礼拝宣教 エレミヤ書20章7-18節
エレミヤは神さまから託された厳しい預言の言葉をまっすぐにユダとエルサレムの人々に包み隠さず語り続けました。しかし、人びとはその言葉に謙虚に耳を傾けることはありませんでした。それどころか、そんなエレミヤをうとんじ、強く憎むようになります。した。20章の前半では、主の神殿の最高監督者であった祭司パシュフルがエレミヤの預言の言葉を聞くと、エレミヤを鞭で打たせ、そうして彼を拘留したというのです。そういう痛みと屈辱的な状況の中で、エレミヤが神さまに激しく訴えているのが本日の箇所であります。
「戸惑いと抗議」
ここを読む時、エレミヤは「神さまにすべての責任がある」といわんばかりに不満をぶつけているように聞こえます。7節「主よ、あなたはわたしを惑わし、わたしは惑わされてあなたに捕えられました。あなたの勝ちです」とエレミヤは神さまに訴えています。エレミヤは元々自分から預言者になろうと思っていたのではなく、むしろ「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎません」と主に答えたのです。にも拘らず主は「わたしが共にいて必ずあなたを救い出す」と約束して下さったので、その任を負う事になったんですね。
神にとらえられ語らずにいられないエレミヤ。にも拘らず人々から受け入れられないばかりか、同胞であったはずの者から鞭で打たれ、迫害されるエレミヤの心境はいかばかりであったでしょう。
しかしエレミヤは、ここで神さまにたぶらかされたとか、騙されたといっているのではないのです。「わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります」とあります。本当に主の言葉を語ろうとする時、それはここにあるように、民に向けての嘆きとなり、「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられないからです。「主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません」と彼は訴えます。
「押さえられない主の言葉」
エレミヤは9節にも「主の名を口にすまい。もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしの心の中 骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がる」と言っています。迫害の目にさらされると分かっていても、主の真実の前に自分を偽ることができない。それを押さえつけておこうとして わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」と彼は言うのです。
エレミヤは主の言葉を預り語るという神さまからの召命を投げ出し、もう語るまいと、それを胸に押しとどめ、どうにかして押さえつけておこうしますが。彼の心の中、骨の中でそれが火のように燃え上がり、押さえつけておくことができないというのです。言い換えますなら、エレミヤは主の言葉を人々に語ることで恨みや憎しみを買いひどい目に遭うのですが、主の言葉を語らないでいることもまた、自らの心を痛め、その苦みは耐え難いというのです。その板挟みの中でエレミヤは非常にもがき苦しんだのですね。
「神にさらに近づいて」
このように苦悩と葛藤がエレミヤを捕えると、彼は神さまに対して感情を露わにしますが、それで神さまへの信頼が失われたわけではありません。
11節から13節のエレミヤの告白を読みますと、エレミヤにとって主は変ることのない「恐るべき勇士として、共にいますお方」なのです。又、「万軍の主は、人のはらわたと心を究め、見抜かれるお方」なのです。さらに、エレミヤは「貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される主に向かって歌い、主を賛美せよ」とうたっているのです。
彼は、真に賛美されるべきお方が生きて共におられることをその魂の奥深いところで信じ、そのお方に依り頼んでいきます。
しかしさらに14節から18節を読みますと、そのエレミヤの感情の激しい揺れ動きは再びネガティブなものになります。彼は自分が生まれた日を呪い、生まれてきたことさえ悔やむのですね。「なぜ、わたしは母の胎から出て苦労と嘆きに遭い 生涯を恥の中に終らねばならないのか」と、その嘆き苦しみは大変深刻です。
このようなエレミヤの姿、感情の起伏の激しさをみなさんはどう思われるでしょうか。神の偉大な預言者である人もこういう感情があったんだなあ、と知らされますし、どんな信仰の厚い人でも、いやむしろ信仰が厚ければ厚い程、信仰の思いと現実のやるせない気持ちのふり幅というのは、大きくなるのではないでしょうか。として価しない、と思われるかも知れません。
