日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主がお入り用なのです

2012-02-26 11:39:34 | メッセージ
宣教 ルカ19章28~40節 

教会歴で先週の水曜日から受難節(レント)に入りました。3月31日までが受難節で、
4月1日から受難週となり、今年のイースター(復活祭)は4月8日となります。

今日はルカ19章28-40節より「主がお入り用なのです」と題し、御言葉を聞いていきます。

① 「まだだれも乗ったことのない子ろば」
まず、イエスさまはエルサレムに向かう途上のべトファゲとベタニヤに近づいたとき、二人の弟子に30節-31節「向こうの村へ行きなさい。そこを入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入りようなのです』と言いなさい」と、そのようにお命になります。

イエスさまはエルサレムへ入城するにあたり、いかにも勇ましく見栄えのいい馬ではなく、ろばをお用いになられるのです。通常ろばは、旅行者がその旅の便宜のため乗ったり、荷を運ぶのに借りたり、雇ったりしていたそうです。又、労働力として家畜用にも飼われていました。ろばは労働や奉仕するための動物だったのです。一方の馬は、軍事的な戦力、又王の行進のために用いられるなど権力を象徴する存在でした。イエスさまはエルサレムへの入城というここ一番の時に、どうして見栄えよく権力を表す馬ではなく、いかにも小さくて弱々しい子ろばをお用いになったのでしょうか。確かに貧しいベタニヤの村には馬を所有する者がいなかったということもあるかも知れません。しかし、真の王の王であられる、イエスさまがお乗りになられるのは軍馬の方がふさわしいようにも思えますし、イエスさまならば何とかしてそれを調達することもおできになったのではないでしょうか。
しかし、イエスさまは、「まだだれも乗ったことのない子ろば」をお用いになるのです。
この「まだだれも乗ったことのない子ろば」というのは、無垢で純真な、聖なるものであるという意味にもとれましょう。けれども単純に、「まだ一人前とはいえない」「未熟」なろばであったということでありましょう。
注目すべきは、イエスさまが受難の道、十字架の道へと向かうにあたり、そのようなろばをあえてお用いになられたということであります。

② 「御言葉どおりになる信仰」
まだまだ未熟で、、、といえば、この時の弟子たちも同じであったでしょう。彼らはイエスさまがなさろうとしていることがなかなか理解できません。それも無理なからぬことでしょう。「この方こそ世を改めて私たちを統治するにふさわしい方、来るべき王」と従って来た彼らに対して、主イエスは「十字架にかけられる」とか「侮辱され殺される」とかおっしゃるのですからね。
しかし、そのような未熟な弟子たちが、ろばの子のような彼らが、主に用いられていくのであります。どのようにしてか。それは唯「御言葉に従う」ということを通してであります。ここでもイエスさまは二人の弟子にろばの子を連れて来るように細かな指示をなさいまが、32節「使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった」とあります。彼らの中には「そこに行けば本当にろばの子がいる」という確証があったかはわかりません。けれども彼らが「イエスさまのおっしゃられたとおりに唯従った時、主のいわれたことは本当だった、という出来事を体験するのであります。
彼らが33節以降で、ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、『なぜ、子ろばをほどくのか』と言いますが、そこでも二人は、『主がお入り用なのですと答えなさい』というイエスさまの御言葉どおり持ち主に伝えると、持ち主たちはあっさりと彼らに子ろばを引き渡したというのですね。
たとえ私たちが未熟であったとしても、弱々しく頼りないろばの子のようであったとしても、主の御言葉どおりに行ない、そのように生きていく時、そのいわばからし種一粒のような信仰を通して、主はその御心に沿う御業を見せてくださるのであります。

③ 「平和の王」
さて、このろばの子ですが。「つながれていた」のを「ほどいて」イエスさまのところに引いて来たわけですが。この「ほどく」というという言葉がこだわるようにここで何度も繰り返されていますね。そこには、ローマ政府の圧政にあえぎ苦しんでいる多くの人々のつながれているようなその状況と、そこからほどかれる、つまり解放への願いが込められているように思えます。
イエスさまは、当時のローマの悪政や権力による支配をどんなにか憂い、嘆かれたことでしょう。そして抑圧を受ける人たちが真に解放されることを願っておられたことでしょう。けれどもイエスさまは、軍事力や権力による解放をお求めにならなかったのであります。
イエスさまが軍馬ではなく「子ろば」をお用いになって、エルサレムに向かわれたというのは実に象徴的であります。
37節、「イエスさまがオリーブ山のくだり阪にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことを喜び、声高らかに神を賛美し始めた」とあります。
38節「主の名によって来られる方。王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」
彼らは「天には平和」と賛美したとあります。これは王の王・メシヤ(キリスト)が「平和の王」であられるということを示しています。ただ、ここに「天には」とありますように、イエスさまは平和をもたらす方として到来されましたが、その平和は地の上にまだ実現されていない、ということを暗示しているようです。その平和はまさに、これから主イエスがエルサレムに入城され、御自分の十字架の受難と死を通して実現されるのです。
十字架のい御業をして真の平和への道、すなわち、神と人の交わりの回復、人と人の交わりの回復の道が開かれていくのであります。そしてその真の平和への道のりは、主が再びこの地に来たりたもうその時に向け、主の弟子とされた私たちに今も引き継がれているのであります。

