日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主を心に留めて生きる

2017-09-24 16:25:56 | メッセージ
礼拝宣教 士師記8章22~35節 
            
先週は礼拝、次いで奈良教会みささぎ伝道所・伝道師就任式、又翌日は関西地方教会連合の信徒大会、さらに同日は大阪旭伝道所と関係があります、しんもり福祉会平和の子保育園50周年記念式典など行事が目白押しでした。
心配された台風の影響もなく無事開催されましたが。
その一方で、台風18号による犠牲者、被災者が各地に出ております。殊に、メキシコでは大きな地震が起こり多くの犠牲者と、未だに行方がわからない方々がおられるということですが。一日も早い救出を、とお祈りいたします。

さて、今月は士師記よりギデオンのエピソードから御言葉に聞いてきましたが。今日はその最終回となる8章から「主に心を留めて生きる」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
先の6章の士師の召命の記事では、ギデオンは敵からも同胞からもその身を隠すように酒ぶねの中で麦を打っているような者でしたが、そんな彼に神の使いが現れ「勇者よ、主があなたと共におられます」と呼びかけます。疑い戸惑うギデオンの要求に、主はしるしをもってお応えになり、ギデオンはイスラエルの民を窮地から救う士師として立てられていきます。

先週7章は、ギデオンが攻め込もうしてくるミディアン人の大軍と戦うべく人々を集めるのですが。イスラエルの民が32000人も集まり「これで戦える」というところ、主は
300人。はじめの1%に満たない人数にまで減らされます。
主は「あなたの率いる民は多すぎるのでミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せばイスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」と言われ、「唯、神の力のみ」頼りにしていくところに救いがあるとの、メッセージを私たちはそのところから聞いたわけですが。
まあそうして実際数えることのできない大軍勢に対し、その300人に勝利がもたらされるのであります。

しかし今日の箇所を読みますと、イスラエルの民は、自分たちがミディアン人の大軍に勝利できたのは勇士ギデオンのおかげであり、彼に力があったからだ思ったようです。そうして主なる神さまではなく、ギデオンが戦いの英雄としてまつりあげられていくのですね。「神は生きておられる」という信仰が見えず、目に見える人や物を頼とし、まつりあげていく人の弱さがそこにありますが。ではギデオンはそういう人々の反応の中でどうであったか、ということですけれども。

まず今日の箇所から示されますことは、「口で語った言葉とその行いの矛盾」についてであります。
22節で、人々はギデオンに『ミディアン人の手から我々を救ってくれたのはあなたですから、あなたはもとより、御子息、そのまた御子息が、我々を治めてください』と言います。
そのように彼らがギデオンに頼むのは、神御自身が勝利に導かれたことがわかっていなかったからです。
まあ彼らはギデオンに直接、王様になってくださいなどと言ってはいないのですが、「ギデオンをはじめその子孫たちが権力を持って民を治めていってください」ということですね。

それに対してギデオンは「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる」と答えます。

ここだけを読みますと、「ああ、さすがギデオンだ。自分のことをよくわきまえた上での言葉だ」と思えるのでありますが。しかしこのあとすぐにその口から出た言葉と、実際の行ないが矛盾していることが明らかにされていきます。

24節でギデオンは、『あなたたちにお願いしたいことがある。各自戦利品として手に入れた耳輪をわたしに渡してほしい』と、その敵がつけていた高価な金の耳輪などを「喜んで差し出す」人々からかき集めます。

ギデオンのもとに集められた金を合計すると千七百シュケル、それは重さにして約20キログラム相当の金となるそうで、かなりの貴い財産となります。その他にも三日月の飾り、垂れ飾り、ミディアン人の王たちがまとっていた紫布の衣服、らくだの首に巻き付けてあった飾り物などがあったとあります。
これは、ギデオンが正式な王になったのではなくても、得た富、財産、すべてが王の豊かさに劣るものではありませんよね。そうして、それらを使って彼はエフォドを作るわけです。
エフォドについては出エジプト記28章にありますように、神が立てられたレビ族の祭司が「神に仕えるため」身に着けるようにと命じられた「祭服の胸当て」のことです。
それにはイスラエル12部族を表す12種類の宝石がはめ込まれていました。祭司はそれを身に着け、12部族すべての民を神への礼拝へと執り成したのです。

ギデオンは、神々しい金や飾りでもって作らせたそのエフォドをどのような思いで見ていたのでしょうか。本来なら神に献納されるはずのエフォドです。
ところが彼は、それを自分の町に据えるのです。父の故郷オフラをギデオンは「自分の町」と私物化したように呼んで、そこにエフォドを置くんですね。
こうなるとイスラエルの人々はますますギデオンを神のように崇め、そのギデオンも王のような権力と富を得、彼自身が偶像礼拝の対象となっていくのです。
この彼に従って姦淫にふけっていったというのは偶像礼拝のことです。金のエフォドは、主なる神をたたえるためのものではなく、ギデオン自身を高め、彼の力を誇示するものになり変わったのです。そうしてギデオンの金のエフォドは、イスラエルの人々に救いの神を棄てさせ、ギデオンとその民にとって罪に陥る罠となったのです。

