日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神我らのうちに住まう

2016-10-30 17:36:02 | メッセージ
礼拝宣教 エゼキエル43:1~9 

先週の23日はYさんが天に召されて丁度1年となるということで、奥様はじめご長男様ご夫妻やヘルパーであった方もともに主に礼拝をささげるときがあたえられほんとうに感謝でした。
又水曜日の午前中の祈祷会には、福井達雨先生の著書「子どもの笑顔を消さないで」など多数、障がい者福祉の先駆けともいえる活動を半世紀以上続けて来られた止揚学園うおり、職員の方々がご来訪くださり、止揚学園の近況報告とお証を聞く貴重な機会となりました。いつもはカレンダー等をお持ちになって活動のアピールをなさるのですが今回はそうではなく、「相模原の障がい者施設殺傷事件」をうけて、入所者と施設当事者の立場からお伝えできればという目的を持ってご来訪くださったとのことでした。「あの事件が起こってから、よく、防犯対策は?ということが言われるようになってきた。しかし、問題はそこにありのではない。むしろこれまで社会が弱い立場におかれた人とともに歩むことが出来ていなかったから、そのような社会が開かれてこなかったからこのような事件が起こったのではないでしょうか」とおっしゃっていました。ちなみに、止揚学園の福井生新園長も「相模原事件を問う」という新聞のコラムにこういう記事を寄せられています。一部のみご紹介します。
「障害者総合支援法や障害者差別解消法ができるなど、障がいのある人を取り巻く状況は表面的には良くなったようだが、大切なものに向き合ってこず、何かを忘れてきたためにこんな事件が生じたのでないか。新たな法律の制定によって、障がいのある人の中でも選別が起きている。障がいの軽い人の就職などが進む一方で、重度の人たちは法律が求めるような結果に行き着けない。そういう状況の中で、「重度障害者は役に立たない」「いない方が国のため」という考えが生まれている気がする。」

また新しく職員となられたもう一人の方は、「止揚学園は出来ないことがダメと評価される場ではなく、できないことをみんなで担い合い、助け合う場です。職員になる前は、もっと何かできることが問われるのかと思っていましたが、それよりも、障がいを持つ仲間の人と真剣に向き合う私自身が問われることが多い。止揚学園のご飯はおいしい。ここはほんとうに神の家族です」とおっしゃっていました。この方は神学研究科大学院を出られたのでありますが、ある日止揚学園の職員募集の公告を見られて、見学に行かれそこで、止揚学園の暖かい心、生活をされておられる方々と出会い、頭で得た知識としての学問でなく、聖書の言葉が具体的に実践されている止揚学園で働きたいと決意されたということでした。優生思想という言葉がまかり通る現代にあって、人の命に優劣などありはしないというメッツセージを主イエスの福音を基とした止揚学園の取り組みからまたお聞きすることができました。

さて、今日のエゼキエル書のお話ですが。ユダの民がバビロンの捕囚となってから25年、エルサレムの都と神殿が倒壊してから14年目。主なる神は幻で、エゼキエルをエルサレムの都に伴われ、その高い山から「新しい神殿の幻」をお見せになります。
8章のところで都に残されたユダの人々が偶像礼拝と不義に満ちた生活に堕落している有様をエゼキエルが幻によって見せられる箇所を礼拝で読みましたが。その10章に、遂には「主の栄光が神殿を去る」という恐ろしい幻を彼は見ることとなります。けれどもそれがすべての終わりではなく、主はエゼキエルに希望の言葉をも託されるのです。
それはやがて捕囚となった人々は都エルサレムに帰ってきて、その地の忌まわしいものは取り除かれる。そうして36章26節に、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行なわせる」ございます。
神殿と倒壊した都は廃墟となりますが、14年目にしてエゼキエルは新しい神殿の中に主の栄光が入り、再びかつてのように主の栄光が神殿を満たしている。そのような荘厳な幻を見せられるのであります。

その時エゼキエルは神殿の中からこう語りかける声を聞きます。
7節「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。」
それは再びイスラエルが神の民とされ「神が彼らの間にとこしえに住む」という宣言であります。彼らは囚われの地において、あたかも銀が火によって精錬されるように、その信仰を練られました。それはまさにこの神さまの宣言が現実のものとして実現されるため。彼らが約束の地に帰ってきて、彼らが神の民となり、神が彼らの神となられるというその預言が現実のものとなるためであったのです。

さてここに、「主の栄光が神殿の中に入り、神殿を満たした」とあります。その「主の栄光。」であります。それはエゼキエル1章28節に「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。」今日の2節には「大地はその栄光で輝いた」とございます。
人は神を見ることはできませんが、詩編19編に「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す」とうたわれていますように、ほんとうに今日はすばらしい秋晴れでありますけれども、その自然界を創造され、すべての源となる神さまの栄光の一端を仰ぎ見る思いがいたしますが。エゼキエルはその主の栄光をまざまざと見せられたとき、3節「わたしはひれ伏した」というように、唯々主なる神を拝するばかりでありました。

