日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

苦難のしもべ

2017-11-26 15:09:25 | メッセージ
主日礼拝 宣教 イザヤ52・13~53:12     

本日は先に読まれましたイザヤ書の箇所から「苦難のしもべ」という題で御言葉に聞いていきます。
これまで祈祷会と礼拝でヨブ記、イザヤ書と駆け足ですが御言葉に聞いてきました。
共通のテーマは「苦難」です。ヨブ記では、「正しい者がなぜ苦難に遭うのか」という問いに対して聖書は何と言っているのかを共に聞いていきました。
誰よりも神の前に正しく生きたヨブが苦難に遭うとき、私たちは「なぜなのか」「どうしてなのか」と、その原因を見つけることに思いが向きます。
彼の友人らはヨブが罪を犯したからそのようになったのだと言います。苦難はすべて罪の結果だと。
因果応報的に提示するのは明快でしょう。非常にわかりやすいですね。しかしヨブは神の前に不正や罪を犯したわけではありませんでした。又、神もヨブは「正しい人だ」と明言なさいます。人の苦難は因果応報的に決することなどできない。そこには神の経綸、神の計画というものがあるのだと聖書は語ります。

さて、そのヨブ記に続いて今日のイザヤ書は、神の正しさを伝え、示したがゆえに苦難に遭う「主のしもべ」のお話です。
先程聖書教育の「こどもメッセージ」からお話がありましたので、時代背景や文脈はお大まかにつかめたかと思いますので、細かな解説はいたしませんが少しだけ触れますと。
この箇所は、預言者イザヤの意志を受け継いだ第二イザヤと呼ばれている預言者が、捕囚の民の解放と祖国エルサレムへの帰還を訴え活動していた時代のことです。

彼の預言はその後確かに実現し、ユダヤの捕囚の民はバビロンからペルシャの支配下に移り、そのキュロス王はユダヤの民に一定の自治を許します。まあユダヤの民の信仰や文化に対しても寛容であるだけでなく、遂には「ユダヤ人の解放令」と「エルサレム神殿を建て直すために祖国に帰ってよろしい」という許可を出すのです。

こうして彼の預言通り、神殿再建という期待を胸にエルサレムに帰還する人、又帰還を人に勧める者たちが出てきたわけですが。その一方で、エルサレムには帰らないで慣れ親しんだ異教の土地に留まろうとする人たちからは反発の声も出てきました。
そこで、ユダヤ人同士の分裂やいさかいが起こっていったのでしょう。
預言者イザヤはユダヤの民の解放とエルサレムに帰って神殿を再建して、再び約束の地で神の民として生きることこそ祝福の回復、民の喜びとなると信じて神の言葉を取り継いで来たわけですが。しかし蓋を開けて見れば、必ずしもそうではなかった。
人々の不満は預言者への不信や非難中傷となっていくのです。
けれどイザヤ自身は同胞からは蔑まれ、見捨てられ、苦悩するなかでも、主の言葉を伝え続けることを全うし、最期は無実なのに不当に捕えられ、苦役を課せられ、裁かれて、処刑された、というのですね。
彼は「正しい人」であったのにこのような「苦難」を受けねばなりませんでした。そこはヨブと共通するところと言えるかも知れません。ただこれは、見方を変えれば、彼が神の正しさを示すために自らその苦難の道を歩み通したということであります。

ユダヤの人々はこのイザヤの苦難とその死を見て思いました。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」「神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」
けれども後に、その時代を顧みて預言者の言葉と行動が掘り起こされ、イザヤ書として編集されていったとき。
実に預言者であった彼が担ったのは、神の愛と憐れみを蔑ろにするような私たちの病的状況であり、彼が負ったのは私たちの分断による痛みであった。彼が刺し貫かれたのは、私たちの神への背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちの咎のためであったことに気づかされていくのです。
自分たちのために最後まで救いの道を伝え続け、最期は自分たちの罪を彼が担いゆくかたちで死んだということを知って彼らは、深く悔い改めるのですね。
「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪すべてを主は彼に負わせられた。」

