主日礼拝 宣教 イザヤ52・13~53:12
本日は先に読まれましたイザヤ書の箇所から「苦難のしもべ」という題で御言葉に聞いていきます。
これまで祈祷会と礼拝でヨブ記、イザヤ書と駆け足ですが御言葉に聞いてきました。
共通のテーマは「苦難」です。ヨブ記では、「正しい者がなぜ苦難に遭うのか」という問いに対して聖書は何と言っているのかを共に聞いていきました。
誰よりも神の前に正しく生きたヨブが苦難に遭うとき、私たちは「なぜなのか」「どうしてなのか」と、その原因を見つけることに思いが向きます。
彼の友人らはヨブが罪を犯したからそのようになったのだと言います。苦難はすべて罪の結果だと。
因果応報的に提示するのは明快でしょう。非常にわかりやすいですね。しかしヨブは神の前に不正や罪を犯したわけではありませんでした。又、神もヨブは「正しい人だ」と明言なさいます。人の苦難は因果応報的に決することなどできない。そこには神の経綸、神の計画というものがあるのだと聖書は語ります。
さて、そのヨブ記に続いて今日のイザヤ書は、神の正しさを伝え、示したがゆえに苦難に遭う「主のしもべ」のお話です。
先程聖書教育の「こどもメッセージ」からお話がありましたので、時代背景や文脈はお大まかにつかめたかと思いますので、細かな解説はいたしませんが少しだけ触れますと。
この箇所は、預言者イザヤの意志を受け継いだ第二イザヤと呼ばれている預言者が、捕囚の民の解放と祖国エルサレムへの帰還を訴え活動していた時代のことです。
彼の預言はその後確かに実現し、ユダヤの捕囚の民はバビロンからペルシャの支配下に移り、そのキュロス王はユダヤの民に一定の自治を許します。まあユダヤの民の信仰や文化に対しても寛容であるだけでなく、遂には「ユダヤ人の解放令」と「エルサレム神殿を建て直すために祖国に帰ってよろしい」という許可を出すのです。
こうして彼の預言通り、神殿再建という期待を胸にエルサレムに帰還する人、又帰還を人に勧める者たちが出てきたわけですが。その一方で、エルサレムには帰らないで慣れ親しんだ異教の土地に留まろうとする人たちからは反発の声も出てきました。
そこで、ユダヤ人同士の分裂やいさかいが起こっていったのでしょう。
預言者イザヤはユダヤの民の解放とエルサレムに帰って神殿を再建して、再び約束の地で神の民として生きることこそ祝福の回復、民の喜びとなると信じて神の言葉を取り継いで来たわけですが。しかし蓋を開けて見れば、必ずしもそうではなかった。
人々の不満は預言者への不信や非難中傷となっていくのです。
けれどイザヤ自身は同胞からは蔑まれ、見捨てられ、苦悩するなかでも、主の言葉を伝え続けることを全うし、最期は無実なのに不当に捕えられ、苦役を課せられ、裁かれて、処刑された、というのですね。
彼は「正しい人」であったのにこのような「苦難」を受けねばなりませんでした。そこはヨブと共通するところと言えるかも知れません。ただこれは、見方を変えれば、彼が神の正しさを示すために自らその苦難の道を歩み通したということであります。
ユダヤの人々はこのイザヤの苦難とその死を見て思いました。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」「神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」
けれども後に、その時代を顧みて預言者の言葉と行動が掘り起こされ、イザヤ書として編集されていったとき。
実に預言者であった彼が担ったのは、神の愛と憐れみを蔑ろにするような私たちの病的状況であり、彼が負ったのは私たちの分断による痛みであった。彼が刺し貫かれたのは、私たちの神への背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちの咎のためであったことに気づかされていくのです。
自分たちのために最後まで救いの道を伝え続け、最期は自分たちの罪を彼が担いゆくかたちで死んだということを知って彼らは、深く悔い改めるのですね。
「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪すべてを主は彼に負わせられた。」
ここを読むとき、この「苦難のしもべ」の姿が、私たちのため執り成されイエス・キリストの苦難のお姿が重なって見えてくるのであります。
主なる神さまの救いの御業は、何か上から見下ろすようなかたちでなされるのではなく、むしろ人に軽蔑され、見捨てられる者となりながらも、なお執り成し続けて人の痛みを負い、病を知る者となり、神と人との関係回復のために自らその身に苦難を負っていくことによって成し遂げていかれるのです。
10節をお読みします。
「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」