「大地は神の栄光で輝いた」との御言葉は、崩壊した大地の再生、甦りを物語っています。罪の世界によって崩壊した大地、自然界、国土、人、すべて、神によって創られた生きとし生けるものと神さまとの関係の回復。それが神の栄光の顕現、顕れなのです。
翻って現代の大気汚染や地球温暖化。政治の迷走、人の命よりも経済や利益をあげることが優先されていくような今日であります。地に揺さぶられ、光を失っていくような今日にあって、創世記1章31節には、「天地万物を創造された神は、お造りになったすべてのものをご覧になって、見よ、それは極めて良かった」と感嘆された。神さまはその世界が取り戻されていくことをどんなに願っておられることでしょうか。

その神の御心に逆らい、招きを拒み続けた結果として北イスラエルと南ユダ王国の倒壊、他国による侵略と捕囚、都エルサレムの神殿崩壊でした。
捕囚として連れられた人たち、又、エルサレムに生き残った人たちは、先週読んだエゼキエルの幻のように、「我々の骨は枯れた。我々の望みは失せ、我々は滅びる」(37:11)
と、ただ自分たちの行く末に絶望する外ありませんでした。
そのような絶望的な思いの中で彼らは深い悔い改めと神の民としての存在意義を思い起こしていったとき、それは具体的には旧約聖書の編纂という形でなされたわけですが。
神さまはエゼキエルに幻をとおして、神の栄光が到来し、「大地はその栄光で輝いた。」そういう神による一方的ないのちの関係回復が示されるのです。
それは神と人、人と人、さらには分断された人たちが共に生きる世界の回復。神の栄光が大地に輝くとはそういう姿であります。

そしてその大地を満たした神の栄光が、5節「神殿の中に入り、見よ、主の栄光が神殿を満たしていた。」主が幻で示したもう新しい神殿は、単に目に見える建造物ではありません。主がご臨在され、その栄光が満ちている、それが新しい神殿です。いくら立派で荘厳な建物であっても、そこに生ける主のご臨在がなければ、ただの建物に過ぎません。ですから、わたしたちは本物の礼拝に与るためには、礼拝に主がご臨在くださるように祈り求めて集わないといけません。そうして、ほんとの礼拝をさせてください、わたしに御言葉をくださいと求めて集いますと、そういう御心にかなう祈りは即答えられますよね。神を礼拝する礼拝者がいないのであれば、ここで示されている「新しい神殿」とはいえません。逆に、建物は古く小さくても、また場所がら不便なところであっても、神さまを心から畏れ敬い礼拝している集まりの中に、主は生き生きとお働きになられ、その礼拝者のうちに主がともにおられることが証されていきます。主は建物や場所の条件によるのではなく、礼拝者一人ひとりが霊と真理をもって礼拝するその中に、その栄光を現し、聖霊で満たし、ほんとうにわたしたちを生きるものとしてくださるのです。


過ぐる25日は、Hさんが天に召されて1年という日でありました。その翌日の水曜日の夕方でしたけれども、生前彼の介護ヘルパーをされていたお二人の方が、教会を訪ねてこられ、「Hさんが逝去して丁度1年になるのでお参りをさせて頂きにきました」ということでした。そこですぐに記念室にご案内したのですが。お二人は、赤しゃれた服を着たHさんのお写真に、「よう、久しぶり」と語りかけ、黙祷なさっていました。Hさんもきっとお二人がおぼえて来て下さったことをどんなに喜んでおられることか、と思いました。1年前のあの日、そのお一人の方が教会に訪ね、Hさんの突然の死を伝えてくださったのですが。もしその知らせがなければ、彼は一人寂しく仏教式で荼毘にふされていたことでしょう。生前Hさんがほとんど教会を休まれることはなく、礼拝と祈祷会にいらしていたこと。又、ヘルパーさんに自分は大阪教会に行ってクリスチャンとなり、礼拝を中心とした信仰生活を送っているということを常日頃からあかしされていたことで、ご本人の一番願っていたかたちで「天国へ旅立つ告別式」を行なうことができました。このようにご本人が一番願われていたであろうかたちで主の御もとにお送りすることができましたのは、ほんとうにわたしにとりまして神さまの御業をお証させて頂く貴重な体験となりました。又、彼を通してSさんが信仰の決意を主の御前で表明なさったことも神さまのご慈愛の顕れであると思います。まあそのように如何に日常において主と共にあり、その幸いをあかしする日々をおくることが、自分や周りの人たちの救いにつながっていくか。そのことを主はHさんを通してわたしたちに示してくださいました。