ここを読むとき、この「苦難のしもべ」の姿が、私たちのため執り成されイエス・キリストの苦難のお姿が重なって見えてくるのであります。
主なる神さまの救いの御業は、何か上から見下ろすようなかたちでなされるのではなく、むしろ人に軽蔑され、見捨てられる者となりながらも、なお執り成し続けて人の痛みを負い、病を知る者となり、神と人との関係回復のために自らその身に苦難を負っていくことによって成し遂げていかれるのです。

10節をお読みします。
「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」

ヨブ記では「正しい人が苦難に遭うというのはなぜか」という問いかけとして読みましたが。今日のイザヤ書では神の正しさと救いを伝えたために苦難を受け、遂には自分自身を献げきる覚悟をもって、11節にあるように「多くの人が正しく生きるために彼らの罪を自ら負」ていくのです。そのように民の償いの献げ物となり、執り成していくのですね。そこが、この箇所が主イエスの十字架の苦難と贖いの死を顕わしているという所以であり、その姿に私たちもユダヤの人々がそうであったように、悔い改めと救いを見出すのであります。

預言者イザヤを軽蔑し無視して遂には死に追いやった人々が、「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」と後に気づかされていくとき、神と人、人と人との関係性は回復されていきます。11節にあるように「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」そのような出来事が実現していくのです。

この第二イザヤの時代以後、エルサレムの神殿が建てなおされていきます。そこでユダヤ教が誕生していくのでありますが。しかしそれはユダヤ人という一民族のみに限られたものでした。イザヤ書は神の御救いについて、それはやがて全世界に開かれたものとなることが預言されていますが。
それが本当の意味で世界の人々に向けた御救いの訪れとなるのは、主イエス・キリストの誕生によってであります。

今や救いはユダヤ人、ユダヤの民族に限られたものではなく、イエス・キリストによって全世界の人々に開かれ、実現しているのであります。
今日はくしくもバプテスト世界祈祷週間・世界宣教を覚えての礼拝です。
イエス・キリストは私たち救い難い者を救うために、人の苦しみ痛みの極みを身に負われ、どこまでも私たちと共におられることを選ばれました。ここに私たちは救いの確かさを見出します。
「苦難の僕」である主イエスは、今も人の痛みと苦しみを一緒に担い続け、平和といやしを執り成しておられます。

次週からその主の御救いの喜びがもたらされた日、クリスマスのアドベントに入ります。
「苦難のしもべ」として、執り成すため人となってお生まれくださった主イエスと共に今週もそれぞれの場へとここから遣わされてまいりましょう。

「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」
コリント二1章4-5節
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一緒に担いゆく

2017-11-19 15:48:24 | メッセージ
宣教 イザヤ書46章1-4節 

この箇所はバビロニアの捕囚とされたユダの民が、国や家を追われ、大事な家族とも引き離され、長い間異教の地に生きていかざるを得なかった中、先行きの見えない不安や恐れを抱えていました。そういう現実の中で、その地にあふれる目に見えるバビロニアの偶像に惹かれていく者もいたのであります。

ここで、預言者イザヤはバビロニアの捕囚とされた民に向け、「バビロンの偶像」と「主なる神」とを対置させながら、主の言葉を告げます。

まず、それは「偶像により頼むことの虚しさと滅び」についてであります。
偶像はそれに従う者たちが滅びの危機にあっても何ら助けることも救い出すことができない。人が神でもない偶像の神を造って拝み、自分たちの重い荷を背負わせるんだけど、ホンマもんの神ではないので、人に危機があってもその重荷を負うことも担うこともできず、偶像と共倒れになるしかないのです。7節にも「彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き据え付ければそれは立つがそこから動くことができない。それに助けを求めて叫んでも答えず 悩みから救ってくれない」とございます。
人は不安や恐れから、自分の重荷や問題の解決を神ならぬ偶像を造り神のようにより頼んで求めます。そもそもそれこそ的外れなことなのであります。なぜなら、主なる神は「わたしがそのあなたたちを造った」と、預言者を通して語られるのです。

ここを読むとき、詩編139編3節以降の言葉が思い浮かんできます。
「あなたは、わたしの内蔵を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものかわたしの魂はよく知っている。秘められたところでわたしは造られ深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。」

人体は神秘と言われますが。この詩編の御言葉はまさにそうです。
「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた」という言葉に人知を超えたお方が間近におられるという衝撃と畏れを感じるのは私だけではないでしょう。

