日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主イエスに遣わされて

2021-01-31 11:39:18 | メッセージ

主日礼拝宣教 マタイ9章35節-10章15節

私は22歳の時この大阪教会から推薦を戴いて、専攻科を含め西南学院大神学部で4年間の学びと交わりの時が与えられました。その在学中に久留米キリスト教会、シオン山バプテスト教会、さらに糟屋バプテスト教会篠栗伝道所(現・篠栗教会)と、3つのそれぞれに規模も環境も異なり、それぞれに歴史をもつ教会で信仰生活をもちました。神学部の推薦教会であった大阪教会から他の教会に出席する場合、教会籍を移すべきかどうか悩んでいた時、当時大阪教会の中島牧師は、「その行くところその行くところでの教会生活が始まったのなら、たとえ1年でもその行くところの教会にきちんと籍を移していく方がよい」とおっしゃって私を後押ししてくださいました。祈りのうちに、1年であってもその行く教会の一員となり、一緒に歩んでいくことが望ましいという思いに導かれ、行く先々の教会に籍をおくことにいたしました。まあ、一般的に転勤や引っ越し、又特段の事情が無い限り他の教会に籍を移すということはないかと思いますが。神学生時代に許されたこの経験は一つひとつの教会がおかれている地域性、環境、諸課題と主体的に向き合い関わる。又、教会の方々との主の家族としての交わりのゆたかさと、み言葉の重みや深さを学ばせて頂く機会となりました。初めて牧師として遣わされたのが糟屋教会篠栗伝道所でありましたが。その地で14年間牧師として働かせていただいた後、不思議な主のお導きにより、私を神学部に推薦頂いてから18年目を経て、この大阪教会の牧師として働かせて頂くこととなり、現在に至っております。

さて、聖書のこの箇所ですが。

5章から7章までは山上の説教と言われるイエスさまの教えが記され、それに続く8章 から9章までは先週もお読みしましたが、イエスさまによる様々ないやしのみ業が記されていました。そのイエスさまのお働き全体は本日の9章35節「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」に、要約されています。

そのお働へとイエスさまを強く突き動かしたのは、36節の「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」たことによります。

聖書ではしばしば神の民や民衆を羊にたとえています。目の前の草を食べることに一生懸命で危険にもなかなか気づけず、道に迷いやすく、群をはぐれると一匹では生きてゆけない羊。羊には羊飼い、それも自分を守り導いてくれる良い羊飼いが必要なのです。人間にとって良き羊飼いは神ご自身に他なりません。ダビデは詩篇23編で「主は私の羊飼い」と語り、「私には何も欠けることがない、羊飼いなる主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、私のたましいを生き返らせてくださる」と歌いました。

物質的生活ばかりでなく、内なる魂を生き生きとしたいのちの喜びに満たして下さる。この方が共におられるので「死の陰の谷を歩くことがあっても私は恐れない」。

この詩編23編のように神の御救いを受けた民は、神の牧場(まきば)に憩うような幸いにあずかるはずでした。しかしイエスさまが行く先々で目の当たりされたのは、弱り果て、打ちひしがれた人々の姿です。

イエスさまの目に映った「弱り果て」とは、「皮をはがれた」という意味の言葉です。野の獣に襲われて引き裂かれたか、あるいは岩や木の枝に体を引っ掛けたか、皮をはがれた状態で弱り果てている羊のような人、又、「打ちひしがれている」とは「投げやられている」という意味の言葉です。共同体からも、救済のセーフティーネットからも置き去りにされ、投げ出された人。そういう姿を群衆の中にご覧になったイエスさまは「深く憐れまれた」というのです。

「深く憐む」のギリシャ語:スプランクニゾマイは「内臓」とか「はらわた」を意味する言葉からできていて、よく言われる「断腸の思い」とか表現されていますが。けれどギリシャ人たちは決して自分たちのギリシャやローマ世界の神を表わす際にその言葉を使うことはありませんでした。なぜならば、人が苦しんでいるからといって心を痛めてしまうような神はもうその時点で「神」とは呼べないからです。現代の社会もそうではないでしょうか。全能ならなぜ心痛むのか。それが一般的な考え方ではないでしょうか。

しかし主イエスさまは、はらわたが痛むほどに人を憐れみ抜かれるのです。だから御自分を私たち人間の罪の身代わりとなって差し出されたのです。このようなお方だからこそ、私たちは主イエスさまのもとに恐れなく、助けや赦し、恵みや憐れみを求めて近づくことができるのですね。

その深い憐みの主イエスさまは弟子たちに次のようにおっしゃいます。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と。

弱り果て、打ちひしがれた人は数えきれないほど大勢います。それに比べて働き手が圧倒的に少ないのです。一体どうやってこの多くの群衆に対処することができるのか、とイエスさまはお考えになられたのではないでしょうか。

ちょっと話は変わりますが。先日、バプテスト連盟を通して私たちもサポートを続けています、ルワンダミッションボランティアの佐々木和之さんがリモートを通して報告会をなさいましたので、私も視聴いたしましたが。ルワンダの同族間に起った大量虐殺(ジェノサイド)と、そこでまさに皮をはがされたように、「弱り果て」、国際社会からも「投げやりにされ、打ちひしがれている」ルワンダの人たちの現状を目の当たりにした佐々木さんは、『和解のためのプロジェクト』を立ち上げられたのであります。そういう中で、二度と同じようなことが繰り返されないためには、次世代の人たちに平和を構築する意志とその実践を伝え、育むことが大切であるということで、ルワンダの大学で平和学を教えておられるのですね。かの地で平和を造り出す人が大勢育っていきますことを祈ります。

聖書に戻りますが。

イエスさまは、弱り果て打ちひしがれている群衆を前に、弟子たちもイエスさまのお働きに加わるように、と招いて行かれます。これまではイエスさまが語り、イエスさまお一人が働いて来られました。しかしここからは弟子たちもイエスさまと共に神の国のために働く者となるように、とお招きになられるのです。

