日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神にさらに近づいて

2015-10-26 16:28:18 | メッセージ
礼拝宣教 エレミヤ書20章7-18節


エレミヤは神さまから託された厳しい預言の言葉をまっすぐにユダとエルサレムの人々に包み隠さず語り続けました。しかし、人びとはその言葉に謙虚に耳を傾けることはありませんでした。それどころか、そんなエレミヤをうとんじ、強く憎むようになります。した。20章の前半では、主の神殿の最高監督者であった祭司パシュフルがエレミヤの預言の言葉を聞くと、エレミヤを鞭で打たせ、そうして彼を拘留したというのです。そういう痛みと屈辱的な状況の中で、エレミヤが神さまに激しく訴えているのが本日の箇所であります。
「戸惑いと抗議」
ここを読む時、エレミヤは「神さまにすべての責任がある」といわんばかりに不満をぶつけているように聞こえます。7節「主よ、あなたはわたしを惑わし、わたしは惑わされてあなたに捕えられました。あなたの勝ちです」とエレミヤは神さまに訴えています。エレミヤは元々自分から預言者になろうと思っていたのではなく、むしろ「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎません」と主に答えたのです。にも拘らず主は「わたしが共にいて必ずあなたを救い出す」と約束して下さったので、その任を負う事になったんですね。
神にとらえられ語らずにいられないエレミヤ。にも拘らず人々から受け入れられないばかりか、同胞であったはずの者から鞭で打たれ、迫害されるエレミヤの心境はいかばかりであったでしょう。
しかしエレミヤは、ここで神さまにたぶらかされたとか、騙されたといっているのではないのです。「わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります」とあります。本当に主の言葉を語ろうとする時、それはここにあるように、民に向けての嘆きとなり、「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられないからです。「主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません」と彼は訴えます。

「押さえられない主の言葉」
エレミヤは9節にも「主の名を口にすまい。もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしの心の中 骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がる」と言っています。迫害の目にさらされると分かっていても、主の真実の前に自分を偽ることができない。それを押さえつけておこうとして わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」と彼は言うのです。

エレミヤは主の言葉を預り語るという神さまからの召命を投げ出し、もう語るまいと、それを胸に押しとどめ、どうにかして押さえつけておこうしますが。彼の心の中、骨の中でそれが火のように燃え上がり、押さえつけておくことができないというのです。言い換えますなら、エレミヤは主の言葉を人々に語ることで恨みや憎しみを買いひどい目に遭うのですが、主の言葉を語らないでいることもまた、自らの心を痛め、その苦みは耐え難いというのです。その板挟みの中でエレミヤは非常にもがき苦しんだのですね。

「神にさらに近づいて」
このように苦悩と葛藤がエレミヤを捕えると、彼は神さまに対して感情を露わにしますが、それで神さまへの信頼が失われたわけではありません。
11節から13節のエレミヤの告白を読みますと、エレミヤにとって主は変ることのない「恐るべき勇士として、共にいますお方」なのです。又、「万軍の主は、人のはらわたと心を究め、見抜かれるお方」なのです。さらに、エレミヤは「貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される主に向かって歌い、主を賛美せよ」とうたっているのです。
彼は、真に賛美されるべきお方が生きて共におられることをその魂の奥深いところで信じ、そのお方に依り頼んでいきます。

しかしさらに14節から18節を読みますと、そのエレミヤの感情の激しい揺れ動きは再びネガティブなものになります。彼は自分が生まれた日を呪い、生まれてきたことさえ悔やむのですね。「なぜ、わたしは母の胎から出て苦労と嘆きに遭い 生涯を恥の中に終らねばならないのか」と、その嘆き苦しみは大変深刻です。

このようなエレミヤの姿、感情の起伏の激しさをみなさんはどう思われるでしょうか。神の偉大な預言者である人もこういう感情があったんだなあ、と知らされますし、どんな信仰の厚い人でも、いやむしろ信仰が厚ければ厚い程、信仰の思いと現実のやるせない気持ちのふり幅というのは、大きくなるのではないでしょうか。として価しない、と思われるかも知れません。

エレミヤは厳しく苦しい状況においても神さまに背を向けたりしません。主なる神さまの御前に自分の思いをさらけ出し訴え続けます。彼は主の御前で出て、自分を偽ったり、ごまかしたりはしません。それは神さまがすべてのことをご存じで、「正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれるお方である」ことを知っていたからです。だから彼はいつも、どんな状況におかれても、主の御前に12節にあるように、自分の訴えを神に打ち明け、お任せするのです。
それは壮絶な祈りの格闘、まさに直談判、嘆きと叫びの訴えがあるからこそ初めて「お任せする」という言葉と思いが起こされるんですね。
「自分が生まれた日を呪い、生まれたことを悔やみます」と否定的なことを言うエレミヤですけれども、彼はその揺れ動く感情をもって神さまの御前に出ました。非常に大きな落ち込み、どん底の中にあっても、「神にさらに近づこう」としているエレミヤの姿がここにあります。
私たちはどうでしょうか。いろいろな困難や問題が生じた時、エレミヤのように主の御前に出て、実直な思いをさらし、「主よ」と訴え続けているでしょうか。逆に困難や問題が起こり、それが長引くにつれて祈ることにも疲れ、やがてあきらめと同時に主への信頼が色あせていくなら残念なことです。主イエスはルカ18章に代表されるように、いつも気を落とさず祈り続けなければならないことを再三口になさっています。
主イエスはおっしゃいます。「神は昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために、裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておられる事があろうか。言っておくが神は速やかに裁いて下さる。しかし、人の子が来る時はたして地上に信仰を見出すだろうか。」
困難や問題が生じた時こそ、主の御前にさらに身を乗り出すように近づいて祈る時であり、それは実際最も神の近くにある時なのですね。悩みの時こそ「神にさらに近づいて」いく私たちとされてまいりましょう。

