あかしのメッセージ ヨハネ15:16 Ⅰヨハネ4:9~10
今日はいつもの聖書教育の箇所からではなく、私のあかしを礼拝のメッセージとさせて頂きます。
◆教会に行くはめになったことからの始まり。
私が初めて教会に行くことになったのは小学校4年生の時でした。
その頃近所の同年代の仲間たちとよく家の近くにあった西南女学院中学の空き地で草野球をしていました。
その仲間の一人に学校では秀才と言われていた男がいまして、彼と草野球の対戦をしたとき、ひょんなことからあるかけをしたのです。
彼は、「俺のチームが勝てば俺のいうことを聞いてほしい。ただしお前のチームが勝てば、何でもいうことを聞く」と言ってきたのです。
どういう意味かは深く考えず、よしゃ受けてやろうということになりましたが、試合の結果は私のチームが負けてしまい、結局彼のいうことを飲むはめになったのです。
その言う事というのが、「次の日曜日に教会に来いよ」というものだったので、ちょっと面くらったのですが。ともかくその日曜日から、朝9時から始まるシオン山教会の教会学校に行くようになった、というのがそもそもの始まりだったのです。
まあ、教会学校での礼拝や分級は正直よく分からなかったのですが、何がよかったのか不思議と通い続けました。何が楽しかったんだろうか。教会学校の行事で遠足に行って遊んだり、花の日に消防署を訪問して消防自動車が間近に見れたことが嬉しかったのか、教会学校の分級後にクラスの仲間たちと騒ぎまくれたのがよかったのか、ともかくそんなことが小学4、5、6年生と続きました。
◇少年会の恩師との出会い。
教会とのつながりがさらに密になったのは、中学生になってからのことでした。
中学になるや、「毎週土曜日の夕方から少年会という集まりがあるから、おいでよ」と、教会の中学、高校、さらに大学生のお兄さんたちが誘ってくれて、例の友人と参加するようになったのです。この当時は少年会と少女会が別個にあって、それぞれ活動をしていたのです。
少年会のメンバーはだいたいコンスタントに5、6人くらいが集まりました。
夕方になってから教会に行くと、玄関の内側から、中学や高校のお兄さんたちのワイワイガヤガヤと時に奇声も聞こえてきます。何事かと入ってみるとピンポンがエキサイティグに繰り広げられていました。当時は巷でもピンポンがはやっていてピンポン台がある教会も多かったようです。
白熱した時間を過ごした後、少年会の部屋に案内されて、今度は何が始まるんだろうと緊張していると、何やら30歳くらいの青年のような少年会の顧問の方が、「讃美歌453番を歌いましょう」と言い出して、皆が一斉に「聞けや愛の言葉を・・・」と歌い出すのです。
祈りに続いて、聖書の輪読が行われた後、そこからのお話がその顧問よりなされます。
そのやや緊張した約40分間が終わると、またフリータイムの始まり。トランプ、人生ゲームやモノポリーというゲーム、再び卓球をする者など様々でした。
だいたい午後9時頃に終わり、家に帰り、また翌日日曜日の礼拝に行くと言うのが以来私の土、日の生活パターンになっていったのです。
少年会では今思えばゾッとするような事もしでかしたものです。教会の横に学生寮が建っていたのですが、そこへ向けてロケット花火を飛ばして遊んだのもその一つでした。
土曜の少年会の翌日はよく婦人会の方から、少年会の部屋がいつもきたない、と怒られたものでしたが。そこで決まってしりぬぐい役となったのは少年会の例の顧問でした。日曜日教会で、妙に落ち込んでいる顧問の様子を見ても、何ら意に解せず騒ぎまくっていた私たち少年会でしたが。しかし、ある時すごい剣幕でこの顧問の方が、「ボクはこの少年会のある土曜日の時間を何とか確保し、ここに自分をかけて来ているんぞ」と、本気で自分たちを叱りつけたことがありました。
当時この方は中高の教員であり、教師としてとても忙しい日々の中で何とか自分とご家族の貴重な時間を少年会のために割いて来てくださっていたのです。今思えば、単に楽しいだけでなく、少年会のみんなで讃美し、祈り、聖書を開いて読み、お話を聞く機会を作って頂いたこのような顧問の方との出会いがあったから、自分は教会につながることができたんだと、そう思うのですね。
◆さて、その少年少女時代私は神さまからすばらしいプレゼントを頂きました。
その一つはバプテスマです。
中学生になってからの教会の活動でもう一つ大きなものをあげるとしたら、北九州地方連合、略して北九連の少年少女会でした。当時北九連の少年少女会では1年に春修、夏のワークキャンプ、クリスマス会並びに刑務所慰問という3つのイベントがあり、他に例会が数回持たれていました。春修はその中でも一大イベントでした。特に印象的だったのは、夜のゴールデンタイムに、りらっかし会なるプログラムがあり、文字通りリラックスして互いのあかしを聞き合うというものでした。それはよく少年少女が抱えている学校、恋愛、身近な問題や社会の問題についてであったり、又障害者の抱えている問題、自殺の問題、戦争や飢餓の問題を取り上げ、真剣に考え、意見を出し合う時そのような場でした。みな若いですから、時にはあまりに議論が白熱し、涙を浮かべながら意見を戦わせるような場面、緊張した空気が張り詰めてシーンと静まりかえるような場面などもありましたが、いい思い出です。
