宣教 ルカ19章28~40節
教会歴で先週の水曜日から受難節(レント)に入りました。3月31日までが受難節で、
4月1日から受難週となり、今年のイースター(復活祭)は4月8日となります。
今日はルカ19章28-40節より「主がお入り用なのです」と題し、御言葉を聞いていきます。
① 「まだだれも乗ったことのない子ろば」
まず、イエスさまはエルサレムに向かう途上のべトファゲとベタニヤに近づいたとき、二人の弟子に30節-31節「向こうの村へ行きなさい。そこを入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入りようなのです』と言いなさい」と、そのようにお命になります。
イエスさまはエルサレムへ入城するにあたり、いかにも勇ましく見栄えのいい馬ではなく、ろばをお用いになられるのです。通常ろばは、旅行者がその旅の便宜のため乗ったり、荷を運ぶのに借りたり、雇ったりしていたそうです。又、労働力として家畜用にも飼われていました。ろばは労働や奉仕するための動物だったのです。一方の馬は、軍事的な戦力、又王の行進のために用いられるなど権力を象徴する存在でした。イエスさまはエルサレムへの入城というここ一番の時に、どうして見栄えよく権力を表す馬ではなく、いかにも小さくて弱々しい子ろばをお用いになったのでしょうか。確かに貧しいベタニヤの村には馬を所有する者がいなかったということもあるかも知れません。しかし、真の王の王であられる、イエスさまがお乗りになられるのは軍馬の方がふさわしいようにも思えますし、イエスさまならば何とかしてそれを調達することもおできになったのではないでしょうか。
しかし、イエスさまは、「まだだれも乗ったことのない子ろば」をお用いになるのです。
この「まだだれも乗ったことのない子ろば」というのは、無垢で純真な、聖なるものであるという意味にもとれましょう。けれども単純に、「まだ一人前とはいえない」「未熟」なろばであったということでありましょう。
注目すべきは、イエスさまが受難の道、十字架の道へと向かうにあたり、そのようなろばをあえてお用いになられたということであります。
② 「御言葉どおりになる信仰」
まだまだ未熟で、、、といえば、この時の弟子たちも同じであったでしょう。彼らはイエスさまがなさろうとしていることがなかなか理解できません。それも無理なからぬことでしょう。「この方こそ世を改めて私たちを統治するにふさわしい方、来るべき王」と従って来た彼らに対して、主イエスは「十字架にかけられる」とか「侮辱され殺される」とかおっしゃるのですからね。
しかし、そのような未熟な弟子たちが、ろばの子のような彼らが、主に用いられていくのであります。どのようにしてか。それは唯「御言葉に従う」ということを通してであります。ここでもイエスさまは二人の弟子にろばの子を連れて来るように細かな指示をなさいまが、32節「使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった」とあります。彼らの中には「そこに行けば本当にろばの子がいる」という確証があったかはわかりません。けれども彼らが「イエスさまのおっしゃられたとおりに唯従った時、主のいわれたことは本当だった、という出来事を体験するのであります。
彼らが33節以降で、ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、『なぜ、子ろばをほどくのか』と言いますが、そこでも二人は、『主がお入り用なのですと答えなさい』というイエスさまの御言葉どおり持ち主に伝えると、持ち主たちはあっさりと彼らに子ろばを引き渡したというのですね。
たとえ私たちが未熟であったとしても、弱々しく頼りないろばの子のようであったとしても、主の御言葉どおりに行ない、そのように生きていく時、そのいわばからし種一粒のような信仰を通して、主はその御心に沿う御業を見せてくださるのであります。
③ 「平和の王」
さて、このろばの子ですが。「つながれていた」のを「ほどいて」イエスさまのところに引いて来たわけですが。この「ほどく」というという言葉がこだわるようにここで何度も繰り返されていますね。そこには、ローマ政府の圧政にあえぎ苦しんでいる多くの人々のつながれているようなその状況と、そこからほどかれる、つまり解放への願いが込められているように思えます。
