日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

道をそれて

2011-08-28 21:29:58 | メッセージ
宣教① 出エジプト3:1-12 

この個所は「モーセの召命」についての記事でありますが。そこに至るまでの経緯といいますか、背景が大きく影響していますので、そのところからまず見ていきたいと思います。

ヘブライ人のもとに生まれた赤ん坊のモーセは、様々ないきさつからナイル河畔の葦の茂みの間に置かれたところエジプトの王女に拾われ育てられ、すくすくと成長しました。しかしモーセは物心つく年齢になると自分がヘブライ人であることを意識していきます。そして、成人したモーセは、同胞のヘブライ人に関わる2つの出来事によってエジプトから逃亡することになります。2章11節以降にその経緯が記されていますが。
 その一つの出来事は、ブライ人がエジプト人から重労働を課せられ、打ち叩かれている現場を目の当たりにしたモーセが、そのエジプト人を自らの手で打ち殺し、砂に埋めて隠すのです。このモーセの犯した罪は許されるものではありませんし、殺害が肯定されるものでは決してありませんが、それはヘブライ人という自分の民族への強い思い入れ、こだわりを示すものでした。

ところが、もう一つの出来事が起こります。今度はヘブライ人同士が喧嘩をしているのをみかねたモーセは、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめたところ、「お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と罵られるのです。この同胞のヘブライ人からの予想もしなかった言葉に、モーセは大きなショックを受けます。同胞である彼らの苦しみを見かねてなした事が、逆に非難と罵りとなって返ってきたからです。

モーセは、生まれ育ち物心つく頃から自分の本当の親は誰なのか?拾い育てられた王女なのか、乳母として乳を与えてくれた人か、自分はエジプト人か、ヘブライ人か、わたしは一体どこから来たのかなど等、そういう自分のルーツについてずっと悩んできたのでしょうが。更に彼は、この二つのショッキングな出来事を通して、「自分は一体何ものか」との「自分の存在」や「自分のあるべき居場所」について思いを深くするのです。

そうしてモーセは、エジプトを逃亡し、シナイ半島の南東部にあるミデアンの地へと流れ着くのでありますが。そこに住んでいたミデアン人とヘブライ人との関係については、元々この二つの民族は、共通にアブラハムの子孫であり、同じ神を礼拝していましたが。ミデアン人はアブラハムの後妻による子孫ということで、ヘブライ人というイサクの子孫とは離された地に住んでいました。いずれにしても、モーセはこのミデアンの地での40年間の時を過ごすのであります。それはミデアンの祭司レウエルとの出会い、その娘の一人チッポラとの結婚、羊飼いとしての経験など、そこでの生活を通じて、出エジプトという神の大事業に携わる必要な準備期間の時を過ごすものとなったのであります。

さて、「モーセの召命」の場面で、モーセは燃え上がっている柴を目撃するのであります。その時、彼は「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう」と言っています。又、主なる神も、「モーセが道をそれて見に来るのをご覧になった」と記されています。この「道をそれて」という言葉には、モーセのエジプト逃亡からミデアンの地に逃れ、身をおいた40年の長い道のりが象徴されているかのようです。

人の目からすれば、神はなぜもっと早い時期にモーセを召し出しされて出エジプトを遂行されなかったのか?と思えます。モーセのミデアンでの40年はあまりに長く、神のみ心がそこにはないようにも見えます。けれども事態は違っていました。モーセが神のご計画のために用いられ、遣わされるには「道をそれて」と言うようなミデアンでのその40年間。
かの地での出会いや経験、自分を見つめ信仰を立て直していく霊的な時間が必要であったのです。それがまたモーセの財産にもなっていくのです。道には、坂道、下り道、近道、回り道、迷い道寄り道などいろいろあります。まあ私たちにとっては回り道をするよりか近道をしたいものですが。神の人モーセでさえ、一見人の目に無駄とも思えるような時があったということです。
けれどもその道をあゆむ中で、彼は養われ、訓練され、いやされて、自らを見つめ直す時となるのです。モーセは実に40年という歳月を経て、神に遣わされていくために、整えられ、新たに立てられていくのです。

