宣教 使徒言行録10章1~33節
本日は使徒言行録10章より「聖霊の解放と福音の拡がり」と題し、御言葉を聞いていきます。聖書教育では9節~23節前半迄となっていますが、10章の全体の流れをつかむためには少し長いですが1節から33節までとさせて戴きました。
この10章は、神のご計画がイタリア隊の百人隊長コルネリウスと使徒ペトロに幻として臨み、聖霊がユダヤ人のみならず、コルネリウス一家をはじめとする異邦人にもお降りになり、主の御救いである福音が異邦人にも拡がっていく、という出来事がここから起こされる大変重要な記事であります。
① コルネリウスが見た幻
コルネリウスはガリラヤ湖の海岸のカイサリアに駐留するイタリア隊の百人隊長(職業軍人)として家族や隊員たちと共に住んでおりました。そこには多くの異邦人も住んでいたようです。彼は、2節「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と記されていますが。彼は異邦人でありましたけれども、一家そろって神を畏れ敬い、民に多くの施しをなし、絶えず神に祈りを捧げていたのであります。
ところが、3節「ある日の午後3時頃、コルネリウスは、神の天使が入って来て『コルネリウス』と呼びかけるのを、幻ではっきり見た」のです。この午後3時はユダヤ人たちが会堂で祈りを捧げる時間です。彼はユダヤ人たちと心を合わせながら、自分の家で家族と共に祈りを捧げていたのでしょう。
4節「彼は天使を見つめていたが、怖くなって、『主よ、何でしょう』と言うと、天使が『あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある』」と、言ったというのです。
ここで天使は、コルネリウスがペトロから福音を聞く事になるなどとは具体的に何も話していません。ただ「ヤッファへ人を送って、シモン・ペトロを招きなさい」と命じられるのです。コルネリウスは7節、「二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士を呼び、すべてのことを話してヤッファに送った」とあります。それがなぜなのかは分かりませんでしたが、コルネリウスはただちに御言葉に従ったのであります。
② ペトロが見た幻
さて、本日もう一人の登場人物であるシモン・ペトロもまた、ヤッファの革なめしシモンの家の屋上で幻を見ます。先のコルネリウスのカイサリア地方には異邦人が多く住んでいましたが、ヤッファ地方にはユダヤ人が多く住んでいました。この革なめし職人のシモンもユダヤ人でありました。前の9章終わりの部分に、タビタという婦人の弟子を生き返らせたペトロの記事がありますが、シモンはそのペトロを大切な客として家に迎え入れ、歓待していたのであります。
9節「ペトロは祈るために屋上に上がった。昼の12時頃である。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた」。
ユダヤ人は午前9時、正午、午後3時の決まった時間に祈りを捧げました。ペトロが屋上で祈ったとありますが、ユダヤの家と言うのは屋上部分があり、旧約の時代より人の往来の少ない屋上で祈りがもたれていたということです。又、ユダヤ人は通常、朝食を取らず朝の祈りをなしていたようですから、お昼時ともなりますと、このペトロも例外なく大変お腹を空かせていたに違いありません。
さて、ペトロは我を忘れたような状態になったとき、天が開き、天から大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りてくるのを見ました。その中には何とあらゆる種類の動物が入っていました。それはユダヤ人にとって清い動物、つまり食してもよいものもいれば、清くない動物、食用とすることを禁じられたものも入っていたのです。
それにも拘わらず、天の声は「ペトロよ、身を起こし、ほふって食べなさい」と言うのです。それに対しペトロは、まあいくら空腹だとはいえ「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と答えます。それはペトロがレビ記11章等に記されているユダヤの「清い物と汚れた物に関する規定」に敬虔に従ってきたからであります。
ところが、また天からの声が聞こえて来ます。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」。こういうやりとりが三度も繰り返されてから、その入れ物は急に天に引き上げられた、というのですね。三度もというのは、それが確かに神さまがそのようにおっしゃっている、ということであります。