④ 「石が叫ぶ」
さて、39節、この賛美を聞いていた、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言うと、40節、イエスは「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」とお答えになったとあります。

ファリサイ派と聞けば、十把一絡にイエスさまに敵対していた人たちという先入観で見てしまいがちですが。そのグループの中には敬虔でイエスを尊敬していた人たちもいたようであります。イエスに向かって「先生」と言ったこのファリサイ派の人々も少なからずイエスに親愛と尊敬の念を抱いていたと考えてよいと思います。けれども彼らはイエスの弟子にはなれず、一定の距離を保っていたのであります。
ここで彼らは「これ以上、賛美が高まれば、イエスの身に危険が及びかねない」という、そういう観点から「賛美をやめさせて黙らせるように」と、指摘しているのです。これはまあある意味、常識的な進言のようにも聞こえます。
しかしその彼らに対してイエスさまは、「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶ」と、お答えになられるのです。ここで、心から湧き出るこうした賛美を、力づくで、又強制力でもって押さえつけたとしても、それを阻止することはできないということです。すべてを造りたもう主は、石をも用い賛美させるお方であられるからです。

⑤ 「主がお入りようなのです」:子ろばを用いられる主
最後に、冒頭で申しましたように本日の箇所は、主イエスが平和の王として救いと解放を成し遂げられるために、十字架の苦難と死に向かう道を進みゆかれる時に、軍馬ではなく「だれも乗ったことのない子ろば」、つまり役に立たないようなものをお用いになられたということであります。

この私たちの社会は、ある意味ほんとうに先行きが見えないような不安や不満、閉塞感に覆われているといえます。そういった時に、ある種強いリーダーシップを持った、又カリスマ性のある指導者が、世の不安や不満、閉塞感を解消してくれるがごとき待望感を抱かせます。かつてドイツ、日本が侵略戦争へ向かったその道のりにはこのような要因がありました。
「『相手をたたきのめす』又『プロセスをふっ飛ばす』それがいいんだとするような過激な手法に待望論が集まるほど、「戦後民主主義は行き詰っているのかも知れない」と、ある精神科医の方もおっしゃっていましたが。いろんな面で厳しく、不安や恐れの多い時代でありますが。強いリーダーシップを求めるあまり、逆に身動きがとれなくなり、体制の中に組み込まれて、ひいてはかつての過ちを繰り返すことになりかねません。そういうことになっていかないためにも、しっかりと私たちは平和の主、ろばの子に乗って来られたお方イエス・キリストにのみ、聞き従っていく者でありたいものです。
 この大阪市は、新しい市長になって高齢者が病院や買い物、生活の足として来た「赤バス」を赤字で採算が取れない、役に立たないという理由で、バッサリと切り捨て、廃止しようとしています。
イエスさまは子ろばに乗られましたが、イエスさまが大阪にお住みになられていたら赤バスを利用なされたかも知れませんね。庶民の生活をつぶさに見、体験され、いつくしまれるお方だからです。弱い立場にある人たちが切り捨てられ、苦しみを受けることに怒り、憂い、共に痛まれるお方だからであります。今日本の至るところで障害者への支援金の減額を強行するような施策が推し進められようとしています。社会や国に貢献し役立つことがないと決めつけられた人たちを切り捨て、採算が取れないということでハンディをもつ人の生きがいや将来が揺るがされ、奪われる世の中はさつばつとしたものです。又、小学校の卒業式が近づいて来ましたが、授業時間を割いての卒業式の練習時間が大幅にとられています。これも日の丸起立強制化の条例に向けた布石なのかとかんぐってしまいます。
実際府立の卒業式で起立条例に従わなかったという教員8名がすでに懲戒処分とされたそうです。又、ある高校の教師は、指紋押捺を拒否する外国籍の生徒との出会いから、その苦しみに触れる経験を通して、その方は日の丸・君が代の反対というより、強制によって排外主義が助長されることに強い危機感を感じると言っています。人権の問題なのです。
いろんな人とふれあい、出会うことで、いろんな考え方を知り、互いを尊重し、共に生きる世界、聖書の「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12章15節)との御言葉のとおり、そこに本当の平和が築かれるのであります。

