礼拝宣教 エゼキエル43:1~9
先週の23日はYさんが天に召されて丁度1年となるということで、奥様はじめご長男様ご夫妻やヘルパーであった方もともに主に礼拝をささげるときがあたえられほんとうに感謝でした。
又水曜日の午前中の祈祷会には、福井達雨先生の著書「子どもの笑顔を消さないで」など多数、障がい者福祉の先駆けともいえる活動を半世紀以上続けて来られた止揚学園うおり、職員の方々がご来訪くださり、止揚学園の近況報告とお証を聞く貴重な機会となりました。いつもはカレンダー等をお持ちになって活動のアピールをなさるのですが今回はそうではなく、「相模原の障がい者施設殺傷事件」をうけて、入所者と施設当事者の立場からお伝えできればという目的を持ってご来訪くださったとのことでした。「あの事件が起こってから、よく、防犯対策は?ということが言われるようになってきた。しかし、問題はそこにありのではない。むしろこれまで社会が弱い立場におかれた人とともに歩むことが出来ていなかったから、そのような社会が開かれてこなかったからこのような事件が起こったのではないでしょうか」とおっしゃっていました。ちなみに、止揚学園の福井生新園長も「相模原事件を問う」という新聞のコラムにこういう記事を寄せられています。一部のみご紹介します。
「障害者総合支援法や障害者差別解消法ができるなど、障がいのある人を取り巻く状況は表面的には良くなったようだが、大切なものに向き合ってこず、何かを忘れてきたためにこんな事件が生じたのでないか。新たな法律の制定によって、障がいのある人の中でも選別が起きている。障がいの軽い人の就職などが進む一方で、重度の人たちは法律が求めるような結果に行き着けない。そういう状況の中で、「重度障害者は役に立たない」「いない方が国のため」という考えが生まれている気がする。」
また新しく職員となられたもう一人の方は、「止揚学園は出来ないことがダメと評価される場ではなく、できないことをみんなで担い合い、助け合う場です。職員になる前は、もっと何かできることが問われるのかと思っていましたが、それよりも、障がいを持つ仲間の人と真剣に向き合う私自身が問われることが多い。止揚学園のご飯はおいしい。ここはほんとうに神の家族です」とおっしゃっていました。この方は神学研究科大学院を出られたのでありますが、ある日止揚学園の職員募集の公告を見られて、見学に行かれそこで、止揚学園の暖かい心、生活をされておられる方々と出会い、頭で得た知識としての学問でなく、聖書の言葉が具体的に実践されている止揚学園で働きたいと決意されたということでした。優生思想という言葉がまかり通る現代にあって、人の命に優劣などありはしないというメッツセージを主イエスの福音を基とした止揚学園の取り組みからまたお聞きすることができました。
さて、今日のエゼキエル書のお話ですが。ユダの民がバビロンの捕囚となってから25年、エルサレムの都と神殿が倒壊してから14年目。主なる神は幻で、エゼキエルをエルサレムの都に伴われ、その高い山から「新しい神殿の幻」をお見せになります。
8章のところで都に残されたユダの人々が偶像礼拝と不義に満ちた生活に堕落している有様をエゼキエルが幻によって見せられる箇所を礼拝で読みましたが。その10章に、遂には「主の栄光が神殿を去る」という恐ろしい幻を彼は見ることとなります。けれどもそれがすべての終わりではなく、主はエゼキエルに希望の言葉をも託されるのです。
それはやがて捕囚となった人々は都エルサレムに帰ってきて、その地の忌まわしいものは取り除かれる。そうして36章26節に、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行なわせる」ございます。
神殿と倒壊した都は廃墟となりますが、14年目にしてエゼキエルは新しい神殿の中に主の栄光が入り、再びかつてのように主の栄光が神殿を満たしている。そのような荘厳な幻を見せられるのであります。
その時エゼキエルは神殿の中からこう語りかける声を聞きます。
7節「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。」
それは再びイスラエルが神の民とされ「神が彼らの間にとこしえに住む」という宣言であります。彼らは囚われの地において、あたかも銀が火によって精錬されるように、その信仰を練られました。それはまさにこの神さまの宣言が現実のものとして実現されるため。彼らが約束の地に帰ってきて、彼らが神の民となり、神が彼らの神となられるというその預言が現実のものとなるためであったのです。
