日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

仮会堂移転のおしらせ

2013-02-27 14:59:05 | 教会案内
おしらせ&ご案内

3月3日の礼拝より、以下の仮会堂に移転いたします。


場所 大阪市天王寺区堀越町8番17号 大川ビル4F-B室

アクセス:旧会堂(天王寺区茶臼山町1番17号)から東へ谷町線筋向い徒歩1分
     天王寺駅(JR/地下鉄)を出て谷町線筋北へ徒歩5分

主日礼拝   毎週日曜日 午前10時半 
祈祷会    毎週水曜日 ①午前10時半 ②午後7時

どうぞ、よろしくお願いいたします。

日本バプテスト連盟
日本バプテスト大阪教会






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忠実な主のしもべ

2013-02-25 10:17:53 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ25:14-30 現会堂最終礼拝

いよいよこの現大阪教会での礼拝は最後となります。三十三年間ここでもたれた礼拝、祈り会や諸集会、又それらに伴って与えられた数々の出会いと主にあるお交わりを心から感謝しながら、このひと時を捧げてまいりたいと思います。教会のブログでお世話になっている福岡のU兄から、「現会堂の解体工事の前に、隅々のお部屋を写真に残し、また新会堂建築工事の進行状況、そして完成までの様子を写真に撮って、新会堂完成の暁には大阪教会のブログで紹介できるといいよ」と素敵なアドバイスをくださいました。
私たちの教会は来週から仮会堂での礼拝と祈祷会が始まりますが。今の会堂で過ごしてきた者にとっては、3月からいろいろなことや不自由な面が何かと生じることもあるかとは思いますが、アドヴェントの後には大阪教会三代目の新会堂でクリスマスを迎えることができるというビジョンを描いて、又それが具体化していくプロセスをご一緒に見守りながら、熱い祈りをもってあゆんでまいりたいものです。

さて、本日は「天の国」についてのたとえの最終回となります。
24~25章にかけて、特に今日の箇所の前の「十人のおとめ」のたとえなどを読みますと。「天の国」はどこか遠いところにあるのではなく、私たちがこの地上で「主の再臨・終末の日に如何に備え、迎えるか」というそのあゆみの中に関係づけられていることがわかります。
本日のたとえに登場する「ある主人」とは主ご自身のことであり、財産を託されているのはまさに私たち自身であります。主人は旅行に出かけますが、やがて帰ってくる時というのは、主の再臨における終末のときを表しています。その時私たち一人ひとりは各々に委ねられた主人からの預かりもの、財産を如何に管理し、用いたかということが問われるのであります。
主人は、3人の僕たちを呼んで、それぞれの力に応じて、自分の財産を預けて旅に出ます。一人には五タラントン、一人にはニタラントン、もう一人に一タラントン。
このタラントンというのは、もともとは重さを表す単位だそうです。それも一番重い私たちが使う1トンとか2トンとかそんな重さの単位であり、それがこんな風に貨幣であらわされる時は、もう大金とかお宝ということですね。一タラントンは、この当時で言えば6000デナリオンに相当し、1デナリオンは先週読みましたように1日の労働者の賃金にあたりますから、6000日分の日当(おおよそ16年間働いた分のそう賃金)に相当することになります。
主人は、それぞれの力に応じて、そのような自分の財産を3人のしもべに、5タラントン、2タラントン、1タラントンと預けますが。このタラントンはあくまでもしもべのものではなく、主人の財産として一時的に預けられたもの、託されたものであります。
主人が力に応じてといっていますが、それは何かそのしもべ個々人に能力や力量があって、それに応じてとも読めなくはありませんが。そういうことではなく、ただ主人の意向でそれぞれのしもべにそれらが託されているのです。
確かに、5タラントン、2タラントン、1タラントンという違いはどうしてなのか?私たちはそれを「比較」してみたくもなりますが、そういうものではないのです。先程申しましたように1タラントンというものは、最大級の単位であり、実にそれは膨大な重さ、価値なのであります。主人の財産を預り、託された者は「しもべ」とありますが。原語で「デユーロス」:奴隷を表す言葉です。それは単なる仕え人や奉公人ではないんですね。たとえの主人である私たちの主と出会う前、私たちはどうだったでしょう。不安や恐れ、罪や世の力のしがらみの奴隷となっていなかったでしょうか。私たちは「天の国」から遠く隔てたところに生きていたのです。しかし主は、そのような私と出会い、自らの命をその代価として私たちを世の力による奴隷の状態から贖い取り、解放してくださったのです。
そのことを思う時に、5タラントンもの財産を預ったしもべとはそれだけ、深く重い苦悩の中で、十字架の主イエスと出会い、解放の恵みを見出していった者のこと、と言えないでしょうか。使徒パウロはローマの信徒への手紙において、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれの異なった賜物を持っている」(12:6)と言っていますが。3人のしもべが預かった財産は一律ではありませんし、またその違いについて誰がいいか悪いかなどの優劣の評価など下せるものではありません。その人の信仰、主の恵みに応じてタラントンが預けられており、その活かし方、用い方もまた様々なのであります。

