日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

すべてに時がある

2013-10-27 19:13:29 | メッセージ
礼拝宣教 コヘレト3:1-15 

「はじめに」
先週は大きなふたご台風が発生し、進路次第では膨大な被害が起こるやも知れない恐れがありましたが、日本の列島を外れ、被害は最小限にとどめられた模様です。しかし長雨による土砂崩れや被害も各地で起こっています。又、前回の台風と豪雨で福島原発から既に大量の汚染水が溢れ出て海に流失しています。今回もそれら被災した地域をはじめ日本列島が守られますように、と祈らずにいられませんでした。そんな中、土曜日には福島沖を震源とする震度4の地震が東北地方中心に起こり、津波注意報も発令されましたが。幸い津波は起こりませんでした。3・11以降未だに地震が頻繁に日本列島においても起こっておりますが。その他にも今まで経験したこともなかったような災害が世界中で次々と起こっています。このような状況が今を生きる私たちに定められた時であるのなら、私たちはそいの時間軸をどのように捉え、生きていけばよいのでしょう。そのようなことを思わされます。

「コヘレトの時」
先ほどコヘレト3章が読まれました。この箇所は人生の様々な節目、「結婚式」や「葬儀」といった時にも引用され、その宣教の折にも用いられるところですが。冒頭の1節で「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と記されています。聖書が記す「時」の概念は、単に時計の針のように、流れゆく時間といった抽象的なものではなく、具体的な時、流行の言葉でいえばまさに「今でしょう!」というような具体的な時を表しています。                      
2節から8節に記されている個々の時を読みますと、それらは日常生活の中で起こっている出来事であり、具体的に「何なにを行う」という動詞と「時」が結びつけられていることがわかります。
例えば、2節「植える時、植えたものを抜く時」という言葉がありますが。これは農作業の日常として読み取れます。果樹園の植えつけと選定の作業ですね。果樹によって木を植える時期も決まっています。又、木の枝葉を切ったり抜いたりする選定の時期も決まっています。その時期に適切に行えばよく実を結び、時期を間違えて植えつけや選定をすれば果樹は台無しになってしまいます。
4節には「嘆く時、踊る時」という言葉がありますが。泣く時、嘆く時というのは「葬儀」の中での悲痛と哀悼の意を表すものです。一方、踊る時とは「婚礼」の中でその慶びを踊って表す様子が語られています。7節の「裂く時」とは、悪い知らせを聞いた時、死の知らせを受けた時、ユダヤの男性が衣の前襟首をガッと裂いてその悲しみ嘆きを表したわけですけれども。そのように感情を高ぶらせる時であり、「縫う時」というのは、その感情を静めるとか気持ちを整理し、修復していくような時を表すのでしょう。この聖書の箇所を読んでお分かりになるように、人は生まれ、この地上を離れるその日まで経験、体験し、もの思う時がある。そのように神によって定められた時があるのだ、というのがこの聖書の時の概念なのです。

こういうユダヤ人の一つの慣習があるという話をある本で知りました。    
それは結婚式のセレモニーの中で、祝いのワイングラスを床に叩きつけて割る、というのです。どうしてか? それは紀元70年にエルサレム第二神殿が崩壊したその悲痛を決して忘れないということなんですね。婚礼という最も喜ばしい祝福もまた、ユダヤの民の苦難の歴史の上にある、というその想起と祈りがそこに込められているのでしょうね。一番幸福な時に一番不幸であった時の事を心に刻みつける、というこの風習に、時に流されず、時と向き合って生きるユダヤの人びとの姿を垣間見る思いです。

「コヘレトの時代背景」
このコヘレトの言葉は「伝道者」とも訳され、口語訳聖書では「伝道の書」と呼ばれてきました。70人ギリシャ語訳聖書では、エクレシア(教会)に由来する「呼び集める者の言葉」と訳すこともできます。ですから、集会の中で読まれてきたこの書物であるということですね。                           
そしてこの書が編集されたのは、先週読みました「箴言」が編纂された時期にも近い紀元前3世紀末頃といわれております。ユダの崩壊、バビロン捕囚という辛い時代を経験し、さらに捕囚からの解放とエルサレムへの帰還、その後、ペルシャ文明化における神殿再建、さらにこのコヘレトが編纂されたとされるヘレニズム時代のギリシャ文化の風習が押し寄せ影響を及ぼす時代の流れの中で、ユダヤの民は、神の民として如何にこの時代を生きるか。そういう事どもが問われた時代であったと考えられます。そいれはまさに2節~8節に記されたごとく、壊され散らされ追いやられた時代、そして再び集められ建てられた時。ユダヤの民は集会においてこのコヘレトの書から、時は流れ、時代は変わっても失ってはならぬもの、変わることのないものを見つめ直し、歩むべき道を聞き取っていったのでありましょう。                                  

