日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

恐れず語れ

2025-02-09 16:27:55 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ10章16-31節 

主イエスは弟子たちとともに「天の国は近づいた。悔い改めよ。」と宣べ伝え、救いの業を証しし、行なうために弟子達を選ばれます。主イエスに従っていく決意をした彼らは「よし、イエスさまの弟子としてここは一つ頑張ろう。」というような高揚感と期待を持っていたのではないでしょうか。
ところが、主イエスがその弟子たちにお語りになったことは、「迫害と苦難」の予告であったのです。
主イエスを信じる決心をした事を身近な家族や友人や人に話すと、思いがけない激しい反発を受けた、縁を切ると言われた、いわゆる迫害を受けたという人が世の中には多くおられるでしょう。
日本では仏壇をどうするのだとか、同じ墓に入れないのではとか、親族の目を気になさる家もあります。そこには大事な家族を得体もしれないものから奪われてしまうといった不安もあってのことでしょうが。家族が理解してくれないのはつらいことです。又、御言に従って生きて行こうとするとき、職場、地域、仲間内の関係性が揺さぶられ、軋轢が生じることがあります。私たちが本気で主に従っていこうとするとき、そこには多かれ少なかれ摩擦や衝突が起こり、主のもとから引き離そうとする力が働きます。それは天の国の訪れをもたらす証しと働きを阻もうとする力といえます。

主イエスは弟子たちに向けて言われます。
「わたしはあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」
神学校を卒業する時の卒業礼拝において「わたしはあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」との主イエスのお言葉からのメッセージが語られることが時にありますが。私の大先輩の牧師から伺ったことですが。その方が卒業されると時、この箇所から神学生のことをお見通しの神学校の教師がメッセージの開口一番に、「わたしはあなた方を遣わす。それは、羊の群れに狼を送り込むものなのだ。」と羊と狼を言い換えて語られ、その場が笑いに包まれたということでした。
ただの頑張りや気負いで行こうとしますと、御心も人の心も見えなくなりがちです。ではどのように主イエスの福音を伝え、証ししていったらよいのでしょうか。
主イエスは続けておっしゃいます。
だから、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
この言葉は巷でも使われていています。鳩のように素直で優しいだけでは人につけいれられ、だまされてしまう。蛇のような巧妙な賢さを身に着けることも必要だといういわば処世術のように説かれていますが。主イエスは単にそうした意味でおっしゃったのではありません。
聖書が語る「賢さ」とは、神を知ることなのです。
まあ蛇と言えば、創世記のエデンの園にも出てきますが。蛇は大変賢い生き物でした。ところが、神を侮り、人を神に背かせて、神の裁きを受けて地を這うものとなるのです。どんなに頭が良く物知りであっても、蛇を創られた神の御心に背くなら一体何になるでしょう。神の御心に生きる賢さを戴いてまいりましょう。
また鳩は、ノアの箱舟に出てきますが。そのノアは、「神に従う無垢な人であった」と聖書に記されています。主イエスは、たちえ迫害にあっても、自分の知識や知恵に勝る御心に聞き、無垢で混じりけのない、純粋さをもって生きなさい、と弟子たちに勧めておられるのです。

この主イエスが「悔い改めと天の国」の到来を告げ、いやしや悪霊を追い出しておられた時、宗教指導者や律法の専門家たちは、イエスが神を冒涜していると敵視していたのです。それは彼らが自らの知識や知恵を過信し、心が神から遠く離れているからだと主イエスは投げかけられました。
その彼らの妬みと敵意によって主イエスは十字架にかけられるのですが、その後には弟子たちにも迫害が及んでいくことになります。
しかしそれは、反対者や総督や王、さらに異邦人に証しする機会となったのでした。
そしてその証しは、「何をどう言おうか」というような自分の頑張りや知識によるのではなく、19節「そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語って下さる、父の霊である。」すなわち、共におられる聖霊があなた方の中でお語り下さるというのです。
26節以降でも主イエスさま、「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」と仰せになるのです。この主イエスの御言はどんなに大きな慰めと希望ではないでしょうか。

話は変りますが。悪しき権力によっておとしめられた袴田巌さんの冤罪が長い長い年月を経てようやく明らかになりました。又、森友学園問題に関わる財務省に対して、管理する関係資料を全面公開するよう命じる判決が出されました。国は上訴を断念しました。亡き夫の理不尽な死の真相が明らかになるまでとの信念貫き続け、訴え続けて来られたAさんの切実な願いが前に進みましたが。
今後その真相の全容が明らかになることを願います。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」とのこの言葉には力と真実があると改めて思いました。

この主イエスが言われる「覆われているもの、隠されているもの」とは、「神の奥義」でありますが。
「ヨハネの黙示録」の「黙示録」はギリシャ語で「アポクリファ」と言いますが。それは「隠している覆いを取り除く。」という意味です。それが示され記されたローマ帝国の迫害の時代、その闇の中で覆い隠されていた神のご計画が遂に明らかにされ、書き留められるのです。それはイエス・キリストによる神の救いと、キリストの来臨に向けた神のご計画です。
どんなに世の力が働き、封じ込めようとしても、その神の奥義と救いはやがて明らかにされてゆき、すべての人に知られるのです。主イエスを通してもたらされた神の御心とご計画を信じ従ってゆく信徒たちは、キリストの来臨によってすべてが明らかにされるその時を待ち望み、苦難の中でなお主の福音を伝え、証しを立ててきたのです。
主イエスは、27節「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」28節「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と、力強く語られます。
私は、おそらく皆さまも、体が傷つけられ、殺されたりなどとは、正直なところ想像もしたくないことなので、ここを読むと怖い気がいたします。
ここでイエスさまが強調なさっているのは、どんな時も信仰の告白と証しをもって生きること。
そして、人ではなく、神こそ恐るべきお方であるということです。「魂までも滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」神こそがいのちにおいても裁きにおいてもいっさいの主であられます。この主なる神こそ恐れよと、イエスさまはおっしゃっているのです。

29節「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
1アサリオンは当時のユダヤの最小貨幣で、日本でいえは1円といえましょう。雀二羽で1円ですから一羽の雀の価値といえば1円の半分というということになり、もはやこの世的には値打ちがないとも言えるほどのものかも知れません。けれども父の神は、その価値の無いように思える存在をもよくご存じで、そのお許しがなければ、地に落ちることはない。つまり生きるも死ぬも全てを司っておられると言われるのです。
それどころか、「あなたがたの髪の毛一本までも残らず数えられている。」それほどまで私たち一人ひとりをよく知っていてくださるのです。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」何と大きな幸い、慰め、希望でしょうか。
最後になりますが。毎年2月11日には信教の自由を守る尊さを覚えて祈る集会が持たれています。
私たちは毎週このように礼拝を捧げる自由が与えられています。まこと神を高らかに賛美し、祈り、聖霊の導きによって御言を聞き、主を信じる自由が与えられていることは、何にも替えがたいものであります。しかし戦争、紛争等で世界には信教の自由、思想信条の自由が脅かされている人たちが多くいます。その人たちに平和と信教の自由、思想信条の自由が与えられていきますよう、今後も共に祈り続けていきましょう。

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信頼して御言葉に生きる

2025-02-02 15:22:18 | メッセージ
礼拝宣教   マタイによる福音書8章1-17節   

この個所には、イエスさまが「重い皮膚病の人」、又「百人隊長の僕」「高熱のシモンのしゅうとめ」を、次々とおいやしになられたエピソードが記されています。

最初の「重い皮膚病を患った人」ですが。この当時のユダヤ人の社会では重い皮膚病は特に人々から忌み嫌われていた病の一つでした。
「汚れた」病気とみなされ、この病気にかかった人は社会や家族からも引き離されて町や村の外に住まなければなりませんでした。私たちの国においても、かつてはこの病に罹った人に対して予防法をもって非人道的な差別や偏見、隔離政策が長い間続けられました。先般ようやく国としての謝罪がなされましたが、当事者の痛みと苦悩は消えるものではないでしょう。
この重い皮膚病の人も社会の片隅に追いやられ、自分から人に会ったり交流することも気兼ねし、控えるほかないひっそりとした孤独な日々を過ごしていたことでしょう。
ところが2節を読みますと、「その人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。」というのです。この人はなんと群衆に紛れこんでイエスさまに自ら近寄って行ったというのです。
その頃イエスさまは、4章23~24節「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされたという評判が広がり、人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊にとりつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。」とあります。
その人もうわさを聞いてそのイエスさまが身近なところにまで来られていることを知り、この機会を逃すものかとの思いで、集まった群衆の中に入っていくのです。
この人は大勢の群衆の一人に過ぎませんでした。しかしこの人の中で、「イエスさまによるなら自分に何かが起こるに違いない」という期待が大きく膨らんでゆき、人々の厳しい視線を受けながらも、イエスさまにどんどん近寄っていくのです。そして期待は遂に確信と変わりイエスさまの前に「ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言うのであります。主イエスへの全幅の信頼を言い表します。
この人が自分の願いだけが叶いますように、とイエスさまにそう求めてもおかしくない中、「御心ならば、なります」と言うのです。それは、すべてを御手のうちに治めておられる神を信じ、主イエスのうちにその権威(権能)を見たからこそ、言い得たからです。
するとなんと、「イエスさまが手を差し伸べてその人に触れ」られます。重い皮膚病の人に触れれば触れた人も「穢れ」ることになると、当時のユダヤ社会では言われていました。それにも拘わらずイエスさまは自らの手を差し伸べてその人に直接触れ、「わたしは強く望む。清くなれ。」と言われたのです。私たちの聖書には「よろしい。清くなれ。」と訳されておりますが。原語の直訳(岩波訳聖書引用)によれば、「わたしは強く望む、清くなれ。」なのです。
すると、「たちまち、皮膚病は清くなった。」アーメン。この人のうちにある信頼、イエスさまのうちに働かれる神の権威(権能)、その愛が一つに共鳴し、周りの人々にまで拡がり、神の栄光が顕されていくのですね。
この人はそのような信仰によって単に病が癒やされただけでなく、心も魂も全人的な救いと解放を受けるのです。