最後になりますが、本日の「エレミヤの告白」の箇所から私が何よりも思わされましたことは、主から預った御言葉をきちんと語り伝えていくことの大事さです。
私もこの度のYさんとの関わりにおいて、そのことを強く思わされたのです。
彼からキリスト教式で葬儀をしてほしいという依頼を受け了承したものの、私の心のうちにまだ腑に落ちないものがありました。長い求道の期間と関わり、心のこもった新会堂のための献金。そこからYさんの信仰の思いというのは十分伝わってきたし、洗礼を受けることが難しい家のご事情お聞きしていました。それでご本人がキリスト教式で葬儀を望まれるのであれば、その思いを尊重しようと思っていたのですが。彼自身の口から「自分を救うお方としてのイエス・キリストを信じます」という言葉をまだ聞けていない。そのことが本当にひっかかっていました。
聖書には「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」とローマ10章10節にあります。また、コロサイ書2章12節には「バプテスマ(洗礼)によってキリストと共に葬られ、またキリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられる」とあります。
彼が昏睡状態から覚められた時、神さまは私にチャンスを与えられました。人の事情云々ではなく、今、彼が信じるか信じないか、どう答えるかいかんに関わらず、私が「イエス・キリストをあなたを救われるお方として信じますか」と彼にきちんと語りかけ、問いかけることをしなかったら、これは私自身が主の御言葉を伝えていないことになる、ということに気づかされたのです。
もし主の言葉を語らずじまいに終わり、ただ平安がありますようにと祈るだけで、本当に魂の救いとなる「主イエスへの信仰告白」という機会を私がはっきり示さないなら、これは私自身が最後の審判の折に、神さまから「お前は何をしていたのかと」と詰問されることになると思いましたね。
そうして、先週礼拝でお話しましたように、不思議にもご家族の理解をも得ることができ、実に自然なかたちでYさんに「主イエスを信じますか」と語りかける時が与えられて、彼の救いが実現されたのですね。本当に神さまは生きておれるのですね。
私たちクリスチャンの使命といいますか、新たにされた人として生かされている意義は何でしょうか。それは、この地上において、主イエスの証し人として福音を隣人に伝え、分かち合っていくことにございます。
Yさんは祈祷会に以前出席なさった折、死ぬまでに何か一つ大きな事をしたい、とおっしゃっていましたが。大きな証しを立て、天に召されました。人それぞれ証しの機会も様々です。先日は教会バザーが行われました、13名もの有志の奉仕者が参加されましたが。みなさん義務からではなく神さまへの感謝と喜びをもって奉仕されていることが伝わってきて、このバザーを通してキリストの福音を伝え証しするよい機会となったと思います。私たちの日常の一つひとつの場面において、時が良くても悪くても、主イエスの福音の内に生かされ、証しとされていくように祈り、努めていきたいと願うものです。

「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」ヤコブ1章21節
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神を受け入れる心

2015-10-18 16:49:55 | メッセージ
礼拝宣教 エレミヤ13章1~17節 

先週は月曜日関西地方教会連合の信徒大会が神戸教会で行われ、大阪教会から6名が参加し、たいへん恵まれました。「それぞれのミッション」と題して、白浜バプテスト基督教会牧師の藤藪庸一先生からその活動の一つである白浜レスキューネットワークの自死防止の対策や救出後のエピソードなどを伺いました。その主イエスの御言葉を軸にした現場からの生きた証しは、実に力強く心迫るものがあり、午後からは参加された方々それぞれに、神さまが自分に託されたミッションについて考え、語り祈り合う時となりました。私も連合の会長という役目を仰せつかっておりますので、信徒大会がこうして恵み豊かな時として守り導かれ、無事に終えることができ、ホッとしていますが。同時に一参加者として大阪教会に与えられているミッション、使命がいよいよ実現されていきますようにと願わされました。

さて、本日はエレミヤ書13章から、御言葉を聞いていきます。
ここには2つのたとえ話が出てきます。一つは「麻の帯」のたとえ話であります。
エレミヤは「麻の帯を買い、それを腰に締めよ」と神に命じられ、お言葉どおりそれを買い求め腰に締めます。すると、再び神はエレミヤに「あなたが買って腰に締めた帯をはずし、立ってユーフラテスに行き、そこで帯を岩の裂け目に隠しなさい」とお命じになり、エレミヤはその通りに行います。それから多くの年月がたった後、主はエレミヤに「立って、ユーフラテスに行き、かつて隠しておくように命じたあの帯を取り出しなさい」とお命になったので、エレミヤがそれを岩の間から取り出すと、帯は腐り、全く役に立たなくなっていた、というお話であります。

10節以降に神さまはこのようにお語りになっています。
「この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。」
そうして「彼らは全く役に立たないこの帯のようだ」と嘆かれるのです。
11節には、「人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかり着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし、彼らは聞き従わなかった」とございます。