「本質のメッセージ」
現在の日本の状況においては、多くの人が不安を抱き、行き詰まりや閉塞感を抱えている一方、より豊かな資金を求めて投資や利殖、株の運営とまるで焦るように勤しむ人たちも多くおられます。むろんそれ自体悪いわけではありませんが。このコヘレトの言葉には神の時を思わず生きる人間の傲慢と愚かさ、空しさ、はかなさが徹底的に語られています。その1章でコヘレトはつぶやきます。「何という空しさ、何という空しさ、すべては空しい」。この書物が聖書が正典に組まれる迄には紆余曲折あったようです。まあこうも人の世の空しさが連綿と書き連ねてあるのですから無理もないでしょう。
しかし本書をよくよく最後まで読んでいきますと、その著者のあらゆる考察の結論として、12章13節(旧約p.1048)に「神を畏れ、その戒めを守れ」という事につきる。「これこそ人間のすべてだ」と言っているのですね。               

私たちはよりよい生活、よりよい状況を求め苦労します。それに対して9節のように「人が労苦してみたところで何になろう」という悲観的な言葉には何だかひっかかりますおね。けれども、コヘレトは「いくら努力しても無駄だ」ということを言っているのではなく、努力しても人の思い通りになるとは限らない。「神を畏れ、その戒めを守る」人は、そこで得られた結果の善し悪しではなく、11節にありますように「神はすべてを時宜にかなうように造られたのだ。すべての時は神の御手のうちにあるのだから」というのです。また、「永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」とあります。        
神を畏れ敬う人であっても、なぜこんな事が起こるのか、ということが良くも悪くも往々にしてあります。しかしどうでしょうか。時間の経過と共に後になってから、「ああ、これが神さまのご計画だったんだ」「こういう形で神さまの御業がなされたんだ」と、私たちはその一部に気づかされたりすることが確かにありまよね。人は神さまのなさる業をすべて知り得ないわけでありますが、口語訳聖書の11節に訳されますように「神のなされることは皆その時に適って美しい」と、言える日が必ず訪れるのであります。私たち人の一生はジグソーパズルのようです。1つ1つのピースを見ると何がなんだか分かりません。それが1つまた1つと集められ、キャンパスに貼り付けられていくに従い、その断片的なものが意味あいをもって全体としての完成へ向っていることを知らされるのです。                                
人生いろいろ、でありますが。「神のなさることは皆、良いこともそうと思えないことも皆、その時に適って美しい」、美しいことだったと思える充実した人生を歩んでいきたいものです。
続く12節には、「人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と/人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と」あります。2章24節にも同様のことが書かれています。                      
ここにはコへレト(伝道者)の「人生を喜び楽しむ」ことを肯定する言葉が記されています。しかしそれも13節にあるように、あなた自身の力や業は「神の手からいただくもの、神の賜物だ」というのですね。つまり、自分の力や能力だけで生きていると自負する者への戒めでもありましょう。

「神の時を生きる」
さらに14節にこう書かれています。「すべて神の業は永遠に不変であり/付け加えることも除くことも許されない。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。」       
コヘレト(伝道者)が訴えているのは、神の存在と働きを無視した人生観の空しさであります。しかし、人知を超えた知恵の中で、すべてをご計画なさっている神の御手にあることを知るとき、私たちは「喜び」と「感謝」、「平安」に与って生きることができるのです。それは神の時を生きるということであります。
 神なき人生観・世界観は、すべてが偶然であります。自分がいま生きているのも偶然、人生の出会いも偶然、死んで行くのも偶然です。その偶然には意味がありません。偶然には目的もないのです。意味のない人生、目的のない労苦……だからそれは空しいのです。しかし伝道者は「すべてに時があるのだ」と語っています。神の業とご計画は偶然ではなく「必然」であります。神が意図をもって定めた「時」がある。神が目的をもって定めた「時」があるのです。その事に私たちは期待し、だからこそ祈り、努めます。      
今日というこの日、私たちがこの集会に集いましたのも、こうしてコヘレトの言葉を聞いていますことも、決して偶然ではありません。神のなさる業の始めから終わりをなすご計画のために、必然的に召されたお一人お一人であり、今日のこの日であります。もう間もなく新会堂が完成されようとしていますが。それもお一人お一人が神さまの御手によってジグソーパズルのように組み合わされてきた一つの完成間近な形であるといってよいでしょう。

