礼拝宣教 コヘレト3:1-15
「はじめに」
先週は大きなふたご台風が発生し、進路次第では膨大な被害が起こるやも知れない恐れがありましたが、日本の列島を外れ、被害は最小限にとどめられた模様です。しかし長雨による土砂崩れや被害も各地で起こっています。又、前回の台風と豪雨で福島原発から既に大量の汚染水が溢れ出て海に流失しています。今回もそれら被災した地域をはじめ日本列島が守られますように、と祈らずにいられませんでした。そんな中、土曜日には福島沖を震源とする震度4の地震が東北地方中心に起こり、津波注意報も発令されましたが。幸い津波は起こりませんでした。3・11以降未だに地震が頻繁に日本列島においても起こっておりますが。その他にも今まで経験したこともなかったような災害が世界中で次々と起こっています。このような状況が今を生きる私たちに定められた時であるのなら、私たちはそいの時間軸をどのように捉え、生きていけばよいのでしょう。そのようなことを思わされます。
「コヘレトの時」
先ほどコヘレト3章が読まれました。この箇所は人生の様々な節目、「結婚式」や「葬儀」といった時にも引用され、その宣教の折にも用いられるところですが。冒頭の1節で「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と記されています。聖書が記す「時」の概念は、単に時計の針のように、流れゆく時間といった抽象的なものではなく、具体的な時、流行の言葉でいえばまさに「今でしょう!」というような具体的な時を表しています。
2節から8節に記されている個々の時を読みますと、それらは日常生活の中で起こっている出来事であり、具体的に「何なにを行う」という動詞と「時」が結びつけられていることがわかります。
例えば、2節「植える時、植えたものを抜く時」という言葉がありますが。これは農作業の日常として読み取れます。果樹園の植えつけと選定の作業ですね。果樹によって木を植える時期も決まっています。又、木の枝葉を切ったり抜いたりする選定の時期も決まっています。その時期に適切に行えばよく実を結び、時期を間違えて植えつけや選定をすれば果樹は台無しになってしまいます。
4節には「嘆く時、踊る時」という言葉がありますが。泣く時、嘆く時というのは「葬儀」の中での悲痛と哀悼の意を表すものです。一方、踊る時とは「婚礼」の中でその慶びを踊って表す様子が語られています。7節の「裂く時」とは、悪い知らせを聞いた時、死の知らせを受けた時、ユダヤの男性が衣の前襟首をガッと裂いてその悲しみ嘆きを表したわけですけれども。そのように感情を高ぶらせる時であり、「縫う時」というのは、その感情を静めるとか気持ちを整理し、修復していくような時を表すのでしょう。この聖書の箇所を読んでお分かりになるように、人は生まれ、この地上を離れるその日まで経験、体験し、もの思う時がある。そのように神によって定められた時があるのだ、というのがこの聖書の時の概念なのです。
こういうユダヤ人の一つの慣習があるという話をある本で知りました。
それは結婚式のセレモニーの中で、祝いのワイングラスを床に叩きつけて割る、というのです。どうしてか? それは紀元70年にエルサレム第二神殿が崩壊したその悲痛を決して忘れないということなんですね。婚礼という最も喜ばしい祝福もまた、ユダヤの民の苦難の歴史の上にある、というその想起と祈りがそこに込められているのでしょうね。一番幸福な時に一番不幸であった時の事を心に刻みつける、というこの風習に、時に流されず、時と向き合って生きるユダヤの人びとの姿を垣間見る思いです。
「コヘレトの時代背景」
このコヘレトの言葉は「伝道者」とも訳され、口語訳聖書では「伝道の書」と呼ばれてきました。70人ギリシャ語訳聖書では、エクレシア(教会)に由来する「呼び集める者の言葉」と訳すこともできます。ですから、集会の中で読まれてきたこの書物であるということですね。
そしてこの書が編集されたのは、先週読みました「箴言」が編纂された時期にも近い紀元前3世紀末頃といわれております。ユダの崩壊、バビロン捕囚という辛い時代を経験し、さらに捕囚からの解放とエルサレムへの帰還、その後、ペルシャ文明化における神殿再建、さらにこのコヘレトが編纂されたとされるヘレニズム時代のギリシャ文化の風習が押し寄せ影響を及ぼす時代の流れの中で、ユダヤの民は、神の民として如何にこの時代を生きるか。そういう事どもが問われた時代であったと考えられます。そいれはまさに2節~8節に記されたごとく、壊され散らされ追いやられた時代、そして再び集められ建てられた時。ユダヤの民は集会においてこのコヘレトの書から、時は流れ、時代は変わっても失ってはならぬもの、変わることのないものを見つめ直し、歩むべき道を聞き取っていったのでありましょう。
「本質のメッセージ」