ヨブ記では「正しい人が苦難に遭うというのはなぜか」という問いかけとして読みましたが。今日のイザヤ書では神の正しさと救いを伝えたために苦難を受け、遂には自分自身を献げきる覚悟をもって、11節にあるように「多くの人が正しく生きるために彼らの罪を自ら負」ていくのです。そのように民の償いの献げ物となり、執り成していくのですね。そこが、この箇所が主イエスの十字架の苦難と贖いの死を顕わしているという所以であり、その姿に私たちもユダヤの人々がそうであったように、悔い改めと救いを見出すのであります。
預言者イザヤを軽蔑し無視して遂には死に追いやった人々が、「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」と後に気づかされていくとき、神と人、人と人との関係性は回復されていきます。11節にあるように「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」そのような出来事が実現していくのです。
この第二イザヤの時代以後、エルサレムの神殿が建てなおされていきます。そこでユダヤ教が誕生していくのでありますが。しかしそれはユダヤ人という一民族のみに限られたものでした。イザヤ書は神の御救いについて、それはやがて全世界に開かれたものとなることが預言されていますが。
それが本当の意味で世界の人々に向けた御救いの訪れとなるのは、主イエス・キリストの誕生によってであります。
今や救いはユダヤ人、ユダヤの民族に限られたものではなく、イエス・キリストによって全世界の人々に開かれ、実現しているのであります。
今日はくしくもバプテスト世界祈祷週間・世界宣教を覚えての礼拝です。
イエス・キリストは私たち救い難い者を救うために、人の苦しみ痛みの極みを身に負われ、どこまでも私たちと共におられることを選ばれました。ここに私たちは救いの確かさを見出します。
「苦難の僕」である主イエスは、今も人の痛みと苦しみを一緒に担い続け、平和といやしを執り成しておられます。
次週からその主の御救いの喜びがもたらされた日、クリスマスのアドベントに入ります。
「苦難のしもべ」として、執り成すため人となってお生まれくださった主イエスと共に今週もそれぞれの場へとここから遣わされてまいりましょう。
「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」
コリント二1章4-5節
本日は先に読まれましたイザヤ書の箇所から「苦難のしもべ」という題で御言葉に聞いていきます。
これまで祈祷会と礼拝でヨブ記、イザヤ書と駆け足ですが御言葉に聞いてきました。
共通のテーマは「苦難」です。ヨブ記では、「正しい者がなぜ苦難に遭うのか」という問いに対して聖書は何と言っているのかを共に聞いていきました。
誰よりも神の前に正しく生きたヨブが苦難に遭うとき、私たちは「なぜなのか」「どうしてなのか」と、その原因を見つけることに思いが向きます。
彼の友人らはヨブが罪を犯したからそのようになったのだと言います。苦難はすべて罪の結果だと。
因果応報的に提示するのは明快でしょう。非常にわかりやすいですね。しかしヨブは神の前に不正や罪を犯したわけではありませんでした。又、神もヨブは「正しい人だ」と明言なさいます。人の苦難は因果応報的に決することなどできない。そこには神の経綸、神の計画というものがあるのだと聖書は語ります。
さて、そのヨブ記に続いて今日のイザヤ書は、神の正しさを伝え、示したがゆえに苦難に遭う「主のしもべ」のお話です。
先程聖書教育の「こどもメッセージ」からお話がありましたので、時代背景や文脈はお大まかにつかめたかと思いますので、細かな解説はいたしませんが少しだけ触れますと。
この箇所は、預言者イザヤの意志を受け継いだ第二イザヤと呼ばれている預言者が、捕囚の民の解放と祖国エルサレムへの帰還を訴え活動していた時代のことです。
彼の預言はその後確かに実現し、ユダヤの捕囚の民はバビロンからペルシャの支配下に移り、そのキュロス王はユダヤの民に一定の自治を許します。まあユダヤの民の信仰や文化に対しても寛容であるだけでなく、遂には「ユダヤ人の解放令」と「エルサレム神殿を建て直すために祖国に帰ってよろしい」という許可を出すのです。
こうして彼の預言通り、神殿再建という期待を胸にエルサレムに帰還する人、又帰還を人に勧める者たちが出てきたわけですが。その一方で、エルサレムには帰らないで慣れ親しんだ異教の土地に留まろうとする人たちからは反発の声も出てきました。
そこで、ユダヤ人同士の分裂やいさかいが起こっていったのでしょう。
預言者イザヤはユダヤの民の解放とエルサレムに帰って神殿を再建して、再び約束の地で神の民として生きることこそ祝福の回復、民の喜びとなると信じて神の言葉を取り継いで来たわけですが。しかし蓋を開けて見れば、必ずしもそうではなかった。