さてここに、「主の栄光が神殿の中に入り、神殿を満たした」とあります。その「主の栄光。」であります。それはエゼキエル1章28節に「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。」今日の2節には「大地はその栄光で輝いた」とございます。
人は神を見ることはできませんが、詩編19編に「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す」とうたわれていますように、ほんとうに今日はすばらしい秋晴れでありますけれども、その自然界を創造され、すべての源となる神さまの栄光の一端を仰ぎ見る思いがいたしますが。エゼキエルはその主の栄光をまざまざと見せられたとき、3節「わたしはひれ伏した」というように、唯々主なる神を拝するばかりでありました。
「大地は神の栄光で輝いた」との御言葉は、崩壊した大地の再生、甦りを物語っています。罪の世界によって崩壊した大地、自然界、国土、人、すべて、神によって創られた生きとし生けるものと神さまとの関係の回復。それが神の栄光の顕現、顕れなのです。
翻って現代の大気汚染や地球温暖化。政治の迷走、人の命よりも経済や利益をあげることが優先されていくような今日であります。地に揺さぶられ、光を失っていくような今日にあって、創世記1章31節には、「天地万物を創造された神は、お造りになったすべてのものをご覧になって、見よ、それは極めて良かった」と感嘆された。神さまはその世界が取り戻されていくことをどんなに願っておられることでしょうか。
その神の御心に逆らい、招きを拒み続けた結果として北イスラエルと南ユダ王国の倒壊、他国による侵略と捕囚、都エルサレムの神殿崩壊でした。
捕囚として連れられた人たち、又、エルサレムに生き残った人たちは、先週読んだエゼキエルの幻のように、「我々の骨は枯れた。我々の望みは失せ、我々は滅びる」(37:11)
と、ただ自分たちの行く末に絶望する外ありませんでした。
そのような絶望的な思いの中で彼らは深い悔い改めと神の民としての存在意義を思い起こしていったとき、それは具体的には旧約聖書の編纂という形でなされたわけですが。
神さまはエゼキエルに幻をとおして、神の栄光が到来し、「大地はその栄光で輝いた。」そういう神による一方的ないのちの関係回復が示されるのです。
それは神と人、人と人、さらには分断された人たちが共に生きる世界の回復。神の栄光が大地に輝くとはそういう姿であります。
そしてその大地を満たした神の栄光が、5節「神殿の中に入り、見よ、主の栄光が神殿を満たしていた。」主が幻で示したもう新しい神殿は、単に目に見える建造物ではありません。主がご臨在され、その栄光が満ちている、それが新しい神殿です。いくら立派で荘厳な建物であっても、そこに生ける主のご臨在がなければ、ただの建物に過ぎません。ですから、わたしたちは本物の礼拝に与るためには、礼拝に主がご臨在くださるように祈り求めて集わないといけません。そうして、ほんとの礼拝をさせてください、わたしに御言葉をくださいと求めて集いますと、そういう御心にかなう祈りは即答えられますよね。神を礼拝する礼拝者がいないのであれば、ここで示されている「新しい神殿」とはいえません。逆に、建物は古く小さくても、また場所がら不便なところであっても、神さまを心から畏れ敬い礼拝している集まりの中に、主は生き生きとお働きになられ、その礼拝者のうちに主がともにおられることが証されていきます。主は建物や場所の条件によるのではなく、礼拝者一人ひとりが霊と真理をもって礼拝するその中に、その栄光を現し、聖霊で満たし、ほんとうにわたしたちを生きるものとしてくださるのです。
過ぐる25日は、Hさんが天に召されて1年という日でありました。その翌日の水曜日の夕方でしたけれども、生前彼の介護ヘルパーをされていたお二人の方が、教会を訪ねてこられ、「Hさんが逝去して丁度1年になるのでお参りをさせて頂きにきました」ということでした。そこですぐに記念室にご案内したのですが。お二人は、赤しゃれた服を着たHさんのお写真に、「よう、久しぶり」と語りかけ、黙祷なさっていました。Hさんもきっとお二人がおぼえて来て下さったことをどんなに喜んでおられることか、と思いました。1年前のあの日、そのお一人の方が教会に訪ね、Hさんの突然の死を伝えてくださったのですが。もしその知らせがなければ、彼は一人寂しく仏教式で荼毘にふされていたことでしょう。生前Hさんがほとんど教会を休まれることはなく、礼拝と祈祷会にいらしていたこと。又、ヘルパーさんに自分は大阪教会に行ってクリスチャンとなり、礼拝を中心とした信仰生活を送っているということを常日頃からあかしされていたことで、ご本人の一番願っていたかたちで「天国へ旅立つ告別式」を行なうことができました。このようにご本人が一番願われていたであろうかたちで主の御もとにお送りすることができましたのは、ほんとうにわたしにとりまして神さまの御業をお証させて頂く貴重な体験となりました。又、彼を通してSさんが信仰の決意を主の御前で表明なさったことも神さまのご慈愛の顕れであると思います。まあそのように如何に日常において主と共にあり、その幸いをあかしする日々をおくることが、自分や周りの人たちの救いにつながっていくか。そのことを主はHさんを通してわたしたちに示してくださいました。