こういった北九連の少年少女会の活動を通して、私は神さまと出会いクリスチャンとなるきっかけをもらいました。そして中3の時に参加した伊豆の天城山荘で開かれた全国少年少女大会で、イエスさまを救い主として信じる決心を表し、高1のイースターに信仰告白して、バプテスマを受けたのです。
そこまでに至る道のりは、教会とその暖かく寛容な交わりに支えられ、背後で私はずっと祈りに覚えられていたということをその時初めて知りました。そしてやはり連合の少年少女会での出会いや交流によって支えられ、励まされてきたのも大きかったですね。このようにして主イエスはいつも私を招き育み導いてくださったのですね。今こうして高校1年の春のイースターから今年のイースターでもう38年という随分な年月を迎えようとしていますが、このバプテスマは少年少女時代に与えられた私の人生において最も大きな神さまからのプレゼントです。
神さまの前で不完全で決して純粋とはいえない者であったにも拘わらず、それを神さまはダメだと否定なさることはありませんでした。その時のあるがままの私をまるごと受けとってバプテスマへと導いて、新しくされた者として生きる祝福を与えて下さったのです。多分この高校1年のイースターの時を逃していたら、バプテスマを受けていたかどうか?その後、教会につながっていたかどうか分かりません。
ここには既にバプテスマを受けた方も多くおられるでしょう。その方にお尋ねしますが。あなたはどのような信仰告白をされましたか?思い出せる方もおられるかも知れませんが、「ずっと前だから思い出せん」「もう忘れた」という方。又「親や牧師に勧められて受けた」という方もおられるかも知れませんね。中にはあの時の信仰はあいまいで動機も不純だったので、もう一度バプテスマを受け直したいと思っている方もおられるかも知れませんが。そうではないんです。どんあ形で始まったにせよ、イエスさまとつながっている今がある。そのイエスさまが今も共におられる。又それは、どんなに大変な出来事や辛く悲しい出来事があろうとも、そのイエスさまのもとにいつでも帰るところがあるということですね。それが大切なんですね。
実は私はバプテスマを受けた後、高校生時代にいじめに遭いめちゃ悩み苦しみました。
社会人になってからも、上司とうまが合わず日々顔を合わすのがしんどかったり、企業のやり方にもやるせなさを感じたり、挫折も経験しました。
けれども、そんな時にも、イエスさまの十字架と復活の救いを信じて、知識においては足りない者でありましたが、そのあるがままの信仰でバプテスマを受けたことが、前に進んでいく原動力になっていったんですね。苦しく辛い時にも、イエスさまとつながっているということが私を支え力づけてくれました。そのように、自分のあゆみの原点、出発点がこのバプテスマにあるという経験を何度もいたしました。バプテスマを受けるということは、そういう祝福であると思います。
2つ目のプレゼントは3人の友です。
少年少女時代に与えられたもう一つの大きな神さまからの贈物といえば、やはり教会を通して与えられた友です。小学生から中学生、青年になり就職し、さらに神学校に行き、それから牧師になってから今に至っても、教会、そして連合の少年少女時代に出会った私の場合3人の友との永い付き合いがずっと続いています。
1人目の友は、最初にお話しました、私が教会に行く羽目になった原因の奴です。彼は小学生の時から伝道熱心でした。教会の牧師先生に伝道新聞を作りたいから教会案内を書いてくださいと直談判し、自作のマンガを入れてガリ版に刷り込んだ100枚の教会新聞を教会の周辺に配りたいから、一緒にやろうと強引に誘われ道連れにされたことがありました。彼は普通の住宅以外に神社やお寺にも押しかけては、「教会に来て下さい」と教会新聞を宮司さんや住職さんにひたすら手渡していくのです、そして何と大きな創価学会の会館にまで押しかけていったのですが、さすがにここは取り合ってくれませんでしたが。
まあ教会では、彼こそ将来牧師になるに違いない、と言われていたものです。その彼は、日本で一番の難関を突破し、その大学を出たのですが。何と国際飢餓対策機構の仕事がしたいということでエチオピアでの飢餓対策の働きを数年しました。その後、外務省の関係の仕事をイギリスでし、今は東京で大学の教員をしています。
2人目の友は、同じ日にバプテスマを受けたやつです。教会は互いに違っていたのですが。臆病だった私は彼に同じ日にバプテスマを受けようと約束を取り付けたんですね。
彼は1つ年上なのですが、私が小5で彼が小6の時に山口県の秋吉台の国民宿舎で行われた北九州連合の夏期学校で初めて出会ったのです。
