日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神の偉大な業

2011-06-19 07:14:17 | メッセージ
宣教 使徒言行録2章1~13節 

聖霊降臨・ペンテコステお祝い申しあげます。キリスト教会の暦においてもこの聖霊降臨・ペンテコステはクリスマス、イースターと並ぶ大きな祝祭であります。クリスマスは救い主イエス・キリストのご降誕を記念します。イースターは罪の贖いのために死なれた主イエスさまが復活なさったことを記念します。そしてこのペンテコステは復活された主イエスが天に昇られてから50日後(ペンテコステのペンテとは50というギリシャ語なのですが)のその日に起こった聖霊降臨を記念する日であります。

1章によればイエスさまの弟子たちや婦人たち、イエスの母や兄弟たちの他にも120人ほどの人々が一つになって集まり、心を合わせて熱心に祈り続けていたところに聖霊が降り、そこから神の偉大な業が彼らを通して語られていったということです。ですからペンテコステはまさに、「キリスト教会の誕生」を記念する日でもあります。それはこの日、ただ一度だけ起こったものでもありません。今も祈り求める者の間でご聖霊の働きや力はたえず起こり続けているのであります。

最初にその聖霊降臨の折に起こった事象の前後を読んでみたいと思いますが。
まず、1節「一同が一つになって集っていた」とあります。彼ら使徒たちは主イエス不在という寂しさと、これからどうなっていくのかという不安の中におかれながらも、かつて1章4節で主イエスが言われた「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」とのみ言葉を握りしめて、励まし合いながら心を一つにして集い、祈っていたということです。先の見えないような不安や恐れを持ちながらもなお、主への祈りをもって一つとされていく、弱く欠けたる者たちの群がそこにあった。そこに約束の聖霊が降り、教会が誕生していくのであります。
 先週の5日、和歌山教会の牧師就任式に出席いたしました。祝辞の方が、私は和歌山教会の牧師就任式にこれで3度目の出席になりますというお話がありました。8年という間に3人の牧師が、召天、召天と失われ、そして前任牧師は老人ホームの園長となられて辞任されるという、これは和歌山教会の方々にとっては何とも理解し難く、耐え難い苦難の道のりがこれまであったということであります。けれども本日の個所のように、主に信頼し「一つになって集ってきた」その祈りの中に、調牧師、立花協力牧師就任の道が備えられていったということを知らされて心が熱くなりました。主は生きておられるということを、強く思い、大変励まされて帰ってきたことでした。私どもがあきらめず、失望せず集い、心を合わせて祈るなら、今もご聖霊は働き臨んでくださり、私どもは主の栄光を仰ぐものとされるのであります。
次に、2節「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」とありますが。激しい風とは神の息吹であり、それはすなわち聖霊を表しています。そして3節「炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人のうえにとどまった」。
聖霊は神が生きて働きかけるお方であります。その大きな救いの恵みがイエス・キリストによってもたらされたものであることをさとらせて下さいます。

教会・エクレシアの群は、その聖霊によって信仰の告白をなす一人ひとりから形づくられています。はじめに組織や団体があったわけではありません。まず聖霊は求め祈る一人ひとりのうえに降臨されるのであります。ですから、私たち一人ひとりが実は小さな教会、主の宮であるということができます。まあ信仰の戦いも一人ひとりのうちに起こってくるものであり、それは誰にも代わることができません。けれども幸いなことには、その信仰の戦いにおいて常に聖霊なる神さまが共におられるということであります。又、主の晩餐式において覚えられていますように、私どもはそれぞれ同じ一つの御霊に与って、キリストにあって兄弟姉妹、主の家族とされているのですから、それは祈りを合わせていくように招かれているということです。そのところに聖霊の豊かな「み業」が臨み、顕わされていきます。覚え合い、祈り合う幸い。共に主に在る希望を確認していく礼拝は、私どもに生きる力と世にはない平安をもたらしてくれます。それが教会に与えられた大きな祝福であります。もしその祝福が自分にとって、あるいは教会にとって十分でないと思う方がいらっしゃるとすれば、それこそ聖霊の働きを切に求めて祈らなければなりません。礼拝も祈って備えて出席するのと、そうでないのとでは雲泥の差があります。「必要なみ言葉をください」と祈りつつ、御前に出る時、ご聖霊は示しと気づきを与えて下さいます。

