宣教① 出エジプト3:1-12
この個所は「モーセの召命」についての記事でありますが。そこに至るまでの経緯といいますか、背景が大きく影響していますので、そのところからまず見ていきたいと思います。
ヘブライ人のもとに生まれた赤ん坊のモーセは、様々ないきさつからナイル河畔の葦の茂みの間に置かれたところエジプトの王女に拾われ育てられ、すくすくと成長しました。しかしモーセは物心つく年齢になると自分がヘブライ人であることを意識していきます。そして、成人したモーセは、同胞のヘブライ人に関わる2つの出来事によってエジプトから逃亡することになります。2章11節以降にその経緯が記されていますが。
その一つの出来事は、ブライ人がエジプト人から重労働を課せられ、打ち叩かれている現場を目の当たりにしたモーセが、そのエジプト人を自らの手で打ち殺し、砂に埋めて隠すのです。このモーセの犯した罪は許されるものではありませんし、殺害が肯定されるものでは決してありませんが、それはヘブライ人という自分の民族への強い思い入れ、こだわりを示すものでした。
ところが、もう一つの出来事が起こります。今度はヘブライ人同士が喧嘩をしているのをみかねたモーセは、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめたところ、「お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と罵られるのです。この同胞のヘブライ人からの予想もしなかった言葉に、モーセは大きなショックを受けます。同胞である彼らの苦しみを見かねてなした事が、逆に非難と罵りとなって返ってきたからです。
モーセは、生まれ育ち物心つく頃から自分の本当の親は誰なのか?拾い育てられた王女なのか、乳母として乳を与えてくれた人か、自分はエジプト人か、ヘブライ人か、わたしは一体どこから来たのかなど等、そういう自分のルーツについてずっと悩んできたのでしょうが。更に彼は、この二つのショッキングな出来事を通して、「自分は一体何ものか」との「自分の存在」や「自分のあるべき居場所」について思いを深くするのです。
そうしてモーセは、エジプトを逃亡し、シナイ半島の南東部にあるミデアンの地へと流れ着くのでありますが。そこに住んでいたミデアン人とヘブライ人との関係については、元々この二つの民族は、共通にアブラハムの子孫であり、同じ神を礼拝していましたが。ミデアン人はアブラハムの後妻による子孫ということで、ヘブライ人というイサクの子孫とは離された地に住んでいました。いずれにしても、モーセはこのミデアンの地での40年間の時を過ごすのであります。それはミデアンの祭司レウエルとの出会い、その娘の一人チッポラとの結婚、羊飼いとしての経験など、そこでの生活を通じて、出エジプトという神の大事業に携わる必要な準備期間の時を過ごすものとなったのであります。
さて、「モーセの召命」の場面で、モーセは燃え上がっている柴を目撃するのであります。その時、彼は「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう」と言っています。又、主なる神も、「モーセが道をそれて見に来るのをご覧になった」と記されています。この「道をそれて」という言葉には、モーセのエジプト逃亡からミデアンの地に逃れ、身をおいた40年の長い道のりが象徴されているかのようです。
人の目からすれば、神はなぜもっと早い時期にモーセを召し出しされて出エジプトを遂行されなかったのか?と思えます。モーセのミデアンでの40年はあまりに長く、神のみ心がそこにはないようにも見えます。けれども事態は違っていました。モーセが神のご計画のために用いられ、遣わされるには「道をそれて」と言うようなミデアンでのその40年間。
かの地での出会いや経験、自分を見つめ信仰を立て直していく霊的な時間が必要であったのです。それがまたモーセの財産にもなっていくのです。道には、坂道、下り道、近道、回り道、迷い道寄り道などいろいろあります。まあ私たちにとっては回り道をするよりか近道をしたいものですが。神の人モーセでさえ、一見人の目に無駄とも思えるような時があったということです。
けれどもその道をあゆむ中で、彼は養われ、訓練され、いやされて、自らを見つめ直す時となるのです。モーセは実に40年という歳月を経て、神に遣わされていくために、整えられ、新たに立てられていくのです。
神のみ業を見て行くためには、ある意味「道をそれて」、見つめ直す時が必要なのであります。しかし、そのような時にも「柴は燃え尽きることがなかった」、つまり、モーセは燃え尽きるような状態であっても、主のご計画はその始めから決して燃え尽きることなく、実現されていくのです。
神のみ業を仰ぎ見ていくためには、間近ではなく、一歩退き、自己を見つめ直していく、信仰の再確認の時が必要だということを、この柴の奇跡は示しています。
わたしたちは時に、こんな日常に意味があるのか、と考えたりするかも知れません。又、祈っているのにどうしてこんなことが起こってくるのか、という出来事に直面することもあります。けれどもそういった「道をそれている」ように思える中でも、神のご計画は燃え尽きることなく、わたしたちを導いておられます。
