礼拝宣教 ヨハネ8・1~11
今年も1月から釜ヶキリスト教協友会が主催する越冬夜回りが始まり、私も微力ながら毎週金曜夜9時過ぎからキリスト教会、ミッションスクール等の関係者、又ボランティア等の方々と一緒に参加させて戴いています。主に釜ヶ周辺と山王地区を回りますと、シェルターで寝泊まりされている200~300人を除くと、厳寒のもと路上で一夜を過ごしておられる方々が常時100人以上はいらっしゃいます。
「凍死者」を出さない、ということを切に願い合いつつ、この活動に参加していますが。残念なことに、一時期路上で寝泊まりされていた方がたは減少傾向にあったのですが、最近の社会情勢や生活保護法改定によって路上生活をせざるを得ない方々が再び増加しているというのが現状であります。この近辺では天王寺公園ゲート前や動物園ゲート前等で路上に寝泊まりされている方々がおられます、どうぞお祈りに覚えて下さると有難いです。
イエスさまはそのご生涯において、どんな立場におかれた人も、その命はかけがえなく尊いものであることをお示しになりました。どうぞお祈りにおぼえて頂き、もしもお米やカイロ等ご献品戴けるものがありましたら持ってまいりますので、お声をかけて下さればと思います。
さて、本日はヨハネ8章の箇所から「赦されて」と題し、御言葉を聞いていきます。
始めに、イエスさまはオリーブ山へ行かれたとあります。それは前7章の「ユダヤ人指導者たちの不信仰」を嘆かれ、天の御父に祈るためのものであったようです。
群衆の間にも対立が生じ、イエスを信じようとしない人の中には、イエスを捕えようとする者もでてきました。イエスさまでさえ人から理解されず悩み苦しむことがおありだったのです。
私たちは、人から理解されないように感じる時、怒りや悲しみの感情に振り回され、すべて投げ出したくなるものですが。イエスさまは、そのような中で祈るために退かれ、祈り備えてなすべき業に立ち続けられたお姿は私たちに勇気と励ましを与えるものです。
そのようにオリーブ山で祈られたイエスさまは、翌朝早くエルサレムの神殿に入られます。そうしてご自分のところに集まって来た民衆に向けて、再び教え始めておられました。
するとそこへ、律法学者やファリサイ派の人々が姦通の現場で捕えた一人の女性を連れてきます。そしてイエスさまにこう言うのです。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
実はこれは7章のユダヤ人指導者であった律法学者やファリサイ派のイエスに憎悪と反感を持つ人たちが、イエスさまを陥れようとするために企んだ巧妙な策略であったのです。ここでもしイエスさまが、この女性を石打ちにしてはならないと言えば、彼らの主張するモーセの律法を破ることになります。一方、イエスさまが彼らの主張するモーセの律法どおり石打ちで殺すことに同意すれば、たとえモーセの律法に従ったことになるとしても、ローマ当局の支配地域で許可されていない死刑を主張した違反者となるのです。つまりいずれかにどう答えてもイエスさまは逃げることができなかったのでありますね。
しかし、ここで疑問に思えますのは、この場に引き出されてきたのがこの女性一人だけだったということです。相手の男性はどこにいったのでしょうか。
旧約の申命記に記されているモーセの律法には、姦通した男女二人とも殺すように命じています。男性も同罪であり、その場に連れてこなければならなかったはずなのに、この一人の女性だけが公の場においてさらしものとされたのです。男性優位の社会の中でその命が軽んじられていることが見てとれます。同時にその指導者たちにとっては、この女性にどんな刑を科すかは問題ではなく、ただその彼らの憎悪のためにこの負い目をもった一人の女性がイエスを訴える道具とされ、公にさらしものとされたのであります。
イエスさまはいつも世にあって小さくされた人を真中に立たせ祝福なさいました。ところが彼らの憎悪のために、その女性を真中に立たせ命をないがしろにするのですね。
週ごとの聖書を教会の掲示板に掲げていますが。今週は「愛を求める人は罪を覆う」という箴言の言葉であります。神さまの愛を知ろうと追い求めようとする人は罪を覆うのであります。神の愛といつくしみを忘れ、軽んじる者は罪をあばきだそうとするのです。
さて、イエスさまは小さくされた女性を利用しご自分を罪に陥れようとする者たちに対してどのようになさったのでしょうか。
聖書にはイエスさまはかがみ込み、指で地面に何か書き始められたとあります。