最後の15節には、「神は追いやられるものを、尋ね求められる」とあります。     
時の流れに流されてしまうような人間の、主はその魂を尋ね求められるのです。迷い出た羊を見つけるまで捜しだす牧者・主イエスのお姿がそこにあります。願わくば新会堂がその主イエスのご用のために大きく用いられますように。               
「神のなさることは皆その時にかなってみな美しい」。よき刈り入れの時を期待しながら、祈り努めてまいりましょう。
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人の心の計画と神の計らい

2013-10-20 12:41:17 | メッセージ
礼拝宣教 箴言16章1~9節 

「はじめに」
まずこの箴言についてでありますが、箴言という意味は一般的には「格言や金言」の意の漢語的な表現ですが。聖書学的には旧約聖書の時代の祭司が説いた律法の教えや預言者が語った幻とは異なる知恵文学書(ヨブ記やコヘレトの言葉)として位置づけられています。それはソロモン王をはじめ、捕囚前とその後の神を知る賢者・知者たちが人生の中で経験した出来事を観察し、得られた事柄を分類又、比較する作業をして、短い格言のような言葉で表したものがこの箴言なのです。それは人生の様々な経験から得られた知恵の結晶ともいうことができるでしょう。そしてこの箴言が最終的に編纂されたのは紀元前300~250年頃と言われていますから、これはヘレニズム時代のギリシャ文明の影響が強い時代に、ユダヤ人がその中で神の民として如何に生きるか、ということをこの箴言の言葉から聞いていったということであります。それは又、現代の文化・文明社会の中でキリスト者として生きる私たちにとっても人生の指針となるものです。

今日のこの箴言16章1~9節は、箴言の中でも8節を除けばすべてに「主」の名が記されているという特徴をもっています。箴言は単なる格言ではなく、神の御心に生きる。いわば主を主として生きることを基盤として書かれたのです。
この1~9節までを読みますと、一つ一つの格言それぞれに味わい深い神と人の関係が述べられていますが。今回改めて気づかされた事は、その一節一節の言葉は物切れになっているのではなく、テーマがあってつながっているという発見をしました。
それは「祈りの道」「主に立ち帰る道」「主の計らい」についてであります。

「祈りの道」
まずはじめの1節~3節までのかたまり。それは「祈りの道」についてであります。
最初の1節ですが、これは口語訳聖書の方が分かりやすいのでそこをお読みしますと。
「心に計ることは人に属し、言の答えは主から出る。」随分新共同訳とニュアンスが違いますが。心に計ること。これは人の計画のことですが。人は計画を立て、どんなに準備周到で臨んでも、必ずしもよい結果が出るとは限りません。たとえ結果、完璧に思える出来ばえに見えても、すべて相対的に見た時に必ずしも完全な結果であるとは言えないでしょう。なぜならそれが人の業、人の企てにすぎないからです。そこに人としての限界があります。
しかし「主が舌に答えるべきことを与えてくださる」。口語訳で「言の答えは主から出る」というのです。人は計画がうまくいった、事が運んだ時には「こう考えたのがよかった」「こうしたのがよかった」と言います。逆にうまくいかなければ「あれがよくなかった」「失敗だった」と言うでしょう。けれども本当の答えは主から出る。主がお出しになる、と言うののです。ですから主に信頼しる人は、その舌に「主がなさったことだ」「主が導かれた」と言う言葉を与えられるのです。
 私どもにとりまして新会堂の建築計画もよくよく考え造られていますが。それでも「ああすればよかった」「こうすればよかった」といったことがあるかも知れません。けれども普通の建築物と異なるのは、これが祈りのうちに建てられたものであるということです。間もなく完成する建物は本当に教会堂らしく立派です。でもそれ以上に尊いのは、その祈りの精神が働いたということではないでしょうか。

続く2節にも「人間の道は自分の目に清く見えるが、主はその精神を調べられる」とあります。人はみなその歩みや行動について、自分の心では純粋で正しいと思って実行しても、自分の思い込みであったり、自分の持っている考えや知識だけを基準にして物事をおし計ろうとしていることがあるのではないでしょうか。
預言者エレミヤは「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」(エレミヤ書17:9)と語りました。エレミヤも預言者と主の御心を求め、御心を伝える時、人々の誤った正義感や偽善性と相対する中、しんどい状況におかれることが多かったのでしょうか。かなり辛らつな言葉でありますが。つまり箴言の知者も言わんとしている事は、「人は本来自分自身を知り得ていない」ということであります。