そして何よりも、エフェソ2章14節の「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」私たちはその世界観を、子ろばに乗った柔和なお方、イエス・キリストを通して知らされました。私たち一人ひとりは子ろばのような小さな存在かも知れません。しかし、「主がお入り用なのです」。平和の王である救い主の御心を運ぶ者、掲げる者として、祈り、従い、身近なところから、平和を造り出す人としてあゆんでまいりましょう。
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神の国の訪れとその拡がり

2012-02-19 18:53:57 | メッセージ
宣教 ルカ19章1~10節 

① 徴税人ザアカイ
今日の主人公のザアカイは徴税人でした。それもただの徴税人でなく、徴税人の頭としてローマ政府から請け負い、人頭税や土地・財産・輸出入品に課する税金を同胞であるユダヤ人たち等から取り立てていたのです。ザアカイ自身は定かでありませんが、この手の徴税人は、しばしば不正に高額な税を課し、それを巻きあげて懐に入れて金持ちになっていた者も中にはいたようです。そういったこともあり、徴税人たちは一般的なユダヤ人たちから厳しい反感と怒りを買っていました。特に敬虔なユダヤ人たちは彼らを「犯罪人」や「罪人」と見なし、蔑視していたのです。
同じルカ5章のところでも、当時徴税人であったレビにイエスさまが目を留められて、「わたしに従いなさい」とお招きになり、レビが「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」という記事があります。レビはその後、「自分の家でイエスさまのために盛大な宴会を催す」のですが、その祝宴の席に一緒につかれるイエスを見たファリサイ派の人々や律法学者たちは、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人たちと一緒に飲んだり、食べたりするのか」と、つぶやいたとあります。彼らは忌み嫌われ罪人とみなされる人々と食卓を共にするイエスさまを理解できなかったのです。

さて、ザアカイですが。3節、「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることが出来なかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った」とあります。
背が低かったザアカイのために場所を開けてくれる人はいませんでした。周囲からの冷たい仕打ちを受けながらも、それならば、と走って先回りし、木登りとしては最適ないちじく桑の木によじ登ったのです。大の大人、社会的地位のある男が、子どものように木によじ登る姿は、かなりこっけいであったでしょう。しかし彼はなりふり構わず木に登り身をのり出すのです。
 それにいたしましてもザアカイはなぜ、そこまでしてイエスさまを見たいと思ったのでしょうか。
本日の箇所にはその理由について何も記されていませんが。
ザアカイはイエスさまについての噂をかねがね耳にしていたのではないでしょうか。
言葉と力とをもって神の国の訪れを告げるイエスという人が、同業者でレビを弟子として招かれ、彼と会食をして交わりを持たれたこと。ファリサイ派の人々や律法学者たちが、そのようなイエスさまを「徴税人や罪人の仲間」と言っていたこと。(ルカ7・34)
そういったニュースが何らかのかたちでザアカイの耳にも届き、イエスさまに対する興味や期待がふくらんでいたのでしょう。
このザアカイは徴税人の頭で、金持ちであったといわれています。彼にはきっと多くの部下や手下がいて地位や又、財産もそれなりにあったことでしょう。又、彼には家があったということですから、妻子や家族がいたのかも知れません。まあ人並み以上の生活が保証されていたともいえます。それにも拘わらず。彼自身の魂のうちに満たされるものがなかった。心に飢え渇きを覚えていたのです。おそらく、彼は人の弱みに付け込むような自分の仕事にどこか負い目をもちながら、そんな自分の姿に嫌気と孤独を感じていたのではないでしょうか。彼の心の闇はどれほど深かったことでしょう。いくらお金を蓄えても、地位があったとしても、その魂が満たされることはなかったのです。
そのような暗闇の中をさ迷っていたザアカイは、イエスさまが自分の町エリコに来られるということを耳にしたのであります。彼は「何とかイエスさまを見たい」という強い思いにかき立てられ、阻まれても走って先回りをしていちじく桑によじ登って、果たしてイエスさまとはどんな人なのか、とそこをお通りになるのを待ったのでしょう。

