日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

聖霊の解放と福音の拡がり

2012-03-25 11:38:10 | メッセージ
宣教 使徒言行録10章1~33節 

本日は使徒言行録10章より「聖霊の解放と福音の拡がり」と題し、御言葉を聞いていきます。聖書教育では9節~23節前半迄となっていますが、10章の全体の流れをつかむためには少し長いですが1節から33節までとさせて戴きました。
この10章は、神のご計画がイタリア隊の百人隊長コルネリウスと使徒ペトロに幻として臨み、聖霊がユダヤ人のみならず、コルネリウス一家をはじめとする異邦人にもお降りになり、主の御救いである福音が異邦人にも拡がっていく、という出来事がここから起こされる大変重要な記事であります。

① コルネリウスが見た幻
コルネリウスはガリラヤ湖の海岸のカイサリアに駐留するイタリア隊の百人隊長(職業軍人)として家族や隊員たちと共に住んでおりました。そこには多くの異邦人も住んでいたようです。彼は、2節「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と記されていますが。彼は異邦人でありましたけれども、一家そろって神を畏れ敬い、民に多くの施しをなし、絶えず神に祈りを捧げていたのであります。
ところが、3節「ある日の午後3時頃、コルネリウスは、神の天使が入って来て『コルネリウス』と呼びかけるのを、幻ではっきり見た」のです。この午後3時はユダヤ人たちが会堂で祈りを捧げる時間です。彼はユダヤ人たちと心を合わせながら、自分の家で家族と共に祈りを捧げていたのでしょう。
4節「彼は天使を見つめていたが、怖くなって、『主よ、何でしょう』と言うと、天使が『あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある』」と、言ったというのです。

ここで天使は、コルネリウスがペトロから福音を聞く事になるなどとは具体的に何も話していません。ただ「ヤッファへ人を送って、シモン・ペトロを招きなさい」と命じられるのです。コルネリウスは7節、「二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士を呼び、すべてのことを話してヤッファに送った」とあります。それがなぜなのかは分かりませんでしたが、コルネリウスはただちに御言葉に従ったのであります。

② ペトロが見た幻
さて、本日もう一人の登場人物であるシモン・ペトロもまた、ヤッファの革なめしシモンの家の屋上で幻を見ます。先のコルネリウスのカイサリア地方には異邦人が多く住んでいましたが、ヤッファ地方にはユダヤ人が多く住んでいました。この革なめし職人のシモンもユダヤ人でありました。前の9章終わりの部分に、タビタという婦人の弟子を生き返らせたペトロの記事がありますが、シモンはそのペトロを大切な客として家に迎え入れ、歓待していたのであります。

9節「ペトロは祈るために屋上に上がった。昼の12時頃である。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた」。

ユダヤ人は午前9時、正午、午後3時の決まった時間に祈りを捧げました。ペトロが屋上で祈ったとありますが、ユダヤの家と言うのは屋上部分があり、旧約の時代より人の往来の少ない屋上で祈りがもたれていたということです。又、ユダヤ人は通常、朝食を取らず朝の祈りをなしていたようですから、お昼時ともなりますと、このペトロも例外なく大変お腹を空かせていたに違いありません。

さて、ペトロは我を忘れたような状態になったとき、天が開き、天から大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りてくるのを見ました。その中には何とあらゆる種類の動物が入っていました。それはユダヤ人にとって清い動物、つまり食してもよいものもいれば、清くない動物、食用とすることを禁じられたものも入っていたのです。
それにも拘わらず、天の声は「ペトロよ、身を起こし、ほふって食べなさい」と言うのです。それに対しペトロは、まあいくら空腹だとはいえ「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と答えます。それはペトロがレビ記11章等に記されているユダヤの「清い物と汚れた物に関する規定」に敬虔に従ってきたからであります。
ところが、また天からの声が聞こえて来ます。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」。こういうやりとりが三度も繰り返されてから、その入れ物は急に天に引き上げられた、というのですね。三度もというのは、それが確かに神さまがそのようにおっしゃっている、ということであります。

「神が清めたものを、清くないなどと、言ってはならない」。
自らを汚れから守ること、神の律法規定を厳守することは、ペトロが神の民として生きることの証しでありました。だから「汚れている」とされるものに対して、「神が清めたものを、清くないなどと、言ってはならない」との御声にペトロは大変困惑してしまったのであります。

③ 聖霊の解放
そして17節、「ペトロが、今見た幻はいったい何だろうか、ひとりで思案に暮れていると、(その時)、コルネリウスから差し向けられた人々が、声をかけて、『ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊っておられますか』と尋ねて来ます。

