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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

イエスの苦難と十字架

2014-03-30 14:30:37 | メッセージ
賛美礼拝宣教 マルコ15章25~32節 


本日は「主イエスの十字架の御業」をテーマに新生讃美歌よりよく歌われているものを選ばせて頂きました。今日は特に賛美の前に、その歌詞にちなんだ聖書の御言葉を司会者より読んで頂いておりますが。私たちの救いの恵みは、神の御子イエス・キリストの尊い命が捧げられたその愛によって与えられていることを覚え、この礼拝をお捧げしたいと願っております。

これまで礼拝においてマルコによる福音書より、先々週は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」というお話。先週は「永遠の命を受け継ぐにはどうしたらよいのか」というお話を読んできました。どちらも神の国についてのお話でありましたが。本日はイエスさまがお受けになった苦難と十字架の場面でございます。これは如何にしてイエスさまによって「救いの道」、「神の国」が私たちにもたらされたか、ということについてのお話です。

25節にイエスさまが午前九時に十字架につけられたこと。そしてイエスさまと一緒に2人の強盗がその左右につけられたことが記してあります。この十字架刑というのは、ユダヤ統治をしていたローマによれば極悪非道の罪を犯した者が裁かれる刑罰であったわけですが。しかしイエスさまは無実でありましたから、まさに理不尽極まりない濡れ衣を着せられて十字架にかけられたのです。一体なぜ、そのようにイエスさまが残虐極まりない刑に処せられねばならなかったのでしょうか。それは、人間の罪が余りにも大きく、深いからです。

さて、「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって『おやおや、神殿を打倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ』と言った」とあります。

それはかつてイエスさま御自身がおっしゃった言葉でした。しかしこれは単に建造物に関して言われたのではなく、神の国の霊的再建をそのように言われたのであります。
又、「同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して『他人を救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう』と言った」とあります。
さらに、「一緒に十字架につけられた者たちまでも、イエスをののしった」とあります。

このように、十字架につけられたイエスさまは、その周囲にいたユダヤの民衆たち、ユダヤの宗教的指導者たち、そして犯罪人たちからも一斉に軽蔑とののしり、侮辱をお受けになられたのでありますが。
その人々はみな一様に、「十字架からおりて、自分を救ってみろ」と言っています。

しかし、そのような「自分を救ってみろ」という挑発的な言葉に対して、イエスさまはただ黙し、一言もお答えになりません。裁判の席でもローマの総督ピラトの前でも、御自分を正当化するようなことを一言も口になさいませんでした。
イエスさまは不当に訴えられているわけですから、そこでご自分の正当性を主張すること、つまり「自分を救うこと」も十分できたはずであります。しかしそれを自ら拒まれたのです。本日の箇所の前の23節には、兵士たちが没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに飲ませようとしますが、イエスはお受けにならなかった」とあります。その後イエスさまは絶叫して息を引き取られたとございます。
没薬を混ぜたぶどう酒は、一種の麻酔剤で、痛みの感覚を除くという作用があり、死刑囚に対し処刑の直前に与えるユダヤの習慣があったといわれています。しかし、イエスさまはそれをも拒否されたのです。その身に負われる十字架の痛みを和らげることなく、父の神がお与になられた杯を飲みほされる覚悟をされていたからであります。ご自分を救うことをなさらなかったのは、父の神の御心にどこまでも従っていかれたからです。

「他人は救ったのに、自分は救えない。」
それは結局自分が救われなければ意味がないという考えです。「自分を救えないのに人を救えるものか」という世の論理。世間は「イエスよ、なぜお前は自分の正しさ、正当性を証明して自分を救わないのか」といざなうのです。多くの律法学者もファリサイ派の人たちも、律法や戒め規定を守ることで自分たちは正しいと正当化していました。自分の正しさを神の国に入る証明書のように考え、逆に自分を正当化できないような者は罪人だと決めつけ、見下したのです。
イエスさまはご自分の正しさを主張なさいません。ただ黙し、挑戦的な言葉には答えられませんでした。イエスさまは生涯罪を犯すことはありませんでしたが、自らを正当化しようとはなさいません。それは父の神の正しさに従われたからです。