その時からホンマに仲良くなり、いろんな話ができる友だちになれました。後で分かったのですが、私の家と彼の家とはほんの車で5分弱で行ける距離だったのです。
彼と中高時代意気投合したのは、やはり信仰問答でした。彼も結構熱かったのですが、それ以上に彼の人柄というか、それは優しく暖かい男であったのです。そんな彼とは北九連の役員やリ―ダーを一緒にさせてもらったり、青年になってからも青年会でクリスマスコンサートなどを喫茶店で打ち上げたりしていましたが。その大学当時、彼が自分で訳して作った「あしあと」という歌はよく唄われていますよね。ほんとうに一緒にいろんなことをしました。そんな彼もやはり神さまが離さなかったのか、今は牧師になって大活躍されています。皆さんもよくご存じの牧師さんです。
お互いに牧師になってよかったことが一つあるんですが。それは、もし何かあって天に召された場合、「葬儀の司式はよろしく」と互いに約束ができた事です。これは一つ安心ですね。
3人目の友は、北九連の春修で初めて出会った男です。当時少年少女会の修養会でもピンポンがはやっていまして、熱中していた白熱していた時に、「一緒にやらせろ」と声をかけてきたのが始まりです。彼は牧師の家庭に育つ3男坊でしたが。作詩作曲をしてはギターを自由に操る賜物がありました。春修では私も好きなフォーク系のシンガーソングライターの曲をコピーして弾き語りをするものですから、話が盛り上がり遂に2人で当時は好きだった曲目の「案山子」という名をかりて素人バンドを結成してしまいました。下手なりにもいろんなコンテストやフェスティバルに応募してチャレンジしては予選敗退ばかりでした。どうも私が彼の足を引っ張っていたようですが。
彼のオリジナルのゴスペルソングも春修でよく歌ったものです。恋愛曲とゴスペル曲のオリジナルを合わせると100曲以上あったようです。今でも讃美歌を作っていると思います。連盟の新生讃美歌の中にも彼のオリジナルが何曲か載っています。彼は牧師になるつもりはないと断言していましたたが、「愛のポストマン」という歌を作ったこともあってか、今も福岡で郵便局長さんをしています。
この3人の友を少年少女時代に与えられた事は、私にとってほんとうに大きな財産になっております。今でも、どこにいようが、何をしてようが、変わることのない友、神さまからの贈物なのです。
◇次にお話しますことは「神と私との関係」についてです。
先にも少しお話ししましたが、私は高校を卒業して、家庭が経済的にも厳しかったもんで紙業会社に就職して現場で働きました。主な仕事内容は種々の産業用パッケージ袋を、ドイツ製ボトマーという機械を通して、一日に数万枚も出荷していました。連日機械と向き合い格闘しながら1日が終わるのです。オーダーの出荷が機械のトラブルで遅れて間に合わない時は残業が続き、午前さんになる日もありました。
それくらいはよかったのですが、日曜出勤も時にはあり、それがほんとうに辛かったで
す。というのは、学生時代は日曜日はまったく考えなくとも、この日は教会に行く日、
礼拝の日というのが当然のようになっていたわけですので。社会人になるとそれが当た
り前にはできなくなったというのが苦しかったですね。しかし、そういう信仰の闘いが
起こることになってから、神さまと自分との関係、信仰を見つめ直すようになっていっ
たのですね。それで教会の日曜礼拝の他にも水曜祈祷会に極力出るようにしました。
仕事帰りの肉体的には疲労していても、この水曜祈祷会に出て、共に御言葉を聞き、讃美し祈り合うことで、ほんとうに心が元気にされましたね。次の日曜日が出勤で礼拝に出れなくなったとしても、水曜祈祷会で信仰の給油をしていたら、また次の水曜日までの1週間あゆんでいく力を蓄えることができたんです。
信仰の油を切らさないようにする。神と私との関係をしっかり築いていくことの大切さを、社会人になってからほんと知らされましたね。
少年少女の学生時代は教会の友や仲間がいたこともあって楽しく、又、自然に教会や礼拝にゆくことができていた。まあそれを妨げるような信仰の戦いや葛藤がなかった。それは確かに良かったともいえます。しかし、どうなんだろう、その後順調にいって、信仰の戦いや葛藤もないまま、ただみんなが教会に行っているから自分も行っている、というような薄っぺらな気持だけでいたなら、多分自分は青年時代になれば教会を離れていたのかも知れないと思うのです。ある意味、日曜出勤で礼拝が守れない、残業で祈祷会に出れない、そういう妨げや障害が生じることで、神と自分との関係を再び見つめてみる機会ができたといえると思います。
◆「母の存在」の再発見についてもお話しますが。
話は随分さかのぼりますが。私が小2の時に父の大病と入院が度重なり、経済的なこと様々
な事情で両親は止む無く離婚の道を選びました。母はそれから働きに出るようになり、妹
と二人で日中は過ごすようになりました。幼いながらも動揺があった私は、近所の悪そグル
ープに誘われ、彼らのいうままにお菓子やガムを集団で盗む犯行に加わったりしました。し