ペトロは自分が見た幻のことで、これはいったいどういうことかと深く悩み、思案に暮れていました。「その時」です。(原語では「その時」となっているのですが、新共同訳に訳されていないのが残念です)。まさにその時、コルネリウスが遣わした使者がペトロのもとに到着したというのですね。ジャストタイミングといいますか、これが神さまのくすしき御業でありますが。先週もありましたように、祈りのうちに起こされる出会いというのは、すべて神のご計画のうちにあり、私たちは後になってから、その導きのすばらしさを知らされるものなのであります。
さて、コルネリウスもこの彼の使者たちも、ペトロからすれば異邦人でした。彼らはユダヤ人のシモンの家の中に入らず、戸口からペトロが泊っているかどうかを確認します。ペトロをはじめ、多くのユダヤ人たちは自分たち以外の異邦人に対して、清くない、汚れたものだとして交わろうとはしなかったのであります。異邦人と交わりを持つことで自分たちが汚れると、そう信じていたのです。それで彼ら異邦人は、そのユダヤの慣習に配慮し戸口からペトロに呼びかけたのです。

19節「ペトロがなおも幻について考え込んでいると、霊がこう言った。「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」。
ペトロはこれまで自分の信じ守ってきた考えが否定されてしまうことへの不安に襲われながら、幻で告げられたことについてなおも考え込んでいました。すると、そこに霊が臨みます。この霊は単なる霊ではなく、神格をもつ聖霊ご自身としてペトロに臨まれます。
20節、聖霊は「ためらわないで一緒に出発しなさい」と語りますが。この「ためらわない」の原語;ディアクリノメノスは、第一義的には「分け隔てる」「差別する」という意味ですから、ここは「ためらわない」でというよりも「分け隔てせず」と訳す方が相応しといえます。聖霊はペトロに、「分け隔てせず異邦人たちと一緒にコリネリウスのところへ行くがよい」と命じているのですね。

ペトロは、聖霊の言われるとおりに下に降り、コルネリウスの使者たちから、自分のもとに来た経緯を聞きます。こうしてペトロは彼らをユダヤ人シモンの家に大切な客として迎え入れ、泊らせたというのであります。ここに聖霊の解放がすでに起こされていることが証しされています。ペトロの胸中にはあの幻に示された天の御声が繰り返し響いていたに違いありません。ユダヤ人と異邦人という隔ての壁が、取り除かれていく聖霊による解放の御業であります。聖霊によって律法の囚われから自由に解き放たれていく出来事が起こっていくのです。翌日、ペトロは聖霊の語られる通り、そこをたち彼らと共に出かけます。
24節以降は、彼らがカイサリアのコルネリウスのもとに到着してからの出来事が記されています。
彼ら一行がカイサリアに到着すると、「コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ」というのです。如何に特別な客人としてペトロがここで迎え入れられたかということです。
ローマの百人隊長という地位のある立場の人が、一ユダヤ人であるペトロの足もとにひれ伏して拝んだ、というのですから当時としてこれは驚くべきことです。しかし、コルネリウスにとってみれば神の使者として、ペトロに最大級の敬意を表したのでありましょう。ペトロは彼を起こして「お立ちください。わたしもただの人間です」と言います。さらに、コルネリウスの家の中に集まっていた多くの人々に対してペトロは次のように語ります。
28節「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」。
聖霊が「分け隔てず一緒に行きなさい」とお命じになった。その主のご計画をペトロはひしひしと感じていたことでしょう。

④ 幻の意味;福音の拡がり
ペトロは「なぜ自分を招いてくださったのか」と、コリネリウスに尋ねます。異邦人のコルネリウスにも幻が示されたことを知り、ペトロはさぞかし驚いたことでしょう。
それは、ユダヤ人以外のコルネリウスをはじめ、すべての異邦の人々にも、福音が開かれた。神がそのようにご計画を遂行しておられる、ということであります。
コルネリウスもペトロも、幻の意味を初めから理解していたわけではありません。しかし彼らは主のご計画を受けとり、自らの常識、観念に囚われることなく、御声に従いました。この両者が出会わされていく時、その幻の意味:福音の豊かな拡がりに、コルネリウスもペトロも共々に与る者とされていくのであります。

ペトロは34節で、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」という言葉を述べてから、カイサリアの人々に主イエスを信じる者はだれでも主の御名によって罪の赦しを受けることができるとの、御救いの福音を余すことなく語るのであります。そうして、ペトロが話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降ったというのです。異邦人、それまで神の救いと、その恵みから遠く隔てられているとされてきた人々のうえにも聖霊が降るという出来事がここに起こったというのですね。まさに福音の豊かな拡がりが、この出来事から始められていったというのであります。