先週礼拝で読みました金持ちの男のエピソードは、「人の側の持てるものによって人が神の国に入れるものではない」というお話でした。イエスさまはそこで、「神の国に入れるものとなるかどうかは人間の側からどうこうできるものではないが、『神にはできる。神は何でもできるからだ』とおっしゃいました。
十字架上でイエスさまは自己の正しさによるのではなく、父の神の正しさ、すなわち、その御心に徹底的に従われたのであります。確かに動揺や恐れ、どんなにか不安に襲われることもあられたでしょう。その苦悩と苦痛はどれほど耐えがたいものであったでしょうか。 
けれども、父の神がさし出された苦い杯を最後の一滴までも飲み干されるようにして、すべてをおゆだねになったのです。その時「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と聖書に記されています。如何ともし難い人間の罪が、神の御旨をその身にお受けになったイエスさまを通して、取り除かれ、天の門が開かれたのです。
「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
人は自分を正当化することによっては救われません。しかし「神には何でもおできになる。」天の門は主イエスによってすでに開かれています。

今朝は特にイエスさまの受難と十字架の意味を深く味わいつつ、神の国への扉がこのイエスさまによって開かれていったことを覚え、主に感謝と賛美を捧げましょう。
そうして、私ども主イエスの十字架を通して、神の国への道へと導かれている者も、日々主イエスさまのあゆまれた道、その言動にいつも聞き従いつつ、歩んでいく者とされてまいりましょう。
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イエスに従いゆく道

2014-03-23 14:55:34 | メッセージ
宣教 マルコ10章17~31節 

この箇所には、金持ちの男とイエスさまの「永遠の命を受け継ぐ」ことについての対話が記されていますが。彼はユダヤ人で神の律法を幼い頃から学び、日頃からそれを心にかけてきた人でした。しかし、その地を訪れたイエスさまの教えや行動に大きく揺さぶられるのです。「まだ自分には足りないのではないか。」そんな疑問が膨らんでいったある日、いよいよイエスさまがその地を離れて旅に出ようとされるそのところに、彼は走り寄り、ひざまずいて、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればいいのでしょうか」と尋ねるのであります。

イエスさまはここですぐその質問にお答えにはならず、彼が「善い先生」と呼んだことに対して、「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と忠告なさいます。イエスさまはこの男の心のうちに「善い人」になりたいというあこがれ、そう認められたいという強い願望があることを気にかけられます。「あの人は善い人だ」「非の打ちどころのない人だ」などと世間では口にされますが、それは人の一部あるいは側面だけ見て評価しているに過ぎません。善い人になりたいと努め励むこと自体尊くとも、それが必ずしも神の前で善いものであるかどうか人が言う事はできないのです。イエスさまは、父なる神さまのみが善であると言われます。人はとかく善人、立派な人のイメージを作りあげ、それに捕らわれるものですが。全き善であられる神は何を望んでおられるのか、尋ね求め、従ってゆくことをイエスさまは生涯を通してお示しになられたのであります。
ヨハネ5・19でイエスさまご自身、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」と言われているように。

さて、さらにイエスさまは律法の十戒を引用して、「あなたはこれらの掟を知っているはずだ」と言われます。ここで引用されたのは十戒の後半部の「人間相互に関するもの」でした。いわば「人の世でどう生きてゆくか」という戒めですね。
イエスさまはここで、十戒の前半部の「神と人との関係」についての戒めには触れておられませんが、それは人間相互に関する戒めの方がより大事ということではなくて、神と人との正しい関係を前提にした具体的な現れ、恵みの業としてあるべき人と人の正しい関係が語られているのです。
そのイエスさまが引用された十戒の中に、「奪い取るな」とありますが。実はこれは十戒にはないのですね。敢えていえば「隣人のものを一切欲するな」という戒めの自由な解釈ともとれますが。まあ、マタイとルカの並行記事では「奪い取るな」というのは削除されています。ただ、この「奪い取るな」というのは、元々自分のものではないものを自分のものにするな、ということですから、そう考えるとイエスさまが十戒の後半から引用された、命、婚姻、財産、権利について、それらは神から与えられたもので、それらを我がものとして奪い取るな、というふうにも読めると思えます。

そのようなイエスさまのお言葉に対して、金持ちの男は「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えます。

するとイエスさまは「彼を見つめ、慈しんで」とあります。神の律法を重んじ、まっすぐにそれを守り通してきたこの人を慈しみ、愛情溢れるまなざしを注がれるのですが。しかし、それがこの男の「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか」という質問に対する完全な答えであるとは考えておられませんでした。むろんこの男も律法を守るだけではまだ何か足りないのではと気づかされたからこそ、イエスさまのもとを訪ねてきたわけです。そこでイエスさまはこの人に、「あなたに欠けているものが一つある、行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる、それから、わたしに従いなさい」とおっしゃいます。