現在の日本の状況においては、多くの人が不安を抱き、行き詰まりや閉塞感を抱えている一方、より豊かな資金を求めて投資や利殖、株の運営とまるで焦るように勤しむ人たちも多くおられます。むろんそれ自体悪いわけではありませんが。このコヘレトの言葉には神の時を思わず生きる人間の傲慢と愚かさ、空しさ、はかなさが徹底的に語られています。その1章でコヘレトはつぶやきます。「何という空しさ、何という空しさ、すべては空しい」。この書物が聖書が正典に組まれる迄には紆余曲折あったようです。まあこうも人の世の空しさが連綿と書き連ねてあるのですから無理もないでしょう。
しかし本書をよくよく最後まで読んでいきますと、その著者のあらゆる考察の結論として、12章13節(旧約p.1048)に「神を畏れ、その戒めを守れ」という事につきる。「これこそ人間のすべてだ」と言っているのですね。
私たちはよりよい生活、よりよい状況を求め苦労します。それに対して9節のように「人が労苦してみたところで何になろう」という悲観的な言葉には何だかひっかかりますおね。けれども、コヘレトは「いくら努力しても無駄だ」ということを言っているのではなく、努力しても人の思い通りになるとは限らない。「神を畏れ、その戒めを守る」人は、そこで得られた結果の善し悪しではなく、11節にありますように「神はすべてを時宜にかなうように造られたのだ。すべての時は神の御手のうちにあるのだから」というのです。また、「永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」とあります。
神を畏れ敬う人であっても、なぜこんな事が起こるのか、ということが良くも悪くも往々にしてあります。しかしどうでしょうか。時間の経過と共に後になってから、「ああ、これが神さまのご計画だったんだ」「こういう形で神さまの御業がなされたんだ」と、私たちはその一部に気づかされたりすることが確かにありまよね。人は神さまのなさる業をすべて知り得ないわけでありますが、口語訳聖書の11節に訳されますように「神のなされることは皆その時に適って美しい」と、言える日が必ず訪れるのであります。私たち人の一生はジグソーパズルのようです。1つ1つのピースを見ると何がなんだか分かりません。それが1つまた1つと集められ、キャンパスに貼り付けられていくに従い、その断片的なものが意味あいをもって全体としての完成へ向っていることを知らされるのです。
人生いろいろ、でありますが。「神のなさることは皆、良いこともそうと思えないことも皆、その時に適って美しい」、美しいことだったと思える充実した人生を歩んでいきたいものです。
続く12節には、「人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と/人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と」あります。2章24節にも同様のことが書かれています。
ここにはコへレト(伝道者)の「人生を喜び楽しむ」ことを肯定する言葉が記されています。しかしそれも13節にあるように、あなた自身の力や業は「神の手からいただくもの、神の賜物だ」というのですね。つまり、自分の力や能力だけで生きていると自負する者への戒めでもありましょう。
「神の時を生きる」
さらに14節にこう書かれています。「すべて神の業は永遠に不変であり/付け加えることも除くことも許されない。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。」
コヘレト(伝道者)が訴えているのは、神の存在と働きを無視した人生観の空しさであります。しかし、人知を超えた知恵の中で、すべてをご計画なさっている神の御手にあることを知るとき、私たちは「喜び」と「感謝」、「平安」に与って生きることができるのです。それは神の時を生きるということであります。
神なき人生観・世界観は、すべてが偶然であります。自分がいま生きているのも偶然、人生の出会いも偶然、死んで行くのも偶然です。その偶然には意味がありません。偶然には目的もないのです。意味のない人生、目的のない労苦……だからそれは空しいのです。しかし伝道者は「すべてに時があるのだ」と語っています。神の業とご計画は偶然ではなく「必然」であります。神が意図をもって定めた「時」がある。神が目的をもって定めた「時」があるのです。その事に私たちは期待し、だからこそ祈り、努めます。
今日というこの日、私たちがこの集会に集いましたのも、こうしてコヘレトの言葉を聞いていますことも、決して偶然ではありません。神のなさる業の始めから終わりをなすご計画のために、必然的に召されたお一人お一人であり、今日のこの日であります。もう間もなく新会堂が完成されようとしていますが。それもお一人お一人が神さまの御手によってジグソーパズルのように組み合わされてきた一つの完成間近な形であるといってよいでしょう。
最後の15節には、「神は追いやられるものを、尋ね求められる」とあります。
時の流れに流されてしまうような人間の、主はその魂を尋ね求められるのです。迷い出た羊を見つけるまで捜しだす牧者・主イエスのお姿がそこにあります。願わくば新会堂がその主イエスのご用のために大きく用いられますように。
「神のなさることは皆その時にかなってみな美しい」。よき刈り入れの時を期待しながら、祈り努めてまいりましょう。