エレミヤは厳しく苦しい状況においても神さまに背を向けたりしません。主なる神さまの御前に自分の思いをさらけ出し訴え続けます。彼は主の御前で出て、自分を偽ったり、ごまかしたりはしません。それは神さまがすべてのことをご存じで、「正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれるお方である」ことを知っていたからです。だから彼はいつも、どんな状況におかれても、主の御前に12節にあるように、自分の訴えを神に打ち明け、お任せするのです。
それは壮絶な祈りの格闘、まさに直談判、嘆きと叫びの訴えがあるからこそ初めて「お任せする」という言葉と思いが起こされるんですね。
「自分が生まれた日を呪い、生まれたことを悔やみます」と否定的なことを言うエレミヤですけれども、彼はその揺れ動く感情をもって神さまの御前に出ました。非常に大きな落ち込み、どん底の中にあっても、「神にさらに近づこう」としているエレミヤの姿がここにあります。
私たちはどうでしょうか。いろいろな困難や問題が生じた時、エレミヤのように主の御前に出て、実直な思いをさらし、「主よ」と訴え続けているでしょうか。逆に困難や問題が起こり、それが長引くにつれて祈ることにも疲れ、やがてあきらめと同時に主への信頼が色あせていくなら残念なことです。主イエスはルカ18章に代表されるように、いつも気を落とさず祈り続けなければならないことを再三口になさっています。
主イエスはおっしゃいます。「神は昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために、裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておられる事があろうか。言っておくが神は速やかに裁いて下さる。しかし、人の子が来る時はたして地上に信仰を見出すだろうか。」
困難や問題が生じた時こそ、主の御前にさらに身を乗り出すように近づいて祈る時であり、それは実際最も神の近くにある時なのですね。悩みの時こそ「神にさらに近づいて」いく私たちとされてまいりましょう。
最後になりますが、本日の「エレミヤの告白」の箇所から私が何よりも思わされましたことは、主から預った御言葉をきちんと語り伝えていくことの大事さです。
私もこの度のYさんとの関わりにおいて、そのことを強く思わされたのです。
彼からキリスト教式で葬儀をしてほしいという依頼を受け了承したものの、私の心のうちにまだ腑に落ちないものがありました。長い求道の期間と関わり、心のこもった新会堂のための献金。そこからYさんの信仰の思いというのは十分伝わってきたし、洗礼を受けることが難しい家のご事情お聞きしていました。それでご本人がキリスト教式で葬儀を望まれるのであれば、その思いを尊重しようと思っていたのですが。彼自身の口から「自分を救うお方としてのイエス・キリストを信じます」という言葉をまだ聞けていない。そのことが本当にひっかかっていました。
聖書には「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」とローマ10章10節にあります。また、コロサイ書2章12節には「バプテスマ(洗礼)によってキリストと共に葬られ、またキリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられる」とあります。
彼が昏睡状態から覚められた時、神さまは私にチャンスを与えられました。人の事情云々ではなく、今、彼が信じるか信じないか、どう答えるかいかんに関わらず、私が「イエス・キリストをあなたを救われるお方として信じますか」と彼にきちんと語りかけ、問いかけることをしなかったら、これは私自身が主の御言葉を伝えていないことになる、ということに気づかされたのです。
もし主の言葉を語らずじまいに終わり、ただ平安がありますようにと祈るだけで、本当に魂の救いとなる「主イエスへの信仰告白」という機会を私がはっきり示さないなら、これは私自身が最後の審判の折に、神さまから「お前は何をしていたのかと」と詰問されることになると思いましたね。
そうして、先週礼拝でお話しましたように、不思議にもご家族の理解をも得ることができ、実に自然なかたちでYさんに「主イエスを信じますか」と語りかける時が与えられて、彼の救いが実現されたのですね。本当に神さまは生きておれるのですね。
私たちクリスチャンの使命といいますか、新たにされた人として生かされている意義は何でしょうか。それは、この地上において、主イエスの証し人として福音を隣人に伝え、分かち合っていくことにございます。
Yさんは祈祷会に以前出席なさった折、死ぬまでに何か一つ大きな事をしたい、とおっしゃっていましたが。大きな証しを立て、天に召されました。人それぞれ証しの機会も様々です。先日は教会バザーが行われました、13名もの有志の奉仕者が参加されましたが。みなさん義務からではなく神さまへの感謝と喜びをもって奉仕されていることが伝わってきて、このバザーを通してキリストの福音を伝え証しするよい機会となったと思います。私たちの日常の一つひとつの場面において、時が良くても悪くても、主イエスの福音の内に生かされ、証しとされていくように祈り、努めていきたいと願うものです。
「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」ヤコブ1章21節