まいは店のおじさんに見つかり、こっぴどく叱られましたけども。この頃の自分の心は幼い
ながらにすさんでいました。これも不思議ですが、最初にお話したようにそんな時、友人と
草野球でかけをして、負けてしまい教会に行くはめになった。神さまに拾われたんです。そ
うなんです、この思ってもみないようなタイミングというか出会いがなかったら、どうなっ
ていたんやろうか、とホンマに思うのです。
その頃母に「ボク教会に行くからね」と言うと、母は「反対はしないが、信者にはなりなさんなよ。あれは自分を犠牲にしなければならないからね。そこまでなることはないよ」と、そう答えが返ってきました。今から思えば、一理あるなと思いますが。まあその頃自分も信者になるつもりなどなかったのです。けれども、中学になってからの少年会の恩師との出会い、連合の少年少女会や3人の友との出会い、さらにいつも暖かく受けとめ、祈り支えてくださっていた教会のいろんな人たちを通して、「神さまが生きておられる」ってことを私に気づかせてくださったのですね。
中3の時に母にバプテスマを受けたいと、ストレートに伝えると、初めは反対されまし
たが。あきらめず粘り強く、少し恥ずかしくて勇気がいったんですが、手紙を書いて手渡
すと、母が「としやが選んだ道なんだから、そうしなさい」といってバプテスマを受ける
ことを許してくれたのです。思いをきちんと伝えられ、それが伝わったこと、ほんとうにう
れしかったですね。
そうしてクリスチャンになり先ほどお話ししたように、自分と神との関係について見つめ
直す時期があり、20歳過ぎた頃でしたが。私はもっと聖書を学びたいという思いに導かれ
ました。
それで、大学でも短大でもいいからとにかく神学が学べるところはないものかと。とはいっ
ても自分は高校卒業以来勉強といえる勉強もせず学力もない、どうしたらよいものか相当
悩みました。それで、あらゆる大学の入試情報が載ったリクルート誌をしらみつぶしに探し
ていくと、大阪にキリスト教の短期があり、そこに神学科もあるというのを見つけたのです
試験科目は、聖書、英語、小論文、面接の他に、もう1つ「讃美歌」というものに目にとま
ったんです。年齢は神学科の場合問わないということでした。「これや」という思いが起こ
り、そこを受験することに決め、勤めていた会社に退職届を提出し受理されました。が、
入学するためには2つの関所を越えないといけません。1つはむろん入試ですが。1番の難
関は母です。どう自分の思いを伝えるか。バプテスマを受ける時もそうでしたが。その時な
何とか理解してくれましたが。今度は、仕事を辞め家を離れて出て行くことになりますから
相当悩みました。でも自分の思いはきちんと伝えようという決意をもって母にそのことを
打ち明けました。最初の反応は、当然ですが母に泣かれ、叱りとばされました。しかし、そ
れでも最後は、「俊也、お前の道だから」と、いってくれました。確かに、こんな親不幸者
がいるかと思います。母親の腕一本で育て、高校まで出してもらったの
に、家を出て行くというわが子の親不幸。
そして21歳の春、大阪にあるキリスト教短大神学科に晴れて入学しました。ちなみに
その入試のできは、学びたい思いを率直に伝えたことと、讃美歌テストで、その時歌った「主
よみ手もて」という讃美歌がおもいきり讃美できたので、どうも拾ってもらえたようです。神学科には2年在籍しましたが、このキリ短の神学科のすごいところは、あくまでも当時
ですが神学科生の授業料はすべてキリスト教短大の母体でありますフリーメソジスト教団
の奨学金によって私の授業料は全額免除されたのです。あとは生活費を育英会の奨学金や
アルバイトで何とか補うことができました。
大阪での2年間は天王寺にあるこの大阪教会に在籍し、お世話になりました。
親から離れ1人でバイトし、生計を立てていく苦労を痛感しながら、母のこれまでの愛と支えの尊さを実感しました。
旧約聖書で「母」という言葉は元来「土地」のことを指していました。「母なる大地」という言葉を聞いたりもしますが、そこから来ています。出エジプトをしたイスラエルの民の目的地として「カナンの地」が与えられていくのですが、エイリッヒ・フロムという社会心理学者は、この土地は「乳と蜜の流れる母なる大地」とあることから、そこには母親の2つの愛が象徴的に示されているというのですね。1つは、母親が乳飲み子にお乳を与えるという面です。1人の命が世に誕生した時に、赤ん坊が1番最初にオギャーオギャーと泣き叫びます。それは母親に愛情とお乳を一心に求める声です。その切なる求めに応えることができるのが母親であります。自らのお腹を痛め、身体の一部から産まれ出たという本能から愛情を注ぎ、お乳を与えることができるのです。けれどもこのフロムという人は、母にはお乳を与えるだけでなく、さらに蜜を与える面があるというのですね。そこにいわば本来の母の証があるというのです。どういうことでしょう?
私のことでいうなら、自分の腹を痛め、乳を与え、誠心誠意尽くし愛情込めて育ててきたわが子を手元から手放していくその決断は、本能的な母性からくる辛さや寂しさを越えて、ひとり立ちしていこうとする私に与えてくれた愛情と信頼こそが、蜜を与えるという豊かな言葉で言い表されている、と思うのです。
Ⅰヨハネの手紙4章10節で、ヨハネは「神の愛」についてこう語ります。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛した」。ここに神の愛があると。ヨハネ福音書15章16節にも「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と神さまの先立つ選びについて記されています。
私の思いすべてに先立つ神さまの愛。それは私にとっての母の存在と教会や連合の主にある方々、兄弟姉妹とのつながりの中で知らされ、拡がり、深められていきました。
「わたしが神を愛したのではなく、様々な主にある出会いを通して、神さまがわたしを愛してくださっている」ということを、それらの体験を通して本当に知る事ができたのです。
みなさんお一人おひとり神さまとの出会いの時、救いの日、信仰のあゆみがおありでしょう。その中で教会の主にある交わりは、つながっていくほどに、主は神の愛の広さ、深さを豊かに与らせて下さいます。どんな時も主と主の教会につながっていく祝福。今日の私のあかしはこのことをまずお伝えたかったのです。
その主、神さまは今も生きて、信じる者と共におられます。祈ります。
今日はいつもの聖書教育の箇所からではなく、私のあかしを礼拝のメッセージとさせて頂きます。
◆教会に行くはめになったことからの始まり。
私が初めて教会に行くことになったのは小学校4年生の時でした。
その頃近所の同年代の仲間たちとよく家の近くにあった西南女学院中学の空き地で草野球をしていました。
その仲間の一人に学校では秀才と言われていた男がいまして、彼と草野球の対戦をしたとき、ひょんなことからあるかけをしたのです。
彼は、「俺のチームが勝てば俺のいうことを聞いてほしい。ただしお前のチームが勝てば、何でもいうことを聞く」と言ってきたのです。
どういう意味かは深く考えず、よしゃ受けてやろうということになりましたが、試合の結果は私のチームが負けてしまい、結局彼のいうことを飲むはめになったのです。
その言う事というのが、「次の日曜日に教会に来いよ」というものだったので、ちょっと面くらったのですが。ともかくその日曜日から、朝9時から始まるシオン山教会の教会学校に行くようになった、というのがそもそもの始まりだったのです。
まあ、教会学校での礼拝や分級は正直よく分からなかったのですが、何がよかったのか不思議と通い続けました。何が楽しかったんだろうか。教会学校の行事で遠足に行って遊んだり、花の日に消防署を訪問して消防自動車が間近に見れたことが嬉しかったのか、教会学校の分級後にクラスの仲間たちと騒ぎまくれたのがよかったのか、ともかくそんなことが小学4、5、6年生と続きました。
◇少年会の恩師との出会い。
教会とのつながりがさらに密になったのは、中学生になってからのことでした。
中学になるや、「毎週土曜日の夕方から少年会という集まりがあるから、おいでよ」と、教会の中学、高校、さらに大学生のお兄さんたちが誘ってくれて、例の友人と参加するようになったのです。この当時は少年会と少女会が別個にあって、それぞれ活動をしていたのです。
少年会のメンバーはだいたいコンスタントに5、6人くらいが集まりました。
夕方になってから教会に行くと、玄関の内側から、中学や高校のお兄さんたちのワイワイガヤガヤと時に奇声も聞こえてきます。何事かと入ってみるとピンポンがエキサイティグに繰り広げられていました。当時は巷でもピンポンがはやっていてピンポン台がある教会も多かったようです。
白熱した時間を過ごした後、少年会の部屋に案内されて、今度は何が始まるんだろうと緊張していると、何やら30歳くらいの青年のような少年会の顧問の方が、「讃美歌453番を歌いましょう」と言い出して、皆が一斉に「聞けや愛の言葉を・・・」と歌い出すのです。
祈りに続いて、聖書の輪読が行われた後、そこからのお話がその顧問よりなされます。
そのやや緊張した約40分間が終わると、またフリータイムの始まり。トランプ、人生ゲームやモノポリーというゲーム、再び卓球をする者など様々でした。
だいたい午後9時頃に終わり、家に帰り、また翌日日曜日の礼拝に行くと言うのが以来私の土、日の生活パターンになっていったのです。
少年会では今思えばゾッとするような事もしでかしたものです。教会の横に学生寮が建っていたのですが、そこへ向けてロケット花火を飛ばして遊んだのもその一つでした。
土曜の少年会の翌日はよく婦人会の方から、少年会の部屋がいつもきたない、と怒られたものでしたが。そこで決まってしりぬぐい役となったのは少年会の例の顧問でした。日曜日教会で、妙に落ち込んでいる顧問の様子を見ても、何ら意に解せず騒ぎまくっていた私たち少年会でしたが。しかし、ある時すごい剣幕でこの顧問の方が、「ボクはこの少年会のある土曜日の時間を何とか確保し、ここに自分をかけて来ているんぞ」と、本気で自分たちを叱りつけたことがありました。
当時この方は中高の教員であり、教師としてとても忙しい日々の中で何とか自分とご家族の貴重な時間を少年会のために割いて来てくださっていたのです。今思えば、単に楽しいだけでなく、少年会のみんなで讃美し、祈り、聖書を開いて読み、お話を聞く機会を作って頂いたこのような顧問の方との出会いがあったから、自分は教会につながることができたんだと、そう思うのですね。