さて、今回の聖書教育の成人青年科の話し合いのポイントで、「主の栄光は神殿の中に納まりきれるものではありません。それにもかかわらず、神さまは神殿の存在にこだわります。確かに神さまとの交わりは主日礼拝の時間と場所に限定されませんが、それでもわたしたちが主の日の礼拝にこだわる理由について、また礼拝を中心とする生き方について考えてみましょう」という問いかけがありました。このことに、わたしはどう答えていけるでしょうか。
ヨハネ4章23節以降にこうあります。
「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
それは律法、そうあらねばならないという義務感からなされるものではもはやありません。救いの感謝と、神共にいますその喜びによって、自ら進んで捧げられる真の礼拝であります。それは私どもにとりましては主イエス・キリストによってもたらされました。
主イエスの十字架の愛によって頑なな石の心が打ち砕かれ、やわらかな肉の心が与えられた。その計りがたい恵みによって、今日もわたしたちはこうしてともに教会に集い、霊と真理をもって礼拝をお捧げしているのです。

今日はエゼキエル43章から、「神我らのうちに住まう」という題で、お話をさせていただきました。47章には、この新しい神殿の敷居の下から水が湧き上がり、流れ、泳ぐほどに溢れる川となって、きよめ、生きものを生き返らせ実らせるとあります。
わたしたちは、まず主の日の礼拝によって主の栄光を拝し、そこで主の愛といつくしみを心新たに思い起こし、神殿から溢れ流れ出る生ける命の水に活き活きと泳ぐように、主の愛に満たされて、 今週もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
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神の霊を受けて

2016-10-23 15:00:25 | メッセージ
礼拝宣教 エゼキエル37:1~14  

この箇所は、バビロンの捕囚となっていた預言者エゼキエルが「主の霊によって」体験したこととして語られています。エゼキエルは「主の霊に連れ出され、谷の真ん中に降ろされるのでありますが。そこは骨でいっぱいであった」とあります。さらに「谷の上に甚だしく枯れていた骨」が放置されている有様を目にします。
今のこの時期はちょうどハロウィンということで、そこかしこにガイコツの絵や人形とか、わざわざ枯れはてたような服装などした人がその辺を歩いているようですが。まああんまり気持ちの良いものではありません。あれはよく誤解されるのですが、キリスト教とは全く関係がありません。古代ケルトで行なわれた収穫感謝の祝いと死者の祭り、いわばお盆のような風習が、現代の商業的イベントとして行なわれているだけで、喜ぶのは神さまではなく、お菓子の会社です。
この枯れた骨とは11節に「これらはイスラエルの全家である」と語られます。それはかつてエルサレムの神殿崩壊時に紛争の中で殺されたイスラエルの人のずっと放置されていた骨とも考えられでしょう。あるいは又、バビロンという捕囚の地に連行され、その異教の地で亡くなったイスラエルの人びとの骨であったとも考えることができます。しかしそれだけではなく、当時捕囚の地にあって苦悩し絶望する外なかったイスラエルの民。生きてはいるけれど、望みはうせ、滅びるばかりだと言う彼らも又、神さまの眼には枯れはてた骨のようであったのでありましょう。北イスラエル、さらに南ユダも滅ぼされ、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」という彼らに対して、生ける主なる神さまは、彼らのいのちの回復と民の復興を約束なさるのであります。一見するとおどろおどろしいこの情景ですが。しかしここには北イスラエルと南ユダの民が、生きておられる真の主、神を知り、その神との交わりの回復を得て、一本の木のように一つとされ復興していくその良き知らせ、福音が語られているのですね。