イエスさまは、当時のローマの悪政や権力による支配をどんなにか憂い、嘆かれたことでしょう。そして抑圧を受ける人たちが真に解放されることを願っておられたことでしょう。けれどもイエスさまは、軍事力や権力による解放をお求めにならなかったのであります。
イエスさまが軍馬ではなく「子ろば」をお用いになって、エルサレムに向かわれたというのは実に象徴的であります。
37節、「イエスさまがオリーブ山のくだり阪にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことを喜び、声高らかに神を賛美し始めた」とあります。
38節「主の名によって来られる方。王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」
彼らは「天には平和」と賛美したとあります。これは王の王・メシヤ(キリスト)が「平和の王」であられるということを示しています。ただ、ここに「天には」とありますように、イエスさまは平和をもたらす方として到来されましたが、その平和は地の上にまだ実現されていない、ということを暗示しているようです。その平和はまさに、これから主イエスがエルサレムに入城され、御自分の十字架の受難と死を通して実現されるのです。
十字架のい御業をして真の平和への道、すなわち、神と人の交わりの回復、人と人の交わりの回復の道が開かれていくのであります。そしてその真の平和への道のりは、主が再びこの地に来たりたもうその時に向け、主の弟子とされた私たちに今も引き継がれているのであります。
④ 「石が叫ぶ」
さて、39節、この賛美を聞いていた、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言うと、40節、イエスは「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」とお答えになったとあります。
ファリサイ派と聞けば、十把一絡にイエスさまに敵対していた人たちという先入観で見てしまいがちですが。そのグループの中には敬虔でイエスを尊敬していた人たちもいたようであります。イエスに向かって「先生」と言ったこのファリサイ派の人々も少なからずイエスに親愛と尊敬の念を抱いていたと考えてよいと思います。けれども彼らはイエスの弟子にはなれず、一定の距離を保っていたのであります。
ここで彼らは「これ以上、賛美が高まれば、イエスの身に危険が及びかねない」という、そういう観点から「賛美をやめさせて黙らせるように」と、指摘しているのです。これはまあある意味、常識的な進言のようにも聞こえます。
しかしその彼らに対してイエスさまは、「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶ」と、お答えになられるのです。ここで、心から湧き出るこうした賛美を、力づくで、又強制力でもって押さえつけたとしても、それを阻止することはできないということです。すべてを造りたもう主は、石をも用い賛美させるお方であられるからです。
⑤ 「主がお入りようなのです」:子ろばを用いられる主
最後に、冒頭で申しましたように本日の箇所は、主イエスが平和の王として救いと解放を成し遂げられるために、十字架の苦難と死に向かう道を進みゆかれる時に、軍馬ではなく「だれも乗ったことのない子ろば」、つまり役に立たないようなものをお用いになられたということであります。
この私たちの社会は、ある意味ほんとうに先行きが見えないような不安や不満、閉塞感に覆われているといえます。そういった時に、ある種強いリーダーシップを持った、又カリスマ性のある指導者が、世の不安や不満、閉塞感を解消してくれるがごとき待望感を抱かせます。かつてドイツ、日本が侵略戦争へ向かったその道のりにはこのような要因がありました。
「『相手をたたきのめす』又『プロセスをふっ飛ばす』それがいいんだとするような過激な手法に待望論が集まるほど、「戦後民主主義は行き詰っているのかも知れない」と、ある精神科医の方もおっしゃっていましたが。いろんな面で厳しく、不安や恐れの多い時代でありますが。強いリーダーシップを求めるあまり、逆に身動きがとれなくなり、体制の中に組み込まれて、ひいてはかつての過ちを繰り返すことになりかねません。そういうことになっていかないためにも、しっかりと私たちは平和の主、ろばの子に乗って来られたお方イエス・キリストにのみ、聞き従っていく者でありたいものです。
