように言いました。
「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
まあ「神の家」と言えば、普通教会堂とかの建物が思い浮かびますけれども。しかしここではそういった物理的な建物のことではないのです。何もかも失い、どん底といえるようなところにおちた恐れ、不安、孤独のその只中で、神の救いを見たのです。この神の救いこそ「天の門」であり、神が共におられるところこそが「神の家」なのです。
主イエスは言われます。「わたしは門である。」私たちは主イエスこそ天の門であることを知っています。主イエスはこうも言われます。「わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネ福音書10章)
この「神の家」へと主の救いの門を通っていくようにと、私たちは今日も招かれているのです。

さて、18節、「ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを祈念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。」
まあ、これまでヤコブは母リベカの指示や勧めの言葉によって行動してきた事が多かったわけですが。この「とある場所」においてヤコブは、主の言葉、主の祝福によって生きる者へと変えられるのです。
彼、ヤコブにとっての大きな分岐点、ターニングポイントがこの「とある場所」であったのです。
私の人生のターニングポイントは、やはり悩みの中でキリストと出会った時でした。次いで、主の御言葉に聞き従って生きていきたいと決心し、母のもとを離れて主と共にあゆみ出したその時でした。それまでは周りの影響を受けながら流されて生きていましたが。主との出会い、そして招きに応えて生きる人生がそこから始まったのです。
ヤコブは母リベカの言葉や勧めを素直に受けて行動した結果、兄からは憎まれ恨まれて、父母とも別れ逃亡せざるを得なくなります。それは周りに流されるような人生でした。そのヤコブに主はビジョンを示し、ヤコブは主の言葉、主の祝福によって生きる者とされていくのです。
ここでヤコブは「枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた」とあります。そのようにして彼の人生を変えたこの出来事を心に刻みつけ、新たな一歩を踏み出していったのです。
私たちもそれぞれに、人生において唯一度の決定的な主なる神との出会い、また招きがあることでしょう。その記念として礼拝が捧げられ、神の家族が与えられているのです。

次いで20節、彼は「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるのなら、、、、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」と請願を立てます。
ヤコブは夢で見たことを、ただの幻として終わらせません。彼は夢で見た事がらと神のお言葉が現実の出来事となって顕わされることを期待し、その必要を与えて下さい、と切に願うのです。
これは、私どもに大切なことを教えています。聖書の言葉はただの物語ではありません。それは、生きた神の言(ことば)であります。そこに自分の存在と人生をかけ、信頼し、実現に向け、具体的に祈り求め、行動していく。そこに神の御業が顕わされていくと信じるからです。
「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」このみ言葉のゆえにヤコブは主に信頼しました。「主は必ずそのあなたに約束したことを果たしてくださる。」「ずっとその最後まで見捨てることはない。」「あなたとどこまでも共にいる。」そう約束してくださるのです。
それは主イエスによって私たち一人ひとりにも与えられているお言葉であります。この主の約束に信頼して日々祈り求めつつ、恵みに応えて生きているのです。これが聖書に立つ「信仰」であります。

今日この「ヤコブの夢」のエピソードを読む時、新約聖書の御言葉を思い出します。
それは、ヨハネ1章14節の神の子イエス・キリストの受肉の出来事を伝える御言葉であります。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
「言」というのはイエス・キリストであります。「神が罪深い私たちの間に宿って下さった。」この「宿る」というギリシャ語は「テント(天幕)を張る」という意味です。つまり、神さまは罪深い私たちの間に来て天幕を張り、いつまでも共に住んでくださる「神の家」となってくださったのです。
神の子イエス・キリストは人となって私たち人間の苦しみ、悩み、悲しみ、痛み、孤独をすべて負われ、十字架の処刑場に至る最期の時まで、罪深い人間を愛し抜き、共に生きる道を貫き通されました。その天の門、神の家である主イエス・キリストによって、私たち人間の深い罪は贖われ、救いの道が開かれたのであります。ヨハネはそのくすしき神の御業について、「わたしたちはその栄光を見た」と言い表しました。   
本日の箇所において、ヤコブは荒れ野という身も心もすさみきっていたその所で、「あなたと共にいる」という神の御声を聞き、主の臨在を経験します。そこでヤコブは畏れおののきながら「これはまさしく神の家である」と言った。
今や私たちは救い主イエス・キリストというまさしく「神の家」に住まいを得ているこの幸いであります。
「そうだ、ここは天の門だ」と、それを見出し得た幸い。その感謝と畏れをもって今日もこうして私たちも礼拝を捧げているのであります。