彼が、多くの妻をもち、70人もの息子がいたというのも、彼の王としての権力を表しています。又、そばめとの間に生まれた子にアビメレクと名付けるのですが。その名は「わが父は王」という意味だそうです。
もうここまできますと、ギデオンは自分が王として扱われ、見なされることを好み、酔いしれていたことがうかがえます。

このようにギデオンは口先の言葉では「わたしはあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる」いいながらも、実際には、王のような富や支配、権力を掌握していくのです。
口でいくら神を讃えていても、実際に神に対する誠実な態度として表れないなら、それは神さまを欺いて罪を犯していることになるでしょう。

人に対しても、第一ヨハネの手紙3章18節に次のように記されています。
「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」とありますが。それは、神を畏れ敬う者としての誠実さが行いとなって表れなければ、それは虚しい生き方になるのではないでしょうか。
私たちも又、神に救われている喜びと感謝を、神の栄光を輝かせる誠実さをもって生きていきたいものです。

さて、もう一つ今日の箇所が示していること。
それは「如何に日々主を心に留めて生きるか」であります。

ギデオンは王のような権力を得て、人々から持ち上げられ、イスラエルの一族にとっての偶像礼拝の罠となっていくのでありますが。
22節にあるとおり、イスラエルの民は当初から主なる神でなく、ギデオンがミディアンの大軍から自分たちを救ってくれたと考えていました。それは大きな誤りでした。
イスラエルを救ったのはギデオンではなく、主なる神さまなのです。
多くの人は、何か自分が助けられたり、願ったことが実現しますと、まあラッキーだったとか、運がよかった!とか、或いは、あの人のおかげだとか、思ったりするのではないでしょうか。
例えば、病気がよくなれば、ああいい病院にかかれて立派なお医者さんに治療してもらったおかげでよくなった。あの病院のあの先生は大したもんだ、となるのではないでしょうか。
けれども、人を創造し、命を与え、司っておられるのは誰でしょう。
「そのすべてを導いておられる神さまに感謝する」ということが忘れ去られていくとき、
人は金や銀、王やヒーローといった権力や地位、目に見えるありとあらゆる偶像を慕い、より頼み、民も国もその罠にはまっていき、やがては滅びに至っていくのです。

33節以降に「ギデオンが死ぬと、イスラエルの人々はまたもバアルに従って姦淫し、バアル・ベリトを自分たちの神とした。イスラエルの人々は、周囲のあらゆる敵の手から救い出してくださった彼らの神、主を心に留めなかった」とございます。

ギデオンとイスラエルの一族が、「主に心を留めて」歩んでいたら、偶像の罠に陥ることなく、彼らの先行きも大きく異なっていたのではないでしょうか。

この士師記は、神の民であっても、いとも容易く主を忘れ去り、罪を犯すということが幾度となく繰り返されていきますが。
じゃあ、それなら、主なる神さまはその罪深い人間のことを忘れ去られたのかと申しますと、それは士師記6章のギデオンの召命の箇所のところでありましたように、主はその弱く、言ってみれば優柔不断といえるような、貧弱なギデオンをはじめ、その民をあえてお立てになり、共におられた。別の言い方をすれば、見捨てず、見放されなかったのです。
それは一重に申命記7章6節以降にある主の約束のゆえです。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに。」

「唯、あなたに対する主の愛のゆえに」。たとえ貧弱でたどたどしいあなたの歩みであっても「主なる神さまはあなたを決して忘れない、見捨てることはしない」というお約束なのです。
それは今日の礼拝の招詞イザヤ書49章14節以降の御言葉も同様です。
「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた わたしの主はわたしを忘れられた、と。
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。」

私たちも又、神の目から御覧になれば、どんなにか、つたなく、たどたどしい歩みの者に過ぎないでしょう。にもかかわらず神は御ひとり子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと、御救いによって、そのような私たちひとり一人を「神の宝の民」として導き続けていてくださるのです。

もはや、世の虚しい偶像となるようなものを頼りとするのではなく、「わたしはあなたを忘れない。見捨てることは決してない」と約束したもう共におられる主なる神を日々忘れることなく、歩んでまいりましょう。今日もここから遣わされて。
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夕べの礼拝(主の食卓を囲んで)のご案内

2017-09-21 09:59:48 | 教会案内
9月24日(日)午後6時ー7時半  


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865
メール obcs@nifty.com
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唯、神の力のみ