ところで、ここをよく読みますとイエスさまは弟子たちに何と言われているでしょうか。必要が大きいので、あなたがたも来て一緒に手伝いなさい、と言われたでしょうか。あなたがたの手足を貸しなさい、と言われたでしょうか。

そうではありません。イエスさまが言われたことは、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」ということでした。

それは、この神の国の収穫を得るという働きが主御自身のお働き、神さまのお働きであるということを示します。まずその収穫の主、あるじである神に収穫のための働き人を送って下さい、と願い祈ることが必要なのです。

私たち主イエスに連なるものはみな何らかのご計画によってそれぞれが、その時々に宣教者、役員、各会長、などなど、祈られ選ばれ立てられていきます。又、生活の場や職業を通してのあかしの働き人を主は必要とされています。そのような人が起こされ、実りがもたらされるよう共に祈り続けてまいりましょう。

さて、この祈りを経た後、呼び寄せられた12人にイエスさまは「汚れた霊に対する権能をお授け」になられます。

それは何か12人に特段の立場や才能があったから選ばれたのではなく、唯神のご計画によって主イエスが任命され、神がお入り用とされたので、働きのため神が権能お授けになったのです。先週のイエスさまのいやしの記事でも申しましたが。神は救いの愛を顕わされるために権能をお与えになり、その主イエスによって人は全人的にいやされ、きよめられるのです。この12人はその神の愛がもたらされるための、いわば通り良きとして神に用いられる働き人でなければならないのです。そういう点でこの12人を選ばれたのです。

最初に記されているシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人はガリラヤ出身の漁師たちです。これから神がご自分の国を打ち立てようとする時、田舎の学歴のない漁師たちを選ぶとは一体誰が考えつくでしょう。ピリポとトマスは他の福音書から若干その人となりを知ることができますが、バルトロマイ、アルパヨの子ヤコブ、タダイについて私たちはほとんど知りません。目立たない人たちです。彼らもそれぞれ一般の民衆の中の一人でした。熱心党のシモンは、ユダヤの愛国主義者でローマ帝国への抵抗活動をしていた革命党に属す人です。そして最後にイエスさまを裏切るイスカリオテのユダが含まれています。

ところで、このマタイの福音書を記したとされるマタイの名もここにありますが、わざわざ「徴税人」という肩書きが付いています。徴税人はローマへの税金をユダヤの同胞から徴収するわけですから、ユダヤ人から罪人として嫌われていました。その本来隠したくなるようなことをあえて記しているのです。マタイは取るに足りない罪深い者であったことを自ら言い表わすことで、イエスさまが自分を選び、用いて下さる恵みを、讃え、あかししたのです。それぞれの人生から主に呼び集められた一人ひとり。私たちも又、神の救いのご計画によって召され、主にあるつながりの中で互いにとりなし、励まし合いつつ、神の国と神の義の顕れのため用いられているのです。

さて、イエスさまは彼らをお遣わしになるにあたって「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。又、「平和があるように」と挨拶しなさい、とおっしゃいます。

その場合、まずイスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい、と言われます。旧約聖書の神の契約に生きてきた人たち。しかし、その祝福が世の力によって大きく損なわれ、弱り果て打ちひしがれているそのような人のところにまず行きなさい、とおっしゃるんですね。イエスさまは憐みのゆえに、神の前に失われた羊を取り戻されなければならなかったのです。その人たちが本来受け取るべき神の祝福と平安に与ることを、主は強く望まれるのです。全世界に福音が宣べ伝えられている今、すべての人がこの主の愛に招かれているのです。

主は弟子たちをお遣わしなりました。彼らは特別な学問も知識も持ちませんでしたが、神が、その権能もってお働き下さることによって「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いからの解放と信仰の復興、霊的回復が生じていったのです。

この「平和があるように」というヘブライ語では「シャローム」との挨拶の言葉は、単に争いのない状態を言うのではなく、天地創造の神のもとにある平安を表わしています。

私たちも主イエスに見出され、そのみ救いに与った者として、この「平和の挨拶」を交し合える社会、この世界になりますよう祈りとりなす日々でありたいと切に願うものです。又、イエスさまは「ただで与えなさい」と言われます。私たちが受けた救いといやしの恵みは、神の御独り子が私たちの罪の身代わりとなって贖いの死を遂げて下さったことによります。それは文字通り「ただ」で頂いた計り知ることのできない「神の尊い贈り物であるご愛と救いの命」であります。その「福音」、何にも替えがたいよき知らせをみな共に分かち合って、神が備えたもう必要によって生きる。こんなゆたかな人生は他にありません。

この新しい週も、主の福音に生きつつ、神の平和、シャロームを分かち合う歩みへと遣わされてまいりましょう。

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主イエスの権威

2021-01-24 12:29:18 | メッセージ

礼拝宣教 マタイ8・1-17  

七日の旅路を守られましたこと、又、こうして導かれて礼拝を捧げることができます恵みを感謝します。

コロナ禍で例年の越冬夜回りは無いのかと思っていたところ、ルーテルディアコニアセンター「喜望の家」の秋山さんから「今年もやっています」とお電話があり毎週金曜日の夜回りに参加させて頂いています。先日は運動不足もありリアカーを引いて釜ヶ崎周辺を廻ったのですが、大阪社会医療センターの周りには40名くらいの方がおられ、その大半がひっそりと寝ておられました。今年はコロナ禍で8時以降は閉まっているお店が殆ど、去年と比べると人通りがとにかく少なくて寂しい感じがしました。コロナ禍で、いろいろな所に行っては一夜を過ごしている方がたがきっとおられるのだろうと思いました。とにかく路上生活をされている方の命が守られるようにと切に願います。

 