主はヤコブに「必ずこの土地に連れ帰る」と約束されますが。それはヤコブの生まれ育った地カナン(現イスラエル)をそこでは指していました。        
確かに地上の故郷(ふるさと)というものは、私どもにとって「忘れがたき故郷」でありましょう。しかし、主がここでヤコブに約束した「その土地」は、地上のカナン(現イスラエル)という意味以上の、「神の家」であったのです。
私たちはやがてこの地上の生涯を終え、すべてを手放す時が来るでしょう。この地上は仮の住まいなのです。
使徒パウロが「私たちの本国は天にあります」(フィリピ3章20節)と述べているように、私たちは主によって帰るべき家が用意されているのです。(ヨハネ福音書14章)

ヘブライ人への手紙11章1節(口語訳)には「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と記されています。そこには信仰の父祖アブラハムはじめ、信仰の先達の名が幾人も連記されていますが。その終りの13節には「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちは地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表わしたのです」とあります。
私たちもまた、本日の「わたしはあなたと共にいる。あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」との主の言葉、主の祝福を基に据え、信仰の旅路を歩み通してまいりましょう。
お祈りします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024/7/28 主日礼拝式

2024-07-27 09:54:05 | 教会案内

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祝福を巡って

2024-07-21 14:07:21 | メッセージ
礼拝宣教 創世記27章1節-29節 

「お帰りなさい。」七日の旅路を守られ導かれ、週の始めの礼拝に招かれました恵みを感謝します。梅雨が開けましたが、猛暑日が今後も続くようです。熱中症にはご注意いただき、お身体をお大事ください。主がどうかお一人おひとりを見守って下さいますように心よりお祈りいたします。                        

さて、先週は創世記25章の「長子の権利を巡る」物語でした。そこには「長子の特権」に対するヤコブの思いの強さがよく表われていました。
エサウは煮物と引き換えに、長子の権利をヤコブに渡します。ヤコブは長子の特権を知っており、それを重んじました。エサウはその特権を当座の腹を満たすための煮物と交換してしまうのです。兄エサウは長子の権利を軽んじました。その長子の特権とは単に財産や地位でなく、信仰の父祖アブラハム、そして父イサクへと引継がれて来た信仰の遺産、特別な神からの賜物でした。
ヤコブはおだやかな人でいつも天幕の周りで働いていたのでありますから、おそらく父イサクの礼拝する姿、母リベカの言葉等なからそのことを知っていたので、それを重んじ強く求めていたのでありましょう。
今日もこうして主の天幕である教会にとどまり、御言葉に聞き、礼拝を捧げる私たちも又、キリストにあって、神が約束された祝福を受け継ぐ者となるよう招かれています。Ⅱコリント4章18節「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないモノは永遠に存続するからです。」この御言葉に生きるものとされてまいりましょう。

