賛美礼拝宣教 マルコ15章25~32節
本日は「主イエスの十字架の御業」をテーマに新生讃美歌よりよく歌われているものを選ばせて頂きました。今日は特に賛美の前に、その歌詞にちなんだ聖書の御言葉を司会者より読んで頂いておりますが。私たちの救いの恵みは、神の御子イエス・キリストの尊い命が捧げられたその愛によって与えられていることを覚え、この礼拝をお捧げしたいと願っております。
これまで礼拝においてマルコによる福音書より、先々週は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」というお話。先週は「永遠の命を受け継ぐにはどうしたらよいのか」というお話を読んできました。どちらも神の国についてのお話でありましたが。本日はイエスさまがお受けになった苦難と十字架の場面でございます。これは如何にしてイエスさまによって「救いの道」、「神の国」が私たちにもたらされたか、ということについてのお話です。
25節にイエスさまが午前九時に十字架につけられたこと。そしてイエスさまと一緒に2人の強盗がその左右につけられたことが記してあります。この十字架刑というのは、ユダヤ統治をしていたローマによれば極悪非道の罪を犯した者が裁かれる刑罰であったわけですが。しかしイエスさまは無実でありましたから、まさに理不尽極まりない濡れ衣を着せられて十字架にかけられたのです。一体なぜ、そのようにイエスさまが残虐極まりない刑に処せられねばならなかったのでしょうか。それは、人間の罪が余りにも大きく、深いからです。
さて、「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって『おやおや、神殿を打倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ』と言った」とあります。
それはかつてイエスさま御自身がおっしゃった言葉でした。しかしこれは単に建造物に関して言われたのではなく、神の国の霊的再建をそのように言われたのであります。
又、「同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して『他人を救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう』と言った」とあります。
さらに、「一緒に十字架につけられた者たちまでも、イエスをののしった」とあります。
このように、十字架につけられたイエスさまは、その周囲にいたユダヤの民衆たち、ユダヤの宗教的指導者たち、そして犯罪人たちからも一斉に軽蔑とののしり、侮辱をお受けになられたのでありますが。
その人々はみな一様に、「十字架からおりて、自分を救ってみろ」と言っています。
しかし、そのような「自分を救ってみろ」という挑発的な言葉に対して、イエスさまはただ黙し、一言もお答えになりません。裁判の席でもローマの総督ピラトの前でも、御自分を正当化するようなことを一言も口になさいませんでした。
イエスさまは不当に訴えられているわけですから、そこでご自分の正当性を主張すること、つまり「自分を救うこと」も十分できたはずであります。しかしそれを自ら拒まれたのです。本日の箇所の前の23節には、兵士たちが没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに飲ませようとしますが、イエスはお受けにならなかった」とあります。その後イエスさまは絶叫して息を引き取られたとございます。
没薬を混ぜたぶどう酒は、一種の麻酔剤で、痛みの感覚を除くという作用があり、死刑囚に対し処刑の直前に与えるユダヤの習慣があったといわれています。しかし、イエスさまはそれをも拒否されたのです。その身に負われる十字架の痛みを和らげることなく、父の神がお与になられた杯を飲みほされる覚悟をされていたからであります。ご自分を救うことをなさらなかったのは、父の神の御心にどこまでも従っていかれたからです。
「他人は救ったのに、自分は救えない。」
それは結局自分が救われなければ意味がないという考えです。「自分を救えないのに人を救えるものか」という世の論理。世間は「イエスよ、なぜお前は自分の正しさ、正当性を証明して自分を救わないのか」といざなうのです。多くの律法学者もファリサイ派の人たちも、律法や戒め規定を守ることで自分たちは正しいと正当化していました。自分の正しさを神の国に入る証明書のように考え、逆に自分を正当化できないような者は罪人だと決めつけ、見下したのです。
イエスさまはご自分の正しさを主張なさいません。ただ黙し、挑戦的な言葉には答えられませんでした。イエスさまは生涯罪を犯すことはありませんでしたが、自らを正当化しようとはなさいません。それは父の神の正しさに従われたからです。
先週礼拝で読みました金持ちの男のエピソードは、「人の側の持てるものによって人が神の国に入れるものではない」というお話でした。イエスさまはそこで、「神の国に入れるものとなるかどうかは人間の側からどうこうできるものではないが、『神にはできる。神は何でもできるからだ』とおっしゃいました。
十字架上でイエスさまは自己の正しさによるのではなく、父の神の正しさ、すなわち、その御心に徹底的に従われたのであります。確かに動揺や恐れ、どんなにか不安に襲われることもあられたでしょう。その苦悩と苦痛はどれほど耐えがたいものであったでしょうか。
けれども、父の神がさし出された苦い杯を最後の一滴までも飲み干されるようにして、すべてをおゆだねになったのです。その時「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と聖書に記されています。如何ともし難い人間の罪が、神の御旨をその身にお受けになったイエスさまを通して、取り除かれ、天の門が開かれたのです。
「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
人は自分を正当化することによっては救われません。しかし「神には何でもおできになる。」天の門は主イエスによってすでに開かれています。
今朝は特にイエスさまの受難と十字架の意味を深く味わいつつ、神の国への扉がこのイエスさまによって開かれていったことを覚え、主に感謝と賛美を捧げましょう。
そうして、私ども主イエスの十字架を通して、神の国への道へと導かれている者も、日々主イエスさまのあゆまれた道、その言動にいつも聞き従いつつ、歩んでいく者とされてまいりましょう。