「神が清めたものを、清くないなどと、言ってはならない」。
自らを汚れから守ること、神の律法規定を厳守することは、ペトロが神の民として生きることの証しでありました。だから「汚れている」とされるものに対して、「神が清めたものを、清くないなどと、言ってはならない」との御声にペトロは大変困惑してしまったのであります。
③ 聖霊の解放
そして17節、「ペトロが、今見た幻はいったい何だろうか、ひとりで思案に暮れていると、(その時)、コルネリウスから差し向けられた人々が、声をかけて、『ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊っておられますか』と尋ねて来ます。
ペトロは自分が見た幻のことで、これはいったいどういうことかと深く悩み、思案に暮れていました。「その時」です。(原語では「その時」となっているのですが、新共同訳に訳されていないのが残念です)。まさにその時、コルネリウスが遣わした使者がペトロのもとに到着したというのですね。ジャストタイミングといいますか、これが神さまのくすしき御業でありますが。先週もありましたように、祈りのうちに起こされる出会いというのは、すべて神のご計画のうちにあり、私たちは後になってから、その導きのすばらしさを知らされるものなのであります。
さて、コルネリウスもこの彼の使者たちも、ペトロからすれば異邦人でした。彼らはユダヤ人のシモンの家の中に入らず、戸口からペトロが泊っているかどうかを確認します。ペトロをはじめ、多くのユダヤ人たちは自分たち以外の異邦人に対して、清くない、汚れたものだとして交わろうとはしなかったのであります。異邦人と交わりを持つことで自分たちが汚れると、そう信じていたのです。それで彼ら異邦人は、そのユダヤの慣習に配慮し戸口からペトロに呼びかけたのです。
19節「ペトロがなおも幻について考え込んでいると、霊がこう言った。「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」。
ペトロはこれまで自分の信じ守ってきた考えが否定されてしまうことへの不安に襲われながら、幻で告げられたことについてなおも考え込んでいました。すると、そこに霊が臨みます。この霊は単なる霊ではなく、神格をもつ聖霊ご自身としてペトロに臨まれます。
20節、聖霊は「ためらわないで一緒に出発しなさい」と語りますが。この「ためらわない」の原語;ディアクリノメノスは、第一義的には「分け隔てる」「差別する」という意味ですから、ここは「ためらわない」でというよりも「分け隔てせず」と訳す方が相応しといえます。聖霊はペトロに、「分け隔てせず異邦人たちと一緒にコリネリウスのところへ行くがよい」と命じているのですね。
ペトロは、聖霊の言われるとおりに下に降り、コルネリウスの使者たちから、自分のもとに来た経緯を聞きます。こうしてペトロは彼らをユダヤ人シモンの家に大切な客として迎え入れ、泊らせたというのであります。ここに聖霊の解放がすでに起こされていることが証しされています。ペトロの胸中にはあの幻に示された天の御声が繰り返し響いていたに違いありません。ユダヤ人と異邦人という隔ての壁が、取り除かれていく聖霊による解放の御業であります。聖霊によって律法の囚われから自由に解き放たれていく出来事が起こっていくのです。翌日、ペトロは聖霊の語られる通り、そこをたち彼らと共に出かけます。
24節以降は、彼らがカイサリアのコルネリウスのもとに到着してからの出来事が記されています。
彼ら一行がカイサリアに到着すると、「コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ」というのです。如何に特別な客人としてペトロがここで迎え入れられたかということです。
ローマの百人隊長という地位のある立場の人が、一ユダヤ人であるペトロの足もとにひれ伏して拝んだ、というのですから当時としてこれは驚くべきことです。しかし、コルネリウスにとってみれば神の使者として、ペトロに最大級の敬意を表したのでありましょう。ペトロは彼を起こして「お立ちください。わたしもただの人間です」と言います。さらに、コルネリウスの家の中に集まっていた多くの人々に対してペトロは次のように語ります。
28節「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」。
聖霊が「分け隔てず一緒に行きなさい」とお命じになった。その主のご計画をペトロはひしひしと感じていたことでしょう。
④ 幻の意味;福音の拡がり
ペトロは「なぜ自分を招いてくださったのか」と、コリネリウスに尋ねます。異邦人のコルネリウスにも幻が示されたことを知り、ペトロはさぞかし驚いたことでしょう。