そういうことで本日の「天の国」のたとえが問題にしているのは、それぞれに預けられたタラントンの違いにではなく、タラントンそのもののもつ意味であります。それは5タラントンという最大級の価値あるものをも遥かに凌ぐ、いや他に比べることができないような価値ある「神の御救い、贖いの業」に外なりません。

この「タラントン」を受けた主のしもべは、それぞれの信仰に応じてその預ったタラントンを活かして用いるように招かれているのです。
ここでは、5タラントン預ったしもべは、それを倍の10タラントンにしたと報告しています。2タラントン預ったしもべは、それを倍の4タラントンにしたと報告します。
興味深いのは、主人がここで「お前は少しのものに忠実であった」と言っていることです。
まずここで主はしめべが、預かった物の多い少ないに拘わらず、彼らが「忠実であった」ということを喜んでいます。主のしもべにとって大事なことは、主より預けられたそのタラントンを忠実に預け主のために活かし、用いるということなのです。又、少しのものとあえて言われるのは、神の御救いという価値に比べ得る宝や賜物はないということを、このようにおっしゃったのではないでしょうか。賛美歌の「どんなよい業も神のひとり子、イエスの十字架の死には及ばぬ」という歌詞にあるとおりです。繰り返しますが、大事なのは、信仰の恵みによって5タラントンを預った主のしもべも、2タラントン預かったしもべも、それぞれが地上の生涯にわたり主人であられる主の意向に忠実に応えて生きるということにあります。2人のしもべは、旅から帰って来る主人を喜ばすための準備を忠実になしました。彼らは帰ってくる主人を喜ばせたかったのです。彼らは主人に感謝し、主人を愛していました。旅から帰って来た主人である主は言います。「忠実な良いしもべだ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」。「主人と一緒に喜ぶ」というのは、天の国のこの上もない祝福に与る様子を表しています。この2人の心はその働きのうちにすでに天の国の喜びと希望があり、そのことがよい働きと結果を生み出したとも言えるのではないでしょうか。
 さて、今日のたとえにはもう一人、主人から1タラントンを預ったしもべのことが記されています。彼は「主人が蒔かないところから刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていたので、恐ろしくなって、その1タラントンを土の中に隠しておきました」と主人に報告します。彼はその1タラントンを失うことや目減りすることを恐れ、そのままの状態で保存しようと土の中に埋めたのです。それは主人である主の意向よりも、自分の身を守るということだけしか考えていなかった、ということです。
 主人は彼に言います。「それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンを持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
 何ともユニークで厳しい不思議な主人の言葉ではないでしょうか。ここで、持っているというのは「主の信仰による恵み」のことを言っているのでしょう。主への懐疑や不信を抱く者はその恵みをも失います。主によって真に多くを赦された人、救いの恵みを真実に知る人は、その恵みの宝を主のために忠実に用い、活かすことを喜びとする人であります。

「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたに満ちあふれさせることがおできになります。」

主の宮なる教会堂建築の業を通して私たちの信仰が益し加えられ、天の国の働きがより豊かなものとされますよう主に信頼し、希望をもってここから新しい大阪教会のあゆみを始めてまいりましょう。現在病院や自宅療養中の幾人かより、新会堂が建った暁には、車椅子でも、とにかく教会に、礼拝に行きたい、というお声を戴いております。その日を待ち望みつつ、又教会と兄弟姉妹の一人も欠ける事のないように守られていきますように、絶えず祈りを合わせてまいりましょう。
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一デナリオンの約束