神のみ業を見て行くためには、ある意味「道をそれて」、見つめ直す時が必要なのであります。しかし、そのような時にも「柴は燃え尽きることがなかった」、つまり、モーセは燃え尽きるような状態であっても、主のご計画はその始めから決して燃え尽きることなく、実現されていくのです。
神のみ業を仰ぎ見ていくためには、間近ではなく、一歩退き、自己を見つめ直していく、信仰の再確認の時が必要だということを、この柴の奇跡は示しています。
わたしたちは時に、こんな日常に意味があるのか、と考えたりするかも知れません。又、祈っているのにどうしてこんなことが起こってくるのか、という出来事に直面することもあります。けれどもそういった「道をそれている」ように思える中でも、神のご計画は燃え尽きることなく、わたしたちを導いておられます。
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神の和解の計画

2011-08-21 18:05:48 | メッセージ
宣教  創世記45:1-28 

兄たちの妬みによって穴に突き落とされ、エジプトに売られていったヨセフでありましたが、主の不思議な導きによってエジプトの総理大臣の地位につきます。
この個所は、ヨセフの兄たちが飢饉のため食糧を得ようとエジプトを訪れたことから起こされる、ヨセフとその兄弟たちとの再会の物語です。

45章で「ヨセフが万感の思いを込めて兄たちに自分の身を明かす」という、実にドラマチックな場面に至るのでありますが。これはヨセフと兄たちとの和解がテ―マであると同時に、兄たちが「神との和解」を得るためのものであったのです。

さて、7年の豊作後ヨセフの夢ときのとおり、エジプトだけでなくカナン地方にも飢饉が襲います。エジプトに穀物を買い求めに出かけた兄たちは、穀物を管理販売する監督であり、総理であったヨセフにお目通りを願い、それが叶います。
彼らはヨセフにひれ伏しました。ヨセフは一目でそれが自分の兄たちであることに気づきますが、兄たちは気づきません。ヨセフはその時、かつて兄たちについて見た夢、「兄たちの束が集まって来て、わたしの束にひれふした」(37:7)その夢を思い起こし、それが目の前で現実となっていることに驚いたことでしょう。しかし同時に、もう20数年も前のことでしたが、17歳のときに兄たちから受けたひどい仕打ちを思い出し、ヨセフは兄たちに辛く当りました。そして、その後も兄たちを窮地に追い込むような策略でもって彼らを試すのであります。ヨセフ自身心に負った傷が癒えていなかったのでしょうか。
しかし、そのような中でヨセフは何度も涙を流して泣いたのです。それは単に兄たちが憎く恨んでいたから仕返ししてやろうと考えたのではなく、家族、又父の家への切ない思いが絡み合っていたのでありましょう。

そしてこの45章の個所において、ヨセフは1節「もはや平静を装っていることができなくなり」、兄たちに2節「自分の身を明かし、声をあげて泣いた」のです。
それは前の44章で、兄のユダから、「父ヤコブを悲しませるような不憫な思いはもうさせず、父を心からいたわりたい」「末弟のベニヤミンを命がけで守りたい」との信実な訴えをヨセフが聞いたからであります。ベニヤミンはヨセフと同じ母の子でありました。父ヤコブはヨセフを失いこの弟のベニヤミンを慰めとしていたのでありましょう。又、兄たちにとってベニヤミンは、かつてヨセフに対してなした罪を思い起こさせる存在であると共に、強い贖罪の念をもってこの弟ベニヤミンを見ていたのではないでしょうか。

ヨセフには、兄たちがかつて犯した罪の負い目を十分に痛み続け、その苦しみを今も負い続けていること。又、父や弟をもう二度と悲しませ、辛い思いをさせるようなことはできない、との思いが痛いほど伝わってきたのでありましょう。
遂にヨセフは兄たちに、「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」と言い自分の身を明かします。彼は単に「弟のヨセフ」というのではなく、「あなたたちがエジプトへ売ったヨセフ」と名乗ります。まず過去の過ちの事実がはっきりと語られるのであります。これは被害者の側のヨセフにとっては動かしようのない事実でしたし、加害者の側の兄たちにも取り返しのつかない事実であったのです。この事実が両者を遠く隔ててきました。兄たちと再会したヨセフですが、20数年前に受けたひどい仕打ちの事実を忘れることはありませんでした。両者にとってそれは決してうやむやにできることではなかったのです。

