日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主の救いを見なさい

2015-07-26 16:38:59 | メッセージ
礼拝宣教 出エジプト記14章5-31節 

今日は一般的にもよく知られた葦の海のエピソードの箇所ですが。出エジプトや十戒をテーマにした映画でこの場面がつよく印象に残ったという方もおられるでしょう。先程子どもメッセージでも読まれたような、海がザアーと左右に分かれる場面や、水が押し寄せエジプト全軍が海に呑みこまれていく場面など壮大なスケールで描かれていますけれども。それらを見ますと、はたしてこのようなことが本当に起こったのだろうかとお考えになるかも知れません。しかし、この葦の海の奇跡は単なる物語ではなく、考古学的にもそのような事が実際起こったであろうことが、近年明らかになってきております。とかく科学的に実証されることばかりに気をとられる現代にあって、まさにその時自然界に働きかけ御業を現わされた神さまに心を向けたいと思います。
 まあ、この箇所は何度も礼拝でも読んできましたけれども。本日は特に、モーセがイスラエルの人々に「神の救いを見なさい」と叱咤した言葉から、また新たな思いで御言葉に聞いてまいりましょう。

「わたしが主であることを知る」
まず、この14章全体の主人公というのは一体誰でしょうか。まずそのこと考えてみたいと思います。ファラオやエジプト軍ではないことはわかりますが、では救い出されたイスラエルの民でしょうか。それとも映画が描き出すような英雄としてのモーセでしょうか。もちろんモーセも大きな役割を果たしますが。しかし明らかに、その中心、主人公は神さまご自身であられるのです。
イスラエルの民の救いの出来事すべては神のご計画によるものでした。神さまはファラオの心をかたくなにされました。それは4節また18節で繰り返し語られるように「エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」そのためにファラオの心をかたくなにされたというのですね。しかしそれだけではなく、イスラエルの人びとも同様、31節に「主がエジプト人に行われた大いなる御業を見て、主を畏れ、信じた」とあるように、この物語の主人公は実にご自身の栄光を現わされた主なる神さまであられるのです。このエピソードにはイスラエルの民のために先立ち導き、そして戦われる神さまの存在が記されているのですね。私たちの人生も、すべてを統べ治めておられるこの主によってたえず歩んでいくところに真の幸があるのです。

「目を主の方に向ける」
さて、イスラエルの人々の背後からエジプト軍が後を追って、海辺に宿営していた彼らに追いついたとき、前は海、後ろはエジプト軍という絶体絶命の状況でありました。
イスラエルの人々が後ろに目を向けて見るとエジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていたというのですね。「彼らは非常に恐れて主に叫んだ」というその気持ちは分かります。私どもも信仰者とはいえ、予想もつかないような出来事が起こった時や長引く苦痛に「ああ主よ」と叫びたくなる思いや思わず叫んでしまうことがあるのではないでしょうか。まあそのような極限的状況において彼らは、これまでのリーダーであったモーセに対して「我々を連れだしたのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」と不平不満をぶつけるのです。彼らは「エジプト人に仕える方が荒れ野で死ぬよりましと言ったではないですか」と後悔の念を口にするのですが。「エジプト人に仕える」。このことはまさに主ではないものを主として偶像に再びつかえることを示しており、それは実に「神の宝の民」としての彼らの滅びを意味していたのです。
私たちはどうでしょう。「ああ、こんなことばかりあるならことなら教会に行かなければよかった」「クリスチャンになどならなかったらよかった」。そうつぶやくことはないでしょうか。それではせっかくの神さまの救いの計画が無駄になってしまいます。再び主ではない世の力を崇拝していく生活に戻ることは、神の御前にあっては失われることであり、滅びであるのです。
私たちにとってこの礼拝や又祈祷会は、聖霊の導きのもとにあって私たちの疲れた心や魂をいやし、元気にしてくれる逃れの場であります。よく、「今日朝ほんとうは礼拝に行く元気もなかったけれど、足を運んで来て、ほんとうによかった。神さまの恵みと平安をいただきました」というお証しをいただくことがございます。そうですね、神さまは私たちの苦しみを知っておられ、助けようとしてくださっているのです。

さて、モーセはイスラエルの民に答えます。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。中略 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