さて、本日は先ほど読まれました創世記27章のところから「祝福を巡って」と題し、御言葉に聞いていきます。
先週の「長子の権利を巡る」物語と本日の「祝福を巡る」物語は似てはいますが。前回の兄弟間の取引とは異なり、ここでは父イサク、母リベカ、兄息子エサウ、弟息子ヤコブと、四人の家族全員が登場し、今度は家族の中で生じた事件として伝えられています。                                  しかも今回は、「祝福」を巡り、まず母リベカが策略を企て、それをヤコブに情愛をもって強く働きかけたことが発端となっているのです。                         ヤコブはリベカに言います。11-12節「でも、エサウ兄さんはとても毛深いのに、わたしの肌は滑らかです。お父さんがわたしに触れば、だましているのがわかります。そうしたら、わたしは祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます。」ヤコブは当初から父をだますことについて躊躇したのです。それに対して母リベカはヤコブに言います。13節「わたしの子よ。その時にはお母さんがその呪いを引き受けます。ただ、わたしの言うとおりにしなさい。」
ヤコブはこの母の溺愛ともいえる言葉のままに従い、父イサクに提供する料理の子山羊を引いて来てリベカに渡すと、リベカはそれを料理し、その毛皮を取って兄のように毛深くみせるためにヤコブの腕や滑らかな首に巻きつけます。そうして母リベカは自分が作った父イサクの好物の料理とパンをヤコブに渡すのです。
18節~23節は、ヤコブが父イサクから祝福をだまし取る場面です。             ここには、策略を企てたリベカと同様、ヤコブも父イサクの前で偽りの言葉を何度も重ね、祝福を奪い取ろうとする姿が描かれています。                                        20節には「わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」とイサクが尋ねると、ヤコブは「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです」と答えたとあります。これは嘘ではありません。母リベカに示された主の御計画により神が計らってくださった。そうとも言えるでしょう。けれども、人の策略と偽装であることには変わりありません。
さらにここを読みますと、ヤコブは祝福を自分のものにするために、目が良く見えない父の前で、エサウのようにふるまい、リベカの作った料理を自分が作ったように偽り、父の前に持って行きました。又、兄エサウの服を着て、毛皮で毛深く装い、体の体臭までも偽装し、兄エサウに違いありませんと偽り通して父から祝福を奪い取ったのです。ヤコブが父イサクの前でなしたことすべてが偽りで、真実がありませんでした。                                 父イサクがはじめに祝福の条件として兄エサウに提示したのは、3-4節「獲物を取ってきてわたしのために自ら料理を作って持って来るように」と命じたことでした。それは祝福を慕い求め、感謝を表す心備えを意味していたのです。それは又、兄エサウ自身が誠意を示し、心を備えて祝福を受けなければならないことを教えていたのです。                              しかし、真に残念なことに、持って来られた煮物は祝福を譲り渡す場にふさわしい誠意あるものとは到底言えなかったということです。そうして、ヤコブにまんまとだまされたイサクは、弟ヤコブに対して祝福の宣言をしたのです。                
30節以降のところには、この事態が判明した後、激しく体を震わせるイサク、悲痛な叫び声をあげるエサウの姿が描かれています。そこでエサウは「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん」と、泣き叫びます。                     それに対して父イサクは「今となってはお前に何をしてやれようか」と言う外ありませんでした。父イサクから祝福を譲り受ける事ができなかった兄エサウが、なんだか気の毒な気がいたします。けれども、この兄エサウ、さらに彼から出るその子孫であるエドムの民が神から見放された、祝福から切り離されたということとは違うのです。エサウも、そのエドムの子孫も繁栄を得ますし、祝福のもとにある兄弟として恵みを受けていくことになるのです。