さらに、主ご自身が人をこの神秘と言える仕方でお造りになられただけでなく、不安と恐れ、先の見えないような民に、「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう」と、仰せになるのです。
つまり、主は不安と恐れの中にあった民を決して見捨てず、母の胎内を出、幼児期、少年少女期、青年期、壮年婦人期、年老期に老いるまで、「わたしがあなたたちを背負って行こう。わたしがあなたを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と、こうおっしゃっているんですね。
これはいわば、「わたしに任せて生きろ。わたしが造ったのだから、あとの責任は負う」と、そう確約なさっておられるのです。信仰というものの最後に残るのは、このことだと思うんですね。

数年前のことですが私どもの大阪教会で3日のうちに2名の方が天に召され葬儀が続いたことがありました。
お一人の方は90歳の男性でなかなか堅物の求道者でしたが、闘病が続き入院をされ、遂に昏睡状態になりますが、その後不思議に意識を戻されたのです。
そのいわば死期を前にした人に信仰の話をするのは如何なものかという考えもありますが、わたしはその信仰の判断と選択は受け取るご本人の問題だということを祈りの中で導かれ、意を決しご本人にとにかく信仰についてのお話をすることにいたしました。
その与えられた機会の中で、「Yさんあなたは主イエスをあなたの救い主として信じますか」と尋ねますと、彼は静かに「主イエスを信じることに致しました」とはっきりと答えられたのです。「はい信じます」ではなく「信じることに致しました」と言われたのが、何とも彼らしい表現であったのですが、それも、彼の確かな信仰の表明なのです。
その後、お見舞いに来られた教会員6名が見守る中、浸礼は無理でしたので、病床洗礼を受けられました。そしてを10日間ご自宅に戻られご家族と貴重な時間を過ごされて、天に召されました。主の導きをほんとに感謝しました。

二人目の方は、新会堂が建つ前に一時的に借り会堂としてビルの一室を借りて礼拝と祈祷会を守っていた頃のこと。当時まだ52才の男性で、いくつかの病気を抱えておられ独り暮しで近隣に住んでおられた方でした。
彼はプロのカメラマンでしたが、病のために家庭も仕事も財産も何もかもを失い、孤独の中で悩み心の病にもかかり、私に「死にたい」と電話をかけてこられたのです。「一度教会にいらっしゃい。お話を聞きます」と言うと、それから祈祷会に来られ、お話をされると心が落ち着かれたのです。その後礼拝にも来られるようになり、一緒に聖書を読み、祈る中で、主イエスの福音に触れ、教会の方々とも親交も深めて行く中で、主イエスを信じる決心を表されたのです。
そうして彼は新しく建った会堂の第1号のバプテスマ者となり、教会の奉仕は毎週の礼拝時のパソコンのパワーポイントの操作を欠かさずされ、教会を楽しんでおられました。しかし、その後も持病に苦しまれ続け、とうとう病のためにご自宅で独り急死されたのです。
実はその彼の死の知らせを聞いたのが、先の90歳で天に召された方の葬儀が終わり火葬場から帰宅したばかりのホッとしていた矢先のことだったのです。もう頭の中が真っ白になってしまったのですが。
しかし、ほんとうに不思議なことですが、神さまはこの方を通して幾つかの奇跡ともいえる出来事を見せてくださったのです。

その一つは、彼の訪問ヘルパーさんが彼の訃報を「私に知らせに来てくれたこと」でありました。もしそれがなければ全く連絡がとれないまま一体彼の身に何が起こったのか、もはや知るよしもなかったからです。
ヘルパーさんに話を伺って分かったことは、実は、生前彼から「自分はクリスチャンで大阪教会に通っている」ということを聞かされていたそうなのです。彼は日頃から、いわば、自分の信仰について自然体で話をされていたんですね。それが、彼のこと、残念ですが死についても知ることにつながったのです。
私はこのことから、生前から自分がキリスト者であることを明らかにしておくことは大事なことだと改めて知らされました。