エレミヤは神さまから託された厳しい預言の言葉をまっすぐにユダとエルサレムの人々に包み隠さず語り続けました。しかし、人びとはその言葉に謙虚に耳を傾けることはありませんでした。それどころか、そんなエレミヤをうとんじ、強く憎むようになります。した。20章の前半では、主の神殿の最高監督者であった祭司パシュフルがエレミヤの預言の言葉を聞くと、エレミヤを鞭で打たせ、そうして彼を拘留したというのです。そういう痛みと屈辱的な状況の中で、エレミヤが神さまに激しく訴えているのが本日の箇所であります。
「戸惑いと抗議」
ここを読む時、エレミヤは「神さまにすべての責任がある」といわんばかりに不満をぶつけているように聞こえます。7節「主よ、あなたはわたしを惑わし、わたしは惑わされてあなたに捕えられました。あなたの勝ちです」とエレミヤは神さまに訴えています。エレミヤは元々自分から預言者になろうと思っていたのではなく、むしろ「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎません」と主に答えたのです。にも拘らず主は「わたしが共にいて必ずあなたを救い出す」と約束して下さったので、その任を負う事になったんですね。
神にとらえられ語らずにいられないエレミヤ。にも拘らず人々から受け入れられないばかりか、同胞であったはずの者から鞭で打たれ、迫害されるエレミヤの心境はいかばかりであったでしょう。
しかしエレミヤは、ここで神さまにたぶらかされたとか、騙されたといっているのではないのです。「わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります」とあります。本当に主の言葉を語ろうとする時、それはここにあるように、民に向けての嘆きとなり、「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられないからです。「主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません」と彼は訴えます。
「押さえられない主の言葉」
エレミヤは9節にも「主の名を口にすまい。もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしの心の中 骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がる」と言っています。迫害の目にさらされると分かっていても、主の真実の前に自分を偽ることができない。それを押さえつけておこうとして わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」と彼は言うのです。
エレミヤは主の言葉を預り語るという神さまからの召命を投げ出し、もう語るまいと、それを胸に押しとどめ、どうにかして押さえつけておこうしますが。彼の心の中、骨の中でそれが火のように燃え上がり、押さえつけておくことができないというのです。言い換えますなら、エレミヤは主の言葉を人々に語ることで恨みや憎しみを買いひどい目に遭うのですが、主の言葉を語らないでいることもまた、自らの心を痛め、その苦みは耐え難いというのです。その板挟みの中でエレミヤは非常にもがき苦しんだのですね。
「神にさらに近づいて」
このように苦悩と葛藤がエレミヤを捕えると、彼は神さまに対して感情を露わにしますが、それで神さまへの信頼が失われたわけではありません。
11節から13節のエレミヤの告白を読みますと、エレミヤにとって主は変ることのない「恐るべき勇士として、共にいますお方」なのです。又、「万軍の主は、人のはらわたと心を究め、見抜かれるお方」なのです。さらに、エレミヤは「貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される主に向かって歌い、主を賛美せよ」とうたっているのです。
彼は、真に賛美されるべきお方が生きて共におられることをその魂の奥深いところで信じ、そのお方に依り頼んでいきます。
しかしさらに14節から18節を読みますと、そのエレミヤの感情の激しい揺れ動きは再びネガティブなものになります。彼は自分が生まれた日を呪い、生まれてきたことさえ悔やむのですね。「なぜ、わたしは母の胎から出て苦労と嘆きに遭い 生涯を恥の中に終らねばならないのか」と、その嘆き苦しみは大変深刻です。
このようなエレミヤの姿、感情の起伏の激しさをみなさんはどう思われるでしょうか。神の偉大な預言者である人もこういう感情があったんだなあ、と知らされますし、どんな信仰の厚い人でも、いやむしろ信仰が厚ければ厚い程、信仰の思いと現実のやるせない気持ちのふり幅というのは、大きくなるのではないでしょうか。として価しない、と思われるかも知れません。
エレミヤは厳しく苦しい状況においても神さまに背を向けたりしません。主なる神さまの御前に自分の思いをさらけ出し訴え続けます。彼は主の御前で出て、自分を偽ったり、ごまかしたりはしません。それは神さまがすべてのことをご存じで、「正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれるお方である」ことを知っていたからです。だから彼はいつも、どんな状況におかれても、主の御前に12節にあるように、自分の訴えを神に打ち明け、お任せするのです。