14節以降には、「イエスさまはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱で寝込んでいるのを御覧になり、その手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスさまをもてなした。」とありますが。それは主イエスに従うペトロの信仰、その祈りを通してもたらされたいやしでもあるでしょう。ペトロも主イエスとそのお言葉の権威(権能)を見聞きして、家族を置いて主イエスに従いましたが。それでも家族への愛情や心配はいつも祈りのうちにあったのでしょう。主イエスはきっとそれをご存じだったのでしょう。
そこでも、当時の慣習からすれば人が病人に触れればけがれを負うといわれていた社会の中で、苦しそうに寝込んでいるペトロのしゅうとめの手に触れていやされるのです。病人やケガ人に処置を施すことを「手当」と言いますが。他者の痛みや苦しみに手を当てずにはいられない、それはそういったとことから来ている言葉です。この主イエスによってあらわされた神の愛に本当に慰められます。
イエスさまにいやして頂いたペトロのしゅうとめは、その感謝と喜びをもってイエスさまをもてなして、愛なる神をほめたたえことでしょう。

次に「百人隊長の僕のいやし」のエピソードに目を向けてみましょう。
この百人隊長は、イエスさまの言葉が律法の教師や宗教的指導者たちとは違うこと。又イエスさまが分け隔てなく人と接し、いやしの業をなさる事を知り、それを心に留めていたのでしょう。
当時のユダヤはローマの支配下にありましたから、多くのユダヤ人はローマの兵隊長などと言えばうとましい存在でしたし、「神」を知らない異邦人とみなしていたわけです。
しかしその日、この百人隊長はイエスさまがカファルナウムに入られたことを聞きつけ、自分の立場をも置いて、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。」とイエスさまに懇願するのです。
この百人隊長は、部下がひどく苦しんでいることがいたたまれず、見るのに忍びなかったのでしょう。僕の痛み苦しみをまるで自分のことのように心痛め、人にどう見られようがお構いなしにイエスさまの前に願い出るこの異邦人の百人隊長。きっとイエスさまはそこに律法の精神、隣人愛をご覧になられたのではないでしょうか。
その彼にイエスさまは、「わたしが行って、いやしてあげよう。」と即答なさるのです。
ところが百人隊長は、「いや、それにはおよびません」と、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と答えます。
普通に考えると、イエスさまに来て頂くほうがありがたいように思います。確実にいやしていただけると考えるのではないでしょうか。しかし百人隊長は軍人としての職業柄人一倍「権威」のもつ効力とその「言葉の力」を知っていました。
彼は言います。「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、僕はいやされます。」
なんとこの異邦人の百人隊長はイエスさまの言葉と行いが、神からの権威によるものだと確信していたのです。権威ある者の「言葉」の重みを知る彼は、ただひと言、主イエスがお命じになることを求めたのです。イエスさまのお言葉は必ず効力をもってそのとおりになると、信じていたからです。    
イエスさまは、その百人隊長の言葉を「聞いて感心し、従っていた人々に言います。『はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西(異邦人の地)から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
このイエスさまのお言葉は、前7章21節以降で「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」とおっしゃったお言葉とも相通じているといえるでしょう。
聖書をどんなに勉強し研究しても、又何か立派な働きや大きな業績をなしたとしても、神の御心、その主の御言に生きるのでなかったら虚しいといっているのです。大切なことは神の御言であられる主イエスを信じて生きるところにあるのです。
始めに重い皮膚病の人が、「主よ、御心ならば、おできになります。」と主イエスを信頼したように。又、百人隊長が「ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、僕はいやされます。」と主イエスを信じ、「唯お言葉を下さい。」と願ったように。さらに、ペトロが主イエスを信じ従い、主イエスにしゅうとめをいやしていただいたように。主イエスに信頼し、御言葉に生きる人の歩みを確かなものとしてくださるのです。

本日礼拝の招詞として107編20-21節の御言葉が読まれました。
「主は御言葉を遣わして彼らを癒し、破滅から彼らを救い出された。主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」
この詩編の御言葉はイエス・キリストによって実現されました。   

8章16節「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤ(53章)を通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担た。』」
そこにはさらにこう記されています。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
この彼こそ、「メシア」「キリスト」なのです。

最後に、13節で「主イエスが百人隊長に、『帰りなさい。あなたの信じたとおりになるように。』と言われたちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。」とありますが。
先週の水曜日午前中の祈祷会で、今日の礼拝の箇所の予習も兼ねた聖書の学びを共にした後、祈りの時に、礼拝にも集っておられるNさんが、近所で「路上生活をされている方の足の皮膚の状態がかなり悪く、どんどん衰弱して危ない状態なので「病院に行きましょう。」と何度も何度もお声をおかけしているのだけれど、その人は一切言うことを聞いてくれないので困っていますので、どうかお祈りくだい。」とのことでしたので、そこに集われた方々と共に祈りました。そうしたところが、その日の夕方にNさんからのメールが届いたのです。メールを開くと、「グッドニュースです。お祈りいただきましたガード下のおじさんはさっき病院に行ったとの事です。このところ神の摂理を考えています。」とのメッセージでした。
その2日後、私も越冬夜回りに参加させていただいた折、この救急の病院に行かれた方の報告を聞きました。そこにはNさんもそうですが、いろんな方々がこのおじさんを見守り続けてきて、この方の状況が皆で共有され、つながったことが救助になっていったということでした。
いずれにしましても、神の御心を信じ、祈り求めていく大きな恵みが私たちに与えられていることは本当にグッドニュース。福音ですね。
私たちは愛といつくしみ深い神を信じ、「御心ならばあなたはおできになります。」との信頼をもって御言に生きる幸いを、今日のエピソード、主イエスのお言葉から示されました。思い通りにしてくださった時も、自分の思うようではなかったとしても、神さまの御心は私たちに最善であることに信頼し、御言葉に生きてまいりましょう。
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私たちの主の祈り

2025-01-26 16:29:26 | メッセージ
主日礼拝宣教 マタイ6章5-15節 

「お帰りなさい。」
今日はイエスさまが弟子たちに「祈り」について教えられた箇所から御言葉に聞いていきます。
まずこの6章1節から見ますと、「施し」する時にはどのようであるべきか勧められています。それは律法の中でも重視されてきた事ですし、私たちもそこから分かち合いの精神を大切にしています。ただ、それは単に戒めや決り事としてではなく、主イエスの素晴らしい救いとその教えとから聞き、感謝をもって慈善の行いを為すよう招かれているのです。
主イエスは人の思いを見抜かれて、一部の人たちがしているように、徳のある人物だと認めてもらおうとわざわざ人目につくように善行をしないよう戒められます。いくら社会的に認められ報いを受けても、自己顕示欲から出た偽善であれば神からの報いを受けることは出来ないと、言われているのです。
それに続く5節以降のところでイエスさまは、「祈るときも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。」とお語りになります。まあユダヤ社会が信仰と結びついていたので、神へ敬虔さをもって熱心に祈る人たちに尊敬の念が寄せられる事はあったのです。しかし、一部の人たちにとって「施し」や「祈り」が神にではなく人からの評価や称賛を得るためのもの、又自らを誇るためものに変質している事をイエスさま見抜きは残念に思われるのです。
私たちが善い行いについても、又祈りについても、人に認めてもらいたい欲求は全くないとは言い切れませんが、真心から行い、隠れたことまでご存じの神に信頼して生きることを主は願われています。
また7節、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。」とイエスさまはお語りになります。
異邦人の「くどくどとした祈り」というのは、呪文のように繰り返して唱えるような祈りであります。たとえば祝福を求めるのに「祝し給え、祝し給え、祝し給え、、、ああ祝し給え、、、」と延々と繰り返すように祈ることです。またそれは、頭をフル回転させ言葉巧みに長々と祈ることで聞き入れられると思い込んでいる、そんな祈りをする人に対して、「そうであってはならない」と言われます。す。それがあたかも神に聞き入れられかのように思い込んでいる人たちがいる事を見抜かれるイエスさまは、「彼らのまねをしてはならない」と言われます。そうした祈りの背後には、そうでなければ私の思いや願いが届かない、といった神への不信と信頼の欠如の表われがあるからです。
それに対してイエスさまは次のように言われます。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」これはイエスさまならではのすごい信仰のお言葉です。
神への信頼が乏しくなる時こそ、このお言葉を思い出したいです。
天の父は、すべてを知っておられ、隠れたところまで見ておられ、私たちの必要な事までもすべて知っていてくださる。しかも、ここには、イエスさまは「神」とはおっしゃらずに、すべて「あなたがたの父は」と言っておられるのです。それは、神があなたがたの本当の父として何ものにも優る愛で見守り続け、必要をご存じのであられるのです。
「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」このように私たちを子として、願う前から私たちの必要も不足も、事情や状況もすべてご存じであられる天の父が、共におられる驚くばかりの恵みを戴き、神への信頼を持って生きるものとされてまいりましょう。