さて、今回の聖書教育の成人青年科の話し合いのポイントで、「主の栄光は神殿の中に納まりきれるものではありません。それにもかかわらず、神さまは神殿の存在にこだわります。確かに神さまとの交わりは主日礼拝の時間と場所に限定されませんが、それでもわたしたちが主の日の礼拝にこだわる理由について、また礼拝を中心とする生き方について考えてみましょう」という問いかけがありました。このことに、わたしはどう答えていけるでしょうか。
ヨハネ4章23節以降にこうあります。
「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
それは律法、そうあらねばならないという義務感からなされるものではもはやありません。救いの感謝と、神共にいますその喜びによって、自ら進んで捧げられる真の礼拝であります。それは私どもにとりましては主イエス・キリストによってもたらされました。
主イエスの十字架の愛によって頑なな石の心が打ち砕かれ、やわらかな肉の心が与えられた。その計りがたい恵みによって、今日もわたしたちはこうしてともに教会に集い、霊と真理をもって礼拝をお捧げしているのです。
今日はエゼキエル43章から、「神我らのうちに住まう」という題で、お話をさせていただきました。47章には、この新しい神殿の敷居の下から水が湧き上がり、流れ、泳ぐほどに溢れる川となって、きよめ、生きものを生き返らせ実らせるとあります。
わたしたちは、まず主の日の礼拝によって主の栄光を拝し、そこで主の愛といつくしみを心新たに思い起こし、神殿から溢れ流れ出る生ける命の水に活き活きと泳ぐように、主の愛に満たされて、 今週もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
先週の23日はYさんが天に召されて丁度1年となるということで、奥様はじめご長男様ご夫妻やヘルパーであった方もともに主に礼拝をささげるときがあたえられほんとうに感謝でした。
又水曜日の午前中の祈祷会には、福井達雨先生の著書「子どもの笑顔を消さないで」など多数、障がい者福祉の先駆けともいえる活動を半世紀以上続けて来られた止揚学園うおり、職員の方々がご来訪くださり、止揚学園の近況報告とお証を聞く貴重な機会となりました。いつもはカレンダー等をお持ちになって活動のアピールをなさるのですが今回はそうではなく、「相模原の障がい者施設殺傷事件」をうけて、入所者と施設当事者の立場からお伝えできればという目的を持ってご来訪くださったとのことでした。「あの事件が起こってから、よく、防犯対策は?ということが言われるようになってきた。しかし、問題はそこにありのではない。むしろこれまで社会が弱い立場におかれた人とともに歩むことが出来ていなかったから、そのような社会が開かれてこなかったからこのような事件が起こったのではないでしょうか」とおっしゃっていました。ちなみに、止揚学園の福井生新園長も「相模原事件を問う」という新聞のコラムにこういう記事を寄せられています。一部のみご紹介します。
「障害者総合支援法や障害者差別解消法ができるなど、障がいのある人を取り巻く状況は表面的には良くなったようだが、大切なものに向き合ってこず、何かを忘れてきたためにこんな事件が生じたのでないか。新たな法律の制定によって、障がいのある人の中でも選別が起きている。障がいの軽い人の就職などが進む一方で、重度の人たちは法律が求めるような結果に行き着けない。そういう状況の中で、「重度障害者は役に立たない」「いない方が国のため」という考えが生まれている気がする。」
また新しく職員となられたもう一人の方は、「止揚学園は出来ないことがダメと評価される場ではなく、できないことをみんなで担い合い、助け合う場です。職員になる前は、もっと何かできることが問われるのかと思っていましたが、それよりも、障がいを持つ仲間の人と真剣に向き合う私自身が問われることが多い。止揚学園のご飯はおいしい。ここはほんとうに神の家族です」とおっしゃっていました。この方は神学研究科大学院を出られたのでありますが、ある日止揚学園の職員募集の公告を見られて、見学に行かれそこで、止揚学園の暖かい心、生活をされておられる方々と出会い、頭で得た知識としての学問でなく、聖書の言葉が具体的に実践されている止揚学園で働きたいと決意されたということでした。優生思想という言葉がまかり通る現代にあって、人の命に優劣などありはしないというメッツセージを主イエスの福音を基とした止揚学園の取り組みからまたお聞きすることができました。