二つ目の事は、その後、幸にも彼が救い主と出会い、主を信じて救われた教会とその兄弟姉妹の祈りと賛美に見送られながら、天国に帰ることが出来たということであります。
そこに至る経緯がまたすごかったというか不思議だったのでありますが。
その彼の亡くなった後に、私と連れ合いが、彼のお母さまと連絡がとれてご自宅を訪問した時のことです。当時お母さまは重い病気を抱えておられ、近隣のお友達がいつもお世話をしに来られていたのです。この時もお友達が側についておられました。
私たちがお部屋に通されるや、開口一番、「お話はありがたいことですけど、福祉の方にお葬儀は全部お願いしていますので、お断りします」といわれたのです。
福祉の葬儀は仏式で行うということです。その意志は固く、3度も「せっかくですがお断りします」といわれました。
実は私たちが来る前に既にお友達と二人で申し合わせて堅く決めておられたようです。それでも彼のことを思うと私たちはあきらめきれず、「お母さん。息子さんはクリスチャンとなって教会の礼拝や祈祷会に毎週欠かさずにこられて奉仕されていました。そこでいつもお母さんのご病気がいやされるようにと、教会で祈っておられましたよ。その信じるところに沿うかたちのキリスト教のお葬儀で送ってあげることを、息子さんご本人もきっと望んでおられるのではないでしょうか」と、そういう言葉が私の口から自然に出たのです。
するとお母さまの側にいたお友達の方が、静かにはっきりとお母さんに向かって、「きみちゃん、私の思いを言っていいかなあ。私だったら息子が一番願っていることをしてあげたいと思う。お話を聞いて初めて、息子さんが教会によく通い、奉仕をされているその様子が私にも分かったけど。どうかね」といわれたのですね。そうするとお母さまが、「そうやね、それならぜひ息子のお葬儀をお願いします」と私におっしゃったんですね。
私たち夫婦はこの兄弟が亡くなられてから、悶々とする中、どうか神さまあなたの御手と導きがありますようにと祈り続けていたのです。まさに、その時、私は神の手が動いたと強く感じました。主は生きてお働きになられ、私たちの祈りを聞いてくださった。その体験を身をもってすることができました。

本日は「一緒に担いゆく」という題をつけました。
この「一緒」にというのは、私たちそれぞれが困難の最中にあっても、どこまでも主が一緒に私たちの重荷や課題を抱え、歩んでくださる。そのすべてを導いてくださるという、お約束であります。
しかし、それだけではありません。それは又、「私たちが一緒に生きる喜び、悲しみをしていく」ときに、まさにこのイザヤが伝える生きて働かれる主が共にいて下さる、というお約束なんですね。このことを、私たちは日常の生活の中で体験することができる。
このことを心に留めて、「一緒に喜びも悲しみも主に合って担いゆく」者として、主の御栄を顕わす者とされてまいりましょう。今週もまたここからそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう。
「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。
 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、
 束ねた穂を負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」
アーメン。

祈ります。
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矢巾北中学校特設合唱部のみなさまに感謝!

2017-11-18 15:03:57 | 巻頭言

10月29日午後、全日本合唱コンクール全国大会(大阪フェスティバルホール)に出場された、

岩手県・矢巾北中学校特設合唱部より、本大会直前に練習会場として大阪教会礼拝堂を貸して頂いた事に対し、

35人の部員全員の心温まるお礼の言葉がしたためられた便箋が、一昨日当教会に届きました。

その一言一言を読ませて頂きながら、勿体ない思いになりました。


「本大会では楽しく歌い切れた」「本選前に練習ができて調整し、心落ち着けることができました」
とのみなさんの言葉を読ませていただきながら、少しでもお役に立つことができ、光栄です。


当日は暴雨でしたけれども、礼拝堂で練習をされているその風景は実に爽やかでした。

練習後に、教会の方々に本選での課題曲1曲を披露してくださり、礼拝堂いっぱいに澄みわたる清らかな歌声に、心洗われるようでした。




是非とも、来年も全国大会に出場され、大阪に来て、この大阪教会を練習場として使って頂けると、幸せです。


感謝して


日本バプテスト大阪教会一同




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特別集会のご案内

2017-11-16 13:30:44 | イベント
2017年11月19日(日)午後2時~3時


ハワイのミリラニバプテスト教会から14名のゲストを迎えて

神の愛のメッセージと癒しのハワイアンフラ(Gospel Hula)~


 入場料は無料ですが、被災地支援のための自由献金はございます。


(午前10時半からの礼拝でも、3名の方がハワイアンフラを披露くださいます)