それは、ユダヤ人以外のコルネリウスをはじめ、すべての異邦の人々にも、福音が開かれた。神がそのようにご計画を遂行しておられる、ということであります。
コルネリウスもペトロも、幻の意味を初めから理解していたわけではありません。しかし彼らは主のご計画を受けとり、自らの常識、観念に囚われることなく、御声に従いました。この両者が出会わされていく時、その幻の意味:福音の豊かな拡がりに、コルネリウスもペトロも共々に与る者とされていくのであります。
ペトロは34節で、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」という言葉を述べてから、カイサリアの人々に主イエスを信じる者はだれでも主の御名によって罪の赦しを受けることができるとの、御救いの福音を余すことなく語るのであります。そうして、ペトロが話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降ったというのです。異邦人、それまで神の救いと、その恵みから遠く隔てられているとされてきた人々のうえにも聖霊が降るという出来事がここに起こったというのですね。まさに福音の豊かな拡がりが、この出来事から始められていったというのであります。
本日の箇所から知らされますのは、主イエスの福音、御救いはすべての人に開かれているということです。どこか、それを神でなく人の側(自分)の勝手な思い込みによって垣根を作ることで、主の福音を分かち合う機会を逸してしまうなら、それはとても残念なことです。
私たちは関わる前からあきらめてしまっていたり、だめだと決めつけていることが、しばしまあるのではないでしょうか。だからこそ、そこに神と人、人と人の間に働きかけてくださる聖霊の仲立ち・執り成しが必要なのです。
主イエスの名によって、聖霊のお働きを常に求め、行動する人は心開かれています。そうしてあらゆる関わりの中で、聖霊の仲立ちを戴き、キリストの福音を分かち合うように導かれます。肩肘をはる必要はありません。福音の喜びを胸に、垣根を取り払い、自然体で接する中に、主は働いてくださっています。様々な日々の出会いの中にあって、私たちもまた霊の目を開かれ、すべての人に与えられた「聖霊の解放と福音の拡がり」を分かち合う者とされてまいりましょう。
本日は使徒言行録10章より「聖霊の解放と福音の拡がり」と題し、御言葉を聞いていきます。聖書教育では9節~23節前半迄となっていますが、10章の全体の流れをつかむためには少し長いですが1節から33節までとさせて戴きました。
この10章は、神のご計画がイタリア隊の百人隊長コルネリウスと使徒ペトロに幻として臨み、聖霊がユダヤ人のみならず、コルネリウス一家をはじめとする異邦人にもお降りになり、主の御救いである福音が異邦人にも拡がっていく、という出来事がここから起こされる大変重要な記事であります。
① コルネリウスが見た幻
コルネリウスはガリラヤ湖の海岸のカイサリアに駐留するイタリア隊の百人隊長(職業軍人)として家族や隊員たちと共に住んでおりました。そこには多くの異邦人も住んでいたようです。彼は、2節「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と記されていますが。彼は異邦人でありましたけれども、一家そろって神を畏れ敬い、民に多くの施しをなし、絶えず神に祈りを捧げていたのであります。
ところが、3節「ある日の午後3時頃、コルネリウスは、神の天使が入って来て『コルネリウス』と呼びかけるのを、幻ではっきり見た」のです。この午後3時はユダヤ人たちが会堂で祈りを捧げる時間です。彼はユダヤ人たちと心を合わせながら、自分の家で家族と共に祈りを捧げていたのでしょう。
4節「彼は天使を見つめていたが、怖くなって、『主よ、何でしょう』と言うと、天使が『あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある』」と、言ったというのです。
ここで天使は、コルネリウスがペトロから福音を聞く事になるなどとは具体的に何も話していません。ただ「ヤッファへ人を送って、シモン・ペトロを招きなさい」と命じられるのです。コルネリウスは7節、「二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士を呼び、すべてのことを話してヤッファに送った」とあります。それがなぜなのかは分かりませんでしたが、コルネリウスはただちに御言葉に従ったのであります。
② ペトロが見た幻