4節「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだした」とあります。
先週は丁度創世記11章のバベルの塔の記事よりみ言葉を聞きました。一つの言葉、一つの文化をもつ彼らが文明を築くにつれ、神の恵みを忘れて高慢になり、その果てに天にまで達して神のようになろうと試みたのであります。しかし神は、その人間の傲慢を打ち砕かれ、企ての言葉を混乱させられて人々を全地へと散らされたのであります。

今日の5節以降には、「エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人たちが住んでいた」とあり、又ユダヤ教の五旬節の祭りのためにエルサレムを巡礼する本当に様々の国々から来たユダヤ人たちもいたことが分かります。それはいわゆる「散らされた人々」のことを指しています。その多くは捕囚の民として散らされていった人々であったわけですが。けれどもこの聖霊降臨の折、聖霊に満たされた人々から各々の国の言葉で、「神の偉大な業」についての証しを聞かされることになるのであります。それはまさに御神のもとにあって一つとされる時であったのです。

その神の偉大な業について聞いたユダヤ人たちについて次のように述べています。
6節「だれもかれも自分の故郷の言葉を話されているのを聞いて、あっけにとられた」。8節「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」。11節「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と、彼らは驚き戸惑ったというのであります。そこで聖霊に満たされたペトロが救いの真理を語り、人々に回心のみ業もたらされるのでありますが。ご聖霊の働きは、キリストによって主の救いに与る人々をつないでゆく、結び合わせてゆくことにおいて最大限に現わされるのです。その時み神の栄光が崇められるのです。

その働きをご聖霊は、まず言葉をもってなし遂げてゆかれます。「炎のような舌が一人ひとりの上にとどまった」とありますが。私ども一人ひとりも又、御聖霊によって主のみ救いに与る人、又関わるすべての人に救いを告げ、恵みへとつないでゆく者として召されているのであります。

「神との交わりの真の回復」、また「人と人との交わりの真の回復」は語られることによって、又聞くことによって始まります。ローマ10:17「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とあるとおりです。しかしそんなことを申しますと、いや私は牧師ではないから聞く方であっても、話す方ではないとおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。福音を伝えることは難しい、なかなかうまくできるものではない、とお思いになるかも知れません。その点について使徒パウロは非常によいヒントを私ども与えてくれています。
Ⅰコリント9:20ですが。「ユわたしはダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。・・・・弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです」。それは何もパウロさんがカメレオンのようにころころと変わったわけではありません。目の前にいる人に対して理解できる言葉でもって神の救いを話したり、表していったということです。聖霊に満たされた人は、主に在る愛を持って配慮を学び、身につけます。そして、そのような人の愛の働きには豊かさと自由があります。

聖霊降臨において、主は名も知れぬガリラヤ出身のユダヤ人たちを通して、相手に通じる言葉、なじみのある言葉でもって神の偉大な業をあかしされたということであります。
相手と心通じ合えるように、理解し合うことができるように導かれるのが聖霊のお働きであります。聖霊は異なるもの同士、違いをもつもの同士を主のもとにある一致へと導きます。私どものなすべきは、その招きに素直に応えること。少しの勇気と、何よりも主の犠牲の愛を忘れず、その恵みに応えてゆく喜びをもつことです。
伝道とは自分の一方的な思いを相手に押し付け相手の変化や回心を求めるものではなく、「まず自分が相手を理解する者となるように変えられる」ことから始まります。聖霊は私どもに気づきを与えてくださいます。聖霊は私どもの現実の世にあって混乱した言葉を結び直し、いのちの交わりを回復する原動力として私たちのうちにお働きになられます。

この聖霊が降った人々を通して、他者に分かる言葉でもって「神の偉大な業」が証しされたことの意義。それは違いを持つものが互いに心を通じ合うことのできる「新しい言葉」を天より授かった瞬間でした。聖霊降臨によって主のご愛が人と人の間に働き、共に主をたたえる和解のみ業へと導くのです。そしてそれは今もなお変わることなく、私どもの間に、又それぞれが遣わされるそのところに私ども一人ひとりを通して働こうとされる力なのであります。