さて、捕囚の民をはじめエルサレムに残された民は、そのあまりに悲惨な状況ゆえに
生きてはいましたが、その有様は生きたしかばねのような状態。かつて日本の敗戦後がそのようであったのではないでしょうか。
主なる神は、「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」とお尋ねになります。エゼキエルはそれに対して、「いや、それは無理でしょう。あり得ません」とは言わず、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えます。人は眼に見えるところで判断しますが、「神さまは人の思いを遙かに超えて働かれる方である。」この信仰がエゼキエルに、そう返答させたのでありましょう。
そこで主はエゼキエルに対して、そういう厳しい現実の只中にあった囚われの民に向かって、預言し、御言葉を語るようにお命じになります。
それが、4節以降の「主の言葉を聞け。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る。・・・そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」とのお言葉でした。
エゼキエルは主が命じられたとおり預言しますと、7節「音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。(何だか命の誕生のようなすごい情景にも思えるのですが)しかし、その中に霊はなかった」というのです。
どういうことでしょう。「枯れた骨」が音をたててあわさり動き、それらの上に肉や皮膚が覆われても、そこに「霊」がなかった。それはどこか創世記の天地創造のくだりで神さまが人をいのちある者としてお造りになられた時の情景と重なって見えてまいります。創世記2章7節「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」この神の息は、神の霊の事であります。
つまり、いくら骨に筋や肉が生じ動くようになったとしても、それがたとえどんなに見栄えよく立派でも、そこに神の霊が吹き入れられてないのなら、生きているいのちとはいえない、ということであります。
この神の息、「霊」が吹き入れられるということは、すなわち神との交わりのうちに生きる者とされる、ということであります。それが本来の人が生きている状態であるということですね。しかし残念なことに、人はその罪の性質から神の愛に反して、神との交わりのうちに生きる楽園を追われ、世において生きるための様々な労苦を負う者となるのでありますけれども。
この当時のイスラエルの人々もまた、神に背き続けた結果といえる悲惨な状況の中で、「我々の望みはうせ、我々は滅びる」という失望感に囚われさいなまれていた。それはもはや未来を思い描くことのできない状態であります。
イザヤ書49章に次のような御言葉が記されております。
14節「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた わたしの主はわたしを忘れた、と。」
「神さまは自分たち罪人をお見捨てになられた。神さまはは去って行かれたのだ。」そのような喪失感が人々の心を支配していたのです。その姿はあたかもエデンの園から追われた初めの人のようであります。
ここでそういう人たちを前に、エゼキエルがいくら「主の御言葉」を預言しても、萎えた人々の心にそれは届き難い現実があったのでしょう。
そこで主は、エゼキエルにお命じになります。
「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」
そうしたところが、10節「霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った」というのです。主の霊によってしかばね同然のような者が、「生き返って、自分の足で立った。」その姿はとても主体的ですね。何ものかに依存するのでなく、力におもねるのでもなく、自分の足で立つ。神の霊が吹き入れられる人は、本当に生きる力を取り戻していくんですね。神さまとの関係の中で自ら決断し、行動していく力が取り戻されていくのです。その人はもはや神ではない世のものを神のように崇拝しません。世のあらゆる囚われから自由になり解放されていきます。生ける神さまとの交わりを回復した者は、どんな時にお感謝があり、何ものにも奪うことのできない喜びが溢れてきます。「主の霊のあるところには自由がある」と聖書にもあるとおりです。そのことを日常の中で体験するようになります。中にはどうしたらそのように生きられるのか、とお思いになる方もおられるかも知れませんが。それは先ほどから申しあげておりますように、神さまの霊が人のうちに吹き込まれることによって、神さまとの関係が回復されているならそのように生きることができるのです。

この主の霊によって新しいいのちに与っているクリスチャンにとりましても、日ごとに主の霊に満たして頂いて「主よ、あなたの御業を顕わしてください」と、主に期待をもて祈ることができる、それは何にも代えがたい大きな恵みではないでしょうか。そしてさらに、神の霊、聖霊によって創られた主のからだなる教会にあってこうして礼拝し、祈り合うことを通して、主は人知では計りがたい御業を顕わしてくださいます。個人的にはそのような証しがあり、又しょっちゅう伺いもするのですが。より多くの方と分かち合うことがまだできていないので、そういう証の機会がもっと増えるとよいなと願っているのですが。
そういうことで、私たちは共に「主よ、あなたの御業を求めます」と祈り求めていくことによって、主御自身がその栄光を顕わしてくださいます。主の御業を目の当たりに体験した人は、生ける神さまの証しが満ちあふれます。まさに今日の御言葉のように、「わたしが主であることを知るようになる」(6節、14節)のです。
先ほど読んだイザヤ書49章14節の「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた わたしの主はわたしを忘れた」というイスラエルの民の失望感と嘆きの言葉に対して、主なる神さまは、その後の15節にこのようにお答えになっています。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。」
これがわたしたちの主なる神さまなのです。
主は、わたしたちが世の罪の力に支配され、滅んでいく事を決して望んでおられません。たとえ私たちが見放され、忘れられたように考え、疲れ弱りはてて、自分が枯れた骨のように思えてしまうそんな時があったとしても、決して主はあきらめない。お見捨てにならない。「あなたと一緒に十字架のどん底までいってあなたを救う。」これが聖書の根底に流れる神の愛のメッセージであります。その愛の真実をお示しになるためにイエス・キリストはこの地上においでくださいました。今も変わることなく、すべての人びとが、そして今日ここにおられるおひとりお一人が神の霊によって新しく生まれるようにと、招いてくださっています。
聖霊は、私たち一人ひとりが日々新しくされ、自分の足で立ってあゆむ力を備えてくださいます。さらに、教会の交わりに聖霊の風を起こして下さり、ひとり一人を生かし、共にあって「主は生きておられる」との証しを立てさせてくださいます。この主の愛を受け取り、主の証に満ち溢れる、祈り合う主の群れへとさらに導かれてまいりましょう。
 