そこで知者は言うのです。「主はその魂(精神)を調べられる」と。
私も高校の時、図書館にいって洗いざらいの本をむさぼるように探し求めていた人生の問いは、「自分とは一体何ものなのか」という問いであり、その答えでした。当時は三木清さんの「わたしの人生論ノート」という単行本に魅かれて、漁るように読みましたが。青少年時代に自己を探求し、自己吟味していくことはとっても大事なことだった、と思っています。がしかし、どんな知識も人生指南を取り入れたとしても、そこで自分が清くなったとか、自分が何ものか分かった、ということはありませんでした。ただ、私の人生にとって幸いであったことそれは、自分自身でさえ知ることができない自分の魂(精神)を知っておられる方、この自分の魂を明らかにしてくださる方、主がおられるということであります。
詩編139編にはこういう言葉が記されています。「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる」(1節)。「わたしの舌がまだひと事も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。」(4節)。それは救い主を通して与えられた私にとってのまさに福音でした。
「わたしは何もなのか」という問いに、「わたしは知られている者である」「神はわたしを知っておられる」という回答を得たからです。 人は心構えをします。けれどもそれで絶対的なものを得ることは出来ません。ここに「主よ、わたしの舌にあなたの答え、あなたの良しとされることをお与えください」との祈りが必要なのです。

知者は3節で言います。「あなたの業を主にゆだねれば/計らうことは固く立つ。」
「ゆだねる」と言うと、何かすべて神頼みというふうに聞こえるかもしれませんが。それは神さまにすべて丸投げするということでは決してありません。ここでの「ゆだねる」とあるヘブライ語「マーシャル」の原意は、「転がす」という意味です。 それは「あなたの業すべてをゴロゴロと重い石を転がすように主のもとにもっていきなさい」ということです。ゴロゴロと重い石を転がすように祈りに祈って、信仰を戴きつつ事をなしていく。それが「主にゆだねる」人の姿であります。そのように生きていく時、「主にあって人の計らいが固く立つ」そのあかしとされていくのであります。
1~3節までの格言は、「人の思いによって計画」を立てる私たちに対して、「祈りの道」という主の知恵の必要を教えてくれます。

「主に立ち帰る道」
さて4節~6節ですが。ここには「主に立ち帰る道」が主の知恵として示されています。
4節では「主が逆らう者をも災いの日のために造られた」とありますが。主のいとわれるその最たるものは5節にあるように「高慢な心」であります。まあ旧約聖書おいて真先に頭に浮かびますのは、出エジプト記の王ファラオですが。彼はその高慢と悔い改めることのない「頑なな心」によって、遂に災いを被り滅び去るわけですけれども。6節にあるように、「神を畏れ」敬う道、「主に立ち帰る道」を見出した者は、悪から離れ、神の慈しみとまことを見出し、その人は罪を贖われるのであります。それは箴言の冒頭にありますように、まさしく「主を畏れることは知恵の初め」(1章7節)であり、どんな格言にも勝る人を生かす真理なのです。

「主の慈しみまことに与った人の道」
そのように主に喜ばれる道を歩む時、7節「主はその敵をもその人と和解させてくださる」というのであります。又、8節には「稼ぎが多くても正義に反するよりは/僅かなもので恵みの業をする方が幸い」とありますが。「主の慈しみとまことは罪を贖う」という実体験をした者は、そのような真に豊かな生き方へと、主によって変えられる、ということであります。

「人の心の計画と主の計らい」
最後の9節でありますが。「人間の心は自分の道を計画する。(しかし)主が一歩一歩を備えてくださる」と知者は言っています。これが、本日の締めくくりの御言葉です。私たちは自分の心に基づいて様々な人生設計や計画を立てて日々をあゆんでいますが。しかし時としてその通りに事が運ばなかったり、挫折を経験することもあります。が、そこで出た結果に縛られることはありません。それは、主がわたしのすべてを知っていてくださる。その主だけが本当に良しとされる事、成るべき事をご存じであり、祈りのうちに導いてくださるからです。主に立ち帰って生きる者に主は再生の道を与え、その一歩一歩を備えてくだいます。「主を畏れることは知恵の初め。」そこに「神の計らい」が必ずあるという信仰的な体験を今日ここから、又心新たに踏み出してまいりましょう。祈ります。
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嘆き悲しむ人の傍らに