多くの財産を持ち、幼いころからユダヤの教育を受け、律法を厳格に守り、常に向上心をもって生きる、だれの目から見ても、申し分のないようなこの人でしたが、イエスさまは「あなたに欠けているものが一つある」とおっしゃるのです。一体彼のどこが、何が欠けているというのでしょう。

ここでイエスさまは永遠の命を受け継ぐために、何が何でも自分の財産を売り払って、貧しい人に施すことが必要、と言われたのではありません。それが永遠の命を受け継ぐための条件というのではないのです。
この男に欠けていたこと。それは、彼自身の命をはじめ、財産も、すべては天の御神から一時的に地上にある間生かして用いるために与っている賜物である、との認識がなかったということです。永遠の命を得、神の国に与れるために必要なことを、このような形で投げかけられた時、この人は今まで気づきもしなかった自分自身の欠けたるものを、まざまざと思い知らされるのであります。22節にあるように「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ってゆく」のでありますが。聖書はここに、それは彼が「たくさんの財産を持っていたからである」と記しているのであります。
彼はイエスさまに二度と口を開くことなく、イエスさまの前から立ち去り、我が道を帰ってゆきました。多くの人は、もっとお金があれば気前よくなれる、何でもできると考えます。しかしこの人は多くの財産を所有していたがゆえに、それに執着し自由になることができなかったのです。だからといって誤解されては困りますが、財産を持つこと自体が悪いわけではありません。この男は経済的な祝福を受けた人でした。しかし、この人は賜物として託された財産と、それを託されたお方を同じ天秤にかけてしまったのです。
先週「神の国に入る人」と題し、宣教を聞きましたが。この金持ちの男はその多くの財産への執着に子供のように神の国を受けとり、入るものとなることができません。彼はその招きに与りながらも、自ら逸してしまうことになるのです。

24節で、イエスさまは弟子たちに言われます。「子たちよ、財産のあるものが神の国に入るのは、何と難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
ユーモラスな表現ながら、何とも考えさせられる言葉であります。
人は金や富を多く所有するとそれで何でもできるという錯覚に陥ります。計算高くなり、次第にすべての源である神を畏れず、感謝することなく、祈り求めなくなります。

さて、それを聞いた弟子たちは驚いて「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言ったとあります。ここでの「救われる」の意味は「神の国に入る」ということですが。先程も触れましたけれど、ユダヤ社会で裕福であることは神からの祝福を示していたのです。それが、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたイエスさまの言葉に弟子たちは大変ショックを受けた、ということですね。
弟子たちもまた、「お金があれば施しもでき、善行も積める。捧げものだって牛1頭もささげることもできる。それでも神の国に入れないなら一体だれが救われるのか」と、人の行いやお金の力に捕らわれている面があったのではないでしょうか。
しかし、イエスさまはそんな弟子たちを見つめながら続けてこうおっしゃるのです。
「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるから。」

この箇所の名訳を見つけました。それは「小さくされた人々のための福音」(神世社)本田哲郎訳であります。そこにはこう訳されています。「神の国に入れないのは、人間の側のせいで、神のせいではない。神の側からはすべてが可能だ。」 どうですか、痛快な名訳ではないでしょうか。そこにイエスさまが最もおっしゃりたかった思いを読み取れます。
金持ちの男は、神の国の迫りをイエスさまの問いによって突きつけられた時、とうてい従い得ない自分の姿、その限界をまざまざと思い知らされ、イエスさまの前から立ち去る他しかなかったのです。
しかし、聖書はそのような自分の限界にぶち当たり、挫折する人にこそ、「神の側からの救い」を指し示されるのです。ちょっとここでローマの信徒への手紙10章を開けてみましょう。新約聖書p.288です。10章2~4節をお読みします。「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」
神の側からの救いの道、イエス・キリストです。この命の主から注がれる義とその救いを信仰によって受け取る。その時、神の国は開かれるのです。

本日の後半の28節以降で、ペトロがイエスさまのお言葉に対して、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言い出したとあります。