「はじめに」
先週は大きなふたご台風が発生し、進路次第では膨大な被害が起こるやも知れない恐れがありましたが、日本の列島を外れ、被害は最小限にとどめられた模様です。しかし長雨による土砂崩れや被害も各地で起こっています。又、前回の台風と豪雨で福島原発から既に大量の汚染水が溢れ出て海に流失しています。今回もそれら被災した地域をはじめ日本列島が守られますように、と祈らずにいられませんでした。そんな中、土曜日には福島沖を震源とする震度4の地震が東北地方中心に起こり、津波注意報も発令されましたが。幸い津波は起こりませんでした。3・11以降未だに地震が頻繁に日本列島においても起こっておりますが。その他にも今まで経験したこともなかったような災害が世界中で次々と起こっています。このような状況が今を生きる私たちに定められた時であるのなら、私たちはそいの時間軸をどのように捉え、生きていけばよいのでしょう。そのようなことを思わされます。
「コヘレトの時」
先ほどコヘレト3章が読まれました。この箇所は人生の様々な節目、「結婚式」や「葬儀」といった時にも引用され、その宣教の折にも用いられるところですが。冒頭の1節で「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と記されています。聖書が記す「時」の概念は、単に時計の針のように、流れゆく時間といった抽象的なものではなく、具体的な時、流行の言葉でいえばまさに「今でしょう!」というような具体的な時を表しています。
2節から8節に記されている個々の時を読みますと、それらは日常生活の中で起こっている出来事であり、具体的に「何なにを行う」という動詞と「時」が結びつけられていることがわかります。
例えば、2節「植える時、植えたものを抜く時」という言葉がありますが。これは農作業の日常として読み取れます。果樹園の植えつけと選定の作業ですね。果樹によって木を植える時期も決まっています。又、木の枝葉を切ったり抜いたりする選定の時期も決まっています。その時期に適切に行えばよく実を結び、時期を間違えて植えつけや選定をすれば果樹は台無しになってしまいます。
4節には「嘆く時、踊る時」という言葉がありますが。泣く時、嘆く時というのは「葬儀」の中での悲痛と哀悼の意を表すものです。一方、踊る時とは「婚礼」の中でその慶びを踊って表す様子が語られています。7節の「裂く時」とは、悪い知らせを聞いた時、死の知らせを受けた時、ユダヤの男性が衣の前襟首をガッと裂いてその悲しみ嘆きを表したわけですけれども。そのように感情を高ぶらせる時であり、「縫う時」というのは、その感情を静めるとか気持ちを整理し、修復していくような時を表すのでしょう。この聖書の箇所を読んでお分かりになるように、人は生まれ、この地上を離れるその日まで経験、体験し、もの思う時がある。そのように神によって定められた時があるのだ、というのがこの聖書の時の概念なのです。
こういうユダヤ人の一つの慣習があるという話をある本で知りました。
それは結婚式のセレモニーの中で、祝いのワイングラスを床に叩きつけて割る、というのです。どうしてか? それは紀元70年にエルサレム第二神殿が崩壊したその悲痛を決して忘れないということなんですね。婚礼という最も喜ばしい祝福もまた、ユダヤの民の苦難の歴史の上にある、というその想起と祈りがそこに込められているのでしょうね。一番幸福な時に一番不幸であった時の事を心に刻みつける、というこの風習に、時に流されず、時と向き合って生きるユダヤの人びとの姿を垣間見る思いです。
「コヘレトの時代背景」
このコヘレトの言葉は「伝道者」とも訳され、口語訳聖書では「伝道の書」と呼ばれてきました。70人ギリシャ語訳聖書では、エクレシア(教会)に由来する「呼び集める者の言葉」と訳すこともできます。ですから、集会の中で読まれてきたこの書物であるということですね。
そしてこの書が編集されたのは、先週読みました「箴言」が編纂された時期にも近い紀元前3世紀末頃といわれております。ユダの崩壊、バビロン捕囚という辛い時代を経験し、さらに捕囚からの解放とエルサレムへの帰還、その後、ペルシャ文明化における神殿再建、さらにこのコヘレトが編纂されたとされるヘレニズム時代のギリシャ文化の風習が押し寄せ影響を及ぼす時代の流れの中で、ユダヤの民は、神の民として如何にこの時代を生きるか。そういう事どもが問われた時代であったと考えられます。そいれはまさに2節~8節に記されたごとく、壊され散らされ追いやられた時代、そして再び集められ建てられた時。ユダヤの民は集会においてこのコヘレトの書から、時は流れ、時代は変わっても失ってはならぬもの、変わることのないものを見つめ直し、歩むべき道を聞き取っていったのでありましょう。
「本質のメッセージ」