しかし彼らがしつこく問い続けるので、イエスさまは身を起こして、言われます。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石をなげなさい」。
そういってからまた再び指で地面に書き続けられた、というのです。
ここで大きな転換が起こります。イエスさまは訴える彼らの問いに直接お答えにならず、
逆に訴える彼らとそこにいた民衆に対して、「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と、問われるです。
イエスを訴えようとしていた彼ら。何とお答えになるのだろうと見守っていた民衆が。逆に自分自身を問われることになるのです
イエスさまがかがんで地面に何を書かれていたのかは分かりません。けれども彼らの頑なな心と小さくされた一人の女性の命を軽んじる態度に深く嘆かれ、そのような人間の罪のために受けねばならないご自身の受難の日が近いことを感じ取っておられたのではないでしょうか。
イエスさまはそう一言おっしゃた後、再び身をかがめて地面に書き続けられたとあります。私はそこに深い沈黙の時が流れたのではないかと思うのです。
それはイエスさまの周りにいた人々が、神の前に一人ひとり自分の立ち位置やあり方を根底から問われていく時となったのではないでしょうか。
イエスさまは「罪を犯したことのない者が」と言われましたが。すべての人間が神の御前にあって罪人である事を知っておられたから、このようにおっしゃることのできたのです。
聖書に「義人はいない。一人もいない」と、使徒パウロはその点から主イエスの贖いの必要性を解いていますが。この女性に対して石を投げることのできるとすれば、それは罪のない神の御ひとり子であられる主イエス唯お一人であられるのです。
イエスさまを訴えて断罪しようとした律法学者やファリサイ派の人々は、反対にその罪のゆえに、自ら裁かれることとなったのであります。
そうしてイエスさまのこの言葉を聞いた民衆は、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真中にいた女が残った」というのですね。
まず年長者からその場を立ち去ったとあります。年長者は長い人生の歩みにおいて、罪を身に覚え幾度も神に和解を求めて贖罪のささげものをなしてきた人たちです。神の前に人を裁く資格などないことを思い起こしたそれらの人たちからから、その場を立ち去ったというのですね。するとそこにイエスさま一人とその女性が残されました。
イエスさまは彼女におっしゃいます。11節「わたしもあなたを罪に定めない。」イエスさますらも、彼女を「裁かない」とおっしゃるのですね。
罪のないイエスさまのみが罪を裁くことがおできになるにも拘わらず、「罪ある者が裁かれて滅びる」ことをイエスさまは望まれません。
ヨハネ3章17節にはこう記されています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
なんという愛、恵みでしょうか。イエスさまはこの女性に対してあなたを裁かない、とおっしゃいました。むろんその罪はそのまま消えてなくなったわけではありません。人間の罪は厳格に裁かれ清算されなければならないのです。神は聖と義であられるからです。
そのためにこそ、罪のない御子イエスさまが十字架にかかり、人間の罪の裁きを引き受けて断罪されるしかなかった、ということを私たちは忘れてはなりません。
このヨハネ福音書は、御子イエスさまが十字架の贖いの業によって神の聖と義を全うし、人間を罪から解放し、救いをもたらしてくださった。そこにメッセージの中心があります。
イエスさまはルカ福音書6章のところで「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」とおっしゃっています。
そして同じルカ11章のところでこう祈るように教えられました。
「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」
イエスさまの「わたしはあなたを裁かない」とのゆるしの宣言。これはまさに主の救いに与った私たち一人ひとりに向けてイエスさまが語られているのですね。
続けてイエスさまは、「これからは、もう罪を犯してはならない」とおっしゃいます。
救いの恵みを受けた者に相応しい応答の歩みをなしていく私たちでありたいと願います。
イエスさまの十字架の贖いによって「救われた罪人」であることをいつも心に留め、主に感謝をもって、御心に聴いて歩んでいくことができるよう、祈り求めてまいりましょう。
