主日礼拝宣教 出エジプト記32章1ー14節
「民とアロン」
先週のところでは、神がイスラエルの民に「十の戒」を授けられましたが。
19章3節以降で主はモーセに、「イスラエルの人々に告げなさい。・・・今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。」彼らはこうして主なる神と契約を結ぶのです。
ところが、その民はモーセが神の山に登ったきりなかなか下りてこないことから、モーセと行動を共にした祭司のアロンに訴え、こともあろうに「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください」と言うのです。
それに対してアロンはどうしたかと言いますと、「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい」と指示し、それを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の金の像を造るのです。すると、そのことに関わった者らは「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ」と叫び、アロンもここれを見て、祭壇を築いて、民に「主の祭りを行う」と宣言するのです。
彼らが400年間住んでいたエジプトは偶像に満ちていました。それは物質的繁栄を神々と呼ぶ世界であり、形ある輝かしいものこそが確かな祝福とされる生活であったのです。彼らは目に見えるリーダーがいない状況の中で早くもそのエジプトの状態に戻ってしまったのです。ここで民は献げものをなして祭りごとを行うのですが、座って飲み食いし、立っては戯れては、安易な安らぎと楽しみを満たし得ようと勝手気ままにふるまうのです。
民とアロンはどうして、あれほど自分たちを解放し、自由の身としてくださった救いの神さまを裏切るような行為、罪を犯してしまったのでしょうか?
民は、リーダーであったモーセが山からずっと下りてこないことに、もうモーセはいなくなってしまったのではないか。この先自分たちはどうしたらいいのかといった先行きの見えない大きな不安や恐れが起こっていたのではないでしょうか。そこで民は「我々に先立って進む神々を造って下さい」と訴えをしたのでしょう。
それにしても不可解なのは、モーセと共に民を先導してきたアロンがなぜ、その民の訴えに対して、それは罪だと指摘することなく、自ら主導するかたちで民から金の耳輪を集め、祭壇を築き、偶像の型をとり若い雄牛の金の像を作ってその前に祭壇を築き、主の祭りを行おうと宣言したのかということです。
アロンはある意味、民衆の心情や感情に流されていったとも考えられるでしょう。アロン自身、最も身近な者として神の御意志を直接取り継いできたモーセがいないとなれば、
どれほどの不安と、いったいこの多くの民をどうやって導けばよいのかという重圧で追い詰められていたのかも知れません。
アロンは民の思いに心乱される中で、「あなたがたの訴えは、神の戒めに対してふさわしいことか」と、問い返すことができなかったのです。「何が神の御思いであるのか」を祈り求め、確認していくときが持てなかったのか、と考えさせられます。
アロンは自分がモーセに代わるリーダーとなる時が来たと考えたのでしょうか?
民数記の12章には、アロンとミリアムが「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか」とモーセを非難したという記事があります。同じところには「モーセという人はこの地上のだれにも優って謙虚であった」と記されています。民から神々を造るように頼まれた時、アロンが「金」を民から集めて若い雄牛の像を造ったというところにアロンの権力欲が表れているのかも知れません。
結局アロンのこの行為は、「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」「あなたはいかなる像も造ってはならない」「あなたはそれらに向ってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」との神の戒めを破り、罪を犯すことに自ら手を染めるだけでなく、民もその戒めを破り、罪を犯させることになったのです。
ある意味、主はアロンを試みの中におかれたと考えることができましょう。主がアロンに託されている事の重大さを思います。アロンが主を第一として主に信頼し、まず祈り求めていたなら、彼の行動は大きく違っていたでしょう。
私は人におもねることなく神に従おうとしているだろうか、と心さぐられる思いです。
「モーセのとりなし」
次に、その主なる神とモーセについてでありますが。
7節、主はモーセに仰せになりました。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落した、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげ、イスラエル、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だと叫んでいる」。主はさらにモーセに言われました。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする」。