先週は弟ヤコブが煮物と引き換えに、兄エサウから長子の権利を手に入れたというお話でしたが。本日の箇所はそれと明らかに異なる内容であります。それはヤコブが父イサクをだまし続け、父からの祝福を奪ったからです。先にも申しましたが、それは身内、家族内から起りました。聖書はここを四人の家族の祝福を巡る愛憎劇として伝えているのです。信仰の父祖と言われたアブラハムとその家族にも赤裸々な愛憎劇、偽り事や争い事のあったことが記されていますが。本日の四人の家族に起こった事は、その時に起ったということではなく、すでに母リベカの胎内で双子の胎児たちが押し合い争っていたところから、すでに始まっていたのです。               その事について尋ねた母リベカに主は、創世記25章23節「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている」と言われました。そのことが予め主によって告知されていたのです。                                 四人の家族の愛憎劇から、ヤコブは父をだまし、裏切り、深く悲しませました。それは仇となってエサウからは恨みと憎しみを買い、父亡き後には逃亡の日々を送らなければならなくなるのです。ちなみにヤコブは故郷の帰還の折、主によって「イスラエル」と新たに命名されますが。その子孫たちもまた、エサウの子孫たちのアマレク人(イドマイ人)による敵意の脅威にさらされることになるのです。                   
聖書はこの家族内に生じた争いが民族、国民(くにたみ)の争いに、更には世界的規模の争いと係わり、連動していることを伝えています。イスラエルとパレスチナはもとより、ロシアとウクライナの戦争もその実例ではないでしょうか。                         私たちの社会、身近なところ、又思いがけず自分自身に家族を巡る争いや愛憎劇が起こってまいります。これはともすれば、神の家族であるはずの教会でも起こり得るのです。人はそれぞれに様々な思いや願いを持ち生きています。それぞれの立場、状況、考え方があります。そういった社会に私たちは生きているのです。
先週の祈祷会で、本日の聖書箇所から出席者それぞれに受けた思いが分かち合われましたが。  ある方は「事の発端と原因は、母リベカさんがヤコブが祝福されるための策略を立て、それを溺愛するヤコブに情で訴え強いたこところにある。この祝福については家族四人が話し合いの場を設けて決めることができなかったのか」と言われました。確かにご尤もです。ただ問題は、それぞれの思惑に全く譲れないものがあったということでしょう。何しろ父イサクは長男エサウを祝福することが当然と考え、しかもそのエサウは力強く、生活能力も有りお気に入りでした。一方の母リベカはおだやかでいつも側にいる次男ヤコブを溺愛していました。さらに長子の権利を巡り何かとぎくしゃくしていた兄と弟。どちらが祝福を受けるか、四人の家族が一つのテーブルを囲んで家族会議を仮に持ったとしても、それぞれが自分の思うままを主張するばかりで何も解決されることはなかったように思えます。そうなると結局は家長のイサクがエサウを祝福したいという思いが通っていくことになりかねないと、リベカはそのことを見通した上で、ヤコブがイサクの祝福を受けられるようにと画策したのです。しかし、ここでのリベカは主に依り頼み、主のみ心が行われるようにということではなく、人間的な情愛も入り交じり、偽りと不義によって願望を実現しようとするものでした。それにヤコブは乗っかって偽装し、祝福を奪い取るのです。そうしたものには憎悪と争いが生じていきます。ヤコブのその後とその子孫であるイスラエルの民の歩みには争いごとがつきまといます。それは何と今もって続けられています。
イサクの祝福はヤコブに与えられましたが、それは予め定められており、主なる神が予告された通りでした。人には様々な感情、様々な思惑が働きます。そして不平や不満・・・。その根っこには主なる神とその御心を思わず、尋ね求めず、自我を押し通そうとする人の罪がはびこっています。
箴言19章21節には「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」このように記されています。この家族の物語の後、ヤコブからイスラエルの民に祝福が受け継がれていくのでありますが。それから長い年月を経て時至り、その民の中から約束されたメシア、救い主、イエス・キリストがお生まれになります。                             新約聖書の第二コリント5章19節には次のように記されています。             「神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」「人の心には多くの計らいがある。しかし主の御旨のみが実現する。」イエス・キリストはその和解の福音が全世界の人々に告げ知らされ、それから主の日が来ると、言われました。それは主の御旨のみが実現する日であります。私たちの内外に様々な惑い、惑わし、思惑が生じ、働くような事が起こりましても、主の御前にとどまり、その御心がどこにあるのかを祈り、尋ね求め、御言葉に聞き従ってゆくものにされてまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024年7月21日(日) 主日礼拝式