2013-10-13 15:48:04 | メッセージ
礼拝宣教 詩編137編  

「はじめに」
本日は「嘆き悲しむ民の傍らに」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。まずこの137編の詠まれた背景についてでありますが。それは、南ユダの国が滅び、遠く異教の地バビロニアの捕囚とされた、そのような時代に生きたユダの人々の心情を詠んだ歌であるということです。詩編全体の中にはそのような嘆きの歌が数多くありますが。実はこうして詩編としてまとめられたのは、そのずっと後の時代であり、それはユダの民が捕囚から解放されて、エルサレムに帰還が叶ったその後の事なのです。
ユダの民は遂に捕囚の身から解放され、ユダのエルサレム・魂の故郷シオンへの待望の帰還が叶った。がしかし、都エルサレムの地は見捨てられたように荒廃していたのですね。エルサレムの再建、信仰によるユダの民としての再構築が求められたのです。
そもそも南ユダの国がバビロ二ア帝国の侵攻により陥落したのは、ユダの民の荒廃ゆえであり、真の神とその教え・戒めを軽んじて罪を犯し続けていったことが崩壊につながっていったのでした。ユダの民の主だった人たちはこうしてエルサレムという魂の故郷を失い、バビロンに連行され、捕囚として異国の地での生活を余儀なくされるのです。

本日の詩は、そういった民が捕囚時代に経験した苦悩と嘆きを忘れ去ることなく、むしろそれを思い起すことで真の神に信頼し、回帰する。まさにユダの民が神の深い憐れみによって神の民としてエルサレムの都を再生していく力となるよう、詩編が編纂されていったといっても過言でないでしょう。

「バビロンの流のほとりで」
それでは詩編137編の方を読んでいきたいと思います。
まず冒頭の1節に「バビロンの流のほとりに座り シオンを思って、わたしは泣いた」と書かれています。
ユダの民はバビロンでの捕囚生活で不自由さと困難とを経験しますが、それに加えすべては神に背いた罪の結果であるという悔い改めの念とともに、異教の地であるがゆえの精神的苦痛をもその身に受けねばなりませんでした。
3節には「わたしたちを捕虜にした民が 歌をうたえと言うから わたしたちを嘲る民が 楽しもうとして『歌って聞かせよ シオンの歌を』と言うから」とありますが。それはつまり、バビロンの異教徒たちが宴会の席に捕囚の民らを呼び出し、余興として「おまえたちのシオンの歌、主なる神をほめたたえる歌を歌え」と、いわば上からの目線で絡んだということが実際あったのでしょう。
 もしユダの民がそこで、バビロンの異教徒たちの命じるままに当初からいつも歌われていた「主は主権をもってすべてを統治される」(詩編103・19)などと歌ったなら、おそらく異教徒たちは「それならなぜお前たちは滅びたのだ。お前たちの神はどこにいるのか。死んだ神なのか」と嘲笑ったことでしょう。それはユダの人びとにとって自分たちばかりでなく、神が愚弄されるという決してあってはならないことであり、耐え難い屈辱であったのです。子どもにとって家族、殊に親のことを悪く言われるのは、自分が悪く言われる以上に耐え難いものでしょう。ユダの人びとにとって主なる神が侮られ屈辱を受けることは、他のどんな仕打ちより、屈辱的なことだったのです。
国が滅び、魂の故郷シオン(エルサレム)を失った悲しみにさらに追いうちをかけたのは、こうした異教の地で聖なる真の神への讃美の歌が、余興の歌とされ、聖なる神の御名と聖なる都・魂の故郷エルサレムが汚される嘆きと屈辱にあったのです。だから詩人は4節で「どうして歌うことができようか 主のための歌を、異教の地で」と言っているのですね。2節に「堅琴は、ほとりの柳の木々に掛けた」とありますが、それは彼らにできる唯一の抵抗であったのです。断じて神の名が愚弄されることがないため歌うことを拒み、竪琴をそれぞれが柳の木々に掛けた、ということであります。