新約聖書の福音書には、イエスさまが「あなたの敵を愛しなさい」とおっしゃっていますが。私たちはたとえ血のつながった家族や、又兄弟同士であっても、こんなことをされた、あんなことを言われた、などとなかなか許すことができません。また私たちは些細なことに目くじらを立て、そのことに振り回されることの方が多い者であります。人のもつ憎しみや恨みとは恐いもので、10年経っても、20年経っても忘れないで、とうとう墓場までもっていくということもあるわけです。ヨセフにとっても手放しで、「過去のことはなかった」とは、ならなかったのです。

しかし、ヨセフは兄たちに続けてこう言います。5節「今は、わたしをここへ売ったことを悔んだり、責め合ったりする必要はありません」。このように彼はここで救い(ゆるし)の言葉を語るのです。ヨセフは肉的な目ではなく、霊的な目をもっていました。それは主が共におられる、という信仰です。

5~7節にあるように、ヨセフは自分がエジプトに売り飛ばされたことを、「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになった」「神が大いなる救いに至らせるためであった」「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」と、自分の苦労や身に起こった試練は、すべて「神」からの出来事であった、と確信をもって語ります。

あの兄たちに穴に投げ入れられ、エジプトに売り飛ばされ、ポテパルの妻の偽証によって牢屋に入れられたこと、又ファラオの夢を解き明かして総理になったこと、20数年以上も遠く離れて生活していた兄たちと再会できたこと、それらすべては「神のご計画」であったというのです。そしてこのご計画とは、ヨセフの言葉によれば5節「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先に遣わされた」。7節「この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるため」であったのです。

このヨセフの言葉は、兄たちにとって単なるゆるしや労わりの言葉ではありませんでした。それはまさに、「神」がヨセフを通して「兄たちの命を救い」、又、「兄たちに神との和解をもたらし、後の世代に神の祝福(大いなる救い)を得させる」ためであったことを指し示します。

私どもにとりまして、人を許すことは簡単なことではありません。しかし罪を犯した者も又「ゆるし」がなければ、生涯その罪にさいなまれ苦しみ続けなければなりません。ゆるしを必要としているのです。

飢饉の中にあって命を救う神は、ヨセフを通して、その父母、兄弟たちに、生きるための糧をお与えになりました。又、エジプトの周辺諸国も養いに与ります。人間は食糧によって生きます。けれども、主イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」といわれました。神の口から出る命のパン。そのみ言葉によって人は真に生きることができるのです。
それは本日の個所に照らすなら、「和解の福音」「ゆるし」であります。神は私たち人間が罪や恨み、憎しみに滅びゆくことから、私たちを救おうとなさいます。神のご計画とは、神のゆるしを得、神と和解した者が和解の福音に生きることであり、その福音が世界のいたるところで分かち合われてゆくことです。

ヨセフの兄たちは、ヨセフのゆるしの言葉、和解の福音によって罪の縄目から解放されました。ヨセフは、いよいよカナンの地に兄弟たちを送り出すとき、その出発にあたって「途中で争わないでください」と言います。
ヨセフはどうして兄たちにそのように言ったのでありましょう?それはゆるされたはずの兄たちが、その旅の途中でまた「そもそもの原因はお前にあったのだ」と互いに言い争いや罪のなすり合いをするかも知れないと心配したからでしょう。そうなれば、せっかくの和解の恵みが台なしになってしまいます。
「途中で争わないでください」。その一言は、兄たちが本当に神の和解を受けとって歩んでほしいというヨセフの思いの表れであったのです。

私たちキリスト者は、神の御独り子・イエス・キリストの尊い犠牲の贖いによって、神との和解を戴きました。その大きな大きな恵みを台なしにすることのないように、主にゆるされた者として、和解の福音に生きていくことが問われています。
神のゆるしを受けた者として、生きていく使命が託されているのです。神にゆるされ、生かされた主の民として、和解の奉仕に仕えていくことが、神のみ心であるのです。

最後にⅡコリント5章18節をお読みして本日の宣教を閉じます。
「神はキリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」

和解のために奉える任務とは、今の私にとってどういうことであるのか?主の御前に聞いてまいりましょう。又、この大阪教会にとっての和解の使命(ミッション)、キリストの平和を生き、そして伝えていく務めを共に祈りつつ、進んでまいりましょう。
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神への信頼とビジョンをもって進む