29節、30節を読みますと、イエスさまはそのペトロの思いを十分理解をされていることが分かります。筆頭弟子のペトロでありましても、主の招きに応えて従うには大変な葛藤があったのです。しかしここで注意しなければならないのは、世にあって大切な家族、や財産の放棄が、主の御後に従うための条件ではないということです。それは、主の側からの招きに御神にゆだねる信仰によってなされた放棄であります。その順番が逆ではないのです。弟子たちはそれぞれに、ある人には漁師や収税所の仕事の放棄がなされたり、ある人には両親と離れることであったりいたします。それを神の前に手放すことがなければ、イエスさまの御そばに留まることができなかったからです。
この主の御後に従うということの実現は、まったく神さまの側の業でありましたが、そこにはまさしく子供のように神の国を受け入れる信仰と神にゆだねる決意が必要でした。イエスの弟子たちはそれぞれそのような体験の証しがあって、30節に記されているように、神の家族としての祝福と永遠の命を受け継ぐ希望を授かっているのです。

最後の31節の「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」とのイエスさまの言葉ですが。これは一種の警告といえます。どんなに多くの財産を放棄したとしても、立派な奉仕や善行を積んだと主張しても、それ自体が神の国に入り、永遠の命を受け継ぐ保証とはなりません。神の側からの恵み、救いの福音を子供のように受け入れ、この限られた地上の生涯を主から戴いているあらゆる恵みの賜物を活かし用いてゆくことを主は何よりも喜んでくださいます。今レント(受難節)の只中ですが、33節以降で語られた主イエスの受難と死を通して与えられた罪の贖いの御業とみ救いの道が拓かれたことに心留めつつ、主イエスに従いゆく道を歩み続けていく者とされましょう。
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神の国を受け入れる人

2014-03-16 19:16:54 | メッセージ
礼拝宣教 マルコ10章13‐16節 

3代目の新会堂が建ち、すでに大阪教会の新しいページをめくるべくその歩みが始まっていますが。先週大阪教会のブログが2008年6月に立ち上って以来、訪問者総数が10万人を突破いたしました。多くの方々が訪問してくださっていることを、うれしく思います。

本日はマルコ10章13節~16節のところから「神の国を受け入れる人」と題し、御言葉を聞いていきますが。まずこのように記されています。

13節「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。」
イエスさまは、マルコ3章、5章、6章、8章のところで、病人をいやすために御自分の方から病人たちに近づき彼らに触らておいやしになられたケースや、又、病人たちがイエスさまに触れていやされたケースも記されています。
本日の箇所では、子供を持つ親御さんたちが子供を祝福してもらうためにイエスさまのもとに連れてくるのです。これは当時ユダヤ人の間に、子どもたちを礼拝堂に連れて行き、祭司や監督者らに祝福してもらう習慣があったのです。
イエスさまの噂を耳にした人たちが、恐らく母親たちでありましょう、「どうかうちの子を祝福してやってください」「丈夫に育ちますように」「よい成長がありますように」「神さまの祝福に与れますように」と、子供たちを連れて来ようとすたのです。
 ところが、それを見た弟子たちは、「この人々を叱った」というのです。弟子たちにすれば子供を祝福してもらういくらいの事で自分たちの先生を煩わすまいということだったのでしょうか。又、弟子たち自身も赤ちゃんや幼児が泣いたり、はしゃいだりするのに煩わされされたくないと思ったのかも知れません。彼らは母親たちに何と言ったんでしょうね。「あーこっちに来ちゃだめ。先生は忙しいんだから」と、無邪気にイエスさまに走り寄ってくる子にも「はいはい子供はあっちにいっていなさい」と叱ったのかも知れません。

しかし、14節「イエスはこれを見て、憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである』と言われるのです。憤って、まあ憤慨してということでありますから、それはかなり強い口調で弟子たちにそのようにおっしゃったのでありましょう。
 では、イエスさまは何をそんなに憤られたのでしょうか。
それを知るためには前の9章33節以降のエピソードに目を留める必要があります。
弟子たちは道の途中で「自分たちの中で誰が一番偉いか」と議論していました。弟子たちもまた世の権力、出世欲、「認められたい」「一番になりたい」そのような願望に捕らわれていたのです。預言者のように威言と力に満ちたお方の弟子であるというおごりも当時あったのかも知れません。
ところが、イエスはそんな彼らの真中に一人の子供を立たせ抱き上げて、「わたしの名のためにこのように子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とおっしゃるのです。彼ら弟子たちを前に、イエスさまは権威や権力とは対極的な世で軽んじられるような存在を神の前にかけがえのないものとして真中に立たせ、抱き上げ、祝福されるのであります。
 先程のイエスさまの憤りは、それらを聞いて気づかない弟子たちへの憤りであり、まさに子供のように神の国を受け入れようとする人たちはを阻む「世の力」に対する強い憤りであったのです。
 