本日はマタイ8章1-17節より「主イエスの権威」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

この個所には、イエスさまが「重い皮膚病の人」「中風の病で苦しんでいた百人隊長の僕」「高熱のシモンのしゅうとめ」を、次々とおいやしになられたエピソードが記されています。

 

最初の「重い皮膚病を患った人」ですが。この当時のユダヤ人の社会において、重い皮膚病は特に人々から忌み嫌われていた病の一つでした。詳しくはレビ記13章に記されていますが。

これは汚れた病気とみなされ、この病気にかかった人は家族からも引き離されて隔離され、町の外に住まなければなりませんでした。私たちの国においても、この病に罹った人に対する予防法という法律を作り、非人道的な差別や偏見、隔離政策を行ってきたことに、国としての謝罪がなされましたが、その当事者の痛みと苦悩は消えるものではありません

今日の箇所のこの人も、社会の片隅に追いやられながら、自分からも人に会ったり、交流することも気兼ねし、控えるほかない孤独な日々を過ごしていたことでしょう。

ところが2節を読みますと、その「人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った」というのです。

この人はどこかで、イエスさまのなさることが「権威ある者」としての教えであることを聞いていたのでしょう。確かに宣教を開始された直後の4章23節以降には次のように記されています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊にとりつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」

イエスさまは律法を教師として教えたのではなく、天の国の福音を伝えたのです。そして分け隔てなく民衆のあらゆる病気や患いをいやされたのです。

 

この人も又、何とか一度このイエスさまにお会いしたいと、毎日切なる願いをもって祈り続けていたのではないでしょうか。そしてその日、遂に大勢の群衆の先にイエスさまがおられるのが見えたのです。

その人の思いは、世間の厳しい視線にさらされるよりもずっと強くイエスさまに近寄っていきました。けれど、決してぶしつけな遠慮のなさではなく、「ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と、神への信頼を言い表わします。

それは先週もお話ししましたが、自分の願いはかなえられるべきだということではなく、神の御心こそが実現しますようにという、神への信頼とそこに望みをかけていく信仰の言葉を口にするのです

 

すると、イエスさまは、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。(直訳:私は望む)清くなれ」と言われます。

何と、思い皮膚病のその人がいやされることを主イエスは望まれたというのです。

この人に触れることで自分に病が及ぶかもしれません。しかしイエスさまは、お構いなしに、自らの手を差し伸べて彼に触れ、「わたしは望む。清くなれ」と言われたんですね。居た堪れない状況におかれていたこの人の痛みや苦しさを御自身のこととして感じとられたイエスさまその本物の隣人愛なくして誰がリスクを負ってまでその人に触れることができるでしょうか。本物の神の愛をイエスさまのお姿に見るものであります。この神の愛に触れた時、この人はたちまち重い皮膚病が清くなった、というのですね。

 

さらに、14節以降にも「イエスさまはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱で寝込んでいるのを御覧になり、その手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスさまをもてなした」とありますが。そこでも、当時の慣習からすれば他人が病人に触れればけがれを負うといわれた社会で、イエスさまは苦しそうに寝込んでいるペトロのしゅうとめをご覧になって、気の毒にお思いになられたのでしょうか、手を触れるとペトロのしゅうとめはいやされるのです。病気やケガの処置を施すことを「手当」と言いますが。隣人の痛みや苦しみを目の当たりにして手を当てずにはいられない、この救いの主、イエスさまのお姿に私たちはどれほどかいやされ喜ぶ毎日ではないでしょうか。

イエスさまにいやして頂いたペトロのしゅうとめは、その喜びをもてなしにして

イエスさまに表したんですね。私もまた感謝と共に、至らないながらもこの主イエスの愛に少しでも応え倣う者とされたいと願うものであります。

 

次に「百人隊長の僕のいやし」のエピソードに目を向けてみましょう。

この百人隊長も又、イエスさまのお言葉が教師や指導者たちとは異なる真理の言葉であり、「権威ある者」としての教えであるということをどこかで聞き、心に留めていたのでしょう。

又、分け隔てなく神のいつくしみによっていやしをお与え下さることを知っていたのでしょう。当時のユダヤ社会はローマの支配下におかれていました。このローマの百人隊長はユダヤ人から見ればうとましい存在でしたでしょうし、神を知らない異邦人であったわけです。しかしその日、イエスさまがカファルナウムに入られたことを知った彼は、自分の立場もさて置いてイエスさまに願い出ます。

「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」。

私はこの百人隊長はなんて情が厚い人だろうと思います。部下が中風で寝込んでひどく苦しんでいることがいたたまれない、見るのに忍びない。まるで自分のことのように心痛めていたからこそ、人にどう見られようと自分の立場を置いてまでイエスさまに懇願するんですね。イエスさまはそんな百人隊長の心情にきっと共鳴して下さったのではないでしょうか。

「わたしが行って、いやしてあげよう」と即答なさいます。ところが百人隊長は、いや、それにはおよびませんとばかりに、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言うのですね。

普通に考えてイエスさまに来て頂くほうがありがたく思えますし、確実にいやしていただけると考えるのではないでしょうか。しかし百人隊長は軍人としての職業柄人一倍「権威」とその「言葉の力」を知っていました。

 

百人隊長は言います。「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。

先に申しましたように百人隊長はイエスさまの言葉と行いは、神からの権威によるものだと確信していたのです。権威ある者の「言葉」の重みを知る彼は、ただひと言、命じられることを求めました。イエスさまが神の権威で発せられた言葉は効力をもってそのとおりになると、信じていたからです。    

 

百人隊長のその姿に関心なさったイエスさまは、従っていた人々に言います。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

このお言葉は、イエスさまが前の7章21節でおっしゃったこととつながっているように読めます。

「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

何か立派に見える働きや大きな業績をなすことが天の国にふさわしい者になる条件ではないんですね。「天の神の御心を行うこと」が尊いのであって、それは主の御言葉を聞いて、そのように行い生きる者となることが大切なのです。

