礼拝宣教 士師記8章22~35節
先週は礼拝、次いで奈良教会みささぎ伝道所・伝道師就任式、又翌日は関西地方教会連合の信徒大会、さらに同日は大阪旭伝道所と関係があります、しんもり福祉会平和の子保育園50周年記念式典など行事が目白押しでした。
心配された台風の影響もなく無事開催されましたが。
その一方で、台風18号による犠牲者、被災者が各地に出ております。殊に、メキシコでは大きな地震が起こり多くの犠牲者と、未だに行方がわからない方々がおられるということですが。一日も早い救出を、とお祈りいたします。
さて、今月は士師記よりギデオンのエピソードから御言葉に聞いてきましたが。今日はその最終回となる8章から「主に心を留めて生きる」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
先の6章の士師の召命の記事では、ギデオンは敵からも同胞からもその身を隠すように酒ぶねの中で麦を打っているような者でしたが、そんな彼に神の使いが現れ「勇者よ、主があなたと共におられます」と呼びかけます。疑い戸惑うギデオンの要求に、主はしるしをもってお応えになり、ギデオンはイスラエルの民を窮地から救う士師として立てられていきます。
先週7章は、ギデオンが攻め込もうしてくるミディアン人の大軍と戦うべく人々を集めるのですが。イスラエルの民が32000人も集まり「これで戦える」というところ、主は
300人。はじめの1%に満たない人数にまで減らされます。
主は「あなたの率いる民は多すぎるのでミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せばイスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」と言われ、「唯、神の力のみ」頼りにしていくところに救いがあるとの、メッセージを私たちはそのところから聞いたわけですが。
まあそうして実際数えることのできない大軍勢に対し、その300人に勝利がもたらされるのであります。
しかし今日の箇所を読みますと、イスラエルの民は、自分たちがミディアン人の大軍に勝利できたのは勇士ギデオンのおかげであり、彼に力があったからだ思ったようです。そうして主なる神さまではなく、ギデオンが戦いの英雄としてまつりあげられていくのですね。「神は生きておられる」という信仰が見えず、目に見える人や物を頼とし、まつりあげていく人の弱さがそこにありますが。ではギデオンはそういう人々の反応の中でどうであったか、ということですけれども。
まず今日の箇所から示されますことは、「口で語った言葉とその行いの矛盾」についてであります。
22節で、人々はギデオンに『ミディアン人の手から我々を救ってくれたのはあなたですから、あなたはもとより、御子息、そのまた御子息が、我々を治めてください』と言います。
そのように彼らがギデオンに頼むのは、神御自身が勝利に導かれたことがわかっていなかったからです。
まあ彼らはギデオンに直接、王様になってくださいなどと言ってはいないのですが、「ギデオンをはじめその子孫たちが権力を持って民を治めていってください」ということですね。
それに対してギデオンは「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる」と答えます。
ここだけを読みますと、「ああ、さすがギデオンだ。自分のことをよくわきまえた上での言葉だ」と思えるのでありますが。しかしこのあとすぐにその口から出た言葉と、実際の行ないが矛盾していることが明らかにされていきます。
24節でギデオンは、『あなたたちにお願いしたいことがある。各自戦利品として手に入れた耳輪をわたしに渡してほしい』と、その敵がつけていた高価な金の耳輪などを「喜んで差し出す」人々からかき集めます。
ギデオンのもとに集められた金を合計すると千七百シュケル、それは重さにして約20キログラム相当の金となるそうで、かなりの貴い財産となります。その他にも三日月の飾り、垂れ飾り、ミディアン人の王たちがまとっていた紫布の衣服、らくだの首に巻き付けてあった飾り物などがあったとあります。
これは、ギデオンが正式な王になったのではなくても、得た富、財産、すべてが王の豊かさに劣るものではありませんよね。そうして、それらを使って彼はエフォドを作るわけです。
エフォドについては出エジプト記28章にありますように、神が立てられたレビ族の祭司が「神に仕えるため」身に着けるようにと命じられた「祭服の胸当て」のことです。
それにはイスラエル12部族を表す12種類の宝石がはめ込まれていました。祭司はそれを身に着け、12部族すべての民を神への礼拝へと執り成したのです。
ギデオンは、神々しい金や飾りでもって作らせたそのエフォドをどのような思いで見ていたのでしょうか。本来なら神に献納されるはずのエフォドです。
ところが彼は、それを自分の町に据えるのです。父の故郷オフラをギデオンは「自分の町」と私物化したように呼んで、そこにエフォドを置くんですね。
こうなるとイスラエルの人々はますますギデオンを神のように崇め、そのギデオンも王のような権力と富を得、彼自身が偶像礼拝の対象となっていくのです。