現在の日本の状況においては、多くの人が不安を抱き、行き詰まりや閉塞感を抱えている一方、より豊かな資金を求めて投資や利殖、株の運営とまるで焦るように勤しむ人たちも多くおられます。むろんそれ自体悪いわけではありませんが。このコヘレトの言葉には神の時を思わず生きる人間の傲慢と愚かさ、空しさ、はかなさが徹底的に語られています。その1章でコヘレトはつぶやきます。「何という空しさ、何という空しさ、すべては空しい」。この書物が聖書が正典に組まれる迄には紆余曲折あったようです。まあこうも人の世の空しさが連綿と書き連ねてあるのですから無理もないでしょう。
しかし本書をよくよく最後まで読んでいきますと、その著者のあらゆる考察の結論として、12章13節(旧約p.1048)に「神を畏れ、その戒めを守れ」という事につきる。「これこそ人間のすべてだ」と言っているのですね。
私たちはよりよい生活、よりよい状況を求め苦労します。それに対して9節のように「人が労苦してみたところで何になろう」という悲観的な言葉には何だかひっかかりますおね。けれども、コヘレトは「いくら努力しても無駄だ」ということを言っているのではなく、努力しても人の思い通りになるとは限らない。「神を畏れ、その戒めを守る」人は、そこで得られた結果の善し悪しではなく、11節にありますように「神はすべてを時宜にかなうように造られたのだ。すべての時は神の御手のうちにあるのだから」というのです。また、「永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」とあります。
神を畏れ敬う人であっても、なぜこんな事が起こるのか、ということが良くも悪くも往々にしてあります。しかしどうでしょうか。時間の経過と共に後になってから、「ああ、これが神さまのご計画だったんだ」「こういう形で神さまの御業がなされたんだ」と、私たちはその一部に気づかされたりすることが確かにありまよね。人は神さまのなさる業をすべて知り得ないわけでありますが、口語訳聖書の11節に訳されますように「神のなされることは皆その時に適って美しい」と、言える日が必ず訪れるのであります。私たち人の一生はジグソーパズルのようです。1つ1つのピースを見ると何がなんだか分かりません。それが1つまた1つと集められ、キャンパスに貼り付けられていくに従い、その断片的なものが意味あいをもって全体としての完成へ向っていることを知らされるのです。
人生いろいろ、でありますが。「神のなさることは皆、良いこともそうと思えないことも皆、その時に適って美しい」、美しいことだったと思える充実した人生を歩んでいきたいものです。
続く12節には、「人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と/人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と」あります。2章24節にも同様のことが書かれています。
ここにはコへレト(伝道者)の「人生を喜び楽しむ」ことを肯定する言葉が記されています。しかしそれも13節にあるように、あなた自身の力や業は「神の手からいただくもの、神の賜物だ」というのですね。つまり、自分の力や能力だけで生きていると自負する者への戒めでもありましょう。
「神の時を生きる」
さらに14節にこう書かれています。「すべて神の業は永遠に不変であり/付け加えることも除くことも許されない。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。」
コヘレト(伝道者)が訴えているのは、神の存在と働きを無視した人生観の空しさであります。しかし、人知を超えた知恵の中で、すべてをご計画なさっている神の御手にあることを知るとき、私たちは「喜び」と「感謝」、「平安」に与って生きることができるのです。それは神の時を生きるということであります。
神なき人生観・世界観は、すべてが偶然であります。自分がいま生きているのも偶然、人生の出会いも偶然、死んで行くのも偶然です。その偶然には意味がありません。偶然には目的もないのです。意味のない人生、目的のない労苦……だからそれは空しいのです。しかし伝道者は「すべてに時があるのだ」と語っています。神の業とご計画は偶然ではなく「必然」であります。神が意図をもって定めた「時」がある。神が目的をもって定めた「時」があるのです。その事に私たちは期待し、だからこそ祈り、努めます。
今日というこの日、私たちがこの集会に集いましたのも、こうしてコヘレトの言葉を聞いていますことも、決して偶然ではありません。神のなさる業の始めから終わりをなすご計画のために、必然的に召されたお一人お一人であり、今日のこの日であります。もう間もなく新会堂が完成されようとしていますが。それもお一人お一人が神さまの御手によってジグソーパズルのように組み合わされてきた一つの完成間近な形であるといってよいでしょう。
最後の15節には、「神は追いやられるものを、尋ね求められる」とあります。
時の流れに流されてしまうような人間の、主はその魂を尋ね求められるのです。迷い出た羊を見つけるまで捜しだす牧者・主イエスのお姿がそこにあります。願わくば新会堂がその主イエスのご用のために大きく用いられますように。
「神のなさることは皆その時にかなってみな美しい」。よき刈り入れの時を期待しながら、祈り努めてまいりましょう。