2013-02-18 11:51:20 | メッセージ
宣教 マタイ20:1-16

2月はマタイ福音書より「天の国」について聞いておりますが。本日のイエスさまが語られる「天の国」はぶどう園の主人と労働者にたとえられています。この「天の国」のたとえは前の19章での「子供を祝福するイエスさま」「金持ちの青年とイエスさまとの問答」「世の富についての弟子たちとイエスさまとの問答」というそれらのエピソードを受けるかたちで語られたものです。それらのお話に共通していますのは、「天の国」についてであり、又そこに入る条件や資格、報いについてであります。

弟子のペトロはイエスさまに「このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と尋ねますが、それに対してイエスさまは、「報酬を求めてわたしについてくるなど何事か」などとはおっしゃいません。あなたがたもわたしに従ってきたのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」とお約束くださるのです。
よく、ご利益を求める宗教は本物の宗教ではないとも言われたりいたしますが。しかし、この世にあって生きていくための力や励みになることが宗教にないのなら、いくら知識や口先で立派なことが説かれたとしても人の心に届きませんし、第一神さまは生きておられ、その愛する者のほんとうの幸いを願わずにいられないお方なのです。
「教会の礼拝や祈祷会に来て見なさい、いいことがあり、祝福があるから」というのは決して嘘ではなく、本当であります。それは理屈ではなく、天の父なる神さまとの交わりに与り、触れ、つながるところから来る報いやご利益はあるのです。むろん根底における最大の祝福は、救い主イエス・キリストによる罪のゆるしであり、創造主・父なる神さまとの交わりの回復であることは言うまでもありません。まあ、そういう意味からすれば、報いという考えは一切捨てなければならない、報いなど考えてはいけないというのも、おかしなことでありましょう。

 イエスさまはその一方で弟子たちにこうおっしゃいます。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。
このイエスさまの「天の国」のたとえの中で、まず私がひっかかるのは皆さんもそうだと思うのですが、労働時間のことであります。この労働を神のためになす奉仕や働きと考えるなら、一番先に雇われた労働者は、イエスさまの弟子たちのことが念頭に置かれていると読むことも出来るでしょう。彼らは一日につき一デナリオンの約束で、ぶどう園に送られていきます。まあ朝早くから夕暮れまでイエスさまに仕え従って来た人たちであり、ずっとイエスさまのおそばにいた人たちであったといえます。それは例えて言うなら、クリスチャンホームに生れ育った人や比較的早いうちから長い信仰生活を送っている人たちのことにもたとえることができましょう。また、主人は九時ごろに何もしないで広場に立っている人々がいたので、「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言います。青年期に導かれ、主に従って生きる決意を持ってあゆむ人などはそこにあてはまるのかも知れませんね。さらに主人は、12時ごろと3時ごろにまた出て行き、同じようにします。その後でぶどう園に行った人々は、一デナリオンという報酬の約束はなかったのですが、一応相応しい賃金が支払われるということで、ぶどう園に彼らも行くのです。この人たちもまあ先の人々と同様、主なるイエスさまの言葉に聞き従った人々といえます。そして最後に主人は夕暮れ前の5時ごろにも行き、「だれも雇ってくれないのです」と途方に暮れて仕事からあぶれていた人々にも、「ぶどう園に行きなさい」と言います。さて、その最後にぶどう園に行った人々とはどういう人たちだったのでしょうか。彼らはぶどう園に行って働きたかった。しかし、雇ってくれる人がなくて働けず、夕方前までそこでじりじりとした思いを抱えながら待つほかなかった人々です。彼らが主人から「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言われた時、彼らは報酬の保証もないなかでただ主人の招きに応えてぶどう園に行きました。

注目したいのは、9時、12時、3時に雇われた人たちも、主人から一デナリオンの約束はなかった。「ふさわしい賃金を支払ってやろう」と言われただけなのです。さらに5時からの人などは、「あなたがたもぶどう園に行きなさい」とだけ言われています。彼らには報酬の約束や労働の賃金保証など全く見込まれていなかったということであります。

さて、夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言い、そこで、5時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取ったのです。
きっと、この支払われた賃金は彼らの想像を超えたものであったでしょう。その労働時間の対価としては到底考えられないような破格のものであったはずです。彼らの喜びと主人への感謝の声が聞こえてくるようです。
そして、最初に雇われた人たちはその順番が回って来た時、自分たちはもっと多くもらえるだろうと期待していたに違いありません。ところが、彼らに渡された報酬も又同じ一デナリオンであった、というのです。彼らとしてはおさまりがつきませんから、受け取ると、「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」と、主人に不平を言ったというのです。

このところを読みますと、「うん、何で長時間働いた人たちと超短時間働いた人たちの賃金が同じなのか」と、そう思いますよね。確かに、だれが見ても不公平なように思えます。
どうして働いた分・労働時間の違いによって賃金の格差をつけて支払われないのか、と考えます。それが世の一般的な経済や仕事の論理であります。一般論としてそのように見れれば、これはおかしな賃金支払いということになります。

けれども、この「天の国」のたとえで、最後の5時からぶどう園に行った人たちは、働きたくても働く場所や機会が与えられていなかったということを見落としてはならないでしょう。彼らに与えられた仕事は僅か1時間であったかもしれませんが、それまでの彼らの不安や悶々とした思いをぶどう園の主人はすべてご存じであったのです。働きたくても思うように働く場を得られない苦しさは大変なものでありましょう。

聖書教育1997年度版の中で、止揚学園の福井達雨園長の次のような文書を引用されているのを目にしてなるほどと思わされたのですが。それは「子ども笑顔を消さないで」のご著書の中に、「目に見える生産性から見れば、私が5の仕事をした時、障害者は1の仕事しかできません。でも、今、同じ仕事をしているのですが、私が1の目に見えない努力をした時、あの人たちは、5の努力をしなければいけません。この生産性と努力性は、同じ価値だと思います」と福井先生の実体験からこのようなことをおっしゃっています。

ここでイエスさまは世の経済的論理ではなく、「天の国」のたとえとしてこのお話をなさっているわけです。このたとえで、朝早く来て夕暮れまで一日働いた者、又途中から働いた者、そして夕暮れの仕事が終わる直前に来た者も、等しくふさわしい対価として一デナリオンが支払われているということは、天の父なる神さまは、どのような人のどんな働きであったとしても、その一人ひとりを尊く価値ある存在として愛し、慈しんでおられるということを示しています。「いろいろと疲れて礼拝に出るのがやっとです」。それでよいのです。礼拝に出席することは神の国の大切な働きです。「私は祈るくらいしかできません」。いえ、祈りも立派な神の国の労働です。主はかならず報いをお与えくださるのです。
このたとえでは、具体的に一デナリオンとありますけれども。これは当時の一日の労働に対する対価・賃金ということです。日当ということです。その日を最低生きていくために必要なもの、人が生きるために必要な分、命を支える糧とも言えましょう。それを天の神さまは保証してくだるお方であられるのです。
 しかし、それだけではありません。ここには「天の国」の奥義が示されています。それは、この「一デナリオン」が、イエス・キリストご自身によって与えられる御救いである、ということです。

つまり、すでにイエスさまの招きに応えて従っているお弟子たちは、その救いによる「永遠の命を受け継ぐ」約束を戴いているということです。しかし後で主の招きを受け取った人たちはどうなのでしょう。5時からぶどう園に行って働いた人たちには、いくら支払うからといった約束や保証は何もありませんでした。あるとすれば、とりあえずぶどう園で働く機会を得た感謝と、まじめに働けば少しはよくしてもらえるかも知れないと言うほのかな期待です。
ところが、天の父なる神さまは、このような人々にも等しく、主の救い・「永遠のいのちを受け継ぐ」と言う途方もない報酬を下さるのであります。どれほど気前のよい主人でしょうか!私たちの主は。この「天の国」のたとえは、主の招きに期待をもって応えて行くとき与えられる、まったく一方的な救いの恩寵を示すたとえなのであります。
確かに、主の救いは人間の側の奉仕や労働によって左右されるものではなく、主の招きに応えていった者に恩寵として与えられることは分かります。じゃあ信仰生活の奉仕や献身、様々の働きがなくても「救い」は全く同じであるのなら、その奉仕や働きに何の意味があるのか?しなくてもいいのでは、というような思いも出てくるのが人情です。
 最初に雇われた人たちの不平は、まさにそこにありました。朝早くから働き、昼は太陽が燦々と照りつける中を辛抱しながら、汗を流し労したことは無駄であったのか?大変な損をしたのか?果してそうでしょうか?
有名なルカ15章の「放蕩息子」のたとえの後半部分で、父が放蕩の生活を悔い改めて帰って来た弟息子を手厚く迎え入れた時、その弟への待遇に怒った兄が父に不平を今日の箇所の最初に雇われた人たちと同じようにぶつけています。それに対して父は兄息子に言います。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。これが、兄息子の何よりもの恵み、恩寵であったのです。
 最初にぶどう園で雇われた人たち、イエスさまのお弟子、そして信仰生活も長く奉仕や働き、それに伴う苦労や忍耐、様々な経験のある信仰者は、よくよく考えますとその魂の根底のところでたえず父の神とつながり、そこから実に幾つもの数えきれない幸いや報いに与っているのではないでしょうか。たとえ、その働きに苦しみや重荷を負うことになっても、主の御言に聞き従い、神の国と神の義を追い求め祈りつつ進に行く時、そこに必ず報いがあります。ただそれに私どもが気づくかどうかということが、このたとえに示されているのであります。ですから、最初にぶどう園に雇われた人たちというのは、後の人に比べて苦労や重荷ばかりで損しているというのではなく、やっぱり得をしているのです。
イエスさまは、この天の国のたとえを通して、そばにいた弟子たちに、「お前たちは、すべてを捨ててわたしに従って来たのは、ほんとうに幸いなことなんだよ」と、おっしゃっているのです。主は私たちのあらゆる状況や事情、持てる力すべてをご存じです。大切なのは、マザーテレサさんがおっしゃったように、「どれだけたくさんのことや偉大なことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです」。
私どもも又、たとえ小さな者でありましても、神の国のぶどう園で働く者としてイエスさまはその御救い、「一デナリオンの約束」をしっかりとくださっているのです。
 主の招きに応えて、父の神さまは計り知ることのできない恵みと幸いを与えてくださるとの、信仰の確信をもってあゆんでまいりましょう。
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「種を蒔く人」のたとえ

2013-02-11 11:23:44 | メッセージ
宣教 マタイ13:1-23

今週から教会敷地の測量が隣接する近隣の方々のご協力を得て行われます。
感謝なことですが、ご近所のよしみということで今回ほんとうにありがたかったのは、とおりの向かい側のOビルさんと大阪教会との関係がずっと昔からあったということで、仮会堂としてのビルの一室をお借りすることができたということです。先日オ―ナ―のご厚意で賃貸契約を交わすことができたのですが、通常なら「教会の登記簿」「資産」「保証人」などなど細々とした文書を提出し、手数料も必要なのですが、曰く「もう昔からのお付き合いがあるから、十分わかっているつもりですから、いりません」と、契約書を確認して法人印だけを互いに交わしてすんなりと契約させて戴くことができました。多分賃貸仲介業者を挟むと、こうはいかなかったと思います。

昨年末から、仮会堂の候補地として数件あげ賃貸会社に仲介してもらっていたのですが、すべて断られていました。ある近くのビルに見学に行った時などは、ビルの管理会社の方の話に唖然としました。いくら賃貸の規定はあるとはいえ、「何人くらいですか、何曜日の何時から何時迄ですか、音はその時間だけですか、表札を出してはダメとか、出るときリフォームで数十万円かかる」とかですね、すぐにそこのビルとの交渉は断りましたけれども。そして、以前から気になっていたのですが、ここも無理だろうと半ばあきらめていた大川ビルに、もう仲介業者を挟まず祈りつつダメもとで直接電話してみたら、何とそこで長い間働いておられる女性の方が、「前の大阪教会ですよね、昔からよく写真を撮らせてもらいに行きました、オ―ナ―に話しときましょう」と快いお返事がすぐ返ってきまして、 その後ビルのオ―ナ―とお会いしてお話をすることができました。すると、息子がお子さんと同級生であったり、写真家の弟さんにもお世話になっていたことも幸いでした。まあ事務所ビルということで音の問題を考慮する必要はありますが、何とか相互に歩みより対応して戴けるようになったのです。ここならお車の方も今のまま教会の駐車場に入れてすぐに来れますし、第一新会堂が建てあげられてゆくのを毎週目にすることができます。ほんとうに神さまがそこを選んでお与え下さったのだと感謝しきりですが。
私はもう一つこの度のことを通して、「近所のよしみ」という事の意味をつくづく考えさせられました。それは今から60年前に与えられたこの土地に、変わることなく福音の種が蒔き続けられて来たことによる祝福だと思いますし、ここに大阪教会が存在していることが認知されていることのあかしだと言えましょう。これからも主にあって良い近隣との関わり、福音の種蒔きをし続けてゆくことが期待されていることを思わされます。