2011-08-14 07:11:02 | メッセージ
宣教 民数記13:25~14:10 

本日は「神への信頼とビジョンをもって進む」と題して、先ほど読んで戴いた民数記の個所よりみ言葉を聞いてまいります。始めにお断りしておきますが、通常は聖書教育のカリキュラムに従った聖書個所からの宣教(本日でしたら創世記41章のファラオの夢)なのですが、今日は以前から導かれるところがあり、この民数記が宣教メッセージとして示されましたので、このところからみ言葉を共に聞いてまいりましょう。

① カナン偵察とその報告
イスラエルの民は指導者モ―セと共に、エジプトから脱して主が導かれるカナンの地に向かいます。民がカデシュの荒野にとどまったその時に、主はモーセに、一つの部族から一人ずつ、合計12人のリーダーを選び、カナンの地を偵察するように、とお命じになりました。
12人のリーダーたちは40日間、南の端から北の端までを詳細に調べた後、帰る時には、その地で実ったブドウ一房を担ぎ、他にもザクロやいちじくを持ち帰りました。
彼らはモーセに次のように報告します。「そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえみかけました。ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方およびヨルダン沿岸地方にはカナン人が住んでいます」。そのように、カナンは肥沃な地ながら、しかしイスラエルの民にとって多くの困難や問題があったのです。

そこへカレブとヨシュアの2人のリーダーが、モーセに進言します。30節「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」。

それに対して他の10人のリーダーたちの反応はこうでした。
31-33「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。・・・・我々は自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない」。つまり、彼らは「自分たちはあの地を占領することはできない。もう諦めて戻った方がよい」という否定的で悲観的な言葉を口々にしたのです。このように10人と2人の報告と思いは大きく食い違っていたのです。

② 不信仰な民
イスラエルの全会衆はどちらの報告を信用したかといいますと、カレブとホシュアのよりも、他の10人の言葉を信用して、大声で叫び、泣きごとを言い、モーセやアロンに対して「エジプトの国で死ぬか、この荒野で死ぬ方がよほどましだった。どうして主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引返した方がましだ」「さあ、一人の頭を立てて、エジプトに帰ろう」と不平を言うのです。イスラエルの多くの会衆は、2人のいうことより10人もの人が言う事に流され影響を受けて、不信仰に陥ってしまうのです。このイスラエルの民を倒したのは10人の指導者たちの言葉でした。彼らの否定的な報告は、10人から、イスラエルの全会衆に広がり、遂には民全体が神につぶやくに至りました。つぶやきと不平は口から出したとたん、自分でも気づかない間に浸食し、信仰の根を腐らせてしまいます。
私たちもそうですね、つぶやきや不平の言葉を口にのぼらせたとたん怒りがこみ上げ、不満や不安が増大します。信仰はなえて祈れなくなります。それどころか、その言葉を聞く人たちまで神への不信を抱かせてしまいます。そのような悪い連鎖を見てサタンは喜ぶのです。神の祝福の計画がストップしてしまうからです。

③ 夢(ビジョン)をもっていた人たち
そのような中、カレブとヨシュアは、衣を裂いてイスラエルの人々の共同体全体に次のように訴えます。7節「我々が偵察してきた土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ主に背いてはならない。・・・・中略・・主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」。このように確信に満ちて訴えました。
このカレブとヨシュアでありますが、彼らは、悲観的な観点から物事を判断した不信仰な10人の指導者たちとは大きく異なっていました。又、その否定的な言葉に動揺した60万人いたともされるイスラエルの全会衆とも異なっていました。
彼ら2人は、「なぜ自分たちがエジプトの国から脱して、苦しい荒れ野の道を進んでいるのか。今自分たちがどこに向かっているのか」という問いに対しての明確な答えをもっていました。13章1節を開いて読んでみましょう。主はモーセに言われた「人々を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい」。カレブとヨシュアは、「主がその地をお与えになられる」ことを聞いて確信し、その神のビジョンを受けとっていたのです。いわば、彼らは現実の今、そして将来に対して明確な目標と夢を持っていたからです。逆に10人の指導者たちは、神からのビジョンを受け取ることができませんでした。現状への不安や恐れが、それをかき消したのです。残念なことにその不信仰が民全体に伝染しました。