さて、今日のエゼキエル書のお話ですが。ユダの民がバビロンの捕囚となってから25年、エルサレムの都と神殿が倒壊してから14年目。主なる神は幻で、エゼキエルをエルサレムの都に伴われ、その高い山から「新しい神殿の幻」をお見せになります。
8章のところで都に残されたユダの人々が偶像礼拝と不義に満ちた生活に堕落している有様をエゼキエルが幻によって見せられる箇所を礼拝で読みましたが。その10章に、遂には「主の栄光が神殿を去る」という恐ろしい幻を彼は見ることとなります。けれどもそれがすべての終わりではなく、主はエゼキエルに希望の言葉をも託されるのです。
それはやがて捕囚となった人々は都エルサレムに帰ってきて、その地の忌まわしいものは取り除かれる。そうして36章26節に、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行なわせる」ございます。
神殿と倒壊した都は廃墟となりますが、14年目にしてエゼキエルは新しい神殿の中に主の栄光が入り、再びかつてのように主の栄光が神殿を満たしている。そのような荘厳な幻を見せられるのであります。
その時エゼキエルは神殿の中からこう語りかける声を聞きます。
7節「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。」
それは再びイスラエルが神の民とされ「神が彼らの間にとこしえに住む」という宣言であります。彼らは囚われの地において、あたかも銀が火によって精錬されるように、その信仰を練られました。それはまさにこの神さまの宣言が現実のものとして実現されるため。彼らが約束の地に帰ってきて、彼らが神の民となり、神が彼らの神となられるというその預言が現実のものとなるためであったのです。
さてここに、「主の栄光が神殿の中に入り、神殿を満たした」とあります。その「主の栄光。」であります。それはエゼキエル1章28節に「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。」今日の2節には「大地はその栄光で輝いた」とございます。
人は神を見ることはできませんが、詩編19編に「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す」とうたわれていますように、ほんとうに今日はすばらしい秋晴れでありますけれども、その自然界を創造され、すべての源となる神さまの栄光の一端を仰ぎ見る思いがいたしますが。エゼキエルはその主の栄光をまざまざと見せられたとき、3節「わたしはひれ伏した」というように、唯々主なる神を拝するばかりでありました。
「大地は神の栄光で輝いた」との御言葉は、崩壊した大地の再生、甦りを物語っています。罪の世界によって崩壊した大地、自然界、国土、人、すべて、神によって創られた生きとし生けるものと神さまとの関係の回復。それが神の栄光の顕現、顕れなのです。
翻って現代の大気汚染や地球温暖化。政治の迷走、人の命よりも経済や利益をあげることが優先されていくような今日であります。地に揺さぶられ、光を失っていくような今日にあって、創世記1章31節には、「天地万物を創造された神は、お造りになったすべてのものをご覧になって、見よ、それは極めて良かった」と感嘆された。神さまはその世界が取り戻されていくことをどんなに願っておられることでしょうか。
その神の御心に逆らい、招きを拒み続けた結果として北イスラエルと南ユダ王国の倒壊、他国による侵略と捕囚、都エルサレムの神殿崩壊でした。
捕囚として連れられた人たち、又、エルサレムに生き残った人たちは、先週読んだエゼキエルの幻のように、「我々の骨は枯れた。我々の望みは失せ、我々は滅びる」(37:11)
と、ただ自分たちの行く末に絶望する外ありませんでした。
そのような絶望的な思いの中で彼らは深い悔い改めと神の民としての存在意義を思い起こしていったとき、それは具体的には旧約聖書の編纂という形でなされたわけですが。
神さまはエゼキエルに幻をとおして、神の栄光が到来し、「大地はその栄光で輝いた。」そういう神による一方的ないのちの関係回復が示されるのです。
それは神と人、人と人、さらには分断された人たちが共に生きる世界の回復。神の栄光が大地に輝くとはそういう姿であります。