さて、イエスさまのこの「憤り」についてですが。共観福音書のマタイ19章、ルカ18章の並行記事には実は記されておりません。そこには神の御子であられるイエスさまが、人間的な感情を露わにされて「憤る」など相応しくない、それを覆い隠そうという理解があったのかも知れませんね。けれども、マルコのこの記事はイエスさまの人間としての感情のあらわれをそのまま記しているのです。ちなみに、今日の記事の終わりにも、前の9章36節と同様、イエスさまが子供を「抱き上げ」る姿が記されていますが。マタイとルカにはイエスさまが子供たちを「抱き上げ」るという事は記されておりません。これも「憤る」と同様、人間的で神の子に相応しくないという理解が働いていたと考えられるのかも知れません。けれどもマルコの記者はイエスさまの人間的側面をあるがままに記す事で、イエスさまが何を大事になさり、どのような思いでこの地上を歩まれたのか、というメッセージをはっきりと指示してくれるのであります。

さて、イエスさまは、「子供たちをわたしのところに来させなさい。・・・神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃいます。

この当時の時代は、福音書の5千人の給食等の記事を読んでわかるように、女性や子供はものの数として顧みられてはいなかったのであります。けれどもイエスさまは、その時代の見方や考え方を遥かに超えた天の眼をもって、数に数えられないような小さいものと見なされいた子供たちにも目を注がれます。それはまた、その子供たちをイエスさまのところへと連れて行き祝福を戴こうとした親御さんたちに対する暖かなまなざしでもあったでしょう。このように神の国を求める人たちを前にイエスさまは、神の国はいうならばこのような人たちのものである、と大胆に宣言なさるのです。
そうして本日の宣教題であります15節の御言葉、「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と、イエスさまこうおっしゃるのでありますが。
この「はっきり」と訳されたギリシャ語原文は「ア―メン、エゴー、、」と続いていますように。それは真に私は言いますとか、「本当に私はいいます」という確信をもった言葉なんですね。つまり、イエスさまは「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と、それを「真に確かなことだ」と、おっしゃたということであります。

ごく小さな子供は、率直で、ストレートに人や物事と向き合おうとします。大人のように見栄を張ったり、体裁を繕おうとはしません。又、幼児はいろいろとわがままもいいますが。けれどもそれはど親に信頼があるからです。でなければ心を閉ざすものです。子供は自分のことを受けとめようとしてくれる人のところには寄ってくるものです。高感度の愛情アンテナをもっているのかも知れません。
又、先日の祈祷会でここを読んだ人が、「13節に人々が子供を連れて来た、弟子たちはこの人々を叱った」とある。これまで子供が叱られたと思っていたが、ここに母親の姿があることに気づいていなかった」と話されたのですが。彼ら母親、父親やじいじばあばもいたかも知れませんが、そういう何とかイエスさまに手をおいて子供を祝福してもらいたいという人たちが、彼らもまた子供のような心でイエスさまのところに子供と共に近寄っていたのですね。私はそのことが、今日の御言葉の文脈から強く迫って来たのです。それは、イエスのおそばにいても私が偉い、誰が偉いとかに心捕らわれていた弟子たちよりもずっとまっすぐに神の国を求め、受け入れようとした人たちであったのですね。その小さい立場におかれた者らをイエスさまは弁護し、手を置いて祝福されたのです。そのことが何とも素敵で勇気づけられるのであります。
今日のこのイエスさまの「子供のように」という言葉は、子供だけを特化したり、対象化したものではありません「子供のようにまっすぐに神の国の福音を受け入れ、救いの祝福に与るならば天の国はその人のものなのです。しかしそうでないならば、決してそこに入ることはできない」と、イエスさまはおっしゃるのであります。