今年も1月から釜ヶキリスト教協友会が主催する越冬夜回りが始まり、私も微力ながら毎週金曜夜9時過ぎからキリスト教会、ミッションスクール等の関係者、又ボランティア等の方々と一緒に参加させて戴いています。主に釜ヶ周辺と山王地区を回りますと、シェルターで寝泊まりされている200~300人を除くと、厳寒のもと路上で一夜を過ごしておられる方々が常時100人以上はいらっしゃいます。
「凍死者」を出さない、ということを切に願い合いつつ、この活動に参加していますが。残念なことに、一時期路上で寝泊まりされていた方がたは減少傾向にあったのですが、最近の社会情勢や生活保護法改定によって路上生活をせざるを得ない方々が再び増加しているというのが現状であります。この近辺では天王寺公園ゲート前や動物園ゲート前等で路上に寝泊まりされている方々がおられます、どうぞお祈りに覚えて下さると有難いです。
イエスさまはそのご生涯において、どんな立場におかれた人も、その命はかけがえなく尊いものであることをお示しになりました。どうぞお祈りにおぼえて頂き、もしもお米やカイロ等ご献品戴けるものがありましたら持ってまいりますので、お声をかけて下さればと思います。
さて、本日はヨハネ8章の箇所から「赦されて」と題し、御言葉を聞いていきます。
始めに、イエスさまはオリーブ山へ行かれたとあります。それは前7章の「ユダヤ人指導者たちの不信仰」を嘆かれ、天の御父に祈るためのものであったようです。
群衆の間にも対立が生じ、イエスを信じようとしない人の中には、イエスを捕えようとする者もでてきました。イエスさまでさえ人から理解されず悩み苦しむことがおありだったのです。
私たちは、人から理解されないように感じる時、怒りや悲しみの感情に振り回され、すべて投げ出したくなるものですが。イエスさまは、そのような中で祈るために退かれ、祈り備えてなすべき業に立ち続けられたお姿は私たちに勇気と励ましを与えるものです。
そのようにオリーブ山で祈られたイエスさまは、翌朝早くエルサレムの神殿に入られます。そうしてご自分のところに集まって来た民衆に向けて、再び教え始めておられました。
するとそこへ、律法学者やファリサイ派の人々が姦通の現場で捕えた一人の女性を連れてきます。そしてイエスさまにこう言うのです。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
実はこれは7章のユダヤ人指導者であった律法学者やファリサイ派のイエスに憎悪と反感を持つ人たちが、イエスさまを陥れようとするために企んだ巧妙な策略であったのです。ここでもしイエスさまが、この女性を石打ちにしてはならないと言えば、彼らの主張するモーセの律法を破ることになります。一方、イエスさまが彼らの主張するモーセの律法どおり石打ちで殺すことに同意すれば、たとえモーセの律法に従ったことになるとしても、ローマ当局の支配地域で許可されていない死刑を主張した違反者となるのです。つまりいずれかにどう答えてもイエスさまは逃げることができなかったのでありますね。
しかし、ここで疑問に思えますのは、この場に引き出されてきたのがこの女性一人だけだったということです。相手の男性はどこにいったのでしょうか。
旧約の申命記に記されているモーセの律法には、姦通した男女二人とも殺すように命じています。男性も同罪であり、その場に連れてこなければならなかったはずなのに、この一人の女性だけが公の場においてさらしものとされたのです。男性優位の社会の中でその命が軽んじられていることが見てとれます。同時にその指導者たちにとっては、この女性にどんな刑を科すかは問題ではなく、ただその彼らの憎悪のためにこの負い目をもった一人の女性がイエスを訴える道具とされ、公にさらしものとされたのであります。
イエスさまはいつも世にあって小さくされた人を真中に立たせ祝福なさいました。ところが彼らの憎悪のために、その女性を真中に立たせ命をないがしろにするのですね。
週ごとの聖書を教会の掲示板に掲げていますが。今週は「愛を求める人は罪を覆う」という箴言の言葉であります。神さまの愛を知ろうと追い求めようとする人は罪を覆うのであります。神の愛といつくしみを忘れ、軽んじる者は罪をあばきだそうとするのです。
さて、イエスさまは小さくされた女性を利用しご自分を罪に陥れようとする者たちに対してどのようになさったのでしょうか。
聖書にはイエスさまはかがみ込み、指で地面に何か書き始められたとあります。