このたとえの帯は、神さまがご自分の宝の民としようと選び、立てた北イスラエルや南ユダの契約の民のことを表していました。出エジプト記で読みましたように、神さまは奴隷のような状態から救い出された彼らにこのようにおっしゃっています。
出エジプト19章5節。「今、もしわたしの言葉に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。」それに対して彼らは「わたしたちは、主が語られたことをすべて行います」と答え、神さまはモーセを通して神の戒めを石板に彫った十戒の契約をお授けになるのです。
ところが、民はその罪のゆえ北と南に別れ、北イスラエルの人々はその神の言葉に聞き従わずすでに崩壊していました。そして南ユダにおいても、エレミヤが懸命に「御言葉に聞け、主に立ち帰らなければ滅ぶ」と、主の言葉を語り、訴え続けるのでありますが。ユダのエルサレムの人々は神の前に傲慢な者となり、一向にその主の言葉に耳を傾けることはありません。それどころか、心頑なにして神ならざるものを頼みとし崇める偶像崇拝の罪を犯し続けます。主はせっかく、北イスラエルと南ユダのすべての家をご自身の帯のようにしっかりと結びつけて、彼らを御自身の名声、栄誉、威光を示す者にしようと願っておられたのに、彼らは甚だ神さまに相応しくない腐った帯のようなものとなってしまった。契約の帯は腐ってもはや役に立たないものとなってしまったというのですね。
このたとえの中に、期待を裏切られた神さまの深い憂いが表現されています。
7節に「ユーフラテスに行き、隠しておいた帯を探し出した。見よ、帯は腐り、全く役に立たなかった」とありますが。このユーフラテスというのはバビロニアにあり、後に南ユダはその侵略を受けて崩壊し、捕囚となったことから、エレミヤを通してなされる警告にも彼らは立ち返ることなく、やがてそのような厳粛なさばきの時が大国バビロニアを通してもたらされることになるとの預言がそこに表されていたのでしょう。
ユダとエルサレムの人々が主の言葉に聞き従うことを拒み、一向に悔改めようとしないその傲慢が、やがてそのような崩壊を招くことになるというメッセージがそこにあります。
 私たちもこれはほんとうに心して聞くべき教訓であるでしょう。信仰者にとって最も恐るべきことは、よく「傲慢な心」だといわれます。すべての罪は神さまの救いの恵みを忘れた傲慢から起こります。主イエスによって神の子、宝の民とされた私たちクリスチャンもまた、今やその救いの新しい契約の帯として、主の栄光を表すものとなることが期待されています。腐った帯とならないように、日々聖書の言葉に聞き、謙遜に祈り務め、主の救いの恵みを表す者でありたいと願います。

この麻の帯のたとえ話のメッセージは、今やユダヤから全世界の人々にも届けられ、私たち一人ひとりに主が語りかけられておられものであります。それは11節にありますとおり「人が帯を腰にしっかり着けるように」、主御自身が今や、イエス・キリストの御業を通して私たちをその主イエスにしっかり結び着けてくださり、宝の民としてくださるのであります。エレミヤを通して、主は私たちに、すべての人々に、この大きな恵みの「神を受け入れて生きよ」と、招いておられるのであります。
今日のもう一つのお話は、「ぶどう酒のかめ」のたとえ話です。
神さまはエレミヤに、彼らに対して「かめにぶどう酒を満たすべきだ」と言いなさい。ユダの人々は「かめにぶどう酒を満たすべきだということを我々が知らないとでもいうのか」と言うであろう。あなたは彼らに言いなさい。「主はこう言われる。見よ、わたしは、この国のすべての住民、ダビデの王座につくすべての王、祭司、預言者、およびエルサレムのすべての住民を酔いで満たす。わたしは人をその兄弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。わたしは惜しまず、ためらわず、惜しまず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす」と、真に厳しい裁きが宣告されます。

この「かめにぶどう酒を満たすべきだ」というのは当時民衆の間で、「いくらでもぶどう酒は入る」という酔いどれたちから出た一種の格言になっていたようです。
そういった人たちは結局酒に呑まれ自分を失って醜態をさらす、失態を犯してしまうということで、ユダの人たちもそのように、「自分のことは自分が分かっている」「自分のことを知っていないとでもいうのか」と、まるで酔いどれのように自分がどれほど危機的状態なのか分かっていない、知ろうとしないで自ら滅んでいこうとしている、そのことへのそれは警告なんですね。
15-16節には「聞け、耳を傾けよ、高ぶってはならない。主が語られる。あなたたちの神、主に栄光を帰せよ 闇が襲わぬうちに 足が夕闇の山でつまずかぬうちに。」   
一つは「高ぶらず謙虚になる。」そして二つ目は「暗闇が襲わぬうちに、主に栄光を帰せよ。」そうすることで、あなたたちは泥酔状態から主の前に正気に立ち返って救いを得ることができる、とエレミヤは言っているのですね。

朝の祈祷会の聖書の学びの時に、ある方が「神さまは人間がその愚かさで滅ぶことをご存じであられたのですね」と、おっしゃいましたが。そうですね、エレミヤはここで、17節「あなたたちが聞かなければ わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。主の群れが捕えられて行くからだ」と嘆いています。それでも悔改めることがなかった。
ユダとエルサレムの人々は遂にその酔いからさめないままに、その後バビロニアの侵攻によって壊滅的に滅ぼされていく結末へ至るわけですね。
まあ、ここを読みますと確かにユダの人たちはその罪のためにもはや神の宝の民としての歩みは断たれてしまったかのように思えます。
しかし、エレミヤ1章に「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」とありましたように、神さまは彼らをただ罰して滅ぶに任されたのではなく、彼らの信仰が再び建てなおされ、堅固なものとしてその地に植えられることを強く願っておられたのですね。
バビロニア捕囚を経験したユダの人たちの群れは、その真に痛い経験を通して主に立ち返り、エルサレム神殿の再建、信仰の復興を遂げていくのですね。エレミヤは23章又は33章で同じようにこう告げています。33章5節。「見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来ると主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日にはユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は『主は我らの救い』と呼ばれる。」
そうして実に紀元前1世紀、イザヤやエレミヤが預言したこの救い主、キリストはこの地上にお生まれになり、神の救いのご計画は主イエスのご生涯とその十字架の苦難と死、復活を通して実現され、聖霊のお働きによって全世界に告げ知らされていくのであります。
神さまはすべての人々が、滅びゆく道ではなく、主イエスを受け入れて神さまと和解し、新しい契約を結んで、永遠の命に与ることを願っておられます。また、救いに与った私どもが道を逸れることなく主の前に歩み通して生きることを切望しておられます。ヨハネ3章16節に「神はその独り子を愛するほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びず、永遠の命を得るためである」と記されているとおりです。

