宣教 マタイ3章13~17節 歳晩
先週はクリスマス・救い主イエスさまのご降誕をお祝いすることができて本当に感謝でありました。大いなる神さまのプレゼント。それは私たちの罪の滅びより救い出したもうイエス・キリスト、そのお方であります。今年もその御救いとお導きに与り、本日は2012年最後の歳晩さんび礼拝を主にお捧げしています。今回はワーシップソングの中から特に「喜び」「感謝」「恵み」に関する曲を選ばせて戴きました。又、S兄よりお証しを戴きました。主にあって生きることの幸いをこうして分かち合えることは、教会に与えられた大きな喜びの賜物です。ありがとうございました。
今年も本当に国内外においてと申しましょうか、様々なことが起こった一年でありました。皆さま方は如何でしたでしょうか。大阪教会においては、今年一年で3名もの兄姉が召天されたことは寂しく辛い出来事となりました。又、今この時も入院、療養中の方がたがおられます。どうぞ、引き続き皆さまの篤いお祈り、執り成しをよろしくお願いいたします。
一方で、この大阪教会の新会堂建築へ向けてのあゆみが着実に進められてきました事は、うれしい希望となりました。いよいよそれが来年早々、実現に向けて動き出すこととなります。さらなる祈りと信仰をもって進み、主の御業を期待してまいりましょう。
さて、今日は讃美礼拝ですのでショートメッセージとなりますが、マタイ3章14~17節より「神に栄光、地に平和、御心に適う人」と題し、御言葉を聞いていきます。
「イエスさまのバプテスマ」
本日の箇所は、イエスさまがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになられた場面であります。まあ、どうして神の子であられるイエスさまが罪の悔改めを表明するバプテスマをお受けになる必要があったのでしょうか?
ヨハネは「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに云々」と言っています。ヨハネも当然そのように思ったのです。それに対してイエスさまは「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです」と、お答えになります。
この「正しいこと」とは「義」とも訳されます。神さまとの正しい関係の中でその御心に従って生きることこそ、私たちにふさわしいと言っておられるのですね。
人は何か立派な行いをすることで徳を立てようとする者です。また大きな事業をなし遂げた人は世間から称賛を受けるでしょう。けれども神にふさわしいあり方というのは、事の大小、その価値の有無に拘わらず、「ただ神の御心に従って生きる」、その一点にあります。ではイエスさまに対する神さまの御心とは何だったのでありましょうか。
イエスさまのバプテスマは、世のすべての人の罪を負い、贖いのためにほふられる小羊となられる、ということです。イエスさまが神の独り子でありながらも、御神に従順に生き、己の立場を捨ててすべての人の救いのために身を捧げて生きようとする決意表明そのものであったのです。
16節「イエスがバプテスマを受けると、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」
聖霊が鳩のように降るというのは、聖書学者の様々な説があり、これだという答えは分かりません。聖書から鳩ということで思い浮かぶのは、ノアの箱舟のエピソードでしょう。人間の罪の深さを嘆かれた神さまが、洪水によってそれを滅ぼされ、ただ救われたノアとその家族が箱舟から鳩を放つと、大地の再生のあかしであるオリーブの葉をくわえて戻ってきた。神さまは空に虹の契約を立て、もう二度と洪水によって地を滅ぼすことはしないとおっしゃるのです。そのように聖書は鳩を愛と平和の象徴として用いているのです。
そういうこともあってか、イエスさまの神に御心に従う決意表明のバプテスマによって、神さまの愛と平和の新しい契約の時代が訪れことになるのであります。このようにイエスさまの上に聖霊が鳩のようにお降りになることで、神さまの救いのみ業の始まりが告げられたのです。
さて、17節「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。これは「イエスさまが唯一神の御子、救い主である」との宣言であるのです。
キャンドルライトサービスの時に読まれますクリスマスの記事を綴ったルカ福音書2章に、天の軍勢が羊飼いたちに現れて神を讃美して、「いと高きところに栄光、神にあれ、地に平和、御心に適う人にあれ。」と言いました。