この大阪市は、新しい市長になって高齢者が病院や買い物、生活の足として来た「赤バス」を赤字で採算が取れない、役に立たないという理由で、バッサリと切り捨て、廃止しようとしています。
イエスさまは子ろばに乗られましたが、イエスさまが大阪にお住みになられていたら赤バスを利用なされたかも知れませんね。庶民の生活をつぶさに見、体験され、いつくしまれるお方だからです。弱い立場にある人たちが切り捨てられ、苦しみを受けることに怒り、憂い、共に痛まれるお方だからであります。今日本の至るところで障害者への支援金の減額を強行するような施策が推し進められようとしています。社会や国に貢献し役立つことがないと決めつけられた人たちを切り捨て、採算が取れないということでハンディをもつ人の生きがいや将来が揺るがされ、奪われる世の中はさつばつとしたものです。又、小学校の卒業式が近づいて来ましたが、授業時間を割いての卒業式の練習時間が大幅にとられています。これも日の丸起立強制化の条例に向けた布石なのかとかんぐってしまいます。
実際府立の卒業式で起立条例に従わなかったという教員8名がすでに懲戒処分とされたそうです。又、ある高校の教師は、指紋押捺を拒否する外国籍の生徒との出会いから、その苦しみに触れる経験を通して、その方は日の丸・君が代の反対というより、強制によって排外主義が助長されることに強い危機感を感じると言っています。人権の問題なのです。
いろんな人とふれあい、出会うことで、いろんな考え方を知り、互いを尊重し、共に生きる世界、聖書の「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12章15節)との御言葉のとおり、そこに本当の平和が築かれるのであります。
そして何よりも、エフェソ2章14節の「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」私たちはその世界観を、子ろばに乗った柔和なお方、イエス・キリストを通して知らされました。私たち一人ひとりは子ろばのような小さな存在かも知れません。しかし、「主がお入り用なのです」。平和の王である救い主の御心を運ぶ者、掲げる者として、祈り、従い、身近なところから、平和を造り出す人としてあゆんでまいりましょう。
教会歴で先週の水曜日から受難節(レント)に入りました。3月31日までが受難節で、
4月1日から受難週となり、今年のイースター(復活祭)は4月8日となります。
今日はルカ19章28-40節より「主がお入り用なのです」と題し、御言葉を聞いていきます。
① 「まだだれも乗ったことのない子ろば」
まず、イエスさまはエルサレムに向かう途上のべトファゲとベタニヤに近づいたとき、二人の弟子に30節-31節「向こうの村へ行きなさい。そこを入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入りようなのです』と言いなさい」と、そのようにお命になります。
イエスさまはエルサレムへ入城するにあたり、いかにも勇ましく見栄えのいい馬ではなく、ろばをお用いになられるのです。通常ろばは、旅行者がその旅の便宜のため乗ったり、荷を運ぶのに借りたり、雇ったりしていたそうです。又、労働力として家畜用にも飼われていました。ろばは労働や奉仕するための動物だったのです。一方の馬は、軍事的な戦力、又王の行進のために用いられるなど権力を象徴する存在でした。イエスさまはエルサレムへの入城というここ一番の時に、どうして見栄えよく権力を表す馬ではなく、いかにも小さくて弱々しい子ろばをお用いになったのでしょうか。確かに貧しいベタニヤの村には馬を所有する者がいなかったということもあるかも知れません。しかし、真の王の王であられる、イエスさまがお乗りになられるのは軍馬の方がふさわしいようにも思えますし、イエスさまならば何とかしてそれを調達することもおできになったのではないでしょうか。
しかし、イエスさまは、「まだだれも乗ったことのない子ろば」をお用いになるのです。
この「まだだれも乗ったことのない子ろば」というのは、無垢で純真な、聖なるものであるという意味にもとれましょう。けれども単純に、「まだ一人前とはいえない」「未熟」なろばであったということでありましょう。
注目すべきは、イエスさまが受難の道、十字架の道へと向かうにあたり、そのようなろばをあえてお用いになられたということであります。
② 「御言葉どおりになる信仰」
