礼拝宣教 エレミヤ30章1-3節,12-22節
本日は先ほど読まれましたエレミヤ書30章から御言葉に聞いていきます。
預言者エレミヤを通して語られた罪の告発と悔い改めの招きの言葉は、ユダの民の心に届きません。彼らは遂に神に背いた罪の裁きによってバビロンの捕囚となります。
それにも拘わらず神はなおもその民に向け、懲らしめと共に「回復を約束」をされるのです。
1-3節「主からエレミヤに望んだ言葉。『イスラエルの神、主はこう言われるわたしがあなたに語った言葉をひとつ残らず巻物に書き記しなさい。見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する時が来る、と主は言われる』」。
神はこの約束を巻物に記録させました。
「タイムカプセル」というものがありますね。学校卒業のときなどに、それぞれが将来の夢や希望の言葉を一つのカプセルに入れて埋めます。長い年月が経った後、そのカプセルを掘り起こし、そこで自分たちの過去と今をみつめ、確認していく、そうした機会になっているようですが。
ここで神が回復の約束を巻物に記録させたのは、後の時代になってその主の回復の約束が信実であることを、神に背いた民が改めて知るためのものであったのです。それは捕囚の民が70年後に知ることになるのですが。捕囚の状態にあった民はその回復の言葉を握り歩んでいったのです。
ヘブライ書11章1節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することです。」と記されていますが。聖書という書物は単ある文学書や教訓書ではありません。ここにはまさに、神がこの創られた世界に主権をもって介入し、お働きになっておられる、そうした神の義と愛による救いのご計画が証しされています。
「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ書40:7)生ける神の言葉は今も霊と力とによって証明され続けているのです。
さて、その「回復の約束」についての記録は、この30章から31章にかけて書き記されておりますが。本日は特に30章12節以降の主御自身による「いやしと回復」について、主が語られた言葉より、共に聞いていきたいと思います。
12-13節「主はこう言われる。お前の切り傷はいえず、打ち傷は痛む。お前の訴えは聞かれず、傷口につける薬はなく、いえることもない」。
ユダの地が、民の罪のゆえに荒れ果てていました。焼け跡に取り残された民も、又捕囚とされた民も皆傷つき痛んでいていたのです。しかしその傷は外傷だけではなく、最も深刻なのは心の傷でした。その傷口に塗る薬はなく、いやす方法もないのです。また、「愛人たちは皆お前を忘れ、相手もしない」と言うのは、神こそが主なるお方でありながら、強国にこびて寄りすがり、安泰を図っていたつもりであった彼らが、見放されていく様を物語っています。
それは14節にあるように、ユダの民の悪が甚だしく、罪がおびただしいので、神がバビロンの攻撃をもって民を撃たれ、過酷に懲らしめられたのを見ることになるのです。さらに15節「なぜ傷口を見て叫ぶのか。お前の痛みはいやされない。お前の悪が甚だしく、罪がおびただしいので、わたしがお前にこうしたのだ」。
何とも厳粛な裁きの前に人は成すすべがありません。実際滅ぼしつくされても致し方のない悪行が横行していた社会の状況であったのです。
ところがです。それにも拘わらず17節「さあ、わたしがお前の傷を治し、打ち傷をいやそう。」と、主ご自身が、人の力によってはなはだいやし難い傷を治し、いやす、と言われるのです。
罪の傷、いやすことのできない罪。そのことをテーマにした、あのキリスト者であり神学者であったキルケゴール氏の「死に至る病」という著書が世に出されました。死に至る病とは「絶望」です。絶望は死に至るというのです。世の多くの人たちがその書を手にされてきたことでしょう。私は高校生の時に出会った魂の書となった一冊でした。その深い洞察と力強いメッセージに心打たれてきましたのも、この死に至る病、すなわち絶望からの解放、希望こそが、真に人を生かす力となるからでしょう。
昨今の国内、又世界状況に目を向けるときに、人の罪による破壊といやしがたい傷が世にあふれています。しかしそれは、単なる社会批評家のような人事ですまされるものではありません。人が、又社会が創造主に立ち返り、断たれた関係性に気づき直す以外、本質的回復を得ることはできません。