モーセは感情的になって激しく民を叱責したりはしません。言い訳や理屈でもなく、彼が口にしたのは唯神への信頼を促す言葉でした。ここでいう「落ち着いて」とか、「静かにしていなさい」というのは単に何もしないということではありません。又、思考停止するというようなことではありません。それは「しっかりと立って」とも訳せる言葉で、主がこれまで導き救ってくださった出来事をじっと思い起こし、目を後ろのエジプト軍にではなく、主の方へ向けよ、ということです。この極限の状況の中でも「あなたたちのために行われるであろう主の救い、それはまだ表れていないけれども、それを信仰の目で見なさい。「主があなたたちのために戦われる。主の救いを見なさい」。それが「静かにする」「しっかり立って」ということなのです。ここで民に求められているのは、恐れや不安の状況の中でなお、目を主の方へ向けることです。それは現実逃避ではありません。いのちの主への信頼をもってしっかり立つ、そのことなのです。

「主に信頼して従う」
さて、主はモーセに言われます。
「イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。(中略) そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現わす」。

主の救いを見るためには、主を信頼し言葉だけでなくて行動することが必要です。主はモーセに「イスラエルの人を出発させなさい」「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べよ」と命じます。そしてイスラエルの民はこの主の言葉に従い、その栄光を見ることになるのですね。つぶやきと嘆きの中に埋没してしまうのではなく、主に信頼し、言葉だけでなく実践することが必要なのです。どんな状況であっても、主が助け導いてくださると信頼することが信仰です。御言葉を聞いて行う者に、主は救い見せてくださいます。
こうしてイスラエルの人々はバアル・ツェフォンの宿営地からいよいよ出発します。
彼らはこの先を進むと海に突き当たることを知っていました。しかし彼らはとにかく主の言葉に自らをかけて従ったのです。先行きがはっきり見えていたのではありませんが、信仰によって主の指し示すとおりに進んで行ったのです。
主はそのようなイスラエルの民に御使いを送り、たえず守り導かれます。数十万から数百万人という人々、そこには老若男女、家畜もいたことでしょうが、その群れを終始導かれました。
思うように民が前に進めないような状況になった折は、御使いが先頭に立って群れの導き手となります。又、後方において遅れる人々が生じるような状況になった折は、御使が群れの最後方に回って見守り支えたのでしょう。さらに、御使いはエジプト陣とイスラエル陣との間に入ることによって、両軍の距離が縮まることのないように、一晩中その群れを見守り続けたというのですね。

「真っ暗な雲が立ちこめ、光がやみ夜を貫いた」。それは人生の暗闇と主の救いの光を象徴しているようでもあります。
モーセは海辺に着くと、主がお命じになったとおり「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べ」ます。そして「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返えされたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた」。こうして「イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は右と左に壁のようになった」とございます。
神さまはモーセをお用いになって、その栄光を現されるのです。その後も、モーセは主の言葉どおり「海に向かって手を指し述べる」と、「水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。・・・・主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた」(28-30)というのであります。そうして31節、「イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた」とあります。長い時間がかかりました。そうして彼らはやっと神の恵みに気づくんですね。人間の心ってなかなか頑なで鈍いものですよね。

今日私どもは壮大でドラマチックな物語を読みましたが。それをただ読んで「ああ昔神さまの素晴らしい御業を現わされたんだ」で終わるのなら何ともったいないことでしょう。モーセが「今日、あなたたちのために行なわれる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる」とイスラエルの人々に向けて語られたことは、実に今ここに共に集いました私どもにも起こる、生きた御言葉なのです。ヘブライ人への手紙13章8節「イエス・キリストはきのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」。
私どもは肉においてはイスラエルの民とは異なりますが、霊においてイエス・キリストの十字架のみ救いにより、この聖書のエジプトに象徴される世のさまざまの力や支配からただ神さまの恵みと憐れみによって救い出された者、出エジプトした者として今生かされているのですね。それは、まさに世にあって「神の救い」と「今も生きて働いておられる主」を証していくためです。神の宝の民としてこの地上に神の国を指し示すことが私どもそれぞれに託されているのであります。
私どもクリスチャンにとりましても、いつも喜びや順風満帆の歩みばかりとは限りません。予期せぬこと、アクシデントも突如起こります。瞬く間に最初の主の救いの恵みを見失ってしまうこともございます。自分にとって順調に物事がうまく運んでいる時は、喜び、感謝することができても、自分の身に何か嫌な事や都合の悪い事が生じたり、思いもよらぬ事が起こったりしますと、不平不満やつぶやきが生じ、恐れや不安の海に溺れそうになる。そのようなことがありやしないでしょうか。
けれども、今日の聖書の御言葉は伝えます。そのような弱い時、ピンチの時にこそ、逆に主が間近にいてくださるのです。それは又ほんとうの意味で主を知るようになる機会でもあるのです。恐れや不安に襲われる中でなお、主に信頼して従うとき、聖書は、「今日、あなたは主の救いを見る」と約束してくださっているのですね。