最後に、週報にも報告させてもらいましたが、14日(水)午後、Y兄が主イエスをご自分の救い主として信じ受け入れ、信仰の告白をされて、病床の洗礼が行われました。この信仰告白に至るまで、4年前安藤先生の特伝に初めて大阪教会に来られた時から、礼拝と祈祷会は毎週出席しておられましたが。本当に長く4年近い求道生活が続きました。時に、何て理屈が多い方なのかなあ、本当に頑固な方だと思わされることも正直ありましたが。彼は教会の方々との関わりの中に「何かある」と求道を続けておられたのです。すでに大病をしておられました。体調を崩されることが多く、何度も入院なさって、闘病生活が続いておられましたが。ここ数カ月はいよいよ教会に来ることも困難になり、いつもお世話しておられるIさんが家庭集会を持って下って、祈祷会のメンバーと顔を合わせ、Yさんは大変うれしそうにしておられました。
しかし、いよいよ先週の日曜の夜から体調を崩され、月曜日の信徒大会に向かう車の中でも、体調の心配と同時に、「ああYさんの口を通して信仰告白が聞けたらよいのに」という話になりました。そうして信徒大会が無事終わって帰宅する道すがら、ご連絡を受け、今後のことについて、御家族とお話することになり、ご自宅に伺いました。彼はその時すでに病院に緊急入院されて大きな輸血をされており、予断できない状態であるということを知らされました。その夜から重篤の状態になられ、医師は明くる火曜日から水曜日にかけてが山だといわれていました。そして火曜日の夕方私がIさんと病室をお訪ねすると、何とご本人は意識が戻られだいぶ落ち着かれた状態でした。驚いたことに私どもが伺う前にアイスクリームを食べ終えていたところでした。夕食には蜜豆の缶詰半分を私の目の前で美味しそうに食べられたのです。その夜の8時過ぎにご本人と信仰についてお話をし、確認する機会が与えられたのです。これも実は前日にYさんのご長男とお話できた時に、お父様が最期を迎えられた場合の事について、「大阪教会でキリスト教の葬儀を行うように遺言を残しておられること」をお伝えしました。実はYさんは仏教の家で信徒総代を長く担っておられたということもあってバプテスマを躊躇なさっていたんですね。それで私はご長男に「お父さまがクリスチャンになることに対して仏教の信徒総代ということがあり難しいんでしょうね」とお尋ねすると。「いいえ、信徒総代は長男である私が引き継ぎました。父がクリスチャンになることに問題はないです。教会で葬儀を行うならクリスチャンとなって迎えられる方がよいでしょう」と、そう私におっしゃられたのです。ああ、これは神さまのお導きであると確信した私は、その火曜日の午後8時15分頃でしたか、「Yさん一つ確認がしたいことがあります」と切りだしました。「これまでYさんは主イエスさまを信じますということは言っておられませんが、今そのことをもう一度伺ってもいいですか。Yさん、あなたは主イエスさまを信じますか」とお尋ねしました。するとYさんは「はい、信じることにいたしました」と何とも彼らしい言い方ではっきりとお答えになられたのです。この時、私のうちにずっとひっかかっていたものがとれたという実感とこの上ない喜びが湧いてきました。医師から山だと言われていたその夜も無事に守られ、明くる水曜日の午後、祈祷会のメンバー7人とご長男さん同席のもと、信仰告白と病床洗礼が神さまの恵みのうちに行われました。前日いまわの息であった人にその日みんなで「おめでとう」と言っているなんて本当に不思議ですよね。神さまはYさんのこれまでをずっと見守り、支え、導いてくださっていたのです。あれだけ頑固で理屈ぽい方が、本当に素直に子どものように「イエスさまを信じます」と、とってもいいお顔で主の御救に与った。神さまはほんとうに生きておられるんですね。お体の方はかなり厳しい状態であるのですが、Yさんのご意向でご自宅に帰ってこられました。いつ何が起こってもおかしくない体の状態であり、私も携帯電話が手放せません。けれど、今、そんな周りの心配をよそにご本人はお元気で、昨日お宅を訪問しますと、ヘルパーさんと歩く練習をしてご自分でトイレに行かれたとお聞きしました。Yさんの朗らかで素敵な笑顔を見せて頂き、本当に「主は人を新たに生かすお方だ」と改めて思わされ、主にただ感謝であります。主は今日も生きて働いておられます。私どももその恵みに相応しく、真新しい麻布の帯のように、腐らせない信仰を保つ者。又、ぶどう酒に酔って溺れ、高ぶることなく、主イエスにあって神に栄光を帰する者として歩んでまいりましょう。生ける主にあって生かされている日々に感謝しつつ。

詩編50編14-15節のお言葉を読んで本日の宣教を閉じます。
「告白を神へのいけにえとしささげ いと高き神に満願の献げ物をせよ。
 苦難の日、わたしはお前を救おう。
 そのことによって お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」
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大阪教会バザーのおしらせ

2015-10-15 10:31:11 | イベント
日時 10月21日(水)12:00-15:00

会場 日本バプテスト大阪教会 JR/大阪市営地下鉄・天王寺駅より谷町筋を北(四天王寺方向)へ徒歩5分。


みなさまのご来場を心よりお待ちしております。
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主の言葉に聞け

