主日礼拝宣教 創世記28章10-22節
先週は27章の弟息子のヤコブが父ヤコブをだまし、祝福を奪い取ったお話でしたが。その後兄息子のエサウは父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになり、遂には殺意を抱くようになるのです。そのことを知った母リベカは、そのエサウの強い憎しみと殺意をヤコブに伝え、伯父ラバンのいるハランに逃げるようにと勧めました。母リベカには溺愛していたヤコブと別れなければならないというつらさや寂しさがきっとあったと思うのです。でも、彼女は「一日のうちにお前たち二人を失うことなど、どうしてできましょう」と、苦渋の決断をしてヤコブを送り出します。ヤコブもその母の勧めに従い、700キロ以上、(大阪から秋田ほどの距離くらいしょうか)離れたハランの地へ一人で向かうことになるのです。
28章の始めのところには、そのヤコブが父イサクに祝福され、ハランの地に送り出されていったという場面がありますが。父イサクはヤコブにだまされたにも拘わらず、ヤコブを愛していました。父イサクも母リベカと同様、二人の息子が失わないために祈りつつ、、ヤコブを送り出すのです。
ハラン、そこはかつて信仰の祖父アブラハムが召命を受けたとされる地であり、ヤコブもまた、用意された神の召命に与る時に向けて険しい長い旅路が始まるのです。
さて、ヤコブは10-11節「ベエル・シェバを立ってハランに向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。」
「とある場所」とは後のベテルのことですが、そこは荒れ野のような場でした。このベテルが後には聖地となるのです。ヤコブはそこで一夜を過ごすこととなったのですが、彼は石を枕にして休んだようです。この時の彼の心境はどのようなものであったことでしょう。親もとから離れ、兄エサウには殺意を持つほどの恨みを持たれ、父が祝福して与えると約束した土地や財産、さらに家を継ぐという希望も持てず、身も心もボロボロになるくらい疲れ切っていたのではないでしょうか。これが神から祝福を受ける者の姿であろうかと自らの状況を嘆いていたのかも知れません。そういう中で、石を枕にして荒野で寝入ったヤコブでありました。その石の枕は涙でぬれていたのかも知れません。
そうして眠りについた時、彼は真に不思議な夢を見るのです。
それは12節「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下りたりしていた」というのです。
この光景は、「神が人の生きている地に深く関わり、近づき、交わりをもってくださる」ことを示していました。
この地上の生涯を生きる私たちにも、悩みや苦難の中で、まるで神さえ私をお見捨てになり、神の助けすらも得られないように感じることがあるかも知れません。しかし、主はすべてをご存じです。又、共におられ、うめきをもって祈り執りなして下さいます。(ローマ8章)
天から地に向かって伸びる階段を天使たちがせわしなく行き来するように、主は私どもをいつも気にかけ、助けを送り、見守っていてくださるお方であることが、ここに示されているのです。
13節、「見よ、主が傍らに立って言われた。」
ヤコブは何と、自分の傍らに立っておられる主の御声を聞きます。それは驚くような祝福と力強い約束の言葉で満ちていました。
「あなたとあなたの子孫に今横たわっているこの土地を与える。」「あなたの子孫は大地の砂粒のように多く広がり、地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」さらに「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。」「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
「決して見捨てない。」この力強い約束と共に、何とヤコブとその子孫によって地上の氏族すべてが祝福に入る。そんなあまりにも壮大なビジョンまで神はヤコブに語られるのです。
16節で、ヤコブは眠りから覚めて次のように答えます。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
「主が共におられるお方である」そのことに目が開かれる時、それは平穏で何事もないような時よりも、むしろ逆境の中で石の枕に涙するような時なのではないでしょうか。自分にとって最低と思えるようなところにまで落ち、身も心もボロボロのヤコブ。そのような打ち砕かれた思いの中にあるからこそ、「わたしはあなたと共にいる」「あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る」「あなたを決して見捨てない」との主なる神さまの臨在に気づくことができたのではないでしょうか。そして主の約束が希望となり、生きる力を取り戻していったことでしょう。
17節、ヤコブは畏れおののきつつ、このように言いました。
「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
まあ「神の家」と言えば、普通教会堂とかの建物が思い浮かびますけれども。しかしここではそういった物理的な建物のことではないのです。何もかも失い、どん底といえるようなところにおちた恐れ、不安、孤独のその只中で、神の救いを見たのです。この神の救いこそ「天の門」であり、神が共におられるところこそが「神の家」なのです。
主イエスは言われます。「わたしは門である。」私たちは主イエスこそ天の門であることを知っています。主イエスはこうも言われます。「わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネ福音書10章)
この「神の家」へと主の救いの門を通っていくようにと、私たちは今日も招かれているのです。
さて、18節、「ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを祈念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。」