この個所は「モーセの召命」についての記事でありますが。そこに至るまでの経緯といいますか、背景が大きく影響していますので、そのところからまず見ていきたいと思います。
ヘブライ人のもとに生まれた赤ん坊のモーセは、様々ないきさつからナイル河畔の葦の茂みの間に置かれたところエジプトの王女に拾われ育てられ、すくすくと成長しました。しかしモーセは物心つく年齢になると自分がヘブライ人であることを意識していきます。そして、成人したモーセは、同胞のヘブライ人に関わる2つの出来事によってエジプトから逃亡することになります。2章11節以降にその経緯が記されていますが。
その一つの出来事は、ブライ人がエジプト人から重労働を課せられ、打ち叩かれている現場を目の当たりにしたモーセが、そのエジプト人を自らの手で打ち殺し、砂に埋めて隠すのです。このモーセの犯した罪は許されるものではありませんし、殺害が肯定されるものでは決してありませんが、それはヘブライ人という自分の民族への強い思い入れ、こだわりを示すものでした。
ところが、もう一つの出来事が起こります。今度はヘブライ人同士が喧嘩をしているのをみかねたモーセは、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめたところ、「お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と罵られるのです。この同胞のヘブライ人からの予想もしなかった言葉に、モーセは大きなショックを受けます。同胞である彼らの苦しみを見かねてなした事が、逆に非難と罵りとなって返ってきたからです。
モーセは、生まれ育ち物心つく頃から自分の本当の親は誰なのか?拾い育てられた王女なのか、乳母として乳を与えてくれた人か、自分はエジプト人か、ヘブライ人か、わたしは一体どこから来たのかなど等、そういう自分のルーツについてずっと悩んできたのでしょうが。更に彼は、この二つのショッキングな出来事を通して、「自分は一体何ものか」との「自分の存在」や「自分のあるべき居場所」について思いを深くするのです。
そうしてモーセは、エジプトを逃亡し、シナイ半島の南東部にあるミデアンの地へと流れ着くのでありますが。そこに住んでいたミデアン人とヘブライ人との関係については、元々この二つの民族は、共通にアブラハムの子孫であり、同じ神を礼拝していましたが。ミデアン人はアブラハムの後妻による子孫ということで、ヘブライ人というイサクの子孫とは離された地に住んでいました。いずれにしても、モーセはこのミデアンの地での40年間の時を過ごすのであります。それはミデアンの祭司レウエルとの出会い、その娘の一人チッポラとの結婚、羊飼いとしての経験など、そこでの生活を通じて、出エジプトという神の大事業に携わる必要な準備期間の時を過ごすものとなったのであります。
さて、「モーセの召命」の場面で、モーセは燃え上がっている柴を目撃するのであります。その時、彼は「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう」と言っています。又、主なる神も、「モーセが道をそれて見に来るのをご覧になった」と記されています。この「道をそれて」という言葉には、モーセのエジプト逃亡からミデアンの地に逃れ、身をおいた40年の長い道のりが象徴されているかのようです。
人の目からすれば、神はなぜもっと早い時期にモーセを召し出しされて出エジプトを遂行されなかったのか?と思えます。モーセのミデアンでの40年はあまりに長く、神のみ心がそこにはないようにも見えます。けれども事態は違っていました。モーセが神のご計画のために用いられ、遣わされるには「道をそれて」と言うようなミデアンでのその40年間。
かの地での出会いや経験、自分を見つめ信仰を立て直していく霊的な時間が必要であったのです。それがまたモーセの財産にもなっていくのです。道には、坂道、下り道、近道、回り道、迷い道寄り道などいろいろあります。まあ私たちにとっては回り道をするよりか近道をしたいものですが。神の人モーセでさえ、一見人の目に無駄とも思えるような時があったということです。
けれどもその道をあゆむ中で、彼は養われ、訓練され、いやされて、自らを見つめ直す時となるのです。モーセは実に40年という歳月を経て、神に遣わされていくために、整えられ、新たに立てられていくのです。
神のみ業を見て行くためには、ある意味「道をそれて」、見つめ直す時が必要なのであります。しかし、そのような時にも「柴は燃え尽きることがなかった」、つまり、モーセは燃え尽きるような状態であっても、主のご計画はその始めから決して燃え尽きることなく、実現されていくのです。
神のみ業を仰ぎ見ていくためには、間近ではなく、一歩退き、自己を見つめ直していく、信仰の再確認の時が必要だということを、この柴の奇跡は示しています。
わたしたちは時に、こんな日常に意味があるのか、と考えたりするかも知れません。又、祈っているのにどうしてこんなことが起こってくるのか、という出来事に直面することもあります。けれどもそういった「道をそれている」ように思える中でも、神のご計画は燃え尽きることなく、わたしたちを導いておられます。