始めに重い皮膚病の人が「主よ、御心ならば」と言ったように。又、百人隊長が「お言葉でしたら、いやされます」と言ったように、神の権威に信頼しつつ、主の御言葉に日々生きる。そうして天の国に入るにふさわしいものと立てあげられていくのですね。

詩編107編2-3節には次のように記されています。「主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い、国々の中から集めてくださった。東から西から、北から南から。」さらに同じ107編20-21節には次のように記されています。「主は御言葉を遣わして彼らを癒し、破滅から彼らを救い出された。主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」

この詩編の言葉は、まさに全世界の救い主、イエス・キリストによって実現されるのです。それは先に選ばれたユダヤ人だけでなく、異邦人、世界の国々の人の子らの

ためにも天地万物の造り主なる神は、そのいつくしみ深きご慈愛によって、いのちの御言葉でありますイエス・キリストをお遣わくださったのです。

今日の8章16節以降に次のように記されています。

「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

 

本日は主イエスの権威という題で、御言葉に聞いていきました。         その権威とは世の権力や強制力ではなく、神さまの深い憐みと愛から生じるものであります。イエスさまのお言葉は神の権威による真理の言葉であります。

今コロナ禍においても、いろんな言葉が発せられ多くの人が惑わされていますけれども。イエスさまの言葉に権威があったのは、人の苦しみや痛みを自らのものとして感受しつつ、寄り添い、連帯していかれる意志を伴っていたからです。私たちも、このイエスさまの権威と招きに聴き従いつつ、御言葉に生きる者とされてまいりましょう。

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神の救いの完成者

2021-01-17 11:48:25 | メッセージ

礼拝宣教 マタイ5章17-20節

 

今日は未曾有の阪神淡路大震災から26年目をむかえました。又、3月は東日本大震災から10年目となります。様々な災害に見舞われて今も苦しんでおられる方がたを覚えつつ、祈りと教訓を新たにしてまいりましょう。震災の出来事を風化させることなく、祈り、覚え続けてまいりましょう。

 

さて本日は「神の救いの完成者」と題し、マタイ5章17-20節より、御言葉を聞いていきます。

この個所は5章から7章まで続く、山上の説教の中の一部分に当たります。小見出しには「律法について」とつけられています。

ユダヤの人々にとって律法は、単なる法律ではなく神に従って生きるための決まり事でした。又、預言者は、神の御心に従って律法を守り行うようにと促し、いましめたのです。それは民が罪を犯して滅びを招くことがないためでした。

イエスさまは、当時の律法学者などからすれば型破りで、その律法をないがしろにしているように映り非難されていました。だから今日のイエスさまのお言葉は意表を突くものであったことでしょう。

17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

この「律法」や「預言者」は先に申し上げたとおりですが。これを旧約聖書とその時代として捉えることもできます。イエスさまは旧約聖書を廃止するどころか、完成するために来られた。しかも18節「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」とおっしゃいます。

ユダヤの社会と生活は律法を重んじ、律法に従うことで成り立っていました。けれど神からモーセを通して与えられた戒めは人の手によって細分化され、数えきれないほどの決まり事になっていったので、だれもがすべてを守ることはできません。

そうなると、それを守る人は守れない人を「罪人」と見なし裁きます。まあ私たちが「罪人」と聞きますと、何か極悪人とか社会的危害を加えた人を思い浮かべますが。ユダヤの社会ではそれら悪事を働いた人と同様に、律法の掟を守ることができない人をも罪人、悪人とみなされたのです。

では、イエスさまは律法をどのように捉えておられたか他のところを見てみますと。

たとえば、マタイ福音書12章で、イエスさまの弟子たちが安息日に空腹のため麦の穂を摘んで食べた時、熱心なユダヤ人たちは安息日に働いてはいけないという掟を破るのかと罪人扱いします。その時、イエスさまは「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。もし、『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』という(旧約聖書)の言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪のない人たちをとがめなかったであろう」とおっしゃるんですね。律法というものは、そもそも罪のために滅びることがないように戒めるものとして神さまが与えて下さったんです。

イスラエルの民が昔エジプトの地で奴隷のような状態であったとき、主なる神さまが彼らの痛み、苦しみをつぶさに聞かれ、モーセを遣わして出エジプトさせ、イスラエルの民は自由と解放を与えられます。その折、主なる神さまはモーセを介してイスラエルが神の民としての祝福に生きていくため「十戒」をお授けになるのでね。

ですから、そもそも神の戒めは人を断罪したり、優劣をつける目的のためにあるのではないのです。

このコロナ禍でマスク警察という言葉が出ましたけれど。まあ故意に不安感をまき散らす人は論外ですが、様々な事情からマスクができない人、持ち合わせていないという人にとって、冷たい目線は針のむしろ。つらいですよね。様々な法案も上がってきていますが、人のいのちを守ろうという取り組みが、威圧的、強制力となって社会不安や排除につながらないようにと願います。

何度か申しましたが、十戒の多くは~してはならない、という否定命令形のように書かれていますが。実はその原文大本の言葉の本来の意味は、あなたは価なしに神の救いに与ったのだから、自由と解放を得た者として「~しないであろう」との呼びかけなんですね。神の民として救いの喜びにあずかったあなたは、もはやそのように生きるだろう、そのようにはしないだろうと言う、それはもう救いの神さまがどこまでも人と信頼関係を結ぼうとなさっておられるということです。唯、その神さまのいつくしみ、御心に応えて歩んで行きたいものです。

 

さて、今日のこの箇所にはもう一つ気になります事が書かれています。それはイエスさまがおっしゃった20節、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とのお言葉です。

ここでイエスさまは弟子たちに対して律法学者やパリサイ派の人々以上のものをお求めになっています。律法学者やファリサイ派の人々の義とは、戒めや律法を守るように努めて生きるということです。