2024-07-19 07:28:10 | 教会案内

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長子の権利を巡って

2024-07-14 13:01:32 | メッセージ
礼拝宣教     創世記25章27~34節 

聖書には「千日は一日のようで、一日は千日のよう」という御言葉がございますが、ほんとうに主にあって、二度と繰り返されることのない人生の一日一日を、悔いなく歩んでいくものでありたいと願います。
先週は創世記25章19-26節のところから「信じて祈る」と題し、御言葉に聞きました。アブラハムの子孫であったイサク、そのイサクの子孫としてエサウとヤコブの兄弟が生まれます。この双子の兄弟が母リベカの胎内に宿っていた時から押し合っていたため、彼女は「これでは、わたしはどうなるのでしょう」と不安になり、主のみ心を尋ねて祈ったのです。                                 そうすると主は御心を尋ね求める彼女にこう言われました。                      25章23節「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」これが主のご計画でありました。そうして先ほど本日の25章27-34節が読まれましたが。それは、アブラハム、イサクに続く、「長子の権利を巡る」やりとりです。       
長子の権利ということで思い浮かびますことは、家督や遺産の相続権でありますが。古今東西そこにはやっかいな問題が起こってくることが多々あります。                  イエスさまも群衆の1人から相続争いの調停をもちかけられましたが。その時唯一言、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。」ルカ福音書12章のところでこのように言われました。本日の話もそうですが、聖書は世間一般の「長子の権利云々」について語っているのではありません。今日のところの小見出しにありますとおり「特権」、単に財産を受けるということではなく、それは神の国に係わるお話なのです。今日はその問題の本質を聖書から聞いていきたいと思います。
私たちがこのエサウとヤコブの箇所を読みますと、ヤコブが、長子としての権利をエサウからだまし取ったと思うと、ヤコブが悪賢い悪人であるかのように感じるのではないでしょうか。な思いを持つのではないでしょうか。
 しかし、ヤコブがエサウから長子の権利をだまし取ったから、ヤコブが長子の権利を得たのではありません。先にありましたように、この兄弟が母の胎内にいる時からすでに、兄が弟に仕えるようになることが、主のご計画として約束されていたという事です。
さて、「二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」とあります。              
兄弟でも随分性格が異なるものです。同じような環境で生まれ育っても性質や性格、趣味嗜好はそれぞれです。まあ、えてして父親は活発で自分に利益をもたらしてくれそうな男子を目にかけることは多いかも知れません。           
信仰の人イサクであってもそうした肉的な思いは例外ではなかたようで、彼は「兄息子を愛したが、それは狩の獲物が好物だった」からであると、聖書は赤裸々に伝えます。                     
一方、「リベカは弟息子のヤコブを愛した」とあります。その理由については何も書かれていませんが。ただ先にも申しあげましたように、双子の兄弟が自分の胎内にいた時に、主なる神さまから示されたご計画とその約束を彼女は知っていたのです。リベカは天幕の周りで働くヤコブを愛していたのであります。

まあ、その穏やかな人、原語では「無垢な人」であるはずのヤコブが、兄から長子の権利を奪った、悪く言えばくすね取ったのは意外に思えます。「なぜ、兄を立ててあげないのか。」「兄のエサウが可哀そう。」「兄が空腹であるならば、なぜただ気前よく煮物を食べさせてあげないのか。」ヤコブは兄弟愛を軽んじた、と彼の人間性が問題視されるかもしれません。
しかし確かなのは、ヤコブが長子の権利に伴う特権の重大さを認識し、重んじていたということです。それはヤコブが良い人だとか、どういう人だということを超えて、彼は本来自分が最も大切にすべき宝が何かを知っていたということです。
ですから、彼は兄エサウに対して、その長子の権利への思いとその求めの強さが際立っていたのです。
32節でエサウが、「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とイサクにいっているわけですが。そりゃあ、狩りをして疲れ切ってお腹をすかせ帰ってきたところに、美味しそうな赤いレンズ豆の煮物がフツフツと煮えているのが目に映り、いい匂いが鼻に入ってきたなら、もうたまらないでしょう。料理をしていたヤコブに、「その赤いものを食べさせて欲しい」と頼み込んだのは無理なからぬことです。
しかし、その後がまずかった・・・。長子の権利を求めるヤコブに対して、エサウは本能の向くままに、「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などもうどうでもよい」と、何も考えることなしに答えてしまうのです。
エサウに自分に与えられていた特権をいとも簡単に手放して、ただ目の前のこと、お腹を満たすことだけを最優先したのです。
それが、アブラハム、イサクに与えられた神の祝福と約束という驚くべき特権であるということを軽んじてしまっていたのです。それは、彼が長子として託されるであろう財産、豊作、そして土地を相続するという権利に勝る、継承されるべく権利と祝福の約束を自ら手放すことを意味していたのです。
それは、エサウが心から神に信頼し、期待していなかったということです。      聖書はそれをして、エサウは「長子の権利」を軽んじた、といっているのです。エサウの取った態度を見るとき、生まれたままの性質、それを聖書で肉といいますが。肉は、神、霊のことに価値を認めません。その肉の性質は、神を知らない、又知ろうとしないゆえに、神の約束は曖昧で、価値のない、力のないものでしかないのです。
エサウをしてこの肉の思いは、ただ今のこと、現在のことが自分の中で最も大きな比重を占め、強い影響力をもっているのです。                    
そのような肉の思いによって生きる人は、信仰によらず、ただ目に見えるものによって支配されていますから、今の目に映るモノ、見えているモノだけを重んじます。その人にとって今がすべてであり、神の導きによる将来や未来は不確実なものでしかないのです。不安と恐れに日々振り回されて生きる外ないのです。
エサウが、ただ1食たべたいために、「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」との投げやりともとれる言葉を発した中に、それらのことを読みとることができます。