日本バプテスト大阪教会


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人知を超えた神の御計画

2017-11-12 16:23:59 | メッセージ
礼拝宣教 イザヤ44:24-45:7 バプテスト福祉ディ
              
私どもの3代目の新会堂が建築されて今月で丁度4年を迎えました。新しい教会堂となってから様々な方々との出会いが多く与えられていることは喜びであり、感謝です。特にアジアの諸国から若い青年たちがこの教会の礼拝に集い主にある交わりを与えられていることは喜びであります。
又、新会堂が建ってからほんとうに様々な企画が興されるようになり、特別集会やコンサート、音楽劇等の催し等も開かれて、連合・連盟の集会等も含め、毎日のようにこの教会に足を運ばれる方々が起こされています。
来週もハワイのバプテスト教会の伝道隊が来られてゴスペルフラ&証の特別集会がもたれます。これらはすべて主のお導きによるものだと本当に思わされます。

本日は、バプテスト福祉ディとして京都の「バプテストホーム」、福岡の「久山療育園」、さらに大牟田の「敬愛園」、大阪のしんもり福祉会の「平和の子保育園」を礼拝で覚えます。
主イエスは、神の慈愛の現れとして、世に小さくされている人と共に歩まれ、救いと解放を宣言されました。今後も主イエスにあるバプテストの精神を引き継ぐこれらの事業をもって、主と人に仕えていかれることを願い、私たちも支え、お祈りに覚えてまいりたいと思います。

これらの活動、又先程の教会の様々な出会いと働きのすべては、伝道や福音を分かち合うこと。そしてそれは、主の御心である「いのちと和解による平和の実現」という方向性をもっています。たとえ小さくともそれらを分ち合い共有していくところに「人知を越えた神の御計画」に参与していく道が備えられています。

先程イザヤ書の44章24節から45章7節にかけて読まれましたが、今日はこのところから「人知を超えた神の御計画」と題し、御言葉に聴いていきたいと思います。

①「主は言われる」との声に聞き続ける。
イスラエルの民の一部を南ユダから捕囚として連行したバビロニア帝国。しかしその繁栄は、後に頭角を現したペルシャ帝国の王キュロスによって崩壊していきます。
そのことによってイスラエルの民は永きに亘る囚われと苦しみの生活から解放されるのですね。そうしてエルサレムの故郷に帰り、神の民としての国を再建していく道が拓かれていくのであります。

44章28節には「キュロスに向かって、わたしの牧者 わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建されると言い 神殿には基が置かれる、と言う」と預言されています。

ペルシャのキュロス王が、バビロンを滅ぼし権力を得たのは、(ここか肝心なのですが)、神がイスラエルの捕囚の民を解放し救い出すためだ。キュロスをお立てになった主なる神さまの御計画である、と語ります。
しかしイスラエルの民にとって、そんな外国の王を神さまがお用いになるなど聞いても信じがたいことだったでしょう。それは彼らの理解を遙かに超えるものだったからです。
救いは民の中から「神に油注がれた人」が起こされることによって実現していくのだ。そう彼らは考えていたのです。しかし、神はイスラエルの民だけの神ではなく、44章
24節にあるように「天地万物の創造の神、全世界の主」なのです。
民の解放の出来事は、そのような「万物の造り主」「贖い主」なる神の御計画によって成し遂げられていくのであります。
今日の箇所を読みますと「主は言われる」「わたしは主」と、主なる神さまが主体となっている言葉が何度も何度も出てまいります。
すべての出来事は「主の先立ちと導き」「主の御手のうちにある」「主が司っておられる」。私たちは目先のことしか考えられなくても、すべての出来事の中に主は働いておられるのです。

②「恐れからの解放と主の平安」
さて、バビロンという地にあって、25節にあるように、捕囚とされていたイスラエルの民の中には「占師」や「知者」に心惹かれ、神のように崇める人々も多くいたようです。その背景には捕囚の民の抱えている恐れや不安があったからです。
まあバビロニアの捕囚は半世紀にも及び、それもペルシャに移りゆく中で、どんなにか人々は異教の地における先の見えない不安と恐れを抱えていたことでしょう。
そういう状況の中で、目に見える保証や答が欲しいといった弱みにつけ込んで「むなしいしるしを告げる者」がいたのですね。

