礼拝宣教 出エジプト記14章5-31節
今日は一般的にもよく知られた葦の海のエピソードの箇所ですが。出エジプトや十戒をテーマにした映画でこの場面がつよく印象に残ったという方もおられるでしょう。先程子どもメッセージでも読まれたような、海がザアーと左右に分かれる場面や、水が押し寄せエジプト全軍が海に呑みこまれていく場面など壮大なスケールで描かれていますけれども。それらを見ますと、はたしてこのようなことが本当に起こったのだろうかとお考えになるかも知れません。しかし、この葦の海の奇跡は単なる物語ではなく、考古学的にもそのような事が実際起こったであろうことが、近年明らかになってきております。とかく科学的に実証されることばかりに気をとられる現代にあって、まさにその時自然界に働きかけ御業を現わされた神さまに心を向けたいと思います。
まあ、この箇所は何度も礼拝でも読んできましたけれども。本日は特に、モーセがイスラエルの人々に「神の救いを見なさい」と叱咤した言葉から、また新たな思いで御言葉に聞いてまいりましょう。
「わたしが主であることを知る」
まず、この14章全体の主人公というのは一体誰でしょうか。まずそのこと考えてみたいと思います。ファラオやエジプト軍ではないことはわかりますが、では救い出されたイスラエルの民でしょうか。それとも映画が描き出すような英雄としてのモーセでしょうか。もちろんモーセも大きな役割を果たしますが。しかし明らかに、その中心、主人公は神さまご自身であられるのです。
イスラエルの民の救いの出来事すべては神のご計画によるものでした。神さまはファラオの心をかたくなにされました。それは4節また18節で繰り返し語られるように「エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」そのためにファラオの心をかたくなにされたというのですね。しかしそれだけではなく、イスラエルの人びとも同様、31節に「主がエジプト人に行われた大いなる御業を見て、主を畏れ、信じた」とあるように、この物語の主人公は実にご自身の栄光を現わされた主なる神さまであられるのです。このエピソードにはイスラエルの民のために先立ち導き、そして戦われる神さまの存在が記されているのですね。私たちの人生も、すべてを統べ治めておられるこの主によってたえず歩んでいくところに真の幸があるのです。
「目を主の方に向ける」
さて、イスラエルの人々の背後からエジプト軍が後を追って、海辺に宿営していた彼らに追いついたとき、前は海、後ろはエジプト軍という絶体絶命の状況でありました。
イスラエルの人々が後ろに目を向けて見るとエジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていたというのですね。「彼らは非常に恐れて主に叫んだ」というその気持ちは分かります。私どもも信仰者とはいえ、予想もつかないような出来事が起こった時や長引く苦痛に「ああ主よ」と叫びたくなる思いや思わず叫んでしまうことがあるのではないでしょうか。まあそのような極限的状況において彼らは、これまでのリーダーであったモーセに対して「我々を連れだしたのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」と不平不満をぶつけるのです。彼らは「エジプト人に仕える方が荒れ野で死ぬよりましと言ったではないですか」と後悔の念を口にするのですが。「エジプト人に仕える」。このことはまさに主ではないものを主として偶像に再びつかえることを示しており、それは実に「神の宝の民」としての彼らの滅びを意味していたのです。
私たちはどうでしょう。「ああ、こんなことばかりあるならことなら教会に行かなければよかった」「クリスチャンになどならなかったらよかった」。そうつぶやくことはないでしょうか。それではせっかくの神さまの救いの計画が無駄になってしまいます。再び主ではない世の力を崇拝していく生活に戻ることは、神の御前にあっては失われることであり、滅びであるのです。
私たちにとってこの礼拝や又祈祷会は、聖霊の導きのもとにあって私たちの疲れた心や魂をいやし、元気にしてくれる逃れの場であります。よく、「今日朝ほんとうは礼拝に行く元気もなかったけれど、足を運んで来て、ほんとうによかった。神さまの恵みと平安をいただきました」というお証しをいただくことがございます。そうですね、神さまは私たちの苦しみを知っておられ、助けようとしてくださっているのです。
さて、モーセはイスラエルの民に答えます。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。中略 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
モーセは感情的になって激しく民を叱責したりはしません。言い訳や理屈でもなく、彼が口にしたのは唯神への信頼を促す言葉でした。ここでいう「落ち着いて」とか、「静かにしていなさい」というのは単に何もしないということではありません。又、思考停止するというようなことではありません。それは「しっかりと立って」とも訳せる言葉で、主がこれまで導き救ってくださった出来事をじっと思い起こし、目を後ろのエジプト軍にではなく、主の方へ向けよ、ということです。この極限の状況の中でも「あなたたちのために行われるであろう主の救い、それはまだ表れていないけれども、それを信仰の目で見なさい。「主があなたたちのために戦われる。主の救いを見なさい」。それが「静かにする」「しっかり立って」ということなのです。ここで民に求められているのは、恐れや不安の状況の中でなお、目を主の方へ向けることです。それは現実逃避ではありません。いのちの主への信頼をもってしっかり立つ、そのことなのです。