さて、イエスさまはそのような天の父である神が、あなたがたの事を忘れず覚えておられるのだから、このように祈りなさいと、「主の祈り」を教えて下さるのであります。
この主の祈りは公の礼拝でも大事にされているように、それは「わたし」という個人の祈りだけにとどまらず、私たちの祈り、さらには、人と人との関係、それはすべての人と世界に向けた拡がりをもつ祈りであります。
今年もお正月には神社仏閣を巡り、健康のため、仕事の祝福、入試合格や就職、縁結びや安産などの祈願をした人々も多いでしょう。又、近年は特に疫病蔓延の収束や平和や安心した暮らしと生活を求めて祈られた人たちも多い事でしょう。
私たちはイエス・キリストとその教えを通して、国や民族、又血縁の家族という枠を超え、一人ひとりが神に愛されている家族であることを覚え、礼拝の中でこの「主の祈り」を祈り続けています。
それは、世界とすべての命あるものが神の作品として創り生かされている存在であり、本来は神の祝福によって命と平和が満ちる世界こそ、神の国、天の国の姿であるといえるでしょう。それが損われています。罪と諸悪が世に働き、神の作品とて創られた生かされている存在が損われる事度もが起り、地は荒れ果て闇に包まれているかのようでありますが。しかし、イエスさまはだからこそ、この「主の祈り」を私たちの祈りとして祈るように、祈り続けるようにとお教えになられます。
「御名が崇められられますように。」と祈ります。この荒れ果てていくような地に、なお「御国を来ますように。」と祈ります。そして「御心が行われますように。」と祈ります。さらに、すべての命とその関係性が損われないように、「誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」と祈ります。
この前、台湾中部の地域で震度6の地震が発生しましたが。LINEで台中や高雄に住んでいる大阪教会の礼拝に出席していた台湾の青年の方々に安否確認と祈りのメッセージを送り、無事であるとの報告と感謝の応答があり、ホッといたしましたが。祈りは私の願いを超え、さらに隣人、他者、社会、この広い世界にまで及んでいきます。時には海を越え、又ある時には世からも忘れ去られたような処にまでも主の愛と義、御救いをもたらせたまえ、と祈ることができるのであります。この祈りは、主の救いと愛に生かされている証しであるからです。
実は、ルカ福音書11章にもイエスさまが、弟子たちに「主の祈り」について教えておられる箇所があるのですが。その主の祈りの特徴は、自分にとって必要なことを天の神さまはご存じでなのだから、あなたも隣人や他者が今必要としているものが備えられ、満たされるように求めて祈りなさい。と、ここではさらに積極的に他者のことを覚えて、とりなし、祈るよう強く求めておられるのです。
イエスさまが教えて下さった主の祈りが、世界共通の祈りとなって、地上に「御国が来ますように」というビジョンが実現されていくことを願い、祈り続けてまいりましょう。

この主の祈りを一つひとつ見ていきますと、私たちが神に呼びかける「私たちの父よ」という言葉。それは先ほど申しましたように、それはどこか遠い存在としではなく、イエスさまより赦しと和解を得た私たちに、「わが子よ」と呼びかけて下さる、神の絶対的愛に応え、「私たちの父よ」、御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が行なわれますようにと、まず父なる神の栄光を讃美し、この地にも神の国の到来と御心が行なわれることへの期待を篭めて祈るのです。それはキリストによって与えられた父の神とのむつましい関係、交わりによる祈りであります。

その後に続く11節以降は、私たち人と人との関係における祈りですが。始めに、「私たちに必要な糧を今日与えてください。」とありますけれども、食物は命と直結する問題です。それは大地の実りや海山の産物への祈りでありましょう。今日の時代益々深刻になってきた日々の糧の必要を求める祈りです。又それは、肉の飢え渇きに限らず、魂の糧という霊的な糧をも含んでいます。聖書にあるとおり、「人はパンだけで生きるものでなく神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる。」ものであるからです。
そして私たちは、今日の糧が今私に与えられているように、この同じ時に世界中で飢え渇き、肉の糧を必要としているすべての人たちに必要が与えられたように」と、とりなし祈ります。
8節に、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」とイエスさまがおっしゃったように、父なる神は私だけの必要をご存じであられるだけでなく、今飢えと渇き、欠乏と不足の中で苦しむすべての人の必要もすべてご存じなのです。「私たちに与え下さい。」と祈る時、他者の欠乏にも目を向ける思いへと招かれ、導かれます。

またイエスさまは、12節「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」と赦しの祈りを教えられます。けれども人を許すというのはなんとも難しいことです。
ユダヤ教の教典タルムードの中にこういう小話があります。
ある男が知人に「鎌を貸してくれ」と言うと、知人は「嫌だ」と拒絶した。しばらくしてその知人が「鎌を貸してくれ」と言って来た男に、「馬を貸してくれと」と言うと、その男は「お前は鎌を貸してくれなかったから、俺は馬を貸さない」と断って来た。これは復讐である。また同じように、ある男が知人に「鎌を貸してくれ」と言うと、知人は「嫌だ」と拒絶した。しばらくしてその知人が「鎌を貸してくれ」と言って来た男に、「馬を貸してくれ」と言うと、その男は馬を貸したが、貸す時に「あなたは鎌を貸してくれなかったが、わたしはあなたに貸してやる」と言った。これは憎悪である。そういう話です。まあ馬を貸しても、嫌みを言いながら貸すということは、本当には赦していない憎悪の心の表れというのです。
つまり、人間には何の見返りも報いもない赦しというのはなかなか考えることはできない生きものであるという事です。本心から人はゆるすことが出来るのか否かを考えさせられる逸話でありますが。そうですよね、実際私たちは人から被害に遭った事や人から非難中傷された事は、ずっと憶えており、忘れることができません。が、一方で私が人に危害を与え、人を傷つけている事については何と鈍感な者でしょう。しかし、この主の祈りを祈る度主は私たちに「ゆるし」ということを思い起こさせて下さいます。
この祈りの肝心なところは、「まず、わたしたちの負い目を赦してください。」と祈ることにあります。それは又、わたしの負い目を主イエスが負われ、ゆるされている、と確認する事はとても大切であります。そこから私たちが他者をゆるすという事へと導かれていくのです。
実はこの「ゆるす」ことと、次の13節の「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」とのイエスさまが教えた祈りにも通じるものです。
唯、その祈りを教えられたイエスさまこそ、その「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」というのは、つながっているのです。
「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」人を恨んで憎むその憎悪の応酬の酷さに陥ることがないよう主は願われるからです。憎しみの連鎖は人を不幸にし、魂を滅ぼすほどの破壊力をもっています。そこから救われるには自らその憎しみに決別するほかありません。

イエスさまはゴルゴダの丘で十字架に磔にされたとき、十字架につけろと嘲り叫ぶ人々に対して、ただ、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ福音書23:34)と御父に祈りとりなされました。この主の祈りをイエスさまご自身が最後まで生き抜かれました。そのイエスさまの父の神へのとりなしと祈りによって、私は罪ゆるされているのだ。その神の愛を知るとき、私もまた、救われながらゆるし祈る者とされるのですね。今日も主は私たちの祈りの只中におられます。日々私が「主の祈り」を祈る時、実は私も又、祈られています。それは主の教会、主にある姉妹兄弟、又神の御心を行い生きるすべての人たちとつながる神の国と神の義の実現を希求する祈りなのです。これからも日々、「私たちの主の祈り」を共に祈り、主に倣いつつ歩んでまいりましょう。
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愛を全うなさるお方

2025-01-19 13:47:44 | メッセージ
主日礼拝宣教  マタイ5章43~48節

阪神淡路大震災から30年となり、様々なかたちで震災の報道が伝えられていました。その中で震災に遭われたある遺族の方が、「当たり前にいつも居る家族を突然亡くした経験を通して、いつも側に居てくれていることは当たり前のことではないと改めて思った。自分はそうした家族、周囲の人たちによって支えられて来て今がある。そのことを伝え続け、生きていきたい」と語られていたことが強く心に響いてきました。
震災に遭われた遺族の中には、あの辛い体験を思い出したくないという方も多くいらっしゃいますが。同時に「震災の出来事を風化させてはならない」という複雑な思いがあるという回答も伝えられていました。
関西地方教会連合でも午後から「1.17祈念礼拝」の時を持ち、御言葉から「教会は目覚めたかい?」とのメッセージを受けて、祈りを共にいたしました。
阪神淡路大震災後、東日本大震災、昨年の能登半島地震と次々に大きな震災が起っていますが。この1.17から、私たちは「震災と震災の間を如何に生きるか」又、「私たちの教会が地域に建つ教会としてどうなのか」「教会とは何か」が問いかけられています。

さて、本日はイエスさまの山上の説教の中で語られたお言葉からお話をさせていただきますが。
その5章17節以降に「律法について」イエスさまが、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはなたない。廃止するためでなく、完成するためである。」と言われております。そして、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない。」とも言われま
す。

イエスさまは、律法をないがしろにしていると言う批判を受けていましたが、決してそうではなく、むしろ旧約の預言者や律法を完成する「新しい義」をもたらすためにおいでになったのです。
律法学者やファリサイ派の人々は厳密に律法や戒めを守るけれど、そのことで律法を行って生きることが困難な人たちを見下し、差別していました。
いわば律法が形骸化してしまい、本来の人を生かすその精神が損われていたのです。
たとえば、21節『殺すな。人を殺した者は、裁きを受ける』と古くから命じられている律法に関して、イエスさまは「兄弟に腹をたてる者はだれでも裁きを受ける。」『ばか』という者は最高法院に引き渡され、『愚か者』という者は、火の地獄投げ込まれる。」とおっしゃいます。これは一見、律法に記されたことよりも厳しいように思えます。
「私は最近、腹を立てたことなどない」という方いらっしゃいますか。もしそうなら素晴らしいことでありますが。
しかし、たとえ言葉に出さなくても心にふつふつとした怒りが燃えあがってくることはあったかもしれません。
不平や不満、やっかみや恨みつらみ。実際手を上げていないから殺意がなかったと言えるでしょうか?言葉にしなかったから憎悪がなかったと言えるでしょうか?
隠れているそうした心の奥底にある悪意が知らず知らずに滲み出て人を傷つけ、関係を損ねてしまうこともあるでしょう。
イエスさまは表面に現れることばかりでなく、人の心の奥底にある思いに自分自身が気づくように導かれるのです。

また33節の『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている事に関しては、「一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない」と言われます。人が神に誓うことでかえって自分を縛り、又、人をも縛ってしまうことになりかねません。
肝心なのは、神のみ心を求めて、「然りは然り、否は否」とその都度主に聞き従っていく。それこそ神を畏れ敬う人にふさわしい態度であることを主は教えておられます。

そして38節以降では、古くから『目には目を、歯には歯を』と語り伝えられてきた戒めに関して語られていますが。
イエスさまは、「しかし言っておく。悪人に手向かってはならない」と言われます。
この「目には目、歯には歯」とは、その失ったものと同じ者で償なわせるという掟でありますが。
イエスさまはここで、なんと「悪人に手向かうな」と仰せになるのです。
これは被害を受けた者にとっては、厳しい言葉であるでしょう。しかし主は、人の憎悪の連鎖による新たな悲劇に対して、これを戒めておられるのです。