② 下に立つイエス
ところがです。5節「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊りたい』とザアカイに呼びかけられたのです。彼はこのイエスさまの呼びかけにどんなに驚いたことでしょう。
6節「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」とあります。
 どうしてイエスさまが自分の名前を知っておられるのか。それにこんなに大勢の人がいるのに、どうして自分の名前を呼ばれたのか。しかも徴税人である私の家に泊るとおっしゃる。原語に忠実に訳せば「泊ることになっている」と訳せます。それが神の必然であり、神のご計画であるということです。彼にとってそれはただ驚きでしかなかったでしょう。
神から遠く離れ歩んで来たであろう彼の人生に、神の人自らあゆみ寄り声をかけて下さった。ザアカイは木から「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」のです。 
彼はイエスさまの「ぜひあなたの家に泊まりたい」という語りかけに、どんなに大きな喜びを見出したことでしょう。自分の家に客人が泊りに来る。それはおそらく、もう何年、いや何十年も聞くことのなかった親愛を表す言葉でありました。このイエスさまの呼びかけを耳にした時、彼の何をしても満たされなかった魂、心の飢え渇きが豊かに満たされ、潤されていきます。彼が「急いで木から降りて来て、喜んでイエスを迎えた」とありますが。その喜びと感動がほんとうによく表れていますね。
又、ここで、イエスさまが上を見上げて、「ザアカイ」と呼ばれたこの場面は実に印象的であります。主であられるイエスさまが、ザアカイの下に立って呼んでおられるのです。それは正に、主が人の下に立って、その存在をまるごと引き受けてくださるお方であることを象徴しています。理解することをアンダースタンドと言いますが。相手を理解するとは下に立つという本来の意味があるのです。主イエスは文字通りザアカイの下に立って、彼の存在を肯定なさったのです。よく私たちも相手を「理解した」などと言うことがあります。けれども本当の意味で人を理解するというのはなかなかできないことであります。
唯お一人神の御子であられるイエスさまが、犯罪人と共にさげすまれ、最も忌み嫌われる十字架によって処刑され、罪人の一人に数えられた。最も人の低くみに自ら立たれた。
このお方だけが、真に人の痛みや苦しみ、理解できない不条理をも理解することがおできになられる。ザアカイは主イエスに見出され、神との交わりの回復を頂くのです。

③ 救いの豊かさ
どれほど彼の心と魂が喜びと救いを得たか、想像がつくでしょうか。
彼のその喜びは、イエスさまを自分の家に迎えた時に、彼の口から表明されます。
8節「ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します』。
ザアカイに臨んだ救いは、決して彼個人のものに留まりません。彼は「自分の財産の半分(全部でないところが現実味がありますが)を貧しい人々に施し、また、だれかから何かだまし取っていたら(これは多分自分がというよりも部下や手下が不正な取り立てをしていたのなら)、それを四倍にして返します」と確約します。それは主に見出された喜びによって彼のうちから溢れ出る感謝の応答でありました。まさにイエスさまが「今日、救いがこの家を訪れた」とおっしゃったとおりであります。

イエスさまと出会う前のザアカイが頼りにしていたモノ、保証としていたモノは富や財産、又、地位であり、そして何よりも自分自身でありました。しかしイエスさまと出会い、イエスさまの愛と救いに与った時、彼は新しい世界に目が開かれるのです。正確に言えば、「神の国が訪れた」ことを知ったのであります。それは、彼の生きる基盤と生き方そのものがまさに変えられていく事でもありました。この神の国の訪れを体験した時、ザアカイは自分のために蓄えていた財産を、本来の意味で活かすために献げる者となります。そこにきっと痛みや犠牲が伴うことであったでしょうが。しかし彼のうちに溢れる喜びが圧倒していたのです。彼は神の国の訪れ・救い与った喜びを他者や隣人と共に分かち合う者となるのです。
それ以降のことについて何も記されていませんが。ザアカイがイエスさまの前で確約したことを実行した時、エリコの町の人々はどれほど驚いた事だったでしょう。きっとザアカイをして町の人々は主をほめたたえたことでありましょう。
イエスさまとの出会い、交わりは真に人をあるべき人として生かすのです。
私たち人の求める交わりは、しばしば自己本位であります。自分にとって良いもの、得なもの、利益となるもの、楽しませてくれるものを計算し、はじき出し、優先させようといたします。けれどもイエスさまとの出会いや交わりは、主の尊い愛と救いに与らせるのです。そしてその救いは、単に個人のうちに留まるものではなく、救い与った喜びを他者や隣人と分かち合うことができるところに、その素晴らしい豊かさがあります。
ルカ福音書は13章の「からし種」と「パン種」のイエスさまのたとえに代表されるように、「神の国」に重きをおきながら書かれています。神の国という主の救いの出来事は、決して個々人のうちに留まるものではなく、「からし種」や「パン種」のたとえのように、成長し、ふくらみ、主にある私たちの土の器を通し拡がっていくのです。そのところに主の救いの豊かさがあります。