最後になりますが。先週礼拝に東熊本教会のNさんが出席され、ご本人より直接ご証しをお聞きすることができました。ロビーの週報ボックスの上に掲示してありますとおり、その被害の大きさたるや、教会の方々の悲鳴が聞こえてきそうでありましたが。Nさん曰く、「そういう礼拝堂の壁も無残に崩れ落ちる被害に遭う中で、全国のバプテスト連盟の諸教会、大阪教会からも震災支援の募金をお寄せ頂いたおかげで、礼拝堂の崩れ落ちた壁を修復できました」と、ご丁寧なお礼の言葉を頂きました。わたしはその言葉を伺いながら、逆にわたしの方が励ましをいただいた思いでした。実は数日前に南九州地方連合を窓口とした支援金によって熊本の3教会の修復が叶ったことで今月いっぱいでひとまず終了という報告を受け、わたし自身どこか一段落ついたというような思いがあったのです。けれどもNさんの報告をお聞きしながら、当事者と言いますか、実際に被災された方々にとりましては、電気が通り建物が修復されてきてはいますけれども、未だ骨に筋が生じ、肉付けされている段階であり、そこにはいのちの息吹が取り戻されいく事がどんなに待望されていることかと想像いたしました。それは又、先日の鳥取地震による被災者、東日本大震災と原発事故の被災者の方もそうでありましょう。わたしたちは大きな災害、そして被災者の現実を前にして何とも無力です。けれども今日のところに「カタカタと音をたて、その無力な骨と骨が近づいた」ように、私たちも近づき合って、主の御言葉に肉づけされた関わりを築いていきたいですね。全国の連盟、又関西地方の連合諸教会との繋がりを活かして時には出かけ、送り出す。そうやって主の御言葉が受肉していく中に、必ず神さまはいのちの息を吹き込んで下さいます。
「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらのものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」エゼキエルが命じられたように預言すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」アーメン。
私たちも生ける神さまの霊に満たされて、今週もここから遣わされてまいりましょう。
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立ち帰って生きる喜び

2016-10-16 15:16:08 | メッセージ
礼拝宣教 エゼキエル33:1-11 


「神のパッション」
本日はエゼキエル書33章から、「立ち帰って生きる喜び」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。新約聖書ヨハネ3章16節の御言葉にこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」私たちが「一人も滅びないで、永遠の命を受ける。」そのために神は独り子なるイエスさまをお与え下さったというこの御言葉は、聖書全体を凝縮した神さまからの愛のメッセージであるともいわれていますが。
本日の箇所の前半では、主なる神さまが民を見守る見張り番についてお語りになっていますけれども。民を見守るよう任命された見張りは、「剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任はこれ自身にある。しかし、見張りが、剣を臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。」
ここの「一人の命でも奪われるなら」とおっしゃる神さまの民に対する熱情・パッションは、先ほどのヨハネ福音書3章の「一人も滅びないで」という主のあの言葉とも相通じる神さまの愛であります。それは11節に語られるように、「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。口語訳では「わたしは誰の死をも喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と。まさに、主は、悪人がその道から立ち帰って生きることを、何よりも「喜ぶ」とおっしゃっているのです。滅びるばかりの罪の中に抜け殻のように生きていた私たちが、「神に立ち帰って生きる。」それは私たちの喜びであり、同時に父なる神さまの喜びであるのです。

「預言者の責務」
さて、このエゼキエに臨んだ主の言葉は、エゼキエルを「見張りとする」という召しでした。預言者(原語:ローマ-)には元々「見る者」という意味があります。主なる神はエゼキエルにこれから先のことを見通し得る者、人々に警告を発し、悪人に対しては悪の道から離れて主に立ち帰るよう毅然と語るべき者としての務めを与えられたのでした。主はその務めについて、先ほどの見張りのたとえで語られます。
 主はエゼキエル自身に対して、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに語らねばならない。わたし(神)が悪人に向かって、『悪人よ、お前は死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」
その責務は大変重たいものであります。しかし裏を返せばそれほどまでに主はその民を愛してやまず、彼らが滅びることがないよう切に願っておられるということです。
それゆえに預言者エゼキエルに対してこのように厳命しておられるということですね。
 先週お話しましたように、ユダの崩壊とバビロン捕囚後のエルサレムに残こされたユダの人々は、自分たちの罪を悔い改めるどころか、神は自分たちを見捨てたと神さま
のせいにして、異教の偶像を拝むようになっていました。又、神への畏れを無くしたユダの社会には不正や不義、搾取が起こり、貧富の格差が増し、あらゆる悪がはびこっていたのです。
そういう中バビロンにいたエゼキエルに託された課題はとてつもなく大きなものであったと思うのですけれども。ただここを読んで気づかされますのは、彼が国家とか、
権力というものに対して何か働きかけるように召されたのではなく、むしろ荒廃した、このままにしておけば罪に滅ぶほかないユダの民のひとり一人を見張り、忍耐強く語りかけるように召されたのだということです。それは単なる評論や非難としてではなく、ほんとうに彼らが立ち帰って生きるために、悪人に対しては悪によって滅ぶことがないよう悪の道から立ち帰ってほんとうの命を得るために、見守り、警告を発し、とりなしていくのです。エゼキエルはまさにそのために召命を受けたのであります。それはほんとうに至難の業であったと思えますが。神さまは、一人の人が救われる、立ち帰って生きる者とされることが、すなわちイスラエルの救いになると願われたのですね。
 今主によって招かれている私たちも同様に、まずひとり一人がそれぞれに立ち帰って生きる者とされている。その道が守られている。それが主の教会全体の祝福となっているということであります。主の御恵みによって救いに与った私たちも又、エゼキエルのように見守る者として召され、さらに神さまが創造されたこの世界を見守り、見張り番として召されていることを覚えたいと思います。
 確かに私たちはエゼキエルのような預言者ではありませんが。主なる神さまの御救いに導かれて、罪赦され、あがなわれ、新生に与った者なのであります。ローマの信徒への手紙8章28節には、わたしたちひとり一人は「神さまのご計画に従って召されている」とありますように、それぞれにオリジナルな主から託されている務めがあるということであります。
 又、新約聖書テモテ第二の手紙4章2節に「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい」と語られておりますが。このエゼキエルの時代同様、私たちも又、「神はもういない」「主の道は正しくない」と人々が言うような時代を生きています。不正や不義が横行し、拝金主義が当然のようにまかり通るこの世界、社会の中で、バビロンにおけるエゼキエルがそうであったように、私たちも神のことばを伝えることの困難を覚えることが多々あるのではないでしょうか。しかしそういう現実の中で、御言葉を伝え、証するというチャレンジが、新生に与った私たちひとり一人には与えられているのではないでしょうか。