一方のヤコブは、目に見えるものによらず、神の計画とその約束に自分をかけ、そこに人生の価値を見出そうとしていた。つまり霊的な目をもっていた。そのことに聖書は着眼しているのです。それはアブラハム、イサクが受け継いできた「信仰」でした。
ヘブライ人への手紙11章1節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」とあります。エサウは見えているものに心奪われ貪欲になりましたが、ヤコブはまだ見ていない神の祝福を待ち望んだのです。

アブラハム、イサク、そして本日のヤコブと、彼らは偉大な信仰の父祖、族長となりましたが。しかし彼らが完全無欠であったかというと、決してそうとはいえない一面もありました。聖書はそれを包み隠さず記します。
如何に偉大な信仰の先達にも人生の悩みがあった。又、弱さや欠点をもっていたし、過ちともとられるような事があったのです。そういう生身の人間としての営みの中で、主の大いなる恵みと憐れみを受け、神との関係性を築いて生きた。唯、信仰によって、彼らは神の祝福を求め、望み、受け取っていったのです。

今日のメッセージは、この「神への信仰」を私たちも敬承していくように、キリストを通して受け継いでいくようにと、聖書は私たちに語りかけているのであります。
確かに、目に見えることがらに日々翻弄され、不安や恐れを感じて生きているような私たちでもあります。
そうした中ですぐに答えを欲しがり、スマホを手に取ってその場限りの必要を満たしたり、目に見えるモノを頼みとし、安っぽい安心感でその場をしのいでいないだろうか?聖書は問いかけています。
ローマ8章28節以降にはこう記されています。口語訳聖書でお読みします。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となさるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」
そうです、唯、私たちが依り頼むべきお方は、この神です。
キリストにより、神が約束された祝福を受け継ぐ者となるよう招かれています。

最後にⅡコリント4章16~18節のお言葉をお読みして本日の宣教をとじます。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
さあ、ここから新たな週の歩みを踏み出してまいりましょう。いかなる時も、「主への信仰」をもって、来たるべき日を待ち望みつつ、歩んでまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024/7/14 主日礼拝式