まだまだ未熟で、、、といえば、この時の弟子たちも同じであったでしょう。彼らはイエスさまがなさろうとしていることがなかなか理解できません。それも無理なからぬことでしょう。「この方こそ世を改めて私たちを統治するにふさわしい方、来るべき王」と従って来た彼らに対して、主イエスは「十字架にかけられる」とか「侮辱され殺される」とかおっしゃるのですからね。
しかし、そのような未熟な弟子たちが、ろばの子のような彼らが、主に用いられていくのであります。どのようにしてか。それは唯「御言葉に従う」ということを通してであります。ここでもイエスさまは二人の弟子にろばの子を連れて来るように細かな指示をなさいまが、32節「使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった」とあります。彼らの中には「そこに行けば本当にろばの子がいる」という確証があったかはわかりません。けれども彼らが「イエスさまのおっしゃられたとおりに唯従った時、主のいわれたことは本当だった、という出来事を体験するのであります。
彼らが33節以降で、ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、『なぜ、子ろばをほどくのか』と言いますが、そこでも二人は、『主がお入り用なのですと答えなさい』というイエスさまの御言葉どおり持ち主に伝えると、持ち主たちはあっさりと彼らに子ろばを引き渡したというのですね。
たとえ私たちが未熟であったとしても、弱々しく頼りないろばの子のようであったとしても、主の御言葉どおりに行ない、そのように生きていく時、そのいわばからし種一粒のような信仰を通して、主はその御心に沿う御業を見せてくださるのであります。
③ 「平和の王」
さて、このろばの子ですが。「つながれていた」のを「ほどいて」イエスさまのところに引いて来たわけですが。この「ほどく」というという言葉がこだわるようにここで何度も繰り返されていますね。そこには、ローマ政府の圧政にあえぎ苦しんでいる多くの人々のつながれているようなその状況と、そこからほどかれる、つまり解放への願いが込められているように思えます。
イエスさまは、当時のローマの悪政や権力による支配をどんなにか憂い、嘆かれたことでしょう。そして抑圧を受ける人たちが真に解放されることを願っておられたことでしょう。けれどもイエスさまは、軍事力や権力による解放をお求めにならなかったのであります。
イエスさまが軍馬ではなく「子ろば」をお用いになって、エルサレムに向かわれたというのは実に象徴的であります。
37節、「イエスさまがオリーブ山のくだり阪にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことを喜び、声高らかに神を賛美し始めた」とあります。
38節「主の名によって来られる方。王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」
彼らは「天には平和」と賛美したとあります。これは王の王・メシヤ(キリスト)が「平和の王」であられるということを示しています。ただ、ここに「天には」とありますように、イエスさまは平和をもたらす方として到来されましたが、その平和は地の上にまだ実現されていない、ということを暗示しているようです。その平和はまさに、これから主イエスがエルサレムに入城され、御自分の十字架の受難と死を通して実現されるのです。
十字架のい御業をして真の平和への道、すなわち、神と人の交わりの回復、人と人の交わりの回復の道が開かれていくのであります。そしてその真の平和への道のりは、主が再びこの地に来たりたもうその時に向け、主の弟子とされた私たちに今も引き継がれているのであります。
④ 「石が叫ぶ」
さて、39節、この賛美を聞いていた、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言うと、40節、イエスは「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」とお答えになったとあります。
ファリサイ派と聞けば、十把一絡にイエスさまに敵対していた人たちという先入観で見てしまいがちですが。そのグループの中には敬虔でイエスを尊敬していた人たちもいたようであります。イエスに向かって「先生」と言ったこのファリサイ派の人々も少なからずイエスに親愛と尊敬の念を抱いていたと考えてよいと思います。けれども彼らはイエスの弟子にはなれず、一定の距離を保っていたのであります。