丁度一昨日14日でYさんが闘病中の病床で「主イエスを救い主として信じることにしました」と信仰告白をされ、洗礼を受けられて新生クリスチャンとなられて1年が経ちました。彼はそれから奇跡の9日間を過ごして天国に旅立っていかれたのですが。お別れは残された奥様をはじめ私たち大阪教会の友にとりまして確かに寂しいものでございましたが。彼がご自分の創造主であり、救い主のもとへ立ち帰って新しい命に与ったということは何にも代えがたい喜びでありました。やがて私たちも天において新しい朝を迎えるその日には、主イエスの御もとにあって再びお会いできることでありましょう。
何度かお話しましたように、私は彼が闘病中であった時は、主の御救いについて正面から彼と向き合ってお話をすることの難しさを覚えていました。けれど土壇場にきて、ご本人が信じるか信じないか、受け入れるか否かはご本人が決めることであり、まずは
わたしには主イエスの福音を語る務めがある。牧師ですから当然といえばそうなのですが。この時改めてそう意を決し闘病の床にある彼にお尋ねしました。こうして彼は、「主イエスを信じることにいたしました」とはっきりと、信仰決心を口にされたんですね。この出来事はわたしにとって決して忘れることのできいない神さまからのプレゼントであったとほんとうに想いますけれども。しかしこのように一人の人が罪と死に滅びることなく、主の御救いに与り、神に立ち帰って生きるために務めるのは、何も牧師だけに託されたことではございません。先ほど申しましたように、みなさまおひとりお一人が今日の箇所の見守りの手として、神さまの御計画によって召されています。
「滅びの道に行ってはならない、立ち帰って生きよ。」神さまのその熱い愛のメッセージを伝え、証しする者でありたいです。「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても」という御言葉のチャレンジに、応え、用いて頂けるように祈り、備えたいと思います。

「立ち帰って生きる喜び」
さて最後に、今日の箇所で最も大切な受け取るべきメッセージは何でしょうか。
それは、「主は悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」とおっしゃるそのお言葉です。
それは主イエスがマタイ9章13節で、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃったそのことなんですね。イエスさまの周りには、実にそのような貧しさや病のために世間から取り残されたように生きざるを得なかった人、又、罪に囚われ負い目や劣等感を覚えていた人たちが集まってきたのです。
しかし当時の律法を遵守していたユダヤ教徒や律法の専門家たちの中には、そんなイエスさまを罪人の頭だと言って蔑み見下し、憎悪と嫉妬を覚え、排斥しようとした人たちがいたのですね。ほんとうに立ち帰らなければならなかったのは、自分たちには罪はないと神と人の前に自らを正当化し、イエスさまによる神の救いを認めようとしない彼らであったのです。彼らはその高慢のために神さまの慈愛に満ちた呼びかけが、もはや聞こえなくなっていました。これはクリスチャンであってもややともすると、自分が主イエスによって罪贖われ、赦されている尊い恵みを忘れ、救いの感謝が色あせてしまうと、
人を裁いたり、偏見をもち、優劣をつけてしまう恐ろしい過ちを犯してしまうかも知れません。主に立ち帰って生きることが、やはり絶えず必要なのです。主といつも生きた交信をしてつながり続けるということですが。これは一人でできるわけではありません。教会につながり、聖霊のとりなしのもと、週ごとにさらには日々新たに「立ち帰って生きる」者とされ、そうして御言葉を伝え、証しすべく遣わされていくのです。
「立ち帰って生きよ。」今日の主の熱いこのメッセージに真の平安と喜びがあります。今週もその主の御言葉を受け、応えるべくここから遣わされてまいりましょう。
祈りましょう。