私たちは旧約聖書に出てくるヨセフという人物を知っています。彼は17歳の少年の頃に既に「夢」をもっていました。それは主から与えられた賜物でありました。遂にはエジプト全体を治める総理となることでその夢は実現しました。もちろん、その夢は一夜にして実現したのではなく、それまでに実に様々な試練や苦難の道を経る必要があったのです。ヨセフは当初夢とは正反対の人生を生きました。兄弟に裏切られ、奴隷として売られ、監獄で生活し、濡れ衣を着せられ、忘れ去られたような日々。
その人生は夢に向かって進むというよりも、夢とは程遠いような出来事に見舞われました。もし彼がその時点で自分の置かれた状況を否定的に見、悲観的な思いに捕われていたなら、彼は人生をあきらめてしまい、彼の夢も実現されることはなかったでしょう。しかし、ヨセフは知っていました。自分の夢は神さまがくださったものであることを。だから、如何なる困難や問題があっても、神さまに信頼し、希望をつないで前へ進むことができたのです。彼の夢は神さまのものであり、それが成し遂げられるためには、彼の信仰と忍耐が必要でした。そのようにして長い年月の後、遂に彼の夢は現実のものとなるのです。

本日のカレブとヨシュアの2人もそうです。確かに「カナン」という神さまから示された夢(ビジョン)は素晴らしいものでしたが。彼らはそれを受けとるために困難をも直視しなければなりませんでした。けれども彼らは、悲観的な不信仰な10人のリーダーたちのように肉の目で判断しませんでした。その10人は人の力で太刀打ちできそうにない現状に目がいって恐れましたが、カレブとヨシュアは同じ者を見ているにも拘わらず、「そこは、とても素晴らしい土地だった」と、ビジョンを報告したのです。この2人は霊の目、信仰の目で物事を見たのです。状況によって動かされるものでなく、その状況を支配し、動かされる神さまを見、神さまに信頼していくことにあります。
ヘブライ11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されてあるとおりです。
人は人生の目標や夢がないまま生きる時、その人生の多くは、行く道を知らずさ迷うものとなってしまいます。私たちは、神さまに対する信仰をもって、神さまのビジョン、神さまの願いと計画を見て行く霊の目をもって生きる者とされてまいりましょう。

④ 神が我々と共におられる
今、私たちの置かれている社会や、又私たちの現実もさほど明るいものではありません。
否、生きて行くのがますます困難で厳しく、暗闇のような先の見えないもので覆われ、不安や恐れにさいなまれることの方が多い現実の社会といえましょう。
今日私たちが生きている現実は、私たちに希望を与えるよりは、暗い闇を落とします。
しかし、カレブとヨシュアの2人の指導者から、今日私たちは大事なメッセージを聞くことができます。彼らは目前に多くの問題や暗い現実があっても、それに振り回されることなく、神からのビジョンをしっかりと携えて生きた人たちであります。その最大の力はどこから来ているのでしょうか? 
それは9節「主が我々と共におられる」という確信からであります。その共におられる揺るぐことのない神さまのみ約束を堅くもっていたのです。
それは彼らが10人の指導者たちよりも強かったというのではなく、「神さまがわたしたちと共におられる」という信仰の確信が、まさにその力でした。

この「主が我々と共におられる」という人生を生きるとき、祝福の地、カナンは私のもの、又私たちのものとなります。この「神さまがわたしたちと共におられる」というを、私たちはかけがえのない一度限りの人生において体験させて戴いている。これこそ人生最大の祝福であります。

本日の聖書は、明確な目標と夢を受けとり、それを携えて進むようにと、私たちを促しています。
私ども大阪教会はA.L.ギレスピー宣教師ご夫妻によって1950年に9月にこの天王寺の地において開拓伝道がなされ、今年で教会組織60周年を迎えました。本日はバプテスト宣教団とも関わりがありますレイノルズ宣教師ご夫妻、そして米テキサス州ダラス市のSouth Western Seminary(西南神学校)より教師と学生の10名の方々と一緒に礼拝を捧げることができ、心から感謝致します。私ども日本バプテスト連盟の諸教会は、南部バプテスト教会から尊い支援とお祈りによって支えられてきたことを、決して忘れることはできません。その宣教のビジョン、ミッション(使命)は、しっかりと今もこれからも受け継いでいきたいと願っています。