最後に、今日の聖書箇所である、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」とイエスさまが言われた言葉、これは私たち自身のこの教会にも語りかけられているものでありましょう。神さまの祝福に与るべく実に様々な方々がこの教会にいらっしゃいます。今日の御言葉のように、小さいお子さんtも親御さんもそうでしょうし、初めて教会に来られる方、耳や目の不自由な方、日本語を理解し辛い方、聖書を開け辛い方、その他にも礼拝への参加を願つつ多少なりとも不自由を覚えていらっしゃる方もおられるでしょう。神の国を求め集う誰もが主イエスに招かれている喜びと祝福に与るため祈り、知恵をしぼり、そのために努めていく主からのチャレンジといいますか、問いかけを今日の箇所から戴いているように思えます。    
子供に関していえばですが。今はまだはっきりとした形での大人と子供との礼拝を描けてはいませんが。礼拝プログラムの中で、子供たちは、前半の子供メッセージまでは共に与り、宣教の時間子供は2階多目的ホールに移動してCS活動を行い、後半の献金と祝祷には再度一緒に礼拝を捧げるというようなスタイルに出来ないだろうかと考えています。
私たち自身がまず、「子供のように神の国を受け入れるもの」とされ、そのようにあり続けると、同時に主が招かれるすべての人たちをも迎え入れてゆくことにもつながっていくと、信じ、祈り求めてまいりたいと思います。
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開かれるべき出来事

2014-03-09 14:43:36 | メッセージ
礼拝宣教 マルコ7章31~37節 

先週は献堂感謝の特別礼拝、午後からの献堂感謝式が主の豊かな恵みと祝福のもと行われました。週間天気予報では日曜日の降水確率は80パーセントでしたけれども、主は祈りをお聞きくださり、時より晴れ間も見えほどの天気となりました。さほど寒くもなく祝福のうちに特別礼拝と献堂感謝式は守られましたことは、ただただ感謝でありました。
又、先週の水曜日よりレント(受難節)に入りました。主イエスの十字架への道、特に苦難と死を覚えて過ごすこの期間ですが、今年は4月20日がイースター(復活祭)であります。十字架の救いの御業が成し遂げられ、死を打ち破られた復活の主イエスを覚え、主イエスにある希望を戴いてまいりたいと願っております。

さて、先程マルコ7章のところから御言葉が読まれました。本日からまた聖書教育の箇所にそった聖書の箇所から、御言葉を聞いていきます。
この箇所は、「聞こえない耳を開く」イエスさまの御業について記されています。
先程招詞でイザヤ35章より「そのとき 見えない人の目を開き、聞こえない人の耳を開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」という、来るべき救いの時についてのイザヤの預言を読みましたが。実は救いの主なるイエス・キリストの到来によって実現されていくのであります。
この救いの訪れは、単にユダヤ人たちだけに限定されるものではありません。
31節で「イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」(新共同訳聖書付録地図⑥新約聖書時代のパレスチナ;参照)と、わざわざ記されていますが。それはユダヤの中心地区エルサレムとは遠く離れた周辺の異教社会にまでもイエスさまが救いが開かれていったというメッセージなのであります。
ちなみに前の6章にはイエスさまがイスラエルの民の5千人に食べ物を与えられた出来事がとりあげられていますが。今日の7章の次の8章のところでは、いわゆる異教社会の人々までも、天からの給食に与った記事が記されています。このようにして、ユダヤ人以外の人たちの間にまでイエスさまにある神の御救いが開かれたことを告げているのです。
イエスさまがお出でになる以前は神の選びと御救いはユダヤの民に限定されていたわけですから、私たちも、まさに主イエスが「開いてくださった」福音の恵みの中に生かされているわけですね。

では、その救いの訪れについて見てゆきましょう。
32節、「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるように願った。」
この耳の聞こえない人は、自分の意志でイエスさまのもとに来たのではなく、イエスさまの噂を聞いてその御業に期待する人たちによって連れてこられたのです。
マルコ2章には、4人の男たちが中風(半身不随、片まひ、言語障害、 手足のしびれやまひなどの障害を持つ病人)の人を、何とかイエスさまのもとに運んで行こうとする話が出てまいりますが。彼らは群衆に阻まれてイエスさまに近づけません。そこで男たちはイエスさまが中におられる家の屋根をはがして穴をあけて、寝ている床ごとつり降ろしたところ、イエスさまはそうまでして病人を連れて来た男たちの信仰を見て、中風の人に、「罪のゆるし」を宣言され、彼は起き上がって歩けるようにされたと、記されています。
本日の箇所では、神の民とされていたユダヤの人びとではなく、異教の人々が耳の聞こえず舌の回らない人をイエスさまのもとに連れて来て、祝福してくださいと、乞い願ったということであります。が、ここでもイエスさまは32節、33節にあるように人々が願った。そこで御業を現わして下さった、ということであります。よく、キリスト教は難しい、外国の宗教だと言われますが、救いと言うのは何か難しい教義ではなく、ただイエスさまが救い主であられることを信じ期待することにこそ、その信仰の本質があるのです。たとえどんなにつたなくとも、主イエスは呼び求める者の声に耳を傾けて下さるお方なのです。