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神の激怒を招く偶像

2016-10-09 17:29:37 | メッセージ
礼拝宣教 エゼキエル書8章1-13節
     

前回までの預言者エリヤ、エリシャの北イスラエルにおけるエピソードから、本日より南ユダの預言者本日よりエゼキエルの書から御言葉に聞いていきます。
時はイエスさまがお生まれになる約600年前の紀元前6世紀、先に北イスラエルはアッシリア帝国によって滅び、南ユダもバビロン王国によって滅ぼされることとなります。エゼキエルは捕囚としてバビロンに連れて行かれた人々に向かって神の言葉を伝えた預言者であり、預言者エレミヤとほぼ同時代の預言者でした。彼はエレミヤより少し後の預言者になるのですが。エレミヤはユダ王国の滅亡までの時代、ユダの民が神に立ち返らなければ滅びると訴え続けたのですが、エゼキエルはユダが滅んでしまった後の時代、なおも神に立ち返ることのないユダの民に対して、神の審きを訴え続けた預言者でした。同時に囚われの異教の地において、望みを持つことのできないエルサレムのユダの民に対して、なおそこに神の回復と救いの御業が起こる、そのような神の御計画と希望とを伝えたのであります。
エゼキエルという名前には、「神が強くする」という意味があります。それはまさに彼の預言者としての使命は、厳しい現実の中にあるユダの民が、やがて訪れるであろう神の大いなる御業を仰ぎ見、暗黒のような状況下においても「神が強くしてくださる」、そのことのために彼は用いられたということであります。

本日は8章3節「激怒を起こさせる像」5節「激怒を招く像」という2度に亘って語られた言葉から、「神の激怒を招く偶像」と題をつけました。
この題を先週の水曜日から、Yさんが和紙に書いて下さったものを、教会の看板に貼っております。いわゆる仏像等の多いこの天王寺界隈の寺院や仏閣にお参りに行かれる方々も教会の看板をご覧になられているかと思いますが。何か当てつけ、非難してという意味でありません。
先々週のことですが。教会のお隣のKさんのお母様がご逝去されたとのお知らせを聞き、お通夜に出席してまいりました。宗教は仏教(浄土宗)でしたので、お坊さんの読経のもと仏式で行なわれました。私たち家族は、故人のこれまでのお交わりの感謝を込め、残されたご長男さんはじめご遺族の上に深い慰めとお支えを願いつつ、参列させて頂きました。その時のお坊さんが何と、「大阪9条の会平和ネット」の事務局長さんで、世間はせまい、と思ったことですが。
このお坊さんが短いお奨めの中でおおよそ、このようなことをおっしゃっていました。「故人の魂はもうここには居らず、やすらぎの場へと移されたのだから、故人は自分のことよりもむしろ今地上にいるご家族や私たちのことを気遣っておられる。地上にいる
私たちがどのように生きてゆくかが大事」と。まあ、宗教は違いましても、たいへん共感いたしました。
霊は石や木で刻んだものの中にとどまるものではありません。ましてや木も石もすべて被造物は神さまがお造りになったのですから、どんな立派な建物や国宝といわれるような像の中にも、神さまをお納めすることはできません。真の神はどこにでも自由にお働きになられる生けるお方であられるのです。