2015-10-11 18:33:35 | メッセージ
礼拝宣教 エレミヤ7章1~15節 

先週の礼拝よりエレミヤ書が読まれ、その1章のエレミヤの召命の記事から御言葉を聞きました。その後の2章~6章までのところまで礼拝では読まれませんでしたが、それは主にイスラエルと南ユダの人々の罪に対する指摘と、悔い改めなければエルサレムの都は陥落し、滅びることになるとの警告が語られています。
南ユダ、エルサレムの当時の現状は、5章1節「エルサレムの通りを巡りよく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか正義を行い、真実を求める者が。」
5章31節「預言者は偽りを預言し祭司はその手に富をかき集めわたしの民はそれを喜んでいる。」さらに6章13、14節「身分の低い者から高い者に至るまで皆、利をむさぼり預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民に破滅を手軽に治療して平和がないのに、『平和、平和』と言う。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。」
立派な神殿が築かれた都エルサレムは、大国の脅威にさらされながらも一見平穏に映ります。けれども神さまの目にはすべてが明らかです。ユダの多くの預言者たちは「偽りの預言」をし、神殿の祭司たちは神と人を欺いて富をかき集めていました。ユダの国は神に対して罪を犯し危機的状況であるにも拘わらず、偽預言者や祭司たちは「平和、平和」と人々に偽りの言葉を語っていました。何が偽りかといいますと。神の御心を尋ねようとせず、自我や人の思いで気安く主が守って下さる、主の神殿があるのだからエルサレムは大丈夫、平和、平和と人々を信じ込ませて、富をかき集めていたのです。多くの人々も彼らの偽りの言葉に喜んで聞き従っていました。それはとても耳ざわりがよかったからです。殊にエルサレムという中央都市に住む権力者や富裕層の人々は、自分たちの生活のために地方の人々や外国人たちを暴力的なまでに搾取し、私腹を肥やしていました。貧富の差は拡大し、風紀は乱れ、神ならざるものが崇拝の対象となっていました。都市には生活に困窮する孤児や寡婦、寄留の外国人であふれ、彼らを顧る者はありません。それは神さまの目には悪でした。
今日の世界の状況、日本そしてこの大阪の社会情勢はどうでしょうか。教会はそれを単に政治の問題、経済の問題とし信仰と切り離して無関心でいるなら、彼らと同じです。
主が語られるいのちの言葉として受け取って、いくことが求められています。

さて、ここでエレミヤが主の言葉を語った人々、「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々」とは、偽預言者や私服をこやす祭司たちの言葉に聞き従っていた人々のことでした。
エレミヤはその人々に向けて、「皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」と主の言葉を告げます。
その人々が荘厳で立派な神殿でいくら形式的に整っているような礼拝をしたとしても、神さまとの生きた交わり、神への真の悔改めと感謝と応答がないのならば、それは虚しい「人の集い」でしかありません。
「主の神殿、主の神殿、主の神殿」という言葉の由来は、かつてイザヤの時代、ユダの国がアッシリア帝国のセンナケリブ王の進攻に合い、町がことごとく占領されていく最中、最後に残ったエルサレムも包囲されるのですが、神はセンナケリブ王を心変わりさせ、エルサレムとその神殿だけがその手ら免れることができたという史実からきた言葉です。南ユダの人々にある種の迷信を植えつけました。日本の「神風」という言葉もそれと重なるように思えますが。ユダの国では偽預言者たちが「主の神殿、主の神殿、主の神殿」と唱えれば大丈夫、エルサレムの我々は決して滅びることなどないのだというような、不滅神話となっていたのです。
 けれども、それは主なる神さまに対する信仰ではなく、神殿という建物に対する盲信であります。神殿は神さまではありません。神殿が神さまの救いや平安を保証してくれるのではありません。その神殿がソロモン王によって建てられた時彼はこう祈りました。「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の地も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿などなおふさわしくありません。」
神殿も教会堂も、それを神聖なものとされるのは神さまご自身です。神殿そのものを信仰の対象として神格化することは、神さまがお嫌いになられる偶像崇拝なのですね。

私たちは生ける神さまを信じております。ほんとうに幸いにも、いつ、どこにいても、その神さまを礼拝し、神さまに祈り、神さまとの生きた交わりをもつ機会が主イエスによって開かれていることは、どれほど感謝すべきことでしょう。私たちが生きている日常のすべての領域、その場所において、私たちは生ける神さまとのお交わりを、聖霊を通してもつことがゆるされ、生ける神さまが私たちと共にいてくださる体験ができるのです。コリント3章16節以降にはこうあります。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」
もちろん、私たちにとって日曜日の主日礼拝、水曜日の祈祷会は日常生活の中で私たちが信仰のガス欠にならないために、信仰の油を給油する貴重な場であります。ただ、ここで「主の神殿」とお題目のように唱えても、悔改めと救いの確認から生じる感謝と喜びがなければ、それは形だけの虚しいものでしょう。

この当時、礼拝するためにソロモンの神殿の門に入れる人々は限られていました。預言者や祭司をはじめ、貧しく弱い人々を搾取し、利をむさぼっていたエルサレムの権力者や富裕層たちでした。ユダの国の貧しい人、社会において虐げられていた人たち、又エルサレムの地方に住むものなどは、神殿の門をくぐることはありませんでした。

エレミヤは、神殿の門をくぐるすべての人々に対してこう告げます。
5-6節「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。」

イエスさまも「私の家(神さまの家)は祈りの家ととなえられるべきである」とおっしゃっていますが。それは人がそこで神の前に立ち帰って自らの行いを省み、悔改めの祈りとともに主に向き直り、御心に生きようと方向転換する、そのような場であるべき、とおっしゃっていると思うのですね。
先に、エレミヤ書5章の「エルサレムの通りを巡りよく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか正義を行い、真実を求める者が」と、主がエレミヤに問いかけた言葉を読みましたが。主の神殿の門をくぐる人たちに本当に求められていることは、口先だけの信仰ではなく、どんな立場におかれた人も、隣人として愛し、平和を追い求める生き方です。それこそ主がエレミヤを通して、神殿の門をくぐるエルサレムの人々に向けて語った、「お前たちの道と行いを正せ」ということであります。