2017-09-17 18:03:52 | メッセージ
礼拝宣教 士師記7章1~8節 敬老感謝

今日は台風の影響が懸念されていましたが、こうして礼拝が守られるように主がお導き
下さいましたことに感謝いたします。今日は敬老感謝。
人生と信仰の先輩の方々に感謝を表しつつ、主に礼拝をお捧げしています。
私たちの教会の最高齢はOさんですが、近くご入会予定のNさんもOさんと同じご年齢
ということであります。さて、このお二人に共通していることがございます。それは礼
拝を捧げることを本当にいつも楽しみにしておられるということです。
私たちは、世にあって年を重ねる毎に体の衰えや、又、親しい友人が天に召される寂し
い経験をすることがあるでしょう。
しかし聖書の中にはこのような希望が語られています。
「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一
緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、
あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光
を帰すようになるためです。だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの
『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされてい
きます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄
光をもたらすのです」(コリント二4章14節-16節)。
このように希望に生かされている平安をもって今日というかけがえのない日を、主の御
前に捧げたいと願います。

さて、本日も士師記7章より御言葉を聞いていきたいと思います。
先週は士師として神さまに立てられたギデオンの召命と彼の人となりについて6章か
ら読みました。
ミディアン人が襲って来た時、酒ぶねの中に身を隠す程恐れていた彼を主の使いは
「勇者よ、主があなたと共におられます」と呼びかけ、お立てになるのであります。
それに対して「主が共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちに
ふりかかったのですか」と疑念を呈すギデオンに、主の使いは「あなたはその力をもっ
て行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。
わたしがあなたを遣わすのではないか」と言われます。
しかしギデオンは、「わたしの一族は最も貧弱なものです。わたしも家族の中で年下
のものです」と、とても後ろ向きでした。そして、もしそれが本当なら「そのしるしを見せて下さい」と言うのです。
すると主の使いはギデオンにしるしをお示しになり、ギデオンはその人物が主なる神
さまであったことを知ることになるのです。こうして彼はイスラエルを窮地から救う士師として立てられていくこととなります。
ところがこのギデオン。主が偶像と祭壇を壊すよう命じられると、人々を恐れ日中を
避け夜中にそれを行なうというように、酒ぶねに身を潜ませていたときと、そう変わったわけではありません。
今日のエピソードの前段にあるように、周辺の諸民族が結集して攻め込もうとしている中、神に「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、そのことが納得できるようなしるしをください」と要求するのですね。
すると主は、ここでもギデオンの求めるままに、二度までもしるしを表されたというと
いうような記事が書いてあります。

さて、ここからが今日の箇所ですが。
まあ、それだけしるしを求めなければならないほど、心配性で用心深く、勇者というイメージからはほど遠く思えるようなギデオン。
「陣を敷く」ためどれだけの人が集まるのか、当然気になったでしょう。そして実際三万二千人もの人が集まって来たとき、内心「これならいけるだろう」と思いがよぎったのではないでしょうか。

ところが主はギデオンに「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と」言われます。

主は人々の心をよくご存じでした。イスラエルの総勢三万二千人の数でこのままイスラ
エルがミディアンの軍勢に勝利したら。人々は主の力でなく、自分たちの力で勝利した
ように思い、それを大いに誇って、主に栄光を帰すことがなかったでしょう。それは、
神の民として生きるように召された彼らの信仰を損なうことになりかねません。
主はそのことを見抜いておられたんですね。
まあ、ギデオンにしてみれば、ミディアンの大陣営に立ち向かうためにはとにかくイスラエルの人々の数を集めることが重要だと当然考えていたでしょうが。
それでも、ギデオンは主の御言葉に聞き従います。
彼がそのお言葉どおり民に呼びかけると、「民の中から二万二千人が帰り、一万人が残
った」。
まあ3分の2以上の民が去っていったことになります。それを見て、ギデオンは内心「行
かないでくれ~え」と心の中で叫んでいたんじゃないでしょうか。
ところが、主はギデオンに「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきでないと告げる者は行かせてはならない」と言われるのです。
その時のギデオンの心境はどうだったでしょうか?もうこれ以上少なくなればどん
な状況になるのかと、不安と恐れが押し寄せてきたのではないでしょうか。

しかし彼はそこでも、主のおっしゃるとおり民を連れて水辺に下ります。
そこで主は「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい」と命じます。
ギデオンは主の言われるとおりに、その三百人だけは引き留めておき、他のすべてイスラエル陣営九千七百人をそれぞれの天幕に帰らせた」のです。

ここでもギデオンは主のおっしゃったとおり行なうんですね。
目の前の現実は12節にあるように「ミディアン人、アマレク人、東方諸民族は、いな
ごのように数多く、平野に横たわり、らくだも海辺の砂のように数多く、数えきれなか
った」と、まあその総勢十二万五千人はいたようですが。そのような大軍を前にし
て、三百人をもって戦うことなど常識では考えられないことです。
こうなってはもはやギデオンの心は恐れおののきの限界を突き抜けて、「唯、主の力の
み」に頼る他なかったのではないでしょうか。