さて、冒頭申しましたようにユダ王国とエルサレム陥落により、ユダの指導者たちや知識人や技術者、また祭司や預言者たちはバビロンの捕囚として連行されます。エゼキエルもその一人でした。その一方いわゆる一般の庶民らの多くはエルサレムに残されるのです。
最初のバビロンの捕囚から6年目の年、バビロンの地にいたエゼキエルが捕囚とされていたユダの長老たちと自分の家で集まりをしていた時のことです。エゼキエルの上に、「主なる神の御手が下り、髪の毛の房をつかまれ、天と地の間に引き上げられ、現在のエルサレムの神殿の様子を見せられたのです。それは、バビロン捕囚に連行されず、エルサレムに残った長老をはじめ人々が、「神の激怒を招く偶像」を作り、偶像礼拝を行なっている異様な光景でありました。
さらに、主のおっしゃるままに庭の入り口の壁穴ごしに中をのぞきこんで、入って見ると。周りの壁一面に、あらゆる地を這う者と獣の憎むべき像(神ならざるものを神として祀った像)やあらゆる偶像が彫り込まれています。そこにはイスラエルの長老70人がおり、その中心にシャファンの子ヤアザンヤが立っていた、とあります。この人物は、かつてヨシヤ王が宗教改革をもってイスラエルからあらゆる偶像を一掃したときの、優れた書記官シャハテの息子であったのです。父親とは全く逆にその息子は偶像をエルサレム神殿に増殖させ、神の激怒を招く偶像礼拝の指揮をとっていたのです。
今日は14節以降お読みしませんでしたが、そこでは数々の偶像礼拝が具体的に記されています。民は主の神殿を背にしていたとありますが。これは神を捨てる背信行為を表します。彼らは顔を東に向け、神でなく太陽を崇拝していたとあります。
バビロンの捕囚からわずか6年。エルサレムに残ったユダの人々は、悔い改め、神に立ち返るどころか偶像礼拝に明け暮れる日々を過ごし、神の激怒を招いていたのです。ここには彼らがなぜそのように神ならざるものを拝むようになってしまったか、その言い分が次のように記されています。
12節「主は我々を御覧にならない。主はこの地を捨てられたと言っている」。
そもそもユダとエルサレムの滅亡は再三に亘る神の戒めと警告に耳をかさず、罪から離れることなく不義を行なってきた民に対する審きでありました。それは打たれた民が自ら悔い改め、おのが神である主に立ち返って生きるためであったのです。しかし民は目の前の状況や不安から、目に見える形での安心材料、安易な拠所としての偶像を造り、それを拝したのです。この事について祈祷会の時、ある方がその体験をお話して下さいました。「かつてこの教会で役員も務め働きをなさっていた人が、教会に来なくなった。ある日テレビを観ていると、山の上で偶像に一心不乱に向かい崇拝しているその人を見た。前の通りでお会いして、尋ねることはとてもできなかったが、テレビの人物はその人に間違いなかった。何が彼をそのように走らせたのか。大変ショックだった」。誠に残念な事例でありますが。
 ここでユダの人々は、「主は我々を御覧にならない。主はこの地を捨てられた」と言っているわけですが。しかしここの8章4節を見ますと何と書かれているでしょうか。
「イスラエルの神の栄光があった」。今だエルサレムに神の栄光が「あった」とちゃんと記されているんですね。現状に失望したエルサレムの人々には、このイスラエルの神の栄光が見えていなかったのですね。ここから、私たちも目に見える状況に左右されることなく、主はともにおられるというインマヌエルの約束を忘れない者でありたいと願います。
 ところで、このイスラエルの民から見た神の栄光とは、イスラエルの民を宝の民として愛してやまない、ということ一つであります。神が民の偶像礼拝に「激怒した」と新共同訳で訳されている言葉を、口語訳では「ねたみ」と訳されています。それは、神のイスラエルの民に対する熱情を表しています。十戒のところに語られる「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」。この熱情の神というのも「ねたむ神」と以前は原意に近く訳されていました。それほどまでに神は主の民を愛してやまないお方であるということです。みなさんお一人おひとりもそうです。主はねたむほどに愛しておられるんですね。だから前の6章などでは、偶像礼拝を姦淫だとまでおっしゃっています。それほど主はご自分の民一人ひとりを愛しておられるということです。
エルサレムに残ったユダの民が「主は自分たちを御覧にならない。主はこの地を捨てられた」などと言って、偶像礼拝に走る。これこそ主の御心をどれだけ悲しませ、傷つけてることでしょうか。信頼関係を裏切られた時私たちは言い尽くしがたい悲しみと怒りを感じるでしょう。「ねたむほどまで愛しておられる」。それは私たちにとって十字架にかかり血を流し、肉を裂かれて、そうしてまでわたしを救ってくださったその愛であります。その主の愛を忘れ神ならざるものにより頼んで崇拝し、主にねたみを起こさせ悲しませることのないよう、日々主への感謝と信頼をもって生涯をあゆみ通したいものです。

最後に、先日のニュースに類人猿が他者の思考を推し量ることができる、まあそういう能力があるのではないかという研究発表がなされたそうですが。その同じ京大の霊長類研究所らが2014年に発表した人間と人間に近いとされるチンパンジーの大きな違いについて、わたしは9月久山療育園の全国支援者会議の席で伺い驚きました。チンパンジーと人間その一番の違いなんだと思われますか。それは「想像力」だそうです。実験リポートではチンパンジー6頭と人間のこども(1歳~3歳57人)を対象に絵を描く能力を比較したところ、チンパンジーにも人間同様に線をなぞる能力などが一定にあるが、「想像して書く力」はないことがわかったそうです。人間は輪郭をなぞるだけでなく、2歳後半になると「おめめ、ない」などと言って「ない」部分を補って書くことができたそうです。チンパンジーは、かけた部分を補うことは一頭もできなかったそうです。想像する力は人間に与えられた特異な能力といえる、ということですね。
そのようなことを聞いて思いましたのは、それは、実は天地万物をお造りになり、私たち人類をお造りになられた神さまの恵みであるのでしょう。創世記に神は御自身の似姿として「人」を創られたとございます。この神の似姿こそ、自分と異なる存在、他者の思いを想像し、大切にすることが出来る。それは単に思慮を推し量るだけではなく愛すること、それこそが神の似姿といえるのではないでしょうか。まあ近年愛をもたらす想像力が逆に退化していく人間の有様に、新しい研究として「サル化していく人間」というのもなされているそうですが。寂しい限りですけれども。ほんとうにそうならないように、私たちは罪を繰り返してしまう弱い存在であることを自覚して、たえず神に立ち返り、罪を悔い改めて神の愛を知るという、最も尊い想像力を頂いていく必要がございます。
 私たち一人ひとりの魂をねたむほどに愛して下さる熱情の神さまとその救いの御業を決して忘れることがないように、日々を歩んでまいりたいと願います。祈ります。
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