本日の箇所から知らされますのは、主イエスの福音、御救いはすべての人に開かれているということです。どこか、それを神でなく人の側(自分)の勝手な思い込みによって垣根を作ることで、主の福音を分かち合う機会を逸してしまうなら、それはとても残念なことです。
私たちは関わる前からあきらめてしまっていたり、だめだと決めつけていることが、しばしまあるのではないでしょうか。だからこそ、そこに神と人、人と人の間に働きかけてくださる聖霊の仲立ち・執り成しが必要なのです。
主イエスの名によって、聖霊のお働きを常に求め、行動する人は心開かれています。そうしてあらゆる関わりの中で、聖霊の仲立ちを戴き、キリストの福音を分かち合うように導かれます。肩肘をはる必要はありません。福音の喜びを胸に、垣根を取り払い、自然体で接する中に、主は働いてくださっています。様々な日々の出会いの中にあって、私たちもまた霊の目を開かれ、すべての人に与えられた「聖霊の解放と福音の拡がり」を分かち合う者とされてまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主イエスの名を担い行く器

2012-03-18 11:29:26 | メッセージ
宣教 使徒言行録9章1~19節a 

① 救いに至る出会いと導き
本日の箇所は、熱心なユダヤ教徒であったサウロが復活の主イエスに出会い、救われて主イエスの名を担う器として福音の使者とされていく記事でありますが。そのサウロの回心と救いは具体的にアナニヤ(このアナニヤは先週読みました土地の代金をごまかしてささげたアナニヤとは別人ですが)という一人の弟子を通してもたらされていくのであります。
サウロは復活された主イエスと出会いましたが、彼が救いを受け、さらにキリストに従う者となるためには癒され、元気を取り戻す必要があったのです。主はそのためにアナニヤをサウロのもとにお遣わしになられるのです。

みなさんも、それぞれの信仰の初めにおいて、アナニヤのように執り成し祈ってくれる助け手がいらっしゃったのではないでしょうか。それはキリスト者とされた今も、心が挫けそうになった時、試みの時に主はアナニヤを遣わして下さり、励まし強め、導いて下さる、ということを私たちは折々に気づかされるのであります。主を信じて生きる者にとりまして、その人生はまさに偶然ではない出会いの連続であります。後になってから、主がこういうかたちで人を遣わし、出会いを用意し、導いていてくださっていたのか、という気づきを主は証しとして与えて下さるのであります。

さて、本日の箇所を少し丁寧に読んでいきたいと思います。
当時熱心なユダヤ教徒であったサウロは主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んでいました。この道に従う者を見つけ出したら男女問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためです。彼がステファノの迫害と殺害に深く関与したのは、もとをたどれば神を思う忠誠心から出たものであり、神のためにキリスト教会とその信者たちを撲滅することが正しいという考えに基づいていたからです。当時のユダヤの概念から言えば、彼の目にキリストの福音はいわば新興宗教のように映ったのですね。


② 主イエスとの出会い
そのサウロですが3節、ダマスコに近づいたとき、突然天からの光が彼の周りを照らし、彼は地に倒れます。そこで彼は「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞くのです。5節、サウロが「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えがあった、というのです。
 
ここにサウロが「呼びかける主の御声を聞いた」ということでありますが。彼は聖書の天地万物をお造りになられた父なる神、唯一の神を心から信じていました。そのような切なる希求があったからこそ主の御声を聞くことができたのではないでしょうか。彼のうちにもし、神への愛と真理を求める心がなかったのなら、彼は自分のうちに呼びかける主の御声を聞くことはできなかったでしょうし、復活の主イエスとお会いすることも、回心と救いに至ることもなかったのであります。
このサウロの「主よ、あなたはどなたですか」との呼びかけも、「イスラエルの民を選び導き出したユダヤの神である主に呼びかけている、ということであります。ところがそのサウロが信奉していた主こそ、自分が「迫害しているイエス」である、とのお言葉を彼は聞くのであります。サウロは「地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった」又、「三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」と記されているように、彼はほんとうに大きな衝撃を受けました。
それは、自分が激しく迫害していたイエスこそ、預言書に約束されたメシアであったという衝撃であり、これまで「神のために」という信念をもってなしてきた行為のすべてが、実は主ご自身に対してなしてきたものである、という事を思い知らされた衝撃であります。        彼は3日間暗闇の中で何を思い、何を願ったのでしょう。自らの罪の重さにさいなまれ、苦悩するサウロ。その罪と苦悩から何とか救われたいが自分の力ではどうすることもできず、もがき苦しんでいたのではないでしょうか。三日間、食事も口にしようともせず、彼はただひたすら祈り続けたのでした。