聖霊は、私どもが理解することの困難な中においてもなお、先立たれ、豊かに働いておられます。ローマ8:26「言葉で言い尽くせない呻きをもって、聖霊ご自身がそのような者たちのために執り成してくださる」。
教会が世にあって幸いなのは、この聖霊ご自身の執り成しのもと、祈り合うことのできる場があるということです。それぞれに個性も立場も異なる者同士が、心を一つにして互いに祈り合うことができるというのは、この上ない恵みであり、平安ではないでしょうか。
聖霊降臨・ペンテコステの贈りものに心からの感謝と賛美をささげ、み神の偉大な業を見、仰いでまいりましょう。
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あかし

2011-06-15 16:08:39 | メッセージ
A・T

 「そのままの姿でいいんですよ」ということが、信仰生活を通して与えられたメッセージの一つです。
 
私は今のままではいけない、もっと成長しなければならない、という思いをもっていましたので、このメッセージを与えられたとき、何故、そのままの姿でいいんだろうか、と不思議でありました。また、聖書の教えの中、教会の中ではそれでも良いだろう。でも教会の外の世界ではそうはいかないのではと思いました。実際、私は仕事をしていく中で、たびたび上司や先輩の方から、お前は「今のままではいけない」とアドバイスを頂いてきたものでした。私自身の不出来は別にしても、どうも社会の仕組みは「そのままで良い」とは成っていないように感じられるのです。

私が今のままではいけない、と思ってきたのは、自分自身に不満や不足を感じるからであり、それには大きく二つの理由がありました。子供の頃、父の仕事の都合により、住む場所を何度かかわりました。3つ目の中学校に通うようになった頃、どういうわけか、友達をつくることが難しくなってきました。それまでは友人関係に悩んだことはなく、ごく自然に周りに溶け込んでいけたのに、それができないのです。またそれまでは人の気持ちも考えず、自分の言いたいことやしたいことはなんでもやってしまう人間でしたが、自分の気持ちを押さえ、あまり感情も表に出さないようになりました。今までの自分が、友人に恵まれ、ある程度自分の思うとおりに物事が進んできたのは、自分の魅力でも努力でもなく、たまたま環境の良いところにいただけで、自分自身には何の力もないことを思い知らされました。考えるとその頃から、自分自身があまり好きでなく、自分に不満があり、結果として自信の無さが自分自身の中で浮き彫りにされてきたように思います。

もう一つは家庭のこと、特に父のことがありました。
私の父は長く鬱病をもって生活しており、一年間ずっと仕事に行けず寝込んでいたり、時には出かけたまましばらく帰ってこない、躁の状態のようになったり、何度も何度もその状態を繰り返して、時にどちらの場合でも症状がピークに達したときは、病院にも処方する薬がない、母も私たち子どもを連れて家を出るようにすすめられたこともありました。私から見て父は頭がよく、能力のある人間ですので、世間のお父さん並みに働くことができれば、きっと会社でも大きな力を発揮して、活躍できるだろうなと思ったものでした。ともかくも、自分は誰に頼らなくてもいいように、仕事をもち、生活できるようにしなければ、と考えるようになりました。
 
しかし、自分の力で何でもできるようにならなければ、という思いを持ちながらも、そうすることのできない自分の無力さを感じ、自分に失望するばかりでありました。
そんな中、「放蕩息子」のメッセージに触れる機会が与えられました。といっても、それまで何度も聞いたはずの聖書の一箇所ですが、その時のメッセージは、私にとってはじめて教えられることでした。次男が父親の財産を使い果たし、友達を失い、豚の世話の仕事をしながら、その豚の餌を食べたいと思う程の思いを味わい、父親の家に帰る決心をし、父親はしかるどころが一番よい着物を着せ、お祝いの会まで開いた。という非常に大まかながら、話しは承知していたつもりでしたが、父親は、息子を迎えたとき、「走り寄って」迎えたとあります。当時の人々はめったに走ることはなかったそうで、もし走っている人がいれば、ひどく目立ったはずということです。つまり、父親はいわば自業自得でボロボロになって帰ってきた息子を、人目に晒さないように、走る自分に人々の視線が集中するようにして、息子を迎えた、というメッセージでした。

主のもとに帰るとき、何の資格も、立派な自分も必要ではなく、さらに自分自身を恥とする必要すらない。自分の困難な問題を、自分の力で解決しようとするのではなく、主にお預けし、解決へと導いていただくことは、決して、あきらめ、放棄ではない、安心してお委ねしていいんだと、教えられました。そして、むしろ自分ひとりの力で物事と向き合い、解決しようとすることこそ、罪であることを教えられたのでありました。