さて、33節「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差しいれ、それから唾をつけてその舌に触れられた。」
イエスさまは、なぜこの人だけを連れ出して行かれたのでしょうか。その理由は何も書かれていません。異教の人々は多神教であり数々の偶像を作り、祀っていましたから、イエスさまのいやしを目の当たりにして、さらにしるしばかりを求め、イエスさまが偶像化されてしまったかも知れません。イエスさまは大勢の人に祀り上げられる道ではなく、救いを必要とする一人の人と一対一で向き合おうとなさるのであります。
ここで、イエスさまはご自分の唾を指につけて男の両耳に差し入れたり、又唾をつけた指で男の舌を触られたとあります。イエスさまは福音書の中で3回唾を用いて治癒なさっておられます。唾の効果については医学的な裏付けがあったかは定かではありませんが。小さい頃よく転んだり、ちょっと擦りむけたりしたとき母親が唾を指につけて、ちょんちょんと触れて、「もう大丈夫」と、言われた経験があります。それだけなのに、安心感がありケガのことなどすぐ忘れてまた遊びに熱中するという、同じような経験をされた方もおられるでしょう。この耳の聞こえない人もそのような安心感を必要としていて、イエスさまはそのようになさったのかも知れませんね。

それだけではありません。34節、イエスさまは「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた」とあります。
天を仰いで深く息をつかれた。この深く息をつくとは、溜息ともいえますが、いわば心の「うめき」であります。イエスさまはこの一人の人と向き合われる時、その人の魂のうめきに共感なさり、深く息をつかれるのです。が、しかしそれはやり場のないうめきではなく、「天を仰いで」とあるように、すべてを造り、治めておられるお方に執り成し、願われているのです。

さらにイエスさまは、その人に向かって「エッファタ」と言われました。これはイエスさまや弟子たちが日常会話で使っていたアラム語の「開け」という意味の言葉でありますが。
イエスさまはここで、どうして「病人」を前にして「治れ」とか「いやされよ」とかおっしゃらなかったのでしょうか。

よく心を閉ざす、心を開くと表現します。自分の内に閉じこもるように外部との関わりを断っていた人が、何かのきっかけで外に向かって主体的に関わろうとしだす。心を開くんですね。腹は割る、ですね。腹を割って話す。腹を据える、といいますが。では目、耳、口はというと「閉ざす」「塞ぐ」「覆う」などが使われます。「口を閉ざす」「目を覆う」「耳を塞ぐ」。これは外部との関わりが断たれた状態又、自分を守るために断とうとする気持ちを表します。そして思いを外に向けよとする時、これはやっぱり「開く」なのです。「目が開かれる」「口を開く」、そして今日塞がれていた耳が開かれる。それは、内なる人の解放を表しているのですね。
イエスさまがこの人に向かって言われた「エッファタ」、「開かれよ」との言葉は、耳が塞がれ、舌が回らないいわば口を閉ざされた一人の人に、「すべての創造主であられる神さまとの命の交わりが開かれよ」という宣言であったのです。それは又、あなたの外にあるあらゆる関係、あらゆる恵みに「開かれよ」という宣言でもあります。

その人は言葉を受けると、たちまち耳は開き、舌のもつれが解けたというのですが。
それは単に聞こえるようになった、話せるようになったというのではなく、「はっきり話すことができるようになった」とあります。この「はっきり」という言葉の原語オルソースは「正しく」という意味があります。つまり、神さまとの命の交わりが開かれた者は、真に聞くべき耳を持って聞くものとされ、語るべき言葉をもって語るものとされた、ということであります。イエスさまのいやしが素晴らしいのは、それが肉体を超えた魂の回復をもたらされることです。