そこにも「御心に適う」という共通する言葉をみつけることができます。直訳は、「喜びの人」という意味です。本日の箇所の「わたしの心に適う者」という原文の直訳は、「神は彼を喜んだ」ということです。そうすると随分ニュアンスが違ってきますね。「神さまが喜ばれる人」。イエスさまはそのようなお方であったということです。
それは先程も申しましたように、イエスさまが御神に従順に従いバプテスマを受けられたからです。この事はやがて、すべての人の罪を背負い、贖いの業を成し遂げる十字架の受難と死へと続いていくのであります。イエスさまは神さまの全人類に与えられるこの偉大なご計画に聞き従い、まさにその御心のとおり自らを十字架に引き渡されたのです。
「神の心に適う人」は「神の喜びの人」であり、神さまのご計画に信頼して従う人のことなのです。神さまは、その愛する喜びのイエスさまを3日後、死よりよみがえらされたのであります。このように大いなる御救いの業がイエスさまのバプテスマに象徴的に表されていたのですね。
ヨハネは罪の悔改めを表す水のバプテスマを授けました。私たちのバプテスト教会でも、イエスさまを信じてバプテスマを受ける人は、水に全身をしずめられます。
しかし、そのバプテスマは自分の力や思いで得られるものではなく、イエスさまが私の罪を負い十字架にかかって死んで下さったその死に主と共に与り、水の中から起こされる時はイエスさまにあるよみがえりの新しい命・永遠の命を戴いて生きる者とされたということが表されているのです。
私たちは主の救いを得たとはいえ、己の罪深さや欠点や弱さをたくさんもっています。が、しかしイエスさまのあゆみに倣って、従うことはできます。信仰の実生活、体験を通して自分の弱さや罪深さの中に、主の恵みの豊かさやゆるし、支えや導きというものを知り、味わうことができます。
私たちも又、「あなたはわたしの喜び、愛する者」と御神さまにいわれるように、日々主の御心を尋ね、聞き従う者としてあゆんでいきたいものです。
そのために、私たちはイエスさまの御言葉に触れ、教会の霊的交わり、祈り、奉献を通して、私自身がまず聖霊に満たされ喜びに溢れて日々を送ることがとっても大事なことであります。
最後に、第一テサロニケ5章16節~18節をお読みします。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
神の御心に生きる人、その人のうえに世では得る事のない喜びが与えられるのです。
今日は2013年の最後の主日礼拝ですが、どんな時もそのような天の国の喜びを持つ人となれるよう願いつつ、新しい年に備えてまいりましょう。
皆さまにとりましても、神さまの祝福に満ちたよき一年をお迎えください。
先週はクリスマス・救い主イエスさまのご降誕をお祝いすることができて本当に感謝でありました。大いなる神さまのプレゼント。それは私たちの罪の滅びより救い出したもうイエス・キリスト、そのお方であります。今年もその御救いとお導きに与り、本日は2012年最後の歳晩さんび礼拝を主にお捧げしています。今回はワーシップソングの中から特に「喜び」「感謝」「恵み」に関する曲を選ばせて戴きました。又、S兄よりお証しを戴きました。主にあって生きることの幸いをこうして分かち合えることは、教会に与えられた大きな喜びの賜物です。ありがとうございました。
今年も本当に国内外においてと申しましょうか、様々なことが起こった一年でありました。皆さま方は如何でしたでしょうか。大阪教会においては、今年一年で3名もの兄姉が召天されたことは寂しく辛い出来事となりました。又、今この時も入院、療養中の方がたがおられます。どうぞ、引き続き皆さまの篤いお祈り、執り成しをよろしくお願いいたします。
一方で、この大阪教会の新会堂建築へ向けてのあゆみが着実に進められてきました事は、うれしい希望となりました。いよいよそれが来年早々、実現に向けて動き出すこととなります。さらなる祈りと信仰をもって進み、主の御業を期待してまいりましょう。
さて、今日は讃美礼拝ですのでショートメッセージとなりますが、マタイ3章14~17節より「神に栄光、地に平和、御心に適う人」と題し、御言葉を聞いていきます。
「イエスさまのバプテスマ」
本日の箇所は、イエスさまがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになられた場面であります。まあ、どうして神の子であられるイエスさまが罪の悔改めを表明するバプテスマをお受けになる必要があったのでしょうか?
ヨハネは「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに云々」と言っています。ヨハネも当然そのように思ったのです。それに対してイエスさまは「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです」と、お答えになります。
この「正しいこと」とは「義」とも訳されます。神さまとの正しい関係の中でその御心に従って生きることこそ、私たちにふさわしいと言っておられるのですね。
人は何か立派な行いをすることで徳を立てようとする者です。また大きな事業をなし遂げた人は世間から称賛を受けるでしょう。けれども神にふさわしいあり方というのは、事の大小、その価値の有無に拘わらず、「ただ神の御心に従って生きる」、その一点にあります。ではイエスさまに対する神さまの御心とは何だったのでありましょうか。
イエスさまのバプテスマは、世のすべての人の罪を負い、贖いのためにほふられる小羊となられる、ということです。イエスさまが神の独り子でありながらも、御神に従順に生き、己の立場を捨ててすべての人の救いのために身を捧げて生きようとする決意表明そのものであったのです。
16節「イエスがバプテスマを受けると、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」
聖霊が鳩のように降るというのは、聖書学者の様々な説があり、これだという答えは分かりません。聖書から鳩ということで思い浮かぶのは、ノアの箱舟のエピソードでしょう。人間の罪の深さを嘆かれた神さまが、洪水によってそれを滅ぼされ、ただ救われたノアとその家族が箱舟から鳩を放つと、大地の再生のあかしであるオリーブの葉をくわえて戻ってきた。神さまは空に虹の契約を立て、もう二度と洪水によって地を滅ぼすことはしないとおっしゃるのです。そのように聖書は鳩を愛と平和の象徴として用いているのです。
そういうこともあってか、イエスさまの神に御心に従う決意表明のバプテスマによって、神さまの愛と平和の新しい契約の時代が訪れことになるのであります。このようにイエスさまの上に聖霊が鳩のようにお降りになることで、神さまの救いのみ業の始まりが告げられたのです。
さて、17節「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。これは「イエスさまが唯一神の御子、救い主である」との宣言であるのです。
キャンドルライトサービスの時に読まれますクリスマスの記事を綴ったルカ福音書2章に、天の軍勢が羊飼いたちに現れて神を讃美して、「いと高きところに栄光、神にあれ、地に平和、御心に適う人にあれ。」と言いました。
そこにも「御心に適う」という共通する言葉をみつけることができます。直訳は、「喜びの人」という意味です。本日の箇所の「わたしの心に適う者」という原文の直訳は、「神は彼を喜んだ」ということです。そうすると随分ニュアンスが違ってきますね。「神さまが喜ばれる人」。イエスさまはそのようなお方であったということです。
それは先程も申しましたように、イエスさまが御神に従順に従いバプテスマを受けられたからです。この事はやがて、すべての人の罪を背負い、贖いの業を成し遂げる十字架の受難と死へと続いていくのであります。イエスさまは神さまの全人類に与えられるこの偉大なご計画に聞き従い、まさにその御心のとおり自らを十字架に引き渡されたのです。
「神の心に適う人」は「神の喜びの人」であり、神さまのご計画に信頼して従う人のことなのです。神さまは、その愛する喜びのイエスさまを3日後、死よりよみがえらされたのであります。このように大いなる御救いの業がイエスさまのバプテスマに象徴的に表されていたのですね。
ヨハネは罪の悔改めを表す水のバプテスマを授けました。私たちのバプテスト教会でも、イエスさまを信じてバプテスマを受ける人は、水に全身をしずめられます。
しかし、そのバプテスマは自分の力や思いで得られるものではなく、イエスさまが私の罪を負い十字架にかかって死んで下さったその死に主と共に与り、水の中から起こされる時はイエスさまにあるよみがえりの新しい命・永遠の命を戴いて生きる者とされたということが表されているのです。
私たちは主の救いを得たとはいえ、己の罪深さや欠点や弱さをたくさんもっています。が、しかしイエスさまのあゆみに倣って、従うことはできます。信仰の実生活、体験を通して自分の弱さや罪深さの中に、主の恵みの豊かさやゆるし、支えや導きというものを知り、味わうことができます。
私たちも又、「あなたはわたしの喜び、愛する者」と御神さまにいわれるように、日々主の御心を尋ね、聞き従う者としてあゆんでいきたいものです。
そのために、私たちはイエスさまの御言葉に触れ、教会の霊的交わり、祈り、奉献を通して、私自身がまず聖霊に満たされ喜びに溢れて日々を送ることがとっても大事なことであります。
最後に、第一テサロニケ5章16節~18節をお読みします。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
神の御心に生きる人、その人のうえに世では得る事のない喜びが与えられるのです。
今日は2013年の最後の主日礼拝ですが、どんな時もそのような天の国の喜びを持つ人となれるよう願いつつ、新しい年に備えてまいりましょう。
皆さまにとりましても、神さまの祝福に満ちたよき一年をお迎えください。