ここで彼らは「これ以上、賛美が高まれば、イエスの身に危険が及びかねない」という、そういう観点から「賛美をやめさせて黙らせるように」と、指摘しているのです。これはまあある意味、常識的な進言のようにも聞こえます。
しかしその彼らに対してイエスさまは、「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶ」と、お答えになられるのです。ここで、心から湧き出るこうした賛美を、力づくで、又強制力でもって押さえつけたとしても、それを阻止することはできないということです。すべてを造りたもう主は、石をも用い賛美させるお方であられるからです。
⑤ 「主がお入りようなのです」:子ろばを用いられる主
最後に、冒頭で申しましたように本日の箇所は、主イエスが平和の王として救いと解放を成し遂げられるために、十字架の苦難と死に向かう道を進みゆかれる時に、軍馬ではなく「だれも乗ったことのない子ろば」、つまり役に立たないようなものをお用いになられたということであります。
この私たちの社会は、ある意味ほんとうに先行きが見えないような不安や不満、閉塞感に覆われているといえます。そういった時に、ある種強いリーダーシップを持った、又カリスマ性のある指導者が、世の不安や不満、閉塞感を解消してくれるがごとき待望感を抱かせます。かつてドイツ、日本が侵略戦争へ向かったその道のりにはこのような要因がありました。
「『相手をたたきのめす』又『プロセスをふっ飛ばす』それがいいんだとするような過激な手法に待望論が集まるほど、「戦後民主主義は行き詰っているのかも知れない」と、ある精神科医の方もおっしゃっていましたが。いろんな面で厳しく、不安や恐れの多い時代でありますが。強いリーダーシップを求めるあまり、逆に身動きがとれなくなり、体制の中に組み込まれて、ひいてはかつての過ちを繰り返すことになりかねません。そういうことになっていかないためにも、しっかりと私たちは平和の主、ろばの子に乗って来られたお方イエス・キリストにのみ、聞き従っていく者でありたいものです。
この大阪市は、新しい市長になって高齢者が病院や買い物、生活の足として来た「赤バス」を赤字で採算が取れない、役に立たないという理由で、バッサリと切り捨て、廃止しようとしています。
イエスさまは子ろばに乗られましたが、イエスさまが大阪にお住みになられていたら赤バスを利用なされたかも知れませんね。庶民の生活をつぶさに見、体験され、いつくしまれるお方だからです。弱い立場にある人たちが切り捨てられ、苦しみを受けることに怒り、憂い、共に痛まれるお方だからであります。今日本の至るところで障害者への支援金の減額を強行するような施策が推し進められようとしています。社会や国に貢献し役立つことがないと決めつけられた人たちを切り捨て、採算が取れないということでハンディをもつ人の生きがいや将来が揺るがされ、奪われる世の中はさつばつとしたものです。又、小学校の卒業式が近づいて来ましたが、授業時間を割いての卒業式の練習時間が大幅にとられています。これも日の丸起立強制化の条例に向けた布石なのかとかんぐってしまいます。
実際府立の卒業式で起立条例に従わなかったという教員8名がすでに懲戒処分とされたそうです。又、ある高校の教師は、指紋押捺を拒否する外国籍の生徒との出会いから、その苦しみに触れる経験を通して、その方は日の丸・君が代の反対というより、強制によって排外主義が助長されることに強い危機感を感じると言っています。人権の問題なのです。
いろんな人とふれあい、出会うことで、いろんな考え方を知り、互いを尊重し、共に生きる世界、聖書の「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12章15節)との御言葉のとおり、そこに本当の平和が築かれるのであります。
そして何よりも、エフェソ2章14節の「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」私たちはその世界観を、子ろばに乗った柔和なお方、イエス・キリストを通して知らされました。私たち一人ひとりは子ろばのような小さな存在かも知れません。しかし、「主がお入り用なのです」。平和の王である救い主の御心を運ぶ者、掲げる者として、祈り、従い、身近なところから、平和を造り出す人としてあゆんでまいりましょう。