③ 和解の使者アナニヤ
さて、10節以降ですが。サウロがそのような状況にあった時、主は、ダマスコにいたアナニアという一人の弟子をサウロのもとに遣わす、というご計画を遂行なさるのです。
しかし、アナニアにとってこれほど迷惑なことはなかったのであります。13節で、アナニヤは「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人すべて捕えるため、祭司長たちから(彼は)権限を受けています」と、そのようにサウロに対する恐れや不安、嫌悪感を動かしがたい事実として抱いていたからです。そのアナニヤに対して主は答えます。15、16節「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」。
それを聞いたアナニアのサウロに対する感情がそこで変わったわけではありません。が、しかし彼は主の「行け」との命に「聞き従った」のであります。ここには、主の御声をただ聞くだけでなく、主の御声に自らを従わせていくキリストの僕としての生き方が示されております。

かくして、17節「アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」。彼は主がお命じになったとおりのことを行い、伝えたのであります。
このアナニアに託された主の御言葉を聞いたサウロは、18節「たちまち目からうろこのようなものが落ち、元どおり見えるようになった」というのです。
サウロはアナニアを通して「主の赦しと救い」の御言葉を聞きます。それは、彼がこれまで犯してきた罪に対する裁きではありませんでした。サウロはアナニアから「兄弟サウロ」と呼びかけられた時、どのような思いでそれを聞いたことでしょう。これまでずっと激しい脅迫や迫害を加え続けてきた相手から「兄弟」と呼びかけられるとは、、、。想像しますに、サウロは心砕かれるだけでなく、その魂にかつてない安息を実感したのではないでしょうか。サウロはこのアナニアの存在を通して、主の尊いゆるしと愛の恵みを知ったことでしょう。彼は回心したのです。心から神さまに立ち返り、救いを得たのです。
サウロは「そこで、身を起こしてバプテスマを受け、食事をして元気を取り戻した」と記されています。主の十字架の苦難と死、復活に与る証しのバプテスマを受けました。彼は救われた者として生きる新たな道をあゆみ出したのであります。

一人の魂が救われていくには、その人自身の力だけではどうにもならないことがございます。だからこそ主は御計らいと導きのもと、さまざまな人を遣わして下さいます。とりなし手、支えの手を差し伸べてくれる兄弟姉妹を備えていてくださるのです。後ほど応答の時の分級でそのようなお証しが分かち合えるとよいですね。

サウロは主イエスを知り、自らの過ちに気づきますが、その思いに一人で打ちひしがれている間は、出口の見えない闇の中で呻き祈るほかありませんでした。しかし主は、サウロの霊の目を開かせるためにアナニアを遣わされたのです。
もう一度言いますが、一人の魂が主の救いへと導かれるとき、そこには必ずといってよいでしょう、主は兄弟姉妹という受け皿を起こされ、用意されます。兄弟姉妹と呼び合う人が身近に与えられているということは本当に幸いなことであり、主の賜物であります。いつも主にあってつながる教会の存在意義がそこにあります。


④ 主イエスの名を担う
さて、今は主のご受難を覚えるレントでありますが。
水曜日の祈祷会の時に数人の方が、16節の「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないのかを、わたしは彼に示そう」と、言われた主のお言葉が引っかかるとおっしゃっていました。果たしてこれはサウロがそれまでキリスト教会と信徒に激しくなしてきた迫害や仕打ちに対して、今度は彼がその仕返しや復讐を受けるというようなことをおっしゃっているのでしょうか? 
そのことについては、このお言葉の前の15節のところが肝心なのです。
「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」と主は言われています。この「わたしの名を伝えるために」の「伝える」という語は、原語で「担う」とも訳せるのです。岩波訳聖書はそのように訳しておりますが。そのように「サウロは主イエスの名を担うために主が選んだ器」なのだ、というように読みますと、このサウロに託された使命が主の十字架の苦難と死をその身に担って行く、というより重みのある働きであることがよく伝わってきます。後に彼は使徒として福音宣教のために多くの地に遣わされることになりますが。

その彼が迫害に遭い捕えられた獄中で、フィリピの信徒たちへ書いた手紙の中に次のような言葉があります。3章10節、11節「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。
彼が主イエスの名を担って行く時、そこには様々な苦難が起こってきました。しかしその苦しみは、キリストの苦しみにあずかり、その死の姿にあやかって、死者の中からの復活に達したい、との望みにつながっていたのです。
そのように理解しますと、16節の「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないのかを、わたしは彼に示そう」との主のお言葉の真意も、それは何か主がサウロに報復するためだということではなく、まさに主イエスの担われた十字架を彼が共に担い行くように立てられたのです。

最後になりますが。サウロはただ回心した、救われただけで終りませんでした。
この後の20節には「数日の間弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、この人こそ神の子であるとイエスのことを宣べ伝えた」と、記されています。
回心した者は、喜びのうちに主の福音を担い、分かち合っていく使者とされていくのであります。主はこのサウロを異邦人や王たちの前にあって主イエスを証しする器として選ばれました。それは主イエスの名を担う器であります。
そのように、主の御名を信じて救われた者みな、どのような方も、この主の救いを伝え、証しする器として、主が豊かにお用いになられるのです。

