礼拝宣教 マタイ10章16-31節
主イエスは弟子たちとともに「天の国は近づいた。悔い改めよ。」と宣べ伝え、救いの業を証しし、行なうために弟子達を選ばれます。主イエスに従っていく決意をした彼らは「よし、イエスさまの弟子としてここは一つ頑張ろう。」というような高揚感と期待を持っていたのではないでしょうか。
ところが、主イエスがその弟子たちにお語りになったことは、「迫害と苦難」の予告であったのです。
主イエスを信じる決心をした事を身近な家族や友人や人に話すと、思いがけない激しい反発を受けた、縁を切ると言われた、いわゆる迫害を受けたという人が世の中には多くおられるでしょう。
日本では仏壇をどうするのだとか、同じ墓に入れないのではとか、親族の目を気になさる家もあります。そこには大事な家族を得体もしれないものから奪われてしまうといった不安もあってのことでしょうが。家族が理解してくれないのはつらいことです。又、御言に従って生きて行こうとするとき、職場、地域、仲間内の関係性が揺さぶられ、軋轢が生じることがあります。私たちが本気で主に従っていこうとするとき、そこには多かれ少なかれ摩擦や衝突が起こり、主のもとから引き離そうとする力が働きます。それは天の国の訪れをもたらす証しと働きを阻もうとする力といえます。
主イエスは弟子たちに向けて言われます。
「わたしはあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」
神学校を卒業する時の卒業礼拝において「わたしはあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」との主イエスのお言葉からのメッセージが語られることが時にありますが。私の大先輩の牧師から伺ったことですが。その方が卒業されると時、この箇所から神学生のことをお見通しの神学校の教師がメッセージの開口一番に、「わたしはあなた方を遣わす。それは、羊の群れに狼を送り込むものなのだ。」と羊と狼を言い換えて語られ、その場が笑いに包まれたということでした。
ただの頑張りや気負いで行こうとしますと、御心も人の心も見えなくなりがちです。ではどのように主イエスの福音を伝え、証ししていったらよいのでしょうか。
主イエスは続けておっしゃいます。
だから、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
この言葉は巷でも使われていています。鳩のように素直で優しいだけでは人につけいれられ、だまされてしまう。蛇のような巧妙な賢さを身に着けることも必要だといういわば処世術のように説かれていますが。主イエスは単にそうした意味でおっしゃったのではありません。
聖書が語る「賢さ」とは、神を知ることなのです。
まあ蛇と言えば、創世記のエデンの園にも出てきますが。蛇は大変賢い生き物でした。ところが、神を侮り、人を神に背かせて、神の裁きを受けて地を這うものとなるのです。どんなに頭が良く物知りであっても、蛇を創られた神の御心に背くなら一体何になるでしょう。神の御心に生きる賢さを戴いてまいりましょう。
また鳩は、ノアの箱舟に出てきますが。そのノアは、「神に従う無垢な人であった」と聖書に記されています。主イエスは、たちえ迫害にあっても、自分の知識や知恵に勝る御心に聞き、無垢で混じりけのない、純粋さをもって生きなさい、と弟子たちに勧めておられるのです。
この主イエスが「悔い改めと天の国」の到来を告げ、いやしや悪霊を追い出しておられた時、宗教指導者や律法の専門家たちは、イエスが神を冒涜していると敵視していたのです。それは彼らが自らの知識や知恵を過信し、心が神から遠く離れているからだと主イエスは投げかけられました。
その彼らの妬みと敵意によって主イエスは十字架にかけられるのですが、その後には弟子たちにも迫害が及んでいくことになります。
しかしそれは、反対者や総督や王、さらに異邦人に証しする機会となったのでした。
そしてその証しは、「何をどう言おうか」というような自分の頑張りや知識によるのではなく、19節「そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語って下さる、父の霊である。」すなわち、共におられる聖霊があなた方の中でお語り下さるというのです。
26節以降でも主イエスさま、「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」と仰せになるのです。この主イエスの御言はどんなに大きな慰めと希望ではないでしょうか。
話は変りますが。悪しき権力によっておとしめられた袴田巌さんの冤罪が長い長い年月を経てようやく明らかになりました。又、森友学園問題に関わる財務省に対して、管理する関係資料を全面公開するよう命じる判決が出されました。国は上訴を断念しました。亡き夫の理不尽な死の真相が明らかになるまでとの信念貫き続け、訴え続けて来られたAさんの切実な願いが前に進みましたが。
今後その真相の全容が明らかになることを願います。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」とのこの言葉には力と真実があると改めて思いました。
この主イエスが言われる「覆われているもの、隠されているもの」とは、「神の奥義」でありますが。
「ヨハネの黙示録」の「黙示録」はギリシャ語で「アポクリファ」と言いますが。それは「隠している覆いを取り除く。」という意味です。それが示され記されたローマ帝国の迫害の時代、その闇の中で覆い隠されていた神のご計画が遂に明らかにされ、書き留められるのです。それはイエス・キリストによる神の救いと、キリストの来臨に向けた神のご計画です。
どんなに世の力が働き、封じ込めようとしても、その神の奥義と救いはやがて明らかにされてゆき、すべての人に知られるのです。主イエスを通してもたらされた神の御心とご計画を信じ従ってゆく信徒たちは、キリストの来臨によってすべてが明らかにされるその時を待ち望み、苦難の中でなお主の福音を伝え、証しを立ててきたのです。
主イエスは、27節「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」28節「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と、力強く語られます。
私は、おそらく皆さまも、体が傷つけられ、殺されたりなどとは、正直なところ想像もしたくないことなので、ここを読むと怖い気がいたします。
ここでイエスさまが強調なさっているのは、どんな時も信仰の告白と証しをもって生きること。
そして、人ではなく、神こそ恐るべきお方であるということです。「魂までも滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」神こそがいのちにおいても裁きにおいてもいっさいの主であられます。この主なる神こそ恐れよと、イエスさまはおっしゃっているのです。
29節「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
1アサリオンは当時のユダヤの最小貨幣で、日本でいえは1円といえましょう。雀二羽で1円ですから一羽の雀の価値といえば1円の半分というということになり、もはやこの世的には値打ちがないとも言えるほどのものかも知れません。けれども父の神は、その価値の無いように思える存在をもよくご存じで、そのお許しがなければ、地に落ちることはない。つまり生きるも死ぬも全てを司っておられると言われるのです。
それどころか、「あなたがたの髪の毛一本までも残らず数えられている。」それほどまで私たち一人ひとりをよく知っていてくださるのです。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」何と大きな幸い、慰め、希望でしょうか。
最後になりますが。毎年2月11日には信教の自由を守る尊さを覚えて祈る集会が持たれています。
私たちは毎週このように礼拝を捧げる自由が与えられています。まこと神を高らかに賛美し、祈り、聖霊の導きによって御言を聞き、主を信じる自由が与えられていることは、何にも替えがたいものであります。しかし戦争、紛争等で世界には信教の自由、思想信条の自由が脅かされている人たちが多くいます。その人たちに平和と信教の自由、思想信条の自由が与えられていきますよう、今後も共に祈り続けていきましょう。