人々の不満は預言者への不信や非難中傷となっていくのです。
けれどイザヤ自身は同胞からは蔑まれ、見捨てられ、苦悩するなかでも、主の言葉を伝え続けることを全うし、最期は無実なのに不当に捕えられ、苦役を課せられ、裁かれて、処刑された、というのですね。
彼は「正しい人」であったのにこのような「苦難」を受けねばなりませんでした。そこはヨブと共通するところと言えるかも知れません。ただこれは、見方を変えれば、彼が神の正しさを示すために自らその苦難の道を歩み通したということであります。
ユダヤの人々はこのイザヤの苦難とその死を見て思いました。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」「神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」
けれども後に、その時代を顧みて預言者の言葉と行動が掘り起こされ、イザヤ書として編集されていったとき。
実に預言者であった彼が担ったのは、神の愛と憐れみを蔑ろにするような私たちの病的状況であり、彼が負ったのは私たちの分断による痛みであった。彼が刺し貫かれたのは、私たちの神への背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちの咎のためであったことに気づかされていくのです。
自分たちのために最後まで救いの道を伝え続け、最期は自分たちの罪を彼が担いゆくかたちで死んだということを知って彼らは、深く悔い改めるのですね。
「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪すべてを主は彼に負わせられた。」
ここを読むとき、この「苦難のしもべ」の姿が、私たちのため執り成されイエス・キリストの苦難のお姿が重なって見えてくるのであります。
主なる神さまの救いの御業は、何か上から見下ろすようなかたちでなされるのではなく、むしろ人に軽蔑され、見捨てられる者となりながらも、なお執り成し続けて人の痛みを負い、病を知る者となり、神と人との関係回復のために自らその身に苦難を負っていくことによって成し遂げていかれるのです。
10節をお読みします。
「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」
ヨブ記では「正しい人が苦難に遭うというのはなぜか」という問いかけとして読みましたが。今日のイザヤ書では神の正しさと救いを伝えたために苦難を受け、遂には自分自身を献げきる覚悟をもって、11節にあるように「多くの人が正しく生きるために彼らの罪を自ら負」ていくのです。そのように民の償いの献げ物となり、執り成していくのですね。そこが、この箇所が主イエスの十字架の苦難と贖いの死を顕わしているという所以であり、その姿に私たちもユダヤの人々がそうであったように、悔い改めと救いを見出すのであります。
預言者イザヤを軽蔑し無視して遂には死に追いやった人々が、「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」と後に気づかされていくとき、神と人、人と人との関係性は回復されていきます。11節にあるように「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」そのような出来事が実現していくのです。
この第二イザヤの時代以後、エルサレムの神殿が建てなおされていきます。そこでユダヤ教が誕生していくのでありますが。しかしそれはユダヤ人という一民族のみに限られたものでした。イザヤ書は神の御救いについて、それはやがて全世界に開かれたものとなることが預言されていますが。
それが本当の意味で世界の人々に向けた御救いの訪れとなるのは、主イエス・キリストの誕生によってであります。
今や救いはユダヤ人、ユダヤの民族に限られたものではなく、イエス・キリストによって全世界の人々に開かれ、実現しているのであります。
今日はくしくもバプテスト世界祈祷週間・世界宣教を覚えての礼拝です。
イエス・キリストは私たち救い難い者を救うために、人の苦しみ痛みの極みを身に負われ、どこまでも私たちと共におられることを選ばれました。ここに私たちは救いの確かさを見出します。
「苦難の僕」である主イエスは、今も人の痛みと苦しみを一緒に担い続け、平和といやしを執り成しておられます。
次週からその主の御救いの喜びがもたらされた日、クリスマスのアドベントに入ります。
「苦難のしもべ」として、執り成すため人となってお生まれくださった主イエスと共に今週もそれぞれの場へとここから遣わされてまいりましょう。
「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」
コリント二1章4-5節