使徒パウロの言葉を聖書からもう一か所お読みして本日の宣教を閉じます。
Ⅱコリント4章6~7節「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心のうちに輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」。
私たちも又、主の救いの喜びと共に、たとえ小さくとも、主イエスの名を担う器として召されていることを覚えつつ、あゆんでまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神へのささげもの

2012-03-11 11:38:10 | メッセージ
宣教 ルカ4章32~5章11節 

本日で未曾有の東日本大震災と原発事故から丁度1年を迎えます。この出来事による傷跡は未だに癒えるような状況ではなく、悲しみと苦悩の日々を送っておられる被災者の方々が数知れずおられます。先日、被災者の方がたの今の心境がアンケートで取られた結果、多くの被災者の方々が経済の問題、家族の問題、住居の問題、人間関係などにおいてその「絆が弱っている」「絆が薄れている」と、答えられたということであります。この意外な結果に改めてその厳しい現実を突きつけられた思いで、ほんとうに考えさせられました。つながり合って生きるその絆の真価が、これはわたしたちとりましても、今後まさに問われていくのでしょう。
私どもが属する日本バプテスト連盟は東野にボランティアセンターを開設し、現在仮設住宅で避難生活をしておられる方がたへの心のケアや訪問等の活動がなされています。又、今日の午後5時から、東日本大震災のすべての被災者を覚えての追悼と再生を願う祈祷集会が梅田カトリック教会(サクラファミリア)で行われますので、時間の許す方はぜひお出かけください。

さて、本日は使徒言行録4章32節~5章11節より「神へのささげもの」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。先週の3章にもございましたように、聖霊を受けた使徒たちは、主イエスの十字架と復活の福音宣教を大胆に語り、主は救われる人々を日々仲間に加えられ、そうして遂にキリストによる共同体、キリストの教会が誕生するのであります。

①「共有する群れ」
本日の箇所は4章32節に「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、信者の生活について記された2章44節以降にも「信者たちは皆一つとなって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれぞれに分け合った」と記されています。そうして「心を一つに礼拝を捧げる彼らの姿は民衆全体から好意を寄せられ、主は救われる人々を日々仲間に加えられた」とあります。本日の箇所あたりにはゆうに1万人を超える人々が信じ救われていたようですから、その群れは一つとは限りませんで、複数あったのかも知れませんが。いずれにしろその群れが「心も思い(原語:プシュケー;霊・魂・命の息)も一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」と、記すのであります。「一人として持ち物を自分のものだと言う人はいなかった」。それは信仰の面だけでなく、その生活までもが主の福音によってつながり、分かち合われていたということであります。
一方、そのように多くの物が差し出され、分配される中で、僅かしか持たない者や全く持たない貧しい人たちは、受ける恵みとともに、差し出すことのできない引け目もあったかも知れません。けれども、主によって豊かにされた彼らの喜びと感謝は、大きな証しとなって主の栄光を現わす共同体の宝であったことでしょう。そのように、物心両面で主にある人々が、「すべて」を共有していたということはほんとうにすごいことであります。
そこに、十字架と復活の主にあって「心も霊も一つにし、すべてを共有していた」。ここに私たちもキリスト教会のひな型としての初代教会の姿を見る事ができます。

②「主の貧しさと豊かさ」
さて、34節に「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。」と記されていますが。
これを読むと、「ほんとうに一人も貧しい人がいなかたのか?」「そんなことがあり得るのか?」と、疑問に思います。しかし、ここで伝えんとしていることは、貧しさのゆえに孤立し、無関心の中に置かれている人は一人もいない、ということです。
パウロをはじめ使徒たちは、主イエスご自身が、世に小さくされた人々を受け入れ、愛されて、関わり、あゆみを共にしてくださったこと。いつも主の晩餐の時に覚えることでありますが。又「受けるよりは与える方が幸いである」と、その模範を示された事を。繰り返し信徒たちに語り伝えていたことでしょう。
Ⅱコリント8章9節に「主は豊かであったのに、あなたがたのいために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と、あるとおりです。主イエスを信じ、そのあゆみに倣い従う時に「一人も貧しい人がいない」という強い確信が主を信じる群れの中にあったからです。
「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」と記されています。そう聞きますと、現代の私たちは唯々驚嘆するばかりでありますが。大切なのは、そのささげものが、各々主にあって、「主が豊かであったのに貧しくなられた」という信仰から、純粋かつ惜しみなくささげられていったものである、ということなのです。この神へのささげものは、強制でも、制度によるものでもなく、各々が主の大いなる恵みに対して、自由に、かつ自主的になされていったということが、ほんとうに尊いことなのです。そこにキリストの福音の真のゆたかさがもたらされていくのであります。