2024-07-12 06:57:08 | 教会案内

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信じて祈る

2024-07-07 13:34:57 | メッセージ
主日礼拝宣教     創世記25章19-26節 

先週はコリント第二の手紙12章から御言葉を聞きましたが。この7月から9月末までは旧約聖書の創世記より、ヤコブとエサウの誕生物語、そしてヤコブの物語、さらにその息子ヨセフの物語を軸に御言葉に聞いていきます。
ところで先週は生まれる命に優劣をつける「旧優生保護法」に伴い、かつて国策として行われていた強制不妊処置が憲法違反であるとの最高裁判決が出されました。憲法13条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、 公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とあります。また、14条第1項には「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、 政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とあり、文字通りすべての国民の命の尊厳が重要視にされたといえるでしょう。そうした優生思想が今日の日本社会に未だにはびこっていることを、最高裁判決ははっきりと指摘したものです。殊に長い間耐え難い痛みと悲しみを背負わされて来られた多くの方々とご遺族の名誉と尊厳の回復を決するにはあまりにも歳月を要しましたが、その方々のお心がいやされますよう願い祈ります。人の命の重さを計ることなどできません。生まれた赤ちゃんの命を利己のために遺棄するという痛ましい事件が起こり続けています。決して正当化でないでしょう。創造主なる神がすべての命の主であり、生かしておられます。そこにすべての人の存在の意義があります。
本日は25章19-26節が読まれました。この箇所は信仰の父祖アブラハムの子イサクと妻リベカの間にその子エサウとヤコブが誕生する記事ですが。もし血統を受継ぐだけであるなら、何も双子でなくてもよかったわけです。しかし、エサウとヤコブの2人が生まれた。そこに神の御計画があったからです。それは神の御計画でした。                                    
イサクは40歳の時にリベカと結婚するのでありますが、2人にはその後ずっと子供ができませんでした。父アブラハムと母サラにも長年こどもが授からなかったのです。主なる神の呼びかけに応えて行き先も分からないまま旅に出た彼らは、唯、神の力に頼るほかありませんでした。そうして2人に待望の子、イサクが与えられました、その時彼らは100歳近い時でした。
そういう両親のことを知っていたイサクは、妻リベカのことを思いやり、妻のために主に祈り続けました。長い年月の後、リベカは60歳にして子どもをみごもります。
ところが、リベカに悩みが生じます。臨月に近づいて来ると胎内の子はよく動くそうですが。リベカは双子を宿しており、その胎内で双子の子供たちが押し合っていたのです。彼女は「これでは、わたしはどうなるのでしょう」と言って、「主の御心を尋ねるために出かる」のであります。
このエサウとヤコブの誕生に際しての父イサクと母リベカの役回り、役割は、唯、「信じて祈る」ことでした。二人は唯、主に依り頼む以外なく、そうして実際祈り続けたのです。これが彼らのなした大切な事でした。

詩編55編22節で次のようにうたわれております。
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らっていてくださる。」
リベカには「ここに来れば主と一対一で向き合える。」そう思えるような場があったのです。
ここに来れば主は耳を傾けてくださり。御心をお尋ねすることができる。そんな心許せる居場所があったのです。私たちはそうした居場所があるでしょうか。この礼拝も、神さまが用意してくださる場であるとの思いがあるからこそ、こうして時間を聖別して集っておられることでしょう。仕事で疲れが残る中にも、主によって安息を得るため。また、命の源である方に依り頼むため。私たち一人ひとりが救いの感謝とそれぞれの願いをもってここに集ってまいります。
中にはご高齢で、お一人でも電車を乗り継いで、このところまで来られる方々もいらっしゃいますが。主を信じて、主に祈るお一人おひとりのお顔は、呼べばお答えになり、生きてお働きくださる神を仰ぎ見る喜びで満ちておられます。それは唯、主のお力と恵みのほかありません。

さて、リベカは祈りました。どのように祈ったのでしょう。
彼女は「胎内で子供たちが押し合うので、これでは、わたしはどうなるのでしょう」と、「主の御心を尋ねて祈った」のです。彼女は自分のしんどい状況、その心に抱えていた不安と恐れを、「ただ、主よ、助けて下さい」と祈るのではなく、「主の御心を尋ね求めた」のです。これこそが聖書の祈りの本質であります。
それは主を信じていなければ、又主に信頼していなければ、主への信仰によらなければこのように祈ることはできません。リベカは自分の主となられたお方を信じて祈るのです。

多くの人は「祈り」「祈願」を日常でも行っています。自分のための祈り、祈願をするだけでなく、家族、友人知人、社会や世界のために祈り、祈願されている方は世の中にはたくさんおられます。それはまことに尊いことです。けれども、そこには自分の願望、このようにあるべきだ、これがあたりまえだという、言わば自己中心的な押しつけが入り混じってもいます。
しかし聖書の祈りの本質は、「神さまの御心を尋ね求める」ということです。神こそが万物を治め、司っておられる主であることを認めなければなりません。