先に申しましたように、先週の6章では、ギデオンが主に願うと、主はそのしるしを見せ、主が彼と共におられることをお示しになりました。普通ならあり得ないしるしを何度もみせて下さいました。
そのように人間、何でも思う通りになりますと、そのうち自分はついているなあとか。何か特別なような気持ちになっていくものです。そしてやがては「神をも恐れぬ」というような高慢になっていき、滅びを招いていくのですね。
ギデオンもイスラエルの民も三万二千人の民をもって勝利を収めれば、そのような高慢と滅びに向かったかも知れません。

話は変わりますが。8月の礼拝でバベルの塔の箇所(創世記11章)を読みましたが。昔、人々が「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と建設に着手しますが、彼らは互いの言葉が聞き分けられなくなり、そこからちりちりばらばらに散らされ、塔の建設の中止を余儀なくされるという物語です。
そこには、人間が何か見えるものによって安心を得たいというような、その根底にある不安や恐れ。又、人間の果てしない野望といったものまでも、どこかこのバベルの塔は象徴しているかのように思えますが。
昨日、オランダの画家ブリューゲルの「バベルの塔」展が大阪国立国際美術館で開催されているということで、こういう機会はなかなかないこともあり行ってきました。
そこには16世紀のオランダの絵画の名品や名画家ボスの作品が展示されおり、メインのブリューゲルの絵画の数々、その展示の最後にバベルの塔の大傑作を見ることができました。そのバベルの塔の作品を見ますと、ブリューゲルは塔の建設にあたっている人々のその様子を大変事細かく描いています。米粒より小さく描かれた人、人、人。拡大してみてやっと確認することができます。
とってもユニークだったのが。塔に向かって左側の縦部分が白くなっているのです。それは石灰石か何かを使って作業にあたっていた人々が塔の上からその粉をこぼし、下にいた人たちにかかってみんな白くなっているという様子だそうですが。この作品を見て、何かブリューゲルは神の目をかりてこの絵を描いたようにも思えるほど、その絵は実に繊細かつ壮大なものでありました。ブリューゲルはこのバベルの塔を描くことで何を伝えようとしているんだろうか?それはその絵を見た人それぞれに答があるようにわたしには思えました。

話をもどしますが。
さて、先週の6章ではギデオンが主にしるしを見せてくださいと主を試みるところが何度もあったわけですが。ところが本日の箇所では、主が逆にギデオンの信仰を試されていて、いわばギデオンと主の立場が逆転しているかのようです。

イスラエル三万二千人の陣営が一万人に減らされ、最終的に三百人にまで減らされていきました。イスラエルの総勢三万二千人のうちの僅か1%しか残らなかった。ミディアン人ら十二万五千人の大軍に到底立ち向かえるような数ではありません。数や人の力では決して太刀打ちできない。いうならば、ギデオンの自信はそこまで削ぎ落とされ、「唯、神の力のみ」頼るしかなくなるのです。

先週の午前の祈祷会に元大阪教会員のTさんがいらしてくださったのですが。
今日の箇所のイスラエルの残った1%が日本のクリスチャン人口の1%と重なった、というようなことをおっしゃっていたことが、心に留まりました。
日本は同じアジアなのに韓国や台湾などに比べると、どうしてこうもクリスチャンが少ないのかという。。。ある意味、それは伝道の困難さであり、信仰を守り通していくことの困難さであるわけですが。
それに又、1%の数で何の実行力になるのか、と私たちは考えるわけですね。そこで私たちは御救いに与っていく人たちが一人でも多く興されていくことを望むわけでありますが。

ただ、今日のこの箇所が私たちに向けて語りかけているメッセージは、実はそれとは
別のところにございます。
この1%の三百人という数は、イスラエルが自分の手で自分を救ったと言えない数であるということです。それはつまり、神さまはイスラエルの人々に、人の数やその勢力によってお働きなさるのではなく、「唯、神の力のみ」に信頼する人のうえに、神さまはお働きになられるということであります。
そのことは又、1%に満たない日本のクリスチャンに向けても同様、「唯、神の力のみ」に信頼して生きる者に、神さまはゆたかな恵みと祝福をもって臨んでくださるということであります。

私たちの日々の生活の中においても、自分の力ではもうどうすることもできない、という経験がないでしょうか。しがみついていた指を一本一本はずされるような状況の中で、もう「主よ!」とすがるほかない。
そういうときに、その現実を恨み悔いて終るか、唯、神の力のみに信頼していくか。神を信じて救いに与っているクリスチャンのしるしはここにございます。
主は生きておられます。目に見えるところにではなく、共におられる神に依り頼んで、
今週もここから、それぞれの場所に遣わされてまいりましょう。
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あなたのその力をもって行くがよい