そのような中で、36節「レビ族の人で、使徒たちからバルナバ(慰めの子の意味)と呼ばれていたヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた」ことが紹介されています。ここで彼は「畑を売り、その代金を持って来て」とありますが、これは畑を売った代金の全額、全てというものでした。彼もまた、「主が豊かであったのに、わたしたちのために貧しくなられた」との、十字架と復活の主による信仰から押し出されるように、このようなささげものをなしたのであります。

少し話は変わりますが。先日NHKのテレビで「人類がお金を持つようになっていったその歴史」について放映されていました。人間は太古より物々交換で決められたものしか手に入れることができなかったのが、お金(貨幣)を造り、使用することによって、様々なものを自由に買うことができるようになった、というのは皆さまもご存じのとおりです。そのお金についてですが、人間の脳の中には、お金を得ることで満足して反応するし部位が2か所あるそうです。ある実験がなされました。2人のうち1人に金持ちに、もう1人に貧しい人の役になってもらいます。まず金持ちの人にお金を渡します。するとその金持ちの人の脳内にある満足部位は確かに大きく反応しました。次の場面ではそこに貧しい人にも登場してもらい、その目の前で、さらに金持ちの人にお金を渡します。すると金持ちの人の脳内満足部位はわずかに反応するだけで、最初のようには大きく反応なかったのです。そこで、隣にいる貧しい人にお金を渡します。するとどうでしょう、金持ちの人の脳内満足部位が大きく反応したのです。そういう実験をして、殆どの人が同じ結果となったというのですね。つまり、人間の心や魂とも通じている脳は、自分が豊かになることを欲するのは当然ですが、貧しい人を前にするとき、その貧しい人が豊かになることを通して、自分の心や魂も満ち足り、豊かになる、というように出来ている。そのことが実証されたということであります。いや、神さまがそのように私たち人間をお造りになられたということでありますね。

③「神への欺き」
聖書に戻りますが、純粋に心から惜しみなく主にささげ祝福を分かち合ったバルナバと対照的だったのが、アナニアとサフィラでありました。
5章1-2節「ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」
ここで問題になっているのは、ペトロが8節でサフィラに問うているように、彼らが土地を売った値段をごまかしたことであり、あたかもそれが土地を売った全額を主にささげたかのようにして、「神を欺いた」ということであります。先のバルナバのことを意識していたかどうかわかりませんが。彼らは真心からささげたバルナバと異なり、自分たちの名誉や自己顕示のために、あるいは人から信用や信頼を得たいがために、神を欺き、教会を利用したのであります。もっと言えば、心も思いも一つにしていたキリストの聖なる交わりを欺き、壊したのであります。

アナニアは「なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。どうしてこんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」とのペトロの言葉を聞くと、倒れて息が絶えた、と記されています。
彼は自分の犯した過ちの重大さを知った衝撃で、或は神の裁きの重さに押しつぶされて、息が絶えたといえます。更に、ペトロはその三時間後に現れた妻のサフィラにも問います。その3時間はサフィラが思い直すための猶予ともいえる時でもありました。もちろん彼女は夫の息の絶えたことは知りません。ペトロはサフィラにこう問いかけます。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。答えなさい」。つまりサフィラには真実をきちんと語る機会が与えられたのです。しかしながら彼女は、「はい、その値段です」と、それが土地を売った全額ですと、断言します。彼らの行為は確かに人に害を及ぼしたり、迷惑をかけるようなものではありませんでした。それなのにどうして彼らの息が絶えてしまわなければならないのか、愛を説くキリスト教からするとこれは厳し過ぎはしないか、 と思われる方もおられるかも知れません。
この彼らの「息が絶えた」という「息」は原語で「プシュケー」という語で、新約聖書に101回も出てくる重要語であります。それは人間が神の息(霊)によって命を受け、生きる者とされた「命の息」や「霊」や「魂」とも訳されます。それが「絶えた」というのです。冒頭の32節のところで、「信じた人々の群れは心も思いも一つにして」と記されてありましたが。実はこの「思い」というのは単なる思いというものではなく、何と原語では「命の息」そのものを指すあのプシュケーなのですね。つまり「主を信じた人々の群れは神の命の息によって一つとされ、つながって生きていた」のです。アナニアとサフィラは、そのように神の命の息により一つとされていた主を信じる人々の群れから絶たれた、いや、自らその交わりを絶ち切ってしまった、ということです。聖書は彼らがこのようなかたちで「神を欺いた」ことについて、厳しくその罪を問うているのです。それは又、生けるキリストの体としての教会を主がかくも愛しておられる、ということであります。
私たちは、そのような主に対して如何に誠実であるかが、ここに問われているのです。
先ほど詩編111編を交読いたしましたが、その10節に「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く」と謳われていましたが。彼らが本当の意味で、「神を畏れる」者であったのなら、こういう事態にはならなかったといえます。
本日の箇所から「神へのささげもの」と題し、み言葉に聞いてきましたが。
私たちはまず、主の十字架のあがないという犠牲のもと、主の貧しさと豊かさに与り、生かされている者であるということを日々忘れないようにしたいと思います。そして恵みのうちに、「御神の命の息」によって私たちも又、一つとされていることを覚え、ささげ、分かち合い、共に主の栄光を現わすため用いられてまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キリストの御名による全人的回復

