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まことの牧者

2024-10-28 07:45:52 | メッセージ
主日礼拝宣教    エレミヤ23章1-6節  

本日は「まことの牧者」と題して主の言葉から聞いてまいりましょう。
先ほど読まれました23章の前の22章のところには、エレミヤが主の言葉をユダの王らに語られた言葉が記されております。2節以降「ダビデの王座に座るユダの王よ、あなたもあなたの家臣も、ここの門から入る人々も皆、主の言葉に聞け。主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え、寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。・・・もしこれらの言葉に聞き従わないならば、・・・この宮殿は必ず廃墟となる。」
さらに、エレミヤは主の言葉を語ります。13節以降「災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を建て、同胞をただで働かせ、賃金を支払わない者は。・・・あなたの目も心も不当な利益を求め、無実の人の血を流し、虐げと圧政をおこなっている。」

本日23章の冒頭においては、エレミヤは「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは。」と言っていますが。この「牧者」とは誰のことでしょう。私も牧師とか言われる身なので人事ではありませんが。
古代ユダヤ社会は神の戒めと律法からなっており、宗教指導者と社会的指導者が強い結びつきをもっていました。本来ならば彼らは自ら神の御心に生きて、それを示し、民も又、神の御心を聞いて実践するなら神の平安と祝福を享受することができたのです。ところが彼らは神の御心に反し、おのが道に従ったため滅びに向かっていくのです。
今もまさに、エレミヤが主の言葉を語った時代と同様の事が世界のいたるところで起こっています。権力の暴走、戦争、搾取、収奪、無実の人の血が流されています。時代は変わろうとも神に背を向けた人間同士の争い合い、奪い合いは尽きることがありません。唯、主の言葉に聞き、従って生きるところに平和と正義があることを信じます。

今日の週報の巻頭言は、聖書教育誌10月号に記載されました西南学院大学神学部教員、金丸英子さんの言葉(一部)を紹介させていただきます。
「バプテストは『バプテスト』教会を建てるために始まったのだろうか。聖書が教えるように、首長でも宗教官僚でもなく、キリストだけを首(かしら)に戴く「キリスト」の教会を望んだのではないか。その時、復活の主との出会いの経験と神の言葉を信じる聖書への信頼だけを拠り所にし、伝統や慣習の古き衣を脱ぎ捨てて、歩み出した。バプテストの先達は、神の前に自らの足らざるを知らされていた。だからこそ、復活の主を見上げて共に生きる在り方を聖書に求め、交わりを育もうとした。そのために体制(宗教体制も含め)と相入れず、権威におもねることを「是」としなかったため疎まれ、排除された。しかし、個の内面の自由に枷をかけ、異なる声を黙らせて均一化する全体主義的な力や目論見に対しては、立場や利害を超え、時には神学や宗教の違いをさえも超えて、文字通り身を挺して「否」を唱えた。それがバプテストとしての信念、バプテスト教会の使命と信じたからである。この信念は、「自分の目で聖書を読み、自分の頭で考える方」へと私たちの背中を押し、「自分の声を取り戻して、自分の言葉で語るように」と励ます。他者にもそう励ます。そのミッションを帯びていきたいものだ。神と人とに対しても、自分自身に対しても。」
含蓄のある言葉だなあと拝見させていただきました。どのような時代、又どのような状況におかれても、神を畏れ敬い、人を真に生かす主の言葉に聞き、生きるところに真実の正義、平和があると信じます。自らを戒めるとともに、神の正義を祈り求める存在として私たちは招かれているのです。