◆さて、その少年少女時代私は神さまからすばらしいプレゼントを頂きました。
その一つはバプテスマです。
中学生になってからの教会の活動でもう一つ大きなものをあげるとしたら、北九州地方連合、略して北九連の少年少女会でした。当時北九連の少年少女会では1年に春修、夏のワークキャンプ、クリスマス会並びに刑務所慰問という3つのイベントがあり、他に例会が数回持たれていました。春修はその中でも一大イベントでした。特に印象的だったのは、夜のゴールデンタイムに、りらっかし会なるプログラムがあり、文字通りリラックスして互いのあかしを聞き合うというものでした。それはよく少年少女が抱えている学校、恋愛、身近な問題や社会の問題についてであったり、又障害者の抱えている問題、自殺の問題、戦争や飢餓の問題を取り上げ、真剣に考え、意見を出し合う時そのような場でした。みな若いですから、時にはあまりに議論が白熱し、涙を浮かべながら意見を戦わせるような場面、緊張した空気が張り詰めてシーンと静まりかえるような場面などもありましたが、いい思い出です。
こういった北九連の少年少女会の活動を通して、私は神さまと出会いクリスチャンとなるきっかけをもらいました。そして中3の時に参加した伊豆の天城山荘で開かれた全国少年少女大会で、イエスさまを救い主として信じる決心を表し、高1のイースターに信仰告白して、バプテスマを受けたのです。
そこまでに至る道のりは、教会とその暖かく寛容な交わりに支えられ、背後で私はずっと祈りに覚えられていたということをその時初めて知りました。そしてやはり連合の少年少女会での出会いや交流によって支えられ、励まされてきたのも大きかったですね。このようにして主イエスはいつも私を招き育み導いてくださったのですね。今こうして高校1年の春のイースターから今年のイースターでもう38年という随分な年月を迎えようとしていますが、このバプテスマは少年少女時代に与えられた私の人生において最も大きな神さまからのプレゼントです。
神さまの前で不完全で決して純粋とはいえない者であったにも拘わらず、それを神さまはダメだと否定なさることはありませんでした。その時のあるがままの私をまるごと受けとってバプテスマへと導いて、新しくされた者として生きる祝福を与えて下さったのです。多分この高校1年のイースターの時を逃していたら、バプテスマを受けていたかどうか?その後、教会につながっていたかどうか分かりません。
ここには既にバプテスマを受けた方も多くおられるでしょう。その方にお尋ねしますが。あなたはどのような信仰告白をされましたか?思い出せる方もおられるかも知れませんが、「ずっと前だから思い出せん」「もう忘れた」という方。又「親や牧師に勧められて受けた」という方もおられるかも知れませんね。中にはあの時の信仰はあいまいで動機も不純だったので、もう一度バプテスマを受け直したいと思っている方もおられるかも知れませんが。そうではないんです。どんあ形で始まったにせよ、イエスさまとつながっている今がある。そのイエスさまが今も共におられる。又それは、どんなに大変な出来事や辛く悲しい出来事があろうとも、そのイエスさまのもとにいつでも帰るところがあるということですね。それが大切なんですね。
実は私はバプテスマを受けた後、高校生時代にいじめに遭いめちゃ悩み苦しみました。
社会人になってからも、上司とうまが合わず日々顔を合わすのがしんどかったり、企業のやり方にもやるせなさを感じたり、挫折も経験しました。
けれども、そんな時にも、イエスさまの十字架と復活の救いを信じて、知識においては足りない者でありましたが、そのあるがままの信仰でバプテスマを受けたことが、前に進んでいく原動力になっていったんですね。苦しく辛い時にも、イエスさまとつながっているということが私を支え力づけてくれました。そのように、自分のあゆみの原点、出発点がこのバプテスマにあるという経験を何度もいたしました。バプテスマを受けるということは、そういう祝福であると思います。
2つ目のプレゼントは3人の友です。
少年少女時代に与えられたもう一つの大きな神さまからの贈物といえば、やはり教会を通して与えられた友です。小学生から中学生、青年になり就職し、さらに神学校に行き、それから牧師になってから今に至っても、教会、そして連合の少年少女時代に出会った私の場合3人の友との永い付き合いがずっと続いています。
1人目の友は、最初にお話しました、私が教会に行く羽目になった原因の奴です。彼は小学生の時から伝道熱心でした。教会の牧師先生に伝道新聞を作りたいから教会案内を書いてくださいと直談判し、自作のマンガを入れてガリ版に刷り込んだ100枚の教会新聞を教会の周辺に配りたいから、一緒にやろうと強引に誘われ道連れにされたことがありました。彼は普通の住宅以外に神社やお寺にも押しかけては、「教会に来て下さい」と教会新聞を宮司さんや住職さんにひたすら手渡していくのです、そして何と大きな創価学会の会館にまで押しかけていったのですが、さすがにここは取り合ってくれませんでしたが。
まあ教会では、彼こそ将来牧師になるに違いない、と言われていたものです。その彼は、日本で一番の難関を突破し、その大学を出たのですが。何と国際飢餓対策機構の仕事がしたいということでエチオピアでの飢餓対策の働きを数年しました。その後、外務省の関係の仕事をイギリスでし、今は東京で大学の教員をしています。
2人目の友は、同じ日にバプテスマを受けたやつです。教会は互いに違っていたのですが。臆病だった私は彼に同じ日にバプテスマを受けようと約束を取り付けたんですね。
彼は1つ年上なのですが、私が小5で彼が小6の時に山口県の秋吉台の国民宿舎で行われた北九州連合の夏期学校で初めて出会ったのです。