最後に聖書のお言葉を読んで宣教を閉じます。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
                          ヘブライ11章1節
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昼は雲の柱、夜は火の柱

2015-07-19 14:48:45 | メッセージ
礼拝宣教 出エジプト記13章17-22 節  

本日は先程子どもメッセージでお話されましたとおり、奴隷の地エジプトから逃れたイスラエルの民を、神がカナンの地へとまっしぐらのペリシテ街道には導かれず、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられ、その旅路を昼は雲の柱、夜は火の柱をもって先立ち、導かれたという箇所であります。ここには、「回り道」「ヨセフの骨」さらに「雲の柱と火の柱」の三つのエピソードが続きます。今日はそれらが指し示す「神さまの導き」ということについて御言葉より聞いていきたいと思います。

「近道となる戦いのルート」
イスラエルの民は遂にエジプトを脱出しました。その目的地は、遥か昔彼らの父祖であったアブラハムに神が告げられた乳と蜜の流れる約束の地、故郷カナンの地であります。けれども世代はすっかり移り代わった彼らには、その目的地がどこなのか定かでありませんでした。そんなイスラエルの民の先頭を神は離れることなく導いてゆかれます。 
神はエジプトを脱出したばかりのその民に、カナンへの一番の近道となるペリシテ街道に導かれません。カナンへはこのペリシテ街道を経て入るのが通常の一般的ルートであったのですが、そうはなさらなかったのです。聖書は、神さまがそのルートへ民を導かれなかった理由について、「民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれないと思われたからである」と伝えます。このペリシテ街道はエジプトとパレスチナを結ぶ公道として様々な民が往来し、そこにイスラエルの民が踏み入ることは他民族との争い、まさに戦争になりかねなかったのです。そういう意味から、神はこの近道のルートを避けられたのであります。
幾世代も奴隷として生活してきたイスラエルの民が戦闘状態に陥った時、後悔してエジプトに再び帰ろうとするかも知れない。しかしそこにあるのは滅びでしかありません。先週、皆さまもご存じのとおり、衆議院で安全保障関連法案が与党多数によって可決されました。まだこの法案は参議院を経ていないので決まったものではありませんが。
これまで日本の自衛隊は憲法の下、専守防衛、個別的自衛権(自国を守ること)の原則に徹した任務を遂行し、戦後この原則のもと集団的自衛権を禁じることで、他国と戦争を交えることはありませんでした。憲法9条は戦争に加担することへの実質的歯止めとなって日本は不毛の戦争に巻き込まれずにすんだ今日があります。が、昨年7月の「集団的自衛権」(戦闘行為)が行使できるようにした閣議決定と先週の「安全保障関連法案」の衆議院での採決は、まさに武器や戦力をもって外国に出て行くこと、日米同盟の下、アメリカ軍のために自衛隊が集団的自衛権を発動することができるようにしたものです。それはこれまで日本が大事に保ってきた専守防衛とは全く異なるもので、こちらから武器や武力で戦闘行為をなす、そのような事態になりかねないという大転換となります。私たちの日本はかつての大戦で、どれだけ尊い人命が奪われたことでしょうか。これまで戦後70年という永い間憲法を尊び平和が堅持されてきた恵みを今こそじっくりと顧みながら、聖書の示す命と平和の主に祈り求めてまいりましょう。

「回り道」
さて話を戻しますが、ここで神は民を近道の「戦いが生じる道」ではなく、葦の海に通じる「荒れ野の道」に迂回させられたというのであります。それは「スコトから旅立って、荒れ野の端のヨタムに宿営し、葦の海の前に通じる道」でした。すなわちカナンという目的地から見れば、明らかに回り道であったのです。しかもそれは荒れ野の道であります。まあ、普通であればスムーズに進める近道を通って目的地につけるのならそれに越したことはないと思うのが私たちであります。けれども神さまはそのようには導かれなかった、ここに本日のメッセージがあります。神さまは彼らをわざわざ遠回りの道へと導かれたのは、イスラエルの民が彼らを守り導かれる神さまご自身を知り、その恵みを自ら体験することが必要だったからです。それは、彼らがほんとうの意味で名実共に神の宝の民とされるためであり、その経験を通して神に信頼をもって生きる者とされるためであったのです。
私どもクリスチャンも、いつも目の前に2つの道を見ているのではないでしょうか。
一見、合理的で人の思いや欲求に適う道と、たとえ遠回りに思えても、祈りつつ荒れ野でしか聞くことのできない神の御声に聞き従い、御業を仰いでゆく道です。いずれにしてもいえることは、神への信頼は信仰の体験によって深められるということです。