主なる神は、偶像礼拝を行った民に対して、モーセに「あなたがエジプトの国から導き上った(あなたの)民」と言われています。そこには「もはや、わたしの民ではない」といった厳しい断罪の念がこめられているようです。
イスラエルの民はそれまでにも空腹や渇きから、エジプトにいた方がよかったと呟いたり、不平不満をモーセにいって詰め寄ったりと、試みのあるごとに神に逆らう中、実にモーセのとりなしを得てきたのです。そうして遂に大いなる祝福の契約を結んだのです。
それは、結婚に象徴されるような愛と信頼の関係を裏切るような偶像礼拝を行ってしまうのです。「熱情」の神は、ねたむほどの愛の神であられると聖書に記されています。
ここで主は「戒めを破ったかたくななイスラエルの民をもう滅び尽くすから止めるな、モーセあなたからの子孫を大いなる民とする」と仰せになられるのです。
それに対してモーセは神をなだめてこう言います。
11節「主よ、どうして御自分の民に向って怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導きだされた(あなたの)民ではないですか」。
もはや御自分の民とはおっしゃらなかった主に、モーセは「この民はあなたの民ではないですか。あなたがエジプトの国、囚われの地からあなたの民として導き上られ、宝の民として祝福の契約を結ばれたではないですか」と言っているのです。
12節にも「どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください」。モーセは「御自分の民」ではないですかと言っています。
先週の「十戒」の箇所で、主が罪を問われる者には三代、四代まで罪を問い、戒めを守る者への慈しみは幾千代にも及ぶ祝福を与えられるという、このあまりにも大きなひらきに、御自分の民とされた者への「熱情」とまでおっしゃるその「愛」「憐み」を知らされたわけですが。モーセはその主の愛と憐みが確かなことを唯願いながら民のゆるしを主に嘆願しているのです。いや、すごいとりなしの祈りです。まさにモーセの身を挺しての祈りであります。
民が神に対して犯した罪は、神が義と聖であられるゆえに、さらに契約のゆえにあまりに重いものでありました。
しかし、モーセがこのように主なる神に民をとりなしたことによって、主はこのモーセにあってイスラエルの民はゆるされ、主の民として再び受け入れられていくのです。モーセは神を愛すると共に、その民をほんとうに愛していたのです。
このモーセの愛の中に、まさに、罪のゆえに滅びるほかないような者のためにご自身を投げ打ってとりなされたお方がおられます。
主イエス・キリストのお姿を見る思いがいたします。主イエスは、御自分を十字架につけるような者、神の愛を拒み続けるすべての人々の救いのために、十字架の上からとりなし祈られました。私たち一人ひとりも、唯、この主イエスのとりなしの祈りによって罪を贖われ、ゆるされ、受け入れられて救いに生かされているのです。そうして私たちも又、主イエスにおける新しい救いの契約のもと、神と人を愛する祝福を受け継ぐ者とされているのです。
「試みの中で・・・」
最後に見ていきたいのは、モーセもアロンとはそのおかれた状況は異なりますが、共通していることはともにリーダーとして「試みの中におかれていた」ということです。
主はモーセに、イスラエルの子孫に約束された「わたしの民」とする契約を破棄し、「あなたを大いなる民」とすると、モーセにとってはこれ以上ないともいえる名誉を与えるとおっしゃるのです。
それに対してモーセは主に次のように答えます。
13節「どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか」。
モーセは自分の名声のためよりも、イスラエルの民に対する主の憐みとその信実が曲げられることのないようにと、民をとりなしたのです。それが自分でなく神の栄光のためであるからです。
14節「主は御自分の民にくだす、と告げられた災いを思い直された」。
もしモーセが主なる神をなだめることなく、イスラエルの民をとりなさなかったなら、アブラハムもイサクもヤコブも、そして壮大な出エジプトの救いの出来事もみな無効になったことでしょう。神とその民を愛し、謙虚であったモーセによって神のご計画は導かれ、成し遂げられていくのです。
本日は「試みの中で・・・」という宣教題をつけさせて頂きました。イスラエルの民とアロンとモーセのそれぞれが試みの中におかれながら、如何に立ち得たか、立ち得なかったか、見せられた思いです。同時に私はどこに立っているのかを主は試みの中で問われ、私たちの思いをさぐっておられます。
どこまでも、愛と憐れみの神を神としてあがめ、その神に信頼して生きる者とされてまいりたいと願うものです。
そして私たちにとりまして最大の執り成し手であられる主イエス・キリストに感謝しつつ、そのお姿に学び、倣いつつ今週もここから歩み出してまいりましょう。