今の私たちを取り囲む社会においても、経済、社会、家庭、自分の問題と不安や恐れが尽きません。そういった時に、カリスマ的な人が現れてすぐに見える形でその解決方を明快に出してくれるとしたら、どんなにか飛びつきたいという思いになるでしょう。
けれども所詮それは人の知恵に過ぎず、25節にあるとおり「主は知者を退けてその知識を愚かなものとされる」のです。
人の知恵も知識も限界があり、移ろいゆくものですが、万物を創造された神の御計画
は揺るぎないものです。その主の御言葉に聞き、信頼をもって生きていくところに、
「恐れと不安」を解き放つ「主の平安」があるのです。

③「人知を超えた神の御計画」
先にイスラエルの捕囚の民が偶像と滅びから解放されるために主が外国の王キュロスをお用いになったと申しましたが。私たちも自分が予期しない形で神さまの働きが起こるということがあるでしょう。しかし私たちは自分の予期しない形で神さまの働きが起こった時に、受け入れ難くなってはいないでしょうか。自分の計画が思い通りに実現することこそ最善だと思いがちではないでしょうか。
45章2-3節にはこう記されています。
「わたしはあなたの前に行き。(「あなた」とはイスラエルの民であり今の主にある私たち一人ひとりのことです)山々を平らにし 青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り、
暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。あなたは知るようになる。わたしは
主、あなたの名を呼ぶ者。イスラエルの神である、と。」

主こそが私たち一人ひとりの最善を導き出すことがおできになるのです。安易に占い
やカリスマ性をもった人や物に頼るのではなく、又自分の考えや思いどおりに行かないと不満や心配を抱え込むのではなく、主があらゆる手を尽くし、様々な手段を用いてくださる。その最善になしたもう主に信頼する。そこにこそ力がある、と言っているのですね。
又、この「暗闇」とは、移りゆく状況の中での人々の恐れと不安を表しているのでしょう。さらに「隠された富」」というのも、どこに救いがあるのかと探すも見出せない。そういった状態を表しているのでしょう。
しかし、主はこのような暗闇と思える所、救いはどこにあるのかいえる所に、明るい所では見いだせない宝や富を見出すことができる、と言うのですね。
その「宝」と「富」とは3節にありますように、「わたしは主、あなたの名を呼ぶ者と言われる」神御自身のことであります。「それをあなたは知るようになる」とおっしゃるのです。

戻りますが43章1節以降には預言者イザヤを通して次のように告げられています。
「恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」「わたしの目にあなたは価高く、貴い」。

バビロニアの地に捕囚として連行されたイスラエルの民らは、かの地で人としての尊厳を損なわれるような状況におかれてきました。
人は世の価値観で人の価値あるかどうかを判断し評価します。しかし、造り主であられる神さまは「わたしがあなたを贖い、愛するからこそあなたは価高く、貴い」とおっしゃるんです。
私たちは暗闇で主なる神とその御救いという宝を見出すのでありますが。ここでは主が私たちを宝として見出してくださるのですね。主は私たちを十字架で流された血によって滅びと囚われから贖いとってくださいました。その主が私を御自分の宝として愛してくださる。それこそ良き知らせ、福音であります。
「わたしがあなたを贖い、愛するからこそあなたは価高く、貴い。」
今日も私の名を呼び、宝としてくださる主に信頼し、歩んでまいりたいと願うものであります。

最後に7節にこう語られています。
「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。」

ここで示されていることは、主なる神さまは光だけでなく、闇をもお造りになられたということであります。闇はサタンが造ったと思いがちですが、主が創造されたものなんですね。又、平和をもたらされる主は災いをも造られるというのですね。
このイザヤ書を読む前に読んだヨブ記もそうでしたが。人の目に良い事、悪い事と思える出来事も、すべては神のご経綸、「人知を超えた神の御計画」の中におかれている、ということがこのイザヤ、ヨブもそうですが、語られているのであります。

主イエスの救いと解放、贖いによって神の宝とされている私たちも又、「暗闇のような状況の中だからこそ見出し得る、そこに置かれた宝、隠された富」に与っていく者とされてまいりましょう。