「ヨセフの骨」
さて、この「遠い回り道」と次の「ヨセフの骨を一緒に携え上った」2つ目のエピソードは繋がっていきます。どちらも人の目には遠い道のりと永い時を要したという点で共通しています。このエピソードの基となったのは、創世記50章のヨセフの遺言ですが、  その24-25節に次のように記されています。
「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携え上ってください」。
まさにそのヨセフの預言と遺言はイスラエルがエジプトの奴隷となってから400年以上の歳月を経て遂に実現するのであります。神さまはその永い年月の間中ずっとイスラエルの民をお忘れになることなく見守っておられたのです。「神の計画と人の計画は異なる」と聖書にございますが。たとえすぐに結果が現われなかったとしても、さらには自分の世代で神さまのご計画が目に見える形で現われなかったとしても、神さまは決して約束をお忘れになったり、取り消されるようなお方でないのであります。ヨセフの兄弟、子、孫、ひ孫、玄孫へと神さまのビジョンが語り継がれてゆく中で、たとえ時代は移り変っても、神さまの約束は決して変ることなく、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から解放し、先祖に約束された地カナンへと導かれるのであります。そのことがこの「ヨセフの骨を一緒に携えて上る」エピソードに証しされているのです。
人はすぐに答えを出そうと急ぎ、目先の事で結果や効果を期待し、すぐ判断しようとしますが、神さまの顧みと導きは人の思いを越えて働かれるのです。イスラエルの民はこれまでずっと先人たちを守り導き、今こうして自分たちを顧み導いていてくださった神さまの大いなる恵みを知るのです。

「雲の柱、火の柱」
次に3つ目の「雲の柱と火の柱」のエピソードについて見てみましょう。
21節に「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた」と記されています。
これは神さまが遠回りの荒れ野の道を行かせた民をたえず導いてくださるしるしです。荒れ野の日昼は暑さが非常に厳しいです。そういう中を旅することは大変困難を極めたでしょう。その道のりにおいて民が疲れをおぼえるとき、神は大きな雲の柱を立て強烈な日照りから民を守り導いてくださったのです。又、荒れ野の夜の旅路は一転して急激に冷え込みます。真っ暗で不安も襲って来たでしょう。そこは強盗をはじめ、猛獣や毒蛇に襲われる危険がありました。そういう時神は火の柱を立てて民を照らし、不安と恐れから守ってくださったのです。イスラエルの民はそうして神さまの導きによって昼も夜も平安を得て、行進することができたのです。
「神は民の先頭を離れることはなかった」と記されていますが。先頭を行く者が道を間違えれば大変です。神自ら民の先頭を一時も離れることなく導かれる。これ以上確かなことはありません。私どもの教会も同様ではないでしょうか。今日がありますのは主ご自身が私どものあゆみの先頭を決して離れることなく、昼は雲の柱、夜は火の柱を立てて守り導いて下さったからにほかなりません。

「今日のお話を受けて」
今日のお話から思いますのは、イスラエルの民のみならず私どもも又、その願いとは異なる遠い回り道の荒れ野のような困難な状況に、疲れ覚えたり不安になったりすることがあります。けれども聖書は、この「荒れ野の回り道」のような中で、「神さまがあなたと共におられる、あなたの人生を守り先導しておられる」というのです。
近道をして短時間で目的地に着くのは確かにいいことのように思えます。しかし私どもクリスチャン、主の愛に見出され生かされている者は、たとえ苦労や困難な道を辿ることがありましても、神さまが共におられ守り導いてくださっていることを、机上ではなく信仰の体験として知らされるのですね。
神さまに召し出されて神の民として歩む。その原点が何かを私たちはすでに聞いてまいりました。申命記7章6節-8節「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちがどの民よりも貧弱であった。ただあなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」。
彼らが神の民とされたのは、彼らが力強く能力があったからではなく貧弱であったけれども、そんな彼らを神さまは断腸の思いで慈しまれ、我が民、宝の民とされたというんですね。それがイスラエルの民が神の民とされた原点だというのです。