しかし彼らがしつこく問い続けるので、イエスさまは身を起こして、言われます。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石をなげなさい」。
そういってからまた再び指で地面に書き続けられた、というのです。
ここで大きな転換が起こります。イエスさまは訴える彼らの問いに直接お答えにならず、
逆に訴える彼らとそこにいた民衆に対して、「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と、問われるです。
イエスを訴えようとしていた彼ら。何とお答えになるのだろうと見守っていた民衆が。逆に自分自身を問われることになるのです
イエスさまがかがんで地面に何を書かれていたのかは分かりません。けれども彼らの頑なな心と小さくされた一人の女性の命を軽んじる態度に深く嘆かれ、そのような人間の罪のために受けねばならないご自身の受難の日が近いことを感じ取っておられたのではないでしょうか。
イエスさまはそう一言おっしゃた後、再び身をかがめて地面に書き続けられたとあります。私はそこに深い沈黙の時が流れたのではないかと思うのです。
それはイエスさまの周りにいた人々が、神の前に一人ひとり自分の立ち位置やあり方を根底から問われていく時となったのではないでしょうか。
イエスさまは「罪を犯したことのない者が」と言われましたが。すべての人間が神の御前にあって罪人である事を知っておられたから、このようにおっしゃることのできたのです。
聖書に「義人はいない。一人もいない」と、使徒パウロはその点から主イエスの贖いの必要性を解いていますが。この女性に対して石を投げることのできるとすれば、それは罪のない神の御ひとり子であられる主イエス唯お一人であられるのです。
イエスさまを訴えて断罪しようとした律法学者やファリサイ派の人々は、反対にその罪のゆえに、自ら裁かれることとなったのであります。
そうしてイエスさまのこの言葉を聞いた民衆は、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真中にいた女が残った」というのですね。
まず年長者からその場を立ち去ったとあります。年長者は長い人生の歩みにおいて、罪を身に覚え幾度も神に和解を求めて贖罪のささげものをなしてきた人たちです。神の前に人を裁く資格などないことを思い起こしたそれらの人たちからから、その場を立ち去ったというのですね。するとそこにイエスさま一人とその女性が残されました。
イエスさまは彼女におっしゃいます。11節「わたしもあなたを罪に定めない。」イエスさますらも、彼女を「裁かない」とおっしゃるのですね。
罪のないイエスさまのみが罪を裁くことがおできになるにも拘わらず、「罪ある者が裁かれて滅びる」ことをイエスさまは望まれません。
ヨハネ3章17節にはこう記されています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
なんという愛、恵みでしょうか。イエスさまはこの女性に対してあなたを裁かない、とおっしゃいました。むろんその罪はそのまま消えてなくなったわけではありません。人間の罪は厳格に裁かれ清算されなければならないのです。神は聖と義であられるからです。
そのためにこそ、罪のない御子イエスさまが十字架にかかり、人間の罪の裁きを引き受けて断罪されるしかなかった、ということを私たちは忘れてはなりません。
このヨハネ福音書は、御子イエスさまが十字架の贖いの業によって神の聖と義を全うし、人間を罪から解放し、救いをもたらしてくださった。そこにメッセージの中心があります。
イエスさまはルカ福音書6章のところで「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」とおっしゃっています。
そして同じルカ11章のところでこう祈るように教えられました。
「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」
イエスさまの「わたしはあなたを裁かない」とのゆるしの宣言。これはまさに主の救いに与った私たち一人ひとりに向けてイエスさまが語られているのですね。
続けてイエスさまは、「これからは、もう罪を犯してはならない」とおっしゃいます。
救いの恵みを受けた者に相応しい応答の歩みをなしていく私たちでありたいと願います。
イエスさまの十字架の贖いによって「救われた罪人」であることをいつも心に留め、主に感謝をもって、御心に聴いて歩んでいくことができるよう、祈り求めてまいりましょう。