④ 一つとなって祈り合うところに
今日は「神の国とその拡がり」という宣教題をつけさせて頂きました。
私たちの教会には昨年暮れから病や怪我で入院や自宅療養されておられる兄姉が後を絶たちませんが。今年の1月から礼拝後の報告時にその方がたのために牧師、役員、会衆一同心を合わせて祈るようにいたしました。又、誕生記念日の兄姉を牧師が特に覚えて祈るようにいたしました。そういった中、昨年末より骨折をされて入院中であられたO姉が先週でしたか退院されるという嬉しい知らせを先週I姉よりお聞きしました。ご高齢でこんなに早く退院できるようになるとは、と大変驚いたのでありますが、先日O姉より「退院することができました。ありがとうございました。ところで、息子さんは入院されたのですか」というお気づかいのお電話をも戴きました。ご自身入院中であるところを、私の息子のこと、教会のことをずっと覚え祈り続けてくださっていたことが、ほんとうにうれしかったです。
その、私の息子も先週水曜日に入院して手術の予定だったのですが。先週の主の日の愛さん昼食の時に、鼻の中にできていた大きなできものがとれて、翌日病院で念のため根のあったところを焼いて、もう入院も全身麻酔で手術する必要もなく、癒されました。
今、私たちの教会は、一つになって祈り合うというイエスさまによってもたらされた御恵を通して、「神の国の訪れとその拡がり」を目の当たりにし、その体験をさせて戴いているのですね。そこからまた主の御業に感謝をささげていくとき、主はさらにまた豊かな御業を起こしてくださることでしょう。
主は生きておられます。主は私たちの祈りを聞き、答えてくださるのです。どのような困難な問題があっても、教会が一つになって祈るなら、主は豊かに働いてくださるのです。その主への確信と期待をもって、ますます主にあって喜びを共にしていきたいものですね。主の御名をますますほめたたえる者となり、主の愛によって共に建てあげられていく者とされてまいりましょう。
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主が共におられる心強さ

2012-02-12 16:31:54 | メッセージ
宣教 ルカ17章11~19節 

もうすぐ3・11東日本大震災と福島の原発事故から1年になろうとしていますが、いまだに問題は解決されず、辛い痛みの中におかれている多くの被災者がおられます。主の御慰めと支えを祈ります。あの1・17阪神淡路大震災が起こった時、震災後は被災地において被災された方々は、みなそれぞれに大変な中、必死にみな手を取り合い一つになって支え合っていかれたということでしたが。仮設住宅ができやがて復興が進んでいきますと、それまで支え合い、協力し合っていたコミ二ティーがなくなり、一部で孤独死される方やさまざまの問題がまた生じております。そういった問題がまた繰り返されないよう本当に願うものであります。

本日はルカ17章より「主が共におられる力強さ」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

①「サマリアとガリラヤの間」
まず、今日の箇所のところで、「イエスさまはエルサレムへ上る途上、サマリアとガリラヤの間を通られた」とあります。エルサレムへ向かうルートならサマリアを通らずに行くこともできたはずですが。ユダヤ人であられたイエスさまはユダヤ人たちの忌み嫌っていたサマリア人がいるところをあえてそこを通っていかれたということであります。
そうしてイエスさまが、12節「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った」というのです。
そこにいたのは重い皮膚病を患っていたユダヤ人とサマリア人が混在する集団でした。
当時ユダヤ人とサマリア人が集団を作り生活を共にすることは通常考えられないことでありました。ユダヤ人はサマリア人を異邦人と見なし、関わることを拒絶していたからです。ところが重い皮膚病という共通の痛みを負う彼らは助け合い寄り添い合っていたのです。
重い皮膚病を患った人たちが社会において普通の生活が許されず、偏見と差別にあい、疎外されていたという厳しい現実が垣間見えてくるようです。そういう中で、ユダヤ人とサマリア人とが共存していたということです。
彼らはイエスさまに、「どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げ訴えました。「私を」ではなく「私たちを」と叫んだ。そのところに、病と闘う彼らの共通の意識を読みとることができます。病を負うことは本当に辛いことです。その辛さはその病を負った者でなければわからないでしょう。差別や偏見、いじめやパワーハラスメント等の問題もそうでありましょう。それがどれほど人の心を傷つけるものであるか。最も知っているのはそれを実際に受けて来た人たちでしょう。
この重い皮膚病の人たちは共通の痛みの中で、イエスさまに「どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げ訴えました。今、私たちはそれぞれに異なる課題をそれぞれに担う中で、キリストの共同体として召されております。病、人間関係、家庭や仕事の問題と様々です。けれどもその中で痛みを、悩みを、課題を共に分かち合い一緒になって主に呼び求めていく。そこにキリストのいやしと救いがもたらされていくのです。

②「御言葉に信頼して行なう信仰」
14節、「イエスさまは重い皮膚病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われます。ルカ5章のところでも「重い皮膚病を患っていた人をいやされる」記事がありますが。そこでは、イエスさま自らが手を差し伸べて直接その人に触れて、「よろしい。清くなれ」と言われました。すると、たちまち病が去った、とあります。それからしますと本日の箇所は、イエスさまが彼らに触ることも、「清くなれ」ともおっしゃることもなく、ただ「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」とだけ言われており、何だか素気ないようにも思えます。これは一体どういうことなのでしょうか?