まあ、これまでヤコブは母リベカの指示や勧めの言葉によって行動してきた事が多かったわけですが。この「とある場所」においてヤコブは、主の言葉、主の祝福によって生きる者へと変えられるのです。
彼、ヤコブにとっての大きな分岐点、ターニングポイントがこの「とある場所」であったのです。
私の人生のターニングポイントは、やはり悩みの中でキリストと出会った時でした。次いで、主の御言葉に聞き従って生きていきたいと決心し、母のもとを離れて主と共にあゆみ出したその時でした。それまでは周りの影響を受けながら流されて生きていましたが。主との出会い、そして招きに応えて生きる人生がそこから始まったのです。
ヤコブは母リベカの言葉や勧めを素直に受けて行動した結果、兄からは憎まれ恨まれて、父母とも別れ逃亡せざるを得なくなります。それは周りに流されるような人生でした。そのヤコブに主はビジョンを示し、ヤコブは主の言葉、主の祝福によって生きる者とされていくのです。
ここでヤコブは「枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた」とあります。そのようにして彼の人生を変えたこの出来事を心に刻みつけ、新たな一歩を踏み出していったのです。
私たちもそれぞれに、人生において唯一度の決定的な主なる神との出会い、また招きがあることでしょう。その記念として礼拝が捧げられ、神の家族が与えられているのです。
次いで20節、彼は「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるのなら、、、、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」と請願を立てます。
ヤコブは夢で見たことを、ただの幻として終わらせません。彼は夢で見た事がらと神のお言葉が現実の出来事となって顕わされることを期待し、その必要を与えて下さい、と切に願うのです。
これは、私どもに大切なことを教えています。聖書の言葉はただの物語ではありません。それは、生きた神の言(ことば)であります。そこに自分の存在と人生をかけ、信頼し、実現に向け、具体的に祈り求め、行動していく。そこに神の御業が顕わされていくと信じるからです。
「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」このみ言葉のゆえにヤコブは主に信頼しました。「主は必ずそのあなたに約束したことを果たしてくださる。」「ずっとその最後まで見捨てることはない。」「あなたとどこまでも共にいる。」そう約束してくださるのです。
それは主イエスによって私たち一人ひとりにも与えられているお言葉であります。この主の約束に信頼して日々祈り求めつつ、恵みに応えて生きているのです。これが聖書に立つ「信仰」であります。
今日この「ヤコブの夢」のエピソードを読む時、新約聖書の御言葉を思い出します。
それは、ヨハネ1章14節の神の子イエス・キリストの受肉の出来事を伝える御言葉であります。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
「言」というのはイエス・キリストであります。「神が罪深い私たちの間に宿って下さった。」この「宿る」というギリシャ語は「テント(天幕)を張る」という意味です。つまり、神さまは罪深い私たちの間に来て天幕を張り、いつまでも共に住んでくださる「神の家」となってくださったのです。
神の子イエス・キリストは人となって私たち人間の苦しみ、悩み、悲しみ、痛み、孤独をすべて負われ、十字架の処刑場に至る最期の時まで、罪深い人間を愛し抜き、共に生きる道を貫き通されました。その天の門、神の家である主イエス・キリストによって、私たち人間の深い罪は贖われ、救いの道が開かれたのであります。ヨハネはそのくすしき神の御業について、「わたしたちはその栄光を見た」と言い表しました。
本日の箇所において、ヤコブは荒れ野という身も心もすさみきっていたその所で、「あなたと共にいる」という神の御声を聞き、主の臨在を経験します。そこでヤコブは畏れおののきながら「これはまさしく神の家である」と言った。
今や私たちは救い主イエス・キリストというまさしく「神の家」に住まいを得ているこの幸いであります。
「そうだ、ここは天の門だ」と、それを見出し得た幸い。その感謝と畏れをもって今日もこうして私たちも礼拝を捧げているのであります。
主はヤコブに「必ずこの土地に連れ帰る」と約束されますが。それはヤコブの生まれ育った地カナン(現イスラエル)をそこでは指していました。
確かに地上の故郷(ふるさと)というものは、私どもにとって「忘れがたき故郷」でありましょう。しかし、主がここでヤコブに約束した「その土地」は、地上のカナン(現イスラエル)という意味以上の、「神の家」であったのです。
私たちはやがてこの地上の生涯を終え、すべてを手放す時が来るでしょう。この地上は仮の住まいなのです。
使徒パウロが「私たちの本国は天にあります」(フィリピ3章20節)と述べているように、私たちは主によって帰るべき家が用意されているのです。(ヨハネ福音書14章)
ヘブライ人への手紙11章1節(口語訳)には「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と記されています。そこには信仰の父祖アブラハムはじめ、信仰の先達の名が幾人も連記されていますが。その終りの13節には「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちは地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表わしたのです」とあります。
私たちもまた、本日の「わたしはあなたと共にいる。あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」との主の言葉、主の祝福を基に据え、信仰の旅路を歩み通してまいりましょう。
お祈りします。