2012-03-04 16:23:30 | メッセージ
宣教 ルカ3章1~10節 

本日は使徒言行録3章1-10節より御言葉を聞いていきたいと思います。

① 「聖霊降臨と使徒の働き」
ルカ福音書の箇所、イエスさまがエルサレムへの入城される場面から本日は一気に使徒言行録にとんでしまったので少し残念な感もあります。その間には、イエスさまの十字架への受難と死、その死から復活され、弟子たちにご自身を顕わされた後、天にあげられていくという大事な出来事が記されているからであります。復活されたイエスさまは天にあげられるに際し弟子たちにこのようにおっしゃいました。ルカの福音書24章46節以降ですが、「次のように書かれてある。(これは旧約聖書のことですが)。『メシヤは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」。
実にこれこそ父の約束された「聖霊」であるのです。
使徒言行録1章のところにも、イエスさまが天にあげられるに際し使徒(弟子)たちに、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」と、命じられたことが記されています。そして使徒言行録2章には、遂に約束の聖霊が降る場面が記されているのですが。聖霊は使徒たち一同が心を一つにして集い、祈っているところに降られるのであります。こうして聖霊に満たされた使徒たちは、神の偉大な業を大胆に語り出し始めるのです。しかもそれはユダヤ人たちだけでなく、パレスチナの各地、地中海沿岸の諸地域、エジプトなど、至る所からエルサレムに集まって来ていた人々それぞれの母国語で語られたというのですね。まさに、イエス・キリストの御名による罪の赦しと悔い改めの福音と神の偉大な業とが、あらゆる国の人々に語り伝えられ、証しされていくということが、ここから始まっていったのであります。
今日登場するペトロとヨハネも、生前のイエスさまのことをよく知っていた弟子たちでありましたが、彼らは聖霊降臨を体験することによって、救い主、イエス・キリストの愛と力に満たされ、ほんとうの意味で新しく生まれ変わり、大胆に神の偉大なみ業を証しし、宣べ伝える「使徒」とされていくのであります。

② 「キリストの御名による全人的回復」
さて、本日の3章1~10節は、そのように神の愛と力に満たされた使徒のペトロとヨハネが、美しい門のところで物乞いをしていた足の不自由な男を、イエス・キリストの名によっていやす、という物語であります。
ペトロとヨハネは「午後三時の祈りの時に神殿に上って行った」とあります。
この記事の前の2章には「信者の生活」について記されていますが。その46節で、「彼ら毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」云々とあります。キリストにある共同体がその始まりから大切にしてきたのは、「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと」「祈ることに熱心であったこと」(2章42節)でした。彼らはユダヤ人の慣習に従い、神殿の決められた祈りの時間に、祈るために神殿に上って行ったのであります。祈りというものはどこでもできるものですが、神の臨在される神殿、主が祈りの家といわれるその神殿で共に祈ることは喜びであり、不可欠なことでありました。私たちも個々人で祈ることも大事ですが、礼拝や祈祷会の場で一つになって一緒に祈ることを通して、主は御霊による愛と力と信仰をそこに増し加え、大いなる御業を見させてくださるのです。

2節、「すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。」
この男の人は毎日、祈りの時間になると、多くの人が行き交うその場所に置いてもらって、物乞いをしていたのです。彼は毎日神殿の前に来ていましたが、その境内に入ったことはおそらくなかったのでしょう。なぜなら、ユダヤ教では体の不自由な人は汚れた者とみなされ、神殿の礼拝にも出る事が許されなかったからです。
そういうことで、この男の人の抱えていた障害は身体の障がいだけでなく、社会にあってあまりに生き辛い壁というんでしょうか、そういった障害が現実にあったのです。そういう中で、彼は不本意にも境内の門前で物乞いをしていた、いやそのように生きていかざるを得なかったのであります。彼は人に「置いてもらっていた」と記されていますが、果たしてこの人がただ受身で、置きもののような消極的な存在であったのでしょうか。いや、この人は物乞いをすること、人に頼んでそこに置いてもらうこと、それは彼が生きていくための精一杯の行動であったのではないか、と私には思えるのです。何か物のように置かれていたとしても、この人の命は「生きる」こと、それも「人間らしく生きていくこと」を切望していたのではないでしょうか。その魂の叫びを通りがかりの同情やわずかな金銭でしか受け止めきれない未熟な社会に、現代の日本の状況が重なって見えてくるようです。