ですから、すべて一切はみな神さまの御憐れみ、恵み以外の何ものでもないのですね。スムーズに近道で目的地に着けば人間って傲慢ですから自分たちの手柄や能力だと自慢したり勝ち誇ったりいたします。しかしそれでたとえ人の目に立派に映ったとしても、神の民としての証しにはなりません。逆に、荒れ野のような回り道、行く先の見えないような旅路は確かに困難と厳しさ、不安や恐れもございます。しかしそこで、謙虚に祈り神の言葉によって力づけられ、互いに祈り祈られるその中で神の宝の民とされていく恵みの出来事が起こされていくのですね。そのように、民を先導し、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって神さまは私どもをたえず守り導いてくださるというのが、今日のメッセージであります。
私どもクリスチャンも又、神さまの深い憐れみ、御子イエスの十字架の犠牲と贖いの死によって、弱く罪深いこの身が救い出され、驚くべきかな、神の子として生かされていることを知っています。
神さまに召し出された私どもの生は、この地上において、神の御恵みが臨んでいることを証しすることにございます。この世の旅路は険しくとも、先立ち導いてくださる神さま、たえず共にいて守り導いていてくださる神さまに信頼しながら、決して恵みを見失うこのなくこの旅路を共に歩んでまいりたいと思います。

最後に御言葉を読んで本日の宣教を閉じます。
「人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるのかは お前に告げられている。
 正義を行い、慈しみをもって愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。」
                             ミカ書6章8節
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寝ずの番をされる神

2015-07-12 15:41:55 | メッセージ
礼拝宣教 出エジプト記12:29-42


先週は、午前の祈祷会には初めて教会を訪れたというご年配の女性の方がいらっしゃいましたが、その方は以前からお寺参りで教会の前をその都度通っておられたそうですが、その水曜日の朝目覚めた時、声が聞こえて「この教会へ行くとよい、そこにあなたの心安らぐ居場所があるから」といわれたそうです。それで今日こちらに参りましたが、訪ねてよかった、来週の水曜日も来たいということでした。私たちが教会に集うのはこの主の日と水曜日だけであっても、主は昼夜問わずこの前を通る人に目を留め、導いておられるのですね。
 
本日は「寝ずの番をされる神」と題して出エジプト記12章29節-42節のメッセージに聞いていきたいと思います。
ここにはイスラエルの民がいよいよエジプトの奴隷生活から解放されていく大きな出来事となった10番目の災いについて記されているわけですが。それは、エジプトの国のすべての初子が死んでしまうという大変厳しく痛ましい災いでありました。
このことでイスラエルの民は解放されることとなるのであります。「エジプトの国の中には、子を失ったエジプト人の大いなる叫びが起こった」のです。ファラオは確かに頑なでした。モーセらがどんなに主に礼拝を捧げるために荒野に行かせてほしいと言っても、行かせようとはしませんでした。そのため9度も主の警告と災いとがエジプトに及んでも、なお「主とは何者か」「どうして言うことを聞かねばならないのか」と拒み続けてきたのです。けれども、それだからといって何の罪もないように思えるエジプト中の初子が死ななければならなかったのはなぜなのだろうと考えてしまいます。
しかし、ここに至るまでの記事を読みますと、ファラオはイスラエル人が力を持つことを恐れ、非情にも生まれて来たイスラエルの男の赤ん坊をすべて殺せ、川に投げ棄てろと命じ、イスラエルの民に過酷な労働を課せ、不当に虐げ続けてきたのです。エジプトの人々も又、ファラオのあたかも自らを神のように誇り高ぶるその権力の下で、イスラエルの人々の労働力に甘んじ、その人々の生活と命に対し無関心と非情であったのではないでしょうか。
隣人の命を蔑ろにし続けてきた事への結果がこの様な形として表れてき、裁きを招いた、といえるのかも知れません。

話は変りますが、K姉の告別式でご長女のN姉のご主人のお父様とお話する機会がありました。この方は私と同郷で他の宗教を信じておられますが、話は孫たち世代の将来の日本についてといささか大きな話題になりまして、この方は昨今の「集団的自衛権」の閣議決定、「安全保障法制案」が採決されようとしている時代状況からしきりに私に、「やはりさきの大戦での反省と検証を自分たちの世代が踏まえ、それを伝えていかないと、孫やひ孫たちにまた過った道を行かせるはめになる、二度と同じ戦争は繰り返させてはいけない」ということを話してくださいました。たとえ宗教は異なっていましても、いのちの神への畏れといのちの尊厳について、理解し合うことができ心強く、うれしかったですね。「日本国憲法は多くの戦争の犠牲となられた方々の化身だ」と言われた方がございますが。今やその日本国憲法が骨抜きにされ、戦争ができる国へと舵が切られようとしているこの時に、如何に戦争を経験なさった世代の方たちが、殊に9条に込められた平和への願いを伝えていくのか、本当に正念場に来ていると思わされます。