現在、私ども大阪教会は新会堂建築に向かって進んでいます。神さまが与えてくださった宣教のミッションのもと、「夢・ビジョン」に向かっていく中で、様々な問題や試みがこれから起こってくるかも知れません。本日の聖書の「カナン偵察の報告」にあるような、尻込みしてしまいそうな現実問題を突きつけられることもあるかも知れません。そのために特別に示されたのが、この今日のみ言葉であります。21日には教会建築に備えての研修会が計画されていますが。まずその前に、今日のみ言葉をもって私たち一人ひとり、それぞれが整えられていきますようにと願います。

「神がわたしたちと共におられる」との揺るぐことのない確信をもって、お一人お一人に与えられた私の「夢;ビジョン」、又わたしたちの教会に与えられた「夢;ビジョン」に向かって、前進していきましょう。

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天使の階段?!

2011-08-02 16:05:24 | メッセージ
宣教  創世記28章10~22節 

東日本大震災からはや4カ月半になりますが、震災に加え原発事故の影響で、被災地の方々の生活再建の見通しがなかなかつかない厳しい状況のもと、まだ多くの方々が避難生活を余儀なくされておられます。先日ネットのトピックスより、東日本大震災の被災者の方々に、「いま、あなたの宝物は何ですか?」という質問に対して、子供からお年寄りの方々の答えがご本人のお写真入りで紹介されていました。
「すべてを失った」。だが、今だからこそ思える自分だけの宝物。それはランドセル、亡くした家族の今も動いている腕時計、焼け残った封筒、、、、様々な物をいとおしそうに手にする被災者の方々。その中である被災者の方の「物は買えばいいが、思い出は買えない」という言葉がずっしりと心に残りました。今、あなたの宝物は何でしょうか?愛する家族。人との絆。守るべきもの。それら主からの賜りものを、又二度と繰り返されることのない今という時を大切にしてまいりましょう。

本日は創世記28章より「天使の階段」と題し、み言葉を聞いていきたいと思います。
ヤコブは兄エサウに憎まれ命を狙われて、家を離れ、逃亡いたします。彼は家族も財産もすべてを失ったかのようでした。しかし、疲れ切って荒野で石を枕に眠る中で、彼は何ものにも替え難い宝を見出すのであります。今日はそのようなヤコブの物語であります。
先週は、兄から神の祝福を奪い取った弟ヤコブと、目の前の肉の思いを満たすことの引き換えに長子の権利を手放した兄エサウの話でしたが。その後27:18以降で、ヤコブは兄のエサウになりすまし父イサクから祝福を騙し取るのであります。
それを知った兄エサウはそのことを根にもち、ヤコブを憎むようになり、遂には弟を殺そう思うのでありますが。母リベカはその兄エサウの怖ろしい言葉を聞くと、ヤコブを呼び寄せ母リベカの兄である伯父ラバンのもとに逃げるようにと、勧めます。ヤコブは母の言うとおり、父の家ベエル・シェバの地を離れて、お祖父ちゃんのアブラハムがかつて召命を受けたとされるハランに逃亡するのであります。それは大変遠い地であり、険しい荒野の旅路でありました。

さて、ヤコブは「ベエル・シェバを立ってハランに向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった」(10-11節)とあります。
「とある場所」とは後のベテルの聖地のことですが、ベエル・シェバからそうですね北に90キロ近くの荒野に位置します。ヤコブはそこで一夜を過ごすこととなったのですが、この時の彼の心境を想像しますに、エサウに殺意ほどの恨みをかい、父が祝福して与えると約束した土地や相続するであろう財産、さらに家をも失い、一人孤独に荒野を旅し続けるヤコブ、その身も心もボロボロになるくらい疲れ切っていたのではないでしょうか。これが神から祝福を受ける者の姿であろうかと自らの状況を嘆いていたのかも知れません。
そういう中で、石を枕にして荒野で寝入ったヤコブでありました。その石の枕は涙でぬれていたのかも知れません。そうして眠りについた時、彼は真に不思議な夢を見るのです。それは12節、「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下りたりしていた」というのです。この光景は、神が人の生きている地に深く関わり、交わりをもってくださるということを象徴しているかのようです。
わたしたちは悩み、苦難の中で、まるで神がお見捨てになるかのように、神の助けが得られないように感じることがあるかも知れません。しかし、天に届かない祈りはありません。
あたかも地に向かって伸びる階段を天使たちがせわしなく行き来するように、主は祈る私どもをいつも気にかけ、助けを送り、見守っていてくださるお方なのです。