今日のところで聖書は何度も、主なる神自ら「わたしが治す」「わたしがいやす」「わたすが回復する」「わたしが再びふやす」「わたしが栄光を与え、昔のように立て、報いる」と主ご自身が語られたと伝えています。神が創造された人間が人間として生きていくために、神ご自身が罪によって断たれたいやしがたい傷をいやし、回復の道を開いて下さるというのです。
18節以降には、神ご自身によるヤコブの子孫の回復と繁栄が約束されていますが。しかしその出来事に至るまで70余年の時を要することとなります。その間は気づきと悔い改めへの招きの時であったと言えましょう。
その民の厳しい試練の最中29章で、エレミヤらは廃墟とかしたエルサレムからバビロンの捕囚の民に、主の言葉をしたためた手紙を書いて送ります。そこにはこのように書かれていました。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」
それを読んだ民の中には、そんなたわごとなど信じられるものかと、さらに心をかたくなにする者たちもいたことでしょう。又、罪の裁きについて厳粛に受けとめることなく、神は即我々を解放してくださると軽々しく宣伝していた偽預言者たちもいたようです。その一方で、この捕囚の現実は自分たちの罪の裁きとして生じたことだと、しっかりと受けとめ、「約束された回復」の希望の言葉を胸に抱きながら、主に依り頼んで生きる者たちもいたのです。残りの民と言われた人たちです。彼らは元ある状態に戻る生き方ではなく、主の言葉に望みをかけて、新たに造り変えられていきる道を選ぶのです。
それは29章12節以降で主が、「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くして求めるなら、わたしに出会うであろう。」と語られた言葉を自らのものとして受けとり、死に至る病、絶望の淵から生還した人たちでした。
明日はこの大阪教会を会場に、アフリカのルワンダに国際ミッションボランティアとして佐々木和之さんが「平和と和解の働きのために」派遣されてから今年で20年の経過報告をしてくださいます。あの同じ町に住む者同士のジェノサイド(大虐殺行為)は今も深い傷を残していますが。その絶望からの回復の道を切りひらく働きが今も続いています。
その佐々木さんの働きを支援する会が発行する会報誌「ウブムエ」(2022年3月8日季刊誌)で佐々木さんはこういうことをおっしゃっていました。
「和解とは元々あった関係が、抑圧的なものであれば、そこに戻すことは目標になりません。被害者と加害者の関係も同じです。暴力が起きなかったことにはできないのです。それを踏まえた上で、それを乗り越えていく新しい関係性をつくること、関係の構築が大切なのです」。
ゆるす、ということは大変なことです。傷つけた相手がゆるせない。失敗した自分がゆるせない。社会がゆるせない。しかし、たとい人にはいやしがたくとも、神さまご自身がいやし、回復してくださる。この救いに死に至る病から生還する希望がかかっています。
本日の21節以降には次のような主の預言の言葉が告知されています。
「ひとりの指導者が彼らの間から治める者が彼らの中から出る。わたしが彼を近づけるので、彼はわたしのもとに来る。彼のほか、誰が命をかけて、わたしに近づくであろうか」。
ほろびる以外なかったような者が、唯このお方によって神の民とされ、救われるのです。
エレミヤより少し前に主の預言者として遣わされたイザヤは次のように語りました。
イザヤ書53章4-5節「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたからだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。
絶望の死に至る病から罪のあがないといやしによって、神との生きた関係性を取り戻してくださるお方、それは人間の姿、肉なるからだをとって私たちのところにお出でくださった神の救い、イエス・キリストです。それも主は十字架をとおして自らの体を裂かれ、血を流して私たち人間の罪をあがない、まさにいやしがたいその傷をおいやしくださったのです。
この生ける神の言(ことば)、主イエス・キリストのいやしと回復、その解放によって新しく創造された者として歩んでまいりましょう。
お祈りします。
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