さて、最愛の子を失ったファラオはモーセとアロンにこう言います。
「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしを祝福してもらいたい。」

イスラエルの人々が「荒野に行って主に仕えること」、「主を礼拝すること」を決して認めようとしなかったファラオは、ここにきて遂に「行って、主に仕えるがよい」というのです。それどころか彼は「わたしをも祝福してもらいたい」とモーセに願い出るのですね。自分の愛する子を失ってしまうというその体験がファラオにとって如何に大きなものだったかが伺えます。9度に及ぶ災いにも拘わらずその頑なな心は変らず、益々イスラエルの民を虐げるようなファラオでありましたが。さすがに10番目のこの最愛の子を失うという悲劇は、その王としての後継者を無くすということも相まって骨身に堪える経験となったのでありましょう。
エジプト人たちもファラオ同様、「イスラエルの民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったからである」と記されています。
イスラエルの人々の痛みや苦しみ、嘆きや悲しみを想像もしなかった、あるいは全く無関心であった彼らはこうして自らそれを知る者となったのですね。このようにファラオとその民の心を変えさせたのは他でもない、主ご自身でした。それは裁きの時ではありましたが、彼らにとって神を畏れ、自らを悔改める時ともなったのではないでしょうか。
ファラオは祝福を乞い願い、エジプト人らは求められるままイスラエルの民にすべてを与えた。それは「主は、イスラエルの民がエジプト人に好意を得させるようにされたので」とあるとおり、これもまた主の御業、主の計らいなのです。

ファラオは「行って、主に仕えるがよい」と如何にも権威的口調で許可を与えるのでありますが。最終的に世を治めているのは地上の王・ファラオではなく、主なる神であられます。礼拝者を招かれ、集わしめるのも。導き、救いに与らせ給うのも。人でも、世の権力でもなく、生ける神さまであられるのですね。その神さまのもとに「行って、仕える」。意味じくもファラオが語った言葉には、実は神さまに造られ、生かされている人間にとって、最も大切な務めが示されているのです。
「行って、主に仕える」:それは礼拝を捧げるということです。そしてこの「主に仕える」そのところに、ファラオが「わたしをも祝福してもらいたい」と語っているとおり、私ども人間の「祝福」の基があるのです。「行って、主に仕える」ところに、あらゆる束縛や拘束からの自由と解放があるのです。
エジプトを出たイスラエルの群れの中には、「種々雑多な人々もこれに加わった」と記されています。エジプトにはイスラエルの人々以外にも、苦役を課せられ、奴隷のように虐げられていた人々がいたようです。彼らも自由を奪われ囚われの状態でした。しかし今や、彼らもイスラエルの人々の信仰を受け入れ仲間とされ、主に仕える自由の民とされていったのですね。
クリスチャンもイエス・キリストによって罪からの解放と救いをいただき、新しいいのちを受け、自由の民とされたわけですが。私どもの原点は、その救いの「主に仕える」。そのところに自由と解放があるわけです。この地上において、主に仕えて生きる、というときにほんとうに多くの妨げや、誘惑、試練があるのも確かです。主を礼拝し、主に仕えて生きることを引き止めさせ、世の支配の下にとどめさせようとするような力。主より世の様々なものを優先させていこうとする働き、ファラオの勢力というのでしょうか。そういったものがあるのも事実です。私たちの心は弱く、すぐ萎えてしまいやすいし、熱しやすく冷めやすい罪の性質、弱さがあります。
しかしそのような私どもに対して聖書は、ここに確かな希望を語ります。それは世の力、死の恐れがエジプトを闇のように襲っている最中にも、又、慌ただしく追われるように荒野に踏み出した折にも、主は主の民をエジプトの国から導き出すために「寝ずの番をされた」ということであります。
この「寝ずの番をする」という言葉に、病気になって苦しんだ時に、自分のためにずっとそばにつききりに夜通し看病してくれた存在を思い起こす方もおられるでしょう。逆に、心配で夜も寝ないで看病したとか、ここには看護師さんもいらっしゃいますが、まともに眠れないまま夜勤を朝方までされる方もおられるでしょう。
そのようにここでは、「主がイスラエルの一人ひとりに災いがおよばないように、一昼夜寝ないでその一人ひとりを見守続けてくださった」と語られているのですね。
それは何かイスラエルの人々が立派だからとか、力があるからというのではなく、先週お話しましたように、「彼らは貧弱であったけれども、ただ主の慈しみとそのご真実のゆえに」、神さまは寝ずの番をしてイスラエルの人々を見守り続けて下さったというのです。
そのように今日も主イエスのみ救いにあって、私たちを常に見守り、寝ずの番をしてくださる神が生きて払いておられる。それは、私どもにとりましてどんなに大きな慰めと力であることでしょう。
また聖書はそこで終わらず、主によって解放され自由とされたイスラエルの民は、主ご自身が自分たちにしてくださったことを決して忘れないために、「主のため寝ずの番をして」、その救いと解放の出来事を今日に至るまでおぼえ続けているということです。これが「過越祭」であるのですね。