「主に信頼して従う」
さて、主はモーセに言われます。
「イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。(中略) そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現わす」。
主の救いを見るためには、主を信頼し言葉だけでなくて行動することが必要です。主はモーセに「イスラエルの人を出発させなさい」「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べよ」と命じます。そしてイスラエルの民はこの主の言葉に従い、その栄光を見ることになるのですね。つぶやきと嘆きの中に埋没してしまうのではなく、主に信頼し、言葉だけでなく実践することが必要なのです。どんな状況であっても、主が助け導いてくださると信頼することが信仰です。御言葉を聞いて行う者に、主は救い見せてくださいます。
こうしてイスラエルの人々はバアル・ツェフォンの宿営地からいよいよ出発します。
彼らはこの先を進むと海に突き当たることを知っていました。しかし彼らはとにかく主の言葉に自らをかけて従ったのです。先行きがはっきり見えていたのではありませんが、信仰によって主の指し示すとおりに進んで行ったのです。
主はそのようなイスラエルの民に御使いを送り、たえず守り導かれます。数十万から数百万人という人々、そこには老若男女、家畜もいたことでしょうが、その群れを終始導かれました。
思うように民が前に進めないような状況になった折は、御使いが先頭に立って群れの導き手となります。又、後方において遅れる人々が生じるような状況になった折は、御使が群れの最後方に回って見守り支えたのでしょう。さらに、御使いはエジプト陣とイスラエル陣との間に入ることによって、両軍の距離が縮まることのないように、一晩中その群れを見守り続けたというのですね。
「真っ暗な雲が立ちこめ、光がやみ夜を貫いた」。それは人生の暗闇と主の救いの光を象徴しているようでもあります。
モーセは海辺に着くと、主がお命じになったとおり「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べ」ます。そして「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返えされたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた」。こうして「イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は右と左に壁のようになった」とございます。
神さまはモーセをお用いになって、その栄光を現されるのです。その後も、モーセは主の言葉どおり「海に向かって手を指し述べる」と、「水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。・・・・主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた」(28-30)というのであります。そうして31節、「イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた」とあります。長い時間がかかりました。そうして彼らはやっと神の恵みに気づくんですね。人間の心ってなかなか頑なで鈍いものですよね。
今日私どもは壮大でドラマチックな物語を読みましたが。それをただ読んで「ああ昔神さまの素晴らしい御業を現わされたんだ」で終わるのなら何ともったいないことでしょう。モーセが「今日、あなたたちのために行なわれる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる」とイスラエルの人々に向けて語られたことは、実に今ここに共に集いました私どもにも起こる、生きた御言葉なのです。ヘブライ人への手紙13章8節「イエス・キリストはきのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」。
私どもは肉においてはイスラエルの民とは異なりますが、霊においてイエス・キリストの十字架のみ救いにより、この聖書のエジプトに象徴される世のさまざまの力や支配からただ神さまの恵みと憐れみによって救い出された者、出エジプトした者として今生かされているのですね。それは、まさに世にあって「神の救い」と「今も生きて働いておられる主」を証していくためです。神の宝の民としてこの地上に神の国を指し示すことが私どもそれぞれに託されているのであります。
私どもクリスチャンにとりましても、いつも喜びや順風満帆の歩みばかりとは限りません。予期せぬこと、アクシデントも突如起こります。瞬く間に最初の主の救いの恵みを見失ってしまうこともございます。自分にとって順調に物事がうまく運んでいる時は、喜び、感謝することができても、自分の身に何か嫌な事や都合の悪い事が生じたり、思いもよらぬ事が起こったりしますと、不平不満やつぶやきが生じ、恐れや不安の海に溺れそうになる。そのようなことがありやしないでしょうか。
けれども、今日の聖書の御言葉は伝えます。そのような弱い時、ピンチの時にこそ、逆に主が間近にいてくださるのです。それは又ほんとうの意味で主を知るようになる機会でもあるのです。恐れや不安に襲われる中でなお、主に信頼して従うとき、聖書は、「今日、あなたは主の救いを見る」と約束してくださっているのですね。
最後に聖書のお言葉を読んで宣教を閉じます。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