さて、本日の「敵を愛しなさい」との戒めでありますが。これこそイエスさまがこれまで語られてきた「新しい義」の根幹となるものです。
イエスさまはここで、『隣人を愛し、敵を憎め』との皆が当然とみなしてきた戒めを引き合いに出して語られるのでありますが。
新約の時代、以前のユダヤ人たちは厳しい迫害を経験しました。
そこで彼らは自分たちを守り結束を強めるために、異邦人を敵や悪魔のように見なし、排斥していきました。公然と「隣人を愛し、敵を憎め」との戒めを守っていたのです。
自分たちのコミュニティーを守るためなら隣人、同胞、同信の者、身近な家族や友人知人を愛し、敵は憎めという考え方は、わかりやすく、そして力を持っています。しかし実際身近なところで、また世界の歴史において、そういったあり方によって、どれほど悲劇が繰り返されてきたことでしょうか。現在も痛ましい紛争や戦争が繰り返されています。
人間の世界は、あらゆる世の中にある不安や恐れを解消するかのような仮想の敵や悪を作って安心安全を得ようと画策するのが事実です。
敵や悪とし立てて、それをやっつけることが正義なのだということで不安や恐れが解消するような錯覚に陥るのです。
いわゆる敵や悪というものを叩く風潮に社会や国が向かうと、戦争というのが起きます。又、私たちの身近においても、自分の価値観と相容れない者を排除、排斥する。その危うさが私たち自身のうちにも生じ得る可能性があるということを知っていなければならないでしょう。

そうした働きに足をすくわれていかないためにも「目を覚まして」いないといけません。
だから、イエスさまはこう言われます。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるために。」
「敵を愛するなんて」と思わず反発したくなる私たちに、イエスさまはおっしゃいます。「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」
そうです。神の愛を知る人は、すべての人に注がれる、この変わることのない天の恵みを知っています。
天の神は全ての人に等しく太陽を昇らせ、雨を降らせてくださっておられるのです。
それにも拘わらず私たち人間はどうでしょうか。このイエスさまのこのお言葉をどう聞いているでしょうか。
地球の資源は天の神のものです。人間が争い合い、搾取によって力やお金で独占することなど許されることではありません。それはすべての地球上の人類がともに生きるために天の神から預かった賜物であります。神のことばであります聖書は、神への畏れをもって生きるよう私たちを招いています。

またイエスさまは、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟だけに挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」と問いかけられます。
そして本日の締めくくの言葉として、イエスさまは48節、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と言われます。
この「完全」というのは、普通は完全無欠、一点のミスも無い(英語ではパーフェクト)、完璧(英語ではコンプリート)と思われますが。もとの原語では、「終わりまで全うする、満たす」「目的を果たす」という意味であります。
つまり、「だからあなたがたの天の父が全うされるように、あなたがたも全うするようにありなさい。」ということです。それは「天の父のように完全無欠、誤りのない者のようになりなさい」ということではありません。
神はご自身に対し背を向け、敵対するような私ども人間に対し、最後の最後まで見捨てることなく、御子イエス・キリストを通してその愛を顕し、その愛を満たし全うしてくださったのです。その主御自身に私たち人間は心の底から信頼をもって生き続けていくように、全うしていくよう、満たしていくようにと、招かれているのであります。

イエスさまはお語りになった言葉が真実であることを、あのゴルゴダの丘において自らお示になられたのです。
十字架にかかり、その最期まで、敵対する者たちのためにもとりなし、祈られる主イエス。御父の慈愛をこのイエスさまは全うなさったのです。
「愛を満たし、全うされるこのお方」に信頼して生き続ける。これこそ、「完全な者となりなさい」というお言葉への私どもの応答であります。イエスさまがいのちを賭けて、私たちに「新しい義」、よき知らせ、真の解放と救いの福音を与えてくださっておられるのです。
主なる神さまは、私たちがどんなに欠け多き者、罪深き者、失敗ばかりする者、弱き者であったとしても、私たちを愛しぬいてくださるお方です。いかに大きな支えでしょう。「愛を全うなさるお方」を仰ぎ見つつ、私たちも主の愛に生かされている者として、主の愛に生き続けてまいりましょう。
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人間をとる漁師にしよう

2025-01-12 15:02:46 | メッセージ
主日礼拝宣教 マタイ4章12~22節 

先週から大きな寒波の襲来で非常に寒い日が続いております。どうかご健康が守られますように。ニュースをみますと各地で大雪が降り、この時期としては記録的な積雪で様々な被害が出ているようです。一方、米カリフォルニア州ロサンゼルス一帯で記録的な山火事が発生し、未だ鎮圧が15%と大変な事態が続いているようで心配です。「乾燥した気候による山火事と時速100キロ前後にもなる強風が被害を拡大させた要因だ、と指摘されていますが。この乾燥化は二酸化炭素を排出すればするだけ進んでいく人為的な要因があり、それを抑えれば乾燥化を減らすことができると言われております。いずれにしろ温暖化による気候変動はもはや国境を越えたすべての人類にとって逼迫の課題です。目先の利益を優先し、戦争や環境破壊を繰り返して温暖化を加速させるのは愚かな事です。この地球をお造りなられた創造主への畏れを持ち、神に立ち返って生きることが、今すべての人に問われているといえましょう。

さて本日は、イエスさまがガリラヤの漁師たちを、「人間をとる漁師にしよう」と招かれる箇所であります。このエピソードですが、マルコによる福音書にもほぼ同様のことが記されております。
その目的は、ユダヤ人にも異邦人にも「悔い改めよ。天の国は近づいた。」との良き知らせを宣べ伝える働きのためであります。イエスさまはその良き知らせをまずガリラヤ地方から始められました。
エルサレムというユダヤの中心都市、神殿がある場所からでなく、ユダヤの人々からすれば辺境の地、異邦人のガリラヤと言われていたそのガリラヤから「天の国が近づいた。」と語り始められるのです。
このガリラヤは古くはアッシリアに続くローマ帝国の植民地政策の直接的な影響もあり、人種・民族・文化・宗教観も混在している地でありました。そのためエルサレムに住むユダヤ人たちからは、異邦人だと見下され、「ガリラヤからいったい何のよいものが出ようか」などと否定的に言われていたのです。しかしイエスさまはそういったガリラヤの地で、「悔い改めよ、天の国は近づいた。」と宣べ伝え始めるのです。世はガリラヤの人を見下し、偏り見るけれど、「天の国はそうしたガリラヤの人のもとに近づいた。神の方向に向きを変えて生きなさい」と、解放の宣言がイエスさまによってなされるのです。
この解放と救いの良き知らせは、このガリラヤからユダヤ全土、さらに世界中にもたらされるその働きのために弟子が招かれるのであります。
大阪教会の今年度の標語を「キリストの福音を伝え、証しする教会」と掲げましたように、私ども一人ひとりも又、神のご計画の下、家族、友人知人、住んでいる町のために祈り執り成しつつ、キリストの福音を伝え、証しする存在として招かれているのです。教会のホームページ、ブログ・大阪教会へようこそ、さらに教会のゲート前に設置しています教会案内、今回「新しく作られたチラシ」や漫画版のトラクトはすぐ無くなるので随時補充していますが。キリストの福音がさらに拡がっていきますよう願っています。

さて、イエスさまは宣教を開始されてから、ガリラヤの漁師たちを弟子として招かれます。
イエスさまはお一人でもこの宣教のお働きをなさることがおできになられるでしょう。けれどもこのよき知らせを告げ知らせ、病人のいやし、悪霊からの解放の業をなしていくうえで、弟子を招き立てられるのです。
同じマタイの9章で「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れま」ます。そこで弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない。だから収獲のため働き手を送ってくださるように収獲の主に願いなさい。」とイエスさまはおっしゃるのです。きっと今も私たちの生活の場を見渡され同様におっしゃっているのではないでしょうか。

さてそこで、この4人の漁師が弟子として招かれていく記事をお読みになられて皆さまは率直にどうお感じになられたでしょうか。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とのイエスさまの呼びかけに、「二人の漁師がすぐに網を捨てて従った。」とありますが。これは人の決心や思い入れを超えた神の霊(聖霊)の働きであることを知っていただきたいのです。
年齢、性別、学歴、立場、特性を問わず、必要となされば神の霊・聖霊が働かれるのです。漁師であった彼らは祭司でもなく、律法を特別に学んだわけでもありませんでした。彼らは漁師を生業とし、彼らの獲った魚をガリラヤ地方の人たちの殆どが食べていたということで、きっと自分たちの生業に誇りと生き甲斐を持っていたのではないでしょうか。
ところが、イエスさまの呼びかけに「すぐに」答え、仕事の最中に網を捨てる。漁師にとって命ともいえる網を捨てるというのは常識的には考えられません。けれど彼らは結果的にそうしてイエスさまに従っていくのです。それは単に思いつきということではなく、どうやらこの漁師たちはその前にも何度かイエスさまについての噂を聞いていたり、あるいは多くの群衆に語りかけていたイエスさまを見かけていたのかも知れません。それまでは群衆の一人に過ぎなかったのが、この日イエスさまと彼ら漁師たちは、個人的に出会うことになるのです。

16節にはその時の様子が記されています。
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。」
この「御覧になった」というのは、単に見たということではなく、観察し、見極めるという意味です。おそらく彼ら漁師たちもイエスさまのその視線を強く感じ取ったのではないでしょうか。ここでイエスさまと一対一の魂の出会いが起こるのです。そういう中で、彼らはイエスさまの「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」との呼びかけを受け、まさに身も心も圧倒され、捕らえられるのであります。
「すぐに網を捨てて、イエスさまに従った。」それは人間的な思いや決断によるものではなく、イエスさまの迫りによってもたらされるのです。今そうせずにはいられないという力が腹の底から湧いてくる。溢れ出てくる。それがイエスさまとの出会いによる彼らの体験であったのです。
私は20年間、このところでお一人おひとりの主イエスとの出会いと証を見聞きさせて頂いております。それはお一人お一人のオリジナルですばらしい証言であります。大阪教会にとって特に大きかったのは2013年に遂に適った会堂建築でありましょう。どれほどの祈りと献身、奉仕と献げものがなされたことか。それは主の霊の働きとしか言えませんでした。私たちは溢れる期待と喜びがありました。神さまの介入というしかない出来事が個々人に、教会に起こり続けました。会堂建築のために大きな回転資金をお借りしましたが、それも不思議な形で早期返済することができました。さらに念願のグランドピアノまで据えられるという恵みにも与かりました。その後、3年以上コロナ危機が続きましたが、そこで改めて共に教会の礼拝を捧げる尊さや恵みについて知らされました。主の慈しみによって、私たちはこうして生きて働かれる主を礼拝する喜びと感謝に満たされています。主のみ名を賛美します。主イエスとの日々の出会いを大切にしていきましょう。