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希望の道

2017-11-05 15:05:17 | メッセージ
主日礼拝宣教 イザヤ40・1-8     

一昨日と昨日は台湾の音楽劇と台湾より蔡焜霖さんを迎えての貴重なトークライブが行なわれました。長い戒厳令が解かれてもなお言論の自由と民主化が封鎖されていた時代、最期までその自由と解放を訴え続けた台北市の鄭南榕さんの音楽劇、又、長い戒厳令下で弾圧を受けたご経験のある蔡焜霖さんを迎え、貴重な証言をとおして台湾の歴史から「言論の自由」や「民主主義」の尊さについて知り、学ぶ機会となりました。
それは何か異国の遠い過去の話ではなく、私たちの信仰の自由、福音宣教の自由と深く関わり、又、広い意味でのすべての人の尊厳や思想信条の自由と関わることです。
このような今の時代だからこそ、改めていのちと平和の大切さについて考え、平和を次の世代に引き継いでいく。そんな願いをあらたにいたしました。
神の創造の業であるひとり一人の命の尊厳。この世界にはそれを圧迫し損なわせる力と、それを保ち取り戻そうとする意志が働いています。
今日から読みますイザヤ書の中に語られるいのちと平和、そして希望の呼びかけに耳を傾けてまいりたいと願っております。

「希望の宣言」
今日は一気に40章となりましたので少々戸惑いを覚える方もおられるでしょうが。
このイザヤ書40章は、イスラエルの南ユダの国がバビロニアによって滅ぼされ、多くの者がその捕囚とされた時代。この民の中から主に召し出された第二イザヤとされる人物によって書かれたものとされています。バビロニアの地で捕囚として生きるほかなかった人々と、南ユダの崩壊した都エルサレムに残された民。彼らへのそのメッセージの核心は、「神の救いと回復の希望」であります。
それはやがてその長い年月を経た後、遂に主の導きによる捕囚の人々のエルサレムへの帰還という形で実現されていくのでありますが。それは今日の2節に「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた。罪のすべてに倍する報いを受けた」との先立つ宣言が成就するのであります。もはや、神の激しい憤りと裁きの時代は終わり、神から慰めを受ける新しい時代が始まるのであります。

エルサレムの滅亡以降、神から見捨てられた者のようであった捕囚の民と南ユダに残された民。その彼らに主は1節にございますように、第二イザヤを通して「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と語られます。この「わたしの民」という呼びかけにどれ程彼らは救われたことかと思うのでありますが。

さらに2節で、「エルサレムの心に語りかけ 彼女(エルサレムのことですね)に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と」いう語りかけがなされています。

これは神の御心に背を向け滅びを招いたことへの後悔と未だ厳しい現実の中にある、主の民に向けての先立つ主の解放の宣言であります。しかし、全く先行きが描けない人々。将来に希望が持てない人々が、。どうしてこの言葉を「解放の宣言」「希望の言葉」と受け取ることができるでしょうか。

新約聖書ヘブライ書11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とありますが。創世記の天地創造のところも同様ですが、神の言葉はその発せられたときに、すでにそのとおりに成った、と確信し、そのみ言葉に立って、未だ見えないけれども、もうそれを得たように生きていくところに、主の御業は現されていくのです。

私たちはときに厳しい現実を突きつけられることもございます。
常識や人間的な理解では到底困難といえるような問題を前にして、祈る思いまでも削がれてしまうようなこともございます。
けれども、こんなときに聖書なんか読んでる場合じゃないとか、如何に現実がどうであろうとも、神はすべて知っておられる。神の言葉は生きており、力がある。そう信じて、3節のように「呼びかけるみ声に聴いていく」なら、荒野に道が備えられ、荒れ地に道が切り拓かれるような出来事が起こされてくる。山も谷も平らとなるような「主の栄光が現わされ」てくる。私たちはそれを見ることが出来るというのです。

その5節の「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」の「現れる」とは、「隠されていたものが顕わになる」という意味であります。
かたくなに神さまの愛とゆるしを拒む人には、神の栄光は隠れていて見ることができません。しかし、神さまの愛とゆるしに向き直り、それを受け入れた人には、神さまのお働きがあらわにされ、それを体験して生きる道が与えられるのです。