私たちはどうでしょう。礼拝の時間と日常生活とが切り離されているようなサンデークリスチャンになっていないだろうか。聖書の御言葉のメッセージがこの場限りに終わっていないだろうか。日曜日の礼拝に出席していれば大丈夫、安心だ、という安全神話に陥ってはないだろうか。今日の御言葉から問われていますね。確かに日曜を聖別し、礼拝に集うということは、主イエスより救われた同信の友と祈り、声を合わせて賛美する恵みと励ましの時間です。しかしそんなせっかくの恵みが、教会堂から一歩外に出ると、それはもう神さまとの関りのない別の世界に、切り替わってしまうのであれば、それは残念なことです。クリスチャンではない人々は案外私たちの姿をよく見ておられます。もしその行動が愛のないもの、無慈悲なものであるなら証しにはならないでしょう。恐るべきは、主なる神さまはすべてをご存じであられるということです。

始めにも申しましたが、この南ユダの時代は、大国の脅威にさらされながら、いつ滅ぼされるかわからないような危機に瀕していました。にもかかわらず、偽預言者らは「主の神殿」があるのだから大丈夫だと言って、礼拝に来る人たちに偽りの平和を告げ、偽預言者や祭司は私腹を肥やしていた権力者たちの罪を見て見ぬふりをしていました。
偽預言者らはエレミヤのように「真の神さまは義であり聖なるお方であられる、主に立ち返って生きなければ、滅びる」との真実の御言葉を語らずに、安易に平安と口にしました。それは一時は民を安心させたかも知れませんが、偽りに過ぎず、結局は神の裁きを招くことになります。又、神殿の祭司たちは状況を知りながら神殿参りに来る人々から奉納金を集めては自己の保身に走っていた。それがたとえ神殿のために使われたとしても、神さまがお喜びになるでしょうか。
偽預言者、祭司、神殿の門をくぐる人々と、みなそれぞれにもたれ合いながら、主の神殿を自分たちの食い物、自己保身の道具として利用していたといえます。その状況をご覧になられた主なる神さまは、「わたし名によって呼ばれる神殿が強盗の巣窟に見える」と言われたのです。それは、人からあらゆるものを奪う強盗という意味もありますが、ここで問題なのは主の名による神殿を私腹を肥やす「強盗の巣窟」にしたということであります。

本来主の名による神殿とは何でしょうか?生ける神さまがお住まいになられる御座であります。それは神さまの玉座です。生ける主は人の造った建物におられる方ではありません。にも拘わらず、神さまは私たち人間と共に居てお住まいになる決断をされました。それがクリスマスなのです。ヨハネ福音書1章にはこうあります。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。私たちの間に幕屋を張ってお住まいになられた。これはイエス・キリストが救い主としてこの地上にお生まれになられたことによって実現されたのです。それは、実に「神さまが自分のための聖所を放棄された」ということです。父なる神は御独り子イエスさまをお与えになるほどに、世を愛され、罪に滅ぶほかないような私たち人間のために、罪の贖いとして御子イエスさまを遣わしてくださったのです。主なる神さまが己をむなしくされ、ご自分のための聖所を放棄なさったことによって、神さまは救い主として私たちのうちにお住まいになられているのです。その深い愛と恵みを基に、私たちの間に張られた幕屋であるこのキリストの教会で、この主の日の礼拝が捧げられているということを、本当に心の底から感謝し、主に立ち帰って生きる者とされていきましょう。そこに偽りでない本物の平和、シャロームが実現されていく、と信じます。

最後に、先週はエレミヤが主の預言者としての召命を受ける箇所を読みましたが。当初エレミヤは「わが主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と断ります。しかし主はエレミヤに、「わたしが命じるすべてを語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなた共にいて必ず救い出す」「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける」とのみ約束に信頼をして、その召しに応えました。
今日の箇所には、あの自信なく、弱気なエレミヤの姿はどこにもありません。本当に力強く「主の言葉に聞け」とユダの人々に訴えていますね。
そこには確かに主がエレミヤと共にいます。その語るべき言葉を臆することなく伝える預言者エレミヤの姿を見ることができます。人がどう思うとか、どう人にみられるかではなく、主の言葉に忠実に聞き従うことってほんとうに大切ですよね。私たちクリスチャンもある意味、ほんとうに伝えなければならない、語らなければならない主の言葉を、どこか人間的な配慮や遠慮で語らずに、伝えないままにしているってことはないだろうか、と思わされます。
 13節のところを読みますと、エレミヤはエルサレムの人々に主の言葉を何度も繰り返し語り続けましたが、「彼らはその言葉に従わず、呼びかけに答えなかった」とあります。けれども、エレミヤは主に託されたその役割を忠実に果たしたのですよね。人にどう言われようが、人にどう評価されようが、エレミヤは主の言葉にどこまでも誠実に生きたのです。

私たちも、今日「主の言葉に聞き、主に立ち帰って生きよ」との主の語りかけを聞きました。この主の言葉とは、私たちにとりまして「救い主イエス・キリストご自身」であられます。言が肉となって私たちの間に宿られた、生ける主がいつも、どこにいても私たちの間に幕屋を張ってお住まいくださるのです。そこに霊的な神の神殿がございます。
私たち自身が主の神殿とされていることに畏れをもって、生ける主の御言葉に心から聞き従って生きることができるように、祈り求めていきましょう。

「主なる神よ、あなたは神、あなたの御言葉は真実です。」
 サムエル記下7章28節
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二つの誕生日

2015-10-04 15:17:45 | メッセージ
礼拝宣教 エレミヤ1章1~12節 

本日から約2カ月に亘りエレミヤ書から御言葉を聞いていきます。
今日はそのエレミヤが預言者としての召命を神さまから受ける箇所から、「二つの誕生日」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