さらにイエスさまは、19節「すこし進んで、ゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼべタイを雇人たちと一緒に残して、イエスの後について行った。」とあります。
おそらくこの二人も以前からイエスさまのお言葉を群衆の一人として聞いていたのでしょう。ところが、そのイエスさまが、舟の中で網を繕う仕事をしていた彼らを御覧になり、個人的に「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と呼んでくださった。彼らも又、先ほどのシモンとアンデレ同様、父を雇人たちと一緒に舟に残して、イエスさまの後について行ったというのですね。
このような記事を読みますと、イエスに従う者は何もかもすべてを投げ捨て、絶ち切ってしまわねばならないのか、と構えてしまいそうになる方もおられるかも知れませんが。これは捨てるということより「一旦置く」という方がふさわしいのでしょう。
一旦神の前に置く。今まで自分の握りしめていたもの、それが物であれ、自分自身であれ、何であれ、まずは神の前に置いてみる。キリストと対話してみる。そのことが大切だと思います。
続く29節に、イエスさまは弟子となったシモンとアンデレの家を訪ね、シモンのしゅうとめの熱を去らせて、いやされました。すっかり元気になったシモンのしゅうとめは食事を作ってイエスさま一同をもてなす、そのほのぼのとする情景が描かれているわけでありますが。
シモンら兄弟は、それまでの生き方、仕事、家族とのつながりを最優先として握り生きてきたことでしょう。けれどもイエスさまと出会った時、それらを一旦神の前に置いて、主に従って生きてゆくのです。そのイエスさまは家族のつながりを断ち切って従って来なさいと、強要や命令をされているのではないことがわかります。むしろシモンの家族を尊重し、イエスさまもそのつながりをいつくしんでおられるのです。ヤコブとヨハネの場合も同様だったと思いますね。
以前にもお話したことがありますが。私に献身の思いが与えられた時、私は北九州の小倉に母一人を残して大阪に来ることに対し、後ろめたさを感じた時も一時ありました。母はクリスチャンでなかったのですが。「としぼう。それは人のために苦労する、犠牲を払う道だよ。」と心配しながらも送り出してくれたのです。母も私のことを一旦置いて、見守ってくれていたのではないかと思えるのです。その後大阪で2年間、そして福岡で4年の神学の学びの時を経る中で、母は私のことを喜んで応援してくれるようになったのです。イエスさまに従い行く道は、何もかも捨て去り、絶ち切ってゆくこととは違います。それまでの自分や他者を否定したり、分離するということでもありません。その途上において神さまの祝福がいっぱい用意されて来たことを今、思い起こします。

イエスさまは彼らを、「人間をとる漁師にしよう。」と招かれました。それは神の前に失われた者のようになっている魂が、神の慈愛のもとで新しくされる出来事に共に与ってゆこう、という招きであります。私たちにとってのガリラヤ。イエスさまの「天の国は近づいた。」との宣言。そして、イエスさまの強い眼差しとその招きは、今日も私たち一人ひとりに臨んでいます。今週もここから主と共に私たちのガリラヤへ遣わされてまいりましょう。
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わたしの心に適う者

2025-01-05 13:33:54 | メッセージ
新年礼拝宣教 マタイ3章13-17節

 主の年2025年を迎え、5日目となりました。今年の元旦は例年になく小春日和が続き和やかな新春となりました。私もクリスマス礼拝からキャンドルサービス、歳晩礼拝、元旦礼拝、そして本日の新年礼拝とお勤めを何とか果たすことができ、守られました。、昨年冬からインフルエンザが大流行し、すでに罹られた方もおられるかと思いますが、ほんとうにしんどく症状も様々のようです。これからまた寒くなって来るかと存じます。みなさまのご健康が守られますよう共々に覚え、努めて祈り合いましょう。

さて、今日はマタイ3章から、新年礼拝でのメッセージを聞いていきます。            12月はキリストの降誕、さらに幼少期のエジプトへの避難、そしてイスラエルへ帰国ししガリラヤ地方のナザレ人として歩みだすところまでを読んでまいりました。本日のこの個所はおよそイエスさまが30歳ほどになられたとき、洗礼者のヨハネからバプテスマをお受けになられるその記事であります。3章1節に「その頃洗礼者のヨハネが現れてユダヤの荒れ野で宣べ伝えて、悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った、とありますが。そのヨハネが11節-12節で主イエスの出現を告知し、次のように言うのです。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
ヨハネはエルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、ぞくぞくと自分のもとに集まって来る人々に、「罪の告白と悔い改め」に導くためのバプテスマを「水」で授けていたのです。しかし、ヨハネは、自分の後から来るお方、つまりイエスさまは「聖霊」と「火」でバプテスマをお授けになる。自分のなしていることは到底それに及ぶものではない、というのですね。
  そして本日の箇所で遂に「その時」、イエスさまがヨハネのもとに来られて、ヨハネからバプテスマを受けたいと申し出るのであります。ここでヨハネは驚くとともに、それをおもい留まらせようとして、「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言うのであります。    
彼がそのようにイエスさまをおもい留めようとしたのには、大きく2つの理由がありました。                                          1つは、ヨハネがイエスさまこそ来るべきお方だと知っていたからです。もう1つは、イエスさまが罪無きお方であり、もとより悔い改めのバプテスマを受ける必要のないお方であることを知っていたからです。遙かに優れたお方が私からバプテスマを受けることなどありえましょうか、とヨハネは率直にそう思ったのです。
そのヨハネにイエスさまはお答えになります。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです。」この「正しいこと」とは、一般的に「間違えのないこと」「良いこと」という意味です。そうすることとは良い事、間違えのない事を行うのだから止めないでほしいということになりますが。しかしギリシャ語の原語でここを読みますと、もっと実体のあるお言葉であったことがわかります。                                まずそれは、単に「正しい」というより「義」を表わす用語であり、その義とは「神による裁きと救い」を意味すること。さらに、「すべて行う」と訳している言葉も、「行う」というより「満たす」「成就する」「実現する」という意味なのです。                                   それらを踏まえて15節を訳しますと、イエスさまは、「神の裁きと救いの義がすべて満たされるのは、我々にふさわしいことです。」と仰っているのです。つまり、イエスさまがヨハネからバプテスマを受けることと、神の裁きと救いの義が満たされる、成就する、実現されていくことが一続きであることが見えてまいります。                             

イエスさまは遂にこの時からキリストとして救いを成就なさるお方としての公生涯を歩みだそうとされている。洗礼者のヨハネも又、時同じくしてその道備えを成す者として現れた。こうして神による裁きと救いが、イエスさまを通して実現されていくのです。
さて、イエスさまのお言葉を聞いたヨハネは言われるとおりにいたします。そしてイエスさまがバプテスマをお受けになると、すぐ水の中から上がられるのでありますが。            16節、「その時、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」というのであります。                           この神の霊は、イエスさまの誕生の折からイエスさまと共におられましたが。イエスさまがバプテスマを受けられたまさに「その時」、目に見えるような姿、実体をもって水から上がられたイエスに臨まれるのであります。こうして神の裁きと救いの働きにおける確信と力とを受け、その義が満たされていくための活動が開始されてゆくのです。
 この聖霊が鳩のように降るというのには、何か特別な意味があるのかとお考えになる方もいるかも知れません。諸説はあっても特にこれだという答えはありませんが。多くの人にとって聖書から鳩ということがまず思い浮かんできますのは、あのノアの箱舟のエピソードであるでしょう。人間の罪深さを嘆かれた天地創造の主である神が、洪水によってそれを滅ぼされますが。ただ箱舟に乗りこんで救われたノアとその家族らが箱舟から鳩を放つと、大地の再生のあかしであるオリーブの葉をくわえて戻ってきました。神は空に虹の契約を立て、もう二度と洪水によって地を滅ぼすことはしないとおっしゃったという、あの箇所ですが。そのエピソードから鳩は、愛と平和の象徴として今も様々なイベントなどでも用いられていますが。  
その鳩のように聖霊が降ったイエスさまは、来週礼拝で読む予定の4章で、宣教活動を開始されますが。そこで最初に宣言なさったのは、洗礼者ヨハネと同じく「悔い改めよ。天の国は近づいた。」とのお言葉でありました。天の国が私たちのもとに近づいて来る。神の愛と平和が私たちに開かれている。これは唯神が与えてくださる恵みというほかありません。主イエス・キリストによる全く新しい時代の幕開けが、鳩のように降られる聖霊に重なってまいります。

そして、17節、「その時、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」とあります。イエスさまは「わたしの心に適う者」という御声を、その時どのように聞かれたことでしょう。呼ばれる御神、聖霊、御子キリストの三位一体のお働きがそこから開始されていくのです。また、イエスさまご自身が地上での活動をなさる折々においても、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御声にいつも励まされ、前に歩み出していく力になっていったのではないでしょうか。

  2025年の歩みが始まりました。今日から新たな標語と聖句を週報の表に載せております。年間標語は「キリストの福音を伝え、証しする教会」年間聖句は「すべての造られたものに福音を伝えなさい。」であります。それはもとより、主イエス・キリストが願われていたことであり、弟子たちもお命じになったお言葉です。この主の福音を共に伝え、証し、共に福音を分かち合う喜びに満ちあふれていきますように。この主の年2025年のすべてが、主の御心に適うものとなりますよう祈りつつ、ここから歩み出してまいりましょう。
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2025年 元旦礼拝宣教