そしてその大地を満たした神の栄光が、5節「神殿の中に入り、見よ、主の栄光が神殿を満たしていた。」主が幻で示したもう新しい神殿は、単に目に見える建造物ではありません。主がご臨在され、その栄光が満ちている、それが新しい神殿です。いくら立派で荘厳な建物であっても、そこに生ける主のご臨在がなければ、ただの建物に過ぎません。ですから、わたしたちは本物の礼拝に与るためには、礼拝に主がご臨在くださるように祈り求めて集わないといけません。そうして、ほんとの礼拝をさせてください、わたしに御言葉をくださいと求めて集いますと、そういう御心にかなう祈りは即答えられますよね。神を礼拝する礼拝者がいないのであれば、ここで示されている「新しい神殿」とはいえません。逆に、建物は古く小さくても、また場所がら不便なところであっても、神さまを心から畏れ敬い礼拝している集まりの中に、主は生き生きとお働きになられ、その礼拝者のうちに主がともにおられることが証されていきます。主は建物や場所の条件によるのではなく、礼拝者一人ひとりが霊と真理をもって礼拝するその中に、その栄光を現し、聖霊で満たし、ほんとうにわたしたちを生きるものとしてくださるのです。
過ぐる25日は、Hさんが天に召されて1年という日でありました。その翌日の水曜日の夕方でしたけれども、生前彼の介護ヘルパーをされていたお二人の方が、教会を訪ねてこられ、「Hさんが逝去して丁度1年になるのでお参りをさせて頂きにきました」ということでした。そこですぐに記念室にご案内したのですが。お二人は、赤しゃれた服を着たHさんのお写真に、「よう、久しぶり」と語りかけ、黙祷なさっていました。Hさんもきっとお二人がおぼえて来て下さったことをどんなに喜んでおられることか、と思いました。1年前のあの日、そのお一人の方が教会に訪ね、Hさんの突然の死を伝えてくださったのですが。もしその知らせがなければ、彼は一人寂しく仏教式で荼毘にふされていたことでしょう。生前Hさんがほとんど教会を休まれることはなく、礼拝と祈祷会にいらしていたこと。又、ヘルパーさんに自分は大阪教会に行ってクリスチャンとなり、礼拝を中心とした信仰生活を送っているということを常日頃からあかしされていたことで、ご本人の一番願っていたかたちで「天国へ旅立つ告別式」を行なうことができました。このようにご本人が一番願われていたであろうかたちで主の御もとにお送りすることができましたのは、ほんとうにわたしにとりまして神さまの御業をお証させて頂く貴重な体験となりました。又、彼を通してSさんが信仰の決意を主の御前で表明なさったことも神さまのご慈愛の顕れであると思います。まあそのように如何に日常において主と共にあり、その幸いをあかしする日々をおくることが、自分や周りの人たちの救いにつながっていくか。そのことを主はHさんを通してわたしたちに示してくださいました。
さて、今回の聖書教育の成人青年科の話し合いのポイントで、「主の栄光は神殿の中に納まりきれるものではありません。それにもかかわらず、神さまは神殿の存在にこだわります。確かに神さまとの交わりは主日礼拝の時間と場所に限定されませんが、それでもわたしたちが主の日の礼拝にこだわる理由について、また礼拝を中心とする生き方について考えてみましょう」という問いかけがありました。このことに、わたしはどう答えていけるでしょうか。
ヨハネ4章23節以降にこうあります。
「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
それは律法、そうあらねばならないという義務感からなされるものではもはやありません。救いの感謝と、神共にいますその喜びによって、自ら進んで捧げられる真の礼拝であります。それは私どもにとりましては主イエス・キリストによってもたらされました。
主イエスの十字架の愛によって頑なな石の心が打ち砕かれ、やわらかな肉の心が与えられた。その計りがたい恵みによって、今日もわたしたちはこうしてともに教会に集い、霊と真理をもって礼拝をお捧げしているのです。
今日はエゼキエル43章から、「神我らのうちに住まう」という題で、お話をさせていただきました。47章には、この新しい神殿の敷居の下から水が湧き上がり、流れ、泳ぐほどに溢れる川となって、きよめ、生きものを生き返らせ実らせるとあります。
わたしたちは、まず主の日の礼拝によって主の栄光を拝し、そこで主の愛といつくしみを心新たに思い起こし、神殿から溢れ流れ出る生ける命の水に活き活きと泳ぐように、主の愛に満たされて、 今週もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。