律法学者やファリサイ派の人々のように敬虔に律法を守り、神に忠実に生きようと努めることは尊いことであります。しかし、どうでしょう。律法や戒めを守ろうとすればするほど、神の律法の前に如何に罪深い者であるかを思い知らされるばかりではないでしょうか。あるいは高慢になり他者を裁いて偏った考えに囚われてしまうかもしれません。

使徒パウロはローマの信徒への手紙7章7節以降で次のように言います。

「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかった。」

パウロという素晴らしい人であっても、正しく生きようと思えば思うほどそうは生きられない自分を知らされたのですね。

「律法学者やファリサイ人たちの義よりもあなたがたの義まさっていなければ天の国に入ることができない」と言われた、この「あなたがた」というのは言うまでもなく、イエスさまの弟子たち、広くはイエスさまを信じて従うキリスト者のことでありますが。私たちも又、そのパウロのように罪責感に囚われたことが少なからずあるのではないでしょうか。

この山上の説教には今日の箇所の後、律法学者やファリサイ派の人たちの教える義にまさるイエスさまの教えが語られていきます。それはものすごいチャレンジとして迫って来る心情としては到底無理だと思えることばかりです。「腹を立ててはならない」「敵を愛しなさい」「ゆるしなさい」「与えなさい」「裁いてはならない」云々

イエスさまは、本日の5章17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。なるほど、これらすべてを守ることができるのならまさしく完成形でしょう。

けれどもここでイエスさまは「このようになさねばならない」と、律法学者やファリサイ人と同様厳格に指導しておられるのでしょうか。いいえ、イエスさまの教えは戒律のための犠牲を強いる教えではありません

それは、この山上の説教の最後の7章の締めくくりといえる12節のお言葉である「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」との、この隣人愛によって完成されるのです。

私たちは神の義と愛を知りました。主イエスが私たちの罪の身代わりとなって十字架におかかりになって裁きを負って下さったことによって、私たちは神の愛といつくしみを知る者とされたのです。このみ救いを知り、与った私たちは唯感謝と喜びをもって、もはや悪から離れ、神の御心に従って生きる者となるであろう。そうです、あの旧約の戒めの神髄と言える神の愛に信頼をもって応える新たな歩みへと招かれているのです。

神の義を満たす唯一の方法として、独り子イエスさまが十字架上で私たち罪の裁きを受け、贖ってくださったその愛に満たされて、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」との呼びかけに、主のみあとに倣いつつ従ってまいりましょう。

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緊急事態宣言発出の対応について

2021-01-15 07:40:25 | 教会案内

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荒野の試み~真の依り所

2021-01-10 19:15:56 | メッセージ

礼拝宣教  マタイ4・1-11 

 

先週はイエスさまがヨハネからバプテスマを受けられた箇所を読みましたけれども、その後にイエスさまは荒れ野へ導かれて、悪魔の試みに遭われます。

水から上がられたら天が開けて霊が降り「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」と神さまは宣言なさるのです。けれども、そこからすぐに試みがあるのですね。

ここを読んで思い出しますのは、先週もお話しましたが、私が高校1年の時に主イエスのみ救いを受け入れる信仰の告白をしてバプテスマを受けるのですけれども、それはもう勘違いと思い込みの連続の未熟な、まだ何もわかっていなかった赤ちゃんのような信仰者でありました。バプテスマは霊の人として生まれる時のいわば産湯であって、その日は信仰者として歩み出した第一歩にすぎないのです。実はバプテスマの後こそ、信仰者の歩みは大事なのです。バプテスマを受けるともう問題や悩みはなくなり、ラッキーなことばかりが起こって、すべてが順風満帆にいくかというとそうではありません。むしろ自分の願いや思い通りに行かない事や思ってもいないような出来事に心揺さぶられたり、人の言動にがっかりしたり、傷ついたりというような試練や誘惑が起こってもきます。実はそれはその後のキリスト者としての歩みもそうですが、むしろ、それらの様々な試練や試みを通して私たちの信仰は試され、銀が精錬されるように練られていくのであります。

「荒野の試み」の箇所でまず注目すべきことは、イエスさまを荒れ野へと導いたのは悪魔ではなく「霊」である神であったということです。つまり、この荒れ野でのすべての出来事は神の御手のうちにあって、その導きとご計画のもとでなされているということです。

神御自身が主イエスを荒れ野へお導きになり、悪魔が試みることを許可された。それはあのヨブ記も同様でありました。イエスさまはこの試みを通して、神の子として歩むべき道が整えられていくのであります。

 

さらにここでは、イエスさまが「悪魔から誘惑を受けるために霊に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。イエスさまが単に受け身的に悪魔の誘惑に遭われたのではないのです。水曜祈祷会の聖書の学びの時にもでましたが、この誘惑という言葉は「テスト」という意味がより原語に近く、イエスさまが神の御業を成し遂げていくものとして立ちゆくため、自ら積極的に荒れ野に進み行かれたということであります。

 

さて、そのイエスさまは、荒れ野で「40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」とあります。この40という数字は、イスラエルの民が出エジプトして荒れ野を旅した40年を思い起こさせるものです。

申命記8章には次のように記されています。「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」とあります。

荒れ野において民は主に不平不満をぶつけ、偶像礼拝を行い、罪を繰り返しました。それにも拘らず主なる神は、その罪深い民に天からのマナを降らせて与え、荒れ野の旅路に先立って進み、昼は雲の柱をもって照らし、夜は火の柱をもって彼らを照らし、導かれました。こうして神の民は荒れ野の40年の旅路において主なる神の守りの中、その信仰が試され、練られていったのです。

 