「歌いたくないのに歌を強要する」。このような事柄が日本でも起こっています。日の丸・君が代の強制もその一つです。「君が代」の歌によって戦争が美化・正当化され、それによって実に多くの人が苦しみ、命を落とさねばならなかった歴史があります。又、近隣アジア植民地とする中で、母国語の使用を禁じ、「きみがよ」を強制的に歌わせることで、民族としての尊厳を脅かし・奪っていった歴史があります。大阪府では2011年府立(公立)学校における君が代起立斉唱を義務付ける条例が成立し、その後43人もの教員が懲戒処分を受けました。
ある大阪の日本人のクリスチャンである教師は、「学校には様々な背景を持つ子どもや家族がいるので心痛む、わたしは君が代を歌う事ができないその理由がここにあります」と、その思想信条上の心の思いを表明されています。この方は業務違反ということで減給処分とされましたが。これら一連の事は「思想信条の自由を保証する」憲法の精神からも反しているということで、様々な議論を呼び長らく問題になっています。
私たちは「信教の自由を守る」立場からも、この問題に関心を持ち、注視していかねばと思います。「歌いたくないのに歌を強要される」。その悲痛なうめきは今私たちが死んでいる場所にも私たちの問題としてあるのだ、ということを覚えたいと思います。
私は何も国旗や国家を否定しているのではありません。「日の丸」と「君が代」に代わる新しい国旗と国歌ができ、心から歌える日が来ることを願っています。

さて、詩人は5節~6節で、「エルサレムよ もしも、わたしがあなたを忘れるなら わたしの右手はなえるがよい。わたしの舌の上顎ははり付くがよい もしも、あなたを思わぬときがあるなら もしも エルサレムを わたしの最大の喜びとしないなら」と歌っています。ここで言う「あなた」とは、エルサレムの都を擬人化しているわけですが。彼らにとってエルサレムは神の都であり、神の栄光とユダの民の選びそのものであったのです。
ご存じのようにこの後、ユダの民は再びエルサレムに帰還し、国を再建させました。ユダヤ教が誕生したのです。そのような事は通常では考えられないことです。如何に彼らの中に、この「エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら」という5節6節の歌が何世代にも亘って繰り返し繰り返し詠まれて覚えられて来たか、歌われて来たかということを、その事実が証明しているように思います。
私どもにとってエルサレムとは何でしょうか。クリスチャンである私のエルサレム、それは救い主、イエス・キリストが十字架で贖いを成し遂げて下さった地であり、その復活の命をもって死から勝利を勝ち取って下さった地であります。もしも、主イエスとそのみ業を忘れ、恵みとしないのなら、その信仰は何なのか、ということを思わされます。

異教徒らの「祝宴の余興におまえたちの神の歌をうたって見せろ」という嘲りと屈辱。
バビロンの流れのほとりで涙に暮れる日々。バビロン捕囚という時は、かれらのにとってどれほど辛く、嘆かわしい経験であったでしょう。しかしながら、ユダの民は異教の地で受けたこれらの出来事を通して、真の神を礼拝する大きな恵みと自由の尊さを再発見、再確認をしたのです。「信仰の目覚め」「真の神に立ち帰るこの上もない恵み」を体験を通して、つまり身を持って知る事となったのです。 
皆さま方お一人おひとりにもそのような経験がおありではないでしょうか。そして本当の意味でそのような信仰の目覚めを受けるのは、順風満帆でよい関りの時よりも、むしろ苦しみや悲しみの中で、その逆境を乗り越えたそのような時であることに気づかされます。「主は、嘆き悲しむ私の傍らに、ああ、あのようなかたちでいて下さったのだ。沈黙の中にも主は共におられるのだ。そのような体験を通して私たちは主の恵みの味わい深さ、奥深さを垣間見させていただくのであります。

「嘆き悲しむ民の傍らに」
最後にこの詩編137編を読む上で避けて通れない問題があります。それは憎しみという誰にでも起こり得る感情です。
7節以降には次のように歌われています。「主よ、覚えてください、エドムの子らを エルサレムのあの日を、彼らがこう語ったのを 『裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで。』 娘バビロンよ、破壊者よ いかに幸いなことか お前がわたしたちにした仕打ちを お前に仕返す者 お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。」
ここには、バビロンに加担してユダを滅ぼしたエドム人に復讐する者はいかに幸いかという言葉と、加えて、かつてバビロン軍の兵士がユダの子どもたちを捕え、岩にたたきつけて殺害したことに対して、同様に復讐する者はいかに幸いであるかという何とも心の凍てつくような言葉が語られています。「敵の赤ん坊を岩にたたきつける者に、祝福があるように」などと、そういった暴言が許されていいのか、と思ってしまいますが。それにしてもなぜこのような復讐心や呪いともいえるむき出しの感情を歌う詩が聖書という正典の中に収められているのでしょうか。それは、憎しみや恨みといった感情が誰の心にも起こり得るものだからではないでしょうか。人間誰しも、たとえ信仰を持っていたとしても、
何とも言い表しがたいような悲しみ、激しい怒りと憤りを経験することが時にあります。許すことができない怒りと憤り、恨みや呪いさえしてしまう。自分にもがきながらもなかなかそのどろどろとした感情から抜け出せない。そのような人を、はたして主は突き放されるでしょうか。置き去りになさるでしょうか。
いいえ、「わたしがバビロンの流れのほとりに座り、涙を流す」時、その傍らで主もまた悲しみ泣いておられます。
次の詩編138編3節には、「呼び求めるわたしに答え、あなたは魂に力を与え、解き放ってくださいました」と、歌われています。そのように主はあなたが再び力を取戻し、一切の負の感情から解き放たれることを願い導いて下さる、そのようなお方なのです。主はバビロンの川のほとりで涙するあなたに今日も寄り添って下さいます。祈りましょう。
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13日停電時間のおしらせ!