この個所を読みますと、まずイエスさまはその十人の人たちを「見て」とあります。それはこの彼らの抱えている病、重荷、問題のすべてをまるでお医者さんのように、よく見られたということでありましょう。そのうえでイエスさまは、律法の清めの儀式(レビ記14章)に従うよう「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」とおっしゃっているのです。
福音書を読みますと、イエスさまがおいやしになる時、その関わりようがそれぞれに異なることに気づかされます。それは、その人その人の根幹に触れる問題が体のいやしと共に解放されて回復する事を望んでおられるからです。主は私を、一人の人としてあたかもお医者さんが診察するかのように知っていて下さり、私に合った最善の方法を通して全人的いやしと解放、回復を与えようとして下さるのです。

さて、重い皮膚病の人たちは、イエスさまから「祭司のところへ行って、体を見せなさい」と言われますが。それは、彼らが、イエスさまのお言葉に信頼し、聞き従うかどうか、その信仰を試された、ということであります。
そして「彼ら(十人の人たちはみなすべて)は、そこへ行く途中で清くされた」というのですね。つまり、十人全員、イエスさまのお言葉に信頼し、そのとおりに行ない行く途上において清くされたのです。いやしは見えるかたちでまだ実現されていなかったのですが、彼らはみなイエスさまのお言葉のもと、必ずいやされると信じて、あるいは大いなる期待をもって祭司たちのところへ向かった。そこに主の御業を見ることができたのであります。まさにヘブライ11章1節にあるように、見ずして御言葉に信頼する信仰。御言葉にかけていく者に、主は答えて下さるお方であることがここに示されているのです。

③「戻って来たサマリア人」
さて15節、「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった」。
清くされたのは十人全員でした。しかしそのうちの一人のサマリア人だけがイエスさまのところに戻って来ました。他の九人はおそらくそのまま祭司のところに清められた体を見せに行ったのでしょう。この九人はユダヤ人であったのでしょう。彼らはユダヤ人でしたので、祭司に清められたことを認証してもらえば社会復帰することができたのです。愛する家族のもとに帰ることもできたのです。
しかしこの一人のサマリア人の事情はどうやらそれとは大きく異なっていたようです。彼がたとえ祭司のところに行って清められた体を見せても、ユダヤ社会での社会復帰はなお困難であり、閉ざされたままであろう現実があったのです。他の九人の営みや生活が回復された時、今や一人となったこのサマリア人は、イエスさまのところへ戻って来る以外に道がなかったのかも知れません。

けれどもこのサマリア人は、「大声で神を賛美しながらイエスさまのもとへ戻って来た」とここに書かれています。彼は孤独ではありませんでした。又、しかたなくイエスさまのもとに戻って来たのでもありません。その人は喜びと感謝に満ち溢れ、神を賛美していました。「主が共におられる」という確信を得ることができたからです。その恵みがどんなに力強いものかを体験したからであります。サマリア人と重い皮膚病という二重にも差別され、ずっと辛い痛みに打ちひしがれてきた彼の人生、帰るべき場を地上に持たないそのような彼が、主の御名を、救いの御業を喜び讃える者となったのです。

17節、「そこで、イエスは言われた。『清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。』
イエスさまは、ここで戻って来なかった九人について、どうして戻って来なかったのか?と尋ねていますが。すでにその九人の思いを主はご存じでした。
イエスさまは、「ほかに神を賛美するために戻って来た者はいないのか」とおっしゃいます。確かに九人は重い皮膚病がいやされ、以後社会復帰への道も開かれていったであろうと考えられます。けれども、彼らは主を賛美し、主のもとに戻って来ることはなかったのであります。この一人のサマリア人のように、「救いの主が共におられる」との力強い確信を得る事はなかったのであります。ルカ福音書は「悔い改め」「主のもとに立ち返る出来事」を大事にしています。そこに神との交わりの回復、人と人との交わりの回復の「基」があるからです。
あれだけ、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と、声を張り上げ訴えていたのに、彼らはイエスさまへの恩恵と感謝、又その時みなで一つになってイエスさまへ向かっていた思いや連帯意識さえも、病が癒され日常生活が取り戻されることを境に、薄れ、忘れ去られてしまうことになっていったのでありましょう。主を賛美するため、常に主のもとに戻って来る私たちでありたいと願います。

④「救い」
さて9節、「それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った』」。
病を抱えている人にとってその病が深刻なほど、いやされるということは実に切実な問題であることに変わりありません。聖書にいやしについて多くの記事が割かれているのも、それが本当に切実な問題であるからです。イエスさまも地上の公生涯において、神の国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされました。聖書の語る「救い」は「いやし」を通してもたらされることもございますが、「いやし」そのもの、それ自体ではありません。たとえ病がいやされても、人は誰もいつか死んでいく限りある身であります。病気がいやされたとしても、やがては死にゆく者に変わりないのです。聖書はそういった限りある人間に対して「救い」を語ります。本日の箇所において、主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と、サマリア人に宣言されています。
彼は重い皮膚病がいやされたことを通して、「生ける主が真の全人的な救いをお与え下さった」という力強い確信を得るのです。それは病がいやされるという現象を超えた大きな驚くべき出来事であります。それが彼の魂の底から湧き溢れ出る命の力となっていったのです。彼は目に見えるもの以上の尊く、かけがえのない安心と支えの保証を主から賜るのです。彼は文字通り「救いを得た」のです。
 イエスさまは、信仰の確信をもって「立ち上がって、行きなさい」とおっしゃいます。サマリア人である彼がこれから社会にあって生きていくには、多くの壁や障害があることでしょう。しかし、「あなたの信仰があなたを救った」という宣言によって、主は彼をその足で立たしめて、「その信仰をもって生きよ」と後押ししてくださっているのです。
私たちも又、この「救いの主が共におられるという心強い支え」、信仰の確信をもって、様々な困難や問題に対しても向き合い、祈りつつ、前進してまいりましょう。ここから。
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「金持ちとラザロ」のたとえ