本日の、40日という試みの荒れ野もまた、神の導きのもとで神の御心、神の召命にひたむきに従いゆくかという、試みを受けられたのであります。

荒れ野といいますと、私たちは殺伐とした何もない虚無な世界、それは遠く神からも人からも忘れ去られたような世界、そういう光景を思い浮かべます。しかし、聖書はそのような荒れ野とも思える状況の中で、神さまが最も近くおられ、育んでいてくださることを示すのです。繰り返しになりますが、この荒れ野での悪魔の試みは、神の召命に応えようとするイエスさまが誘惑や試練と向き合いながら、如何に「神の御心」に生きるか、が実に試されているのです。

へブル書12章に「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」と記されているように、神さまは私たちをご自身の子として愛しておられるからこそ鍛錬なさるのです。そのように荒れ野は神との信頼関係を確認していく場となるのです。

もう一つ注目しますのは、イエスさまは荒れ野で40日間断食された後に、悪魔の試みに遭われたという事です。それは断食中でなく断食という一つの目的を果たした後、まあ言ってみれば緊張がほどけたその時、空腹を覚えられ、悪魔の誘惑を受けたのです。

私どもはこの日曜日をすべてにおいて主の日として聖別するのですが、月曜から始まる日常の生活の中においてこそ実は私どもの信仰は試され、鍛えられていくのですね。

 

さて、イエスさまはいよいよ悪魔の誘惑を受けるのでありますが。それは3つでした。

第1の試みは、パンの問題であります。パンは日常的な、地上で生活するためのすべての必要物を表しています。人が生きる肉的な必要です。

ここで、悪魔はパンを「神に求めよ」とは言わないのです。悪魔は「イエス自身の力」で石に命じてパンに変えてみろ、と試みるのです。それは、神に願い求めることなく、「あなた自身の手でそれを作り出せるだろう、どうだ」という挑発です。自分の生活を自分の望む通り、欲しいと思いものをほしいままに、神との対話無しに求めみたそうとする、そんな誘惑が私たちの社会にはゴロゴロとあって、テレビやスマホからも垂れ流されています。

それに対してイエスさまは悪魔に答えます。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」

このパンの問題は私たち人間にとって最も日常的なことであります。教会に集い、信仰生活をする者にとっても、いつも問題になることです。私どもは「人はパンだけで生きるものではない」と思いつつも、その一方で「人は神の言葉だけでは生きられない」という事を言ったり、聞いたりしていないでしょうか。人が、パンなしで生きられないことは言うまでもないことです。だからイエスさまは「パンだけでは・・」をおつけになったと思うのです。しかし最も重要な事は、日々の生活において神のご采配と神の祝福を覚えることがなかったら、ただ欲望や願望を満たそうとするばかりの虚しい人生になりはしないかということです。

「神の口から出る一つひとつの言葉」によって人は真に霊肉ともに満たされる日々を生きることができる、ということをイエスさまは示しておられるのです。

その霊の糧であるいのちのパンとは、天から降り、私たちの人間の姿をとって、私たちの救いのためにその御からだを割いて下さった主イエス・キリストとそのことを証する御言葉であります。

イエスさまはマタイ6章32節以降で次のようにおっしゃいました。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。主のお姿に倣い、御神に信頼しつつ、御言葉に生き、本物のゆたかさを見出す者とされたいものです。

 

さて2つ目の悪魔の誘惑は、イエスさまが神殿の屋根の上から飛び降りて、神が救いにくるかどうか試したらどうか、という「神を試す」という高慢の罪へいざなうものであります。いわば自分の利のためなら神さえ利用させようとする誘惑です。サタンは実に巧妙に誘ってきます。それは、まさに自分の利のために神の御言葉を利用するのです。

旧約聖書の詩編91編から「主の使いがあなたの足が石に当らぬように守ってくださる」と書いてあるじゃないかと言うんですね。

使徒パウロは、「サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません」と(コリント二11章14節)記しています。

サタンは如何にも信仰的に思える表現で巧みに誘惑してきます。

「あなたが神の子であるのなら、神が守ってくださるでしょう」「信仰しているのだからいいことが起こって、何をしても必ず守られるはず」「これだけ祈ったから、これだけ働いたから、これだけ奉仕をしたから、ものごとがうまくいくはず。だって神さまだから」。それは一見信仰が強いようい思われますが、本当にそうでしょうか?これは私たちの内外に絶えず聞こえてくる試みる誘惑の声ではないでしょうか。

ある人のお兄さんが重い病気を患い入院したそうです。病室に入り、そのやつれた姿を見た弟は心を痛めながら、「神が必ずお兄さんの病気をもいやしてくださると信じます」と祈ったそうです。そうするとお兄さんは苦しさにあえぎながら、「やめてくれ、おまえの願望を神に押しつけるのではなく、御心が適うようにと祈ってくれ」と言ったというのです。その弟さんは金槌で殴られたようなショックを受けたそうです。お兄さんのその言葉に、それから「神の御心を求める祈り」について本当に考えるようになられたそうです。

私たちは時に神に対して、自分の願望を押しつけ、あたかもそうなることが当然であるかのように祈ったり、振る舞ったりすることはないでしょうか。それは「信頼」とは別物であり、神を試すこと、利用し従わせようとすることなのですね。

ところで、ここで重要なこととしてイエスさまが真に試されているのは、イエスさまのメシヤ性ということであります。

悪魔は信仰的な言葉を利用してはイエスさまを誘惑してきます。「あなたが神の子であるのなら、そのしるしを見せるときっと栄光をあらわすことが出来るでしょう」と誘ってくるのですね。       

イエスさまは後に十字架刑に引き渡された最期の場面で、いろんな人たちから「あなたたが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。そうすれば信じてやろう」(マタイ27章40節)などと罵声を浴びせられていくのであります。神の子ですから、天の軍勢を12軍団までも呼び寄せて勝つことができたかも知れません。しかし、イエスさまはその最期まで「目にみえるしるし」によらず、どこまでも神に従い続けることで「神の御心」を行われました。もしイエスさまが悪魔の誘惑のように、目に見えるしるしによって神の子の栄光を表そうとされたとしたなら、神の救いのご計画は実現しませんでした。