さて、牧者といえば「羊飼い」ですね。詩編23編には、よく私たちも知っていますダビデ王の詩、賛歌が記されています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」
ここでダビデ王は、主御自身が私をいつも養い育て、危険なものからも共にいて守り、助けてくださる真の羊飼である、と歌います。ダビデはこの主に信頼し、依り頼んで生きたのです。主を愛し、信頼し、主の御声に聞き従って、王としての務めを果すことができたのです。
ところがダビデの子であったソロモン王の後の王たちは、律法を読み直し宗教改革を断行したヨシュア王を除けば、大半の王は主の言葉に聞き従おうとはしませんでした。彼らは2節にあるように、羊の群れを散らし、追い払い、顧みることをしません。
22章にありましたように、「恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を建て、同胞をただで働かせ、賃金を支払わず、目も心も不当な利益を求め、無実の人の血を流し、虐げと圧政をおこなっていた」のです。王たちは権力に自分の基を置き、私利私欲のために働いていたのです。
それは祭司や預言者という宗教的指導者たちもそうでした。彼らも自らの立場を守るための御用学者、偽宗教家でした。主の言葉に聞き従うのではなく、王におもね、自らの地位をいかに築くかに心を囚われていたのです。王や宗教的指導者たちは、自ら進んでよい羊飼いとなることはありませんでした。彼らは自分たちの利益や安泰を図ることに心と思いがあったために、主の言葉を聞く耳を持たなかったのです。やがてユダの国、王や指導者たちは滅び、裁きを身に受けることになります。しかし、主はただ彼らが滅びることを望まれたのではありません。本心から立ち返って生きることを願っておられたのです。
3節「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない。」
主はこのようにその救いの回復と希望を語られるのです。それは人の知恵など到底及ばない神のご計画でありました。
4節「彼らを牧する牧者をわたしは立てる。」
なんと主御自身が、群れを散らされたところから集め、ダビデ王の時代のような繁栄を取り戻してくださるというのです。それは神を畏れ敬い、神の御心を行うことによって真に喜びに生きる社会、又世界の訪れです。この主の回復の言葉を語ることができたエレミヤの胸中は、心に覆っていた嘆きと悲しみの闇に光が差し込んで来る思いであったのではないかと想像いたします。

主は言われます。5節「見よ、このような日が来る。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。」
主は回復のための神の直接的な介入者として「正しい若枝」を起こされるのです。
この「若枝」(ネツェル)については、預言者イザヤも同じ言葉で預言しました。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず。耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い。この地の貧しい人を公平に弁護する。」(イザヤ11:1-5)
この「正しい若枝」は、神の義による統治を実現する神の知恵と知識の霊がとどまる王です。
その「王」の名は「主は我らの救い」と呼ばれる、とも言われます。名は体を表すといわれますが。それは「救いをもたらす王」であるということです。又、この「救い」は「正義」という意味をもつ言葉であることから、「正義の王」であるということです。しかしその時代の王や指導者たちも「正義のために」ということを口にするのであります。それは時に都合よく曲げられ、すり替えられ、社会的に弱い立場の人たちを見捨てていったのです。
預言者イザヤはそれに対してこの若枝である王は、目に見えるところによって裁きを行わず。耳にすることによって弁護することなく、弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護される、と語りました。人を偏り見ることなく正しい裁きをもって導く指導者、しかもいつくしみをもって弁護する「救いの王」「正義の王」を起こすと神の約束を語っているのです。
捕囚となった者も、また廃墟と化したエルサレムに取り残された者も、深い絶望感に陥っていました。しかし彼らはそういう中で、主が預言者イザヤ、又エレミヤを通して語られた「救いの王」「まことの王」の出現とその正義による民の回復に望みをおき、それぞれの地で生き抜いたのではないでしょうか。それから70年近くの後、政権はペルシャの王キュロスの手に渡ります。神はキュロスを用いてその神の約束を実現します。ユダの民は捕囚からの解放、そしてエルサレムへの帰還、さらに神殿の再建といった神への信仰復興へと導かれていくのです。
神を畏れ敬うリーダーが神に立てられ、神の愛に立ち返ることを通して、神の律法と礼拝の大切さを再確認することができたユダの人々が神の民として生きる時代が訪れるのです。しかしそれは決して平たんな道のりではありませんでした。その後も神に逆らう勢力は神の民を圧迫し、非常に厳しい迫害の時代が訪れます。再び「救いの王」「正義の王」を待ち望む切実な神への祈りが捧げられ、それが時代に翻弄される神の民の支えと希望になっていきました。そしてその後、ローマ帝国の支配と圧政、その傀儡政権の時代の最中において神の約束、「正義と恵みの業を行う」イエス・キリストが誕生されるのです。イエスの弟子たち、そして私たちキリスト教会はナザレのイエスというお方のうちに、この預言者エレミヤの言葉が実現していることを見て、信じているのです。

ヨハネ福音書10章10節「わたしが来たのは、羊が命を受けるためである。」11節、14節「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」28節「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」
それは十字架の死と復活を通して実現されました。さらに聖霊の降臨による偉大なお働きを通してもたらされたのです。
「主は我らの救い」「主は我らの正義」「主はまことの牧者」。この主に導かれる私たちも、主の正義と恵みの業がこの社会に、又世界に行われますよう祈り努めてまいりましょう。
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