2012-02-05 17:49:11 | メッセージ
宣教 ルカ16章19~31節 

本日はルカ16章より「金持ちとラザロ」のたとえ話から、御言葉を聞いていきます。
このたとえ話は、14節にありますように、「金に執着するファリサイ派の人々」に対して語られたものです。彼らファリサイ派の人々は律法を守ってきたことを誇り、自分たちの富や財産を「神に忠実に仕えてきたことに対する当然の報酬」のように考えていたのです。彼らはイエスさまがおっしゃった「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」との言葉をあざ笑いました。主の御言葉と教えに従い生きること。奉仕すること。これらは信仰から来る恵みであり、感謝のしるしであります。しかしそれがいつの間にか、自分はこれだけ神のため、又、人のために奉仕をしているのにと、高慢になり、いつしか人を裁くようになっていったファリサイ派の人たちや律法学者たち。遂には、神からこれだけの報いがあって然るべき、とばかりに金に執着する人たちがいたということです。
今日はそんな彼らに対して語られたイエスさまのたとえに耳を傾け、キリスト者であっても陥りかねない囚われからの解放のメッセージとして受け取っていきたいと思います。

それでは、イエスさまのたとえを丁寧に読んでいきましょう。
19節「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」。この金持ちは、高価な紫の衣や柔らかい麻布を身につけ、自分の富、財産、名誉を着飾っていたのです。そして彼は自分の所有している地上の富を、ただ「ぜいたく」に「自分の楽しみ」だけのために用いていました。聖書は「富」や「財産」を持つことについて、悪だとしたり、非難したりしていません。それどころか旧約聖書(特に申命記)では「富」や「財産」を得ることは神にあって良いもの、祝福とみなしています。富や財産は神からの賜物。しかし、だからこそ、それらの管理を託され、任されている者。それを如何に用いていくか。そのことが問われているのです。
富や財産に執着する者。別の言い方をすれば、その使い道が私欲を満たすためのものなら、どんなに神の教えをそらんじることができたとしても、神の御心や信仰を見出しているとは言えないでしょう。なぜなら、律法の要は「神を愛し、その御心を行うことであり、自分自身のように隣人を愛する」ことだからです。お金や財産をどう管理し用いていくかという問題も、そこから考え行動するように信仰者は問われているのです。

イエスさまはここで、神からの賜物、恵みである富や財産を、我が物のようにただ己の欲望を満たすために消耗し、使っていたファリサイ派の人々の行く末に警告を発します。
同じルカ福音書12章13節以降のところには、イエスさまの「愚かな金持ち」のたとえが記されています。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは大きな蔵を建てなおし、全部しまい込んで『さあ、これから何年も生きていく蓄えができたぞ。ひと休みして食べたり飲んだりして楽しめ』。しかし神は『愚かな者よ、今夜おまえの命は取りあげられる。おまえの用意したものは一体だれのものになるのか』」。イエスさまは言われます。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。

限りある人生において、私たちは豊かさをどこに見出しているでしょう。
さて、20節、今日登場する「金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来てはそのできものをなめた」とあります。
この金持ちは門前にラザロがいたのに気づかなかったはずありません。見て見ぬ振りをして放置し、関ろうとしなかったのです。できものだらけの貧しいラザロが門前に横たわっているのに、この金持ちは全く無関心であったのです。ここに犬がラザロのもとにやって来たとあります。この犬というのは先の放蕩息子のたとえで出てくる豚と並んでユダヤ人にとって汚れた動物と見なされ嫌われていたのですが。金持ちは門前のラザロのもとにもやって来ることはなかったのに、その犬はラザロのもとにやって来て、彼のできものをなめて慰めたというのです。

22、23節「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた」。
死んでからは、貧しさのゆえに多くの辛苦をなめたラザロは「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれ」、天の食卓にアブラハムと共に与ることができます。ところが、金持ちは多分盛大な葬式まで営まれたであろうにも拘わらず、アブラハムと共なる宴席にではなく、何と、「陰府の炎の中でもだえ苦しむ」のです。
24節、金持ちは、大声で「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」と訴え、懇願します。ここに至って両者の立場が逆転するのです。
アブラハムは25、26節「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」。金持ちの訴えは退けられます。