2017-09-10 15:44:10 | メッセージ
礼拝宣教 士師記6章11-24節

本日より3週に亘り士師記のギデオンの記事を中心に御言葉を聞いていきます。
9月迄の創世記からかなり時代がとびまして、寄留の地エジプトでイスラエルの民はその数を増し、神が立てた指導者モーセと共にカナンの地を目指します。そうしてその地に定住するためにモーセの後継の指導者としてヨシュアが立てられ、イスラエルの民は主に仕え、王政をもたず、12の部族それぞれが互いに連携し、助け合いながらカナンの地に住んでいました。おおよそ紀元前13世紀頃とされています。
ところが、士師記2章8節以降によりますと、その指導者ヨシュアが亡くなり、その世代が皆絶えてしまうと、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行なわれた御業も知らない別の世代が興り、イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなっていきます。こうして彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏したとあります。
救いの御業を知らない世代となり、もはやそれを伝える者、思い起こさせる者がいなくなっていくとき、地上に悪がはびこるのです。
そのイスラエルに対して主は怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるままにし、周りの敵の手に渡されたため、彼らは苦境に立たされます。しかしそういう中で、彼らは再び救いの主を思い出して、主に助けを求めるのですね。
すると主は、その彼らのために「士師を立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださった」というのです。

ここに士師の起源を見るのでありますが。まあ、士師といえば裁き人とか指導者とか支配者など呼ばれますが、主がイスラエルの民の苦境を憐まれる中で立てたそれは「救助者」であったのですね。
ところがその一人の士師が死ぬと、彼らは一層堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ断たなかったと、記されています。
するとまた、外敵による攻撃にさらされて苦境に立たされ、また主に向き直り助けを乞うと、主がさらに次の士師を立てて彼らを敵の手から救われるのです。
しかしその士師が死ぬと、また彼らは、一層堕落し、他の神々に従っていくというようなことが繰り返され、民のそういった状況は悪化の一途を辿っていくのです。
そんなイスラエルの民であるにも拘わらず、主は彼らをお見捨てにならず、そのイスラエルの民の切なる訴えに応えて、士師を繰り返しお立てになるのです。

ここを読みますと、神さまはノアの洪水の出来事以来「人は生まれつき悪い者である」とおっしゃりながらも、もう「二度と地を滅ぼすようなことはしない」とのお約束を貫かれ、それが今日にまで至っています。
そのことを思いますとき、人の罪深さとそのような人を憐れむ父なる神さまの愛を知らされるものです。そのようにここは、「如何に罪深い人間であっても決してあきらめない」神さまのお姿が示されているように思えます。

そういうことを踏まえ、今日は「主がギデオンを士師としてお立てになる」6章の箇所から御言葉に聞いていきたいと思います。

この時もイスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行なったために、ミディアン人による脅威に絶えずさらされることとなっていました。
主の御使いがやって来た時、ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、これは奴隷として連れて行かれることを恐れてということでしょうが、酒ぶねの中で小麦を打って身を隠していました。
彼は「主がイスラエルの民をミディアン人の手に渡されたのだ。自分たちはもう神に見捨てられんだ」と、もはやどうしようもないことだと、いわばあきらめの境地にあって、脅威から逃れただ生き延びるためだけのその日一日を過ごすことしかなかったのです。

主の御使いはそんなギデオンの前に現れるのでありますが。その御使いが開口一番にギデオンに告げたのは、「勇者よ、主はあなたと共におられる」という一言でした。
まあ、酒ぶねにひっそり身を隠すギデオンを、はたから見れば臆病者で無気力で、弱々しく思えたでしょう。そのギデオンに「勇者よ」と言っているのは何ともユーモラスに思えます。
ただ、このところを正確にヘブライ語の原文順に訳せば、「主はあなたと共におられる。勇者よ」となっているんですね。そうすると、「主があなたと共におられる。ゆえにあなたは勇者」と、随分ニュアンスが違って聞こえてきますよね。

ギデオンはその主の御使いの言葉に大変驚き、戸惑います。
もはや戦いに出向かずこっそりと身を隠しているような自分が、どうして「勇者」などと呼ばれるのか。きっとたじたじとなったに違いありません。
それでも彼は気を取り直し、「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしと共におられるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました」と、主に抗議し訴えます。

まあここを読みますと、ギデオンにはこれらのことが、主の救いを忘れ、主に逆らい罪を犯し続けてきたことが、このような事態を招いていることや、自分もそのイスラエルの民の一人であることの認識や自覚があまりなかったとも思えるのですが。
主の御使いはその彼の疑問に直接は答えられず、彼の方を向いてこう言われるのです。
「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか」。

ギデオンはその主の御使いの言葉に戸惑い、「あなたのその力をもって行くがよい」と言われても、わたしに何ができるでしょうか。わたしが一体「どうすればイスラエルを救うことができましょう」と言い。さらに「わたしの一族はマナセの中で最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です」と訴えます。

しかし主はそんなギデオンに、「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる」とお語りになるのです。

ここで、整理してみましょう。
ギデオンに対して、主の御使いが「勇者よ」といわれたのは、酒ぶねに隠れる彼をからかったわけではありません。それは「あなたは勇者だ」との宣言、宣告なんですね。
彼が勇者とされるのは、優れた理解力と対応ができるからとか。又有力な立場にあるからというのでは決してありません。彼がたと強かろうが、彼に後ろ盾があろうが、そういうこととは関係ありません。
それは唯、「神があなたと共におられる」というその一点において、彼は勇者なのであり、「主」が彼をお用いになる、ということなんですね。