イエスさまは悪魔に答えます。「あなたの神である主を試みてはならないと書いてある」。

私たちも日々、この御言葉の前に身を正されつつ、主の御心を生きるものとされてまいりたいと願います。

 

最後の3つめの悪魔の誘惑ですが。それは、悪魔がイエスさまを非常に高い所に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言ったというのであります。これは高慢の誘惑、世の支配欲や権力欲の野心に働きかける誘惑といえましょう。             

悪魔がイエスさまに「すべての国々とその繁栄ぶりを見せて」とは一体どういうものを見せたのか興味を覚えますが。正月にはよく五穀豊穣、商売繁盛などと謳われるわけですけれど。しかしそれらは如何に繁栄いたしましても、やがては朽ち果ててゆき、金も銀も財宝も神になりかわることはできません。

もし、イエスさまがここでこの悪魔の誘惑話を受け入れていたなら世界はどうなったでしょう。一時は繁栄に満ちた世界になったかも知れません。イエスさまも十字架にかからずに済んで、偉大な権力者として世に大きく名をとどろかせたかもしれません。しかしそこには創造主、主なる神さまとの和解と平安、真の救いと愛は決して人類にもたらされなかったでありましょう。

イエスさまはその悪魔の魂胆を見抜かれていました。

「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。

まさに、イエスさまはこのお言葉をもって、ゲッセマネの園での祈り、そして十字架の道を自らお進みになられるのです。

ただ主にのみ仕えて生きる。これこそ主イエスが私どもに示してくださった神の子としてのお姿であり、そこに主によって救いを与えられた私どもの真の依り所があるのです。

世界的な困難が続く今の状況の中で、試みと思える時があっても、主イエスのお姿に倣い、主の御心を真の依り所として今週から始まりました一日一日を大事に歩んでまいりましょう。

 

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2021年1月10日(日)礼拝宣教題

2021-01-07 17:45:49 | お知らせ

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バプテスマを受ける主イエス~日々新たにされて

2021-01-04 09:58:26 | メッセージ

新年礼拝宣教 マタイ3・13-17

 

今年最初の主日礼拝において私たちに与えられましたのは、「主イエスがバプテスマをお受けになられた」と伝える聖書の箇所であります。古代より神の前に身を清めるため水につかる、水をかけるということは至る所で行われてきました。日本的に言えばみそぎがそうです。ヨハネのバプテスマがそれ以前と大きく異なっていたのは、そこに招かれた人たちがいわゆる宗教家や修道者ではなく、一般大衆であったということです。神殿の中に入ることも許されなかった女性たちや罪人と呼ばれる人たち、都エルサレムの人たちからよく思われていなかったガリラヤ地方やその周辺に住む人たちにもヨハネは分け隔てなくバプテスマを施し、神の前に立ち返って生きるようにと説いていました。そこへイエスさまがやって来られるのです。

13節「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところに来られた。彼からバプテスマを受けるためである」とここに記されていますが。「そのとき」というのはイエスさまにとって大変重要な意味を持っている「時」であったのですね。

なぜなら、そのときはまさに「神の時」カイロスであり、神のご計画された時、いわば必然であり、イエスさまは「そのとき」ヨハネと出会い、バプテスマをお受けになるのです。イエスさまはこの「時」によって神の召命、使命を受けられ、天の国の福音を宣べ伝える活動をすべく公の人生を歩みだされるのです。

すでにクリスチャン、キリスト者となられたお一人お一人にもそのような「そのとき」というのがおありだったのではないでしょうか。        私にとっての「そのとき」は高校1年生のイースター礼拝において、「主イエスを私の救い主として信じます」と信仰の告白をして、バプテスマを受けたそのときでした。恐らくこの機会を逸していたら、主イエスを信じる決心、信仰の告白もバプテスマを受けることもなかったのだろう、主の救いに与るクリスチャンになることも、ましてや牧師になることも、そして今もこういう仕方での福音に生きる人生も、主にある皆さんとも出会うことはなかっただろうと思うのです。まさに「そのとき」は「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント6:2)とつながっているのです。

高校生になる前に母にバプテスマの決心を初めてした時は見事に反対されましたが、高校生になるとその母も許してくれるようになりました。又、その私のことを祈って支えてくれていたのが、教会の同世代の友や教会のお父さんお母さんたちの存在でした。神さまはこういう方々を私に送り、備えてくださっていたのです。まあ、当時の私の信仰は少年少女なりの本当にちっぽけな信仰でしたが、そのありのままの自分を神さまは受け入れてくださっていることに信頼することができ、バプテスマを受けることができたのですね。バプテスマは信仰生活の本当にスタートラインに過ぎません。しかし信仰者の大事な出発点なのですね。その後の人生における信仰の歩みにおいて様々な試練に遭い、たとえ信仰を失いそうになった時にも、その出発点に立ち戻ることができ、またそこから主と共に歩み出すことができる。そのバプテスマを受け信仰の出発点をもっているかいないか。それは単なる形式を超えた神の招きと導きの始まりの時となっていくのです。

 

さて、イエスさまがバプテスマを受けようとヨハネのところに来られると、「ヨハネは『わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られるのですか』と、それを思いとどまらせようさせます。しかし、イエスさまは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とお答えになられるのです。

ここでは「今」という時が強調されています。この「今」とは、イエスさまがユダヤの辺境の地ガリラヤのナザレ人イエスとして、救いを求める人々に連なって共に悔い改めのバプテスマに与る「時」を示しているのです。イエスさまは御自分に与えられている栄光や栄誉の一切を捨て、一人の人となられた。そして世の人々に仕え、共に生きる人として大衆にまみれながら一緒にバプテスマを受けられるのです。

 