さて、本日もう一人の登場人物であるシモン・ペトロもまた、ヤッファの革なめしシモンの家の屋上で幻を見ます。先のコルネリウスのカイサリア地方には異邦人が多く住んでいましたが、ヤッファ地方にはユダヤ人が多く住んでいました。この革なめし職人のシモンもユダヤ人でありました。前の9章終わりの部分に、タビタという婦人の弟子を生き返らせたペトロの記事がありますが、シモンはそのペトロを大切な客として家に迎え入れ、歓待していたのであります。
9節「ペトロは祈るために屋上に上がった。昼の12時頃である。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた」。
ユダヤ人は午前9時、正午、午後3時の決まった時間に祈りを捧げました。ペトロが屋上で祈ったとありますが、ユダヤの家と言うのは屋上部分があり、旧約の時代より人の往来の少ない屋上で祈りがもたれていたということです。又、ユダヤ人は通常、朝食を取らず朝の祈りをなしていたようですから、お昼時ともなりますと、このペトロも例外なく大変お腹を空かせていたに違いありません。
さて、ペトロは我を忘れたような状態になったとき、天が開き、天から大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りてくるのを見ました。その中には何とあらゆる種類の動物が入っていました。それはユダヤ人にとって清い動物、つまり食してもよいものもいれば、清くない動物、食用とすることを禁じられたものも入っていたのです。
それにも拘わらず、天の声は「ペトロよ、身を起こし、ほふって食べなさい」と言うのです。それに対しペトロは、まあいくら空腹だとはいえ「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と答えます。それはペトロがレビ記11章等に記されているユダヤの「清い物と汚れた物に関する規定」に敬虔に従ってきたからであります。
ところが、また天からの声が聞こえて来ます。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」。こういうやりとりが三度も繰り返されてから、その入れ物は急に天に引き上げられた、というのですね。三度もというのは、それが確かに神さまがそのようにおっしゃっている、ということであります。
「神が清めたものを、清くないなどと、言ってはならない」。
自らを汚れから守ること、神の律法規定を厳守することは、ペトロが神の民として生きることの証しでありました。だから「汚れている」とされるものに対して、「神が清めたものを、清くないなどと、言ってはならない」との御声にペトロは大変困惑してしまったのであります。
③ 聖霊の解放
そして17節、「ペトロが、今見た幻はいったい何だろうか、ひとりで思案に暮れていると、(その時)、コルネリウスから差し向けられた人々が、声をかけて、『ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊っておられますか』と尋ねて来ます。
ペトロは自分が見た幻のことで、これはいったいどういうことかと深く悩み、思案に暮れていました。「その時」です。(原語では「その時」となっているのですが、新共同訳に訳されていないのが残念です)。まさにその時、コルネリウスが遣わした使者がペトロのもとに到着したというのですね。ジャストタイミングといいますか、これが神さまのくすしき御業でありますが。先週もありましたように、祈りのうちに起こされる出会いというのは、すべて神のご計画のうちにあり、私たちは後になってから、その導きのすばらしさを知らされるものなのであります。
さて、コルネリウスもこの彼の使者たちも、ペトロからすれば異邦人でした。彼らはユダヤ人のシモンの家の中に入らず、戸口からペトロが泊っているかどうかを確認します。ペトロをはじめ、多くのユダヤ人たちは自分たち以外の異邦人に対して、清くない、汚れたものだとして交わろうとはしなかったのであります。異邦人と交わりを持つことで自分たちが汚れると、そう信じていたのです。それで彼ら異邦人は、そのユダヤの慣習に配慮し戸口からペトロに呼びかけたのです。
19節「ペトロがなおも幻について考え込んでいると、霊がこう言った。「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」。
ペトロはこれまで自分の信じ守ってきた考えが否定されてしまうことへの不安に襲われながら、幻で告げられたことについてなおも考え込んでいました。すると、そこに霊が臨みます。この霊は単なる霊ではなく、神格をもつ聖霊ご自身としてペトロに臨まれます。