ヘブライ11章1節
今日は一般的にもよく知られた葦の海のエピソードの箇所ですが。出エジプトや十戒をテーマにした映画でこの場面がつよく印象に残ったという方もおられるでしょう。先程子どもメッセージでも読まれたような、海がザアーと左右に分かれる場面や、水が押し寄せエジプト全軍が海に呑みこまれていく場面など壮大なスケールで描かれていますけれども。それらを見ますと、はたしてこのようなことが本当に起こったのだろうかとお考えになるかも知れません。しかし、この葦の海の奇跡は単なる物語ではなく、考古学的にもそのような事が実際起こったであろうことが、近年明らかになってきております。とかく科学的に実証されることばかりに気をとられる現代にあって、まさにその時自然界に働きかけ御業を現わされた神さまに心を向けたいと思います。
まあ、この箇所は何度も礼拝でも読んできましたけれども。本日は特に、モーセがイスラエルの人々に「神の救いを見なさい」と叱咤した言葉から、また新たな思いで御言葉に聞いてまいりましょう。
「わたしが主であることを知る」
まず、この14章全体の主人公というのは一体誰でしょうか。まずそのこと考えてみたいと思います。ファラオやエジプト軍ではないことはわかりますが、では救い出されたイスラエルの民でしょうか。それとも映画が描き出すような英雄としてのモーセでしょうか。もちろんモーセも大きな役割を果たしますが。しかし明らかに、その中心、主人公は神さまご自身であられるのです。
イスラエルの民の救いの出来事すべては神のご計画によるものでした。神さまはファラオの心をかたくなにされました。それは4節また18節で繰り返し語られるように「エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」そのためにファラオの心をかたくなにされたというのですね。しかしそれだけではなく、イスラエルの人びとも同様、31節に「主がエジプト人に行われた大いなる御業を見て、主を畏れ、信じた」とあるように、この物語の主人公は実にご自身の栄光を現わされた主なる神さまであられるのです。このエピソードにはイスラエルの民のために先立ち導き、そして戦われる神さまの存在が記されているのですね。私たちの人生も、すべてを統べ治めておられるこの主によってたえず歩んでいくところに真の幸があるのです。
「目を主の方に向ける」
さて、イスラエルの人々の背後からエジプト軍が後を追って、海辺に宿営していた彼らに追いついたとき、前は海、後ろはエジプト軍という絶体絶命の状況でありました。
イスラエルの人々が後ろに目を向けて見るとエジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていたというのですね。「彼らは非常に恐れて主に叫んだ」というその気持ちは分かります。私どもも信仰者とはいえ、予想もつかないような出来事が起こった時や長引く苦痛に「ああ主よ」と叫びたくなる思いや思わず叫んでしまうことがあるのではないでしょうか。まあそのような極限的状況において彼らは、これまでのリーダーであったモーセに対して「我々を連れだしたのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」と不平不満をぶつけるのです。彼らは「エジプト人に仕える方が荒れ野で死ぬよりましと言ったではないですか」と後悔の念を口にするのですが。「エジプト人に仕える」。このことはまさに主ではないものを主として偶像に再びつかえることを示しており、それは実に「神の宝の民」としての彼らの滅びを意味していたのです。
私たちはどうでしょう。「ああ、こんなことばかりあるならことなら教会に行かなければよかった」「クリスチャンになどならなかったらよかった」。そうつぶやくことはないでしょうか。それではせっかくの神さまの救いの計画が無駄になってしまいます。再び主ではない世の力を崇拝していく生活に戻ることは、神の御前にあっては失われることであり、滅びであるのです。
私たちにとってこの礼拝や又祈祷会は、聖霊の導きのもとにあって私たちの疲れた心や魂をいやし、元気にしてくれる逃れの場であります。よく、「今日朝ほんとうは礼拝に行く元気もなかったけれど、足を運んで来て、ほんとうによかった。神さまの恵みと平安をいただきました」というお証しをいただくことがございます。そうですね、神さまは私たちの苦しみを知っておられ、助けようとしてくださっているのです。
さて、モーセはイスラエルの民に答えます。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。中略 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
モーセは感情的になって激しく民を叱責したりはしません。言い訳や理屈でもなく、彼が口にしたのは唯神への信頼を促す言葉でした。ここでいう「落ち着いて」とか、「静かにしていなさい」というのは単に何もしないということではありません。又、思考停止するというようなことではありません。それは「しっかりと立って」とも訳せる言葉で、主がこれまで導き救ってくださった出来事をじっと思い起こし、目を後ろのエジプト軍にではなく、主の方へ向けよ、ということです。この極限の状況の中でも「あなたたちのために行われるであろう主の救い、それはまだ表れていないけれども、それを信仰の目で見なさい。「主があなたたちのために戦われる。主の救いを見なさい」。それが「静かにする」「しっかり立って」ということなのです。ここで民に求められているのは、恐れや不安の状況の中でなお、目を主の方へ向けることです。それは現実逃避ではありません。いのちの主への信頼をもってしっかり立つ、そのことなのです。