ところで、聖書には不妊という事情の中で、神さまの選びの器が生まれていくという不思議なエピソードが繰り返し伝えられています。先にも申しましたイサクの母サラの場合がそうでした。その後には、サムエルが誕生する時も、その母ハンナが不妊という事情を抱えていました。新約聖書ではバプテスマのヨハネが生まれる時、母エリサベトの胎は閉ざされる年齢になっていたにも拘わらず、その子が誕生しました。それだけではありません。神の御独り子、救いの主、イエスの誕生は、人の事情や状況があてはまらない、人としては困惑でしかない中で、唯、神の御心により起こった聖霊による出来事でありました。
マリアが天の使いによって受胎告知を告げられた時、当然戸惑いと畏れが生じました。しかしその中で彼女は、「お言葉どおり、この身になりますように」との祈りへと導かれていくのです。
それは今日の箇所で、リベカが主の御心を尋ねるために出かけて祈ったのと同様であります。マリアも、このリベカもまた、「信じて祈る」のです。

私たちにも答えが与えられないような長い祈りの時があります。
聖書教育の「毎日の言葉」ローマ8章25-26節より、綴られた言葉を引用させていただきます。
「まだ見ぬことを忍耐して待ち望む人々のことを、神は言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださいます。わたしたちの不安や恐れをとりなしてくださる神がおられます。様々な不安や恐れの中におられる方々のそばに、主がたえず共にいてくださいますように。」そのとおりです。
そのローマ8章21節―23節には次のように記されています。
「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」
そうです。霊の初穂、すなわちイエス・キリストの救いを受け、その再創造の命の約束受けた私たちも又、被造物と同様、神の子とされること、からだが贖われる日のために、共に産みの苦しみを忍耐しつつ、待ち望んで、この地上の日々を生きているのです。そこには希望があるからです。
不妊のリベカが胎内にエサウとヤコブを宿すということは生物学的な出来事でありますけれども。ここで肝心なのは、その神の選びの器が、人間の力や業によらず、唯天から、神によって、つまり霊的に生まれる、ということであります。

リベカの祈り対して、主の答えがありました。
23節「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」
神のご計画です。
この意味については来週以降の礼拝宣教においてお話させていただきたいと思いますが。そこには兄と弟の運命と役割とでも言いましょうか。しかしそれは、この二人にとどまる事柄ではなく、後に続く歴史、民族史、あらゆる出来事につながっていく神のご計画です。それがリベカの胎内に宿っていたのです。

24節「月が満ちて出産の時が来ると、胎内にまさしく双子がいた。」
そうしてリベカはその双子の子を産むのです。
25-26節「先に出た子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その子はエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた」とあります。
ここには双子の兄弟のそれぞれの特徴が描かれています。ヤコブは兄エサウのかかとをつかんで出て来たと、母の胎内にいた時から兄と押し合い争っていたのです。それはその誕生後の神のご計画を物語っていました。

本日は「信じて祈る」というテーマのもと御言葉に聞いてきました。
今日の箇所にはイサクの祈り、リベカの祈りがありましたが。私たちも又主に祈ることに対して貪欲になり、信じ、期待して祈っていこうではありませんか。
祈ること、執り成しの祈りもそうですが、それは実にエネルギーがいる、労力がいることです。
ある人は「祈りは労働だ」と言います。祈り続けるには忍耐が必要です。けれどももっと重要なことは、主を信じて祈る信仰であります。リベカが「主の御心を尋ねるために出かけた」ように。
私たちは心の底から主に望みをおいて祈っているでしょうか。主は私たちの願望や状況を遥かに超えたあり方でもって、その御心を示して答えくださいます。
「信じて祈る」。私たちの歩みであり続けてまいりましょう。お祈りします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024/7/7 主日礼拝式・主の晩餐

2024-07-06 08:11:23 | 教会案内

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする