日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2025年 元旦礼拝宣教

2025-01-02 14:52:17 | メッセージ
詩編84編1-8節 「いかに幸いな人」

主の年、2025年を迎えることができましたことを主に感謝いたします。
元旦に際し、詩編84編のみ言葉が与えられました。
詩編は旧約聖書の中でもとても存在感があり、150編にも及ぶ膨大な頁には神への賛美や感謝にあふれています。又、祈りや嘆願、悔い改めや信仰の告白などが収められ、見事に綴られています。
この84編には、「いかに幸いな人」とはどのような人かを、歌い伝えています。
1-3節「万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。」と歌われています。
「いかに幸いな人」。それは5節にも、「あなたの家。主の家に住むことができる人」「あなたを賛美する。主を賛美することができる人」です。
ここで言う「あなたの家」とは、主の家。つまり祭壇のある神殿のことでしょう。それは、私たちにとっては主の教会であり、この礼拝であるといえるでしょう。
昨年エレミヤ書を礼拝で読みましたが、ユダの民は神の言葉に背を向け、聞き従わなかったために、バビロンによって崩壊の一途を辿ります。神殿は崩壊し、多くの民は遠くバビロンの地に連れて行かれ、捕囚の生活を余儀なくされました。そうした苦くつらい異教の地での経験した民の思いを、今日の詩編から読み取ることができます。
かつて彼らはエルサレムの繁栄の中で礼拝を捧げ、当然のことのようにその恵みを享受していたのです。しかしそのあたりまえに思っていた日々の幸いは、ただ神の恵み以外の何ものでもなかったのです。それはある意味失ってみて、無くなってみて、初めてその尊さに気づのです。
今は荒れ果て、そこには鳥が住み家を作り、巣をかけて雛をおいているのだろう。翼があれば私も飛んでゆきたい。そんな思いが伝わってくるようです。
私たちは今こうして信教の自由が保証されている中で、元旦礼拝を教会に集い、あたりまえのように礼拝をすることができますが。けれど世界を見渡せばそうではありません。紛争や迫害が起こっているところでは、自由に礼拝できない方々の心はどれほどつらいことでしょう。私たちもコロナ禍においてその一端を味わいました。そこで礼拝に集まり再会できた時、言葉では言い表せない喜びと感謝があふれました。教会は建物というより、神の家族、祈りの家、生ける神との出会いの場であります。
私たちも、この詩編記者のように神の宮での礼拝を慕い求めているからこそ、主がこの2025年最初の日、元旦礼拝へと招き導いてくださったことでありましょう。

二つ目ですが。いかに幸いな人は、6節「あなたによって勇気を出し、心に広い道を見いだしている人。」と詩人は歌っています。
アドラーという心理学者をご存じの方も多いかと思います。私もその講座を受講したことがありますが。彼は、人間の基本的欲求は「優越(権力)への欲求」であると主張したことは、よく知られています。人間は他人に負けたくない。できれば他人の上に立って優越感に浸り満たされたいという思いがあると言うのです。そういった本性をもつ私たち人間が、自分の非力を素直に認め、他に力の根源を持つことを考えることは、簡単にはできないことです。
しかし、詩編記者は、「その力が神にあること」を知るのです。力の源である神によって、「その心に広い道を見いだしている人」は、いかに幸いなことかと、詩人は歌っているのです。
私たちは弱く、もろい人間です。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。」と聖書は呼びかけます。
しかし、それはただ虚無、あるいは悲観的に終るものではありません。
詩編103編17節以降に、「主の慈しみは世々とこしえに/主を畏れる人にあり/恵みの御業は子らの子に/主の契約を守る人/命令を心に留めて行う人に及ぶ。」と歌われています。その契約とは私どもにとりまして言うまでもなく、主イエス・キリストによる新しい救いの契約であります。やがて野の草のようにしぼんでいく以外ないような人の弱さの只中に、救いの大路が拓かれた。ここに確かな神の力、虚しさに終わらない命の輝きが与えられるのです。
私たちもこの詩編記者のように、主の力に信頼し、心に広い道を見いだすべく、今年のすべての日々、主を慕い求めて歩んでまいりましょう。
神にある力をのみ頼みとする人について、7-8節で「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。」と歌われています。
自分の力は主なる神にあることを知って、心の中に広い大路を見いだすことができる人こそ、いかに幸いなるかを、経験することができるのです。
ここで言う、「嘆きの谷」とは、「泣く谷」という地名から来ているそうです。エルサレムへの巡礼者は必ずそこを通らなければならないわけですが、大変な難所とも言われています。いわば巡礼者泣かせの谷であったのです。
しかし、苦労して通りぬけるからこそ、エルサレムへの大路の喜びは更に一段とゆたかになったに違いないでしょう。
私たちの人生には避けて通れない涙の谷がいくつもあります。しかし、そのような嘆きの谷を通るときも、主なる神がそこを泉のわく所としてくださることを知るのです。後になってみれば、あの事があったからこそ、という気づきや。如何に自分を育もうとなさったか、その深い主の御計らいを知らされることがあります。

このような人は、8節「いよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。」と歌われています。
力を増して進むみゆく人は、一つひとつの試みや困難を、恵み深い主なる神の力によって克服して行けるのです。その経験の度ごとに、神への感謝と信頼を強めてくれます。
そして、このような人は、「シオンにおいて、神にあいまみえるでしょう。」と歌われます。主なる神と顔と顔とを合わせる、言葉では言い表すことのできない祝福に与ることができる。大いなる希望であります。2025年をここから歩み出してまいりましょう。
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聖家族の避難路

2024-12-29 14:10:57 | メッセージ
歳晩礼拝宣教  マタイ2・13-23 

2024年最後の主日礼拝を共に捧げております。
今年も、雨の日も風の日も、一度も礼拝、祈祷会が途切れることなく守られ、捧げられましたことを主に感謝します。主を慕い求める皆さまの信仰に共に励まされましたことをうれしく思います。
一方、今年は3人の方々が主のみ許に召されました。それぞれ長きに亘り、この地上にあって貴い信仰生活を歩み通され、主に祈り仕え続けて来られた方々でありました。地上の別れは寂しいですが、讃美歌「神ともにいまして・・・また会う日まで」の歌詞のように、主のみ許でまたお会いできる希望をもって、私どもも信仰の先達の歩みに倣う者でありたいと願います。

さて、先週は、救い主・御子イエス・キリストのご降誕をお祝いするクリスマス礼拝とキャンドルサービスを喜びのうちに捧げることができ、ほんとうに感謝でした。
そのように、すべての人びとの希望、神の救いの到来を顕すクリスマスでありますが。今日の聖書個所を読みますと、世の力がそれに敵対して神の救いの御子を亡きものにしようとしていたことがわかります。
この新しい救いの王、メシアは本来、まずはもちろんユダヤの人々、エルサレムの住民、そしてヘロデ王の救いの喜びのためにお生まれになったのです。それにも拘わらずヘロデ王は自分の権力と地位を揺るがしかねないものと、恐れを抱きます。さらに、メシアを待ち望んでいたはずのエルサレムの住民も、なぜか同様の不安を抱くのです。
今の時代も不安定で様々な問題をはらんでいます。だれもが自分の生活を守ることで精いっぱいという現実がありますが。そこで、「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればみな添えて与えられる。」とおっしゃった主の御言葉の真理、その奇しきみ業が多くの方々にも伝えられ、分かち合われていくようになると、本当にすばらしいなあと思います。

話を戻しますが。占星術の学者たちからの報告を待っていたヘロデ王は、その学者たちが戻って来なかったことに大いに憤り、ベツレヘム一帯で生まれた二歳以下の男の子を一人残らず殺す命令を軍隊に下します。
一方、占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」と告げます。
すると、それを聞いたヨセフはその主の天使の言われたとおり起きて、幼子イエスとマリアを連れてヘロデ王の恐ろしい追っ手から逃れ、エジプトに身を寄せるのです。(週報表にその光景を描いたレンブラントの2つの聖画を載せていますが。)
しかしその時、ベツレヘム一帯において軍隊による幼児虐殺の惨劇は起こされました。
なぜ、この子たちは殺されなければならなかったのか。それはわかりません。しかしこれは神さまの御心に反する人の罪のなせる仕業であります。今も世界各地で起っている戦争や紛争の悲劇が後を絶えません。同様に子どもや弱い立場の人たちが巻き沿いに遭い、又、人間の盾にされて無残にも殺されています。
幼子イエスがエジプトから再びイスラエルに戻られた後、彼はこの幼児虐殺の惨劇を知って、ご自分の身代わりになったとも言える多くの幼子の死と、人の罪のおぞましさに心を痛められたことではないかと想像いたします。

さて、この聖家族はエジプトからイスラエルに再び帰って来る折も、また主の天使がヨセフに夢で現れて、「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。」とのお告げがなされました。その時もヨセフは起きて、子供とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来るのであります。
身重のマリアを妻に迎え入れたヨセフの大きな決断に際しても、主の天使が現れなさるのです。
神はご意志をもって主の天使をお遣わしになり、彼らを守り導かれるのです。これは主の者とされて生きる人たちも同様です。世にあって困難や苦難はありますが、その折に主はたえず導いて下さるのです。問題は、主の呼びかけに聞き、目覚めるかどうかです。
主の天使は寝ているヨセフに「起きなさい。」と声をかけました。それは単に寝入っているから起きろと言われたのではなく、「今、神の御心に目覚めて歩みなさい。」ということです。
ヨセフだってそれは故郷に帰りたいと思いながらも、幼子虐殺の恐ろしい記憶は消えず、この先家族はどう生きていけばよいのかと思いめぐらすこともあったことでしょう。このままエジプトにいれば安全かとも思えるところです。しかし彼は主の呼びかけに目覚め、恐れや不安を主にゆだねて起きあがるのです。
その姿は、神の救いと恵みを拒み、敵意をむき出しにしたヘロデ王とは対照的です。 
この「起きて。」という言葉。それは、イエスさまが「目を覚ましていなさい。」とお弟子たちにおっしゃった事と同じものです。それはまた、不安や恐れで心が揺れ動いている私たちに対しても、神さまは「起きよ」「目覚めよ」と呼びかけ、真に生きるべき道へ導こうとしておられるのです。大切なのは、主の呼びかけに心開いて応えるか 否かということであります。

以前にもお話しいたしましたが。スウェーデンの女流作家ラーゲルレーヴェという方が書いた『ともしび』という小説をご紹介します。この小説をもとに絵本が邦訳されています。この主人公は、神の与えられた自分の人生を真に見出すものとなった、そんなお話であります。 少し長いですが、おつきあいください。
昔、イタリアのフィレンツェに住んでいたラニエロは、勇ましく力も強く、喧嘩ぱやい い男で、彼はその勇気と豪傑ぶりとをいつもみんなに認められたがっていました。ところが、彼が人の気を引こうといろいろとやらかすので、町の人々は彼を乱暴で傲慢な男だと思っていたのです。「みんなに認められるためには兵士になって、戦で手柄を立てるのが一番だ。そして、いくさの戦利品をフィレンツェのマリアさまの前にささげれば みんなのうわさにのぼるだろう。」そう考えたラニエロは兵士となり、その名を国中にとどろかせます。その後彼は大きな手柄を立てたため、キリストのお墓の前に燃える尊いともしびを最初にろうそくに移すことをゆるされるのです。
「ラニエロ、いくらなんでもそのともしびをフィレンツェまでお届けするわけにはいくまいな」「ともしびは消えてしまうに違いないな」と言ってみな笑います。それを聞いたダニエロはむきになって、思わず「よし、このともしびを、おれさま一人でフィレンツェまで運んでみせるぞ」と宣言してしまいます。 あくる朝早く、ラニエロはマントの下に鉄のよろい、刀とこん棒を着け、馬にまたがってともしびを手にエルサレムを出発します。
「な-に、こんなことは簡単なこと。」と、たかをくくっていたラニエロでしたが。そうやすやすとはいきません。馬が足早になるとともしびは揺らめき、今にも消えそうになりマントでかばったり、後ろ向きに乗ってなんとかともしびを守ろうとします。山辺ではおいはぎに襲われ、取り囲まれて、ふだんなら簡単に腕力で追い散らすことが出来るのですが、そんなことしたら、ともしびが消えてしまうかもしれません。彼は無抵抗のまま身ぐるみ剥がれ、残されたのはおいはぎのひどいやせ馬と、ぼろぼろの着物、そして二束のろうそくだけです。なんとかともしびは無事だったということで旅を続けます。途中、エルサレムを目指す人のむれに出くわします。ともしびを手にみすぼらしい格好をしてうしろ向きでやせ馬に乗っているラニエロを見て、人々はあざ笑い、からかいます。ラニエロはさすがにかっとなって彼らになぐりかかろうとした時、気がつくと、ともしびが枯草に燃え移っています。ああ大変だ、慌てて火をろうそくにともし、また旅を続けます。ひとふきの風、ひとしずくの雨でも、ともしびは消えてしまうので、何とか消えないようにと、そればかりを願いながら、彼は思うのです。「こんなかよわいものを必死で守ろうとするなんて、生まれて初めてのことだ。」とうとう替えのろうそくがなくなってしまい、もうこれで終わりだと思ったその時でした。巡礼たちが岩山を登って来て、その中の年取った女の人をラニエロは助けて山の上まで登らせてあげます。するとその人はお礼に自分の持っていたろうそくをくれたので、ともしびは守られました。彼はそうやってともしびを大事に守って、旅を続けるうちに、いくさでの数々の手柄や名誉や戦利品など、もうどうでもよくなってきました。荒々しいいくさより、優しく和やかなものを喜ぶようになっていくのです。そしてとうとうフィレンツェに着き、その城門から入っていくと、町は大騒ぎになり、ラニエロはともしびが消されるのをふせぎ、高くかかげながらようやく祭壇の方へと進んでいきます。前のラニエロを知る人々は、「エルサレムからともしびを運んで来たなんてうそだ、証拠を見せろ。」と騒ぎ、ラニエロを取り囲みます。
その時です、急に一羽 の小鳥がまいこんできて、ともしびにぶつかり、火を消してしまうのです。ラニエロの目に涙がにじみます。ところがその時だれかが、「小鳥が燃えている、羽に火が燃えついたぞ。」と叫びます。小鳥はひらめく炎のように、聖堂の中を飛びまわり、遂に祭壇の前に落ちて、息が絶えるのですが。ラニエロはかけよって、小鳥の翼を燃やした残り火で、祭壇のとうそくに遂にあかりを灯すのであります。

私がこのお話を初めて聞いたのは40年前でした。ラニエロが新しい人に変えられていく過程がとても印象的で、それ以降このお話がずっと好きになり私の心のうちにも生きています。今の時代もそうですが。もっと強くならなければ、もっと頑張らなければ、乗り越えなければという思いで逆に押しつぶされそうになっている人がたくさんいると思うのです。また、世の力、社会のひずみによって弱い立場に立たされたまま切り捨てられる人も多くおられます。よく小さい命、かよわき命を脅かし蔑ろにするなら、その者もその社会全体も危ぶまれ。損われてしまうことになると云われますが。
あのヘロデ王によるジェノサイドが、クリスマスのキリスト誕生の喜びを奪おうとしたように、今日の時代においても暗く息苦しいような出来事が多々起こっています。しかし、希望のともし火を保ち続けたい、と願います。

礼拝の始めに、招詞としてマタイ25章40節の御言葉が読まれました。
「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さき者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」
あの、荒々しさと主義主張の鎧を身にまとっていたラニエロが、今にも消えそうな小さなともし火をそっと包み守る中で、柔和で優しい心をもつ人に変えられていったように、そのような人たちで地が満ちますように祈ります。
最後に、本日の箇所は、ヨセフとマリアが小さくか弱き幼子イエスの命を守りぬいていったその旅路でありますが。けれどそれは、ヨセフもマリアも実は幼子イエスの存在に守られ、導かれながらの信仰の旅路であったのではないでしょうか。
あの「ともしび」の物語がそうであるように、生ける神さまはこの時代、私たちの日常の中に、共におられます。確かな希望のともし火を新たな年に向かって掲げてまいりましょう。
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真の居場所

2024-12-25 07:12:17 | メッセージ
キャンドルライトサービス宣教  2024/12/24

メリークリスマス。神の御子、救イエス・キリストのご降誕を神に感謝いたします。
この時期は街並みがきらびやかなイルミネーションで彩られ、到るところでクリスマスムードいっぱいですが。あの通天閣もクリスマスカラーに着飾っています。この時間はてんしばでクリスマスイベントがにぎやかに行われています。それが何のお祝いなのか、たくさんの人に知っていただけたらと思います。そのてんしばの人が賑わう中、一つのブースにひっそりとキリスト降誕の光景が、羊飼い、博士たちと共に展示されてあるのを見つけ、うれしくなりました。この救いの喜びが聞こえて来るゴスペルの歌声を通して、知らされますように。そして今、諸教会でもたれているキリストのミサ、クリスマスが、全世界の救いと平和の祈りのメッセージとなりますように。
 
今日ここに招かれ、導かれた私たちは、このキャンドルサービスを通して、救い主に関する旧約聖書の預言、その預言の実現であります救い主、キリストご降誕の箇所を読み、救いの主を讃美しました。
イエス・キリストの誕生と救いが、ユダヤから始まって全世界にもたらされることが、歴史を導かれる主なる神さまによって予め計画され実現したのです。そして今日の時代においても、そのゴスペル、その良き知らせが、世界のいたるところにまで届き、神のみ救いの出来事があらゆる人たちに顕わされて、証しされ続けています。
この神の御子、キリストは「すべての人を照らすまことの光」としてこの世界に来られ、「肉(人)となって、わたしたちの間に宿られた。」これがクリスマスの大いなる恵みと喜びなのです。

さて、聖書には、救い主、イエスさまがお生まれになろうとしていた時、「宿屋には彼らの泊る場所がなかった。」とあります。  
 住民登録のためユダヤ以外の各地からエルサレムに上って来る人たちで町はごったがえし、どこの宿屋も満室でした。しかしこれは、単に宿泊所が不足しているという問題ではありません。神の救い、イエス・キリストが世に来てくださったというのに、お迎えする心が人びとになかった。そのことを表わしているのです。
ヨハネ福音書にはクリスマスの降誕記事はありませんが、違った言い方でクリスマスのことを伝えています。
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。・・・言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1章9-11節。14節)

この「言」とは神の御子、キリストのことです。神はこの世界を言によって創造されたことが、聖書の一番始めに記されていますが。神は、肉をとった、つまり人となられた神の言、イエス・キリストをとおして、この世界を全く新しいものとされたのです。
ここに、「言であるキリストのうちに命があり、その「命は人間を照らす光であった。」と聖書にあるとおりです。このキリストの到来により世界の歴史はBC.ADと分けられていますように、キリストによって歴史は更新されたともいえます。問題はその歴史に臨まれたキリストの良き知らせ、福音を受け取れるかどうかです。
先ほどのヨハネ福音書には、「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」また、言であるキリストのうちに命があり、その「命は人間を照らす光であった。」とあります。神の救いが訪れても受け取れなかった。それは人の心が閉ざされていたためでした。
夜明けに真っ暗な部屋のカーテンを開けますと、朝の光が射し込んで、部屋を明るくしてくれます。しかし、カーテンを閉ざしっぱなしならいつまでも暗闇のままです。そのように、心のカーテンを開けなければ、キリストの命の光を受けることも、私たちのうちに神の愛と希望、その喜びと平安が満ち溢れることもないのです。

さて、クリスマスの良き知らせが最初に届けられた羊飼たちについてですが、彼らは定住地をもたず、住む家もなく、昼も夜も羊を飼うことを生業としていました。そのため安息日を守ることもできなかったのです。でも、その心は神の救いを切望し、待ち望んでいた人たちであったのです。その羊飼いに神の救いがまず伝えられたのです。又、救い主に最初に尊い贈物を贈り、礼拝したのが、神の祝福とは無縁であると見なされていた異邦人、東方の学者たちでした。彼らは神から贈られる新しい王、キリストの誕生が異邦人にとっての希望、救いとなることを確信し、待ち望んでいたのですね。
この羊飼いや異邦人には、神の祝福や救いはわからないだろう、それを受けるはずもない。そう思われていた人たちでした。
しかし不思議な事に羊飼いも、異邦人の学者たちが、生まれたばかりの赤ん坊、又幼子がキリスト、救い主であると信じることができました。それは、彼らが自らの心の王座に真理であり命であられるお方を探し求め続けていたからではないでしょうか。

ある讃美歌の中に、「み栄えとみ座を去り、世に来られたみ子、宿るべき部屋もなく、祝う人もなし、住みたまえイエスよ、わたしの心に。」という歌詞があります。肉をとって家畜小屋で生まれ、人の心を知る神のみ子が現れた時、羊飼いや異邦人はそこに希望の光を仰ぎ、イエス・キリストを心の王座に迎えることができたのです。そこに真の居場所があったからです。

最後に、東方の学者たちは宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を神のみ子なるイエス・キリストに献げた。」とあります。彼らは救いの主、キリストに自分たちが祈り考えぬいた最もよいものを献げました。私たちも東方の学者たちのように、神の祝福と救いに与る喜びを表せる人生を歩んでいきたいですね。

祈ります。
天の神さま。今日こうして御子イエス・キリストの降誕を祝い、捧げるクリスマスキャンドルサービスをそれぞれ招き、導いてくださった方々と共に持つことができましたことを感謝します。私たちは立派な会堂で礼拝をお捧げしていますが。御子キリストは、家畜小屋においてお生れになられました。それは、イエスさまがすべての人の真の居場所となってくださるためでした。
どうか、この地上の隅々にまでクリスマスの良き知らせが届けられますように、私たちの思いをひとつにしてください。又、このクリスマスの礼拝に与ったお一人お一人、それぞれの祈りや願いをもってこの場へ招かれました。どうかあなたの力強いみ手がお一人おひとりに臨み、お導きください。
このクリスマスから私たちは新しく歩み出します。わたしたちも苦闘している人の隣人となることができますように。全世界の救い主・イエス・キリストのご降誕を心から感謝して祈りします。ア―メン。

*本日の席上献金は、「日本聖書協会点字聖書作製部」「止揚学園・重度障がい者施設」「関西いのちの電話」「難民・移民なかまのいのち協働基金」「ホームレス支援釜崎キリスト教協友会」の5箇所へ全額お献げします。自由献金ですので、ご理解を頂けましたらお献げください。
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クリスマスプレゼント

2024-12-22 16:52:05 | メッセージ
宣教    マタイ2章 9-12節   

メリ―クリスマス、クリスマスおめでとうございます。全世界に与えられた希望の光、救い主イエス・キリストのご降誕を、こうして皆さまと迎えることができましたことを神に感謝します。
今年は大変暑い夏が続き、秋がとても短くて今日は例年通り寒い冬の日となっていますが。私にとって今年ほど早く感じた1年はありません。みなさんは如何でしたでしょう。どのような時にも主が共におられた恵みを感謝しながら、クリスマスの礼拝を捧げてまいりたいと思います。

マタイ福音書が先程読まれましたが。ユダヤの地から遠く離れていた東方の学者たちは、「ユダヤの新しい王」の誕生を告げる星のしるしを見て、遙々ユダヤのエルサレムの宮殿にやって来ました。しかし王に尋ねてもそこにはいません。それがベツレヘムであることを聞いた彼らはそこへ向かうと、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まる」のを見て、喜びにあふれます。そうして救い主としてお生れになられた幼子キリストを礼拝することになるのです。
何ともドラマチックで美しい情景が思い浮かびますが。私などは「星」と聞きますと、昭和世代なので「見上げてごらん、空の星よ」の歌詞を思い出しますが。特に冬の夜空を見上げますと星がとってもきれいに輝いて見えます。この星の数々の星は天地万物の創造主の御業であります。どんなに力をもつ地上の王や指導者でもその星1つも支配することは不可能です。この天も地もお創りになり、すべてを統治されている主なる神のもの、この星を通して示されたキリスト誕生のエピソードは決して偶然なのでなく、その神のご計画なのです。

さて、このマタイの福音書では、お生まれになったばかりのキリストと最初にお会いできたのは、東方の学者たちであったと伝えています。ヘロデ王やユダヤの住民ではなく、ユダヤから遠く国境を越えた東の国の人たち、それはユダヤ人たちにとって外国人、異邦人でした。彼らはユダヤの人たちからすれば神の救いから隔てられた人たちであったのです。けれども、その彼ら異邦人たちが救い主、キリスト誕生の証人となるのですね。神のご計画は人の目には不思議ですが、あとになってみればそれがどんなにすばらしいかがわかります。彼ら異邦人が神の救いの招きに与ったことは、この私たちにとっても確かな導きと救いに与っていることを確信させてくれるからです。

さてここに、彼らが「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。」とありますが。それは宮殿のような立派な建物でなく、庶民の家でした。そこには王座などありません。その幼子に権力をもつ王としての風貌もありません。ところがです。彼らがそこに入ると、「ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とあります。
普通に考えてみて、このような民家の幼子にこんな高価な宝物を贈ったりするでしょうか。
どうして彼らはそんなことができたのでしょか。「信仰とは望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することです。」とへブル人への手紙にありますが。その幼子がユダヤの王となることを信じる信仰が、彼らに喜びを与え、礼拝とプレゼントをささげさせたのです。
そこに彼らの内に飢え渇きといえるほど切なる求があったからです。地位も財産も知識を持っていた彼らは自分の力では得ることのできない真理、そして真の平安と救いを探し求めていたのです。その彼らの求めに、神は応え招き導かれるのです。神の導きを知る彼らだからこそ、その幼子の内に神の希望、世の光を見出し、ひれ伏して、自分たちの最上の宝を献げることができたのです。
詩編8編には「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。人間は何ものでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」
都会の、夜も明るい中に住んでいると、空を見上げてもなかなか星を見つけることができませんが。時に天の川が見えるような満天の星を思い出し、人はだれもみな銀河のこの小さな青く美しい1つの星の住人だということを思うことがあるのではないでしょうか。そのすべての創り主なる神をほめたたえる。この身分も立場も、国も肌の色も違うような人たちが幼子キリストを真ん中においている光景は、何ともほのぼのと心温まるものでしょう。

自分の事どもに追われ、思い煩いに心がふさがれていた王やユダヤの住民たちは、せっかく与えられた神の恵みの時がわからなかった。それどころか邪魔だとするのです。神に背を向け身勝手な生き方は全く的外れなものでした。それを聖書は原語でハマルティア、罪だと言うのです。
ヘロデ王は自分の王位を守りたいがために、幼子キリストを殺そうとするのです。恐ろしいことです。でも、他人事(ひとごと)ではありません。私たちも的を外さないように神の愛に生きる、この東方の学者たちのように生涯求道の心で神を慕い求めていく者でありたいですね。
福音書の中でイエスさまは、「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない。」とおっしゃっていますが。この東方の学者たちはまさにそのような人たちでありました。天体学を通して真理を探し求めていた学者たちでしたが、その答えは知識や学問にではなく、まさに幼子キリストという天のしるしを通して、神の救いという真理を見出したのです。私共もそうした真理への渇きと幼子のような柔らかい感性をもち続けたいものです。

 本日はクリスマスプレゼントというタイトルをつけました。
東方の学者たちは、新しい王に献げるものとして最もふさわしく、最上と思えるものを幼子キリストに献げました。黄金は、今でも変わらない高価な宝ですね。又、それは権威の象徴ともされます。乳香は、貴重な樹脂であり、礼拝の時にささげる香としてもちいられていたものです。没薬は、最高な香料の一種であり、又高価な薬でした。彼らがそれほどの貴重な宝を献げることができたのは、神の大いなる救いの恵みに対して、どんな宝にも代え難い価値を見出し、喜びに満ちあふれていたからです。それは確かに美しい話です。
しかし、みなさん。最初に最善のプレゼントを差し出されたのは、実は外でもない神なのです。ご自身計り難い痛みをもって御子イエス・キリストを世に、私たちにお与えくださったのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とヨハネ福音書3章16節にあるとおりです。
神はご自身の愛の顕れである救いの業、それは十字架の死と復活によって、愛と救い喜びを、新しい命をお与えくださったのです。この神の御子イエス・キリストによって、神の愛が私たちのもとに臨んだのです。これほどまでの愛のプレゼント。ここにクリスマスの本来の意味、本質があるのです。

終りに、幼子のイエスさまを拝した東方の学者たちは、「ヘロデの王宮には戻らず、別の道を通って自分たちの国へ帰っていった。」とあります。
 当初来た道は、自分の国の使節団として政治がらみの使節団としてユダヤの王子の誕生を祝うためのものでありました。しかし本当に探し求めていたお方と出会った彼らは、ヘロデの王宮にもう向かわず、天と地を統治される生ける神に従う道を通って、自分たちの生活の場所へと帰っていくのです。それは彼らのこれからの人生が、世の習わしに頼み従う道ではなく、生ける神を主として拝み、その御言葉に聞き従っていく道であることを示しているのです。その人生の道を彼らは選び取っていったのです。
私たちの前にも2つの道があります。今日はどこの道を行くか。主の導きがありますように。

もう1つ、「クリスマス」はキリストのミサ。「キリストの祝祭」という意味ですが。ミサには「派遣」という意味があります。キリストは御父より派遣され、世界のあらゆる国、民族を越えた救い主としておいでくださいました。そして、この喜びの知らせ、福音を聞いて受け取った者も、それぞれ主から派遣され用いられるのです。
 今年は私たちの教会の礼拝や祈祷会に、延べ13カ国の方々が集われ共に主を礼拝することができました。そうした中で様々な国々の若者たちによる、「はこぶねかふぇ」クラスができました。聖書の伝承によれば、ノアの箱舟に乗り込んだノアの子どもたちから様々な人種・民族が生まれたということですが。このネーミングを決めるとき、そこに集まっていた若者たちが国の違い、言語の違い、文化の違い、いろんな人が集えるようになればいいなあという思いから、「はこぶねかふぇ」に決めたのです。国も言語も文化も、様々な違いを越えたキリストにあるこのつながりを感謝します。
クリスマスのこの時、キリストを通してもたらされた救いの喜びを共に賛美しつつ、全世界に与えられた福音の喜び、良き訪れがさらに分かち合われていくために派遣されてまいりましょう。
MerryChristmas!
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キリストを探し求めて

2024-12-15 12:29:23 | メッセージ
礼拝宣教   マタイ2章1—8節 アドベントⅢ 

羊飼いたちは、帰ってきました。博士たちは、帰ってきました。
彼らが帰って来たのは、どんな「ところ」だろう?
羊飼いたちがいた「ところ」博士たちが帰った「ところ」、
聖書の言葉はどちらも同じ。それらは、どんな「ところ」だったのか、
どちらもそこには、夜の風景がありました。
夜・・・、あなたの夜は、どんな夜ですか?そして、あなたの今は、夜ですか?
羊飼いたちが、主の栄光に照らされ、博士たちが、星を見た、それは夜のこと。
羊飼いたちは帰ります、その「ところ」、そこで、今日という日々が始ります。
私たちも、いつもの「ところ」に帰ります。そこはまた、夜が訪れます。
でもそれは、昨日とは違う夜なのです。光の訪れを待ち望む夜、そして、
ここに、その光!(一枚の届いたクリスマスカードより)

「お帰りなさい。」アドヴェント最終週となりました。いよいよ来週は主のご降誕をお祝いするクリスマス礼拝を迎えます。ご家族、また友人知人にもこの良き知らせを伝え、分かち合えると幸です。共に祈り備えてまいりましょう。

本日は、東方の占星術の学者たちの記事より、み言葉を聞いていきます。
彼らはユダヤのエルサレムに全世界の王なる主を探し求めて旅し、遂に神の御子キリストのもとに導かれていくのです。学者たちはベツレヘムでお生まれになったユダヤの王のしるしと思われる不思議な星を見て、ヘロデ王のもとを訪ねます。
この東方の学者は「マギ」とも言われていました。口語訳や新改訳では「博士」と訳されておりますが。それは当時のペルシャで広く知られた天文研究者や自然科学者を指していたようです。彼らは東方から来たとありますが、それはバビロンやペルシャという国の方角です。その地はかつてユダヤの人々が長い間捕囚の寄留民として暮らし、多くの人がそこに移住しました。そう考えますと彼らのルーツはユダヤ人や混血の人かもしれません。あるいは彼らの先祖を通して預言者エレミヤが語った王なるメシアの預言を知るようになった可能性も十分あります。その彼らが特別に輝く星を見つけ、「これは伝え聞いてきた王なるメシア、救い主がお生れになったしるしに違いない。」と確信し、贈り物まで用意して遠く危険な道のりをやって来るのです。いや、すごい信仰だなと思いますが。彼らは夜空の満天の星を見上げる時、天と星をお創りなった主なる神の存在を思い、畏れ敬う確かな信仰が与えられていたのではないかと想像いたします。その神の御子がついに地上に王として来られる。彼らは胸をときめかせながら、遙々エルサレムのヘロデ王の宮廷を訪れるのです。そうして「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちはその方を拝みに来たのです」と、真正面から尋ねるのであります。
主イエスは、「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃっていますが。まさに、この東方の学者たちは、神の救いの御子を礼拝したいという一途な心でエルサレムのヘロデ王の王宮を訪ねるのです。
今日もそれぞれに、主を礼拝するために対面・オンライン如何を問わずお一人おひとりが誰に強いられたわけでもなく、自ら進んでこの礼拝に集っておられます。遠方で1時間いやそれ以上の時間をかけて来られている方、歩くのが大変であるにも拘わらず来られている方、遠回りをして乗り合わせて送迎してくださる方もいらっしゃいます。先週は心臓のカテーテルの手術後間もない方が本当に喜びと感謝いっぱいの思いをもって礼拝に集われていましたね。素晴らしい笑顔でした。

もう15年も前になりますが、ある方が大阪教会のブログに寄せて下さった文章が目に留まりました。
「先日、教会のクリスマス・ツリーの飾り付けをしていたとき10月11日に入信したばかりの9歳のT君も一緒に手伝ってくれた。そのうちに彼は大きな星を見つけて『これどこにつけるの?』と聞いてきたので、その星の由来を説明した。東方の博士たちを導いた星のことを!すると、彼は『僕が飾りたい!その木のてっぺんに飾りたい!』小さい彼にはとても無理な話であった。人の助けが必要であることは勿論である。『ぼくが』という強い意志が彼を動かした。彼を抱っこしても届かない。ツリーは階段近くにあったので、階段の間から手を伸ばす方法を彼は思いついた。その木の先端に手が届く方向へ下にいる者が曲げてやると、苦心の末ついに届いた。見事にその星は定位置に収まったのである。T君の顔は『やった!』という満足感でみなぎっていた。多くの方々の祈りに導かれ、でっかい星を『ぼく』」飾りたいのだと小躍りしたことが遂に実現につながった。背丈が問題ではなかったのだ。T君の意欲が周辺にいる人たちを巻き込んだ。その星が他の飾りに先駆けてあるべき位置に就いたとき、彼のよろこびようは尋常ではなかった。彼は信徒になってはじめてのクリスマスを迎える準備に大役を果たしたのです。じっとしてはおれなかったあの異国の博士たちは遠く山河をこえてエルサレムにやってきた。途上けわしい道もあったであろうが東方でその方の星を見た彼らを導かないはずはないと固く信じてひたすら進んできたと思う。博士たちの努力や熱心が、救い主を見つけたのではない。救い主の誕生と、そのしるしが彼らを動かしたのだ。信仰者があらゆる努力をして救い主を造り出すのではなく、救い主はすでに生まれているのです!」(Y)
ほのぼのとしたエピソードでありますが。その彼も救いの主、キリストを迎え入れてから青年になり今年で16回目のクリスマスを迎えます。
そうですね。この方のおっしゃる通り、東方の博士たちの努力や熱心が救い主を見つけたのではなく、救い主の誕生と、そのしるしか博士たちを動かしたのですね。信仰者があらゆる努力をして救い主を作り出すのではなく、救い主はすでに生まれているのです。この素晴らしい恵みに与るばかりの私たちであります。

さて、東方の学者たちの「ユダヤの王がお生まれになった。その方を拝みに来た」という言葉を聞いた、3節「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」と述べられています。
これは救い主・キリストの誕生が、ユダヤの王ヘロデやエルサレムの人々には決して喜ばしものではなかった事、祝われるような出来事ではなかった事を物語っています。 
そこには神の民としての畏れや渇きはありません。権力を掌握していたヘロデ王にとって、自分に取って代わるような新しい王が誕生するという知らせは、自分の地位や権力を揺るがしかねない都合の悪いものであったのです。エルサレムの住民もまた、自分たちの生活が守られるならよいが、それを揺るがすようなことは不安の材料にほかならなかったのです。
自分のライフスタイルや生活を守ろうとする中で、真正面からみ言葉を聞けない時、祈れない時があるかもしれません。先週の礼拝では、ヨセフが主の天使から「婚約者マリアの胎の子は聖霊によって宿った。」とのお告げを受ける箇所を読みましたが。
事の次第を聞かされたヨセフに驚きと「恐れ」が生じ、彼は非常に戸惑いました。けれどもヨセフはヘロデ王やエルサレムの人々のようにただ「不安を抱く」のではなく、主のみ言葉に目を覚まされ、主に聞き従う歩みへと方向転換されていくのですね。また、ルカの福音書を読みますと、時を同じくして登場する羊飼いたちは、ヘロデ王のように地位や権力もなく、又エルサレムの住民のように安定した暮らしもありませんでした。彼らは自分を守るものを一切所有していない人たちであったのです。一日一日羊を飼う者として生きていた素朴な人たちであり、自然の中で神に祈らずにはいられない人たちでした。にぎやかな街の華やかさから置き去りにされ、町の人たちから疎外されていたその羊飼いたちに、真っ先にあの天使のみ告げ、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という喜びの知らせが届けられたのです。主は、どんな人が最もこの良き知らせを聞いて喜ぶかを知っておられたのです。彼ら羊飼いたちは大変恐れおののくのですが。その恐れは、ヘロデ王やエルサレムの住民たちが抱いた「不安」とは全く違ったものでした。彼らは「自分たちのもとに救い主がお生れくださったという知らせが届くとは、一体どういうことか」という驚きとともに、神さまは私たちを忘れることなく覚えていてくださる」という、偉大な神の愛に心震えたのです。この羊飼いのように素朴で柔らかな心で福音、良き知らせを受け取れる、そんな歩みを続けていきたいものです。

さて、本日の箇所でもう一つ注目したいのは、救い主の誕生をはじめに知り、拝むために探していたのが、ユダヤの人々でなく、ユダヤ以外の異邦の地に住む人々であった、ということです。
それは神の祝福から隔てられていた人びとです。
このマタイの福音書は神の民であるユダヤ人に向けて書かれているのですが。救い主がお生まれになって最初の知らせが届いて、それを大いに喜んで受け取っていったが、何と異邦人たちであったことを記しているのです。キリストによる神の救いはエルサレムから始められ、全世界にもたらされることはイザヤ、エレミヤ、ミカといった預言者たちが語って来た、神のご計画でありました。
世界の王、メシアの誕生について語り継がれた預言は東方の学者たちから始まって今日の私たちキリスト教会にもたらされているのです。
今日の礼拝招詞として申命記4章のみ言葉が読まれました。「しかし、あなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたの神に出会うであろう。」と記されています。
神が主体としてお働きくださるその救いの出来事を一途に求めて、あのキリストを探し当てた東の国の学者たちのように、それは私たちにも語りかけられている生きたみ言葉なのであります。

最後に、ヘロデ王はメシアが生まれる場所についてユダヤの祭司長や律法学者たちに調べさせると、「ベツレヘムです」と答えます。
まあこれは、当時のユダヤでは一般的な理解でした。しかし、肝心なその「時」については何も知らなかったのです。救い主、キリストと出会う上で決定的なことはこの「時」ギリシャ語で「カイロス」ということであります。ギリシャ語にはもう一つ「クロノス」という時を指す言葉があります。こちらは日常的な時間のことです。一方、「カイロス」とは神の時を指しているのです。それは神の宣教の時、神の伝道の時、神の救いの時、神の恵みの時ということです。それは時間的な基軸ではなく、主なる神さまの支配、神の国が歴史の只中に差し込んでくる時であります。
そのカイロス、神の時はいつなのか、それがわからなければ、そのすばらしさを体験することはできません。また、それがどれほど価値あることか知らなければ自分の事とはならないのです。ヘロデ王やエルサレムの住民はせっかく救い主が来られたのに、その時をわきまえ知ることができなかったのです。それは今を生きる私たちにとっても重要な教訓ではないでしょうか。
神の呼びかけ、神のご計画と導き、救いと祝福の出来事が今起こっていることに気づけるか。神の時のしるしを見分け、探し求めながら生きているかどうかにかかっています。
主イエスは、「いつも目を覚まして祈っていなさい」と言われました。神の救い、キリストを探し求めているなら、あの異邦人の学者たちのように、その時、その価値を知らせてくださる神のしるし、聖霊のお働きに導かれ、探し当てることができるでしょう。神はすでに用意して下さっています。

祈りましょう。
愛と恵みの神さま、全世界の人々のためにあなたが救い主イエス・キリストを贈ってくださったクリスマスを前に、今日は東方の星の学者たちの行動から、み言葉を聞きました。私たちは今日こうしてあなたに礼拝を捧げることができます幸いを感謝します。闇のような中にあっても、あなたの救いの星は変わることなく世界中を照らし続けています。神さまその救いの星は私たちがどこにいようとも、どのような折も、曇りであっても、雨が降っても、変わることなく輝き、照らし続けてくださっていることをみ言葉から今日知ることができました。今、クリスマスシーズンの華やぎの中で戦争、気候の変動に伴う食糧問題、疫病や様々な災害があります。あなたは、世界のこの状況を誰よりも知っておられるお方です。主よ、私たちが時を見分け、キリストを見出し、主のみ言葉に聞き従って、あなたの慈愛に生きることができるように導き、助けてください。また、世界にもたらして下さるこの驚くべき救いの喜びと希望を一人でも多くの方に知っていただけますよう、先に福音に与り、生かされている私たちを用いてください。
救いの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。
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共に生きる道

2024-12-10 10:57:46 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ1章18節-25節  

本日も救いの主、復活の主に導かれてアドベントⅡの礼拝を共に捧げております。
アドベントは日本語で待降節です。待ち望んだ救いの主が、遂にお生まれになるという天使の喜びの知らせに始まり、降誕・クリスマスに備えて祈りつつ、歩む時であります。
全世界に与えられた救いの福音は、先ほど読まれましたように聖霊により身ごもったマリアを、ヨセフが天使いのお告げのとおり、「恐れず妻マリアとして迎え入れる」ことによって訪れるのであります。そうして救い主イエスさまはお生まれくださった。クリスマスが来たのです。神がお与えくださる救いの主、イエス・キリストを迎え入れる。ここにすばらしい喜びと平安・平和のクリスマスがあるのです。

今日は、マタイ1章18節~25節より御言葉に聞いていきます。
この主イエスの誕生の予告についてのお話はルカ福音書ではマリアへの受胎告知として記されております。マタイとルカに共通していること、又異なる点を読み取っていくことは意義あることです。マタイの福音書に特徴的なのは、22節において「主が預言者を通して言われていたことが実現するためである」と記されている点です。それはこれまで旧約聖書のエレミヤ書を読んできましたように、ユダの民は捕囚からの帰還と神殿再建を果たしユダヤ人の信仰復興がなされていきますが。その後も、周辺の大国による侵攻、さらに最も厳しい迫害と苦難の時代が訪れるのです。それは旧約聖書外典のマカベヤ記等からも読み取ることができます。その厳しい状況下、かつて預言者たちが語った、「救い主(メシア)の到来の予告」が人々の生きる望みでありました。
マタイによる福音書には歴史の主が、ユダヤの民の苦難を共に担い、導かれたという視点があります。ルカによる福音書ではマリアが、マタイ福音書ではヨセフが「聖霊」のお働きによって導かれ、やがて同じ聖霊によって主の福音が全世界に拡がってゆくのです。この偉大な神のご計画を覚えながら、今日の御言葉に聞いてゆきたいと思います。

さて、ヨセフとマリアは婚約していました。当時の婚約は、結婚と同じ法的効力をもっていたようです。この当時のユダヤ社会では、たいてい女性は12、13歳で婚約をしていたそうですが。マリアが10代前半であったことはほぼ間違いないようですが、ことヨセフに関していえば諸々の説があり、かなり年齢が高かったといわれています。
又、婚約期間はだいたい1年で、その期間を経てから、夫となる人が妻となる人を自分の家に迎えて同居を始める。これが当時ユダヤ式の結婚であったようです。このヨセフとマリアの二人はその婚約期間中であったのです。
ところが、ヨセフは婚約者のマリアが一緒に暮らす前に妊娠したことを知ります。
自分のあずかり知らぬところで婚約者が身重になるという衝撃的な事態は、ヨセフをどんなに失望させ苦悩させたことであったでしょう。
又、彼は神を畏れ敬う人であり、神の律法規定に正しく従う人でしたから、不貞を働いたかも知れぬ女性を迎え入れることなど出来ないと考えたことでしょう。更には、このことが公になれば、彼女はさらしものとなり、裁かれ、最期は石打の刑で母子ともにその命が絶たれる悲劇となりかねない。そんな心配までヨセフの頭をかけめぐっていたのではないでしょうか。それはもう混乱と恐れが入り混じった感情であったのではないかと想像します。
裏切られたことへの苦しさ。又、神と律法に正しくあろうとする思い。そして、自分の良心として何とかマリアと生まれてくる子を守りたいという板挟みの中で悩み考え抜いた末に、彼は良心に正しくあろうと、マリアと密かに縁を切る決心をするのです。

さて、ヨセフがそのように考えていると、主の天使が夢に現れてこう告げます。
聖書の中には「夢」についての記述が多くあります。旧約聖書ではヤコブが夢で天の梯を上り下りする天使を見て力づけられます。ヤコブのその11番目の息子ヨセフも夢を見て、その夢を説いて神さまのご計画が明らかにされ、実現していきますが。このヨセフも夢の中に天使が現れて、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と告げられるのです。
神の御心は実に明快です。主の使いがヨセフに告げたのは「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい。」ということです。箴言19章21節口語訳では「人の心には多くの計らいがある。しかし、主の御旨のみが実現する。」とあります。
ヨセフは律法に基づいて正しさに生きるか。あるいはマリアと子を助けるべきか。迷います。しかしどれを選んだとしても人の計らいは不完全なのであります。心配や後悔がつきまといます。人間ヨセフの正しさの限界がありました。そういう中でヨセフは主の御声に聴き従いました。そこに迷いはありませんでした。私たちは何を規範に歩むべき道を決めるでしょう。主なる神さまは常に生ける御言葉をもって、私たちを導こうとされています。私たちに平安と希望、生きる力と確かさを与えてくれるのです。

さて、ここで注目したいのは、主の使いがヨセフに、「マリアから生まれる子は聖霊によって宿った。」と伝えたことです。ルカ福音書のマリアへの受胎告知の折りは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ1章35節)と天使ガブリエルが伝えています。
このように、マリア、そしてヨセフの身に起こっている出来事は、すべて神のご計画とその御旨に基づき、聖霊によって起されたことなのです。
それは二人にとって、それぞれ自分の思い描いていた歩みとは異なるものであったのです。いろいろな困難や葛藤が起こってくる。しかし、聖書は聖霊に導かれて歩み出すとき、「神の義(ただ)しさ」が明らかになり、確かな人生が切り拓かれ生きて行くことができるのです。
私たちも、聖霊が私たち自身の願望とは異なるかたちで導かれることがあるかも知れません。時にそれは困難な道、茨の道かも知れません。けれどもそれが神の備えてくださる道であるなら、聖霊は常に導かれ、その確かさにある歩みをなすことができるのです。それが「インマヌエル」、神が共におられるという体験です。

ヨセフに話を戻しますが。
誰にも相談できずその苦悩を自ら抱え込むしかなかったヨセフ。どんなに彼は孤独だったでしょう。けれども、そのような孤独なヨセフに主は天の使いを遣わして、すべては主の御手のうちにあることを示されました。自分ではどうすることもできないような現実、理解に苦しむような重荷は、自分の肩にすべてかかっているのではなく、主の大きなご計画の中でなされた出来事なのです。
ヨセフは、自分には神さまが共におられる。これから自分たちが負うことになっていく道には神さまが共におられる。そうした信仰の確信へと導かれていくのです。
24節「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れます。」
信仰の確信により彼は新たな日を歩みだします。それは人の力ではありません。まさしく聖霊の力によって、彼は一切を主に明け渡し、新たな道をマリアと共に主の招きに応えて歩み出すのです。

私たちそれぞれも、日常の中で人としての弱さや無力さを感じたり、苦しみ悩み、葛藤することがあるでしょう。
ひそかにマリアと縁を切ろうとした初めのヨセフと同様、私たちもいろんな困難を覚える状況になった時、自分が正しいと思える考え方で解決しようとするのではないでしょうか。人間的な心遣いや配慮も大事ですが、それを優先するあまり、的が外れた方向へ向かうかもしれません。神さまだけが正解を知っておられ、最善を導き、万事を益とすることがお出来になるのです。世の習わしや模範的な回答でなく、すべての真理の源であられる主の御心がどこにあるのかを謙虚に御言葉から聴き取ってゆく、その姿勢が大切でしょう。それが信仰であります。
ローマ12章2節には、「何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」とあるとおりです。
神の御心に聞き従うとき、私たちの人生の道はまっすぐにされゆきます。まあそうは申しましても、私たちにはそれがなかなか分からない、だからこそヨセフのように苦悩するわけです。そういうもう人の側では何が正しいことなのか、どう生きていけばいいのか分からない、そういう時こそ、ヨセフを信仰に立たした聖霊の力、御霊の導きを求めていきましょう。
「わたしを呼び求めよ。そうしれば、わたしはあなたに答える。」先月エレミヤ書で、主が私たちに語られました。ヨセフはその聖霊のお導きに従ってマリアとその子を迎え入れる新たな一歩を踏み出しました。
ルカ福音書11章13節には、主イエスが「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」とおっしゃっています。さらに、使徒パウロは苦難の時は、ローマ8章26節に「同様に霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどの祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」と記しています。
主によって私たちはこんなにも大きな励ましを頂いているのです。ヨセフとマリアのように私たちも恐れず主を迎え入れましょう。聖霊の確かなお働きに導かれつつ、インマヌエル、「主がわたしたちと共におられる。」命の道を歩んでまいりましょう。
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イエス・キリストの系図

2024-12-01 13:25:54 | メッセージ
宣教    マタイ1章1~17節 アドベント・世界祈祷週終日

いよいよ12月に入りました。今年も残すところ1カ月となりました。また、本日より主イエスのご降誕を待ち望みつつ歩む、待降節・アドベントに入りました。守り支えられている主の恵みひとつ一つを数えながら、クリスマスをお迎えしたいと思います。

本日のアドベントから新約聖書のマタイ福音書より御言葉を聞いていきます。今日はその1章「イエス・キリストの系図」の箇所であります。
新約聖書を初めて手になさった人は、まず、最初にマタイ福音書のこの系図をご覧になるでしょう。そして多くの方が自分と関係のない話だと、もうそこで読む意欲を失ってしまう人も少なくないでしょう。とても勿体ないことです。
しかしこのイエス・キリストの系図は、聖書の「神による救い」とはいかなるものかを示す大切な記事なのです。言い換えますなら、救いを必要とするすべての人に向けられたメッセージともいえるわけです。

それは、旧約のアブラハムの族長時代。次に、イスラエル統一の王であったダビデからの王国の時代。さらに、捕囚と苦難を経験したユダの民が、解放されて神殿再建と信仰の復興を得ますが、再びギリシャやローマといった大国の支配される暗黒の時代。そうした3つの時代を貫き、イエス・キリストへとつながっていきます。それはおおよそアブラハムから2000年もの年月が及ぶものでした。が、私たちはイエス・キリストの誕生からおおよそ2000年を経てきた時代の今を生き、生かされているのであります。

この「系図」と訳された原語は、ギリシャ語で「ビブロス ゲネセオース」という言葉で、「創造の経緯」と直訳できます。ひらたく言えば「いのちの誕生の書」といった意味合をもちます。それは神さまがお造りになられた人の「いのち」が連綿とつながれ、神の創造の業が続けられて来たことを表わしていると言えるでしょう。
普段は系図というと、その由緒、家柄、家系を証明するものをイメージします。まあ王室や皇族方はそれを重んじておられるでしょうが。一般的には家系や血統ということなど普段意識していないものです。
しかし、当時ユダヤの祭司たちは自分たちの誕生から250年前までの父系の系図を完璧に憶えていたそうです。自分が何族であり、主だった先祖から何代目だとか、嗣業の地はどこにあるとかを記憶していました。それは、ユダヤ人たちが長い間、祖国を失った状況の中で、系図というものが自分たちのアイデンティティーを維持する手段の一つになっていったからだということです。そこで自分が「神に選ばれた民」であるという、存在意義を見いだし力づけを受けて、共に結束して生きることができたからです。
だから系図はユダヤ人にとってとても大事なものとなったのです。
ところが、今日のイエス・キリストの系図には、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、マリアと何と5人もの女性が登場しています。先に言いましたように、ユダヤの系図は父方の系図であるにも拘わらず、不思議にもこうした女性たちが登場するのです。

まず、夫を亡くして寡婦となった異邦人タマルは、義理の父であり信仰の父祖ヤコブの子であるユダが、自分を擁護する義務を果たそうとしない冷酷さに苦しみ、神の前に自分の存在を賭けて遊女を装いユダの子孫を宿した女性でした。次のラハブは、異邦の地エリコの町の娼婦として生きざるを得ない女性でした。彼女はエリコの町を偵察に来たイスラエルの遣いの者たちを守るように助けるのです。それは彼女が彼らの主、天地創造の生きた神を信じた「信仰による」と聖書にあります。彼女は後に、イスラエル人サルモンとの間にボアズを生みます。そのボアズは異邦人ルツと出会います。彼女はかつてイスラエル人の夫に先立たれるのですが、その姑の神を信じ、その信仰によってイスラエルの地に住み、ボアズとの間にオベドが生まれます。そのオベトからエッサイ、エッサイはダビデと系図が続きます。この王国時代のダビデの妻というのはバテシュバのことですが。彼女はダビデ王の横恋慕に遭い、その夫ウリヤはダビデの策略によって殺され、ダビデはバテシェバを召しかかえるのです。ダビデというのは偉大な王であり、多くの賛歌を詩編に残した信仰者でしたが、救いの主、イエス・キリストの系図にその深い罪が、隠されないまま赤裸々にされているのです。
では、マリアはどうだったのでしょうか。その素性について何も記されていません。ただわかっているのは、彼女が信仰によってイエス・キリストを受胎し、生み育てたという事です。
この5人の女性たちは、それぞれに悲しみや重荷を背負って生きていましたが。そこで生ける神と出会い、心の底から信頼し、より頼むその信仰によって「神の創造の経緯」であるイエス・キリストの系図に用いられているのです。
人の世では恥となるようなことは隠したい。立派な父方の家系は箔が付くということで、このような女性たちの先祖がいたとしたら、極力隠したままにするでしょう。しかし救い主、イエス・キリストの系図はそれを露わにします。彼女たちはその信仰によって神に認められた人たちであるからです。

救いの神は世にあって如何に弱い立場におかれようとも、罪人と忌み嫌われようとも、生ける神を畏れ、敬い、慕い求める信仰を決して見過ごしにさらず、心に留めていてくださるお方なのです。この信仰による救いが、イエス・キリストの系図を通して示されているのです。
私たちは神の救いに与った者も、この信仰によって神の前に罪を言い表し、信仰によってイエス・キリストを救い主と信じたからです。
神の御独り子、イエス・キリストは、私たちと同じ人間の姿になられ、世にお生まれくださいました。イエス・キリストは「世の人の罪を取り除く神のあがないのための小羊」として私たちのところに来てくださいました。それは私たちが主に立ち返って、キリストにある新しい命に与って生きるためです。
歴史における神の創造の御業は続いています。この救いの主、イエス・キリストの系図に、信仰によって私たちひとり一人もまた連なる者とされているのです。私たちは確かにアブラハムからなる血肉のものではありませんが、神は「アブラハムの祝福によって地上のすべての民が祝福に入る」ことが約束しておられるのです。さらにローマ書13章にありますように、「共におられる主、イエス・キリストによって、私たち異邦人も主イエスへの信仰によって、神の民としての祝福に接ぎ木されて」いるのです。
私たちの存在がどんなに弱く小さく思えても、神の前に立ち得ないような罪人であったとしても、招き給う神は信仰によって、私たちをご自分の民としてくださるのです。何とありがたいよき知らせ、これが福音であります。私たちが主、イエス・キリストによって神に立ち返る道を聖霊によって歩む時、だれもが神の平安と祝福を受け継ぐ者とされるのです。

本日は世界祈祷週間の最終日であります。先にも言いましたが、神は「アブラハムによって地上のすべての民族がその祝福に与る」と語られました。それはイエス・キリストによって実現されているのです。それは又、血肉によらず聖霊の働きであるのです。
イエスは、素性のよくわからないマリアより聖霊の導きによって生まれ、聖霊によって神の国の到来を告げ、聖霊によって十字架の救いの業を成し遂げられました。救いの主、イエス・キリストは血肉、血縁によらず、神の霊によって人の力や業を遥かに超えた神の愛と慈しみを現わされたのです。そのことによって、私たちはまことの神を知り、信じる信仰が与えられ、主の救いに与る者とされているのであります。
今も私たちの社会、世界に目を向けると、ほんとうに暗く、闇のような出来事が起っています。現実の状況に絶望感やあきらめのような無力感さえ漂う世の中です。けれどもこの時代にあってなお、ローマの信徒への手紙8章14節にありますように、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」
私たちの生の全領域において、主が生きてお働きくださっていることを聖霊によって信じ、主の救いの証し人として一日一日を喜びと希望に満たされて歩んでまいりましょう。
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「わたしを呼べ」

2024-11-24 14:13:30 | メッセージ
礼拝宣教 エレミヤ33章1-3節、10-11節   世界祈祷週間        

本日から来週の日曜日まで、世界バプテスト祈祷週間として覚えていきます。それに先立ちお世話下さっている女性会より、世界バプテスト祈祷週間の主旨や祈りの課題等の説明とアピールがありました。日本バプテスト連盟の国内伝道、又国外伝道の働きをはじめ、世界各地において行われています様々な救援活動、和解といやし等の奉仕活動が守られ、世界の至るところで主の栄光が顕わされますよう共に祈ります。

10月から2ヶ月間に亘り読んできましたエレミヤ書、今日で最終回となりました。
先週は、危機的な時代の中で、王に主の言葉を語ったために獄舎に拘留されていた預言者エレミヤが主の命じられたとおりいとこのアナトトの畑を買うというエピソードから聞きました。その畑のある地にはベニヤミン族のレビ人たちが住んでいたのです。
それは、神に対して背を向け続けたことによって崩壊していく町々が、いつの日か回復し、人々が再びその地の畑を売り買いするようになる、というユダの民の希望のメッセージであったのです。

エレミヤは紀元前(BC)627年に預言者としての召命を神から受け、40年間預言者として活動しました。預言者は「見張り人」と呼ばれていました。見張り人は、「見張り台」の上に立って、寝ずの番をして、外敵が襲ってくるのを見張ります。人びとや社会の危機を察知して警告を発する者です。そのような、時代のときを見張る預言者が警告したにも拘わらず、人びとがそれに聞こうともせず、剣によって殺害された場合、その責任はその個々人にあるのです。(エゼキエル33章)
その一方で、預言者が危機を警告しなかったがために死者が出た場合には、血の責任は預言者にあると、預言者エゼキエルの書同33章に記されています。警告を発すべき者が発しないことの責任は重大であることを熟知していたエレミヤは、自ら迫害に遭いながらも、「神に立ち返って、その回復に与るように」と、熱く、誠心誠意をもって民に語りかけ続けます。
エレミヤはエルサレムから4キロほどに位置するベニヤミンの地のアナトトの祭司の息子でした。アナトトはレビ人の町であったようです。(ヨシュア21:17)祭司の系統であり神に仕える働きをするレビ人は他の部族と異なり嗣業の土地を与えられず、他の部族の捧げ物の中から糧を得ていました。また、共同の放牧地で羊を飼って生活をしていたのです。それは神がお命じになったことであり、神はご自身こそが彼らの嗣業となられると、おっしゃったのです。彼らは神に仕える者として敬われることはありましたが、人々の心が神から離れていく中で、レビ人を疎んじられ、流浪の民と見下されることもあったようです。エレミヤはそのような人びとの視座から、神の預言者としての召命を受け、その務めを担うことになったのです。

さて、本日の箇所も、獄舎に拘留されていたエレミヤに神は再び語られます。3節「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる」。
エレミヤが囚われの身となったことは、ユダの民がやがて捕囚の身となることを象徴的に表していました。神の警告を聞かなかったエルサレムは陥落し、荒れ果て、バビロンの支配下におかれてしまうのです。苦しみと将来の希望など持てない状況に置かれていたそのエレミヤに、主が「わたしを呼べ」とおっしゃったのも、ユダの民が苦境の中で絶望することなく、主が「わたしを呼び求めよ」と語られた神の愛のメッセージ(使信)であったのです。預言者エレミヤその者が神の解放、救いのメッセージとしてもちいられていくのです。いや、預言者というのは、本当に大変な任務であるなあと思わされます。

さらに、ここで神はエレミヤに、「あなたに隠された大いなること」、新改訳では「あなたの知らない、理解を越えた大いなる事」を告げようとお語りになりました。それは2節にあるように、「神は創造者、主、すべてを形づくり、確かにされる」お方であるからです。人の理解できることはほんの僅か一部分でしかありません。それさえ正しいかどうかわかりません。しかし主なる神さまは、すべてを確かにすることがおできになられるのです。その主なる神さまが「わたしを呼べ」とお語りになるのです。
こんなにも直接的に、一対一で相対して、「わたしを呼べ」と主が大胆お語りになっているのです。それは先に申しましたように、エレミヤのみならず、苦境におかれる者すべてに向けて呼びかけられているのです。エレミヤ書29章では「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしに出会うであろう。」と主は語られます。この力強い呼びかけに私たちも応え、主を呼び求めまていきましょう。

さて、10節以降には、その「あなたの知らない、理解を越えた大いなること」について語られています。
それは、その神に背を向けて陥落し廃墟と化したエルサレムが、何と再び人びとで満ち、喜び祝う声、感謝と「万軍の主をほめたたえよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美する高が聞こえるようになるという大いなるビジョンがここに示されています。
かつて神に背き腐敗していた民、打たれ、砕かれ、嘆きと後悔ばかりであった民が、日常の生活を取りし、回復してくださった神に感謝し、主をほめたたえる賛美に満ちた活き活きとした礼拝がささげられるのです。今年の大阪教会のテーマをみなさん覚えておられるでしょうか。「まず、礼拝から」ですね。その「まず、礼拝から」の本質は、主の大いなる解放と救いに感謝を携え、「主をほめたたえよ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主の御名がほめたたえられ、賛美されるところにございます。
「わたしを呼べ」と仰せのとおりに、「主よ」と呼び、叫び、祈り求める者の声に、主はお答えくださるのです。そしてその声が、やがて喜びと感謝、主をほめたたえる賛美の声に変えられるのですね。それこそが、主に信頼して生きる者の希望であります。

先週の礼拝後、肺炎の重度化で緊急入院をされているMさんの状況について担当医師はかなり深刻であるということと、検査や治癒についてもまだ当分の日数はかかるということをお嬢さんから伺いましたので、祈祷会に参加されている方々と共にお祈りしました。又、朝の早天祈り会でも祈りました。さらに先週の礼拝後、Mさんのお連れ合いとお嬢さん、教会員の有志の方々と共に、「わたしを呼べ」と仰せになる主に信頼し、「主よ、おいやしください」と思いを一つにして共に祈りました。すると、その日の夕方、何と吉田さんの主治医から、もう退院しても大丈夫ですよ、というお話しがあったという、ご連絡があったのです。まさに、すべて主によってなされたという以外無いような出来でした。思わず、「ハレルヤ、感謝します」と、主をほめたたえました。
先日も、やはり途方に暮れていたときに、「わたしを呼べ」という、御言葉にすがり「主よ」と祈ったところ、即座にその祈りが答えられる出来事が起りました。信仰は御言葉による体験です。御言葉によって祈り、神の霊の力の証明を確認して生きる。これこそ神が私たちに期待している、生きた信仰の生活です。主は生きておられ、わたしたちが主に信頼し、祈り求めることを喜んでいてくださいます。又、教会の祈りに神さまが即答してくださることを私自身経験してきました。それがたとえ思っていた通りでなくても、後になってみると最善なことであったということもあります。主イエスは「はっきり言っておく。どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ17:19)そのように言われています。
コロナ禍で集うことが困難になった2年間、信仰によるつながり、教会性を保っていくために、お一人おひとりの近況とともに、祈祷課題を載せたメールや郵送を続けました。「祈りの輪」という名をつけましたが。コロナ禍も落ち着きを見せた時点で、直接お会いできるなら、と一旦祈りの輪は終りましたが。しかし本日の「わたしを呼べ」との主の呼びかけに再びわたしたちっが心を合わせて応えていく時が来たと思っています。
私たちはもっと、「わたしを呼べ」と仰せになるこの主に期待をしていいのです。私たちがもっともっと主に依り頼み、祈り求めるところに主は答え、わたしたちのまだ知らないような大いなることを表わしてくださるでしょう。そしてそれは「主は我らの救い」と、心の底からほめ歌う、賛美へと変えられていくと信じます。
信仰という希望の道を与えられた者として、互いを祝福し祈りましょう。神が創られた世界を祝福し祈りましょう。神の国の地上における実現を祈り求めてまいりましょう。

祈ります。
主よ、互いに祈りに覚え合うことにより、平安と神の国の喜びを知ることができますように。
主よ、教会の主にある霊的交わりによって、神への期待と信頼を学ぶことができますように。
主よ、今日は特に、世界各地の友を覚えて祈る世界祈祷週間ですが。苦しみと困難の中で祈る友、平和を造り出そうとする友、厳しい状況下で子どもたちに教育を得させ、将来に希望を育もうとする友を覚え、あなたの守りと祝福がありますように。
主よ、全世界があなたの御名を高く掲げ、賛美する日が一日も早く訪れますように。
主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン。
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希望の言葉

2024-11-17 14:06:47 | メッセージ
礼拝宣教  エレミヤ32章6-15節、36-44節  

「希望」とは何でしょうか。「実現を待ち望むこと。」です。私たちの日常においても「希望」があるから生きることができます。当座の目標や目的を立て、それに向かって努めています。Gemiさん、Eimiさん夫妻が12月に日本語の検定試験を受けられるとのことです。みなさんもお祈りに覚えてください。お二人はきっと、希望をもってその実現を待ち望んでいることでしょう。私たちはそれぞれに人生の課題やその時々の困難があるかと思いますが。「希望」が生きるうえで大きな力と支え、元気の元になっているといえるでしょう。
本日はエレミヤ書32章から「希望の言葉」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

ユダの民の都であったエルサレムはバビロンの軍隊に包囲されるのです。そのような中エレミヤはユダの王宮にある獄舎に拘留されていたのです。それはエレミヤがユダの王に「バビロンと戦っても負けるので止めなさい」との主の言葉を語ったため、それに反感を抱いた王がエレミヤを拘留したのです。このような絶望的な状況の中で、「伯父の子ハナムエルの畑を買え」という主の言葉がエレミヤに臨みます。(32:6-7)
エレミヤがそうした中でも主の言葉を敏感にキャッチできたのは、たえず主と相対してきたからです。人からは理解されず反感を買うような時も、又、投獄という不条理ともいえる境遇の中でも、彼は主に相対して祈り、訴え、嘆きつつも、同胞の民のために執り成し続けたのでした。そうした神との関係性を保っていたエレミヤに、主は御言葉をお与えになるのです。
彼はエレミヤ書15章16節でこう言っています。「あなたの御言葉が見いだされたとき わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び躍りました」。
どんなに神の御心を伝えても、世間は彼の言動を理解しようとせず、エレミヤは涙の預言者と言われていますが。彼はその中で主の御言葉を切に求め、主に依り頼み、主を望みとして希望を抱き、生きたのです。
それにしてもユダの全土が間もなくバビロンの手に渡るような中、しかも監禁されているような時に、一体だれが「畑を買う。」そんなことをするでしょう。一体何になるというのでしょう。それが常識というものです。
そういう中、主のお言葉通り、親族のハナムエルがエレミヤの監禁されている獄舎に来て、「アナトトの畑を買ってください。あなたに親族として相続し所有する権利があるのですから、どうか買い取ってください」と申し出たというのです。
こうしてエレミヤは主のお言葉どおり、ハナムエルからその畑を、銀17シュケルを量って買い取り、購入証書をもって契約を完了することになるのです。(32:6-12)
それにしても一体なぜ主は、そのようなことを命じられたのでしょう。
獄舎に囚われているエレミヤがその畑の所有権を持つことは、この後ユダの地がバビロンの支配下におかれたとしても、やがてはユダの民が再び帰って来て、それを所有するようになる。そのような回復の実現を象徴的に表していました。しかもそれは「神の新しい契約」でした。先週も申しあげたように、神の契約には神の熱情の愛が伴います。罪にまみれたユダの民を神は正しく裁かれますが、主は熱情の愛をもってなおも愛し、再びその地に連れ帰り、これを与えると言われるのです。この約束の言葉は、やがて土地を奪われ絶望的状況に陥ったユダの人々の希望となっていきます。

私たちは苦難に遭い自分ではどうすることもできない時にどうするでしょうか。聖書は、主の御言葉の約束をにぎりしめ、決して落胆せず祈り続けるようにと奨めています。そこから主との信頼は築かれ、希望と平安に生きる確かな道が拓かれていくのです。日ごろから主との信頼関係を築いていくことが大切です。そうでないと、いざ何か起こるとすぐにつまずき、祈ることも出来なくなります。主イエスは、「暗闇に追いつかれないように光のあるうちに歩みなさい」(ヨハネ15:34)と言われました。暗闇に追いつかれないように、主と共に生きていることが大事です。自分の力が尽きて、どうすることもできないような状況になった時に祈りを知らず、生ける神の御言葉を思い出せず、主の御手の業に期待できないなら本当に残念なことです。主はすべてをご存じのお方ですが、私たちがそこで主と向き合うように語り合うように祈る。その生きた関係性をもたなければ、何も始まりません。高慢になって自分のことぐらい自分で出来る。放っておいてくれ、と考えている間は、主がいくらお語りになっても、それをキャッチすることができないのです。主は、心砕かれ、主を呼び求める者の声を聴き分け、御許に引き寄せてくださるのです。祈り求める者に生きた御言葉をお与えになります。エレミヤのように私たちも、主の御言葉をキャッチできる心を持ち続けたいものです。

さて、畑の売買契約後、エレミヤはその証人たちとそれを見ていた獄舎の全てのユダの人たちに主の言葉を語ります。
14節、15節「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。これらの証書、すなわち封印した購入証書と、その写しを取り、素焼きの器に納めて長く保存せよ。イエスラエルの神、万軍の主が、『この国で家、畑、ぶどう畑を再び買い取る時が来る』と言われるからだ」。
主なる神は、バビロンの侵攻とその捕囚後、長い時間を経たのちに、捕囚の民はユダの地に帰還し、家や畑を再び買うようになると告げられました。その預言の象徴的行為として、エレミヤはこの荒れ果てたぶどう畑を買い取るのです。それはその場に立ち会った人たちの記憶にしっかりと刻まれたことでしょう。それが後の世のユダの人々の希望となっていくのです。


本日のもう一箇所の37‐42節を見てみましょう。
そこにも破壊されたエルサレム、ユダとその民を主が回復される約束が預言されています。
ユダの民は神が語られた言葉への背信と罪のゆえに、剣と飢饉と疫病により破壊され、バビロンの王の手にわたされていました。多くの人々がその破壊されたエルサレムに、もはや回復の余地はないと考えます。しかし主は何といわれるでしょう。
37-38節「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰られ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」。
これは驚くべき神のご計画です。神はユダの民が悔い改めの後、民を新たにされるのです。

その回復の約束は、第1に、「約束の地への帰還」です。
神でないものを神として拝み、忌むべき行いを止めず、神の強い怒りを引き起こしたユダの民。彼らは神の裁きとして約束の地から追われ、諸国に散らされますが。しかし主は、その散らされた民をすべての地から集め、再び約束の地に帰らせ、安らかに住まわせようと、約束されるのです。
第2の回復の約束は、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」と語られます。
罪による裁きによって国を失い、散らされたユダの民。しかし主はなおも、その民を背信の滅びから救い出し、新しい契約を結ばれるのです。
主は39節で、「わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫とによって幸いとなる」と語られます。
主は民の心を新しくされます。それは民の内面的変化、覚醒による神との関係性の回復です。ユダの民が罪に陥ったのは、神への背信と忌むべき行いからでした。しかし、後に主に立ち返り、悔い改めと救いを待ち望む日々を通して、主は彼らに「一つの心と一つの道を与え」、主の御心に生きるようにされるのです。
主は40節で、「わたしは彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることがないようにする。」と語られます。
主の裁きは、民を滅ぼすことが目的ではありませんでした。彼らが主に立ち返って「主の民となり、主が彼らの神となる。」しかもそれを「永遠の契約」として結び、神の民の世々の子孫に恵みを与えてやまないとまで仰せになるのです。これこそ天地を創造され、私たちのいのちの源であられる主なる神さまの望まれる御心なのです。
さらに41節で、「わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える。まことに、主はこう言われる。かつて、この民にこの大きな災いを下したが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える」。と仰せになります。
ちなみに口語訳では、「わたしは彼らに恵みを施すことを喜びとし、心を尽くし、精神を尽くし、真実をもって彼らをこの地に植える。」となっています。何と、ユダの民が神さまに対して心を尽くし、精神を尽くしてということではなく、神さまご自身が「心を尽くし、精神を尽くし」て彼らを約束の地に植える、との回復をなさるというのです。それは42節で、主が「かつてこの民にこの大きな災いをくだしたが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える。」とありますように、ユダの民の罪を神は、厳格に裁かれ、懲らしめをもって臨まれるのでありますが。主が心に望んでおられることは、主御自身が彼らのために心を尽くし、精神を尽くして、回復を与えると仰せになられるのです。神の愛はその民に対してどこまでも誠実で変ることはありません。その主の誠実な愛は、キリストにより神の民として接ぎ木された私たちに対しても変わることはありません。

さて、ここまでエレミヤを通して主が語られた「回復の約束」の言葉を読んできました。
43節以降には、ユダの地の全土で人々はまた畑を買うようになる。と主は回復の予告をされます。それはユダの全土で見られるようになるというのです。その最初に回復される土地をエレミヤが売買契約したアナトトの畑のあったベニヤミン族の地であると告げられています。
ユダの民はバビロンの捕囚から解放され、約束の地に帰還が適ったとき、再びエレミヤが先に買い取ったアナトト畑があるベニヤミンの地をはじめ、エルサレムの周辺、ユダの町々、山あいの町々などで畑を買うようになるのです。エレミヤが主のお言葉通り、荒廃していたぶどう畑を買い取ったのは、人々が絶望の中で主の言葉に希望を見出して生きるためでした。
ヘブル人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」とあるとおり、彼らはエレミヤを通して示された神の言葉を希望として待ち望み、遂にその実現を確認するに至るのです。

私たちはどうでしょうか。いかに揺さぶるような出来事が起りましても、神が与えて下さる救いと命のことばを確信し、確認の日々をもって希望としているでしょうか。
今日の世界をとりまく状況、この日本の状況も、このエレミヤの時代のように「国々は騒ぎ立ち、地の面は揺さぶられている」事態といえますが。これを主イエスは「生みの苦しみ時」(マタイ24:8)と言われました。それは大変厳しく困難苦ともいえます時代の中にあっても、主が再び来られるという、主の来臨の希望が語られているのです。今、与えられたわたしたちの命の日々が、その希望の実現に向けた歩みとなりますよう、祈り求めてまいりましょう。
お祈りします。
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新しい契約によって生きる

2024-11-10 14:09:59 | メッセージ
礼拝宣教   エレミヤ31章27-34節   

本日はエレミヤ書31章から「新しい契約によって生きる」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
聖書は新約と旧約とからなっております。そのどちらにも約束の「約」がついていますが。これは契約を意味しております。神が人と契(ちぎ)りを結んだ、約束を交した。聖書は言わばその誓約書であるとも言えるでしょう。
この世の中も「契約」社会として、物を買ったり、保険に加入するにも、家を建てたり住宅を借りるにも、又就職するのにも、相手があり、契約を交わします。大阪教会の会堂建築も建築業者との間で請負契約を互いに取り交わした時は大変緊張しましたが。双方の契約内容は守られ無事完成に至り幸いでありましたが。契約には互いの信頼関係、信用を基にした誠実さが求められます。まああってはならないことですが、契約した約束事に違反するようなことが起これば、契約は破棄されて大変なことになってしまうわけです。旧約聖書の時代、ユダの民は神との契約を軽んじ、自ら滅びを招いてしまいました。祝福をもたらすはずの契約が破綻してしまったのです。しかし神は彼らを見放してはおられませんでした。
なぜ神は、呼びかけにそむき罪に滅びるような民を、なおも導き救いの回復をお与えになるのでしょうか。

今日は神が人と約束された「新しい契約」についての記述から、まず「神の救いの確かさ」を読み取っていきたいと思います。
32章27-28節にこう記されています。「見よ、わたしがイエスエルの家とユダの家に、人の種と動物の種をまく日が来る、と主は言われる。かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる」。
神は打ち砕かれた彼らを回復、復興なさるというのです。
この「見よ、わたしが」とのお言葉には、主なる神さまの力強い再創造の業が宣言されています。そのむかし神は、出エジプトしたイスラエルの民と契約を結ばれました。彼らが祝福に与るか、滅びに至るか、その契約にかかっていました。
これについて神は、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(19章5節~6節)と言われました。
イスラエルとユダの家が神に信頼をし、忠実に従うのなら「神の民」として祝福されるのです。しかしこれに反して不信と背信とに生きるなら、厳しい裁きがなされるという警告がなされたのです。にも拘らずイスラエルの民は、度々その神との契約を軽んじ、欲するままにふるまい続けるのです。このユダの民はエレミヤの再三にわたる「悔い改めよ、主に立ち返れ」という警告にも拘わらず、罪を犯し続け、遂に先の北イスラエル同様、崩壊して捕囚の民となってしまうのです。その彼らの中には、「神に見放された、見捨てられたのだ」と言う者もいました。
しかしそうではありません。神はそのような彼らを断腸の思いをもって「立ち返って命を得よ」と、見守り続けておられたのです。
北イスラエルと南ユダ王国の崩壊で何もかもが終わったように見えました。けれども、そうではなかったのです。神は後に実現する「新しい契約の日」に向け、「今、わたしは彼らを建て、また植えようとして見張っている」とおっしゃるのです。神は決して民から目を離してはおられないのです。たとえ絶望的といえる状態であっても、神は決してお見捨てになることなく、彼らがゆるしの恵みによって新しく創造されていくようにと、見守り導かれようとしておられたのです。

さらに29節を見ますと、「人々はもはや言わない。『先祖が酸いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く』と。人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。」とあります。
国の崩壊と捕囚の惨禍は、確かにその時社会を腐敗させ、又それを容認していた世代の責任とも言えるでしょう。しかし新たな世代は次の時代をどう生きるかが問われているのです。先祖の後を追うように背信の道を行くのか。神に立ち返って生きるのか。それが各人に問われているのです。神は一人ひとりが神に立ち返り、新たな一歩をあゆみゆく者が祝福を受けるようにと望んでおられるのです。私たちも又その祝福に与るものとされてまいりましょう。

さて、その「新たな契約」についてでありますが。
31-33節に「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはわたしの契約を破った、と主は言われる。しかし来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と語られています。
神さまは新しい契約について、「わたしの律法(御心)を人の胸に授け、人の心にそれを記す」と語られました。エゼキエル書36章26節には、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊をおく。」とも語られています。
かつてエジプトから導き出された時に結ばれた神の契約は「十戒」に基づくもので、それは本来神の民とされた彼らが祝福に満ちた世界を築くために与えられた高い倫理性をもった優れた戒めでした。しかいイスラエルの民はその戒めを軽んじ、逆らい続けたのです。再三にわたる預言者たちの「悔い改めよ、神に立ち返れ」との警告に対しても民は聞く耳を持ちませんでした。そうした彼らの不誠実によって遂に始めの契約ははたんしてしまい、北イスラエル王国、そして南ユダの王国は崩壊し、捕囚の民となるのです。
それにも拘わらず神はその民から目を離されることなく、なんと彼らと「新しい契約」を結ぶ日が来る、と予告されるのです。
始めの契約は石に刻まれた戒めが民の指導者モーセを通して授けられましたが。この新しい契約は、「神御自身が彼ら一人ひとりの胸の中に授け、その心に記す」というのが大きな特徴であります。ユダの民はその後、捕囚から解放され、その歴史を省みて心新たに神殿の再建の着手や神への信仰復興へと歩み出します。しかし世の戦いは険しく、民はその後も時代に翻弄されながら、様々な厳しい迫害の時代を経験するのです。
その後(のち)ユダヤの民がローマ帝国の植民地下におかれていた時、遂に神の御子イエス・キリストが世に誕生なさるのです。それはエレミヤ、又エゼキエルといった預言者が、「神自ら人の胸の中に授け、人の心にそれを記す」「新しい心を与え、人のうちに新しい霊をおいて、石のようなかたくなさを打ち砕き、柔らかくしなやかな心を与える」と語られた新しい契約の実現の始まりでした。エレミヤによって語られた預言の言葉は、神の御子イエス・キリストによって実現されていくのです。神によって始められた主の救いの実現の出来事は、今も時代を超え世界のいたるところで、新しい霊をもって人のかたくなな石の心を取り除き、柔らかな肉の心を授け、新しい人に造り変えられる再創造の出来事として起こり続けています。
34節「彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる」。
「主を知る」。それはまさに、神さまの側のお働きと導きであり、聖霊のお取り扱いになされます。「神は生きてお働きになられる」「神はわたしと共におられる」という確信、その信仰の体験によって私たちは神の前に日々新しく創造されていくのです。そこから世にはない喜び、感動が溢れ出てくるのです。

ところで皆さまは聖書の神をどのようなお方であるとイメージするでしょうか。私たちは聖書の中にそのお姿を垣間見ることができるでしょう。創造主、クリエーターなるお方。あるいはご自分の民を教え導き、正しく裁かれる厳格なお方。そうでしょう。
31章3節には「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し 変ることなく慈しみを注ぐ」。さらに20節「神がエフライム(これは北イスラエルのことですが)、エフライムはわたしのかけがえのない息子 喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り わたしは彼を憐れまずにいられないと主は言われる。」とありますように。神さまは「熱情愛をもつ、いつくしみ深いお方である」と言い表されています。
ご自身に逆らい続け、罪の滅びに向かう民に対して、神の愛は常識をはるかに超えています。             わたしは彼を憐れまずにはいられない」と主は言われます。
この神の愛はヘブル語でヘセド、「憐み」と訳されます。それは神さまが人と契約を結ぶときに伴う神の熱情的な愛を意味します。「神はとこしえの愛をもってあなたを愛し 変ることなく慈しみを注ぐ」「彼のゆえに、胸は高鳴りで、わたしは彼を憐れまずにいられない。」お方なのです。
世にあって私たちは様々な困難や苦難があるでしょう。けれどもそれは、神が私たちを子として取り扱っておられるからです。神は試みの中で私たちが神に信頼して生きるように願っておられるのです。これはご自分の宝の民とされるためです。私たちが失敗した時も、弱った時も、もがき苦しむ時も、神は契約に伴う熱情の愛といつくしみで私たちを愛してくださるのです。
かつてイスラエルの民は神に選ばれ宝の民とされました。申命記7章7節によれば、「主が心引かれて選ばれたのは、あなたたちがどの民より数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対することのゆえに、」とあります。しかし、民は高慢になり、主のその愛を忘れてしまいました。神の憐れみ、熱情的な愛によらなければ彼らは滅んでしまったことでしょう。
私たち一人ひとりも又、主イエスにある新しい契約のもとこのいつくしみ深い、熱情の神の愛を受けて今を生かされていることを忘れずに日々心新たでいたいものです。
主は言われます。34節「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。
神は罪に滅びるほか無いような人間を深く憐れみ、熱情の愛を注いでいて下さる。私たちはこの事実を主イエスの十字架に血を流されるとてつもない代償によって知り、信じることができます。その大いなる赦し、救いが私どもにももたらされているのです。
この神の熱情の愛が注がれていることを忘れて高慢になることがないように、私たちの胸の中に主の十字架の愛のお姿を刻んで歩んでまいりましょう。日々感謝と賛美をもって、主の良き知らせを伝え、証しするものにされてまいりましょう。新しい契約に与った者として。
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