「主に信頼して従う」
さて、主はモーセに言われます。
「イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。(中略) そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現わす」。
主の救いを見るためには、主を信頼し言葉だけでなくて行動することが必要です。主はモーセに「イスラエルの人を出発させなさい」「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べよ」と命じます。そしてイスラエルの民はこの主の言葉に従い、その栄光を見ることになるのですね。つぶやきと嘆きの中に埋没してしまうのではなく、主に信頼し、言葉だけでなく実践することが必要なのです。どんな状況であっても、主が助け導いてくださると信頼することが信仰です。御言葉を聞いて行う者に、主は救い見せてくださいます。
こうしてイスラエルの人々はバアル・ツェフォンの宿営地からいよいよ出発します。
彼らはこの先を進むと海に突き当たることを知っていました。しかし彼らはとにかく主の言葉に自らをかけて従ったのです。先行きがはっきり見えていたのではありませんが、信仰によって主の指し示すとおりに進んで行ったのです。
主はそのようなイスラエルの民に御使いを送り、たえず守り導かれます。数十万から数百万人という人々、そこには老若男女、家畜もいたことでしょうが、その群れを終始導かれました。
思うように民が前に進めないような状況になった折は、御使いが先頭に立って群れの導き手となります。又、後方において遅れる人々が生じるような状況になった折は、御使が群れの最後方に回って見守り支えたのでしょう。さらに、御使いはエジプト陣とイスラエル陣との間に入ることによって、両軍の距離が縮まることのないように、一晩中その群れを見守り続けたというのですね。
「真っ暗な雲が立ちこめ、光がやみ夜を貫いた」。それは人生の暗闇と主の救いの光を象徴しているようでもあります。
モーセは海辺に着くと、主がお命じになったとおり「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べ」ます。そして「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返えされたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた」。こうして「イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は右と左に壁のようになった」とございます。
神さまはモーセをお用いになって、その栄光を現されるのです。その後も、モーセは主の言葉どおり「海に向かって手を指し述べる」と、「水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。・・・・主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた」(28-30)というのであります。そうして31節、「イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた」とあります。長い時間がかかりました。そうして彼らはやっと神の恵みに気づくんですね。人間の心ってなかなか頑なで鈍いものですよね。
今日私どもは壮大でドラマチックな物語を読みましたが。それをただ読んで「ああ昔神さまの素晴らしい御業を現わされたんだ」で終わるのなら何ともったいないことでしょう。モーセが「今日、あなたたちのために行なわれる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる」とイスラエルの人々に向けて語られたことは、実に今ここに共に集いました私どもにも起こる、生きた御言葉なのです。ヘブライ人への手紙13章8節「イエス・キリストはきのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」。
私どもは肉においてはイスラエルの民とは異なりますが、霊においてイエス・キリストの十字架のみ救いにより、この聖書のエジプトに象徴される世のさまざまの力や支配からただ神さまの恵みと憐れみによって救い出された者、出エジプトした者として今生かされているのですね。それは、まさに世にあって「神の救い」と「今も生きて働いておられる主」を証していくためです。神の宝の民としてこの地上に神の国を指し示すことが私どもそれぞれに託されているのであります。
私どもクリスチャンにとりましても、いつも喜びや順風満帆の歩みばかりとは限りません。予期せぬこと、アクシデントも突如起こります。瞬く間に最初の主の救いの恵みを見失ってしまうこともございます。自分にとって順調に物事がうまく運んでいる時は、喜び、感謝することができても、自分の身に何か嫌な事や都合の悪い事が生じたり、思いもよらぬ事が起こったりしますと、不平不満やつぶやきが生じ、恐れや不安の海に溺れそうになる。そのようなことがありやしないでしょうか。
けれども、今日の聖書の御言葉は伝えます。そのような弱い時、ピンチの時にこそ、逆に主が間近にいてくださるのです。それは又ほんとうの意味で主を知るようになる機会でもあるのです。恐れや不安に襲われる中でなお、主に信頼して従うとき、聖書は、「今日、あなたは主の救いを見る」と約束してくださっているのですね。
最後に聖書のお言葉を読んで宣教を閉じます。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
ヘブライ11章1節