20節、聖霊は「ためらわないで一緒に出発しなさい」と語りますが。この「ためらわない」の原語;ディアクリノメノスは、第一義的には「分け隔てる」「差別する」という意味ですから、ここは「ためらわない」でというよりも「分け隔てせず」と訳す方が相応しといえます。聖霊はペトロに、「分け隔てせず異邦人たちと一緒にコリネリウスのところへ行くがよい」と命じているのですね。
ペトロは、聖霊の言われるとおりに下に降り、コルネリウスの使者たちから、自分のもとに来た経緯を聞きます。こうしてペトロは彼らをユダヤ人シモンの家に大切な客として迎え入れ、泊らせたというのであります。ここに聖霊の解放がすでに起こされていることが証しされています。ペトロの胸中にはあの幻に示された天の御声が繰り返し響いていたに違いありません。ユダヤ人と異邦人という隔ての壁が、取り除かれていく聖霊による解放の御業であります。聖霊によって律法の囚われから自由に解き放たれていく出来事が起こっていくのです。翌日、ペトロは聖霊の語られる通り、そこをたち彼らと共に出かけます。
24節以降は、彼らがカイサリアのコルネリウスのもとに到着してからの出来事が記されています。
彼ら一行がカイサリアに到着すると、「コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ」というのです。如何に特別な客人としてペトロがここで迎え入れられたかということです。
ローマの百人隊長という地位のある立場の人が、一ユダヤ人であるペトロの足もとにひれ伏して拝んだ、というのですから当時としてこれは驚くべきことです。しかし、コルネリウスにとってみれば神の使者として、ペトロに最大級の敬意を表したのでありましょう。ペトロは彼を起こして「お立ちください。わたしもただの人間です」と言います。さらに、コルネリウスの家の中に集まっていた多くの人々に対してペトロは次のように語ります。
28節「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」。
聖霊が「分け隔てず一緒に行きなさい」とお命じになった。その主のご計画をペトロはひしひしと感じていたことでしょう。
④ 幻の意味;福音の拡がり
ペトロは「なぜ自分を招いてくださったのか」と、コリネリウスに尋ねます。異邦人のコルネリウスにも幻が示されたことを知り、ペトロはさぞかし驚いたことでしょう。
それは、ユダヤ人以外のコルネリウスをはじめ、すべての異邦の人々にも、福音が開かれた。神がそのようにご計画を遂行しておられる、ということであります。
コルネリウスもペトロも、幻の意味を初めから理解していたわけではありません。しかし彼らは主のご計画を受けとり、自らの常識、観念に囚われることなく、御声に従いました。この両者が出会わされていく時、その幻の意味:福音の豊かな拡がりに、コルネリウスもペトロも共々に与る者とされていくのであります。
ペトロは34節で、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」という言葉を述べてから、カイサリアの人々に主イエスを信じる者はだれでも主の御名によって罪の赦しを受けることができるとの、御救いの福音を余すことなく語るのであります。そうして、ペトロが話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降ったというのです。異邦人、それまで神の救いと、その恵みから遠く隔てられているとされてきた人々のうえにも聖霊が降るという出来事がここに起こったというのですね。まさに福音の豊かな拡がりが、この出来事から始められていったというのであります。
本日の箇所から知らされますのは、主イエスの福音、御救いはすべての人に開かれているということです。どこか、それを神でなく人の側(自分)の勝手な思い込みによって垣根を作ることで、主の福音を分かち合う機会を逸してしまうなら、それはとても残念なことです。
私たちは関わる前からあきらめてしまっていたり、だめだと決めつけていることが、しばしまあるのではないでしょうか。だからこそ、そこに神と人、人と人の間に働きかけてくださる聖霊の仲立ち・執り成しが必要なのです。
主イエスの名によって、聖霊のお働きを常に求め、行動する人は心開かれています。そうしてあらゆる関わりの中で、聖霊の仲立ちを戴き、キリストの福音を分かち合うように導かれます。肩肘をはる必要はありません。福音の喜びを胸に、垣根を取り払い、自然体で接する中に、主は働いてくださっています。様々な日々の出会いの中にあって、私たちもまた霊の目を開かれ、すべての人に与えられた「聖霊の解放と福音の拡がり」を分かち合う者とされてまいりましょう。