今日の宣教題は、14節の「あなたのその力をもって行くがよい」という御言葉をそのままつけました。
その力とは、その人が兼ね備えてた能力とも読むことができますが。けれども、私はむしろ人の能力を指しているのではないと思うんですよね。
出来る事、出来ない事、弱さも足りなさもすべてひっくるめて、いわばそのありのままの「あなたのその力をもって行くがよい」とおっしゃっているんではないかと思うんです。そして、「あなたのその力をもって行くがよい」との御言葉と、「主があなたと共にいる」との御言葉は一対であるということですね。主は「ギデオンよ、わたしが共にいるから、あるがままのあなたの力をもって行くがよい」と、おっしゃているのではないでしょうか。
新約聖書で使徒パウロは、救い主イエス・キリストを伝える困難な折、コリントの信徒への第二手紙12章にありますように、。『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われる主の御声を聞きます。パウロは「それゆえ。わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と言って主の救いを伝え続けました。「わたしは弱いときにこそ強い」と。
ギデオンもまた、酒ぶねの中に隠れるというような不甲斐なさをと弱さを覚える中で、「あなたのその力をもって行くがよい」というその御言葉に心奮い立つ思いが与えられたのではないでしょうか。

さて、今日の箇所はさらに続きます。
16節の「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる」との主のお言葉に対して、ギデオンは、その語られたことが正しく信頼に価するものであるかを判断するために「しるしを見せてください」というのですね。
主の約束の言葉は、すぐに形をとって目に見えるものではありません。約束なんですから、目に見えるのはまだ先です。だから信仰って、主の御言葉に信頼するか、否かのどちらかでしかないのです。
しかし主はそのギデオンの要望を聞き入れて、目に見えるしるしをお見せになられたのですね。するとその瞬間、主の御使いは消えていたとありますが。
彼はこれまで自分の目の前に共にいたのは主ご自身であられたことを確認するのです。

祈祷会の聖書の学びの時にも出ましたが、この箇所と重なって思い起こされますのは、ヨハネ20章の復活のイエスさまが、疑い惑うトマスに、御自分の御傷を示された場面であります。
イエスさまトマスに「あなたは不信仰だ」などと責めたりはなさいませんでした。
「トマス、わたしの手の釘のあとにあなたの指を差し入れて見なさい」とおっしゃって、疑うトマスであっても全面的に受け入れておられるんですよね。
その上でイエスさまはトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と諭されるんですね。ギデオンにせよトマスにせよ、そんな主のご慈愛に触れた時に、目が開かれて「主なる神よ」「わたしの主よ」と言って主を礼拝したんですね。
このように、主の愛と憐れみを知ること、体験していく中で、御言葉への信頼は深くされていくのであります。

さて、ギデオンは「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました」と言います。神を直接見たので死んでしまうのではないかと、大変恐れたのです。
けれども主は彼に「安心せよ。恐れるな。あなたは死ぬことはない」と言われます。
「安心せよ」「恐れるな」。これも又、あの復活されたイエスさまが弟子達の前に現れなさいます。そしてその開口一番「あなたがたに平安(平和)」があるように」とおっしゃったその愛と平和を弟子達が受け取っていくのです。
ここで何よりも大切なメッセージは「あなたと共にいる」とおっしゃるその主とわたしとの信頼関係です。その信頼関係の中でギデオンは主の勇者として用いられていくんですよね。

最後に、今日のこのギデオンの召命の記事を読んで思わされますのは、私たちもギデオンのように、どちらかといえば酒ぶねの中にひっそりと身を隠していたいように思えたり、自分が何の後ろ盾もなく、弱く小さいもののように思えるということがないだろうかということです。
そういう現実の中にあってなお大切なのは、主が慈しみをもってあるがままにわたしを受け入れ、共にいてくださる神さまとの信頼関係であります。

聖書は、あなたの弱さや欠けをもすべてをご存じの生ける神さまが、あるがままの私たち一人ひとりを愛し、受け入れ、共におられるというこの上もない祝福の約束と平安の道を、私たち一人ひとりに示しています。主は今日も私たち一人ひとりに救いの主との信頼関係の中でその一歩一歩を歩んでいくことを願っておられます。
「主があなたと共にいる。勇者よ」。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」申命記7:6-8

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夕べの礼拝(主の食卓を囲んで)ご案内

2017-09-08 09:55:13 | 教会案内
9月10日(日)午後6時ー7時半  


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865
メール obcs@nifty.com
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天の故郷