ところで、このバプテスマは頭の上に水滴を垂らすような洗礼ではなく、その全身を水に沈める浸礼、バプテスマでした。イエスさまがバプテスマを受けられたヨルダン川の湖面の海抜は何とマイナス430mと、まあ地表で最も低い場所なのですね。その最も低みでイエスさまは沈めのバプテスマをお受けになるのです。これはイエスさまご自身が、この混沌とした世において低みにおかれ、苦しみうめく者たちと共に生きるお方であることを示しています。又、全身を水に浸す沈めのバプテスマは、単に水滴や洗い流すといった清めの儀式とは異なります。それは死を象徴する「水に全身を沈める」という行為を通して、古き罪の肉の身に死に、水から生まれて新しい霊の人となることを意味しています。

イエスさまは「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることができない」(ヨハネ3:5)とおっしゃいました。イエスさまは、正にその初穂として、ヨハネからバプテスマをお受けになり、その公生涯を通して人類の裁きを身に受けて死なれ、復活の命によみがえられたのです。それが、イエスさまの受けられたバプテスマに先取りされているのです。私たちがバプテスマを受けるという事は、このイエスさまの死と復活によって与えられた新しい命に与って主である神と共に生きていくという事なのです(ローマ6:4)。

私たちの教派はそのまま「バプテスト」大阪教会を名乗っているわけですが、そこには私たち自身が罪のないイエスさまを十字架に磔にし、死の底にまで沈めてしまうほど罪深い者、神のみ救いにほど遠い者であることを心から自覚しているという悔い改め、神の方へ向きを変えて生きていくという意志が込められているのです。それは、いつも主にあって心砕かれ、悔い改めと救いの感謝をもって日々新たにされて生きる。そこにバプテストたる意味、そして意義があります。

 

さて16節、「イエスがバプテスマを受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」とあります。

この神の霊が鳩のように降るという事については、様々な説があり、これだという答えは分かりません。聖書から鳩ということで私が思い浮かんだのは、ノアの箱舟のエピソードです。人間の罪の深さを嘆かれた神さまが、洪水によってそれを滅ぼされ、ただ救われたノアとその家族は水が完全に引いたかどうか確認するべく、箱舟から鳩を放つのです。すると、鳩は大地の再生のあかしであるオリーブの葉をくわえて戻ってくるのです。そこで、神さまは空に虹の契約を立て、もう二度と洪水によって地を滅ぼすことはしないとおっしゃるのであります。そのように聖書は鳩を愛と平和の象徴として用いているのですね。そしてイエスさまが神の御心に生きる決意表明のバプテスマを受けられたとき、イエスさまによって神の愛と平和の新しい契約の時代が訪れることを、この鳩のようにお降りになる神の霊(聖霊)を通して告げられたのです。

そして17節「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。

この天からの声によって、イエスさまは神の愛する子であるという自覚を強く与えられるのです。ここで天の神がイエスさまをわたしの愛する子、すなわち神の子と言っているのは、何も神がイエスさまを、人間のように子を産むように産んだということではありません。わたしの愛する子と言っているのは、神さまと同じ心、神さまと同じご本質をもつ者という意味であります。そのようにイエスさまの心は神のお心と結びつき、後の十字架刑に至る日のような試練を神の御心として成し遂げられるのです。このように、イエスさまをして天の神は「これはわたしの愛する子」と言っておられるのであります。

イブの礼拝の時に読まれましたが。クリスマスの記事では天の軍勢が羊飼いたちに現れて神を讃美して、「いと高きところに栄光、神にあれ、地に平和、御心に適う人にあれ」と告げております。そこに「御心に適う」という共通する言葉をみつけることができるのでありますが。「わたしの心に適う者」という原文の直訳は、「神は彼を喜んだ」ということです。そうすると随分ニュアンスが違ってきますね。「神さまが喜ばれる人」。イエスさまはそのようなお方であられるということです。それはまさに、イエスさまのバプテスマがナザレのイエスという個人から、神の御心に全身全霊をもって従っていく神の子としての表明であったからだと思うのです。

先にもふれましたように、それは、すべての人の罪を背負い、贖いの業を成し遂げられる十字架の受難と死へと続くいばらの道であります。しかし、神の御心を歩みぬいて行かれるイエスさまは、「御心に適う神の喜び」であられるのです。

 

ヨハネは罪の悔改めを表す水のバプテスマを授けました。私たちのバプテスト教会もバプテスマは水に全身を沈めて行われています。しかし、そのバプテスマは、人の側の決心を超えた神の霊によって与えられるのです。水の中に沈められる時、イエスさまが私の罪を背負って十字架にかかって死んで下さったその罪の死に私が与り、水の中から起こされる時、イエスさまにあるよみがえりの新しい命・永遠の命を共に生きる者とされるのです。

肝心なのは、「そのとき」から私たちは神の御心に生きる者として、日々新たにされるのです。「神の喜び」となる人生が始まるのです。クリスチャン、キリスト者の歩みは、まさに日々新たにされていくものです。

私たちは主の救いを得ているとはいえ、自らの罪深さや欠点や弱さをたくさんもっています。しかしイエスさまのあゆみに倣って、従うことはできます。信仰の実生活、体験を通して自分の弱さや罪深さの中に、神のゆるしと主の恵みのゆたかさにあずかるのです。聖霊の慰めと導きを知り、その喜びを分かち合える人生は本当に日々新たにされていくものです。

今の状況は確かに以前とは大きく異なっています。困難も覚えます。しかし、それも私たちから「神が共におられる」喜びを奪うことはできません。

今年一年、益々主にあって互いに祈り合い、励まし合いながら、共々に日々新たにされて歩んでまいりましょう

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新年のご挨拶

2021-01-01 12:51:51 | 巻頭言

2021年を迎え、心よりお慶び申し上げます。

 

今年も礼拝宣教を中心に少しでも心に届く聖書のメッセージがお届けできたらと願っております。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

皆様にとって、よき年となりますようお祈り申し上げます。

 

神の平安と祝福

2021年 元旦

 

 

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