2025-01-02 14:52:17 | メッセージ
詩編84編1-8節 「いかに幸いな人」

主の年、2025年を迎えることができましたことを主に感謝いたします。
元旦に際し、詩編84編のみ言葉が与えられました。
詩編は旧約聖書の中でもとても存在感があり、150編にも及ぶ膨大な頁には神への賛美や感謝にあふれています。又、祈りや嘆願、悔い改めや信仰の告白などが収められ、見事に綴られています。
この84編には、「いかに幸いな人」とはどのような人かを、歌い伝えています。
1-3節「万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。」と歌われています。
「いかに幸いな人」。それは5節にも、「あなたの家。主の家に住むことができる人」「あなたを賛美する。主を賛美することができる人」です。
ここで言う「あなたの家」とは、主の家。つまり祭壇のある神殿のことでしょう。それは、私たちにとっては主の教会であり、この礼拝であるといえるでしょう。
昨年エレミヤ書を礼拝で読みましたが、ユダの民は神の言葉に背を向け、聞き従わなかったために、バビロンによって崩壊の一途を辿ります。神殿は崩壊し、多くの民は遠くバビロンの地に連れて行かれ、捕囚の生活を余儀なくされました。そうした苦くつらい異教の地での経験した民の思いを、今日の詩編から読み取ることができます。
かつて彼らはエルサレムの繁栄の中で礼拝を捧げ、当然のことのようにその恵みを享受していたのです。しかしそのあたりまえに思っていた日々の幸いは、ただ神の恵み以外の何ものでもなかったのです。それはある意味失ってみて、無くなってみて、初めてその尊さに気づのです。
今は荒れ果て、そこには鳥が住み家を作り、巣をかけて雛をおいているのだろう。翼があれば私も飛んでゆきたい。そんな思いが伝わってくるようです。
私たちは今こうして信教の自由が保証されている中で、元旦礼拝を教会に集い、あたりまえのように礼拝をすることができますが。けれど世界を見渡せばそうではありません。紛争や迫害が起こっているところでは、自由に礼拝できない方々の心はどれほどつらいことでしょう。私たちもコロナ禍においてその一端を味わいました。そこで礼拝に集まり再会できた時、言葉では言い表せない喜びと感謝があふれました。教会は建物というより、神の家族、祈りの家、生ける神との出会いの場であります。
私たちも、この詩編記者のように神の宮での礼拝を慕い求めているからこそ、主がこの2025年最初の日、元旦礼拝へと招き導いてくださったことでありましょう。

二つ目ですが。いかに幸いな人は、6節「あなたによって勇気を出し、心に広い道を見いだしている人。」と詩人は歌っています。
アドラーという心理学者をご存じの方も多いかと思います。私もその講座を受講したことがありますが。彼は、人間の基本的欲求は「優越(権力)への欲求」であると主張したことは、よく知られています。人間は他人に負けたくない。できれば他人の上に立って優越感に浸り満たされたいという思いがあると言うのです。そういった本性をもつ私たち人間が、自分の非力を素直に認め、他に力の根源を持つことを考えることは、簡単にはできないことです。
しかし、詩編記者は、「その力が神にあること」を知るのです。力の源である神によって、「その心に広い道を見いだしている人」は、いかに幸いなことかと、詩人は歌っているのです。
私たちは弱く、もろい人間です。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。」と聖書は呼びかけます。
しかし、それはただ虚無、あるいは悲観的に終るものではありません。
詩編103編17節以降に、「主の慈しみは世々とこしえに/主を畏れる人にあり/恵みの御業は子らの子に/主の契約を守る人/命令を心に留めて行う人に及ぶ。」と歌われています。その契約とは私どもにとりまして言うまでもなく、主イエス・キリストによる新しい救いの契約であります。やがて野の草のようにしぼんでいく以外ないような人の弱さの只中に、救いの大路が拓かれた。ここに確かな神の力、虚しさに終わらない命の輝きが与えられるのです。
私たちもこの詩編記者のように、主の力に信頼し、心に広い道を見いだすべく、今年のすべての日々、主を慕い求めて歩んでまいりましょう。
神にある力をのみ頼みとする人について、7-8節で「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。」と歌われています。
自分の力は主なる神にあることを知って、心の中に広い大路を見いだすことができる人こそ、いかに幸いなるかを、経験することができるのです。
ここで言う、「嘆きの谷」とは、「泣く谷」という地名から来ているそうです。エルサレムへの巡礼者は必ずそこを通らなければならないわけですが、大変な難所とも言われています。いわば巡礼者泣かせの谷であったのです。
しかし、苦労して通りぬけるからこそ、エルサレムへの大路の喜びは更に一段とゆたかになったに違いないでしょう。
私たちの人生には避けて通れない涙の谷がいくつもあります。しかし、そのような嘆きの谷を通るときも、主なる神がそこを泉のわく所としてくださることを知るのです。後になってみれば、あの事があったからこそ、という気づきや。如何に自分を育もうとなさったか、その深い主の御計らいを知らされることがあります。

このような人は、8節「いよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。」と歌われています。
力を増して進むみゆく人は、一つひとつの試みや困難を、恵み深い主なる神の力によって克服して行けるのです。その経験の度ごとに、神への感謝と信頼を強めてくれます。
そして、このような人は、「シオンにおいて、神にあいまみえるでしょう。」と歌われます。主なる神と顔と顔とを合わせる、言葉では言い表すことのできない祝福に与ることができる。大いなる希望であります。2025年をここから歩み出してまいりましょう。
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聖家族の避難路

2024-12-29 14:10:57 | メッセージ
歳晩礼拝宣教  マタイ2・13-23 

2024年最後の主日礼拝を共に捧げております。
今年も、雨の日も風の日も、一度も礼拝、祈祷会が途切れることなく守られ、捧げられましたことを主に感謝します。主を慕い求める皆さまの信仰に共に励まされましたことをうれしく思います。
一方、今年は3人の方々が主のみ許に召されました。それぞれ長きに亘り、この地上にあって貴い信仰生活を歩み通され、主に祈り仕え続けて来られた方々でありました。地上の別れは寂しいですが、讃美歌「神ともにいまして・・・また会う日まで」の歌詞のように、主のみ許でまたお会いできる希望をもって、私どもも信仰の先達の歩みに倣う者でありたいと願います。

さて、先週は、救い主・御子イエス・キリストのご降誕をお祝いするクリスマス礼拝とキャンドルサービスを喜びのうちに捧げることができ、ほんとうに感謝でした。
そのように、すべての人びとの希望、神の救いの到来を顕すクリスマスでありますが。今日の聖書個所を読みますと、世の力がそれに敵対して神の救いの御子を亡きものにしようとしていたことがわかります。
この新しい救いの王、メシアは本来、まずはもちろんユダヤの人々、エルサレムの住民、そしてヘロデ王の救いの喜びのためにお生まれになったのです。それにも拘わらずヘロデ王は自分の権力と地位を揺るがしかねないものと、恐れを抱きます。さらに、メシアを待ち望んでいたはずのエルサレムの住民も、なぜか同様の不安を抱くのです。
今の時代も不安定で様々な問題をはらんでいます。だれもが自分の生活を守ることで精いっぱいという現実がありますが。そこで、「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればみな添えて与えられる。」とおっしゃった主の御言葉の真理、その奇しきみ業が多くの方々にも伝えられ、分かち合われていくようになると、本当にすばらしいなあと思います。

話を戻しますが。占星術の学者たちからの報告を待っていたヘロデ王は、その学者たちが戻って来なかったことに大いに憤り、ベツレヘム一帯で生まれた二歳以下の男の子を一人残らず殺す命令を軍隊に下します。
一方、占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」と告げます。
すると、それを聞いたヨセフはその主の天使の言われたとおり起きて、幼子イエスとマリアを連れてヘロデ王の恐ろしい追っ手から逃れ、エジプトに身を寄せるのです。(週報表にその光景を描いたレンブラントの2つの聖画を載せていますが。)
しかしその時、ベツレヘム一帯において軍隊による幼児虐殺の惨劇は起こされました。
なぜ、この子たちは殺されなければならなかったのか。それはわかりません。しかしこれは神さまの御心に反する人の罪のなせる仕業であります。今も世界各地で起っている戦争や紛争の悲劇が後を絶えません。同様に子どもや弱い立場の人たちが巻き沿いに遭い、又、人間の盾にされて無残にも殺されています。
幼子イエスがエジプトから再びイスラエルに戻られた後、彼はこの幼児虐殺の惨劇を知って、ご自分の身代わりになったとも言える多くの幼子の死と、人の罪のおぞましさに心を痛められたことではないかと想像いたします。

さて、この聖家族はエジプトからイスラエルに再び帰って来る折も、また主の天使がヨセフに夢で現れて、「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。」とのお告げがなされました。その時もヨセフは起きて、子供とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来るのであります。
身重のマリアを妻に迎え入れたヨセフの大きな決断に際しても、主の天使が現れなさるのです。
神はご意志をもって主の天使をお遣わしになり、彼らを守り導かれるのです。これは主の者とされて生きる人たちも同様です。世にあって困難や苦難はありますが、その折に主はたえず導いて下さるのです。問題は、主の呼びかけに聞き、目覚めるかどうかです。
主の天使は寝ているヨセフに「起きなさい。」と声をかけました。それは単に寝入っているから起きろと言われたのではなく、「今、神の御心に目覚めて歩みなさい。」ということです。
ヨセフだってそれは故郷に帰りたいと思いながらも、幼子虐殺の恐ろしい記憶は消えず、この先家族はどう生きていけばよいのかと思いめぐらすこともあったことでしょう。このままエジプトにいれば安全かとも思えるところです。しかし彼は主の呼びかけに目覚め、恐れや不安を主にゆだねて起きあがるのです。
その姿は、神の救いと恵みを拒み、敵意をむき出しにしたヘロデ王とは対照的です。 
この「起きて。」という言葉。それは、イエスさまが「目を覚ましていなさい。」とお弟子たちにおっしゃった事と同じものです。それはまた、不安や恐れで心が揺れ動いている私たちに対しても、神さまは「起きよ」「目覚めよ」と呼びかけ、真に生きるべき道へ導こうとしておられるのです。大切なのは、主の呼びかけに心開いて応えるか 否かということであります。

以前にもお話しいたしましたが。スウェーデンの女流作家ラーゲルレーヴェという方が書いた『ともしび』という小説をご紹介します。この小説をもとに絵本が邦訳されています。この主人公は、神の与えられた自分の人生を真に見出すものとなった、そんなお話であります。 少し長いですが、おつきあいください。
昔、イタリアのフィレンツェに住んでいたラニエロは、勇ましく力も強く、喧嘩ぱやい い男で、彼はその勇気と豪傑ぶりとをいつもみんなに認められたがっていました。ところが、彼が人の気を引こうといろいろとやらかすので、町の人々は彼を乱暴で傲慢な男だと思っていたのです。「みんなに認められるためには兵士になって、戦で手柄を立てるのが一番だ。そして、いくさの戦利品をフィレンツェのマリアさまの前にささげれば みんなのうわさにのぼるだろう。」そう考えたラニエロは兵士となり、その名を国中にとどろかせます。その後彼は大きな手柄を立てたため、キリストのお墓の前に燃える尊いともしびを最初にろうそくに移すことをゆるされるのです。
「ラニエロ、いくらなんでもそのともしびをフィレンツェまでお届けするわけにはいくまいな」「ともしびは消えてしまうに違いないな」と言ってみな笑います。それを聞いたダニエロはむきになって、思わず「よし、このともしびを、おれさま一人でフィレンツェまで運んでみせるぞ」と宣言してしまいます。 あくる朝早く、ラニエロはマントの下に鉄のよろい、刀とこん棒を着け、馬にまたがってともしびを手にエルサレムを出発します。
「な-に、こんなことは簡単なこと。」と、たかをくくっていたラニエロでしたが。そうやすやすとはいきません。馬が足早になるとともしびは揺らめき、今にも消えそうになりマントでかばったり、後ろ向きに乗ってなんとかともしびを守ろうとします。山辺ではおいはぎに襲われ、取り囲まれて、ふだんなら簡単に腕力で追い散らすことが出来るのですが、そんなことしたら、ともしびが消えてしまうかもしれません。彼は無抵抗のまま身ぐるみ剥がれ、残されたのはおいはぎのひどいやせ馬と、ぼろぼろの着物、そして二束のろうそくだけです。なんとかともしびは無事だったということで旅を続けます。途中、エルサレムを目指す人のむれに出くわします。ともしびを手にみすぼらしい格好をしてうしろ向きでやせ馬に乗っているラニエロを見て、人々はあざ笑い、からかいます。ラニエロはさすがにかっとなって彼らになぐりかかろうとした時、気がつくと、ともしびが枯草に燃え移っています。ああ大変だ、慌てて火をろうそくにともし、また旅を続けます。ひとふきの風、ひとしずくの雨でも、ともしびは消えてしまうので、何とか消えないようにと、そればかりを願いながら、彼は思うのです。「こんなかよわいものを必死で守ろうとするなんて、生まれて初めてのことだ。」とうとう替えのろうそくがなくなってしまい、もうこれで終わりだと思ったその時でした。巡礼たちが岩山を登って来て、その中の年取った女の人をラニエロは助けて山の上まで登らせてあげます。するとその人はお礼に自分の持っていたろうそくをくれたので、ともしびは守られました。彼はそうやってともしびを大事に守って、旅を続けるうちに、いくさでの数々の手柄や名誉や戦利品など、もうどうでもよくなってきました。荒々しいいくさより、優しく和やかなものを喜ぶようになっていくのです。そしてとうとうフィレンツェに着き、その城門から入っていくと、町は大騒ぎになり、ラニエロはともしびが消されるのをふせぎ、高くかかげながらようやく祭壇の方へと進んでいきます。前のラニエロを知る人々は、「エルサレムからともしびを運んで来たなんてうそだ、証拠を見せろ。」と騒ぎ、ラニエロを取り囲みます。
その時です、急に一羽 の小鳥がまいこんできて、ともしびにぶつかり、火を消してしまうのです。ラニエロの目に涙がにじみます。ところがその時だれかが、「小鳥が燃えている、羽に火が燃えついたぞ。」と叫びます。小鳥はひらめく炎のように、聖堂の中を飛びまわり、遂に祭壇の前に落ちて、息が絶えるのですが。ラニエロはかけよって、小鳥の翼を燃やした残り火で、祭壇のとうそくに遂にあかりを灯すのであります。

私がこのお話を初めて聞いたのは40年前でした。ラニエロが新しい人に変えられていく過程がとても印象的で、それ以降このお話がずっと好きになり私の心のうちにも生きています。今の時代もそうですが。もっと強くならなければ、もっと頑張らなければ、乗り越えなければという思いで逆に押しつぶされそうになっている人がたくさんいると思うのです。また、世の力、社会のひずみによって弱い立場に立たされたまま切り捨てられる人も多くおられます。よく小さい命、かよわき命を脅かし蔑ろにするなら、その者もその社会全体も危ぶまれ。損われてしまうことになると云われますが。
あのヘロデ王によるジェノサイドが、クリスマスのキリスト誕生の喜びを奪おうとしたように、今日の時代においても暗く息苦しいような出来事が多々起こっています。しかし、希望のともし火を保ち続けたい、と願います。

礼拝の始めに、招詞としてマタイ25章40節の御言葉が読まれました。
「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さき者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」
あの、荒々しさと主義主張の鎧を身にまとっていたラニエロが、今にも消えそうな小さなともし火をそっと包み守る中で、柔和で優しい心をもつ人に変えられていったように、そのような人たちで地が満ちますように祈ります。
最後に、本日の箇所は、ヨセフとマリアが小さくか弱き幼子イエスの命を守りぬいていったその旅路でありますが。けれどそれは、ヨセフもマリアも実は幼子イエスの存在に守られ、導かれながらの信仰の旅路であったのではないでしょうか。
あの「ともしび」の物語がそうであるように、生ける神さまはこの時代、私たちの日常の中に、共におられます。確かな希望のともし火を新たな年に向かって掲げてまいりましょう。
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真の居場所

2024-12-25 07:12:17 | メッセージ
キャンドルライトサービス宣教  2024/12/24

メリークリスマス。神の御子、救イエス・キリストのご降誕を神に感謝いたします。
この時期は街並みがきらびやかなイルミネーションで彩られ、到るところでクリスマスムードいっぱいですが。あの通天閣もクリスマスカラーに着飾っています。この時間はてんしばでクリスマスイベントがにぎやかに行われています。それが何のお祝いなのか、たくさんの人に知っていただけたらと思います。そのてんしばの人が賑わう中、一つのブースにひっそりとキリスト降誕の光景が、羊飼い、博士たちと共に展示されてあるのを見つけ、うれしくなりました。この救いの喜びが聞こえて来るゴスペルの歌声を通して、知らされますように。そして今、諸教会でもたれているキリストのミサ、クリスマスが、全世界の救いと平和の祈りのメッセージとなりますように。
 
今日ここに招かれ、導かれた私たちは、このキャンドルサービスを通して、救い主に関する旧約聖書の預言、その預言の実現であります救い主、キリストご降誕の箇所を読み、救いの主を讃美しました。
イエス・キリストの誕生と救いが、ユダヤから始まって全世界にもたらされることが、歴史を導かれる主なる神さまによって予め計画され実現したのです。そして今日の時代においても、そのゴスペル、その良き知らせが、世界のいたるところにまで届き、神のみ救いの出来事があらゆる人たちに顕わされて、証しされ続けています。
この神の御子、キリストは「すべての人を照らすまことの光」としてこの世界に来られ、「肉(人)となって、わたしたちの間に宿られた。」これがクリスマスの大いなる恵みと喜びなのです。

さて、聖書には、救い主、イエスさまがお生まれになろうとしていた時、「宿屋には彼らの泊る場所がなかった。」とあります。  
 住民登録のためユダヤ以外の各地からエルサレムに上って来る人たちで町はごったがえし、どこの宿屋も満室でした。しかしこれは、単に宿泊所が不足しているという問題ではありません。神の救い、イエス・キリストが世に来てくださったというのに、お迎えする心が人びとになかった。そのことを表わしているのです。
ヨハネ福音書にはクリスマスの降誕記事はありませんが、違った言い方でクリスマスのことを伝えています。
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。・・・言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1章9-11節。14節)

この「言」とは神の御子、キリストのことです。神はこの世界を言によって創造されたことが、聖書の一番始めに記されていますが。神は、肉をとった、つまり人となられた神の言、イエス・キリストをとおして、この世界を全く新しいものとされたのです。
ここに、「言であるキリストのうちに命があり、その「命は人間を照らす光であった。」と聖書にあるとおりです。このキリストの到来により世界の歴史はBC.ADと分けられていますように、キリストによって歴史は更新されたともいえます。問題はその歴史に臨まれたキリストの良き知らせ、福音を受け取れるかどうかです。
先ほどのヨハネ福音書には、「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」また、言であるキリストのうちに命があり、その「命は人間を照らす光であった。」とあります。神の救いが訪れても受け取れなかった。それは人の心が閉ざされていたためでした。
夜明けに真っ暗な部屋のカーテンを開けますと、朝の光が射し込んで、部屋を明るくしてくれます。しかし、カーテンを閉ざしっぱなしならいつまでも暗闇のままです。そのように、心のカーテンを開けなければ、キリストの命の光を受けることも、私たちのうちに神の愛と希望、その喜びと平安が満ち溢れることもないのです。

さて、クリスマスの良き知らせが最初に届けられた羊飼たちについてですが、彼らは定住地をもたず、住む家もなく、昼も夜も羊を飼うことを生業としていました。そのため安息日を守ることもできなかったのです。でも、その心は神の救いを切望し、待ち望んでいた人たちであったのです。その羊飼いに神の救いがまず伝えられたのです。又、救い主に最初に尊い贈物を贈り、礼拝したのが、神の祝福とは無縁であると見なされていた異邦人、東方の学者たちでした。彼らは神から贈られる新しい王、キリストの誕生が異邦人にとっての希望、救いとなることを確信し、待ち望んでいたのですね。
この羊飼いや異邦人には、神の祝福や救いはわからないだろう、それを受けるはずもない。そう思われていた人たちでした。
しかし不思議な事に羊飼いも、異邦人の学者たちが、生まれたばかりの赤ん坊、又幼子がキリスト、救い主であると信じることができました。それは、彼らが自らの心の王座に真理であり命であられるお方を探し求め続けていたからではないでしょうか。

ある讃美歌の中に、「み栄えとみ座を去り、世に来られたみ子、宿るべき部屋もなく、祝う人もなし、住みたまえイエスよ、わたしの心に。」という歌詞があります。肉をとって家畜小屋で生まれ、人の心を知る神のみ子が現れた時、羊飼いや異邦人はそこに希望の光を仰ぎ、イエス・キリストを心の王座に迎えることができたのです。そこに真の居場所があったからです。

最後に、東方の学者たちは宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を神のみ子なるイエス・キリストに献げた。」とあります。彼らは救いの主、キリストに自分たちが祈り考えぬいた最もよいものを献げました。私たちも東方の学者たちのように、神の祝福と救いに与る喜びを表せる人生を歩んでいきたいですね。

祈ります。
天の神さま。今日こうして御子イエス・キリストの降誕を祝い、捧げるクリスマスキャンドルサービスをそれぞれ招き、導いてくださった方々と共に持つことができましたことを感謝します。私たちは立派な会堂で礼拝をお捧げしていますが。御子キリストは、家畜小屋においてお生れになられました。それは、イエスさまがすべての人の真の居場所となってくださるためでした。
どうか、この地上の隅々にまでクリスマスの良き知らせが届けられますように、私たちの思いをひとつにしてください。又、このクリスマスの礼拝に与ったお一人お一人、それぞれの祈りや願いをもってこの場へ招かれました。どうかあなたの力強いみ手がお一人おひとりに臨み、お導きください。
このクリスマスから私たちは新しく歩み出します。わたしたちも苦闘している人の隣人となることができますように。全世界の救い主・イエス・キリストのご降誕を心から感謝して祈りします。ア―メン。

*本日の席上献金は、「日本聖書協会点字聖書作製部」「止揚学園・重度障がい者施設」「関西いのちの電話」「難民・移民なかまのいのち協働基金」「ホームレス支援釜崎キリスト教協友会」の5箇所へ全額お献げします。自由献金ですので、ご理解を頂けましたらお献げください。
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クリスマスプレゼント

2024-12-22 16:52:05 | メッセージ
宣教    マタイ2章 9-12節   

メリ―クリスマス、クリスマスおめでとうございます。全世界に与えられた希望の光、救い主イエス・キリストのご降誕を、こうして皆さまと迎えることができましたことを神に感謝します。
今年は大変暑い夏が続き、秋がとても短くて今日は例年通り寒い冬の日となっていますが。私にとって今年ほど早く感じた1年はありません。みなさんは如何でしたでしょう。どのような時にも主が共におられた恵みを感謝しながら、クリスマスの礼拝を捧げてまいりたいと思います。

マタイ福音書が先程読まれましたが。ユダヤの地から遠く離れていた東方の学者たちは、「ユダヤの新しい王」の誕生を告げる星のしるしを見て、遙々ユダヤのエルサレムの宮殿にやって来ました。しかし王に尋ねてもそこにはいません。それがベツレヘムであることを聞いた彼らはそこへ向かうと、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まる」のを見て、喜びにあふれます。そうして救い主としてお生れになられた幼子キリストを礼拝することになるのです。
何ともドラマチックで美しい情景が思い浮かびますが。私などは「星」と聞きますと、昭和世代なので「見上げてごらん、空の星よ」の歌詞を思い出しますが。特に冬の夜空を見上げますと星がとってもきれいに輝いて見えます。この星の数々の星は天地万物の創造主の御業であります。どんなに力をもつ地上の王や指導者でもその星1つも支配することは不可能です。この天も地もお創りになり、すべてを統治されている主なる神のもの、この星を通して示されたキリスト誕生のエピソードは決して偶然なのでなく、その神のご計画なのです。

さて、このマタイの福音書では、お生まれになったばかりのキリストと最初にお会いできたのは、東方の学者たちであったと伝えています。ヘロデ王やユダヤの住民ではなく、ユダヤから遠く国境を越えた東の国の人たち、それはユダヤ人たちにとって外国人、異邦人でした。彼らはユダヤの人たちからすれば神の救いから隔てられた人たちであったのです。けれども、その彼ら異邦人たちが救い主、キリスト誕生の証人となるのですね。神のご計画は人の目には不思議ですが、あとになってみればそれがどんなにすばらしいかがわかります。彼ら異邦人が神の救いの招きに与ったことは、この私たちにとっても確かな導きと救いに与っていることを確信させてくれるからです。

さてここに、彼らが「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。」とありますが。それは宮殿のような立派な建物でなく、庶民の家でした。そこには王座などありません。その幼子に権力をもつ王としての風貌もありません。ところがです。彼らがそこに入ると、「ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とあります。
普通に考えてみて、このような民家の幼子にこんな高価な宝物を贈ったりするでしょうか。
どうして彼らはそんなことができたのでしょか。「信仰とは望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することです。」とへブル人への手紙にありますが。その幼子がユダヤの王となることを信じる信仰が、彼らに喜びを与え、礼拝とプレゼントをささげさせたのです。
そこに彼らの内に飢え渇きといえるほど切なる求があったからです。地位も財産も知識を持っていた彼らは自分の力では得ることのできない真理、そして真の平安と救いを探し求めていたのです。その彼らの求めに、神は応え招き導かれるのです。神の導きを知る彼らだからこそ、その幼子の内に神の希望、世の光を見出し、ひれ伏して、自分たちの最上の宝を献げることができたのです。
詩編8編には「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。人間は何ものでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」
都会の、夜も明るい中に住んでいると、空を見上げてもなかなか星を見つけることができませんが。時に天の川が見えるような満天の星を思い出し、人はだれもみな銀河のこの小さな青く美しい1つの星の住人だということを思うことがあるのではないでしょうか。そのすべての創り主なる神をほめたたえる。この身分も立場も、国も肌の色も違うような人たちが幼子キリストを真ん中においている光景は、何ともほのぼのと心温まるものでしょう。

自分の事どもに追われ、思い煩いに心がふさがれていた王やユダヤの住民たちは、せっかく与えられた神の恵みの時がわからなかった。それどころか邪魔だとするのです。神に背を向け身勝手な生き方は全く的外れなものでした。それを聖書は原語でハマルティア、罪だと言うのです。
ヘロデ王は自分の王位を守りたいがために、幼子キリストを殺そうとするのです。恐ろしいことです。でも、他人事(ひとごと)ではありません。私たちも的を外さないように神の愛に生きる、この東方の学者たちのように生涯求道の心で神を慕い求めていく者でありたいですね。
福音書の中でイエスさまは、「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない。」とおっしゃっていますが。この東方の学者たちはまさにそのような人たちでありました。天体学を通して真理を探し求めていた学者たちでしたが、その答えは知識や学問にではなく、まさに幼子キリストという天のしるしを通して、神の救いという真理を見出したのです。私共もそうした真理への渇きと幼子のような柔らかい感性をもち続けたいものです。

 本日はクリスマスプレゼントというタイトルをつけました。
東方の学者たちは、新しい王に献げるものとして最もふさわしく、最上と思えるものを幼子キリストに献げました。黄金は、今でも変わらない高価な宝ですね。又、それは権威の象徴ともされます。乳香は、貴重な樹脂であり、礼拝の時にささげる香としてもちいられていたものです。没薬は、最高な香料の一種であり、又高価な薬でした。彼らがそれほどの貴重な宝を献げることができたのは、神の大いなる救いの恵みに対して、どんな宝にも代え難い価値を見出し、喜びに満ちあふれていたからです。それは確かに美しい話です。
しかし、みなさん。最初に最善のプレゼントを差し出されたのは、実は外でもない神なのです。ご自身計り難い痛みをもって御子イエス・キリストを世に、私たちにお与えくださったのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とヨハネ福音書3章16節にあるとおりです。
神はご自身の愛の顕れである救いの業、それは十字架の死と復活によって、愛と救い喜びを、新しい命をお与えくださったのです。この神の御子イエス・キリストによって、神の愛が私たちのもとに臨んだのです。これほどまでの愛のプレゼント。ここにクリスマスの本来の意味、本質があるのです。

終りに、幼子のイエスさまを拝した東方の学者たちは、「ヘロデの王宮には戻らず、別の道を通って自分たちの国へ帰っていった。」とあります。
 当初来た道は、自分の国の使節団として政治がらみの使節団としてユダヤの王子の誕生を祝うためのものでありました。しかし本当に探し求めていたお方と出会った彼らは、ヘロデの王宮にもう向かわず、天と地を統治される生ける神に従う道を通って、自分たちの生活の場所へと帰っていくのです。それは彼らのこれからの人生が、世の習わしに頼み従う道ではなく、生ける神を主として拝み、その御言葉に聞き従っていく道であることを示しているのです。その人生の道を彼らは選び取っていったのです。
私たちの前にも2つの道があります。今日はどこの道を行くか。主の導きがありますように。

もう1つ、「クリスマス」はキリストのミサ。「キリストの祝祭」という意味ですが。ミサには「派遣」という意味があります。キリストは御父より派遣され、世界のあらゆる国、民族を越えた救い主としておいでくださいました。そして、この喜びの知らせ、福音を聞いて受け取った者も、それぞれ主から派遣され用いられるのです。
 今年は私たちの教会の礼拝や祈祷会に、延べ13カ国の方々が集われ共に主を礼拝することができました。そうした中で様々な国々の若者たちによる、「はこぶねかふぇ」クラスができました。聖書の伝承によれば、ノアの箱舟に乗り込んだノアの子どもたちから様々な人種・民族が生まれたということですが。このネーミングを決めるとき、そこに集まっていた若者たちが国の違い、言語の違い、文化の違い、いろんな人が集えるようになればいいなあという思いから、「はこぶねかふぇ」に決めたのです。国も言語も文化も、様々な違いを越えたキリストにあるこのつながりを感謝します。
クリスマスのこの時、キリストを通してもたらされた救いの喜びを共に賛美しつつ、全世界に与えられた福音の喜び、良き訪れがさらに分かち合われていくために派遣されてまいりましょう。
MerryChristmas!
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