この彼に従って姦淫にふけっていったというのは偶像礼拝のことです。金のエフォドは、主なる神をたたえるためのものではなく、ギデオン自身を高め、彼の力を誇示するものになり変わったのです。そうしてギデオンの金のエフォドは、イスラエルの人々に救いの神を棄てさせ、ギデオンとその民にとって罪に陥る罠となったのです。
彼が、多くの妻をもち、70人もの息子がいたというのも、彼の王としての権力を表しています。又、そばめとの間に生まれた子にアビメレクと名付けるのですが。その名は「わが父は王」という意味だそうです。
もうここまできますと、ギデオンは自分が王として扱われ、見なされることを好み、酔いしれていたことがうかがえます。
このようにギデオンは口先の言葉では「わたしはあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる」いいながらも、実際には、王のような富や支配、権力を掌握していくのです。
口でいくら神を讃えていても、実際に神に対する誠実な態度として表れないなら、それは神さまを欺いて罪を犯していることになるでしょう。
人に対しても、第一ヨハネの手紙3章18節に次のように記されています。
「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」とありますが。それは、神を畏れ敬う者としての誠実さが行いとなって表れなければ、それは虚しい生き方になるのではないでしょうか。
私たちも又、神に救われている喜びと感謝を、神の栄光を輝かせる誠実さをもって生きていきたいものです。
さて、もう一つ今日の箇所が示していること。
それは「如何に日々主を心に留めて生きるか」であります。
ギデオンは王のような権力を得て、人々から持ち上げられ、イスラエルの一族にとっての偶像礼拝の罠となっていくのでありますが。
22節にあるとおり、イスラエルの民は当初から主なる神でなく、ギデオンがミディアンの大軍から自分たちを救ってくれたと考えていました。それは大きな誤りでした。
イスラエルを救ったのはギデオンではなく、主なる神さまなのです。
多くの人は、何か自分が助けられたり、願ったことが実現しますと、まあラッキーだったとか、運がよかった!とか、或いは、あの人のおかげだとか、思ったりするのではないでしょうか。
例えば、病気がよくなれば、ああいい病院にかかれて立派なお医者さんに治療してもらったおかげでよくなった。あの病院のあの先生は大したもんだ、となるのではないでしょうか。
けれども、人を創造し、命を与え、司っておられるのは誰でしょう。
「そのすべてを導いておられる神さまに感謝する」ということが忘れ去られていくとき、
人は金や銀、王やヒーローといった権力や地位、目に見えるありとあらゆる偶像を慕い、より頼み、民も国もその罠にはまっていき、やがては滅びに至っていくのです。
33節以降に「ギデオンが死ぬと、イスラエルの人々はまたもバアルに従って姦淫し、バアル・ベリトを自分たちの神とした。イスラエルの人々は、周囲のあらゆる敵の手から救い出してくださった彼らの神、主を心に留めなかった」とございます。
ギデオンとイスラエルの一族が、「主に心を留めて」歩んでいたら、偶像の罠に陥ることなく、彼らの先行きも大きく異なっていたのではないでしょうか。
この士師記は、神の民であっても、いとも容易く主を忘れ去り、罪を犯すということが幾度となく繰り返されていきますが。
じゃあ、それなら、主なる神さまはその罪深い人間のことを忘れ去られたのかと申しますと、それは士師記6章のギデオンの召命の箇所のところでありましたように、主はその弱く、言ってみれば優柔不断といえるような、貧弱なギデオンをはじめ、その民をあえてお立てになり、共におられた。別の言い方をすれば、見捨てず、見放されなかったのです。
それは一重に申命記7章6節以降にある主の約束のゆえです。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに。」
「唯、あなたに対する主の愛のゆえに」。たとえ貧弱でたどたどしいあなたの歩みであっても「主なる神さまはあなたを決して忘れない、見捨てることはしない」というお約束なのです。
それは今日の礼拝の招詞イザヤ書49章14節以降の御言葉も同様です。
「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた わたしの主はわたしを忘れられた、と。
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。」
私たちも又、神の目から御覧になれば、どんなにか、つたなく、たどたどしい歩みの者に過ぎないでしょう。にもかかわらず神は御ひとり子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと、御救いによって、そのような私たちひとり一人を「神の宝の民」として導き続けていてくださるのです。
もはや、世の虚しい偶像となるようなものを頼りとするのではなく、「わたしはあなたを忘れない。見捨てることは決してない」と約束したもう共におられる主なる神を日々忘れることなく、歩んでまいりましょう。今日もここから遣わされて。