私たちクリスチャンもまた、「主に仕える」者としてこの世に生かされています。主の御言葉に聞き従い、主に仕えて生きる道のりは決してたやすいことではありません。様々な試練や誘惑、妨げにも遭いますが。しかし、そのような私たちもまた、主から寝ずの番をするがごとく守られ、そして主にある兄弟姉妹から絶えず祈られ続けていることを忘れることなく、自らも目を覚まし祈り執り成し続ける者とされたいと願います。今週も祝福の基である主の御言葉によってここから遣わされてまいりましょう。

最後に詩編121編7-8節を読んで本日の宣教を閉じます。
「主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。
 あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。
 今も、そしてとこしえに。」

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主のもとに帰って

2015-07-05 20:58:41 | メッセージ
礼拝宣教 出エジプト5:1-6:1 神学校週間

本日は神学校週間をおぼえて礼拝を捧げております。先程アピールがなされました。私たちの教会が加盟する日本バプテスト連盟の教派神学校としては福岡の西南学院大学神学部がございます。まずは、この神学部と神学生のことをおぼえて祈り、ささげていきたいと願っておりますが。西南学院大神学部報をはじめ幾つかの資料を教会員の方には配布していますので、どうぞ目を通していただければと思います。又、昨今全国諸教会においては、西南学院大学神学部の卒業生以外にも、東京バプテスト神学校、又九州バプテスト神学校の卒業生たちが牧師、又副牧師、伝道師、各主事として多数働いておられます。働きながら学ぶことのできる東京、九州バプテスト神学校の存在も献身者には大きいので、共におぼえて頂けると幸いです。

先週は3章のモーセの召命の箇所から「わたしは何者でしょう」というテーマで御言葉を聞きましたが。本日の箇所の前4章では、そのモーセは神さまからエジプトにおいて奴隷の身となっていたヘブライ人たちを解放する使命とそれに伴うしるしを約束されます。ここを読みますと、神さまは自分の無力さを知っているモーセをそのご用にお立てになったことが分かります。
神さまは「自分には能力がある、自分に自信があるから働けます」という者を召されるのではなく、自分の足りなさや弱さを知るがゆえに神さまに祈り従うほかない者をご用のためにおもちいになられるのです。折しも本日は神学校週間をおぼえて礼拝をささげておりますが、そこに主の召しの原点があり「主に信頼して応えていく」ということが献身なのであります。モーセは「わたしは弁が立つ方ではありません」「全くわたしは口が重く舌の重い者なのです」「ああ主よ、どうぞだれか他の人を見つけてお遣わし下さい」と言うのですが、神さまはそのようなモーセと共にそのご計画を行うため、パートナーとして兄のアロンをお立てになるのです。雄弁であったアロンはモーセの語るべきことを代弁する者とされました。そして、モーセには神の杖が与えられ、神のしるしを行う者とされたのです。モーセは到底一人では負いきるものではないと思うのですが、神さまはその働きを補い支える人をちゃんと起こして下さるのです。そのように私たちの身近なことの中においても、不思議に助け手が与えられたというお証しがおありではないでしょうか。