「第二の誕生」
エレミヤは祭司の家の子としてこの世に生を受けます。それは人の子としてのエレミヤの誕生の日でありました。彼が成長し青年となったある日、年齢は20歳前後であったと言われていますが、彼は神さまから預言者としての召命を受けるのです。それはいわばエレミヤの第二の誕生日でした。そこのところをちょっとお読みしますと、4-5節「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた』」。
エレミヤはこの地上に生を受け、人の子として育ちましたけれども、神さまはエレミヤが生まれる前から彼のことをご存じであったのです。母の胎から生まれる前にすでに神さまはエレミヤを聖別なさり、諸国民の預言者としての人生を計画しておられたというのですね。「聖別する」というのは、神さまのある目的のために取り置いておられるということです。エレミヤは圧倒的な主の迫り、その召命に与ることで、本来の人生へと歩みだすんですね。これが彼の第二の誕生の日であったのです。
私たち主イエスを信じクリスチャンとされた者も実に、この第二の誕生日に与っていると言えます。父なる神さまは罪に滅ぶしかない私たちが救われ、新しい命・永遠のいのちに生きるために、最愛の御独子イエスさまを世にお贈りになり、そのイエスさまの死によって私たちの罪を贖い、コリント第二の手紙にあるように「キリストにあって新しく創られた者」とされているのです。
先程招きの言として、ヨハネ3章のイエスさまのお言葉が読まれました。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」。その後には、「はっきり言っておく。だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とイエスさまはおっしゃっています。「水」とは、水のバプテスマに表されるように、主イエスの死を通して私たちの罪が贖い取られたということですね。そして「霊」とは、聖霊なる神さまが内在され、私のうちにとどまって下さることによって人は新たに生まれ、神の国を見る者とされる、とイエスさまは言っておられるのですね。コリント第一の手紙12章3節には、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と記されています。頭で理解し知識をいくら得たということでクリスチャンとされるわけではないんですね。この水と霊によって第二の誕生日に与り、イエス・キリストを私の救い主とする人生を歩んでいる人が、神の国に属する者だ、と聖書は言うんですね。そういうことで、クリスチャンも二つの誕生日があるということであります。

「神のご計画に生きる」
さて、エレミヤこうして主の臨在の中、新たに造り変えられる体験をするのですが。
しかし、これは単に彼が新しくされる、第二の誕生日を迎えるということだけが目的ではなかったのです。5節「わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」。
この「聖別」とは神さまがある目的のために取り置いておく、ということと先程も申しましたが。エレミヤは神さまのご計画のある目的のために、まさにこの時召し出されるんですね。そして彼は神さまが託された「預言者」としての使命を新たな人生として歩み出して行くのです。
私たち主イエスの御救いによって第二の誕生日を与えられた者にとりましても、主の御救いに与ったということ自体がゴールなのではありません。エレミヤがまさにそうであったように、私たちもまたそれぞれ、ローマの手紙8章28節にあるように「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちは、万事が益となるように共に働く」ということをわたしたちは知り、祈り、備えることが神さまから期待されているのですね。まあ、よく卒業クリスチャンというような事も言われたりいたします。イエスさまを救い主として信じて告白し、バプテスマを受けたら、自動的に主のもとに帰れる、天国が保証される、果たしてそうでしょうか。何も保証はございません。主を信じ救われたと何年も前のことを言ったとしても、今、イエス・キリスト、その信仰を支えに主とともに生きていないなら、主を信じる喜びや恵みの証しはそこにありませんし、主の御救いはその人生にとって価値のないものに終わってしまいます。それでは復活の希望もございません。
使徒パウロは、第二の誕生日を与えられたクリスチャンの目的について、「自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(コリントの信徒への手紙ニ5章15節)と述べています。
私たちもまた、私たちのために死んで復活されたイエス・キリストをいつも仰ぎ見ながら、主の御心を求めていく者とされ、それぞれの召しに応えていきたいものです。

「主に目を向ける」
本日のエレミヤ書に戻りますが。
エレミヤは主の召しに対して、「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と答えています。自分はそのような召命に相応しくはない、未熟で力がない者です、という人間的な謙虚さを表しています。神の言葉を語るということは、それがどのような状況であれ、どんな立場の人であっても、時に厳しい言葉をもって語らなければなりません。エレミヤは、その若さゆえに人々に受け入れてもらえないのではないか、語る言葉が自分のなかにはない、と正直にそう思ったのでしょう。出エジプトの時に、モーセもまた、神さまからの召しに対して「私は何ものでしょう」とか「私はもともと弁が立つ方ではありません」「全く私は口が重く、舌の重い者なのです。どうか他の人をお遣わし下さい」と、抵抗しましたけれども。そんなモーセに対して主は、「わたしは必ずあなたと共にいる」「このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」と約束され、モーセはその主の召しに応えました。先週まで出エジプト記を読んできましたが。実に荒れ野での幾多の試練や危機の中で、モーセの主への信仰はむしろ日に日強められ、指導者としても、同胞のイスラエルの民が滅びることがないように、と主に必死に執り成し、遂にイスラエルの民を主が約束されたカナンの地へとリードしていく大任を果たしたのです。それは主がおっしゃったとおり、主御自身がモーセと共におられたからこそ成し得たことでした。
エレミヤも、主の召しを受けた当初のモーセと同様、自分の未熟さや力の足りなさにのみ眼がいってしまい、いや私には出来ない、それは難しいでしょう、と言う外なかったのです。

そんなエレミヤに主なる神さまは、「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける」と約束されます。
モーセがそうであったように、エレミヤも自分の力ではなく「主が共におられる」「主が語るべき言葉を教えて下さる」、その「主がなして下さる」という唯その一点において立てられていくんですよね。自分に目を向けるのではなく、主御自身に目を向けていくように促されているのです。
モーセとエレミヤにはそれぞれ違った召命がなされたように、私たち一人ひとりにも神さまは何がしかの召しをお与えになっておられます。祈ること。証を生活や職場の働きを通して立てていくこと。愛をもってささげ、仕えていくこと。どれも主が私たちの内に働いて下さることによってなされる、用いられる、と確信をもってそれぞれの召しに応えてまいりましょう。