本日の聖書の言葉は、一人の病人への全人的ないやし、救いの記事でありましたが。
それは単に病人に特化・対象化されるものではありません。
マルコ8章18節のところで、イエスさまは弟子たちに対して、「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」と厳しく叱っています。
イエスさまと寝食を共にしていた弟子たちであっても、正しく見、正しく聞くことができなかったのであります。肉眼でイエスさまを見て、わきまえていたつもりの弟子たちでしたが、イエスさまの本当の意味での救い、いやしと解放を知ったのはイエスさまが十字架にかけられて死なれた後でありました。弟子たちが正しく見、正しく聞くもの、神さまとの命の交わりに開かれていくのも、イエスさまのご復活と聖霊降臨の出来事を経て、霊の眼が開かれることによってであったのです。
こうしてイザヤ書35章5節「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く、そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」という預言の言葉が今も、主イエスとの出会いを与えられた人々の間で絶えず起こされ続けているのです。

最後に、今日の箇所でイエスさまが唾をつけた指を耳の聞こえない一人の人の両耳に入れられたり、また、もつれた舌にも唾をつけた指を触れられた一つひとつの動作は、あたかも粘土で人の顔を作っていくような、あれでもない、これでもない、あれや、いやこれや、と粘土をこねて、ちぎって、指で押さえながら、一つの作品が仕上げられていくような感じがいたします。それはまるで、創造主が御手で人を造られたように、主の手で整えていくようであります。
耳の聞こえない舌の回らない人が耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すようになったのを見た人々は驚き、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と口々に言いました。その言葉は、天地創造の神さまがお造りになったすべてのものを御覧になって言われた、「見よ、それは極めて良かった」と同じ響きをもっています。私ども大阪教会献堂感謝の折にも、この御言葉をもって神さまの御業を讃えましたが。まさに、イエスさまによる新しい救い、新しい時代の扉が開かれたのです。
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、
新しいものが生じた。」Ⅱコリント5章17節
イエス・キリストが十字架の受難と死を通って開いて下さった御救いの時代を、新しく創造された者として歩んでまいりましょう。
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献堂感謝

2014-03-03 09:50:18 | お知らせ
ご挨拶

栄光在主、地に平和。
思い返しますと、新会堂建築の幻が与えられ建築準備委員会のもと2008年に最初の研修会が行われ、以降、建築の規模、設計や業者に関する協議がなされていきました。その後2011年には総会を経て建築委員会が正式に立ち上がり、そこでこれまでの総括をしながら、建築設計・施工業者の選定が具体化していきました。2013年からいよいよ新会堂建築工事が開始され本日に至った次第です。2008年から丁度5年の歳月を経たわけですが、特に会堂建築工事前後の1年間に、建築委員の一人の姉をはじめ6名もの教会員が天の御国に旅立っていかれたことは寂しい出来事でありました。
この新会堂建築に際して強く私どもが掲げた思いというものがありました。それは、この天王寺という寺町にあって「キリストの香りのする教会堂」を建てあげるということです。以前の教会堂はビルのような建物でしたので、キリストの教会と気づくことなく素通りされる方も多かったようです。しかしこの新会堂は前の道路を歩いてゆかれる多くの方々が教会堂を見上げていかれます。建築中も立ち止まって新会堂を見上げておられる方が何人もいらっしゃるのを幾度も見ました。5メートルほど道路から後ろにさげて建てられた設計面の工夫も功を奏して通りを行き交う方がたに、「キリスト教会ここにあり」との存在感を示しています。又、私どもは心から主を礼拝する礼拝第一の教会堂をと願っていました。讃美が天に届く吹抜けの礼拝堂、思い切り大きな声で賛美できる礼拝堂、どなたでも入りやすい完全バリアフリーの会堂が与えられました。
本日はまず、私どもの必要をすべて満たしてくださった主なる神さまに感謝と賛美を心から捧げたいと願っています。又、新会堂建築のために粘り強く祈り、献げてくださった大阪教会の兄弟姉妹に、さらに、新築工事のために誠実な対応をもって設計・施工を担ってくださった藤木工務店大阪本社の皆さまをはじめ、暖かいお祈りとお支えをくださった連盟・連合諸教会の皆さまに心からお礼申しあげます。
今後はこの教会堂を通してより多くの方がた、様々な方がたとの出会いを喜び、与えられた素晴らしい主イエスの福音を分かち合っていきたいものです。実にそのために召され、キリストの体なる教会の一員とされているのですから。

                                                 日本バプテスト大阪教会 牧師
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