①「種を蒔く人」
さて本日の聖書は、イエスさまが大勢の群衆や弟子たちに「種を蒔く人」のたとえを通して、「天の国」の奥義を話された箇所です。
この種は大麦や小麦の種であったようで、パレスチナの地で育つ農作物として昔から今日まで住民の主食になっています。農夫は種を蒔きますが、日本では先に土を耕してから種を蒔きますよね。しかしパレスチナでは笊に入れた種をまず大雑把に蒔いてから土を耕すそうです。そういうことで農夫が種をそこら中に撒き散らすために、まあ道端にも、石だらけの土の少ない所にも、いばらの間にも落ちるようになります。最初から整地された土地に農夫が種を蒔くのではないのです。後でその地は耕され整えられるのです。        福音の種は、まさにそうですね。今や世界中のありとあらゆるところに蒔かれ、人種、性別、年齢を問わず実に多くの人たちが主イエスの福音や聖書の言葉を耳にする機会が与えられていると言ってもよいでしょう。
農夫であるイエスさまは、さまざまな多様性を持つ全人類にいわば全地に「天の国」の種を蒔かれたのであります。その種が蒔かれる私たちのうちには、たとえ話に示されるような種の成長を阻む要素が数知れずあることを十分承知していながらも、しかしイエスさまは種を成長させ、実りを与えて下さる御神に信頼して、私たちのところにおいでくださり、福音の種蒔きをしてくださったのです。

さて、この福音の種とは何でしょうか。ヨハネ12章24節にはこのようにあります。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。この一粒の麦、一粒の種とは、十字架の苦難と購いの死をもって「天の国」に通じる道をうち拓いて神の子イエス。キリストご自身のことであります。
私たちは主ご自身が、この一粒の麦として地に落ちてくださったことと、その命を戴いて生かされていることを大切に受けとめてまいりたいものです。

②「御言葉を受け入れる土壌」
次に重要なのは、「天の国」の御言葉を聞いて悟る者になるかどうかということです。
蒔かれた御言葉を、どのような心で受け入れるかによってその実りが全く変わってくることをイエスさまは、種の落ちた土地の状態になぞらえてお教えになったのです。
イエスさまは、預言者イザヤの「聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」との御言葉を引用されて、御言葉を聞いても、それをほんとうに受け入れ、その御言葉に聞いて従っていくことが出来ない人間の弱さを示されました。
イエスさまは「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ」、どんなに御言葉が語られたとしても、せっかく心の中に蒔かれたものが、奪い取られてしまうよ。実をつけることはできないよ、とおっしゃっているのです。
  この「悟る」という言葉は、マルコ4章の同じ並行記事では、「御言葉を聞いて受け入れるもの」という訳になっています。御言葉を神さまからの語りかけとして聞き、自分の生活や考え方と照らし合わせ、御言葉を生きる力とする人。御言葉の招きに応答して生きようとする人。それが御言葉を聞いて受け入れる人であり、天の国の力、御言葉の力を体験していく人だということです。御言葉自体に「命」が宿っているのですから、それに信頼して生きる者に、神さまは百倍、六十倍、三十倍もの計り知ることのできないほどの実りを与えてくださるのです。ここに「天の国」の奥義があるのです。クリスチャンはそういった恵みに生かされているのですから、ほんとうにありがたく、感謝なことです。

そして何よりも、天の神さまは、罪深い私たちを救うために、御独り子を与えてその愛をお示しくださいました。Ⅰヨハネ手紙4章10節「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。心から神さまに信頼し、神さまとのつながりをしっかりと築いてまいりましょう。「まず神の国と神の義を求めて生きる」。そこに豊かな実を結ぶことができるのですから。

最初にもお話をしましたが。まだまだこの教会周辺においては、「キリストと教会についてほとんどご存じでない人」や「誤解をもってらっしゃる人」がたくさんいらっしゃるという現実があります。その一方で、好意的にキリスト教会の存在を受けとめておられる方もいらっしゃいますが。
 3月から仮会堂に移り、新会堂が建てられるまでの期間は、私たちにとりましては大事な時となります。そこでもう一度、「大阪教会」の宣教使命について祈り、確認し、「福音の種を蒔く」ための備えとなっていくからであります。これからさまざまな出来事が待ち受けていると思いますが、まず私たち自身が御言葉に聞き、御言葉を受け入れ、御言葉に生きる証人とされていきましょう。豊かな実を結ばせてくださる主の御言葉の力に、期待と信頼をもって歩んでまいりましょう。
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隠れておられる神