さて、5章の冒頭で、いよいよ2人は主の言葉をエジプトの王ファラオに伝えるのでありますが、「主とは一体何者なのか、どうしてその言うことをわたしが聞かねばならないのか」とファラオは激怒し、エジプトにいるヘブライ人たちに過酷な労働を課せ苦しめるのであります。エジプトには当時の労働者が自分たちが仕える神にささげものをささげるために巡礼をしたという記録が残っており、そのように他国の労働者が一時宗教的行事で出国することが許されていた、ということです。ではなぜファラオはモーセらの申し出を退けたのでしょうか。それはファラオがイスラエルの民らは一時的な巡礼ではなく、エジプトから出て行こうとしているということを悟ったからです。

このモーセとアロンがエジプトの王ファラオに主の言葉を伝えたことは、結果的にエジプトにいたイスラエルの人たちに一層過酷な苦役を課せる結果となりました。民の監督としておかれていたイスラエル人の下役たちは、その不当な仕打ちに耐えかね、ファラオに直訴しますが受け入れられず、イスラエルの民が苦境に立たされたことを悟り、モーセやアロンに「このようになったのはあなたたちの責任だ」といわんばかりに激しく抗議しました。
同胞から怒りをぶつけられたモーセは、22節にございますように「主のもとに帰って、訴えます。『わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません』。」
モーセはこのように強く神に抗議するのです。

このモーセの「なぜ」という言葉には、神のおっしゃったとおりに行動し、実行したのになぜこのような結果になってしまったのか、という思いや、神は虐げられる民をその苦役から救い出すと約束されたにも拘わらず、神の手は動かない。それどころか自分たちがなした事で民に益々苦役を課せられることになってしまった。「わたしを遣わされたのは、一体なぜですか」と、彼は主に問うたのです。

興味深いのは、聖書はモーセが神に抗議した際に「主のもとに帰って、訴えた」と記述していることです。「主のもとに帰る」とは、主なる方に向きを変え、その「御もとに立ち帰る」ことを意味します。「なぜ」との訴えは、単なる神への抗議や神否定ではなく、一対一の神との対話の祈りであったのです。

モーセは「あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」と、主に訴えます。
よくそこまで神さまに対して言えるな、と思われるかもしれません。が、それはうらを返せば、そこまでモーセが神さまと組合い、格闘するぐらいの思いでもって、神の言葉と約束に向き合って来たからこそ、そのように強く主に訴えることができたんではないでしょうか。
「主のもとに帰って、訴える」ということは、極めて信仰的なことであり、そこに身をおく事をとおして常に主と自分との関係を再確認させられていくのです。

主はそのモーセに言われます。
「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」

事態が悪くなっていく現実にモーセは主の手は動かない。「あなたは御自分の民を全く救い出そうされない」と言うのですが、主は「わたしの強い手によって」それは成る。
今目に見えるところは災いと思えるような現実であろうとも、「わたしの強い手によって」それはやがて果たされることになる、とモーセに語るのであります。

主がここで「わたしの強い手によって」と2回も強調しておられるのは、まさに虐げられ打ちひしがれていた主の民が抱えた苦しみや痛みへの共感がそこに込められているように私は思うのでありますが、その後の6章5節以降で主はモーセに仰せになります。
「わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。」

大いなる審判によってあなたたちを贖う。ここに主の究極の救いが示されているのではないでしょうか。

私たち信仰を与えられて歩んでいるものにとりましても、日常の出来事の中で、時に状況が悪くなっていくばかりのように見えることがないでしょうか。そういった時に、私たちはどのようにあればよいか、ということを今日の聖書の言葉は指し示しているように思えます。
22節、「モーセは主のもとに帰って、訴えた。」
困難の中でなお主のもとに帰って、どこまでも主と一対一で向き合い、格闘し主を離れずにその約束の言葉に依り頼み続けていくこと。必ず私を強い御手をもって導き、腕を伸ばして、大いなる主イエスの審判によって贖いたもう、との祈りと信仰を私たちは求めつつ歩んでいきたいと願うものです。

最後に、ヘブライ人への手紙4章14節-16節をお読みして宣教を閉じます。
「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰を保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
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いっしょに歌おう夕べの集い

2015-07-02 08:57:27 | 教会案内


8月からのご案内


毎週金曜日午後7:30~8:30

   ギターやピアノ等の調べに合わせ、

   楽しく心安らぐさんびの時間をともに過ごしませんか。

   年齢不問、お子様連れも大歓迎

              *8月21日(金)はお休みです。


特別なさんびの夕べ

8月16日(日)午後5時

韓国の教会の少年少女を迎えての特別な集いになります。



(都合によりお休みさせていただく場合がございます。教会ホームページをご覧になるか、
 教会へお電話でお問い合わせください。) 

  日本バプテスト大阪教会



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