本日は「主イエスの十字架の御業」をテーマに新生讃美歌よりよく歌われているものを選ばせて頂きました。今日は特に賛美の前に、その歌詞にちなんだ聖書の御言葉を司会者より読んで頂いておりますが。私たちの救いの恵みは、神の御子イエス・キリストの尊い命が捧げられたその愛によって与えられていることを覚え、この礼拝をお捧げしたいと願っております。
これまで礼拝においてマルコによる福音書より、先々週は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」というお話。先週は「永遠の命を受け継ぐにはどうしたらよいのか」というお話を読んできました。どちらも神の国についてのお話でありましたが。本日はイエスさまがお受けになった苦難と十字架の場面でございます。これは如何にしてイエスさまによって「救いの道」、「神の国」が私たちにもたらされたか、ということについてのお話です。
25節にイエスさまが午前九時に十字架につけられたこと。そしてイエスさまと一緒に2人の強盗がその左右につけられたことが記してあります。この十字架刑というのは、ユダヤ統治をしていたローマによれば極悪非道の罪を犯した者が裁かれる刑罰であったわけですが。しかしイエスさまは無実でありましたから、まさに理不尽極まりない濡れ衣を着せられて十字架にかけられたのです。一体なぜ、そのようにイエスさまが残虐極まりない刑に処せられねばならなかったのでしょうか。それは、人間の罪が余りにも大きく、深いからです。
さて、「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって『おやおや、神殿を打倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ』と言った」とあります。
それはかつてイエスさま御自身がおっしゃった言葉でした。しかしこれは単に建造物に関して言われたのではなく、神の国の霊的再建をそのように言われたのであります。
又、「同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して『他人を救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう』と言った」とあります。
さらに、「一緒に十字架につけられた者たちまでも、イエスをののしった」とあります。
このように、十字架につけられたイエスさまは、その周囲にいたユダヤの民衆たち、ユダヤの宗教的指導者たち、そして犯罪人たちからも一斉に軽蔑とののしり、侮辱をお受けになられたのでありますが。
その人々はみな一様に、「十字架からおりて、自分を救ってみろ」と言っています。
しかし、そのような「自分を救ってみろ」という挑発的な言葉に対して、イエスさまはただ黙し、一言もお答えになりません。裁判の席でもローマの総督ピラトの前でも、御自分を正当化するようなことを一言も口になさいませんでした。
イエスさまは不当に訴えられているわけですから、そこでご自分の正当性を主張すること、つまり「自分を救うこと」も十分できたはずであります。しかしそれを自ら拒まれたのです。本日の箇所の前の23節には、兵士たちが没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに飲ませようとしますが、イエスはお受けにならなかった」とあります。その後イエスさまは絶叫して息を引き取られたとございます。
没薬を混ぜたぶどう酒は、一種の麻酔剤で、痛みの感覚を除くという作用があり、死刑囚に対し処刑の直前に与えるユダヤの習慣があったといわれています。しかし、イエスさまはそれをも拒否されたのです。その身に負われる十字架の痛みを和らげることなく、父の神がお与になられた杯を飲みほされる覚悟をされていたからであります。ご自分を救うことをなさらなかったのは、父の神の御心にどこまでも従っていかれたからです。
「他人は救ったのに、自分は救えない。」
それは結局自分が救われなければ意味がないという考えです。「自分を救えないのに人を救えるものか」という世の論理。世間は「イエスよ、なぜお前は自分の正しさ、正当性を証明して自分を救わないのか」といざなうのです。多くの律法学者もファリサイ派の人たちも、律法や戒め規定を守ることで自分たちは正しいと正当化していました。自分の正しさを神の国に入る証明書のように考え、逆に自分を正当化できないような者は罪人だと決めつけ、見下したのです。
イエスさまはご自分の正しさを主張なさいません。ただ黙し、挑戦的な言葉には答えられませんでした。イエスさまは生涯罪を犯すことはありませんでしたが、自らを正当化しようとはなさいません。それは父の神の正しさに従われたからです。
先週礼拝で読みました金持ちの男のエピソードは、「人の側の持てるものによって人が神の国に入れるものではない」というお話でした。イエスさまはそこで、「神の国に入れるものとなるかどうかは人間の側からどうこうできるものではないが、『神にはできる。神は何でもできるからだ』とおっしゃいました。
十字架上でイエスさまは自己の正しさによるのではなく、父の神の正しさ、すなわち、その御心に徹底的に従われたのであります。確かに動揺や恐れ、どんなにか不安に襲われることもあられたでしょう。その苦悩と苦痛はどれほど耐えがたいものであったでしょうか。
けれども、父の神がさし出された苦い杯を最後の一滴までも飲み干されるようにして、すべてをおゆだねになったのです。その時「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と聖書に記されています。如何ともし難い人間の罪が、神の御旨をその身にお受けになったイエスさまを通して、取り除かれ、天の門が開かれたのです。
「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
人は自分を正当化することによっては救われません。しかし「神には何でもおできになる。」天の門は主イエスによってすでに開かれています。
今朝は特にイエスさまの受難と十字架の意味を深く味わいつつ、神の国への扉がこのイエスさまによって開かれていったことを覚え、主に感謝と賛美を捧げましょう。
そうして、私ども主イエスの十字架を通して、神の国への道へと導かれている者も、日々主イエスさまのあゆまれた道、その言動にいつも聞き従いつつ、歩んでいく者とされてまいりましょう。