2013-10-11 22:14:05 | お知らせ
次週日曜日の13日の午前9時~10時迄は関西電気保安協会の点検により、大川ビル仮会堂は停電となります。その間はエアコン・電気等はつきません。迷惑をおかけします。

13日は通常どおり 主日礼拝は午前10時30分から開始されます。
礼拝にお越しになられる方は10時以降にいらしてください。お待ちしております。

日本バプテスト大阪教会


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主は羊飼い、わたしは羊

2013-10-06 16:45:51 | メッセージ
礼拝宣教  詩編23編  

本日は旧約聖書の中でも最もよく知られている詩編23編から、「主は羊飼い、わたしは羊」と題し、み言葉を聞いてまいります。
我が家にも「茶色い羊」(愛犬)がいますが。私が帰宅するその足音に誰よりも早く気づき、ドアを開ける前から待ち構えて、中に入ると後ろ足で立ち上がり、短い尻尾をちぎれんばかりにパタパタと振ります。子どもはちょっかいを出すので避けて通り、連れ合いは洗ったり、つめを切ったりなどの世話をするので、どうも怖がられています。私はたまに早朝の散歩と餌をあげるのが仕事なので、食いしん坊の茶色い羊には好かれているのでしょう。呼べば嬉しそうについてきます。まあそのい信頼しきった愛情あふれるひとみで見つめられると私としても答えなければなどと思って、ついエサをやり過ぎてしまうわけですが。

「羊飼いと羊の関係」
さて、羊に関しては何度も礼拝でもお話ししましたが。羊という動物の習性は群れをなして生きるということです。なぜなら一匹では生きられない弱い存在であるからです。オオカミなどに襲われればひとたまりもありません。又、決して賢いとはいえず、すぐに道に迷ってしまうような動物であります。ですから、遊牧された羊にとって羊飼いは絶対になくてはならない存在なのです。羊飼いがいなければ牧草地に行くことも、水のあるところにも行くことができません。放っておけば散り散りばらばらになり、すぐに猛獣の餌食になってしまいます。
 一方、羊飼いは子羊の頃から養育して信頼関係を築き、羊の群を導きます。羊はわからないなりにも自分の飼主とそいの声はよく聞き分け従います。この羊との信頼関係がなければ放牧することは出来ないのです。羊飼いはこの詩にもあるように「鞭」や「杖」を用いますが。それは羊に罰を与えるものではなく、羊を襲う外敵である野獣から守るために「鞭」で威嚇するために使われます。「杖」はその曲がったところを、迷い出ようとする羊の首にひっかけたりして群に連れ戻すために使われるのです。羊たちにとって鞭や杖は恐ろしいものではなく、むしろ羊飼いへの信頼を覚えるものなのです。それらのことを知ってこの詩篇を読みますと、まことに味わい深く作者の思いが伝わってまいります。
新約聖書ヨハネ福音書10章のところには、主イエスさまがご自身を羊飼いにたとえておられますが。主イエスは、「わたしはよい羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」、又「羊はわたしの声を聞き分ける」とおっしゃっています。
主イエスの呼びかけと導きを信じ、従う人はみな主の牧場の羊であり、命をかけて羊を守るよき羊飼いに養われる者なのです。