13節、「見よ、主が傍らに立って言われた」。
ヤコブはその階段の傍らに立っておられる主の言葉を聞くのです。それは主の大きな祝福と力強い約束の言葉で満ちていました。「あなたとあなたの子孫に今横たわっているこの土地が与える」「あなたの子孫は大地の砂粒のように多く広がり、地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」。さらに「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。これはヤコブ個人に対して不変の変わることのない主の約束でありました。

ヤコブは眠りから覚めて次のように答えます。
16節「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
ヤコブは荒野を逃亡しながら、きっと孤独であったはずです。又自分の罪深さや落ち度、その存在のちっぽけさをひしひしと感じていたのではないでしょうか。しかしヤコブはこの「夢」を通して顕わされた主の啓示によって、そんな無力で孤独な自分と、主はどのような時も「共にいて、決して見捨てられることはない」という確信を頂くのであります。
又ヤコブは、「ここは、何と畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」と告白していますが。それはきっと、自らの罪深さを知る者だけが覚える畏れであり、そのような者にさえ「おまえとどこまでも共にいる、決して見捨てない」とおっしゃる、その底なしの愛といいますか、その憐れみ深さの深淵に触れた畏れではなかったでしょうか。聖書は、このヤコブによってすべての国民が祝福されると約束します。
私どもにとりましてその祝福は、主イエス・キリストによってもたらされました。今や、そのお方を通して私どもも又、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた祝福を継承する者とされたのです。それはしかし、神が御独り子イエス・キリストを世に遣わし、私たちの罪のために血を流し、身体を裂いて贖いの死を遂げられることによって与えられている恵みであることを決して忘れるわけにはいきません。それは何と尊いみ恵みであり、畏れ多いことでないでしょうか。

さて、18節、ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、油を注ぎ、その場所をベテルとして神を讃えました。さらに20節、彼は「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるのなら、、、、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」と請願を立てます。
ヤコブは夢で見たことを、ただの幻として終わらせませんでした。彼は夢で見た事がらを、現実の言葉(神の言葉)として受け取って生きてゆきます。これは、私どもにとっても大切なメッセージであります。聖書の言葉はただの虚しい物語ではありません。それは活ける神の霊の言。実体を伴う言葉であります。ここに、まさに主に自分をかけ、信頼して従っていく信仰が問われてゆくのです。
しかしその信仰は、主の先立つみ言葉によって与えられるものであります。
主はヤコブに「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。このみ言葉のゆえにヤコブは主に信頼したのであります。「主は必ずそのあなたに約束したことを果たしてくださる。」「ずっとその最後まで見捨てることはない。」「あなたとどこまでも共にいる。」そう約束してくださるのです。この約束に信頼すること。それが信仰であります。

今日の宣教の題を「天使の階段」とつけました。韓流のドラマに似たような題があるそうですが、礼拝に出席なさっているSさんは海外の船にお乗りになるそうですが。以前から船の中にジェイコブ・ラダ―という一見何の役にも立ちそうにないロープのはしごがあるのを見かけていたそうで、これは一体どんな意味があるのだろうと不思議に思っていたそうです。聖書をお読みになるようになって、それがこのヤコブの夢に現れた「天使の階段」「天のはしご」であると納得されたというお話を伺いました。先人たちも荒野ならぬ大海原の荒海の中で、このみ言葉の「必ず連れ帰る」「決して見捨てない」との約束の信仰に支えられ、長い航海を続けたのでありましょう。

私自身はここを読む時、天使たちが天から地に伸びる階段(地から天ではないですよね)、天から地に伸びるその階段をせわしなく上り下りする忙しい天使たちの様子を想像いたします。私たちは地上にあって孤独を感じたり、辛く悲しい出来事に心痛むこともありますが。主は何か遠く高みからただ見降ろすようなお方ではなく、日ごとに(天使たちを送り続け)天と地をゆきめぐりながら、このわたしたち一人ひとりと歩みを共にしてくださる、そのようなお方なのであります。
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