先週は礼拝、次いで奈良教会みささぎ伝道所・伝道師就任式、又翌日は関西地方教会連合の信徒大会、さらに同日は大阪旭伝道所と関係があります、しんもり福祉会平和の子保育園50周年記念式典など行事が目白押しでした。
心配された台風の影響もなく無事開催されましたが。
その一方で、台風18号による犠牲者、被災者が各地に出ております。殊に、メキシコでは大きな地震が起こり多くの犠牲者と、未だに行方がわからない方々がおられるということですが。一日も早い救出を、とお祈りいたします。
さて、今月は士師記よりギデオンのエピソードから御言葉に聞いてきましたが。今日はその最終回となる8章から「主に心を留めて生きる」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
先の6章の士師の召命の記事では、ギデオンは敵からも同胞からもその身を隠すように酒ぶねの中で麦を打っているような者でしたが、そんな彼に神の使いが現れ「勇者よ、主があなたと共におられます」と呼びかけます。疑い戸惑うギデオンの要求に、主はしるしをもってお応えになり、ギデオンはイスラエルの民を窮地から救う士師として立てられていきます。
先週7章は、ギデオンが攻め込もうしてくるミディアン人の大軍と戦うべく人々を集めるのですが。イスラエルの民が32000人も集まり「これで戦える」というところ、主は
300人。はじめの1%に満たない人数にまで減らされます。
主は「あなたの率いる民は多すぎるのでミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せばイスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」と言われ、「唯、神の力のみ」頼りにしていくところに救いがあるとの、メッセージを私たちはそのところから聞いたわけですが。
まあそうして実際数えることのできない大軍勢に対し、その300人に勝利がもたらされるのであります。
しかし今日の箇所を読みますと、イスラエルの民は、自分たちがミディアン人の大軍に勝利できたのは勇士ギデオンのおかげであり、彼に力があったからだ思ったようです。そうして主なる神さまではなく、ギデオンが戦いの英雄としてまつりあげられていくのですね。「神は生きておられる」という信仰が見えず、目に見える人や物を頼とし、まつりあげていく人の弱さがそこにありますが。ではギデオンはそういう人々の反応の中でどうであったか、ということですけれども。
まず今日の箇所から示されますことは、「口で語った言葉とその行いの矛盾」についてであります。
22節で、人々はギデオンに『ミディアン人の手から我々を救ってくれたのはあなたですから、あなたはもとより、御子息、そのまた御子息が、我々を治めてください』と言います。
そのように彼らがギデオンに頼むのは、神御自身が勝利に導かれたことがわかっていなかったからです。
まあ彼らはギデオンに直接、王様になってくださいなどと言ってはいないのですが、「ギデオンをはじめその子孫たちが権力を持って民を治めていってください」ということですね。
それに対してギデオンは「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる」と答えます。
ここだけを読みますと、「ああ、さすがギデオンだ。自分のことをよくわきまえた上での言葉だ」と思えるのでありますが。しかしこのあとすぐにその口から出た言葉と、実際の行ないが矛盾していることが明らかにされていきます。
24節でギデオンは、『あなたたちにお願いしたいことがある。各自戦利品として手に入れた耳輪をわたしに渡してほしい』と、その敵がつけていた高価な金の耳輪などを「喜んで差し出す」人々からかき集めます。
ギデオンのもとに集められた金を合計すると千七百シュケル、それは重さにして約20キログラム相当の金となるそうで、かなりの貴い財産となります。その他にも三日月の飾り、垂れ飾り、ミディアン人の王たちがまとっていた紫布の衣服、らくだの首に巻き付けてあった飾り物などがあったとあります。
これは、ギデオンが正式な王になったのではなくても、得た富、財産、すべてが王の豊かさに劣るものではありませんよね。そうして、それらを使って彼はエフォドを作るわけです。
エフォドについては出エジプト記28章にありますように、神が立てられたレビ族の祭司が「神に仕えるため」身に着けるようにと命じられた「祭服の胸当て」のことです。
それにはイスラエル12部族を表す12種類の宝石がはめ込まれていました。祭司はそれを身に着け、12部族すべての民を神への礼拝へと執り成したのです。
ギデオンは、神々しい金や飾りでもって作らせたそのエフォドをどのような思いで見ていたのでしょうか。本来なら神に献納されるはずのエフォドです。
ところが彼は、それを自分の町に据えるのです。父の故郷オフラをギデオンは「自分の町」と私物化したように呼んで、そこにエフォドを置くんですね。
こうなるとイスラエルの人々はますますギデオンを神のように崇め、そのギデオンも王のような権力と富を得、彼自身が偶像礼拝の対象となっていくのです。