それまでの私には、「できない自分」には、否定的な思いしかなかったのですが、できない自分でよい、私にはできないけれども、私を強くしてくださる主イエス・キリストによって、何でもすることができる。私にとって、「できない自分」とは、私を弱くするものではなく、私自身を主に明け渡し、主によって強くして頂くことができるために必要なものである、という思いに変えられました。


「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によ って、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新し い人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架 にかけて滅ぼしてしまったのである。」(エペソ人への手紙2:14~16)


何故、そのままの姿で良いのか、それは、私の行動や信念によってではなく、一方的な主の憐れみ、十字架によって、すでに罪が赦されているからこそ、であることを教えられました。日々の生活の中で、不安や悩みは今でも尽きることはありませんが、その度に「私があなたを見捨てて一人にはしない!」というメッセージをくりかえしくりかえししていると、おどおどと震えながらも、上を見上げるわずかばかりの勇気が与えられます。そんな時は、目の前の問題が未だ解決していなくても、きっと大丈夫、という平安に心が満たされることがあります。ある牧師先生がおっしゃるには、それこそが、クリスチャンの醍醐味であるそうです。

父の年齢ではふつう精神的な病気は解決しないということですが、治っても治らなくても、きっと大丈夫、そのような人生を歩んできた父でなければ、また支えてきた母や姉でなければ、果たすことのできない役割があり、これまでの生活がこれから高い建物を建てていくための土台であったことを信じています。

私自身の教会生活のスタートは、両親が教会員でありましたので、小さな子どもの頃から始まり、二十歳の年のクリスマスにバプテスマを授かりました。その頃は先に述べたような壁にぶつかったような状態のときではありましたが、礼拝に出席することは、最大の奉仕だと教えられ、決心を与えられました。その頃から、今日まで私の教会生活は、私が何をできなくても、そこにいるだけで喜んでくださる方によって、引っ張られ、
押されながら、歩んできたように思います。

まずしっかりと自分自身が恵まれ、さらに自分が恵まれるだけでなくして、周りの方々とその恵みを分かち合うことのできるような信仰生活を送っていくことができることを願い、ここ大阪教会への入会をさせて頂きたいと思います。
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現代のバベルの塔

2011-06-12 07:45:47 | メッセージ
宣教 創世記11章1~9節 

序 バベルの塔は実在していた
この聖書に記述がありますバベルの塔は古代バビロニア・今のイラクのあたりに実在したそうでありますが。考古学による発掘調査と同時代の文書によれば、バベルの塔はジグラトと呼ばれる巨大な宗教的建造物だとされ、7階建てで高さが90メートル。1階が長さ90メートル、幅90メートル。2階以降はその容積が下の階よりも小さくなっていたそうです。今度2013年か2014年に完成する阿倍野近鉄デバートの高さが200メートルですか、300メートルですか。まあそれに比べればあまり大した事はないように思えますが。当時として多大な動員とものすごい労働力と最新技術を駆使しての建築であった事でしょう。

② 同じ言葉
さて、1節「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とあります。
この世界中とは、全世界という意味ではなくこの時代のバビロニア(シンアル)一帯に住む人々のことを指しています。しかし古代バビロニアは学校で「世界の発祥バビロニア」などと習いましたように、ある意味において世界の中心的な地であったということです。まあ世界中と表現されるくらいですから、かなりの広さと人々が多くいて、そこに住む大勢の人々が、「同じ言葉を使って、同じように話していた」ということですので、「全体なおれ!」ではありませんが、皆が同じ方向に進んで、力が結集され、そういった中でバビロ二アの町はものすごい発展を遂げていったのでありましょう。そして3節にあるように、彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた」とあります。これは文明の発展や進化を指しています。彼らは、「話し合って」、れんがとアスファルトを用いて町に先進的な塔を立てようと企てるのであります。しかしこれは神に一切相談することなく自分たちの判断だけでそれを行ったということであります。古代の世界において塔という重要な宗教的施設を建立する場合、たいがいは神へお伺いを立てて祈りつつ、神と共同で行なうものです。しかしこの塔の建設の場合、そういった祭儀が行なわれていたとは何も記されておりません。人々は何ら神に問いかけることも、お尋ねすることもなしに、いわば「神不在」のなか、自分たちの思いだけを先行させ、判断をなし、塔の建築へと舵をきったのであります。かつてアダムとエバ、又カインもそうでしたが。彼らは神に問うことも、お伺いを立てることもせずに、自分勝手に判断して事をなすという同じ過ちを犯し、神の祝福を損ねてしまいました。バベルの塔のある町の建設も、まさにそのような中で進められていったのであります。

② 不安
その人々は4節でこう言っています。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」。
先ほど申しましたように、彼らは「神に問い、尋ねる」ことなし、神不在の中で、自分たちの欲求だけに従いで天まで届く塔のある町を立てようと事を運びます。それは「名をあげ、全地に散らされないために」という理由から企てられるのであります。
つまり、裏を返せば彼らの思いの根底に、「全地に散らされてしまうという不安があった」ということです。日々築かれてゆく一大文明・文化。力強い国家の一員であるという誇りと安心感。彼らはそれをより確かなものとしたいとの願望が増し、それと共に、これが散らされてしまっては大変だと言う不安も又、増していったということです。そして人びとはその不安を解消するために、強く団結し、一丸となって天に届く塔のある町を建てよう企てるのであります。それは神に問いかけ、尋ねることを一切せず、どこまでも人の企てでありました。この「神不在」の中の、どこに平安があるのでしょうか。そこに彼らの根源的な問題があったのです。
現代社会もまさにそのようでありましょう。どんなにそびえるような高層マンションの最上階に住もうとも、最高の地位、権力を手に入れようとも、神不在の人の企てがもたらすものは、不安と虚しさだけです。社会全体もそうであります。人は神と共にあゆんでこそ、夢や希望を心から楽しむことができ、御心を思うことで、仕事にしろ、生きがいにしろ、本来の生きる意味と目的を見出し、平安のうちに務めることができるのです。

さて、先に、「同じ言葉」を使い、同じように話す彼らの結束力と、それによりもたらされる繁栄について述べましたが。それは一見、大変よいことのように思えますが、果たしてそうなのでしょうか? この「同じように話す」というのは、画一的思想をもっていたということでしょうが。人間の社会生活において、それは本当によいことばかりなのでしょうか? 5節以降にこうあります。「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」」。
これはですね、例えば、国や団体組織が画一的思想やそういったスローガンを掲げ、個人に押し付けようとするとき、異論を持つ少数者を数の論理のもと圧力や怖れで抑えこもうとしたり、排除しようすることが起こっていきます。そのような企てでもって起こってくる悲劇は後を絶ちません。かつて日本は戦時下にあって同じような過ちを犯しました。
軍国教育と皇国史観が絶対化される中、戦争反対者は非国民扱い、選別されました。よく戦争は軍部の独走と言われますが、それだけではできないことです。国民の心と協力がその場合不可欠です。それは本日の聖書にあるように、「同じ言葉を使い、同じように話す」、つまり人間が作った画一的思想信条を押し付け、強化と団結力を計る中、愛国心や心の教育という名のマインドコントロールを行っていった。それが人々の心を昂揚させてあの戦争へと向かわしめたのです。ですから、教育ってほんとうに大切であります。今日にあっても国家や公権力による「愛国心や心の教育」の強要や強制に対して、神経質なくらい敏感に目を注いで見極めていくことは、殊に宗教者として大切な使命であります。二度と正しいものを正しい、間違いを間違いと言えないような世の中が来ないように、戦争の過ちを繰り返えして起こさないためにもそうです。人は不安や怖れを抱く時に、一丸となること。皆同じであること。また名誉や地位を持つことによって不安が解消し、安心を手にすることができるように思うのでありますが。それは幻想です。
 
③ 現代のバベルの塔
現代の社会にはそういった不安解消の装置として、いくつものバベルの塔が立ち並んでいるといえないでしょうか。神に問い、お伺いを立てることをしないで、自分たちの判断だけで自己完結する神不在のバベルの塔が私たちの文明社会に立ち並んでいます。例えばその一つとして、原子力発電所にみられる安全神話がそうです。想定外ではすまされません。原子力発電は安全・安い・クリーンということでの国策であったのですが。実際に事故が起こってから明らかになったのは、その恐ろしさであります。核は人類の手にあまるものであります。膨大な放射性物質が大気・土壌・海水に漏れ、放出し、汚染されて生態系がおかしくなっている事実であります。莫大な事故処理の費用が圧し掛かっています。人間の傲慢さと浅はかさを思い知らされますが。今回のこの事故(人災)を通して、危機管理のこと、又少なくとも実際に日本中に住む私たちの問題として、電気の節電やライフスタイルについてそれぞれが真剣に向き合い、取り組んでいく必要に迫られているという認識を肌身に感じることができました。しかしその代償はあまりにも大き過ぎます。

さて7節、主は「降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにしてしまおう」となさいます。
造られた塔は宗教的な建築物であったといわれていますが。それは人が1階、2階と高く高く上るごとに、神々に近づくことができるという、あくまでも人の側のための建築物であったということです。
人は上へ上へと天に届くように一番頂上の天に届けとばかりに上りつめようとしますが、主なる神は下へ下へと地に向かい、人々のもとへ降りて来てくださるのです。そこに大きな違いがあります。神は罪と死へと向かう人のところに降りてきてくださるのです。これまで神を見上げずに自分を高めようとしてきた人々は、ここで天から降って来られた神を見て、どう思ったことでしょうか?
今、私たちには、まさに人の罪のどん底にまで、苦しみ悩みのどん底まで降りて来られ、痛みを共にされる神、救い主イエス・キリストがおられます。このお方が十字架にかけられた姿を思う時、私どもの高慢は打ち砕かれ、罪からの解放が起こされるのであります。
もう一つ心に留まりましたのは、主なる神は、人々が建てた塔のある町を破壊されたのではなく、人々の言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにされて、そこから全地に人々を散らされたということであります。私は最初にこのバベルの塔のお話を聞いた時の印象が強く、この塔を含め町は倒壊してしまったとずっと思い込んでいたのですが。そうではなく、人々は言葉の混乱と、互いの言葉が聞き分けられなくなり、この町の建設を中止し、全地に散らされるのです。それは神の断罪というものではなく、神が多様性をもって生きることの意義と幸いを人々に託して、地に散らされたのです。
もちろん言葉が通じなければ混乱も起こります、あゆみ寄る努力が必要となります。議論もその都度行なわなければなりません。しかし神は、それらは人の社会が築かれるための大事なプロセスとなるだろう、とお考えになったのではないでしょう? しかしそれだけで人の社会が成熟するかといえば、そうでないことは歴史を見れば一目瞭然です。


最後になりますが、教会も主の宮なる教会堂を建てようとする時、一致や団結というものが必要でありますが。しかし、まず何よりも、その建設の最初から終わりまで、主に御心とその幻を尋ね求めながら主と共に建設の業を進めていく事がとても大事であります。
それともう一つ、私たちはみな同じではないということです。それぞれに違いがあり、異なる者同士であるということであります。それに不安や怖れを持つことはありません。
同じ考えを持つ者も、違う考えを持つも者もいてあたりまえです。大切なのは互いに思いを出し合い、最後は一つになって主にみ心がどこにあるのかを尋ね求めて共に祈ることができるという幸いと平安があるということであります。違いを乗り越え、各々がキリストの御体を形成するかけがえのない部分として教会が建てあげられてゆく時、本当に素晴らしい主の御業を拝することになると、信じております。
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虹の契約

2011-06-05 19:42:45 | メッセージ
宣教 創世記9章8~17節 

本日は平和の象徴とされる美しい空の虹に関するメッセージですが。
まず創世記6章5節に「主は地上に人の悪が増し、、、、心を痛められた」とあります。
神さまは人の悪をご覧になって、ご自身の創造の御業を後悔なさったのです。そのような世代の中、9節にあるように神に従う無垢な人(悪に追従しない人の意)ノアがおりました。
神はその時代に至って、6章13節「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」とノアに言われます。そして神は正しく、神と共にあゆむノアに箱舟を作らせ、「契約を立て、あなたとその家族は箱舟に入りなさい。そしてすべての命ある、生き物のそのつがいも共に生き伸びるようにさせなさい。食べられるものをすべて集め、食糧としなさい」と命じられました。ノアが神のいわれるとおりに成した後、大洪水が起こり、すべてが洪水に流されてしまいますが、箱舟のなかのノアとその家族、すべての生き物のつがいは難を免れ、生きのびるのです。
ノアは箱舟から出ると祭壇を築き献げものをいたしますが。主はそのなだめ香をかいで御心に次のように言われます。
8章21節「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」。  