2017-09-03 14:08:03 | メッセージ
礼拝宣教 ヘブライ11:1-16

本日は9月第一主日ということで、先に天に召された会員と会友を偲びつつ、召天者記念礼拝を主に捧げております。
先ほど、先に天に召された方々のお名前が呼ばれ、ご遺族のご紹介をさせていただきました。
私たちの信じる神は、天地万物をお造りになられ、今もすべ治め、生ける命も、又召された命も司っておられます。
私たちはその神のもとにある兄弟姉妹として故人を偲びつつ、その魂の神の御前における平安を祈ります。又、故人の愛するご遺族の方々の守りと導きを主に執り成しお祈りいたします。
この生ける神さまにある望みが、すべてのご遺族と、又ここに集われたみなさまのうえにございますよう祈念いたします。

本日は、ヘブライ人への手紙11章より御言葉を聞いてまいりますが。まずその冒頭1節で、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と、信仰の定義がなされております。この「見えない事実」というのを口語訳聖書では「まだ見ていない事実」と訳していますが。
2節にあるように、そのような「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」と説かれています。
神は天地万物をお造りになるその業の初めに、混沌とした闇に向かって「光あれ」と御言葉を発せられると、「光があった」と、創世記は語ります。
混沌とした闇に覆われた絶望的な世界に発せられた「光あれ」との御言葉は、事実又実体として存在するものとなった。こうして神は創造の業を始められたのです。
この神に望みをおき、信じて生きる。それが信仰であります。

さて、4節以降に、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラという5人の「信仰のゆえに、神に認められた人々」の紹介がなされています。
それは「信仰の先達のリスト」であるといえます。
先ほど私たちも大阪教会の召天会員会友の名簿に従って、そのお一人おひとりのお名前を読みあげさせていただきました。
お一人お一人の地上でのあゆみとご生涯はみなそれぞれ異なるものであったことでしょうが。
ただ、天地万物を創造し、生と死を司り治めたもう主なる神さまとその命に、主イエス・キリストによってつながるものとされた。そこに天の国のゆたかさと希望がございます。
アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラは、みな、その信仰によって神に認められたということですが。
彼らはそれぞれ人生の課題があり、目に見える現実は非常に厳しいものでしたけれども、主なる神への信仰を持ち続け、祈りつつ行動したのです。

まず、最初のアベルについてですが。
4節に「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています」とありますけれども。

彼は神へのささげものをめぐり、嫉妬深い兄カインに妬まれて殺害されるという悲惨な最期を遂げました。しかし彼は「カインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明された」というのであります。
この「優れたいけにえ」とはどういう事でしょうか?それは献げもの自体のことではなく、そのおかれた状況の中で「如何に神に喜ばれるようにささげた」かという意味であります。
彼は大切にしていた羊の群の中から、最もふさわしいと思える肥えた初子を選び、神に献げました。アベルは神のみ前に喜びと犠牲をささげた。それは「信仰によって」最も善きものを神に献げたということです。彼は死んでも神の目に価高いものであり、彼の信仰の真実は今もこうして語り継がれています。
次に、エノクという人物ですが。
5節に「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです」とあります。
創世記5章21節以降に、「エノクは65歳になったとき、メトシュラをもうけた。エノクは、メトシュラが生まれた後、300年『神と共に歩み』、息子や娘をもうけた。エノクは365年生きた。エノクは『神と共に歩み』、神が取られたのでいなくなった」とそう記されています。この年齢の標記については諸説あるところですが。ともあれここで強調されていますのは、エノクはその長い生涯において絶えず『神と共に歩んだ』ということです。「神に喜ばれる」あかしの日々があったということであります。ただここで単に生きがが幸いなことなのではなく、生涯が長くとも短くとも「神と共に歩む」ところに真の幸いがあるということであります。

さて、3番目のノアについては、次のように述べられています。
7節「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神にお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」。

8月には礼拝で創世記のところから「大洪水とノアの箱舟の物語」を読みましたけれども。ノアは、「大洪水が地の表を覆う」と神からのお告げを受けたとき、人間的な思いとしていろいろな戸惑いがあったはずです。
なぜなら、十分な雨も降らないようなその所で地を覆う大洪水が起こるとは、想像を遥かに超えることでしたし、ましてや示されたような大きな箱舟を川からも海からも離れた自分の家の前で作るなど、常識では考えられないことでありました。
しかしノアは、そのまだ見ていない事柄、想像も及ばないような事柄を、信仰によって受けとり、行動に移すのです。
そこには心の内なる葛藤や外との闘いがあったに違いありません。
内陸で舟を造るなんて、当然世間の人びとにとってみれば馬鹿げた行為であります。神のときが訪れる迄の永い歳月、ノアはずっとそういった人々の冷たい視線や中傷にさらされ続けたことでありましょう。
ノアは想像を絶するような信仰の闘いの中で試みを受けました。しかしノアは信仰によって、まだ見ていない、神の約束の御言葉は必ずなる、実現することを日々確認しつつ、自らを神に従わせたのです。罪に満ちた世界で命をつないだ人間は、ノアとその箱舟に入った家族と様々な生き物たちだけでした。