「神の言葉はとこしえに立つ」
6節~8節には「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けるのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」という有名な聖句がありますが。
パレスチナ地方では4月頃、東から吹く強い熱風によって植物が枯れることがあるそうです。この風はとても乾燥している上に砂を伴うと約3、4日ですべての植物が枯れるほど強力だということですが。それと、主の風が吹きつけると人の世の命はなんとはかないことか、ということを重ねているようです。
平家物語の冒頭に「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり云々」という言葉がございますが。この世界がいくら人工知能が発達し、人体機能に効く万能薬が開発されて人の寿命を長く伸ばすことができたとしても、人には必ず死が訪れます。こればかりは天地万物を造り、すべ治めておられる主なる神によって人は生かされている存在であるからです。
私たち人間は肉なる存在として弱さやもろさをもつ者、有限的な者でありますが、主なる神さまは、そんな私たちの何もかもを知っておられ、見ておられます。
私たちは人の痛みや苦しみを自分で体感することはできません。苦しみ痛む人の代りになることもできません。しかし、主なる神さまだけはすべてをご存じであられ、人のあらゆる苦しみ痛みをも知っておられるお方なのです。
キリストの苦難と贖いの十字架を見上げるとき、私たちはそれが真実であることを知らされる者であります。
おごれる者も久しからずや。この地上に名を残すようないかなる栄華を極めた王や英雄や勇者であっても、草や花が枯れしぼむのと同様、例外なくいずれは皆朽ち果てていきます。この地上のもの、肉なるものを頼みとしてそれにしがみつき、固執することは真に虚しいことであります。

新約聖書のヨハネ第一の手紙2章17節には、「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」と記されています。「神の御心を行なう人は永遠に生き続ける」。アーメン、これこそ朽ちることのない神の希望の言葉ですね。

私たち肉に属するものは朽ちていきますが、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。
神さまは私たちの世の虚しさ、荒れ野のような私の人生にも希望の道を備え、永遠の命に通じるその道を拓いて、その「真理の御言葉」によって歩ませてくださるのです。
ここに真の「希望の道」がございます。

最後に10節-11節とイエスさまの御言葉を読んで本日の宣教を閉じます。
「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前に進む。
主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコ13章31節)
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音楽劇&トークライブ&歌のご案内

2017-11-02 10:59:32 | イベント
七十一日的台湾白百合〜明けぬ夜に咲く白い花〜

第一章:音楽劇「七十一日的台湾白百合」 台湾を舞台に


第二章:トークライブ ゲスト:蔡焜霖(サイコンリン)さん
    思想信条・言論封鎖の弾圧時代に捕えられ、重労働を強いられる。
    その後、台湾人戦後第一世代実業家の知遇を得て出版界。広告界で働く。
    司馬遼太郎の「台湾紀行」に登場する「愛日家」で知られる蔡焜サイさんは実兄。

 日本人が選ぶ海外旅行先で上位にランキングする台湾の明るく陽気な瞳の奥に深く潜む語られなかった想い…。台湾の民主化への歴史を紐解く、桜人企画初のミステリー。

インタビュアー:伊良子序さん(元神戸新聞論説委員、作家、祖父は明治の詩人・伊良子清白)

音楽ゲスト:矢谷トモヨシさん(神戸のシンガーソングライター)

(トータルで2時間を予定しております)


2017年11月3日(金・休)14:00~/17:30~
        4日(土)11:00~/14:30~

(親子観覧日 11月3日(金)11:00~)
     *未就学児のお子様をお連れして観覧できます。そのため、静かな観覧ができないことがある旨
     ご了承ください。なお、公開リハーサルとしての扱いとなるため、トークライブはございません。
主催:桜人企画(さくらきかく)
協賛:匠工房
後援:鄭南榕基金会・記念会 
 
 
チケット:
    前売 2,000 円 / 当日2,500円(学生500円引・小学生無料)
    *親子観覧日のみ、親子で500円
    *バプテスト大阪教会にもチケットございます
 
ご予約について:
    ①ご予約フォームに必要事項をご入力ください。
     http://my.formman.com/t/A6D2/
    ②桜人企画へのEメールもしくは電話でも予約可能です。
     info@sakura-presents.com
               080-5763-3900  
  
会場:
    日本バプテスト大阪教会 ( 大阪市天王寺区茶臼山町 1-17)
    天王寺駅 ( 天王寺駅あべちか6番出口 ) より徒歩 7 分 

公共の交通機関でおいでください。

    有料駐車場は近くにございます。
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