さて、この日も神殿の美しい門の定位置にいつものように座り、祈祷の時間に行き交う人々に物乞いをしていた彼は、3節にありますように、神殿の境内に入ろうとするペトロとヨハネを見て、いつものように施しを求めます。特に彼らに目をつけていて施しを求めたというのではなく、たまたま二人が前を通りかかったわけで、この男にとってペトロとヨハネは通り過ぎる人々の中の何人かに過ぎなかったのです。

ところがです。4節「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言ったというのです。おおよそ物乞いをせざるを得ない人は、受ける人の顔を見ないものです。それは羞恥心というような言葉では到底表せない痛みや引け目を感じておられるからでしょう。ところが、ペトロは「わたしたちを見なさい」と言うのです。「ペトロとヨハネは彼をじっと見た」とあります。それは福音書の至るところに記されている、「主イエス」のまなざしのように、あたたかな、その人をその人として思い見るまなざしであったのではないでしょうか。
ペトロとヨハネの目に映る男は単なる物乞いではなく、神の愛と力を必要とする一人の人間であったのです。聖霊に満たされた人は、主イエスのまなざしを戴きます。それはその人がほんとうに必要としているものを見抜くまなざしであり、愛のまなざしであります。

次いで5節、6節、「その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』」。
男は何かもらえると二人を見つめていたのですが、「金や銀はない」という言葉に、その期待ははずれてしまいます。が、「持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」との言葉と共に、あたたかな手が彼の右手を取って立ち上がらせた時、彼はたちまち足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだしたのです。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入っていったというのです。

ここにはいやされたその人の様子が躍動感をもって伝えられております。「足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした」。何と素晴らしいこと、喜ばしいことでありましょう。回復されたのは身体だけではありません。彼は「歩き回ったり躍ったりして神を賛美して、二人と一緒に境内に入っていった」のです。この人が長いこと長いこと願い続けていた「一人の人間として神殿で神を礼拝する」という本来の祝福が回復されたのです。そしてそれこそが、ペトロとヨハネが彼の中に見た「彼がほんとうに必要としていたこと」だったのです。実はここに、最も大きな恵みといいますか、神の救いの出来事が証しされているのですね。

ルカの福音書もこの使徒言行録も共通することとして、いやされた人の行動について詳しく報告しています。このことは、とても大事なことであります。主のいやしに与った人がただいやされたことだけで終わらず、その喜びと感謝を大きく表し、声高らかに賛美し、主が生きておられること、主のみ業とみ恵みを大胆にあかしする者とされているのです。
人がしあわせに生きるには健康は大きな要素であるでしょう。お金や財産もそうでしょう。けれどそれで人が満ち足りた人生を送ることができるかといえば、そうではありません。人は本来、神の祝福のもとに生きることを必要としているのです。救いの主、イエス・キリストによってもたらされる回復は、人に礼拝の喜びと賛美の歌をもたらします。それは全人的な命の回復であります。

9-10節「民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の『美しい門』のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた」。そうですね、ここに神の国の豊かな拡がりを見る事ができます。使徒たちを通して起こされた聖霊の業としるしによって、彼を知る人々に「我を忘れるほどの驚き」が生じたというのです。

③ 「わたしたちの使徒言行録」
始めにも申しましたように、イエスさまの十字架と復活、そして天にあげられ、待望の聖霊降臨以降、イエス・キリストの愛と力がまさに使徒たち証し人を通して現わされていく、その業としるしが使徒言行録に記されているのです。それは今日の時代に生きるキリストの使者である私たちに脈々と受け継がれているのです。イエス・キリストが、病や患う人と出会い、いやされたように。忘れ去られ、置き去りにされ、あざけられる人と、喜びや悲しみを共にされ、神の国とその福音をもたらされたように。キリストの使者である私たちもみなそれぞれに、キリストの御名によって立ちあがり、歩きゆく者として世に遣わされているのであります。
私たちは自分の力や業によるのではなく、神の愛と力を帯びるキリスト者です。
「キリストの御名によって」と、臆することなく信頼をもってさらに祈り、行動していきましょう。何よりもキリストの愛と力に支えられ、生かされている喜びをもって、遣わされてまいりましょう。そこに必ずや、主の栄光が現わされ、主の御業を見ることができるでしょう。私どもの教会が、そのお一人おひとりが、そのような神の霊に満ち溢れるようさらに祈り求めてまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする