宣教 使徒言行録2章1~13節
聖霊降臨・ペンテコステお祝い申しあげます。キリスト教会の暦においてもこの聖霊降臨・ペンテコステはクリスマス、イースターと並ぶ大きな祝祭であります。クリスマスは救い主イエス・キリストのご降誕を記念します。イースターは罪の贖いのために死なれた主イエスさまが復活なさったことを記念します。そしてこのペンテコステは復活された主イエスが天に昇られてから50日後(ペンテコステのペンテとは50というギリシャ語なのですが)のその日に起こった聖霊降臨を記念する日であります。
1章によればイエスさまの弟子たちや婦人たち、イエスの母や兄弟たちの他にも120人ほどの人々が一つになって集まり、心を合わせて熱心に祈り続けていたところに聖霊が降り、そこから神の偉大な業が彼らを通して語られていったということです。ですからペンテコステはまさに、「キリスト教会の誕生」を記念する日でもあります。それはこの日、ただ一度だけ起こったものでもありません。今も祈り求める者の間でご聖霊の働きや力はたえず起こり続けているのであります。
最初にその聖霊降臨の折に起こった事象の前後を読んでみたいと思いますが。
まず、1節「一同が一つになって集っていた」とあります。彼ら使徒たちは主イエス不在という寂しさと、これからどうなっていくのかという不安の中におかれながらも、かつて1章4節で主イエスが言われた「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」とのみ言葉を握りしめて、励まし合いながら心を一つにして集い、祈っていたということです。先の見えないような不安や恐れを持ちながらもなお、主への祈りをもって一つとされていく、弱く欠けたる者たちの群がそこにあった。そこに約束の聖霊が降り、教会が誕生していくのであります。
先週の5日、和歌山教会の牧師就任式に出席いたしました。祝辞の方が、私は和歌山教会の牧師就任式にこれで3度目の出席になりますというお話がありました。8年という間に3人の牧師が、召天、召天と失われ、そして前任牧師は老人ホームの園長となられて辞任されるという、これは和歌山教会の方々にとっては何とも理解し難く、耐え難い苦難の道のりがこれまであったということであります。けれども本日の個所のように、主に信頼し「一つになって集ってきた」その祈りの中に、調牧師、立花協力牧師就任の道が備えられていったということを知らされて心が熱くなりました。主は生きておられるということを、強く思い、大変励まされて帰ってきたことでした。私どもがあきらめず、失望せず集い、心を合わせて祈るなら、今もご聖霊は働き臨んでくださり、私どもは主の栄光を仰ぐものとされるのであります。
次に、2節「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」とありますが。激しい風とは神の息吹であり、それはすなわち聖霊を表しています。そして3節「炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人のうえにとどまった」。
聖霊は神が生きて働きかけるお方であります。その大きな救いの恵みがイエス・キリストによってもたらされたものであることをさとらせて下さいます。
教会・エクレシアの群は、その聖霊によって信仰の告白をなす一人ひとりから形づくられています。はじめに組織や団体があったわけではありません。まず聖霊は求め祈る一人ひとりのうえに降臨されるのであります。ですから、私たち一人ひとりが実は小さな教会、主の宮であるということができます。まあ信仰の戦いも一人ひとりのうちに起こってくるものであり、それは誰にも代わることができません。けれども幸いなことには、その信仰の戦いにおいて常に聖霊なる神さまが共におられるということであります。又、主の晩餐式において覚えられていますように、私どもはそれぞれ同じ一つの御霊に与って、キリストにあって兄弟姉妹、主の家族とされているのですから、それは祈りを合わせていくように招かれているということです。そのところに聖霊の豊かな「み業」が臨み、顕わされていきます。覚え合い、祈り合う幸い。共に主に在る希望を確認していく礼拝は、私どもに生きる力と世にはない平安をもたらしてくれます。それが教会に与えられた大きな祝福であります。もしその祝福が自分にとって、あるいは教会にとって十分でないと思う方がいらっしゃるとすれば、それこそ聖霊の働きを切に求めて祈らなければなりません。礼拝も祈って備えて出席するのと、そうでないのとでは雲泥の差があります。「必要なみ言葉をください」と祈りつつ、御前に出る時、ご聖霊は示しと気づきを与えて下さいます。
4節「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだした」とあります。
先週は丁度創世記11章のバベルの塔の記事よりみ言葉を聞きました。一つの言葉、一つの文化をもつ彼らが文明を築くにつれ、神の恵みを忘れて高慢になり、その果てに天にまで達して神のようになろうと試みたのであります。しかし神は、その人間の傲慢を打ち砕かれ、企ての言葉を混乱させられて人々を全地へと散らされたのであります。
今日の5節以降には、「エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人たちが住んでいた」とあり、又ユダヤ教の五旬節の祭りのためにエルサレムを巡礼する本当に様々の国々から来たユダヤ人たちもいたことが分かります。それはいわゆる「散らされた人々」のことを指しています。その多くは捕囚の民として散らされていった人々であったわけですが。けれどもこの聖霊降臨の折、聖霊に満たされた人々から各々の国の言葉で、「神の偉大な業」についての証しを聞かされることになるのであります。それはまさに御神のもとにあって一つとされる時であったのです。
その神の偉大な業について聞いたユダヤ人たちについて次のように述べています。
6節「だれもかれも自分の故郷の言葉を話されているのを聞いて、あっけにとられた」。8節「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」。11節「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と、彼らは驚き戸惑ったというのであります。そこで聖霊に満たされたペトロが救いの真理を語り、人々に回心のみ業もたらされるのでありますが。ご聖霊の働きは、キリストによって主の救いに与る人々をつないでゆく、結び合わせてゆくことにおいて最大限に現わされるのです。その時み神の栄光が崇められるのです。
その働きをご聖霊は、まず言葉をもってなし遂げてゆかれます。「炎のような舌が一人ひとりの上にとどまった」とありますが。私ども一人ひとりも又、御聖霊によって主のみ救いに与る人、又関わるすべての人に救いを告げ、恵みへとつないでゆく者として召されているのであります。
「神との交わりの真の回復」、また「人と人との交わりの真の回復」は語られることによって、又聞くことによって始まります。ローマ10:17「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とあるとおりです。しかしそんなことを申しますと、いや私は牧師ではないから聞く方であっても、話す方ではないとおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。福音を伝えることは難しい、なかなかうまくできるものではない、とお思いになるかも知れません。その点について使徒パウロは非常によいヒントを私ども与えてくれています。
Ⅰコリント9:20ですが。「ユわたしはダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。・・・・弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです」。それは何もパウロさんがカメレオンのようにころころと変わったわけではありません。目の前にいる人に対して理解できる言葉でもって神の救いを話したり、表していったということです。聖霊に満たされた人は、主に在る愛を持って配慮を学び、身につけます。そして、そのような人の愛の働きには豊かさと自由があります。
聖霊降臨において、主は名も知れぬガリラヤ出身のユダヤ人たちを通して、相手に通じる言葉、なじみのある言葉でもって神の偉大な業をあかしされたということであります。
相手と心通じ合えるように、理解し合うことができるように導かれるのが聖霊のお働きであります。聖霊は異なるもの同士、違いをもつもの同士を主のもとにある一致へと導きます。私どものなすべきは、その招きに素直に応えること。少しの勇気と、何よりも主の犠牲の愛を忘れず、その恵みに応えてゆく喜びをもつことです。
伝道とは自分の一方的な思いを相手に押し付け相手の変化や回心を求めるものではなく、「まず自分が相手を理解する者となるように変えられる」ことから始まります。聖霊は私どもに気づきを与えてくださいます。聖霊は私どもの現実の世にあって混乱した言葉を結び直し、いのちの交わりを回復する原動力として私たちのうちにお働きになられます。
この聖霊が降った人々を通して、他者に分かる言葉でもって「神の偉大な業」が証しされたことの意義。それは違いを持つものが互いに心を通じ合うことのできる「新しい言葉」を天より授かった瞬間でした。聖霊降臨によって主のご愛が人と人の間に働き、共に主をたたえる和解のみ業へと導くのです。そしてそれは今もなお変わることなく、私どもの間に、又それぞれが遣わされるそのところに私ども一人ひとりを通して働こうとされる力なのであります。
聖霊は、私どもが理解することの困難な中においてもなお、先立たれ、豊かに働いておられます。ローマ8:26「言葉で言い尽くせない呻きをもって、聖霊ご自身がそのような者たちのために執り成してくださる」。
教会が世にあって幸いなのは、この聖霊ご自身の執り成しのもと、祈り合うことのできる場があるということです。それぞれに個性も立場も異なる者同士が、心を一つにして互いに祈り合うことができるというのは、この上ない恵みであり、平安ではないでしょうか。
聖霊降臨・ペンテコステの贈りものに心からの感謝と賛美をささげ、み神の偉大な業を見、仰いでまいりましょう。
聖霊降臨・ペンテコステお祝い申しあげます。キリスト教会の暦においてもこの聖霊降臨・ペンテコステはクリスマス、イースターと並ぶ大きな祝祭であります。クリスマスは救い主イエス・キリストのご降誕を記念します。イースターは罪の贖いのために死なれた主イエスさまが復活なさったことを記念します。そしてこのペンテコステは復活された主イエスが天に昇られてから50日後(ペンテコステのペンテとは50というギリシャ語なのですが)のその日に起こった聖霊降臨を記念する日であります。
1章によればイエスさまの弟子たちや婦人たち、イエスの母や兄弟たちの他にも120人ほどの人々が一つになって集まり、心を合わせて熱心に祈り続けていたところに聖霊が降り、そこから神の偉大な業が彼らを通して語られていったということです。ですからペンテコステはまさに、「キリスト教会の誕生」を記念する日でもあります。それはこの日、ただ一度だけ起こったものでもありません。今も祈り求める者の間でご聖霊の働きや力はたえず起こり続けているのであります。
最初にその聖霊降臨の折に起こった事象の前後を読んでみたいと思いますが。
まず、1節「一同が一つになって集っていた」とあります。彼ら使徒たちは主イエス不在という寂しさと、これからどうなっていくのかという不安の中におかれながらも、かつて1章4節で主イエスが言われた「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」とのみ言葉を握りしめて、励まし合いながら心を一つにして集い、祈っていたということです。先の見えないような不安や恐れを持ちながらもなお、主への祈りをもって一つとされていく、弱く欠けたる者たちの群がそこにあった。そこに約束の聖霊が降り、教会が誕生していくのであります。
先週の5日、和歌山教会の牧師就任式に出席いたしました。祝辞の方が、私は和歌山教会の牧師就任式にこれで3度目の出席になりますというお話がありました。8年という間に3人の牧師が、召天、召天と失われ、そして前任牧師は老人ホームの園長となられて辞任されるという、これは和歌山教会の方々にとっては何とも理解し難く、耐え難い苦難の道のりがこれまであったということであります。けれども本日の個所のように、主に信頼し「一つになって集ってきた」その祈りの中に、調牧師、立花協力牧師就任の道が備えられていったということを知らされて心が熱くなりました。主は生きておられるということを、強く思い、大変励まされて帰ってきたことでした。私どもがあきらめず、失望せず集い、心を合わせて祈るなら、今もご聖霊は働き臨んでくださり、私どもは主の栄光を仰ぐものとされるのであります。
次に、2節「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」とありますが。激しい風とは神の息吹であり、それはすなわち聖霊を表しています。そして3節「炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人のうえにとどまった」。
聖霊は神が生きて働きかけるお方であります。その大きな救いの恵みがイエス・キリストによってもたらされたものであることをさとらせて下さいます。
教会・エクレシアの群は、その聖霊によって信仰の告白をなす一人ひとりから形づくられています。はじめに組織や団体があったわけではありません。まず聖霊は求め祈る一人ひとりのうえに降臨されるのであります。ですから、私たち一人ひとりが実は小さな教会、主の宮であるということができます。まあ信仰の戦いも一人ひとりのうちに起こってくるものであり、それは誰にも代わることができません。けれども幸いなことには、その信仰の戦いにおいて常に聖霊なる神さまが共におられるということであります。又、主の晩餐式において覚えられていますように、私どもはそれぞれ同じ一つの御霊に与って、キリストにあって兄弟姉妹、主の家族とされているのですから、それは祈りを合わせていくように招かれているということです。そのところに聖霊の豊かな「み業」が臨み、顕わされていきます。覚え合い、祈り合う幸い。共に主に在る希望を確認していく礼拝は、私どもに生きる力と世にはない平安をもたらしてくれます。それが教会に与えられた大きな祝福であります。もしその祝福が自分にとって、あるいは教会にとって十分でないと思う方がいらっしゃるとすれば、それこそ聖霊の働きを切に求めて祈らなければなりません。礼拝も祈って備えて出席するのと、そうでないのとでは雲泥の差があります。「必要なみ言葉をください」と祈りつつ、御前に出る時、ご聖霊は示しと気づきを与えて下さいます。
4節「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだした」とあります。
先週は丁度創世記11章のバベルの塔の記事よりみ言葉を聞きました。一つの言葉、一つの文化をもつ彼らが文明を築くにつれ、神の恵みを忘れて高慢になり、その果てに天にまで達して神のようになろうと試みたのであります。しかし神は、その人間の傲慢を打ち砕かれ、企ての言葉を混乱させられて人々を全地へと散らされたのであります。
今日の5節以降には、「エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人たちが住んでいた」とあり、又ユダヤ教の五旬節の祭りのためにエルサレムを巡礼する本当に様々の国々から来たユダヤ人たちもいたことが分かります。それはいわゆる「散らされた人々」のことを指しています。その多くは捕囚の民として散らされていった人々であったわけですが。けれどもこの聖霊降臨の折、聖霊に満たされた人々から各々の国の言葉で、「神の偉大な業」についての証しを聞かされることになるのであります。それはまさに御神のもとにあって一つとされる時であったのです。
その神の偉大な業について聞いたユダヤ人たちについて次のように述べています。
6節「だれもかれも自分の故郷の言葉を話されているのを聞いて、あっけにとられた」。8節「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」。11節「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と、彼らは驚き戸惑ったというのであります。そこで聖霊に満たされたペトロが救いの真理を語り、人々に回心のみ業もたらされるのでありますが。ご聖霊の働きは、キリストによって主の救いに与る人々をつないでゆく、結び合わせてゆくことにおいて最大限に現わされるのです。その時み神の栄光が崇められるのです。
その働きをご聖霊は、まず言葉をもってなし遂げてゆかれます。「炎のような舌が一人ひとりの上にとどまった」とありますが。私ども一人ひとりも又、御聖霊によって主のみ救いに与る人、又関わるすべての人に救いを告げ、恵みへとつないでゆく者として召されているのであります。
「神との交わりの真の回復」、また「人と人との交わりの真の回復」は語られることによって、又聞くことによって始まります。ローマ10:17「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とあるとおりです。しかしそんなことを申しますと、いや私は牧師ではないから聞く方であっても、話す方ではないとおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。福音を伝えることは難しい、なかなかうまくできるものではない、とお思いになるかも知れません。その点について使徒パウロは非常によいヒントを私ども与えてくれています。
Ⅰコリント9:20ですが。「ユわたしはダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。・・・・弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです」。それは何もパウロさんがカメレオンのようにころころと変わったわけではありません。目の前にいる人に対して理解できる言葉でもって神の救いを話したり、表していったということです。聖霊に満たされた人は、主に在る愛を持って配慮を学び、身につけます。そして、そのような人の愛の働きには豊かさと自由があります。
聖霊降臨において、主は名も知れぬガリラヤ出身のユダヤ人たちを通して、相手に通じる言葉、なじみのある言葉でもって神の偉大な業をあかしされたということであります。
相手と心通じ合えるように、理解し合うことができるように導かれるのが聖霊のお働きであります。聖霊は異なるもの同士、違いをもつもの同士を主のもとにある一致へと導きます。私どものなすべきは、その招きに素直に応えること。少しの勇気と、何よりも主の犠牲の愛を忘れず、その恵みに応えてゆく喜びをもつことです。
伝道とは自分の一方的な思いを相手に押し付け相手の変化や回心を求めるものではなく、「まず自分が相手を理解する者となるように変えられる」ことから始まります。聖霊は私どもに気づきを与えてくださいます。聖霊は私どもの現実の世にあって混乱した言葉を結び直し、いのちの交わりを回復する原動力として私たちのうちにお働きになられます。
この聖霊が降った人々を通して、他者に分かる言葉でもって「神の偉大な業」が証しされたことの意義。それは違いを持つものが互いに心を通じ合うことのできる「新しい言葉」を天より授かった瞬間でした。聖霊降臨によって主のご愛が人と人の間に働き、共に主をたたえる和解のみ業へと導くのです。そしてそれは今もなお変わることなく、私どもの間に、又それぞれが遣わされるそのところに私ども一人ひとりを通して働こうとされる力なのであります。
聖霊は、私どもが理解することの困難な中においてもなお、先立たれ、豊かに働いておられます。ローマ8:26「言葉で言い尽くせない呻きをもって、聖霊ご自身がそのような者たちのために執り成してくださる」。
教会が世にあって幸いなのは、この聖霊ご自身の執り成しのもと、祈り合うことのできる場があるということです。それぞれに個性も立場も異なる者同士が、心を一つにして互いに祈り合うことができるというのは、この上ない恵みであり、平安ではないでしょうか。
聖霊降臨・ペンテコステの贈りものに心からの感謝と賛美をささげ、み神の偉大な業を見、仰いでまいりましょう。