その時からホンマに仲良くなり、いろんな話ができる友だちになれました。後で分かったのですが、私の家と彼の家とはほんの車で5分弱で行ける距離だったのです。
彼と中高時代意気投合したのは、やはり信仰問答でした。彼も結構熱かったのですが、それ以上に彼の人柄というか、それは優しく暖かい男であったのです。そんな彼とは北九連の役員やリ―ダーを一緒にさせてもらったり、青年になってからも青年会でクリスマスコンサートなどを喫茶店で打ち上げたりしていましたが。その大学当時、彼が自分で訳して作った「あしあと」という歌はよく唄われていますよね。ほんとうに一緒にいろんなことをしました。そんな彼もやはり神さまが離さなかったのか、今は牧師になって大活躍されています。皆さんもよくご存じの牧師さんです。
お互いに牧師になってよかったことが一つあるんですが。それは、もし何かあって天に召された場合、「葬儀の司式はよろしく」と互いに約束ができた事です。これは一つ安心ですね。
3人目の友は、北九連の春修で初めて出会った男です。当時少年少女会の修養会でもピンポンがはやっていまして、熱中していた白熱していた時に、「一緒にやらせろ」と声をかけてきたのが始まりです。彼は牧師の家庭に育つ3男坊でしたが。作詩作曲をしてはギターを自由に操る賜物がありました。春修では私も好きなフォーク系のシンガーソングライターの曲をコピーして弾き語りをするものですから、話が盛り上がり遂に2人で当時は好きだった曲目の「案山子」という名をかりて素人バンドを結成してしまいました。下手なりにもいろんなコンテストやフェスティバルに応募してチャレンジしては予選敗退ばかりでした。どうも私が彼の足を引っ張っていたようですが。
彼のオリジナルのゴスペルソングも春修でよく歌ったものです。恋愛曲とゴスペル曲のオリジナルを合わせると100曲以上あったようです。今でも讃美歌を作っていると思います。連盟の新生讃美歌の中にも彼のオリジナルが何曲か載っています。彼は牧師になるつもりはないと断言していましたたが、「愛のポストマン」という歌を作ったこともあってか、今も福岡で郵便局長さんをしています。
この3人の友を少年少女時代に与えられた事は、私にとってほんとうに大きな財産になっております。今でも、どこにいようが、何をしてようが、変わることのない友、神さまからの贈物なのです。
◇次にお話しますことは「神と私との関係」についてです。
先にも少しお話ししましたが、私は高校を卒業して、家庭が経済的にも厳しかったもんで紙業会社に就職して現場で働きました。主な仕事内容は種々の産業用パッケージ袋を、ドイツ製ボトマーという機械を通して、一日に数万枚も出荷していました。連日機械と向き合い格闘しながら1日が終わるのです。オーダーの出荷が機械のトラブルで遅れて間に合わない時は残業が続き、午前さんになる日もありました。
それくらいはよかったのですが、日曜出勤も時にはあり、それがほんとうに辛かったで
す。というのは、学生時代は日曜日はまったく考えなくとも、この日は教会に行く日、
礼拝の日というのが当然のようになっていたわけですので。社会人になるとそれが当た
り前にはできなくなったというのが苦しかったですね。しかし、そういう信仰の闘いが
起こることになってから、神さまと自分との関係、信仰を見つめ直すようになっていっ
たのですね。それで教会の日曜礼拝の他にも水曜祈祷会に極力出るようにしました。
仕事帰りの肉体的には疲労していても、この水曜祈祷会に出て、共に御言葉を聞き、讃美し祈り合うことで、ほんとうに心が元気にされましたね。次の日曜日が出勤で礼拝に出れなくなったとしても、水曜祈祷会で信仰の給油をしていたら、また次の水曜日までの1週間あゆんでいく力を蓄えることができたんです。
信仰の油を切らさないようにする。神と私との関係をしっかり築いていくことの大切さを、社会人になってからほんと知らされましたね。
少年少女の学生時代は教会の友や仲間がいたこともあって楽しく、又、自然に教会や礼拝にゆくことができていた。まあそれを妨げるような信仰の戦いや葛藤がなかった。それは確かに良かったともいえます。しかし、どうなんだろう、その後順調にいって、信仰の戦いや葛藤もないまま、ただみんなが教会に行っているから自分も行っている、というような薄っぺらな気持だけでいたなら、多分自分は青年時代になれば教会を離れていたのかも知れないと思うのです。ある意味、日曜出勤で礼拝が守れない、残業で祈祷会に出れない、そういう妨げや障害が生じることで、神と自分との関係を再び見つめてみる機会ができたといえると思います。
◆「母の存在」の再発見についてもお話しますが。
話は随分さかのぼりますが。私が小2の時に父の大病と入院が度重なり、経済的なこと様々
な事情で両親は止む無く離婚の道を選びました。母はそれから働きに出るようになり、妹
と二人で日中は過ごすようになりました。幼いながらも動揺があった私は、近所の悪そグル
ープに誘われ、彼らのいうままにお菓子やガムを集団で盗む犯行に加わったりしました。し
まいは店のおじさんに見つかり、こっぴどく叱られましたけども。この頃の自分の心は幼い
ながらにすさんでいました。これも不思議ですが、最初にお話したようにそんな時、友人と
草野球でかけをして、負けてしまい教会に行くはめになった。神さまに拾われたんです。そ
うなんです、この思ってもみないようなタイミングというか出会いがなかったら、どうなっ
ていたんやろうか、とホンマに思うのです。
その頃母に「ボク教会に行くからね」と言うと、母は「反対はしないが、信者にはなりなさんなよ。あれは自分を犠牲にしなければならないからね。そこまでなることはないよ」と、そう答えが返ってきました。今から思えば、一理あるなと思いますが。まあその頃自分も信者になるつもりなどなかったのです。けれども、中学になってからの少年会の恩師との出会い、連合の少年少女会や3人の友との出会い、さらにいつも暖かく受けとめ、祈り支えてくださっていた教会のいろんな人たちを通して、「神さまが生きておられる」ってことを私に気づかせてくださったのですね。
中3の時に母にバプテスマを受けたいと、ストレートに伝えると、初めは反対されまし
たが。あきらめず粘り強く、少し恥ずかしくて勇気がいったんですが、手紙を書いて手渡
すと、母が「としやが選んだ道なんだから、そうしなさい」といってバプテスマを受ける
ことを許してくれたのです。思いをきちんと伝えられ、それが伝わったこと、ほんとうにう
れしかったですね。
そうしてクリスチャンになり先ほどお話ししたように、自分と神との関係について見つめ
直す時期があり、20歳過ぎた頃でしたが。私はもっと聖書を学びたいという思いに導かれ
ました。
それで、大学でも短大でもいいからとにかく神学が学べるところはないものかと。とはいっ
ても自分は高校卒業以来勉強といえる勉強もせず学力もない、どうしたらよいものか相当
悩みました。それで、あらゆる大学の入試情報が載ったリクルート誌をしらみつぶしに探し
ていくと、大阪にキリスト教の短期があり、そこに神学科もあるというのを見つけたのです
試験科目は、聖書、英語、小論文、面接の他に、もう1つ「讃美歌」というものに目にとま
ったんです。年齢は神学科の場合問わないということでした。「これや」という思いが起こ
り、そこを受験することに決め、勤めていた会社に退職届を提出し受理されました。が、
入学するためには2つの関所を越えないといけません。1つはむろん入試ですが。1番の難
関は母です。どう自分の思いを伝えるか。バプテスマを受ける時もそうでしたが。その時な
何とか理解してくれましたが。今度は、仕事を辞め家を離れて出て行くことになりますから
相当悩みました。でも自分の思いはきちんと伝えようという決意をもって母にそのことを
打ち明けました。最初の反応は、当然ですが母に泣かれ、叱りとばされました。しかし、そ
れでも最後は、「俊也、お前の道だから」と、いってくれました。確かに、こんな親不幸者
がいるかと思います。母親の腕一本で育て、高校まで出してもらったの
に、家を出て行くというわが子の親不幸。
そして21歳の春、大阪にあるキリスト教短大神学科に晴れて入学しました。ちなみに
その入試のできは、学びたい思いを率直に伝えたことと、讃美歌テストで、その時歌った「主
よみ手もて」という讃美歌がおもいきり讃美できたので、どうも拾ってもらえたようです。神学科には2年在籍しましたが、このキリ短の神学科のすごいところは、あくまでも当時
ですが神学科生の授業料はすべてキリスト教短大の母体でありますフリーメソジスト教団
の奨学金によって私の授業料は全額免除されたのです。あとは生活費を育英会の奨学金や
アルバイトで何とか補うことができました。
大阪での2年間は天王寺にあるこの大阪教会に在籍し、お世話になりました。
親から離れ1人でバイトし、生計を立てていく苦労を痛感しながら、母のこれまでの愛と支えの尊さを実感しました。
旧約聖書で「母」という言葉は元来「土地」のことを指していました。「母なる大地」という言葉を聞いたりもしますが、そこから来ています。出エジプトをしたイスラエルの民の目的地として「カナンの地」が与えられていくのですが、エイリッヒ・フロムという社会心理学者は、この土地は「乳と蜜の流れる母なる大地」とあることから、そこには母親の2つの愛が象徴的に示されているというのですね。1つは、母親が乳飲み子にお乳を与えるという面です。1人の命が世に誕生した時に、赤ん坊が1番最初にオギャーオギャーと泣き叫びます。それは母親に愛情とお乳を一心に求める声です。その切なる求めに応えることができるのが母親であります。自らのお腹を痛め、身体の一部から産まれ出たという本能から愛情を注ぎ、お乳を与えることができるのです。けれどもこのフロムという人は、母にはお乳を与えるだけでなく、さらに蜜を与える面があるというのですね。そこにいわば本来の母の証があるというのです。どういうことでしょう?
私のことでいうなら、自分の腹を痛め、乳を与え、誠心誠意尽くし愛情込めて育ててきたわが子を手元から手放していくその決断は、本能的な母性からくる辛さや寂しさを越えて、ひとり立ちしていこうとする私に与えてくれた愛情と信頼こそが、蜜を与えるという豊かな言葉で言い表されている、と思うのです。
Ⅰヨハネの手紙4章10節で、ヨハネは「神の愛」についてこう語ります。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛した」。ここに神の愛があると。ヨハネ福音書15章16節にも「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と神さまの先立つ選びについて記されています。
私の思いすべてに先立つ神さまの愛。それは私にとっての母の存在と教会や連合の主にある方々、兄弟姉妹とのつながりの中で知らされ、拡がり、深められていきました。
「わたしが神を愛したのではなく、様々な主にある出会いを通して、神さまがわたしを愛してくださっている」ということを、それらの体験を通して本当に知る事ができたのです。
みなさんお一人おひとり神さまとの出会いの時、救いの日、信仰のあゆみがおありでしょう。その中で教会の主にある交わりは、つながっていくほどに、主は神の愛の広さ、深さを豊かに与らせて下さいます。どんな時も主と主の教会につながっていく祝福。今日の私のあかしはこのことをまずお伝えたかったのです。
その主、神さまは今も生きて、信じる者と共におられます。祈ります。