「神の言葉を語り続ける」
さて、主はまたエレミヤに、「見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」と言われます。

預言者エレミヤの生きた時代はシリアやユダを含むパレスチナ地方の支配権をめぐり大国エジプトと新バビロニアが争う中におかれていました。エレミヤは南ユダの国が平和の名の下にエジプトと安全保障同盟のような関係を結んでいくことは、バビロニアの反感を買い結局ユダの滅びに繋がると訴えるのです。何だか、近頃かで聞いている話のようですよね。しかし、南ユダの国と人々には理解されず、聞き入れられどころか、エレミヤは周囲から売国奴のようにみられます。それでもエレミヤは屈することなく、「主に立ち帰れ、戦争のための同盟に加わるならユダは滅びる」と、神からの警告を強く語り続けます。次第にエレミヤに対する非難中傷が増し、彼の兄弟や親戚にもその被が及ぶような危機にさらされていきます。今日の日本社会も、戦争への道につながる可能性のある「安全保障法制」に反対の声をあげている人に対する殺害予告は本当に許されない卑劣極まる行為です。エレミヤの時代と変わっていないといえます。いずれにしろ、ユダの民の信仰の改革をなしたヨシア王の時代が終わりを告げ、世代が変わると、南ユダの王たちはエレミヤの語る主の言葉に従わず、バビロニアに反逆した結果、遂に南ユダは陥落してしまうのです。

「人知を超えた神のご計画」
エレミヤの語った神の言葉は南ユダの王や民に受け入れられないままでしたが、エレミヤは最後の最後までユダ王国とその民に向けて、「主に立ち帰らなければ、この国は滅ぶ」と訴え続けました。そうしてまさに紀元前586年、主の預言のとおりユダの国は「抜かれ、壊され、滅ぼされ、破壊されてしまう」のであります。
それは人の目から見れば真暗闇であり、敗北と滅びとしかいいようのないものに映ります。主の言葉を語った預言者エレミヤの働きは無意味であったのでしょうか。
エレミヤに臨んだ主の言葉をもう一度よく読んでみましょう。
「見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」。
ここに、「建て、植えるために」との主の言葉があります。
崩壊と滅びの中にあっても、エレミヤの蒔いた主の言葉の種はいつの日か芽を吹き、南ユダの国のみならず、やがて世界に実りをもたらしていくという、現実には想像し得ないようなことがここに預言されているのであります。
一見、エレミヤが南ユダ王国で語り続けた主の言葉は、人の目でみる限り無に帰したように見えるのですが。しかし、そのみ言葉の種は確かに滅亡を免れた残りの人々の間に芽吹いていくんですよね。
11節で、主はエレミヤにあめんどう(アーモンド)の枝の幻をエレミヤに指し示して語りかけます。「エレミヤよ、何が見えるか。」そこにはまだ実りの無いあめんどう(果実はアーモンド)の枝だけがエレミヤの目に映ります。
アーモンドの実りがなっていく気配など何も感じられない状態です。このあめんどうのというバラ科の植物は、まだ寒い早春、枯れたように見えるその枝に、ある日突然ピンクの花が一斉に咲き、周囲は花の香りに包まれるそうです。寒梅のようですが。
それはまさに当時の腐敗し滅亡せざるを得なかった南ユダ王国の状況と重ねられています。人の目からすれば、そこにまったく希望や期待を見いだすことができない枯れ枝のような状況に陥る南ユダとその人々。しかし厳しい冬を耐え忍んだあめんどう(アーモンド)の木が、最初の春の訪れとともにその枝に一斉に花を咲かし、やがてアーモンドの果実を豊かにつけるように、エレミヤを通して南ユダの地に蒔かれようとしている御言葉の種は芽吹き育って一斉に実を結ぶ。
12節にあるように、主なる神さまは、これからエレミヤを通して語られる言葉が成し遂げられように見張っている、というんですね。
その後、バビロニアに滅ぼされ捕らわれていた南ユダの民たちは解放され、エルサレムに帰還した後、主なる神への信仰の復興が起こり、エルサレムの神殿も再建され、エレミヤという名前のとおり、「主は建てたもう」という御業は成し遂げられていくのであります。神さまは、バビロニアを神の懲らしめの道具として用い、ユダを打たれるのでありますが、しかしバビロニアからユダの民を帰還させ、荒廃したユダの地を植えなおし、信仰の再建をなさるのです。こうして確かに、エレミヤが語った主の言葉は、実現していくのですね。主の言葉は決して虚しく地に落ち消え去るものではありません。「草は枯れ花はしぼむ、しかし主の言葉はとこしえに立つ」。真摯に主の言葉と私たちも又、向き合っていく者となりましょう。
そして、主は南ユダや北イスラエルのみならず、世界をすべおさめ、導かれる主として臨まれ、「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている」との12節の主の言葉、この預言は、まさに全世界の救い主イエス・キリストの到来へとつながっていくのであります。
エレミヤの最期は殉教の死を遂げたとも言われています。その生涯は主の審きの言葉を伝え、その名が表すとおり「主が建てたもう」という希望の種、御言葉の種を蒔き続けた預言者としての人生でありました。
先に、主の御救いに与った者には「第二の誕生日」があるということを申しました。コリント第二の手紙5章17節にこのようにあります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。新しく生まれた者には、それぞれの主の召し、召命があることを心に留めつつ、エレミヤのように謙虚さと共に、主によって建てあげられていく信仰を、私たちも日々歩んでいくために、ここから遣わされてまいりましょう。
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