神はこのことによって人間が悔い改め、ご自身に立ち帰ることを願われますが、同時に、人間が物心ついた時から罪の性質をもつような存在であることを知っておられるのです。
悪の性質を帯びる人の心は、裁きや罰などで改まるものではないこと、神に背を向け生きる人の心根はおいそれと変わるものではないことをさとられた神さまは、世界全体に及ぶ被害の有様を見られて、心痛められたというのです。悪によって閉ざされた人の心は、洪水のような懲らしめによってどうなるものでもない、いわんや人間生来のもつ力や意志によって正しく生きてゆくことは期待できない。ではどうしようもないのか。結局人間は罪に滅びるしかないのか。そこからが本日の9章であります。

ここに及んで神さまは全く新しい創造の業をお始めになります。それは人の方がではなく神ご自身の方が変わられるとういう実に驚くべき契約がこの9章に示されていくのです。
神はノアと彼の息子たちに言われました。
「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
ここで、神はノアだけでなく、ノアの家族と後に続く子孫と契約を立てられます。さらに箱舟から出たすべての生き物、又地のすべての生き物と契約を立てられたというのです。13節に「これはわたしと大地の間に立てた契約」とありますように、その契約は私たち人間だけのものではありません。地球に住む人間とあらゆる生き物とが和合し、自然界にあって調和して生きるその中に神の幸いなる祝福があるということでありましょう。
また神が立てられた契約についてですが、一般的に契約とは契約を交わす者同士が互いに条件をつけて対等な立場で結ばれるものです。又互いが利益を侵されないために結ばれるものであります。しかし神はここで、人間の悪や付帯条件などによらず、いわば一方的な御憐れみをもって「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって滅ぼすことも決してない」と宣言なさいます。

聖書教育にも書かれていますように、ときに洪水や自然災害のまえに人の力は無力であります。天変地異、また大震災もそうですが、神さまの罰、天罰によるものだとの考えもあります。しかし、聖書の神さまはそのような形で滅ぼす事は決してしないと言われます。
それはこの契約が虹として描かれたというゆえんであります。

13節以降でこう述べられています。「すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたならびにすべての生き物、すべて肉なる者との間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。」

虹といえばロマンチックで美しく、さわやかなイメージを持ちますが。ヘブライ語で虹という言葉には弓という意味もあります。弓と言えば戦争の道具であり、権力を象徴するものであります。神はその弓を自ら手放し、空に置かれ、それを契約のしるし・象徴とされたというのであります。
神は悪によって心閉ざす者に対し、自らの権力や武力でもって訴えるようなことをなさらず、その罪深い者を赦し、愛し抜こうとされる、それが虹の契約の意味するところです。

そして今、私たちは新約の時代、すなわち新しい契約の中に生かされています。
イエス・キリストによって虹の契約は遂に完成されたかたちで具体的に成就したのです。
ヨハネ3・16には「神は、その独り子を賜ったほどに、世を愛された。御子を信じる者は一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。
「生きよ」と、命をお与えになることこそ、神の御心であるのです。

このイエス・キリストを通してうち立てられた新しい神さまの契約の御業こそ、「虹の契約」の完全なかたちでの顕れであります。
神さまが救済のしるしとして置かれたその「虹」は、新約において神の子イエス・キリストが全人類の罪を担い、贖いのみ業を成し遂げてくださった十字架による贖いと犠牲によって今や私たちに確かな救いを約束しているのです。それは虹のしるしと同じように、御神の愛と忍耐のしるしであります。しかしそれがより一層確かなものであることを、「神ご自身が痛み、血を流してくださったことによって」私たちは知ることができるのです。

イエス・キリストの十字架の犠牲によって罪赦され、贖われたその救いは、私たちが現実の世にあって、あらゆる闇の力や悪と戦っていくための愛の源となります。又そのように生きていくことは、価し得ないような者が、救いの契約の恵みを賜ったことに応えて生きることに他なりません。
私たちは人と人の間にあって生きる中で、うみつかれ、愛の足りなさを感じることもありますが。神が忍耐とご慈愛をもって地にかけられた虹、イエス・キリストの贖いと犠牲を心に留めるとき、主からの愛を戴くことができるのです。
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