この彼に従って姦淫にふけっていったというのは偶像礼拝のことです。金のエフォドは、主なる神をたたえるためのものではなく、ギデオン自身を高め、彼の力を誇示するものになり変わったのです。そうしてギデオンの金のエフォドは、イスラエルの人々に救いの神を棄てさせ、ギデオンとその民にとって罪に陥る罠となったのです。
彼が、多くの妻をもち、70人もの息子がいたというのも、彼の王としての権力を表しています。又、そばめとの間に生まれた子にアビメレクと名付けるのですが。その名は「わが父は王」という意味だそうです。
もうここまできますと、ギデオンは自分が王として扱われ、見なされることを好み、酔いしれていたことがうかがえます。
このようにギデオンは口先の言葉では「わたしはあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる」いいながらも、実際には、王のような富や支配、権力を掌握していくのです。
口でいくら神を讃えていても、実際に神に対する誠実な態度として表れないなら、それは神さまを欺いて罪を犯していることになるでしょう。
人に対しても、第一ヨハネの手紙3章18節に次のように記されています。
「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」とありますが。それは、神を畏れ敬う者としての誠実さが行いとなって表れなければ、それは虚しい生き方になるのではないでしょうか。
私たちも又、神に救われている喜びと感謝を、神の栄光を輝かせる誠実さをもって生きていきたいものです。
さて、もう一つ今日の箇所が示していること。
それは「如何に日々主を心に留めて生きるか」であります。
ギデオンは王のような権力を得て、人々から持ち上げられ、イスラエルの一族にとっての偶像礼拝の罠となっていくのでありますが。
22節にあるとおり、イスラエルの民は当初から主なる神でなく、ギデオンがミディアンの大軍から自分たちを救ってくれたと考えていました。それは大きな誤りでした。
イスラエルを救ったのはギデオンではなく、主なる神さまなのです。
多くの人は、何か自分が助けられたり、願ったことが実現しますと、まあラッキーだったとか、運がよかった!とか、或いは、あの人のおかげだとか、思ったりするのではないでしょうか。
例えば、病気がよくなれば、ああいい病院にかかれて立派なお医者さんに治療してもらったおかげでよくなった。あの病院のあの先生は大したもんだ、となるのではないでしょうか。
けれども、人を創造し、命を与え、司っておられるのは誰でしょう。
「そのすべてを導いておられる神さまに感謝する」ということが忘れ去られていくとき、
人は金や銀、王やヒーローといった権力や地位、目に見えるありとあらゆる偶像を慕い、より頼み、民も国もその罠にはまっていき、やがては滅びに至っていくのです。
33節以降に「ギデオンが死ぬと、イスラエルの人々はまたもバアルに従って姦淫し、バアル・ベリトを自分たちの神とした。イスラエルの人々は、周囲のあらゆる敵の手から救い出してくださった彼らの神、主を心に留めなかった」とございます。
ギデオンとイスラエルの一族が、「主に心を留めて」歩んでいたら、偶像の罠に陥ることなく、彼らの先行きも大きく異なっていたのではないでしょうか。
この士師記は、神の民であっても、いとも容易く主を忘れ去り、罪を犯すということが幾度となく繰り返されていきますが。
じゃあ、それなら、主なる神さまはその罪深い人間のことを忘れ去られたのかと申しますと、それは士師記6章のギデオンの召命の箇所のところでありましたように、主はその弱く、言ってみれば優柔不断といえるような、貧弱なギデオンをはじめ、その民をあえてお立てになり、共におられた。別の言い方をすれば、見捨てず、見放されなかったのです。
それは一重に申命記7章6節以降にある主の約束のゆえです。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに。」
「唯、あなたに対する主の愛のゆえに」。たとえ貧弱でたどたどしいあなたの歩みであっても「主なる神さまはあなたを決して忘れない、見捨てることはしない」というお約束なのです。
それは今日の礼拝の招詞イザヤ書49章14節以降の御言葉も同様です。
「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた わたしの主はわたしを忘れられた、と。
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。」
私たちも又、神の目から御覧になれば、どんなにか、つたなく、たどたどしい歩みの者に過ぎないでしょう。にもかかわらず神は御ひとり子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと、御救いによって、そのような私たちひとり一人を「神の宝の民」として導き続けていてくださるのです。
もはや、世の虚しい偶像となるようなものを頼りとするのではなく、「わたしはあなたを忘れない。見捨てることは決してない」と約束したもう共におられる主なる神を日々忘れることなく、歩んでまいりましょう。今日もここから遣わされて。