2013-02-03 21:06:12 | メッセージ
宣教 マタイ25:31-46  

①「序」
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」。

本日の箇所は、世の終わり(終末)に際して神の国のご支配が完成されるときに、王であられる主が来られて「すべての民族を裁く」というお話であります。
イエスさまはそれを羊飼いが羊と山羊を分ける日常的で身近なたとえにしてお用いになられました。聖書の時代から今日に至るまで中近東の遊牧民族等は羊と山羊を一緒に飼っているのが一般的であります。羊は群れをなす動物であることに対し、山羊は群れに馴染まず孤立性の強い動物です。しかし羊飼いたちはそれらを一緒に飼っているのです。
一日を終える夜になると彼らは羊と山羊をより分けるという作業をするのですが。これは、山羊が夜になると暖かさを求めるため、羊とは別の暖かい場所に連れて行く必要があるからです。山羊は羊と違い自分から集ろうとしないので、羊飼いにとってこれは大変な作業だそうです。
ここでは羊飼いにたとえられる主が人々を右と左に分けられるのでありますが。当時のユダヤの法廷では有罪者と確定された者を左に、無罪が宣告された者は右に立たせる慣習があり、イエスさまはそれをたとえとしてお用いになって、世の終わりの最後の審判がどのようなものかをお示しになられたのです。

②「右と左に分けられた人々」
まず、王なる主は右側にいる人たちに対して「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸でいたときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と、その行いをほめ、
永遠の命に与る祝福を告げます。
しかし彼らは、「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」、心当たりがありませんがと尋ね返します。つまり、彼らは主に認められようとしたのではなく、又自分の名誉や徳目のためにしたのでもないことが分かります。
すると王なる主は、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とお答えになります。
あなたが、飢え渇いている人に食べ物と飲み物をあげ、旅をしている人に宿を貸し、裸の人に服を着せ、病人を見舞い、投獄された人を訪ねたのは、実はわたしにしてくれたことなのだよ、と主はおっしゃるのです。

主がここで言われた「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」とは、勿論主の弟子や教会の兄弟姉妹、私たちの主を信じている者同志を指しているといえるのでしょう。
けれども、それだけとは限りません。それは、私たちが日々日常において出会う、今、助けを必要としている様々な人々もまた、主の御目によれば「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」であるかも知れません。
トルストイの名作「くつ屋のマルチン」というお話、ご存じの方もおられるでしょうが。一人でくつ屋を営む孤独なマルチンは、夢でイエスさまが「明日行くから待っておいで」とおっしゃる声を聞きます。目を覚ましたマルチンの店の前では、その日様々な弱さや痛み、問題を抱えた人が通りかかり、マルチンは一緒にお茶を飲んだり、食事や服を与えたり、仲介に入ったりします。そして一日を終えたマルチンは、聖書を読みながら夢で聞いたイエスさまの言葉を思い出すのですが。その日に出会った人たちが目に浮かんできます。「マルチン、分からなかったのか。あれはみんなわたしだったのだよ」、との御声を聞くのです。
いつ、どこに主がおられるのか、私たちには分かりません。けれども、今日のイエスさまのメッセージによって、私たちは主が私たちの本当に身近なところにおいでになるのだということを知ることができます。

さて、王なる主は左側にいる人たちにも言われます。
「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸でいたときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかった」。
彼らは右に分けられた人たちとは異なり、「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話しなかったでしょうか」と、自分たちのしてきた事を正当化しようとします。

すると王なる主は、「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」とお答えになるのです。
左に分けられた人たちは、自分たちは主の掟を守り、社会的にも立派に生きているのだから、その行いによって当然よい報酬がもらえるものだとたがをくくっていたのかも知れません。「主よ、主よと口では言ったとしても、本当には主イエスの救いを必要としない人たちであるのです。