四人目はアブラハムについてでありますが。
彼については2つの記述があります。
まず、8節に「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」とありますが。
しかし、創世記12章のアブラハムの召命と移住の記事を読んでみますと、彼が土地や財産を受けるために出ていったなどとは書かれていません。むしろ「父の家を離れて」いくということは、父の家の財産や土地を放棄するということを意味していたということです。
ですから、財産を受け継ぐことになる土地というのは、神の約束の財産、神の約束の土地ということなんですね。
アブラハムは、ただ主の言葉、「わたしが示す地に行きなさい。あなたを祝福する」とのみ言葉に聞き従ったのであります。
彼は、目に見える保証が無いだけでなく、行き先も知らされずに、ただ主なる神の約束の言葉に自分を従わせ、信仰によって歩み出すのであります。

彼についてはさらに9節以降に、「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、「神が設計者であり、建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです」とあります。

アブラハムは、示されたカナンの地に実際に入ると、そこでは移動しながらの天幕を張り生活したのです。そこで定住することなく、いわば寄留者としての生活を送るのですね。それは、カナンという目に見える土地を仮の住まいとしながら、「神の建てたもう堅固な土台を持つ都を待ち望んでいた」からだと述べられています。

私たちは信仰の生活の中で、時に現実の厳しさを突きつけられます。神の御心を信仰持って踏み出したのに、思い描いたように行かない。思っていたのと全く違う。そういう信仰と現実の狭間で忍耐してなおも待ち望むことができるのは、主の御救いの約束は決して変わらない、との信仰の土台を頂いていればこそです。

アブラハムの信仰は、いまだ見ていない神の約束が、必ず成る、実現するという確信でありました。又、彼が待望していた神の都は、時や空間、又世の規範というような移ろいやすく、はかないものではなく、永遠の基礎を持ち、神の確かさによって設計され建設された都であったということであります。
アブラハムの信仰と祝福はその子孫等に受け継がれます。そして時至って主イエス・キリストによる救いの成就、実現により、今や世界中の人々、この私たちも、誰もが、信仰によって神の都に与れる者とされたのです。私たちは信仰の父祖アブラハムの祝福に接ぎ木されているのですね。

そして最後に登場するサラについてでありますが。
11節「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方である、と信じていたからです」と記されています。
彼女も又、人生の様々な苦しみや痛みを経験いたしましたが、その信仰によって多くの子孫の霊的母となったのです。

今日はアベル、エノク、ノア、アブラハム、サラのそれぞれの信仰について少し丁寧に読んでまいりましたが。見落としてならないのは、13節「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」という言葉です。

彼らは「約束されたものを手に入れませんでしたが、遥かにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。よく人生は旅にたとえられますが。神を信じる者はその人生の目的地がはっきりとしています。

16節、「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」。「神は彼らのために都を準備されていたからです」。

先ほどのアブラハムはじめ信仰の父祖たちもそれぞれに、自分の人生に願望や目標をもって歩んでいました。しかし彼らは、たとえそれをこの地上にいる間見ることができなかったとしても、やがて必ず実現する。神の約束の言葉の成就を信じ、望みながら、最終的目的地である天の故郷を熱望し、生きぬいた。何となく「死んだら天国に行くからこの人生はどうでもいい」というのとは違うんですね。神の約束を信じ望んでいるからこそ、この地上の人生を確かな足取りで歩み通していけたんですよね。
神は、そのような彼らを誇りとし、彼らのために天の故郷、天の都を準備していてくださるお方なのです。

さて、イエス・キリストを信じている者にとっての神の約束とは何でしょうか。
それは、キリストによる罪の滅びからの救いです。助け手である聖霊の執り成しと導き、さらなるキリストの復活に与る永遠の命の希望であります。
キリストを信じ受け入れた者は、真に幸いなことに、この人となられた神の子イエス・キリストを通して、先ほどの旧約聖書からの「祝福」を受け継ぐ者とされているのです。

その主イエス・キリストはこのように約束されています。
ヨハネ14章1-3節。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しにいくと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。
それは今やすべての人に対して、救い主イエス・キリストによって「天の故郷」への道が開かれているということであります。

本日は特に、先に天に召された私たちの信仰の先達を偲びつつ、主イエス・キリストにある「希望」を、確認させて頂いておりますが。 

信仰の模範者として列挙されたアベル、エノク、ノア、アブラハム、サラと私どもの信仰は比べられるものではありません。
けれども。「神の救いの確信」と「生ける神との信頼関係」の中で、生涯の目的をもって生きる。それが有るか、無いかとでは雲泥の差がございます。
からし種一粒ほどの微々たるちっぽけな信仰であっても、その信仰を保ち続けて生きる時、神さまは「天の故郷」に通じる人生の道を整え導いて下さいます。虚しき人生に終らない私たちの希望がそこにございます。

最後に、ヘブライ12章1~2節をお読みして宣教を閉じます。
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようなおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。

主なる神さまは今日も、私たちに確かな約束を受け取って歩んでいくように、と招いておられます。全世界に与えられたこの福音を今日受け取って、ゆたかな人生を共に歩んでまいりましょう。祈ります。


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