それは壮絶な祈りの格闘、まさに直談判、嘆きと叫びの訴えがあるからこそ初めて「お任せする」という言葉と思いが起こされるんですね。
「自分が生まれた日を呪い、生まれたことを悔やみます」と否定的なことを言うエレミヤですけれども、彼はその揺れ動く感情をもって神さまの御前に出ました。非常に大きな落ち込み、どん底の中にあっても、「神にさらに近づこう」としているエレミヤの姿がここにあります。
私たちはどうでしょうか。いろいろな困難や問題が生じた時、エレミヤのように主の御前に出て、実直な思いをさらし、「主よ」と訴え続けているでしょうか。逆に困難や問題が起こり、それが長引くにつれて祈ることにも疲れ、やがてあきらめと同時に主への信頼が色あせていくなら残念なことです。主イエスはルカ18章に代表されるように、いつも気を落とさず祈り続けなければならないことを再三口になさっています。
主イエスはおっしゃいます。「神は昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために、裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておられる事があろうか。言っておくが神は速やかに裁いて下さる。しかし、人の子が来る時はたして地上に信仰を見出すだろうか。」
困難や問題が生じた時こそ、主の御前にさらに身を乗り出すように近づいて祈る時であり、それは実際最も神の近くにある時なのですね。悩みの時こそ「神にさらに近づいて」いく私たちとされてまいりましょう。
最後になりますが、本日の「エレミヤの告白」の箇所から私が何よりも思わされましたことは、主から預った御言葉をきちんと語り伝えていくことの大事さです。
私もこの度のYさんとの関わりにおいて、そのことを強く思わされたのです。
彼からキリスト教式で葬儀をしてほしいという依頼を受け了承したものの、私の心のうちにまだ腑に落ちないものがありました。長い求道の期間と関わり、心のこもった新会堂のための献金。そこからYさんの信仰の思いというのは十分伝わってきたし、洗礼を受けることが難しい家のご事情お聞きしていました。それでご本人がキリスト教式で葬儀を望まれるのであれば、その思いを尊重しようと思っていたのですが。彼自身の口から「自分を救うお方としてのイエス・キリストを信じます」という言葉をまだ聞けていない。そのことが本当にひっかかっていました。
聖書には「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」とローマ10章10節にあります。また、コロサイ書2章12節には「バプテスマ(洗礼)によってキリストと共に葬られ、またキリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられる」とあります。
彼が昏睡状態から覚められた時、神さまは私にチャンスを与えられました。人の事情云々ではなく、今、彼が信じるか信じないか、どう答えるかいかんに関わらず、私が「イエス・キリストをあなたを救われるお方として信じますか」と彼にきちんと語りかけ、問いかけることをしなかったら、これは私自身が主の御言葉を伝えていないことになる、ということに気づかされたのです。
もし主の言葉を語らずじまいに終わり、ただ平安がありますようにと祈るだけで、本当に魂の救いとなる「主イエスへの信仰告白」という機会を私がはっきり示さないなら、これは私自身が最後の審判の折に、神さまから「お前は何をしていたのかと」と詰問されることになると思いましたね。
そうして、先週礼拝でお話しましたように、不思議にもご家族の理解をも得ることができ、実に自然なかたちでYさんに「主イエスを信じますか」と語りかける時が与えられて、彼の救いが実現されたのですね。本当に神さまは生きておれるのですね。
私たちクリスチャンの使命といいますか、新たにされた人として生かされている意義は何でしょうか。それは、この地上において、主イエスの証し人として福音を隣人に伝え、分かち合っていくことにございます。
Yさんは祈祷会に以前出席なさった折、死ぬまでに何か一つ大きな事をしたい、とおっしゃっていましたが。大きな証しを立て、天に召されました。人それぞれ証しの機会も様々です。先日は教会バザーが行われました、13名もの有志の奉仕者が参加されましたが。みなさん義務からではなく神さまへの感謝と喜びをもって奉仕されていることが伝わってきて、このバザーを通してキリストの福音を伝え証しするよい機会となったと思います。私たちの日常の一つひとつの場面において、時が良くても悪くても、主イエスの福音の内に生かされ、証しとされていくように祈り、努めていきたいと願うものです。
「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」ヤコブ1章21節