③「最も小さい者の一人とは」
この右と左に分けられた人々に対して語られた王なる主の言葉から教えられますことは、
何よりも主は、最も小さい者たちと御自分を同一視され、「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」。又逆に「最も小さい者の一人にしてくれなかったのは、わたしにしてくれなかったことである」と言われていることです。
それは、救い主として世に来られたイエスさまが地上においてあゆまれた道とも重なります。イエスさまは世にあってさまよう私たち人間の魂を憂い、慈しまれました。又嘆き悲しむ人を慰め、病人には手をおいて祈り、苦しむ人のために執り成し、世において疎外された人や忘れ去られたような人の友となられました。そしてその最後には罪に滅びゆくしかない私たち人間のために、自らの命を引き渡して十字架におかかりなってその贖いを果たして下さったのです。
「苦難の僕」として知られるイザヤ書53章には、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も好ましい容姿もなく、軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている方である」と、その主のお姿が描かれております。そして5節には「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打たれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と書かれています。主イエスはそのように自ら最も小さい者の一人となられることで、私たちに救いと希望をもたらして下さったのです。主イエスが天の父の御心に従って自ら最も小さき者の一人となってくださった。そのことを忘れてはならないのです。

さて、そのような主イエスの愛と救いを受けた私たちキリスト者は、このイエスさまのお姿に倣い、神の御心に生きる道が備えられています。
マタイ7章21節以降で、イエスさまは「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と言われました。この「主よ、主よと言う者」とは、「主よ、主よ」と言って祈り求めることを否定しているのでは決してありません。律法の書によれば「神の御名を用いて偽り誓う」(レビ19章12節)ことを指し、神を偽ることを指しています。
世界の歴史上において聖なる神の名を騙り、利用して如何に残虐な悪政や戦争が繰り返されてきているでしょうか。「自分たちは神の国民で、あちらは悪魔の国民だ」と戦争を正当化する政治のリーダーたちが今も報復の連鎖を作りだしています。
今日のたとえの左側に分けられた人々は、「主よ、いつわたしたちがそれをしなかったでしょうか」と、自己弁護していますが。どんなに人前で益と思えるような業をなしたとしても、偽善は神の前でやがて明らかにされるのです。最後の審判が臨むそのとき、主の救いを受けている者はみな、「神の御心を行ったかどうか」を、その審判の座で問われるのだということを心して聞きとっていきたいものであります。

話は変わりますが。1月~2月まで毎週金曜日の夕方から、喜望の家の夜回り・よろず相談に参加し、日本橋・難波・心斎橋で路上生活を余儀なくされておられる方々を細々とではございますがお訪ねしています。随分寒さも厳しい折ですが、路上や終電後の駅ホームに段ボールを敷いて野宿されておられる方、段ボールを積むリアカーの中で寝泊まりされている方など様々です。
路上で寝泊まりをされている方々の中には、障害や病を抱えておられる方が少なくないのが現状です。よくリアカーいっぱいに段ボールを積み上げて重たいリアカーをゆっくりと運んでおられる方々がおられますが、大概は「自分はまだ働けるから保護など考えていない」という言葉が返ってきます。だけど路上で怪我や事故、病になった時、どうするんですか?と尋ねると、きちんと答えられる方はほとんどいない。その日、その日の暮らしだけで精いっぱいなのです。もし何かあった時はここに来て、困難なときは誰でもいい人に声をかけてここに電話して、救急車を呼んでここの病院に運んでくれるように頼んで、というアドバイスをしたり、多くの方々の善意の募金(大阪教会からもイブ礼拝でお献げしましたが)や献品によって準備された食べ物や着る物をお配りしています。
この前ある方を夜回りでお訪ねした時でしたが。この方とはかれこれ3年位の関わりがあり、夜回りの度にいつも日本橋で野宿生活をされていて「保護のお世話にはならん、自分で段ボールや廃品を売って何とかできる」と言い続けておられた方でしたが。先日「いろいろ世話になったが、生活保護の世話になることに決め、住む場所も決まりそう」と笑顔で報告してくれました。この報告に、「無力に思える働きも決して無駄ではないのだ」という安堵と共に、私の方が大変励まされました。

最後に、本日の最後の審判の光景で右側に分けられた人々は、「いつ、あなたに対してそれらのことをなしたでしょうか」と答えています。自分自身としては主のために何も行えなかったと思っていたのに、主はその人々が御心を行っていた事を、その彼ら以上にご存じであられた、ということであります。人の眼には見えない事も「神さまはちゃんんと見ておられる」。人の眼には隠れておられる。それは私たちにとっての希望であります。
 共に主の御心を行う者として、唯、主イエスに倣う者にならせて下さいと祈り、願い求めてまいりましょう。まず、この礼拝において主のご愛をいっぱいに戴き、それぞれの日常、生活の場に遣わされ、主の御心を行う者とされてまいりましょう。
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