イエスさまはこのたとえで、この地上で富み裕福に生活を送った者の死後に必ず苦しい報いが来るとか、逆に地上で貧しく苦しい生活を送った者の死後に必ず安楽な報いが約束されているというようなことを説いているのではありません。

ここに「この金持ちは生きている間は良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた」とあります。それは、両者の置かれていた境遇を直接的には指しているといえます。けれども、この良い、又、悪い状況は何か宿命的なもの、絶対的なものでありません。神さまはそれらを人間に与えながら、如何にそこで人間が生きるかを見極め、導かれるのであります。私たちは自分の生れた国、その境遇、家族を選ぶことができません。
例えば、世界には一部の富む国と多くの貧しい国があります。しかし、それを私たちは自分で選んで生まれて来たのではありません。私がどこに生まれ、どういう環境で育ち、今何を与えられているか。すべては主の御手のうちにおかれています。そこで、主を知る者は「如何に主のみ心に従って生きるか」。それが肝心なのだ、と聖書は語ります。

本日のイエスさまのたとえは、少なからず「良いもの」を与えられた者へのメッセージです。「良いもの」とは、富や財産、健康、又、広義で「幸せ」や「平和」といえましょう。たとえのなかで、貧しきラザロが一言も語らず、金持ちとアブラハムとの対話がなされているのも、神から良いものを与えられた者の側に向けた勧めと促しである事が分かります。

26節に、アブラハムが「わたしとお前たちとの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」とあります。それはどこか決定的な審判のように強く響いてきます。
が、しかしこれはたとえ話であります。金持ちとラザロとの間にある大きな淵、深淵。
その言わんとしている事、それは「交わりの断絶」であります。隣人との交わりの断絶、そして神との交わりの断絶です。ですから、イエスさまはこのたとえを聞く者に向かって「命ある今、あなたの傍らにいる貧しい隣人ラザロを、アブラハムの子、兄弟として迎え入れていくように」と勧め、促しておられるのです。

さて、炎の中で、もだえ苦しむ金持ちは、「せめて自分の兄弟の5人が、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」と、アブラハムに懇願します。
それに対してアブラハムは、「お前の兄弟たちにはモーセと預言者とがいる。彼らに耳を傾けるがよい」と答えます。

このところを読みますと、この金持ちも、まあ兄弟のことを心配しているので、アブラハムからもう少し慈悲深い返事が返ってきてもよいのではなどと思えたりもしますが。
事はそういう次元ではないのです。「モーセと預言者」の言葉である聖書。その神の言葉である聖書を通して、「あなたはこの地上において、如何に生きるべきかもう十分語っているではないか。それ以上のことを伝える必要はない」ということです。

金持ちはくいさがって、「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれか兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」と訴えます。
それに対してアブラハムは、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と、答えたというのです。

ファリサイ派の人々はしるしや奇跡を求め強調し、又、死者の復活を信じていた人たちです。イエスさまは、その彼らに対して、「聖書によって示されている神の言葉に耳を傾けようとしない者は、たとい死者の中から生き返る者の言葉を聞いても、悔い改めることはない」と、おっしゃっているのです。
主は私たちに必要なすべてを、御言葉(聖書)のなかに備えておられます。
そしてその教えは、どこをとっても「神の愛と隣人愛に生きる」ことを示しています。
私たちはイエスさまを通して、神との交わりの断絶を解かれる悔い改めへと招かれました。又、隣人との交わりの断絶をも解かれる道へと招かれています。この悔い改めは「隣人への憐れみと施し」へとつながっていきます。同じルカ福音書20章では、イエスさまを迎え、悔い改めた徴税人のザアカイは「自分の財産の半分を貧しい人々に施しました」。「今日救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」。「神の国は、実にあなたがたの間にある」とイエスさまがおっしゃっているように、真御言に聞き従って生きていく時、まさにこの神と人との間に、人と人の間に和解が起こされていくのです。

イエスさまはこのたとえを通して、金に執着していたファリサイ派の人々に向け、「あなたがたのなすべきことは、新しいことではなく、すでにモーセ(律法)と預言者から聞いているとおりである。それはまさに「神を愛し、自分自身のように隣人を愛する」ということに尽きる」と、お示しになられました。

生かされ、与えられている「今」。私たち一人ひとりは、その与えられている「良いもの」をそばにいる隣人、又、助けを必要としている人を活かすために用い、使うように招かれています。神の前に豊かに生きる人生。それは、神と人、人と人をつなぐ真に豊かな人生であります。与えられている「良いもの」を主に感謝し、喜びをもって捧げ、今必要としている人のために、活かして用いていきましょう。主の栄光のために。
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