「あなたが私と共にいてくださる」
今日の詩編23編1節に「主は羊飼い」と記されていますけれども、原文に従って正確に訳せば、これは「主はわたしの羊飼い」と単に羊飼いではなく、私の、私にとっての羊飼い。「私を」守り、導いてくれる唯一の羊飼いだ、というのですね。この詩篇の作者は、「主が羊飼いのように私を導いてくださるお方である」、それも4、5節に「あなた」と二人称で呼びかけているように、神さまと自分を非常に密接な「あなたと私」という関係でとらえたのですね。ある人が教会にきだして間もない頃、祈りの場に集まった人たちが、神さまというのではなくて「あなた」という呼びかけ祈るのを聞いて、その神との関係性に非常に驚きをもった、という話を聞いたことがあります。そのような神との関係性をくださった主イエスの救いの恵み、神が私と共にいてくださるというその祝福はまことにすばらしいものです。
特に今日心に留めたいのは、さらにこの4、5節に記されていますように作者が「死の陰の谷を行くとき」、又「わたしを苦しめる者を前にして」いるという人生の中でも大きな修羅場といいましょうか、大変厳しい状況におかれた時、この歌が詠まれたということです。あるいはその修羅場をくぐった後に回想して詠まれたのかも知れませんが。いずれにしても、そのような時に作者は、「主よ、あなたが私と共にいてくださった、これからも共にいてくださる」と謳っているのです。
私たちは世にあって、その存在が脅かされるような出来事が時に起こってまいります。信頼していたものから裏切られ信頼を喪失し、何を信じていいのか分からなくなる経験をされた方もおられるかも知れません。あるいは、治療や改善がなかなか望めずに闘病生活をなさっておられる方々の胸中は計り難いものがございます。そのような時、信仰者にとってこの詩篇23篇の讃歌は、どれほどの慰め、どれほどの励ましとなってきたことでしょうか。
詩編の作者が表明した、「わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」との信頼の思いは、時に揺らぎながらもそれにすがる者に確かな平安を与え、希望さえ抱かせます。それはほんとうに私たちの人生の宝であります。

「魂を生き返らせてくださる」
さて、詩編23編はその前の22編とのつながりの中で読みますと、その内容がさらに豊かにされます。
22編1節にあります「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」これは主イエスの十字架上での叫びと重なります。9節も「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう」と、十字架上の主イエスを罵倒した者の言葉であり、19節の「わたしの着物を分け、衣を取ろうとする」という、これも十字架につけた兵士たちが主イエスになしたことでした。このように22編は主イエスの苦難と死の出来事を先取りした詩とも読めます。しかしそればかりではありません。30節後半~32節に「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、成し遂げられた恵みの御業を民の末に告げ知らせる」と、まさに主の復活と救いの祝福が予告されているようであります。が、それだけではないのです。30節前半には「命に溢れてこの地に住む者はことごとく主にひれ伏し、塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得」と。
このように、主につながった魂は必ず命を得る、という信仰を背後に読み取りながら次の23編を読みますとその豊かさがほんとうに伝わってくるのです。特に3節の「主はわたしの魂を生き返らせてくださる」という言葉は、どんなにか私たちのうちに強い支えと慰めを与えてくれることでしょうか。

牧師をしていて幸いといっていいと思いますのは、たとえ死の陰の谷に行く折においても、「主よ、あなたがわたしと共にいてくださる」という信仰の平安をもって天に召されていかれる方々のお姿に接することが許されるそのような時です。詩編には、たとえば17編15節に「わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み 目覚めるときには御姿を拝して 満ち足りることができるでしょう」という御言葉がありますが。ここでの目覚めとは、死からの目覚め、復活を意味しているということであります。それはどんなに心強いことでしょう。

6節「命ある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」
私はこの6節の言葉に大変励まされます。
一人ひとりの命はみな主なる神さまによって造られたがゆえに尊くかけがえのない存在です。ましてや羊のために命まで捨てるよき羊飼い主イエスにより贖われたお一人お一人です。主はその命が脅かされたり、危機にさらされることがないように、羊飼いのように見張りをされ、迷い出ることのないように鞭と杖でもって守り、力づけていてくださるお方が今も、いつも共におられます。羊である私たちは羊飼いであるその主の愛に信頼し、主の御もとに生涯とどまり、その恵みといつくしみを分かち合ってまいりましょう。

信仰は主が共にいてくださる、という体験です。私たちの身近なところに「主は生きておられる」「共にいて導いてくださる」という、出来事をもう一度それぞれの歩みの中から振り返ってみることは、大事なことです。きっと、主があのとき、このとき、導いていてくださっていた。支えてくださっていた、という事に気づくことができるはずです。
よき羊飼い主イエスの御もとで「恵みといつくしみがいつも私どもを追ってくるのです」。そういう豊かな日々を共々にあゆんでまいりましょう。
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